十二月は一年の締めくくりであり、いわゆる忘年会シーズンというやつだ。最近はコンプライアンスだかなんだか知らないが、ありがたいことにメーカーとの接待を少なくしていこうという傾向のある医療業界も、忘年会となると話は変わるらしい。十二月に入って、取引先の医者から忘年会という名の接待に呼びつけられる日々を送る俺の肝臓はすでに限界の一歩手前を闊歩していた。
 明日は土曜である。休日である。急な呼び出しさえなければ丸一日寝て過ごせる貴重な日だ。今すぐにでも家に帰ってシャワーを浴びて布団と一体化してしまいたかった。なのに、俺は今日も酒をしこたまに飲まされ、酔いよりも精神的な疲労に足をふらつかせながら居酒屋を後にしていた。
 ――今日は会社の忘年会である。
 会社の忘年会とは言っても、会社全体で忘年会が開かれるわけではなく、営業部で開催される忘年会だ。自社の忘年会なんて、小指の先ほども行きたくなかったし、俺が参加することで誰かが喜ぶわけでもなかったが、シンジュクの闇よりも真っ黒な我が社の忘年会は当然のように強制参加である。行きたくなかった。それは本音だ。しかし俺の中に、その本音とは真逆な気持ちがあること。それもまた本音だった。

 好きな人がいる。俺ごときが彼女のことをそういうふうに形容してしまうのも憚られるが、そうなのだ。営業部の、俺とは別の課に所属している彼女とは、普段の仕事で関わり合いになることはほとんどない。オフィス自体は同じフロアだけれど、営業は提案に納品に社内会議にと出入りが激しいので、顔を合わせる機会も少ない。
 なぜそんな女性を好きになってしまったのか。自分ですら言うのを躊躇してしまうくらいに些細な出来事がきっかけだった。



 その日、いつも通り既定の業務時間を超えても終わることのない仕事を無心で片付ける俺以外に、社員は残っていなかった。そのオフィスに、出張帰りの彼女が戻ってきたのだ。彼女はたったひとり残った俺に目を合わせて、「あれ、観音坂さんだけですか。おつかれさまです」と軽く会釈をしてから、俺の席からだいぶ離れた自分の席へ向かっていく。俺はその言葉には大した言葉も返せず、乾いた笑い声を吐き出すだけだったが、一二三の会社襲来事件からこっち、女性社員から遠巻きにされている自分に普通に声をかけて、名前を呼んでくれたという事実だけで涙を零せそうに目が熱くなった。いや、本当は少し泣いた。
 この時間に出張から戻ってきたというのに、なぜ直帰しなかったのか疑問ではあったが、視線の先の彼女は鞄からノートパソコンと資料の束をキャビネットにしまっていたので、荷物を置きに戻ってきただけなのだと合点がいく。コートを脱ぐことなく動いているから、きっとすぐに帰ってしまうのだろう。彼女の行動を目で追って、そんなことを考えている自分の薄気味悪さに震えがきて、さっと視線をパソコンのディスプレイに戻す。
 ただ、自分が薄気味悪いことは今に始まった話ではなかった。そんなことは自分が一番よくわかっている。課の違う彼女が今日まで出張だったということを知っていたのも、外出先を記入するホワイトボードに、彼女の行き先が「出張 オオサカ」と記されていることを確認していたからだ。うわ、気持ちわる。

「観音坂さん」

 喉の奥からおよそ人のものとは思えない声が出た。自分の行動を反芻して青ざめている間に、すぐ横まで彼女がやってきていたのだ。突然あがった奇声に目を丸くした彼女は、俺の無様な姿に顔をしかめるどころか眉を下げて、「お仕事中すみません」と笑った。神だ。

「あの、わたし今日までオオサカで出張だったんですけど、これよかったらどうぞ」

 そう言って差し出された箱の中には、個包装された洋菓子がひとつだけ残っていた。「え」とか「あ」とか、なんの単語にもならない言葉を吐き出しながら、箱と彼女の顔を視線で行き来させてしまう。

「課の人には全部配ったんですけど、余っちゃったので」

 余りものですみませんと付け加えてから、肩を竦めて少しいたずらに、ゆるく唇を綻ばせた。

「課の人と観音坂さんにしかないので、他の人には内緒にしてくださいね」

 その一言に、完全に俺は滑落してしまったのだった。
 わかっている。彼女の行動に意味なんてないこと。自費で買う出張先の土産なんて、営業部全員に行き渡るほど買うわけがないし、自分の課の人数に足りるものを買ったら、偶然一つ余っただけだ。そしてそこに偶然居合わせたのが俺だっただけだ。そんなことはわかっている。
 だが、差し出された柔らかい声と気の抜けた笑顔と小さな洋菓子は、間違いなく俺の脳天に落雷を落としたのだ。



 ――そして、今日である。あの日以来彼女と言葉を交わすことはなかったが、勤務時間とは少し違う、飲み会という場の中でなら、ともすれば彼女と会話をすることができるのではないかと淡い期待がよぎる。会社の忘年会なんて、本当は行きたくないのだと心の中で言い訳のように不満を振りかざしながら、その実大人しく忘年会に参加したのだった。
 もちろん、そんなことが起こるわけもないのだが。
 現実はクソだ。結果俺は頭のハゲた課長にしこたま酒を飲まされ、ありがたくもない説教を繰り返し繰り返し聞かされるだけの時間を過ごした。言い訳で自分の心を守っていても、期待が外れた衝撃は凄まじく、俺の精神はもう瓦解も寸前である。
 散々いびり倒して満足したのか、課長は盛り上がっている連中と一緒になって次はどこに行くかと騒いでいる。もう終電もない。二次会に行っても行かなくても電車で帰れないことに変わりはなかったが、一刻も早くこの場を離れたくて、気配を消してその場から後ずさる。すると背中が何かにぶつかった。後ろを見ていなかったから、後ずさった先に何かあることに気がつかなかったのだ。

「すっ、すみませ」

 慌てて振り返ると、なんとなく、焦点が合っていないような、ぼやけた瞳と目が合った。

「あれ、観音坂さん」

 俺は再び、およそ人のものとは思えない声を上げる。

「っす、す、み、すみま、せ」
「観音坂さん、二次会行きます? 行きたくないですよねえ」

 飲み会で終ぞ一言も言葉を交わすことのできなかった彼女が、俺のひどい謝罪には目もくれず、ぼんやりとした声で言った。彼女は俺と違って社内でもごく普通にコミュニケーションをとっている人間だから、飲み会にも前向きなのかと思っていたが、そうではないらしい。ただそれだけのことに、勝手に親近感が募ってしまう。

「……は、い。俺は、帰ろうかと」
「終電ないし、タクシーで帰るんですか? 観音坂さんて家近いんですっけ」
「いや、結構遠い、ので、ネカフェとか」

 そう、今日の忘年会の店はシンジュクディビジョンの中でも俺の自宅からだいぶ距離のある場所にあった。会社付近の店にしてくれればよかったのに、良い店があるなどと言って幹事が無駄な気を利かせたため、わざわざ会社から居酒屋まで移動してきているのだ。だから終電を逃した俺には、自動的に高いタクシー代を払うか始発を待つかという選択肢しか残されていない。
 タクシー代を惜しみ始発を待つためにネットカフェを探すと言う俺に向かって、ふむと頷いた彼女は、相変わらずぼんやりした瞳と声で、けろりと言い放った。

「じゃあ観音坂さん、うち来ますか?」

 俺はまたしても、およそ人のものとは思えない声をあげた。



 情けない。俺は情けない男だ。タクシーの中で俺は神に懺悔していた。しかしこの懺悔も所詮はポーズである。俺は下心に屈してしまった。うなだれる自分の隣にはぼんやりとした口調で、しかし楽しげに取り止めもないことを話している彼女がいる。タクシーが向かっているのは、彼女のマンションだ。
 タクシーで行けばすぐ近くだから自分の家に来ないかと、そう彼女は俺に言った。俺は混乱のあまり、しばらく人間の言葉を話すことができなくなってしまったけれど、彼女は少しも気にすることなく、ネットカフェ代がもったいないとか、彼氏はいないから心配ないとか、そういうことをふわふわと話した。
 何度も思ったことだが彼女は目も声もぼんやりしていて、話すことも突拍子がなくなっている。つまり酔っ払っているのだ。そんな女性の言葉を鵜呑みにして、家に上がり込もうとしているなんて、俺は人間の品性すらも失ってしまっている。いや、もともと俺みたいな人間が品性なんて高尚なものを持ち合わせているわけがないし、下心に抗う意思の強さもない駄目な男だし、彼女の好意を履き違えるただの勘違い野郎だ。酔いの覚めた彼女に幻滅されてしまうに違いない。
 そう思うのに、今からでもタクシーを降りて彼女をひとりで帰すことも惜しくてできない。最低だ。今日までの命なんだ。
 深い深いため息を吐き出す俺を尻目に、彼女は「アイス買いたいです。コンビニ寄っていいですか?」と俺を見つめる。その視線を十分に浴びて、俺はコンビニ中のハーゲンダッツでもレディボーデンでも買ってあげようと堅く心に決めた。
 彼女が運転手にここで降りると告げたコンビニの前でタクシーを降りて、彼女がアイスを選んでいる間に、俺は歯ブラシと髭剃りと下着を手にとった。簡素な包装の下着を手にしながら、俺は自分の中に誓いを立てる。決して、やましいことはしない。例え今日死ぬとしても、俺は彼女に一切手を出さない。歯ブラシや下着を買うのは、歯も磨かない・髭も生えかけ・パンツも同じものを履いているなんて最低最悪な状態で彼女の部屋に居座るわけにはいかないからだ。服は替えることができないのだから、それ以外で少しでも衛生的な人間でいることを心がけたい。それ以外にパンツを買うことに意味はない。むしろそれ以外に何の意味があるというのか。
 歯ブラシと髭剃りと下着と、ハーゲンダッツをあるだけカゴに放り込んで(とは言っても五・六個しかなかった)、レジに並ぶ彼女が持っていたアイスの実を、一緒に払うと言って奪い取った。彼女は遠慮したけれど、泊めてもらうお礼だと食い下がると、ありがとうございますと言って笑ってくれた。その一言で俺が買ったハーゲンダッツなど帳消しになるほどの感動が襲う。ていうかアイスの実ってなんだ。かわいいな。
 レジで会計を済ませて外に出ると、コンビニの出口で彼女が俺を待っている。そこに特別な意味など少しもないことはわかり切っていたけれど、その姿をずっと見ていたかった。
 俺がコンビニから出てきたことに気付いた彼女は、俺と視線を合わせると、眉を下げて気まずそうな顔をする。どうしたというのか。

「……あの、今思うとすごい無理やりでしたよね。急に誘ったりして、すみません」

 この状況を鑑みるような言葉に、ぎくりと心臓が痛みを発する。コンビニに寄ったり夜風に吹かれている間に、彼女の酔いが覚めてしまったのだろう。まずい、と思う。もし彼女が「やっぱり来ないでください」と言ったとしても、誘われるがままにほいほいついてきただけの、下心まみれの俺に断る権利はない。それなのに、ギリギリと心臓が呻く。
 頼む、嫌だ、お願いだからと、場違いに俺は祈った。そして彼女は笑う。まるで祈りが通じたみたいに。

「でも、せっかくだから今日は泊まっていってください」
「っあ、ありがとう、ございます……」

 ――雷が落ちる。覚えがある感覚だ。好きだ。
 頭の中であっても支離滅裂な自分の思考は、彼女の隣に並んでからこっち、止まることを知らない。



 コンビニからほど近いマンションの三階へ上がって、いくつか並んだうちのひとつの扉の前で、彼女は立ち止まった。俺は黙ってその後ろに付いている。気をつけて呼吸をしないと口からそのまま心臓が出てしまいそうに緊張していたが、鞄からキーケースを取り出した彼女がピタリと動きを止めて神妙な顔で振り返るので、息が止まって心臓を吐き出すことは免れた。

「……ちょっと、一瞬待っててもらっていいですか。部屋散らかってるかも」
「え、いや、全然気にしないです、けど」
「いえ、男の人あげられる状態じゃないかも……十秒待ってください」

 少し慌てながら部屋へ駆け込んでいく後ろ姿を見送りながら、俺はワイシャツの胸元をぎりりと握りしめて耐えた。男を家にあげると認識されている。もうそれだけで俺の恋心は報われた。
 夜中にマンションの扉の前でひとり待たされているというのに、これ以上なく満たされた心地だった。待っていて欲しいと言われた時間の十倍は優に経過していたけれど、俺にとってそんなことは些末な問題だ。扉を開けて、眉を下げた笑顔でどうぞ、と迎えられること、玄関に入ってすぐにふわりと漂うルームフレグランスの香りが、俺の一切の思考を奪う。
 玄関から続きになっている廊下にはキッチンが併設されて、逆側の壁には脱衣所とトイレのものと思しき扉がひとつずつ。廊下の突き当たりの扉を開けた先に、十畳ほどの部屋がひとつの、一人暮らしには適切な部屋だ。不躾だとわかっているから、視線を極力動かさないようにしようとしているのに、うまくいかない。アイボリーのカーテンとか、ぬくい色をした木目の家具とか、シンプルだけどかわいらしい柄のベットカバーとか、そこは紛れもなく大人の女性が暮らす部屋で、俺は息を吸うことも憚られて目の前をくらりと回した。
 どうしよう、いい匂いがする。息をしていいのか。気持ち悪くないか。最小限の呼吸で命を保つ俺を尻目に、ハンガーラックにコートと鞄をかけた彼女は、俺の方を振り返って言う。

「観音坂さん、先にお風呂どうぞ。シャワーでいいですか?」

 思わず、ぎょっとして彼女を見つめてしまう。彼氏でもない男を家に泊まらせる上に風呂を勧めるなんて危機管理ができてないんじゃないのか。異様な目で見てしまうが、はたと気づく。彼女のような女性がそんな不埒な考えで俺みたいな人間を見ているわけがない。なんて自意識過剰な男だ。彼女が優しいから、調子に乗って脳内が花畑になったんじゃないのか。死ね。

「え、いや、俺は風呂は」
「寒かったし、観音坂さんが嫌じゃなければ」

 俺のことを労る言葉に、喉の奥がぎゅっと狭くなる。彼女の優しさに対する感嘆と、自分のおめでたい頭に対する罵倒で脳内が忙しい。

「着替えも出しますよ」

 彼女はクローゼットの中を覗きながら言って、パーカーを引っ張り出した。女性が着るものにしては随分大きい気がするそれに、「元彼」の単語がよぎって心臓がギリギリと痛んだけれど、「大学時代にサークルで作った謎のパーカーなんです」とサークル名らしきロゴを見せてきたので、俺はなんとか一命を取り留める。

「下は、このスウェット、入るかな。観音坂さん細いし大丈夫だと思います」

 差し出されたパーカーとスウェットを受け取りながら、彼女が普段着ているものを着るのかと、頭が煮えそうに茹っていくのがわかる。だがそんなことを思っていると気付かれてみろ、待っているのは死だ。俺は表情を消す。

「あ、でも下着がないですね」
「し、下着は、あとで替えようと思ってコンビニで買ったんです、けど、」
「じゃあ大丈夫ですね、こっちですよ」

 案内されるがまま、脱衣所へ通される。浴室へ続く扉を開けて、これがシャンプーでこれがボディーソープで、と見たこともない小洒落たボトルたちを一通り説明してから、バスタオルを手渡された。「ごゆっくり」と脱衣所の扉が閉じられ彼女の姿が見えなくなったので、やっとのことで深い呼吸ができる。
 両手に抱えたバスタオルと着替えを棚の上に置いて、顔をあげると洗面台の鏡によくわからない顔をした自分の顔が写っていた。洗面台には化粧水やヘアスプレー、化粧品の類がきれいに整頓されている。一二三がいるので、自分の家の洗面台も男の家にしては色々ある方だと思っていたが、やはり女性の家のそれとは話が違う。色とりどりで、パッケージにも拘ってある女性らしいアイテムが並んでいるのを見ると、ここが女性の家なのだと改めて実感する。鏡の中の自分の顔が緩んでいるのが視界に入って、ゾッとしてすぐに考えるのをやめた。仕方ないだろ、こちとら社会人になってから彼女いたことないんだから。
 それから俺は無心で風呂を済ませた。例え彼女の使っているボディーソープが甘い桃の匂いだろうと、ボディタオルが視界に入ろうと、自分の手で爪を立てんばかりの勢いで身体と頭を泡まみれにした。
 そしてコンビニで買ってきた髭剃りで細心の注意を払い、うっすらと目立ち始めた髭を剃る。これであとはしっかり歯を磨けば、朝まではなんとかまともな人間を保てるはずだ。浴室から出て、身体を拭いて服を着ている間も無心を貫くことを試みたが、柔軟剤の匂いが何度も鼻腔をくすぐって、その度に喉からこみ上げる唸り声を必死で押し殺した。
 ほこほこと湯気を立てながら部屋に戻った俺を見て、彼女はにっこりと笑って、温まりましたか、と聞いた。その言葉に俺が死ぬほど小さい声で頷いたのを聞き届けてから、「わたしも入ってきますね。ゆっくりしててください」と入れ替わるように部屋を出ていく。
 ――なんだか恋人同士みたいな会話だ。
 そんなことを思った瞬間にハッとして辺りを見渡した。当然だが、彼女が浴室へ向かった今、この部屋に俺以外の人間はいない。分不相応な妄想をして緩んだ顔を誰かに見られることはないはずだが、彼女に断りもなくそんな妄想をこれ以上繰り広げるわけにはいかない。頬の内側の肉を軽く噛んで、戒める。
 部屋の入り口で立ち竦んだまましばらく動けなかったが、いつまでもこうしているわけにもいかず、壁際に寄せられたソファに座らせていただいた。優しいブラウンのカウチソファは二人掛けより少し大きいくらいで、その右端の方に身を寄せる。
 彼女がつけっぱなしにしていったテレビからは、ニュースキャスターの抑揚のない声が溢れていたけれど、この部屋にある全てが彼女の存在ばかりを強調して、ニュースキャスターの声は一言も耳に入ることはなかった。



 浴室の方から、扉を開く音が聞こえる。テレビの音よりもずっと小さいそれを、俺の耳は敏感に拾い上げた。続いてすぐそばにあるこの部屋の扉が開いて、お待たせしました、と告げられた声は少し間延びしている。

「……う、わ」

 思わず、声が出ていた。生乾きの髪と、薄くなった眉、そして化粧を落としきって幼くなった顔。肌は少し色づいていて、ジロジロと見てはいけないものだと思うのに、釘付けになってしまう。

「えっと、すっぴんなんで、あんまり見ないでください」
「っす! すみません!」

 彼女の笑い声に弾かれて勢いよく顔ごと視線を逸らした。耳元で自分の血が巡る音がする。風呂上りの時よりも身体が熱い。嘘みたいに、かわいく見える。いや、かわいいんだけど。知ってたけど、かわいい。
 こんなにもかわいいのに、素顔を見られるのは恥ずかしいのだろう、盗み見た彼女は照れ臭そうに唇を引き結んでいる。はあ、とばれないようにひっそりと吐き出した息は震えていて、それを止める術を俺は持たない。限られた人間しか見られない彼女の姿を見て、ひとつのソファに一緒に座って、交代でドライヤーを使って、これっぽっちも興味のないスポーツニュースを見ながらアイスを食べて、並んで歯を磨いて、だんだんと俺は夢と現実の境目がなくなっていくような心地を覚える。
 こんなことがありえていいのだろうか。好きな女の子の家にいて、風呂を借りて、のんびりとした時間を過ごしている。俺は一生分の幸福を今ここで使っているのかもしれない。もしかしたらこれは本当に夢なのかもしれない。夢だとしたら、目覚めたとき死にそうに悔やむだろうが、それでも最高の夢だったと幸せに浸れるだろう。意識が遠ざかりそうでとどまっている。この心地がずっと続いてほしかった。
 しかし、ぼんやりとした思考は彼女の一言で簡単に覚醒する。

「そろそろ寝ましょうか。観音坂さん、ベッドどうぞ」
「っ、え! いや、流石にベッドは、ダメじゃ」

 そのあまりの衝撃に身体をびくつかせた瞬間、前にあるテーブルに膝を強かにぶつけたがそんなことはどうでもいい。思わず横にいる彼女に身体ごと向き合うと、思った以上の距離の近さに、続けるつもりだった言葉は掻き消えた。
 彼女の身長は特別低いわけでもないし、俺の身長は特別高いわけでもない。なのに、近くにいるとこんなにも小さく見えるものなのか。つむじが見えそうで見えない。彼女が俺を見上げるようにしているからだ。
 その見上げる姿に、ごくん、と喉が鳴る。手が伸びそうになって、ソファの上でがりりと爪を立てた。

「わたしソファで寝るから大丈夫ですよ」

 当然だが、彼女は俺が今何を考えていたのか知りもしない顔をしている。どうしようもなくなりそうで、コンビニで下着を手にとっている間抜けな自分の姿を思い出して必死に堪えた。だめだ。馬鹿か。

「いや、俺は、ソファで十分なので、もう、床でもいいくらいで、本当」

 目が、合わせられない。床どころか、廊下で寝かせてもいいくらいだ。たった数十分前に自分で決めたことさえ揺らいでしまいそうで、俺は何度となく自分に幻滅する。
 しかし、虚空を見つめる俺にも決して不審な目を向けることなく、彼女は「じゃあ、お言葉に甘えますね」と笑顔を向けてくれた。救いようのない俺を、彼女は何度でも救ってくれる。いつも鮭の身のような色をしている彼女の唇は、今はひどく淡い、そのままの皮膚の色をしていた。その唇から溢れてくる声は、鼓膜や、皮膚や、髪や、粘膜を通して、俺の身体の中へ染みてゆく。

「おやすみなさい、観音坂さん」

 こんなに優しい声をかけてくれた人が、彼女の他にいただろうか。
 優しいだけではないのだ。柔らかくて、みずみずしくて、穏やかで、少し、甘い。内緒だと言って土産を分けてくれたときも、この部屋に呼んでくれたときも、俺の名前を呼んでくれるときも、いつも。他の人とは違う特別な音がするのだ。本当は特別なんかじゃないのに。
 どこまでも深く落ちていってしまう自分のことを掬い上げるような、優しい声。これだって、きっと、どうせ、俺が見ている都合の良い幸せな幻想に過ぎない。
 おやすみなさいと、俺は応えられていただろうか。



 コーヒーの匂いがした。誰かの気配で目を覚ますことは、ほとんどない。一二三と同居をしていても、生活リズムは完全にすれ違っていて、一二三が寝静まった頃に俺は目を覚ます。コーヒーの匂いと、電子レンジのタイマーが切れた電子音。じゅう、と何かが焼ける音もする。自分が昨夜どこで何をしていたのか、瞬時にフラッシュバックして飛び起きる。柔らかい毛布がソファの下へ落ちていった。

「あ、おはようございます。観音坂さんお腹空いてますか?」

 コーヒーの匂いが強くなる。飛び起きたタイミングでリビングの扉が開き、その先には両手にマグカップを持ったまま肘でドアノブを押しのける、彼女の少し行儀の悪い姿があった。

「え、あ、はい」
「卵、目玉焼きでいいですか?」
「は……」

 何を聞かれたのかわからないまま返事をする。卵がなんだって?
 彼女は、飛び起きた姿のまま固まる俺のすぐ横にあるテーブルに、ふたつのマグカップを置く。並々と注がれたコーヒーは、その水面をゆらゆらと揺らしている。自分自身もなんと返したのか覚えていない返事を受け取って、彼女は再びキッチンの方へ戻っていった。リビングの扉を開けたまま作業する姿を、口を開けたまま見つめる。
 レンジから取り出されたのはトーストらしかった。香ばしい匂いがここまでやってくる。それをコンロとシンクの間に置き、次はコンロにかかっているフライパンの蓋を開けた。じゅわりと水の弾ける音がして、これまたいい匂いが漂う。手元は見えなかったが、しばらくして再びリビングへやってきた彼女は、「どうぞ」と言って笑った。
 大きな白い皿には、トーストが二枚のっている。しかしそれはただのトーストではない。なんと目玉焼きがのっているのだ。しかも目玉焼きとトーストの間に、円形でピンク色のものが挟まっている。ハムだ。

「すみません簡単で」
「……え、いや、そんな」

 何も気の利いたことを返せない代わりに、胃袋がぐるりと動いたのがわかった。コーヒーと、トーストと、ハムエッグ。しかもなんかトーストにハムエッグのってる。「いただきます」と言って、彼女が皿にあるトーストのうち一枚を食べ始めたので、慌ててそれに続いた。
 ざく、と歯がトーストを噛む感触と、卵の白身とハムの脂の味を感じて、やっと彼女が朝食を作ってくれたのだと理解した。味は塩胡椒の味だ。目玉焼きは半熟になっていて、てのひらにこぼれる黄身を慌てて追いかける俺を見て、「はい、ティッシュどうぞ」と彼女は笑っている。
 ――なんだこれは、なんなんだ。
 朝食も食べずにバタバタと家を出ていく朝もあれば、一二三が作っておいてくれた朝食をありがたく食べる朝もある。そのどれとも違う。違うのだ。ただのトーストで、目玉焼きで、塩胡椒の味で、それなのに。

「……まじで、おいしい……」

 昨日の夜、気を失うようにして眠るときのことを思い出していた。
 彼女は俺の好きな女の子で、どうしようもない人間であるところの俺にこんなにも優しくしてくれる。嬉しい。嬉しくてたまらない。なのに、水の中にいるみたいに息が苦しい。

「……なんで、俺」
「え?」

 どうして、こんな風に優しくしてくれるのだろう。ただそれを嬉しいと思うだけではもうだめなのだ。その優しさに、理由が欲しい。彼女の優しさを理由にするのでは物足りない。理由がなければ、俺は溺れてしまう。
 一生分の幸福を集めたような時間で、夢のようだった。幻想に違いないのだとわかっている。でも、だめだ。

「……俺、こんなの、無理です」

 声が震えていた。彼女が俺のことを見つめているのがわかる。けれど、その目を見つめ返すことはできない。

「す、好きに、なる」

 もうとっくの昔から好きになってしまっている。でも、それ以上に、それよりもっと、好きになってしまう。取り返しのつかないところまでいってしまいそうになる。好きなだけでは、足りなくなってしまう。
 気付かないうちにギュッと握り締めていた自分の拳は、氷みたいに冷たい。強く握り込みすぎて爪が食い込むのがわかっても、力の解き方がわからなかった。息を止めるように呼吸を潜めていると、「……すみません」と小さな声が聞こえる。あれほど力んでいた肩から、あっさりと力が抜けていくのを感じた。
 ――ああ。そりゃ、そうだ。

「意識してほしくて家に呼んだなんて、ずるいですよね」

 ――え? ……………………え?

ロマンスをぶっとばせ

- ナノ -