彼女の住む部屋を訪れた際、ちょうど衣替えをしていたらしいなまえは、やってきた僕の顔を見て「もう少しだから、終わらせちゃってもいい?」と申し訳なさそうに眉を下げて首を傾げた。僕はとくに何も思わず、「うん、ドウゾ」と頷いたのち、クローゼットの前で洋服を広げている彼女の背中を視界に入れつつ、ソファに座って動画配信サービスで適当に選んだ海外ドラマを見るともなく見る。
登場人物のひとりが背中を刺され、不穏な空気が流れ出したところで、テレビに背を向けていたはずの彼女が、「えっ」と弾けるように声を上げた。もしや衣替えそっちのけでドラマに見入っていたのではあるまいな、と視線を向けると、なまえは先ほどと変わらずこちらに背を向けて、何かを手に驚いているようだった。彼女の肩越しに見える手には、黒い革の、どこからどう見ても男物のコインケースが握られている。
心の底から、悪い予感がした。
「……どうしたの」
「え、あ、なくしもの……を見つけた」
落ち着かない様子でそう言ってこちらを見る彼女の目は、明らかに「不味いことになった」と狼狽えていて、そのくせ取り繕うように下手くそな笑顔を浮かべるから、悪い予感がいよいよ現実になるのを悟る。
「……ふうん。誰の、なくしもの」
誰の、とわざと強調した声。なまえの部屋で見つかったものなのに、彼女以外の持ち物であることを知っているような言葉。嘘がつけないお人好しではあるけれど、察しが悪いわけではない彼女は、それだけで僕の言いたいことをすべて理解したように項垂れた。
「……前に、付き合ってた人です」
言葉尻に進むうちに小さくなっていく声は弱々しい。誤魔化すことなく告げられたのは、予感したとおりの言葉だった。俯くことで自然とこちらを向く彼女のつむじに溜息で返事をすると、なまえは静かに足を正座の形にして、「ごめんなさい」と深々頭を下げる。土下座だ。――べつに、謝ってほしいわけじゃないのに。それは本心だったけれど、口にすることはできなかった。
謝るようなことではないのだ。彼女だって完全に予想外のようだったし、自分に隠れて元恋人と会っているような素振りも思い当たらないし、そもそもそういうことができるタイプじゃない。ただのハプニングだ。そんなことはわかっているのに、自分の身体は思うようについていかない。
自分の中をぐるぐると動き回るモヤモヤに、全身の支配権を乗っ取られたみたいに頭も身体も重くなっていく。
「……あの、もう四年くらい前でね、ほんと、全然気づかなくて、なんか失くしたって言ってたなーって」
「べつに聞きたくないけど」
「……はい、すみません」
辿々しく言い訳を連ねる彼女の言葉をスッパリ遮ってしまう。どんなに昔に終わった関係なのだとしても、自分以外の誰かの恋人だった彼女のことなんて、知りたくもなかった。恋人の昔の関係をすべて把握しておきたがる人がいると聞くけれど、正気を疑う。どうして、もう変えることのできない過去のことを、わざわざ知らなければならないのだろうか。
再び頭を下げたきり、何も言わなくなってしまったなまえとの間に、重苦しい沈黙が流れる。白熱した口論を繰り広げる海外ドラマとは天と地ほどの違いだ。ちらりと横目に様子を伺うと、正座は崩さず膝の上で拳を握って、床をじっと見つめたまま冷や汗を流して唇を噛んでいた。追い詰められて観念し、あとは沙汰を待つのみの罪人みたいだ。きっと、何を言っても無駄であるとわかりながら、どうやって僕のご機嫌を取ろうか考えているのだろう。
謝るようなことでも、ご機嫌とりをするようなことでもない。ただ偶然とタイミングが重なっただけの、どうしようもないことだ。そんなことで彼女にこんな顔をさせてしまう自分の狭量さに、二度目の溜息を吐く。
「……もういいよ、知らなかったんでしょ。しょうがないじゃん」
無罪放免の判決を下され、恐る恐る視線を上げた彼女は、僕の言葉を聞いてもまだ何か気になるらしい。眉を寄せて口をもごつかせる微妙な表情をしたままだ。
こういうときばかり、こんなふうに遠慮を見せてくるのは何とかならないのか。いつもの軽い小言には、「蛍くんごめんってば」とかなんとか言って猫撫で声ですり寄ってくるくせに。仕方がないので、わざと剣呑な声で追撃する。
「まさかとは思うけど、部屋着とか残してたりしないよね」
「え!? ないよ! 服ももらったものも写真も全部蛍くんと会う前には捨ててたよ!」
「あっそう。じゃあもうこの話終わり」
そう話を切り上げると、彼女はようやくほっとしたような顔をした。そしてすっと膝立ちになって、にじり寄るようにこちらへ近寄ってくる。そばに積み上げていた夏服が崩れた。なまえはそんなことには目もくれず、僕の座るソファの足元に座り込んで、覗き込むように僕の目を見つめるのだ。いつもの猫撫で声も、この上目遣いも、彼女には似合わない。明確に自分の機嫌を取ろうとする、わざとらしい行動に苛立ちを感じる。何より、その苛立ちと一緒に、まんまと胸がぎゅっとしてしまう自分自身にまた苛立った。
「……ごめんね」
「しつこいな。もういいって言ってるじゃん」
「嫌な気持ちにさせたでしょ。だからごめん」
しゅんとしているなまえを見ていると、さっきまで自分を支配していたモヤモヤが薄くなっていく気がする。過去への焦燥感も、喉を焼く嫉妬心も、僕のせいで曇る表情や、僕のために小さくなる声を聞いていたらいずれは消える痛みだ。
けれど、こちらが「もういい」と言っているのに、それでも足りないと彼女が言うなら、こちらはそれに乗ってやろう。正当化しているだけだとしたって、なまえに気づかれないなら、知ったことじゃない。
しおらしく声を落として、メガネ越しにじっと見つめて。
「……じゃあ、僕の機嫌直して」
「……どうしたら直る?」
そうっと、腿の上に置いていた手に、彼女の指先が触れる。手の甲の上に乗っているだけのなまえの指先は、僕のものと比べるまでもなく小さい。その手の下で、自分の手のひらをくるりと反転させて、ただ包み込むだけの力で握った。細くて冷たい指が、同じくらいの力で握るような動きをして、それが自分のどこかしらを満たしていくのを感じる。
過去の、他の誰かのものだった君のことなんか知らない。知らないままでいい。いま手の中にいる、僕の恋人である君だけがいれば、それだけでいいのだ。
「そのコインケース捨てて。その男にはもう会わないで。あとおいしいご飯作って」
その言葉を聞いて、彼女はぱちくりと瞬きを二回したあと、くすぐったがるような笑い声をこぼした。緩んだ唇が、僕を好きでたまらないと教えるみたいに笑みを描く。
今と、そしてこれから先、その顔を見せるのはきっと自分だけだと知っている。だから、僕のくだらない我儘を、そんな顔で聞き入れてくれるんだろう。
「うん。買い物着いてきてくれる?」
「……うん。いいよ」
柔らかく細くなる瞳に向かって、憎まれ口は出てこない。膝の上で握られた手を、もう一度だけ握り返して、近所のスーパーへ行くために立ち上がった。
スーパーへの道中、コンビニのゴミ箱にコインケースを捨てる際、中に入っていた千円近い小銭を見つけた彼女は、目を輝かせて「これでハーゲンダッツ買おう」と笑う。ハーゲンダッツなんて、僕がいつでも買ってあげるのに、と思ったことは絶対に顔には出さない。なんの未練もなくゴミ箱に消えていったコインケースに心の中で舌を出して、彼女の手のひらへ手を伸ばした。
「何食べたい?」
ハーゲンダッツにご機嫌になっているなまえは、緩んだ表情を崩すことなく、繋いだ手をきゅっと握り返す。何を食べたいか、と聞かれて、これまで作ってもらってきた彼女の手料理を思い返した。
元々自分の好物だったロールキャベツ、なまえの味付けが好きだった肉じゃが、失敗したと落ち込んだ顔が可愛かったピカタ。いくつか頭の上に並べてみて、ふと、思い至る。カッコ悪いし、癪だけど、思いついてしまったものは仕方ない。
繋いでいた手を引き寄せて、小さな声で、耳元に呟いた。
「……元カレに作ったことないやつ」
昔のことなんて知りたくもないし気にしてもないけど、初めてや一番がもらえるものなら、もらっておきたいもんでしょ。