耳の端を凍らせるような風が吹いて、それでも浮き足立つ世間の忙しなさの方が目に留まる。年の瀬とはそういう季節だ。そんな波に自分だけが置いていかれているような気がしてしまう。それは、自分がいわゆる「普通」のサラリーマンではないからだ。田んぼに手をかけてやらなければならない時期は十月で一区切りがついて、販売所や契約先に卸していく作業も、どんなに遅くたって十一月には終わってしまう。それ以外の時期は休みらしい休みなんてないのだから、大手を振ってゆっくりしていればいいのに、どうしてかそうはいかない。自分の中にきっちりこびりついてしまった習慣と、それを上から塗りつぶして、正当化してしまいそうにする、何かが。

<いまからかえります>

 メッセージアプリが通知したその文字をしばらく見つめてから、画面上の時刻を確認して、ひとつ息を吐いた。帰ってくる頃には、日付が変わっているだろう。たった一行の短い文字ですら変換することもできないくらいおぼつかない足取りになった彼女が、鼻先と、耳を赤く凍えさせて、目まぐるしい日常から自分のところに戻ってくるのを、首を長くして待っている。



 年の瀬の週末は、飲み会になると相場が決まっているらしい。大学を卒業してから一般企業に勤めている彼女の言葉だ。一般企業というもので働いたことのない自分には、それが本当かはわからないが、確かに先日は農協の集まりで忘年会があったし、そういうものなのだろう。ただ、自分の行った忘年会は自分の親やそれ以上の年代の参加者ばかりだけれど、彼女の行く飲み会は、そうではない。
 座り慣れたはずの彼女の部屋のソファが、なんとなく居心地が悪くて、無造作に立ち上がった。それを見計らったようにインターフォンが鳴って、安心したような、腹立たしいような気分になる。玄関へ向かう自分の足が、思った以上に大きく足音を立てて、階下の住人に申し訳ないなと思った。

「信介くん、ただいまぁ」
「……おかえり」

 玄関の扉から顔を覗かせるなまえは、一緒に冷たい空気を連れて帰ってきた。セーター一枚の自分には凍えてしまいそうな程の寒さなど気にも留めず、ぐるぐる巻きにしたマフラーに埋めた赤い頬で笑っている。

「……寒い。はよ閉めて」

 ゆったりとドアの内側に滑り込んで来る彼女の動作を急かすように、ドアノブに手を伸ばした。ドアノブに重なっていた彼女の手に偶然触れると、金属のドアノブと変わらないほど冷たくなっていることがわかる。ただでさえ冷え性でいつも指先を冷やしているくせに、手袋も付けていない姿に重くため息が溢れた。

「なんで手袋せんの、」

 吐き出し始めた小言は、一瞬で掻き消えてしまう。すぐ近くにいたなまえが、閉まるドアと一緒に胸元へ滑り込んで、力の抜け切った顔と声をして、笑うからだ。

「……んふ、ただいまぁ」

 さっきも聞いた。
 彼女の身体は、もたれかかるようにして寄り添ってきて、赤い頬がマフラーでなく俺のセーターに埋まってゆく。頬に当たる髪は冷たくて、セーターを通してこちらの体温が奪われていくのがわかったけれど、離れたいとは思わない。ただ、彼女の頬が赤くなっている理由は寒さだけではないようで、指の背をそっと押し付けると、そこだけが熱を持っているのがわかった。

「……酔っとるやろ」
「ん? ちょっとだけ」
「嘘つけ。こんなふらふらして帰ってきたんか」

 寄りかかってくる重さが増していって、沈み込むように胸元へ顔を埋めるなまえは、俺が彼女を支えることをまるで疑わない様子で目を瞑る。長い睫毛が少し震えるのを見て、体を支えるために彼女の背中へ回した腕の力が無意識のうちに強くなるのを感じた。
 安心したような、腹立たしいような、複雑な心地だ。自分は知らない世間の波の中で彼女がこうやってふわふわ漂っているのかと思うと、心臓のそばで隙間風が吹くような錯覚をする。彼女が一人の社会人としてちゃんと立っていることなど、わかりきっているのに。

「迎えにいく言うたやろ」
「途中まで一緒に帰ってきたからだいじょうぶ」

 もう、いつ眠ってしまってもおかしくないくらいの声が、自分と彼女以外の「誰か」の存在を知らせてきて、それに一々反応してしまうことに自分でも驚く。自分の「いつも通り」を、上から塗りつぶしてしまう何かが、すぐそこまで迫っていた。

「……そうか」

 小さな、小さな相槌だったのに、離れないままでいるせいで彼女には聞こえてしまう。その呟きに、彼女は何がおかしいのか、「んふ」と笑った。酔っ払いの笑いどころは俺にはわからない。

「信介くんが怒るから、電車で別れたよ」

 セーターに顔を埋めて、くぐもって聞こえるはずの声が、真っ直ぐに聞こえた。鼓膜を通してではなく、彼女が顔を埋めているそこから、直接心臓へ言い聞かせるみたいな声だ。

「……そんなんで、怒らへんよ」
「え〜? ほんとかな?」
「ほんま。むしろ送ってもらってや」

 なまえが、目を閉じていてよかった。目を見つめていたら、きっとごまかせなかった。普段から何事にも察しがいい方ではなくて、そのうえ今は酔っ払っているくせに、俺のことはよく知っているような顔をする。実際、よくわかっているのだろう。余裕のある振りをして、自分以外の「誰か」と一緒にいる彼女を許すような嘘をつく俺のこと。自分でも、この感情をまるっきり受け止めることは難しいというのに。
 支えるために回していた腕に、より一層力を込めた。寄りかかるだけの身体を抱き寄せる。彼女に奪われて冷え切ってしまったはずの体温は、どうしてか、再び熱を発していた。彼女の笑い声が、セーターの中に吸い込まれていく。

「うそ、今もちょっと怒ってたくせに」
「……怒ってへん」

 自分の「いつも通り」を、疑ったことはない。自分が彼女を好きでいること、彼女も同じ気持ちでいること、それが揺るがないものであることを、信じているのではなく、ただわかっている。だから、それを上から塗りつぶしてゆく、ほんのわずかの不安も、首をもたげる嫉妬心も、全てが意味のないことであると、俺は知っているのだ。知っているのに、どうしても振り払うことができない。
 自分の身に降りかかると、途端に身動きが取れなくなる厄介なものを、きっと、ずっと、持ったままでいる。彼女のことを好きでいる限り、ずっとだ。

「怒ってへんけど」
「……うん」

 声が遠い。もう、彼女の耳にこの言葉は残らないのだろう。都合がいい。少し弱気な言葉はあまり聞かせたくはないし、手袋のことや、遅くに一人きりで帰ってくること、言うべきことは他にたくさんある。説教は明日の朝、彼女がちゃんと頭と目を覚ましてからだ。

「……あんまし、妬かせんといてな」

 冷たい髪をかき分けてこめかみに唇を落とすと、どんな季節でも変わらない、彼女の淡いにおいがした。



 翌日、いつもの休日よりもきっかり二時間寝坊したなまえは、のそりとした動作で起き上がって、起きたばかりだというのに頭を抑えて項垂れている。立派な二日酔いだ。朝から予定を入れていなくて正解だった。これでは午後からの予定も危うい。

「う……あたまいたい」
「飲み過ぎや。次から加減せえよ」

 なまえが起きる前にひとりで朝食を済ませ、暇つぶしにペラペラとめくっていた文庫本を閉じながら、呻くなまえに釘を刺す。なまえの朝食はもともと用意していない。彼女は朝食をほとんど食べないし、どうせ今日は昼前まで寝ているだろうと思っていたから、思ったとおりだ。
 自分の飲んでいるものと同じコーヒーではなく、冷蔵庫にいつも入っている、なまえの好きなオレンジジュースをコップに注ぎ、手渡す。なまえは地の底から聞こえてきそうな声で礼を言って、オレンジジュースを一気に飲み干した。どうせ酒ばかり飲んで、水分をとっていなかったから喉が渇いていたのだろう。ベッドに腰を下ろして、溜息を吐きながら空になったコップを受け取ると、少しは頭が冴えたような顔をしたなまえが、こちらをじっと見つめてぽつりと呟いた。

「……なんか」
「なんや」
「信介くんが、やきもち妬いてくれる夢見た気がする」

 ぎくりとする。なまえの表情は特に変わらないままだから、自分が今狼狽したことは気づかれてはいないようでほっとした。
 彼女は、昨日の出来事を夢だと思っているらしい。なまえが自分のいない場所でふわふわ漂っているなんておかしな錯覚をして、しっかりと掴んで離せない自分を彼女に笑われてしまった昨日のこと。
 夢だと思っているなら、それがいい。くしゃくしゃに崩れて瞳を隠す前髪を避けてやりながら、素知らぬ顔をする。

「……変な夢見たな」
「うん……いい夢だったな」

 避けた前髪の下から現れた瞳は、ぼうっと力が抜けていて、今でも夢の中にいるみたいに遠くを見つめていた。寝起きの、それも昨日酔っ払って帰ってきたまま、かろうじて寝巻きに着替えさせただけの姿だというのに、しばらく目を離せなくなる。目を細くして、柔らかく唇をほどけさせる表情が、昨日自分の腕の中でくすくす笑っていた彼女のそれとそっくりだったからだ。
 あかん。酔っ払いの彼女だけでなく、二日酔いのなまえにまで振り回されては。慌てて奥歯をぐっと噛み締める。

「それはええけど、その前に説教や」
「ええ……」
「手袋もせんと身体冷やして、酔っ払って帰ってくんねやったら誰かに送ってもらうかタクシー使いや。社会人なんやから、ちゃんとせんとあかんよ」

 じっとなまえの目を見て、そう言葉を連ねる。自分にとっては当たり前のことで、彼女もそれはわかっている。だが、わかっているだけではうまくいかないこともあるらしい。いつだったか、同じように酒に酔った彼女に、酒に飲まれるのは良くないと言い聞かせていたとき、「それはそのとおりだけど、お酒に飲まれることが必要なときもあります」と妙に真面目な顔をして言い返されたことがあったのを思い出す。確かそのとき、彼女は職場で理不尽な目に遭って、耐え兼ねたストレスを酒で発散したらしかった。彼女の中には彼女の理屈というものが存在する。そのときは、会社勤めをしていない自分には理解しきれないこともあるのだろうと、強く否定はしなかった。
 けれど今日の彼女は、そのときのような顔ではなく、苦い薬を飲んだような顔をして、何か言いたげに口をもごもごと動かして視線をそらす。その唇から、耳を傾けなければ聞こえないほどの声が聞こえた。

「……男の人に家まで送ってもらって、いいの?」

 また、ぎくりとする。酒を飲まずにはいられないときもあると言われたとき、そういうこともあるかと頷きながら、それでも拭えずにいた感情を、見透かされたのかと思った。昨日と同じだ。
 そらしていた視線はいつの前にかこちらを伺うように伸びて、俺の視線と重なると、拗ねるみたいに下唇をちょんと突き出す。髪はボサボサで、落とさないでいた化粧で目の周りが汚れて、それでそんな顔をしていると、本当に子どもみたいで笑ってしまう。手を伸ばして目尻を拭うと、化粧品の名残で指先がキラキラと光った。

「ええよ。けど飲み過ぎて隙見せんのはあかん」

 その小言は、彼女の求める返事とは違っていたらしく、尖った唇が元に戻ることはない。なまえがそうやって感情をさらけ出していてくれるから、自分は少し冷静でいられる。くしゃくしゃの髪を撫でつけるようにして頭の形に手を沿わせた。頭から頬を通って、その最後に唇の形を変えるように親指を押し付けて離すと、尖っていた下唇がようやく解ける。

「呼んでくれたら、迎え行くし。それやったら俺も安心や」

 なまえの感情や行動を、自分のエゴで縛りたくない。だから俺は、寛容で静穏な恋人の振りをする。それでも彼女には、昨夜のように見透かされたりして、何度も自分の中にその感情があることに気づくのだ。
 唇を柔らかくほどけさせて、眉を下げて笑うなまえを見て、同じように口角が緩むのを感じる。

「……あんまし、心配させんといてな」

 嫉妬を、心配と呼び変える自分のことをずるいと思う。そのずるさが自分の中にあり続けることを、俺自身はもう、受け入れてしまった。だから、いい。この感情に、彼女を思う気持ちに、理由はいらないのだ。それをもう、知ってる。

微酔の真白

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