惜しみなく与えているつもりだ。少なくとも自分にとっては。
 学生の頃から、良くも悪くも自分が人の目を集めることは自覚していて、自分の出してきた結果を思えば、それは当然だと思っていた。その態度が良くなかったのか、見てくれのイメージなのか、気がつけば、女関係をはじめとする噂話に尾ひれ背びれの着いた自分が、あちこちを闊歩する羽目になっていたのである。自分には、尾ひれや背びれどころか、全身を骨抜きにした女がいることを、ほとんどの人間は知らない。なんならその彼女自身もそのことを知らないのかもしれなかった。
 頭も身体も心も、そのほとんどをバレーボールに費やす自分のことを大事にしてくれる人。自分のどこが好きなのか聞いたとき、何よりも一番に「バレーが好きなところ」と言ったその人のことを、心臓の一番、ずっと深くて静かなところに住まわせている。
 だから、バレーボールに費やしている以外の時間は限りなく捧げてきたし、愛情だって示してきたつもりだ。そりゃ多少はわがままも言ったかもしらんし、束縛がきつくなってしもたかもしらんけど、そんなんは愛情ゆえであって、俺は俺の与えるものと同じくらいのものを彼女から与えてほしいだけなのだ。だって、そうでなければ、こちらの気持ちばかりが大きくなっていく一方で、俺ばっかりがなまえを思っているみたいで、嫌だ。

「もう店閉めんねんけど」

 調理場を囲むようにして備え付けられているカウンター席のど真ん中。その席に座って項垂れる俺に向かって、自分とほぼ同じ顔をした片割れが投げかける言葉には、労りも配慮もない。首を持ち上げて声の主を見ても、その男はこちらに視線すら寄越さず、黙々と翌日用の具材の仕込みをしている。

「……喧嘩した言うとるやろ」
「せやからはよ謝れ言うとんねん。どうせツムが悪いんやろ」
「ハァ!? そんなんわからんやろが!」

 まるで喧嘩の現場を見たかのように言うので、脊髄反射で思わず噛み付いた。治は被っているキャップのツバの奥から、苛ついたように片眉を釣り上げて「せやったら言うてみろや」と挑発する。治の言い分に自覚があるので、ギッと奥歯を噛んで、すぐに視線を逸らした。彼女とイザコザを起こすたびにここへ来るが、どんな経緯を話しても、治が自分に肩入れした試しはない。自分だって、彼女に対して反省はするが、そんな治に対して納得した試しはなかった。ふつう兄弟の肩持つもんとちゃうんかい。
 じとりとした視線を寄越す治に、今回の喧嘩の経緯をポツポツと話し始める。シーズン中は土日に試合が重なることがほとんどで、それ以外もバレー中心の日々を送っているが、オフシーズンになると、土日は彼女の部屋に入り浸っていることが多い。彼女の部屋でトレーニングをして、彼女の作る手料理を食べて、彼女の狭いベッドで一緒に眠る。彼女は、寮に戻ってきちんとした環境で、きちんとした食事をとれと言うのだけれど、一向にそれを聞かない俺のために、トレーニングマットを用意して、バランスの取れた食事を作って、シングルサイズからダブルサイズにベッドを買い直した。俺はそうやって、彼女が自分のために手を尽くしてくれることが、気持ちよくてたまらない。俺が身体の中に抱えている感情と同じものを、目に見える形で、肌で実感できる温度で返してくれることに、どうしようもなく満たされていたのだ。だから俺はいつも、スポーツ選手の身体だからとおっかなびっくりの彼女に柔軟を手伝わせてみたり、揚げ物が食べたいとわがままを言ってみたりして彼女を困らせる。そうして、俺に振り回されて、俺のためだと俺を叱って、ごくたまに「しょうがないなあ」と折れてくれる彼女を見ていたかったから。
 今日はシーズン中にたまたま時間ができて、久しぶりに会えるのが嬉しかったものだから、つい舞い上がってしまったのだ。その日が偶然、彼女の仕事がいつもよりずっと忙しくて、身体を起こすのも億劫なほど疲れているときにようやくやってきた休日で、いつも俺を許す心の余裕がなくなっていたことに俺は気づきもせず、いつものように甘えて、そして、それは起こった。

「……ねえ侑。ごめんだけど今日は帰って。疲れてるの、すごく」
「は? なんでそんなこと言うん。俺やって練習の合間に来てやってんねんから、優先してくれてええやん」

 深く考えなかったのだ。自分の傲慢もわがままもいつものことで、それを諦めたようにまるい溜息をつくいつもの彼女がそこにいると思っていた。静まりかえる部屋の空気に違和感を感じて彼女の顔を見つめた瞬間、息が止まる。

「帰って。ずっとそんななら、この先侑とやっていける気しない」

 ひどく冷えた視線と言葉に、ようやく心臓が縮んだ頃には、もう彼女の部屋を追い出されたあとだった。急いで振り向いて「なまえ」と彼女を呼んでも、部屋のドアは何も答えない。……え、何? 怒らした? やっていけへんて何? フラれた? 嘘やろ? 頭の中が忙しい。圧倒的な衝撃を受けて、それが何なのか理解できず混乱したまま、ふらふらと片割れの営む店にやってきて、今に至る。
 治は口を挟むことなく俺の話を一通り聞いたあと、たっぷり五秒ほどの長い溜息を吐き出して、心底呆れかえったような目をした。

「おまえまだバレーやっとる方が偉い思っとんのか。成長せん奴やな」

 根底をわかり切っている片割れの言葉は、トゲを落とす素振りも見せず突き刺さってくる。治が今の仕事を選ぶと決めたときも、同じようなことを言われたのをよく覚えていた。けれど、彼女と治は違う。バレーボール選手の宮侑を尊重しろなんて思ってない。だって、彼女を好きな俺は、ただの宮侑なのだ。

「うっさいねん、そんなん思てへんわ! 世話焼かれたら愛されてる感じするやんか! それがええねん!」

 握り拳をテーブルの上にドンと叩きつけると、拍子に箸立てがかちゃんと音を立てて揺れた。「喧し。こどもか」と取り合わない治は、半解凍になった鮭の切り身を冷蔵庫から取り出し、おにぎりの具材に適した大きさに切り分けていく。焼くのは明日、開店前の作業らしい。

「はよ仲直りせんと、持ってかれるんとちゃう?」

 スムーズに包丁を滑らせながら話す治は「ええ子やんか」と言葉を続けて、それを聞いている俺まで切りつけていく。ぎくりとすると同時に、彼女のことを知ったように話す治の口ぶりにこめかみがぴくりと揺れた。

「……おまえがアイツの何を知っとんねん」

 あからさまに声が低くなったことに自分ですら気づいているのに、それを向けられている当の本人はあっけらかんとして記憶を辿るように宙へ視線をやる。

「ツム、何回かなまえちゃん連れてココ来とるやんか」
「……おん」
「あの子、それ以外にもひとりで来てんで、結構何度も」
「ハア!?」

 まったく寝耳に水の話で、思わず立ち上がる。たしかに、何度となく彼女をこの店へ連れて来ていたことは事実だ。付き合い出したばかりの頃に始まり、少なくとも三ヶ月に一度くらいは一緒に来ていただろうか。回数を重ねるごとに、なまえと治が友人のような距離感になっていることには気づいていたが、それには特に何も、むしろ良いことくらいに思っていた。将来はきょうだいになるかもしらんしな〜なんて鼻歌を歌っていた自分を殴りたい。まさか、それ以上に顔を合わせていたなんて知らなかった。「ツムと一緒やなくても食いに来てな」と言った治の社交辞令に、「来んでええ!」と釘を刺していたはずなのに。ちゅーかサムもなまえもなんで今まで黙ってんねん! やましいことでもあるんか!

「おいしいおいしい言うてな、ええ子やな」
「おっ…まえ、なまえにちょっかい出してんのとちゃうやろな!」

 焦って吐き出す怒鳴り文句に、治は怯みもしない。もう慣れきってしまっているだろうから当然だが、こっちは絶賛喧嘩中なのだ。いつも彼女の肩を持つ片割れに、現恋人のマウントを取る余裕はなかった。だが治は、ひどく嫌そうに顔をしかめて、ケッと吐き捨ててみせる。

「出すかい。俺はどっかの人でなしみたいに身内の女に手ェ出したりせんわ」

 その言葉の示唆する「人でなし」は、大変遺憾だが自分に違いなかった。これまでに何度か聞いたことのある恨み言だが、今言われると少しうろたえてしまう。
 学生の頃から、俺は恋人ができたら周りに自慢せずにはいられないたちで、特に片割れの治にはすぐさま顔を合わさせた。一方治は「ツムに会わせんの嫌や」と失礼なことを言って、どうにかして恋人の存在を俺に隠そうとする。だから、高校の頃だったか、自分の知らないうちに治がカノジョを作っていたことを知り、「その子」というより、「治のカノジョ」というものに興味が湧いて、しばらくその子について回ったことがあったのだ。そのときの治は、勝手に自分のプリンを食われたときよりも恐ろしい形相をしていたことを覚えている。

「あれは別に手ェ出したわけやないやろが! ちょっとちょっかい出しただけや」
「ちょっかい出しとるやないか」

 間髪入れずに切り捨てた治は、再び重い溜息を吐いて、「もうええわ」と無理やり会話を締め括らせようとする。なんやねん、こちとら漫才しとるわけやないねんぞ。

「早う謝ってきいや。あと帰るとき外の札『支度中』にしといてくれ」

 そう言って、ホコリを払うような仕草で手の甲をひらひらと振ってみせる。追い出すだけでは飽き足らず、使いっぱしりにする気らしい。双子の片割れにまでそんな扱いをされて冷え切った身体に、外の冷たい空気が追い討ちをかける。律儀に「営業中」と書かれた木の札を裏返し、「支度中」になっていることを確認したあと、息を吐いた。吐いた息が白く曇って、それを見ているとなまえのまあるい溜息を恋しいと思う。
 彼女の言っていた、自分とはこの先やっていけない、という言葉の続きを聞くと思うと、怖くて足が震えてしまいそうだ。けれど、そうも言っていられない。治の言うとおり、他の誰かに持っていかれてはたまらないのだ。なまえに骨抜きにされた自分は、彼女がいなくなってしまったら、バレーボール以外の何もかも、きっと使い物にならなくなってしまうだろうから。



 翌日、午前中から始まっていた練習が夕方前には終わり、そのままの足で彼女の部屋へやってきていた。しかし、彼女はどこかへ外出しているらしく、無情にもドアは閉じたままだった。一応合鍵を持っているので、勝手に入ってしまうこともできるのだが、喧嘩中ということもあり、家主不在の部屋に上がり込むのもなあと気が引けて、仕方なくドアを背にしてずるずると座り込む。ここで彼女が帰るまで待ちぼうけしていれば、少しは彼女に反省を示せるだろうかなんて、打算的なことを考えた。
 そういえば、昨夜は散々だった。治の店を出たあと、彼女の部屋へ向かおうとしたのだけれど、どう謝ればいいのかわからず、寮へ戻ってしまったのだ。彼女と喧嘩をする前、その日の練習を終えたあとのチームメイトたちに意気揚々と、「今日彼女のとこ行くから寮帰らへんねん。久々やから甘やかしたらんとな〜」などと自慢げに話していたというのに。そのうえ、寮に戻ってきたところをよりにもよって臣くんに見つかってしまい、二人で無言で数秒見つめあった後、臣くんはハンと鼻で笑って、自分の部屋へ消えていった。「せめてなんか言うてくれ!」という切実な叫びが寮のフロアに響いて、トラウマになるかと思った。
 そのことを思い出して、外の寒さとは違う意味で震えが走る。しかもそんなことをしていたから、結局どう彼女に謝ったものかという問いに答えは出せないままだ。自分との未来はないと言っているような彼女の言葉があまりも衝撃で、ただ単純に謝っただけでは許されないような気がして、とはいえ時間を置いておくのもまずいだろうと、なんの打開策もないままここまでやってきてしまった。治の、「持ってかれるんとちゃう?」が思った以上に効いている。バレーボールをやっている俺が好きだと言ってくれた彼女が、別の人間に同じことを言う光景を思うと、ゾッとした。

「えっ、なにしてんの」

 ゴウン、とエスカレーターが稼働する音がしたと思えば、頭の上から声が降り注いだ。パッと顔を上げると、鼻の先を赤くした顔をチェック柄のマフラーに埋めたなまえが、目を丸くしてこちらを見下ろしている。がばりと立ち上がって、その拍子に腰をドアにぶつけたが、一気に放出されたアドレナリンで痛みは感じなかった。
 目の前の彼女は、昨日のように眉間にシワを寄せてもおらず、冷たい目もしていない。何か言わんと、謝らんと、と思うのに、うまく言葉を作ることができない。ようやく返した言葉は、ひどく小さくて、まるで拗ねているみたいにむっつりとしていた。

「……待ってたら悪いんか」
「悪いよ。スポーツ選手が身体冷やしてどうすんの。鍵使いなよ」

 そう言って、ドアの前に立ち塞がる自分のそばにするりと近寄ってきて、何食わぬ顔で鍵を開ける。見慣れた玄関に入って、いつものショートブーツを脱ぎながらこちらを振り返るその顔は、「入らないの?」と言っているから、二の句を継げなくなる。ここまで来ても謝罪のひとつも言えない自分と、昨日あったことなどすっかり忘れているような顔で、文句を言うみたいに自分を労る彼女。なんやねん、と心の中で行き場のない憎まれ口を叩いてしまう。

「……どこ行ってたんや」
「ネイル替えに行ったの、もう来週だし」

 彼女の後ろについてキッチンが併設された廊下を歩きながら、その後ろ姿を見つめた。来週何があるのか気にはなったが、口にはできずにただついていく。彼女がマフラーを外すと、パチ、と静電気が弾ける音がして、毛先がふわりと膨らんだ。それを撫でつけるようにする指先は、たしかに昨日とは違うネイルアートが施されている。いつもは、ベージュとか薄いグレーとか、大人しい色でシンプルな模様を描かれている爪先が、今日はくっきりとその形を主張していた。

「黒? えらい派手やんか」
「うん、だってブラックジャッカルカラーだもん」

 こともなげに返された言葉に、一瞬だけ時間が止まったように錯覚する。髪を整え終えた手はすぐに下されて見えなくなってしまって、思わず駆け寄って肩を掴んだ。突然の行動に彼女の肩がびくりと震えたのを感じながら、彼女の両手を拾い上げる。もともと冷え性なのも相まって、その手はひどく冷たかった。じわじわと、自分の熱が奪い取られるような感覚がして、でもそんなことには気づきもしないほどに、俺はその爪先に夢中になる。
 黒をベースに、シャンパンゴールドで描かれた模様。ユニフォームの柄のようにあからさまではないけれど、たしかにチームカラーで彩られた指先を見て、息をするのも忘れた。しかも両手の親指の爪には、「13」と数字が描かれているのだ。息もできないうえに、心臓がぎゅっとなって、もう、勘弁してほしい。

「……なん、なんでこんなんしてんの」
「え? 試合来週末でしょ?」
「そやけど……来るん?」
「そりゃ行くよ、ホームゲームだし」

 さっき「来週」と言っていたのは、自分の試合のことだったのかと、わかった途端に全身の力が抜けてしまいそうになる。急に両手を握られて、そのままの体勢で質問攻めにされるなまえは、首を傾げながらも頷いた。俺がどんなに身体の中を引っ掻きまわされているのか知りもしない顔をして。

「その爪で? 俺の背番号のユニフォーム着たりするんか」
「うん。いつもそうじゃん」

 ――そうだ。いつも、そうだ。
 彼女は何か用事があるかよほど遠い場所での試合でない限り、試合観戦にやってくる。特に本拠地での試合を欠かしたことはない。いつも、俺と同じ背番号のレプリカユニフォームを着て、バレー観戦が趣味の友人なんていないくせに、たったひとりで、広い体育館の観客席で俺を見ている。
 顔を見れなくなって、俯いた。でも、手は離したくなかった。

「……喧嘩したのに?」
「喧嘩なんていつものことでしょ。来てほしくないの?」

 いつものことと括ってしまえる喧嘩ではなかった。そう言ってやりたかったのに、試合に来てほしくないのかと聞かれると否定できず、黙ってかぶりを振る。彼女はようやく、いつもと違う俺の様子に気づいたらしく、言葉を重ねるのをやめて沈黙で促した。きつく握った手の中で、彼女の指先がかすかに握り返すような動きをする。
 なまえのやることなすこと、自分の中の不安を取り除いていって、思うままになまえを抱き締めてしまいたくさせる。けれど、鼓膜の奥までこびりついたあの言葉は消えなかった。あんなことを言っておいて、何事もなかったような顔をしている彼女のことを許せない、と場違いな腹立たしさがくすぶる。

「……やって、俺みたいな奴とはこの先やっていかれへんて、言うたやん」

 子どもみたいな言い分だと自分でもわかるから、彼女の肩口に顔を埋めるようにして小さく呟いた。責められるようなことしたのは自分の方なのに、逆に責めてしまう俺に、彼女は「言ったけど……」と唸るようにして考え込む。

「別れるとかそういうのは考えてなくて……もしかしてもう別れてる?」
「わ、別れてへんわ!」

 彼女のおそろしい言葉に、俯いた顔を思わず上げて「不吉なこと言うなや!」と続ける。顔を合わせたら、それを言われるんじゃないかと恐れていた言葉だ。噛みつくようにすぐさま否定すると、彼女は俺のあまりの勢いに少し身体をのけ反らせた。ギャンギャンと喚く俺を見つめる名前は、怒っているような、困っているような、少し笑っているような、複雑な表情をしている。
 まっすぐ向けられる視線が、焦げ茶色の瞳が、ゆらゆらと揺れているのを見ていると、なまえがちゃんと俺のことを見ていてくれているのだとわかるような気がして、じわじわと喉の奥が狭まっていくような錯覚を覚えた。その喉で息を吸うと、当たり前みたいに震えてしまって、息を止めたくなる。

「……俺は、」

 繋いでいた両手を、もう一度強く握り直した。震える声を聞いて、やわらかく細くなる瞳が眩しい。

「俺は、この先もおまえと別れるつもりない」

 この手を離すつもりも、この目に他の人間を映すつもりもない。だって、どんなときだって当たり前に俺を見ていてくれる人を、ほかに知らない。

「世話焼いてほしくておまえと付き合っとるわけちゃうし……ちゃんと、好きやから付き合うとる」
「……ほんと? お手伝いさんみたいに思ってない?」
「そんなん思っとるわけない!」

 ほとんど彼女のセリフに被せるような勢いに、ついになまえは息を溢して笑った。それから、手を握られたまま一歩近寄って、胸元へ額を押し付けてくる。じんわり伝わってくる熱と、鼻先をかすめるいつものシャンプーの匂いに、握っていた手を離してぎゅっと全身を抱きしめた。簡単に腕が一周してしまう肩の狭さに堪らなくなって、大きく息を吸って、吐く。

「……すまんかった。せやから、いつかは終わるみたいな言い方せんといて」

 静かに背中に回ってきた腕が、やわらかい力で抱きしめてくれる。身長差を埋めるように丸くなった背中を撫でていく指の先に、自分の「13」のしるしがあるのだと思うと、行く先に敵はいないような気がした。
 まだ少し冷たい髪の毛に頬擦りをして、小さく聞こえてくる声に耳をすませる。

「……わたしも、ごめん」
「……ん」
「侑のために何かやるのが嫌なわけじゃないよ」
「わかっとる」
「疲れてて、八つ当たりしちゃった。ごめんね」
「……謝らんでや」

 まだ離れたくはなかったが、あとひとつ言っておかなければならない。そっと抱きしめていた肩に手を添えて、身体を離しながら彼女の顔を覗き込む。じっと見つめられる視線を受けて、丸くなる瞳がかわいかった。

「……あとな?」
「なに?」
「……あんましサムんとこ行くなや」
「えっ、おにぎりおいしいもん。行くよ」

 かわいいはずなのに、俺の渾身のおねがいには見向きもせず、けろっとした顔をするのだから憎たらしい。すぐさま「嫌や!」と喚いて、これでもかと力を込めて抱き締めると、今度は「ぐえ」と蛙みたいなかわいくない声をあげる。懲りずにわがまま放題してしまうけれど、きっとなまえは仕方ないとまあるい溜息を吐いてから、「じゃあ一緒に行こ」と笑ってくれるに違いないのだ。

爪の先まで染まる

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