外は雪が積もって、冷たい空気が身体を芯まで冷やしていく。廃墟同然の寮は、隙間風が入り込む場所もあり、お世辞にも快適な暮らしとは言い難かったけれど、それでも暖炉の火は暖かいし、すっかり住み慣れてしまって居心地の良さすらあった。その寮を出て、学園へ向かう。生徒たちのほとんどが実家へ帰省してしまって、いつもはうるさいくらいに賑やかな道のりも、しんと静まり返っていた。
昨夜遅くまで、古い長編アニメーションに釘付けだったグリムは、まだベッドの中だ。毛布にくるまって出てこないので、今日の暖炉の番は監督生ひとりきり。暖炉の番といっても、校舎の裏の小屋から薪を持ってきて、大食堂の暖炉に放り込むだけの役目だ。監督生とグリムがスカラビア寮から戻れない間は、ゴーストたちが肩代わりしてくれていたが、元々は自分たちが任された役目なのだから、サボるわけにはいかない。
「――ジャミル先輩?」
校舎裏の小屋から薪を抱え、大食堂に入ったところで、人影に気づいた。大きなフードをすっぽりと被った後ろ姿。思わず声をかけると、振り返ったその人は涼しげな視線をこちらへ寄越した。
「ああ、君か」
ジャミルは大食堂の厨房に一番近いテーブルで、本を広げている。立ち止まった拍子に、グルグル巻きにしてきたマフラーの片端が監督生の肩から垂れた。デュースからお古を譲ってもらったマフラーは、フェルトが少し痛んでいたけれど、厚手で暖かく、気に入っている。
「どうしたんですか。お昼の準備にはまだ早いんじゃ」
「もう少ししたら寮の連中が来て支度を始める。それまでは俺の好きにしてるだけさ」
監督生から視線を外して、再び本の中に目を向けるジャミルの方へ数歩歩み寄る。本はどうやらジャーナル誌で、どこかの国の情勢を記した記事のようだった。おそらくは熱砂の国周辺のことを記したもので、ジャミルは普段からこうやって周辺国の情勢を把握しているのだろう。国の有権者を守る立場として、関係諸国の動きを認識しておくのは重要なことなのだ。監督生は、自分とそう変わらない年のジャミルが、こうやって学生らしからぬ習慣を身につけていることに、感心するのと同時に少しだけ寂しいような気持ちを覚えた。先日の、ジャミルのあの叫びを聞いていたから、なおさら。
「……勉強ですか?」
「別に、勉強というほどじゃない。君こそ、今日はひとりか?」
「はい、グリムは寝坊で」
そう言うと、ジャミルはぴくりと眉を動かして、すぐに元に戻した。その後、短く息を吐いて、たっぷりと息を吸い込む。
「……そうか。君も大変だな」
今度は監督生がぴくりと反応する番だった。「君も」というジャミルの言葉には、その裏側にジャミル自身の苦労が垣間見えて、自動的にカリムの姿も浮かんでくる。それなのに、ジャミルの声色はひどく平坦だった。それを聞いてとっさに、自分でも何を言うつもりなのかわからないまま、監督生は何か言おうと息を吸う。
「あ、」
するとその微かな振動で、監督生が抱えていた薪の山の天辺に積んであった一本が、乾いた音を立てて石畳の上へ落下した。監督生とジャミル以外に誰もいない大食堂に、その音は広く反響する。とっさに薪を拾おうと屈みかける監督生を、ジャミルが伸ばした手が制した。
「待て、俺が拾う。屈むと崩すぞ」
「……ありがとうございます」
「いい。暖炉だろう、行こう」
雑誌を閉じて立ち上がり、監督生の代わりに落ちた薪を拾ったジャミルは、監督生を促して背を向けた。監督生も黙ってついていくが、会話はない。ジャミルが持っている薪を暖炉に放り込んで、パチパチと火が弾ける音がしっかりと聞こえるくらい、静かだった。
監督生は、スカラビア寮で行われたホリデーパーティーからこっち、ジャミルに会っておらず、なんとなく会話を切り出せない。というのも、そのホリデーパーティーの後、監督生は熱を出して二日ほど寝込んでいたのだ。あの騒動の際、ジャミルに吹き飛ばされた時空の果てで、極寒のなか水に濡れる羽目になったからだ。監督生が寝込んでいる間、グリムがジャミルに文句を言いにいくという建前でスカラビア寮へ食事をねだりに行っていたから、きっとジャミルも監督生が寝込んでいたことは知っているだろう。
監督生は抱えた薪を暖炉のそばの石畳に下ろした。屈むと、抱えていた薪が雪崩のように崩れてしまったので、やはりさっきはジャミルに薪を拾ってもらって正解だったと安堵する。屈んだまま、転がった薪を数本手に取り、暖炉の中にいる火の妖精に差し出すように放った。暖炉の中を眺めるふりをして、隣に立つジャミルの横顔を伺うと、ジャミルは真っ直ぐに暖炉の火を見つめている。どことなく、力ない眼差しに見えた。
「……寮に、居づらかったりしますか?」
「……よくズケズケと聞けるな」
暖炉に向けていた視線を監督生へ向けたときには、その眼差しは、よく見る呆れを含んだものに変わっていた。監督生の言葉は、あの――ジャミルが己の願望のために寮全体を巻き込み、寮長でありジャミルの主人でもあるカリムを裏切ったあの騒動――を経て、ジャミルが寮のなかで複雑な立場にいることを知ったうえでの発言だ。いっそ感心するほど清々しくて、ジャミルは気構えるのを忘れてしまう。
監督生はそんなジャミルのことを知っているのかいないのか、なんの気もなしに、首を傾げた。
「今更気をつかっても仕方ないかと思って」
「さすが、人の計画をぶち壊しにした張本人は言うことが違う」
おもわず、ジャミルは笑ってしまった。言葉自体は刺のあるものだったけれど、自らそれを口にできるジャミルになんとなく安心して、監督生も笑ってその言葉を受け止めた。
ジャミルは監督生に倣うようにその場へ屈み、足元に散らばる薪を暖炉へ放りながら呟いた。変わらず平坦な声だった。
「寮に居づらいと思ったことはない。カリムはまあ、相変わらずだし、俺も結局手を焼いてしまっているところもある。周りの連中に気をつかわせているところはあるかもしれないが」
学園の空調や、厨房の火など、学園内の熱に関する一切の動力を賄っているこの暖炉には、火の妖精が住み着いていて、その妖精の力で学園の快適な空間は保たれていた。コンロの火とは異なり、暖炉の火は赤や橙色に色を変えながら揺らめいて、発光している。その火を見つめるジャミルの瞳は、淡い闇色をしているのに、その奥にはゆらゆらと揺れる影が見えて、それがただ火を映したものなのか、ジャミルの瞳が揺れているのか、監督生にはわからない。そしてジャミルは静かに目を閉じた。
「……俺は仕事をするだけさ」
それきり、ジャミルは口を噤んでしまって、パチパチという火の弾ける音だけが二人の間に響いていた。監督生は何か言わなければと口を開いたが、言葉よりも先に、くう、と仔犬の鳴き声のような音がして、時が一瞬止まるように錯覚する。すぐさま、監督生はその音を発した自分の腹に手をやって、ジャミルに目配せをした。
「あはは、おなかすいちゃいました」
「空気を読まないな。まあいい、もうすぐ支度を始めるから、君もうちで食べていったらどうだ」
「え、いいんですか」
「構わない。食事ができるまで時間がある。グリムを起こして連れてくるといい」
立ち上がりながらそう言ったジャミルの言葉に甘えて、監督生はスカラビアに厄介になることにした。このウィンターホリデーの期間で、随分と熱砂の国の食事を口にしてきたけれど、独自のスパイスを使うものばかりの料理のはずなのに、飽きる気配は一向にない。複数のスパイスを使い分けて飽きのこない料理を作るのも、ジャミルの手腕なのだろう。
ジャミルの言葉の通り、一度オンボロ寮に戻った監督生は、まだ毛布の中にくるまっていたグリムを起こし、再び学園の大食堂へ向かう。すでに食事の支度にかかっていたジャミルやスカラビア寮生たちの手伝いをして、出来上がった昼食と一緒にスカラビア寮へたどり着くと、待ち構えていたカリムは監督生とグリムを見て、「来てくれたのか!」と嬉しそうに迎えた。何度となく宴を開き、客人を招いているというのに、いつだってカリムは、来てくれて本当に嬉しいのだという顔をする。その奥に佇むジャミルは特に何も言わずに、はしゃぐカリムと迎えられる監督生たちを眺めていたけれど、その瞳が何を思っているのか、監督生に読み取ることはできなかった。
昼食をたらふく食べたあとにもかかわらず、カリムは監督生とグリムに、夕食もぜひスカラビア寮で食べていってほしいと言って、宴だと笑った。合宿期間中ずっとスカラビア寮に滞在していた監督生たち相手に今更宴も何もないと、監督生は当然遠慮をする。だが意外なことにジャミルが、パレードみたいなもてなしは論外だと切り捨てたうえで、残っている寮生全員分の食事を作るのだから食べるのが一人と一匹増えたところで変わらないと言って頷くので、監督生は夕食までスカラビア寮に留まることにした。
あの騒動の後、残りのウィンターホリデーの期間を実家で過ごしたいと言って帰省した者以外の寮生は、寮内で思い思いに過ごしていたが、食事だけは皆一緒にとっているらしい。単純にその方が効率的だからだそうだ。昼食の後、監督生はそういったスカラビア寮のことやアジーム家でのことを話すカリムの声に耳を傾けていた。談話室には、上等な布に繊細な刺繍を施されたクッションがたくさん用意されて、それに囲まれていると、昼食後の満腹感も相まってだんだんと眠くなってくる(グリムはとっくに夢の中だ)。そしてそれは、話をしているカリムも同じようだった。
「――で、うちでは虎を飼ってて、すごく懐いて、可愛いんだ」
「虎って懐くんですか? 噛まれたりとか……」
「オレと、世話係の人間にしか懐かなくて、前にジャミルが……」
「……カリム先輩?」
いつも、目を離せば躍り出しそうに溌剌としているカリムの声が、ふわふわと覚束なくなって、途切れ途切れになっていく。ついに次の言葉が聞こえなくなったカリムの方を監督生が伺おうとしたタイミングで、監督生の左肩にカリムの銀糸が触れたのがわかった。カリムは、カリムと監督生が背もたれにしていた大きなクッションから滑り落ちるようにして、監督生の肩にもたれかかっている。耳元で、くうくうと安らかな寝息だけが聞こえた。
笑っているか、駆けているかの姿ばかりが思い浮かぶカリムの珍しい姿に、監督生はすぐそばにあるカリムの顔をまじまじと見つめてしまう。睫毛までが髪と揃いの白銀をしていて、その見慣れない色彩にしばらく呼吸が止まった。
「カリム」
カリムとグリムの寝息以外に無音だと思われていた空間で、思いの外すぐそばから聞こえた声に、監督生はおもわず飛び上がりそうになる。その拍子に、目の奥に溜まっていた眠気も吹き飛んでしまった。カリムが寄りかかっている方とは逆側の背後から、監督生の視界に姿を表したジャミルは、手にガラス製のティーポットとカップを乗せたトレーを持っていて、じっとこちらを、監督生の肩で眠っているカリムを見つめている。
「あ、ジャミル先輩。カリム先輩寝ちゃって」
監督生が慌てて背筋を伸ばすと、支えられていた肩が動いて一瞬カリムが身じろぎした。しかし、カリムは目を覚ますことなく再びそこへ収まる。その様子を見たジャミルは深くため息を吐いて、やっと監督生へ視線を移した。
「すまないな。今起こす」
「いいですよ、このままで」
ジャミルは監督生とカリムが座っている広い絨毯の上に持っていたトレーを置いて、カリムの肩を揺すろうと手を伸ばすが、それを監督生が止める。怪訝そうな視線を向けるジャミルに苦笑を返して、再び左肩のカリムを見つめた。
今しがた眠ったばかりだし、カリムの体重はほとんど背中のクッションにかかっているからそれほど重くはない。それに、監督生は先ほどの会話の中で、カリムがこうなる理由を聞いていた。だから、起こしてしまうのは忍びなかったのだ。
「昨日、遅くまで勉強してたみたいですよ」
ジャミルはその言葉を聞いて、自分の指先がぴくりと反応するのを感じた。監督生が言うには、カリムは昨晩、いつもなら眠っている時間を使って勉強をしていたという。ジャミルと対等な友人になりたいから、自分にできることはやりたいのだと、そう語っていたカリムのことを話す監督生は、まるで母親みたいな顔をしている。
「頑張ってるんですね、カリム先輩」
喉の奥を、氷が通っていくような、煮湯がのぼってくるような、不可解な感覚がジャミルを襲った。監督生のカリムを見る視線も、声色も、強く吹けば消えそうなくらいに細く柔らかい温度をしているのに、ジャミルにとってそれは、肺を凍らせるほどに冷たく、肌を焼くほどに熱く思えたのだ。ジャミルは息を止めた唇を動かさないまま、血をなくしたように冷え切った指を握る。
自分はこれまで、どれだけの力を身につけても、努力を示しても認められなかったのに、カリムはたったこれだけのことで認められるのか。それは今までに感じてきたジャミルの失望そのものであったし、それを与えるのがジャミルの本心を暴かせた監督生であるという自覚が、余計にジャミルを苛んだ。
止めていた息を、そっと吸う。恐ろしいほどに落ち着いていて、でもジャミル自身も自分が何を言うかわからなかった。
「少し夜更かしした程度だろう。そのうえこんなふうに寝こけて、それで『頑張ってる』なんておめでたいな」
ジャミルはわざと、嘲笑うように言った。そのあからさまな様子に、驚いて目を丸くする監督生は、すぐにジャミルの言わんとすることを理解して、けれど、言葉を撤回することはない。
「頑張ったことには変わりないですから」
監督生は、ジャミルの鋭い眼差しを受けても、吐きかけるような言葉を浴びても、ジャミルの望まない言葉を生み続ける。
「そういうの、ジャミル先輩が一番わかるんじゃないですか?」
自分のことを慮るような言葉に、ジャミルは胃の中を切りつけられたような痛みを覚えた。よりにもよって、自分に「それ」を説くのかと、叫び出したくなる。喉の奥から絞り出したジャミルの声は、憎しみを込めるように低く、けれど泣きそうに震えていた。
「――お前に何がわかる」
監督生の穏やかな声が、ジャミルにはまるで同情の言葉のように聞こえる。そうではないことは、ジャミルにだってわかっているのに、ジャミルを作り上げるこれまでの記憶が、監督生の裏を持たない言葉を受け入れることを許さないのだ。だから、ジャミルは首を振って否定する。
同情されたいわけじゃない。ただ認められたいだけだ。自分の力を、願いを、何者にも阻まれることなく示したいだけだ。そんな自分の努力と、願うまでもなく与えられてきたカリムのそれとを一括りにされたくはない。なのに、自分を頼ることなく一人で立とうとするカリムを見ていると、どうしてか何も言えなくなる。我慢することは、もうやめたはずなのに。
「……わたしには、わからないですけど」
何がわかる、と突き放すジャミルの言葉に、監督生はようやく、傷ついた顔をした。ジャミルはその顔を見て、やっと呼吸ができたように感じる。自分の中で蛇がとぐろを巻くように這いずっているフラストレーションを監督生にぶつけなければ、何かに敗北してしまうような気がしたからだ。だから監督生が一瞬息をのんで、ジャミルの視線から逃れ、ジャミルの言葉に頷いたことで、それを遂げられたと安堵した。
しかし、すぐにそれは間違いだったと知る。
「ジャミル先輩に、わからないわけないから」
ジャミルの発した言葉で張り詰めてしまった空気にそっと流れ込むように、ぽつりと、雨粒が落ちるようなわずかな呟きがこぼされた。呟きながら伏せた視線を持ち上げた監督生は、眉を下げて笑っている。ジャミルの言葉に自分自身は傷つけられながら、それでもジャミルに語りかけるのだ。
結果に結びつかなくても、誰かに認められなくても、その人が得たものや持っている力が損なわれることはない。そんなことは、ジャミルが一番わかっていることだった。自分には力があるのだと言い聞かせていなければ、今までの十七年間を耐えられなかっただろう。けれどそれは、たやすく他人に開け渡せる部分ではないのだ。
自分のことを理解して欲しいと願いながら、奥底を覗かれるのはおそろしかった。そんな自分の身勝手に、ジャミルは見ないふりをする。監督生の言葉が、そんな自分を許す言葉のように聞こえてしまいそうだなんて、気付いてはいけない。
「……馬鹿にしてるのか、君やカリムと一緒にするな」
ジャミルの口から出てくるのは、捻くれた言葉だけだ。わずかに唇を尖らせるようにしているジャミルの、険しくて少し気まずそうな顔を見て、監督生はおもわず笑ってしまう。
「怖い顔」
「……は?」
まるで揶揄するような監督生の言葉に、ジャミルはすっとんきょうな声をあげた。つい先ほど、ジャミルから冷たい言葉をかけられ傷ついていたくせに、こんなふうに何もなかったような笑顔を向けてくる。ジャミルがオーバーブロットを起こして、酷い目に遭わされたくせに、それまでと何も変わらない態度を見せたあのときと同じだ。ジャミルには、理解できない。
「いいですね。こっちのほうが」
目を細めて、口角を上げて、力の抜けたまま監督生に釘付けになるジャミルを見つめて笑う監督生のことを、理解できなかった。
監督生の言う「こっち」というのがなんなのかはわかっている。従順で寡黙な目立たない従者より、捻くれて狡猾な我の強いジャミル・バイパーの方がいいと言うのだ。その言葉にはなんの裏もないとわかっているから、いつも何か含んだような顔をしているオクタヴィネルの連中よりもずっとたちが悪い。もしかしたらカリムと似たようなものかと思ったが、ジャミルを見てしたり顔をする監督生は頭は悪くないようだし、すっかりこの学園に染まって悪人面が似合うようになった。ジャミルはその悪人もどきに一度敗北し、そして今もう一度、負けたような気分を味わされている。勝ちを譲ることはあんなに我慢ならなかったというのに、それとは少し違う、浮ついた心地だ。
ジャミルが用意してきたジャスミンティーはすっかり冷めてしまっていたが、ジャミルはその冷めたジャスミンティーを監督生と自分の二人分をカップに注いだ。喉が渇いていたから、身体に染み込むように感じる。監督生は、ぬるくなって大してうまくもないジャスミンティーを「おいしい」と言って笑うので、そんなわけはないと思いながら、ジャミルは「当然だ」と言って、少しだけ笑った。
浮遊するランプのゆらゆらとした明かりのなかでジャミルは、よく寝るな、と半ば感心した心地でその一人と一匹を見下ろした。カリムとグリムは、談話室の絨毯の上でマンカラを挟み向かい合うようにしながら、ふたりともうつ伏せになって眠っている。
昼間、監督生とジャミルの話がひと段落したタイミングで計ったように目を覚ましたカリムとグリムは、昼寝をしただけ体力を回復したのか、再び夕食の支度が整うまで遊び回り、夕食が用意されるとデザートまでしっかりと平げ、今度はマンカラに興じていたようだった。昼間の熱気が嘘のような冷たい風が吹いてきたので、ジャミルが温かい飲み物を淹れて戻ってきた頃には、もうふたりは夢の中だったのである。それまでそばでふたりがマンカラをしているのを見ていた監督生は、自分の膝掛けをグリムへ掛けてやっていた。ジャミルも、談話室に準備されているブランケットを取り、カリムの肩へ掛けた。何も考えていなさそうな安らかな寝顔に、ため息が出る。
「遊びながら寝るなんて、子供か」
「あはは、グリムとか本当にそうかも」
呆れたジャミルの言葉に、監督生は笑いながら同意をする。眠っているふたりに気をつかってか、微かに聞こえるくらいの小さな笑い声は、ジャミルの耳をくすぐるように落ちていった。ジャミルはその声をしっかり拾いながら、監督生との間に少し隙間を開けて座り、ティーポットから二つのカップに飲み物を注いでいく。昼間と同じ、ジャスミンティーだった。今度は淹れたての温度を保ったまま。これならば今度は文句なしにうまいだろう、とジャミルはほくそ笑む。
「今日は泊まっていくんだろう。部屋を貸すから、君もこれを飲んだらもう寝ろ」
差し出されたカップを両手で受け取り、監督生は湯気をくゆらせたそれに二・三度息を吹きかけてから、そっと口へ運んだ。喉を滑っていく液体が、そこからじんわりと体を温める。それはとてもおいしかったけれど、昼間に飲んだジャスミンティーの方がもっとおいしかったと監督生はひそかに思っていた。すっかり冷めてしまっていたそれは、たしかに今飲んでいるものより香りが薄かったが、そのときのジャミルのことを監督生はすぐにでも思い出せる。いつも力の入った柳眉が穏やかに下がって、薄ぺらい唇は少し不格好に綻んで、その瞳には、星がよく映るのだろうと思った。だから、あのときのジャスミンティーの味を、監督生は忘れられないでいる。
「――ジャミル先輩、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「マンカラを教えてほしくて」
唐突にそんなことを言う監督生に、ジャミルは一瞬思考を止めて、すぐに眉をしかめた。たしか、合宿の際にオクタヴィネルのアズールとフロイドにマンカラを教えてほしいと言われたとき、監督生やグリムもいたはずだが、監督生はゲームをしているところを見ているばかりで、実際にゲームをしていたわけではなかった気がする。監督生もマンカラをやってみたかったということなのかもしれないが、「もう寝ろ」と言ったジャミルの言葉をすっかり無視するので、ジャミルは大きくため息を吐いた。
「……そんなことをして俺になんの得が?」
「聞きたいことがあるならいつでもどうぞって言ってたのに」
「それは勉強の話だろう。マンカラは勉強じゃない」
監督生は食い下がるが、ジャミルは頷かない。仕方なく、監督生はあの話をすることにする。
「ジャミル先輩に吹き飛ばされて、風邪ひいちゃったのに免じて。どうです?」
そう言ってから、監督生は肩を竦めて、わざとらしく唇を弓形にした。ジャミルは、つり目がちの三白眼を目一杯見開いて、しばらく言葉を失う。
ジャミルは、ホリデーパーティーの後、監督生が風邪をひいて数日寝込んだことを知っていた。オアシスで水に濡れたのが良くなかったのかと思っていたが、昼の砂漠の熱気は、濡れた服などすぐに乾かしてしまう。あれで風邪をひくとは考えにくい。考え込んでいるジャミルを見て、なぜか気まずそうな顔をするカリムに話を聞こうとしたところで、グリムがやってきたのだ。グリムは、オーバーブロットを起こしたジャミルが監督生たちを時空の果てへ吹き飛ばし、そこからスカラビア寮へ戻ってくるために、極寒のなか水に濡れざるを得なかったと話した。だから監督生が風邪をひいたのはジャミルのせいだと文句を言いにきたのだった。オーバーブロットを起こしていたときの記憶は曖昧で、しかも自分がいない場所でのことなんて知るはずもない。だが、ジャミルのせいだと言われれば、その通りなのだろう。その後ジャミルはグリムの食事と、簡単な病人食を持たせ、グリムをオンボロ寮へ返した。ただ、それを直接監督生へ謝罪したりはしていない。
ジャミルはたっぷり十秒ほど沈黙した後、ため息を吐いた。ここ最近で、もっとも深いため息だった。
「……君は嫌なやつだな」
そうやって、憎まれ口を叩くことしかジャミルにはできない。計画を実行し、失敗に終わったうえ、オーバーブロットまで起こしてしまったが、ジャミルはそれを後悔していなかったからだ。自分がずっと抱えていた憤りを、これ以上抱え続けることはできなかった。カリムを裏切り、姑息な手で皆を騙して、無関係の監督生たちを巻き込んだとしても、ジャミルには必要なことだったのだ。だから、ジャミルは後悔しないし、誰にだって謝るつもりはない。
額に手を当てて肩を落とすジャミルを見て、監督生は変わらずにんまりと口角をあげている。ジャミルを責めない監督生に安堵すればいいのか、その笑顔を睨みつければいいのか、ジャミルはもやもやするような、くすぐったいような、不可解な感情を仕方なく飲み込んで頷いた。
「わかった」
ジャミルは、マンカラのボードの上に乗っているグリムの前足を指でそっと掬ってから退かし、自分と監督生の間にボードを引き寄せた。中途半端にゲームが進んでいた盤面から宝石をすべて下ろし、色とりどりの宝石を四つずつボードのポケットに入れていく。監督生は、ジャミルの指に転がされてゆく宝石の中を、オレンジ色のランプの光がちらちらと反射する様子をじっと眺めた。使われているのは、遊戯用にしてもよいくらいの価値の低い宝石だと教えられたけれど、ランプの明かりを集めて光る石の姿は、誰かの胸元で輝いていてもおかしくないほどに眩しく見える。カラン、コロン、と宝石が盤面を転がる音も、耳に心地よかった。
マンカラのルールは至極シンプルで、それゆえに単純な読み合いが勝敗を分けるゲームだ。監督生はベーシックな遊び方はすぐに覚えられたけれど、その手を打つとこうなる、すると次はこの手を打つしかなくなる、などとジャミルのレクチャーを受けながら、ジャミルがこの類のゲームで誰かに負ける想像ができないとぼんやり思う。アズール辺りとならいい勝負になるのだろうが、監督生ではまるで相手にならないだろう。なのに、「ほら、これで三回手番が取れる」と誘導してくれるジャミルの口元は笑んでいるのだ。その姿を見つめながら、監督生は「お前に何がわかる」と鋭い視線と言葉を向けてきたジャミルのことを思い出していた。
「……今日は楽しかったです」
監督生が唐突にそんなことを言うので、ジャミルは一瞬面食らって盤面を覗いていた視線を監督生へ向ける。するとすでにこちらを向いていた監督生の眼差しとかち合い、眼差しはジャミルのものと交わった途端に細くなっていくから、なんとなく見ていられなくて視線を外した。理由のない自分の行動に、ジャミルは口の中で小さく舌打ちをする。次に吐き出した言葉は、大層ぶっきらぼうな声をしていた。
「……それはよかった」
「マンカラ、教えてくれて嬉しかったです」
それはほとんど脅しのようなものだっただろうと短く息を吐きながら、摘んでいた宝石を適当なポケットへ放る。どうせこれは勝負ではない。互いの自陣に同じくらいの数の宝石が収まっている盤面を見ていると、ジャミルの頭の上へぽつりと声が落とされた。その声に、ジャミルは再び視線をあげる。
「嫌われちゃったかも、と思ってたから」
まるで、歌うような、星を数えるような声だった。しばし、その瞳に目を奪われる。すぐに、今日の昼間、ジャミルが「お前に何がわかる」と監督生を拒絶したときのことを言っているのだとわかった。
ジャミルは、まるで別人を見ているような気分になる。気をつかうのも今更だと言ってのけたり、故意に傷つける言葉を使っても後には引かなかったり、こちらの後ろめたいことを引き合いに願いを叶えさせたりするくせに、今度はこんな顔をして見せるのだ。先ほどの憎らしいしたり顔が、今はジャミルに嫌われたくないのだと力なく笑っている。途方もない何かがジャミルを支配して、目眩を起こしそうだ。
「……今更、嫌うも何もない」
そう言うのがやっとだった。監督生本人にはそんなつもりはないのに、いちいち振り回されてしまう自分を、ジャミルは自覚している。けれど今は、振り回されてきたこれまでよりずっと気分が良かった。監督生の眼差しや言葉にそこかしこを引っ掻き回されて、譲れない部分と後ろめたさを抱えているのが、ジャミルだけではないとわかったから。
監督生に、自分の言葉は届いていないのではないかと思っていた。巻き込んでも傷つけても、何もなかったように笑いかけてくるから、ジャミルが突き刺したはずの言葉は、歯を立てずにすり抜けたまま消えてしまったのだろうかと、悔しかった。監督生の言葉は、ジャミルに突き刺さったまま、今でも抜けずに熱を持ったままなのに。
「それに、君が言ったんだろう」
「え?」
「『こっちのほうがいい』と言ったろ」
ジャミルに刺さったまま抜けない、監督生の言葉うちのひとつを繰り返す。監督生は、一瞬キョトンとしたあと、照れ臭いような、嬉しくてたまらないような、なんとも言えない顔をした。それを見ていると、突き刺さっていたそれが抜けていくのを感じる。ただ、抜け去ってしまって痛みが消えても、熱は残ったままだった。熱いような、生ぬるいような熱だ。それが自分の中のどこかにあるのを感じながら、ジャミルはようやく長い呼吸をする。
「今日はこれで終わりにしよう。もう遅い」
「……また教えてくれますか?」
「もうルールは覚えたろう」
ジャミルは盤面にバラバラに散っている宝石を片側の陣へ寄せ、ボードを折りたたんでから側面に付いている金具を噛み合わせた。それから、じっと監督生を見つめて、片側の眉と口角をつり上げる。
「次は、勝負だな」
わかりやすく意地悪な顔をするジャミルは、どこか機嫌が良さそうだ。監督生はその理由に気付かないまま、結果のわかりきった勝負の話をするジャミルに唇を尖らせる。
「……ジャミル先輩に勝てるわけないのに」
「当たり前だ」
ジャミルはフン、と鼻で笑うようにして、肩を竦めた。監督生はぶつくさ文句を言いながら、ブランケットごと眠るグリムを抱き上げている。ジャミルも、カリムの肩を揺すって、寝床へ着かせる支度を始めた。
――ジャミルはひとつ、嘘をついていた。監督生は、自分がジャミルに勝てるわけがないと言ったけれど、ジャミルはそうは思わない。ジャミルは、監督生に勝ったと言える自分をイメージできないでいた。魔法も使えず、力もない。特別頭脳が優秀なわけでもない、ただの女だ。そのただの女に、優秀な魔法士であるはずのジャミルは、どうしてか勝てるとは思えないのだった。
その翌日も、監督生はスカラビア寮を訪れた。昨日の同じように暖炉に薪を入れる為に大食堂を訪れるとそこにはジャミルがいて、そのまま昼食に誘われて、夕食時までとどまっている。特にオンボロ寮に戻らなければならない理由はないし、なんならスカラビア寮の方が快適だ。監督生とグリムは、カリムとマンカラを楽しんだり、宿題で手付かずになっている応用問題をジャミルに教わったりして、なんでもない一日を過ごす(勉強を教わっているとき、グリムは眠っていた)。
今日の夕食のメインはタンドリーチキンだった。ジャミルの料理の腕は相変わらずたしかで、監督生は自分がこのツイステッドワンダーランドに来る前から数えても、一番美味しいタンドリーチキンだと何度も頷いた。ジャミルはそれを聞いても特別な反応はしていなかったが、後片付けを手伝おうとした監督生に、「君は座っていろ、片付け終わったらデザートを用意してやる」と言っていたので、まんざらでもなかったのだろう。
そのデザートを平らげた後、ジャミルが貯蔵庫の中を確認してくると席を外したタイミングで、カリムが「なあ!」と監督生へ声をかける。夜だというのに、瞳は太陽みたいにきらめいていた。
「今日は空がよく晴れてる。散歩に行ってみないか」
「散歩? 砂漠をですか?」
「空を、だ! 魔法の絨毯、もう一度乗ってみたくないか?」
魔法の絨毯、という言葉に、監督生はわっと声をあげる。スカラビアを初めて訪れた日の夜、ほとんど無理やり絨毯に乗せられ、夜空を渡ったときのことは今でもよく覚えていた。監督生は魔法が使えないので、当然だがそれまで空を飛ぶという経験をしたことがなかった。体力育成の授業の、飛行術のカリキュラムの日も、グリムが身体の大きさに似合わないほうきに跨って空をくるくると舞うのを眺めるだけだ。だから、魔法の絨毯に乗って夜空を飛んだとき、本当に嬉しかったのだ。
「乗ってみたいです。グリムも行く?」
「オレサマは絨毯なんかなくても飛べるけど、子分のために付き合ってやってもいいんだゾ」
「ふふ、ありがとう」
「グリムは優しいな! じゃあ行こう!」
得意げな顔をするグリムと、グリムの言葉を真に受けるカリムを見ていると、平和だなあと思う。いつもならこういうとき、エースが「そんなこと言って、絨毯に乗ってみたいだけのくせに」と一言多いことを言って口論になるのが常なので、賑やかな日常を思い出して監督生はこっそりと笑みをもらした。
宝物庫から魔法の絨毯を連れ出し、ご機嫌そうに四隅の房を揺らす絨毯にそっと乗り上げる。絨毯に乗る際、手をとってくれていたカリムも絨毯に飛び乗り、二人と一匹を乗せていても重力を感じさせない軽やかさで浮遊する絨毯は、カリムの合図で空を滑り出した。カリムの言うとおり空はよく晴れて、スカラビア寮から離れ、寮の明かりが見えなくなっても、十分な星明かりで輝いている。
「わあ、やっぱりすごい」
「だよな! 何度見てもきれいだろ」
上にも下にも星が敷き詰められたような空を渡りながら、息を漏らす監督生を嬉しそうにカリムは眺めた。監督生には、このウィンターホリデーの期間、本当に助けられた。何かお礼をしたいと思っていたけれど、カリムの知る客人へのもてなしは、監督生が困ったように笑って首を振るから仕方なく諦めた。監督生は何度も食事をご馳走になっているから十分だと言うけれど、それはジャミルがしてくれていることで、カリム自身ができることではない。そのとき、魔法の絨毯で監督生と空の散歩をしたときのことを思い出したのだ。空にいくつも瞬いている星みたいに監督生の瞳が輝くのを見て、カリムは心の底から嬉しくなる。人が喜んでくれているのを見るのが、カリムは一番嬉しい。本当だ。
ただ、カリムが本当にそう思っていることでも、他の誰かにとってはそうではないこともあるのだと、知ったのだ。一番大事な友人のことを、思う。
「……悩みは、なくなりましたか」
「ん? 悩み?」
さっきまで夜空を見ながらはしゃいでいた監督生が、いつの間にかカリムを覗き込んでいるので、少し驚いた。監督生とカリムの間に座っているグリムも、監督生に倣うようにしてカリムの方を見ている。
「空を飛んでると、悩みなんかどうでもよくなるんでしょう?」
それは、初めて監督生と魔法の絨毯に乗っていたとき、カリムが言った言葉だった。その言葉に、グリムが「コイツに悩みがあるようには見えねえんだゾ」と言って、監督生は「こら」とグリムを叱る。まるで親子のやりとりを見ているようで、自分のことを言われているのに、カリムは微笑ましい気持ちになった。
カリムを見る監督生の眼差しが、細く柔らかくなってゆくのを見ながら、ジャミルのことを思い出す。ジャミルがそうやって笑ってくれていたことは、本当なんだ。
「……そうだな」
カリムは返事をしながら目を閉じる。耳元で風を切る音がして、星が瞬く音もするような気がした。
「オレ、本当に思ってたんだ。ジャミルはもっと気楽に生きればいいって」
眉を寄せて、涼しげな表情をしかめながら、仕方ないなと言ってカリムをいつも助けてくれる大事な友人。仕事熱心で、心配症で、そんなジャミルに、もっと自由に好きなように生きていてほしかった。本当だ。
「そうできなくさせてたのがオレだったなんて、考えもしなかった」
本当に、本当で、だから悲しくて、嬉しくもあった。カリムのそばで過ごしていたジャミルが自分を偽って生きていたことが悲しくて、それを知れたことが嬉しい。ジャミルがカリムのことを裏切ったのだとしても、嫌っているのだとしても、カリムのためにしてくれたことは消えてなくならない。だから、カリムにとってジャミルは変わらず大事な友人であり続ける。ジャミルがそれを望まなかったとしても。
「最近のジャミルは、すげー意地悪なんだぜ」
少し眉を下げながら、でも嬉しそうに、カリムは笑った。指を折るようにして、ジャミルの意地悪を上げていく。カリムの好き嫌い関係なく食事を作ること、カリムの勉強を見ていて、何度も同じところでつまずくとすごく怖い顔すること。これまでの、カリムのやることを最後は許していたジャミルとは違うけれど、カリムはそれが嬉しい。少しは、ジャミルの好きなように生きられる世界になっているのだろうかと、考える。
「ジャミルのそういう顔見てると、こういうのが友達なのかなって思うんだよな」
監督生が優しい顔をするから、またジャミルの望まないことを望んでしまう。「こんなこと言うとまた、友達じゃないって怒るんだろうけどな」と笑うカリムに、監督生は何も言わないが、笑顔も崩れなかった。
カリムとジャミルはちぐはぐなのかもしれないけれど、カリムはそれを正すことも、その正体を明らかにすることもしない。難しいことを考えていると、眠くなるのだ。
「これ、秘密な」
「はい、秘密にします」
頷き合うカリムと監督生を尻目に、秘密の対価にツナ缶をよこせとグリムが言って、監督生はまたグリムを「こら」と叱った。カリムも再び笑う。一番大事な友人にも秘密の内緒話を、共有できる友人が一人と一匹いる。それだけでカリムは、目の前に広がる夜空より、大きなものを手に入れたような心地がした。
ジャミルが仕事を片付けて談話室へ戻ると、そこには誰もいなかった。カリムの姿が見えないことに多少の焦りはあったけれど、カリムがジャミルのいぬ間にどこかへ駆け出してしまうのはいつものことだったし、またカリムが何かを思いついて、監督生を付き合わせているのだろうと想像がついた。宝物庫を覗いたら、案の定魔法の絨毯がいなくなっていて、絨毯で空を飛び回っているのだろうとすぐにわかった。
わかっていたのに、ジャミルはわかっていなかったのだ。カリムと監督生が、隣に並んで微笑み合っている光景を見て、自分がどうなるのか、わかっていなかった。
寮を一周して談話室に戻ってきたジャミルの視線の先に、二人はいた。半分屋外になっている談話室からつながるバルコニーに、音もなく魔法の絨毯が滑り込んでくる。カリムが先に飛び降りて、グリムがそれに続いた。そして最後、絨毯の上に残された監督生へ、カリムが手を差し出すのだ。月明かりがバルコニーを白く照らして、重なり合う二人のてのひらがよく見えた。まるでどこかの物語を切り取ったような光景に、ジャミルの唇は冷たく乾いていく。
――どうして、俺が欲しいものばかり。そんな、子どもみたいなことを考えた。
理由はわからないけれど、なぜかその光景を見ていられなくて、「やめろ」と声を上げてしまいたくなる。でも、ジャミルはそうできなかった。もう我慢することはやめたはずで、抑圧されていたものから解放されたはずだった。なのに、ジャミルは無意識に自分の衝動を押さえつける。
手枷は外れて、足枷が取れても、足元に散らばる鎖から逃れることが、まだうまくできない。呪われているみたいだ。ジャミルは、不自然なほどに静まりかえった頭の隅で、そう思った。
「ジャミル!」
砂漠の夜に不釣り合いな声がジャミルを呼んで、ハッとした。カリムがいつもの何も考えていなさそうな顔でこちらへ駆け寄って、その後ろを監督生とグリムと、魔法の絨毯がついてきている。もう、カリムと監督生の手は触れていなかった。カリムは絨毯から降りる際に監督生に手を貸していただけなのだから、当然だ。考えなくたってわかるようなことが目にとまって、頭から離れなくなる。自分のことなのに、自分では制御できない感覚は未知で、だから不快だ。
ジャミルは被っていた寮服のフードに隠れるように俯く。長い前髪がゆらりと視界を覆った。
「……もう遅いぞ、カリム。早く寝ろ」
「ああ、そうだな! じゃあ監督生、おやすみ」
「おやすみなさい。グリム、大人しくしててよ」
「もう寝るだけなのに大袈裟なんだゾ」
素直に頷いて自分の部屋へ向かうカリムに、魔法の絨毯と、そしてなぜかグリムまでもがついて行く。魔法の絨毯は、宝物庫へ戻っていくのだろうけれど、グリムがカリムと一緒に行くのはどうしたことだろうか。じっとグリムを見つめていたジャミルの視線に気付いた監督生が、申し訳なさそうに眉を下げる。
「グリム、さっきカリム先輩のベッドがすごく大きくて天蓋付きだって聞いて、そこで寝てみたいって言い出しちゃって……大丈夫でしょうか」
「ああ、そういう……グリムなら別に問題ない」
監督生の言葉にジャミルは頷いた。グリムも言っていたとおりもう寝るだけなのだし、何かあったとしても前髪が焦げるくらいだろう。それに、グリムがこの場にいない方が都合がいい。ジャミルはそう考えながら、談話室からカリムたちの姿が見えなくなるのを待った。魔法の絨毯の端が、ゆらりと海洋生物のように宙を泳いで柱の影に消えていくのを見届けてから、その視線を監督生を移す。フードの下から覗く瞳が、キロ、と光るようだった。
「……カリムと何を話してた」
瞬きも忘れて、ジャミルはじっと監督生を見つめる。監督生の挙動から、すべてを見透かしてやろうと思っていた。優しく目を細めるのか、おかしそうに唇を緩ませるのか、それとも。いくつかの予測をして、そのどれであっても、きっと自分は気に入らないのだろうとわかっていた。そして監督生は笑う。
「秘密です」
ジャミルの視線を受け止めたまま、監督生はこともなげに言う。当たり前のように、ジャミルが一番不愉快な選択をするのだ。表情を変えることなく、ジャミルは力一杯奥歯を噛み締める。そして砂漠の夜の底のようにどこまでも暗く冷たい瞳で、夢想するのだ。
――たとえば、この女を丸呑みにしたとする。
そうすれば、外から誰が手を伸ばそうとその手は届くことはなく、どんなに監督生が外に出たいと嘆こうとその術はない。ただジャミルの腹の中で、溶けゆくのを待つだけだ。そうしていつか、ジャミルだけのものになる。
現実になどなりようもない、愚かな想像だ。ジャミルは、こうしてありもしない想像にふける自分自身のことも、自分の腹の中をひっかき回す監督生のことも、憎くてたまらなくなる。いっそのこと、その瞳を見つめて、頭を垂れよとささやいて、お前は自らジャミルの手を取るのだと命じてやりたかった。そうすれば、ジャミルの中のカリムへの羨望も、監督生への憧憬も、消えるのかもしれない。
「……ジャミル先輩?」
フードと前髪に隠される瞳を覗き込むようにして、監督生はジャミルを見つめる。監督生の瞳は、一遍の陰りもなく澄んで、見つめているジャミルの姿が映ってしまいそうだ。その瞳の中に映る自分はどんな顔をしているのだろうかと思うと、ジャミルは目を逸らさずにはいられなくなる。
監督生にジャミルを選ばせるには、瞳の奥を覗かなければならないのに、ジャミルにはそれができない。監督生を見る自分の表情を知ることは、ジャミルの中にある感情に名前をつけることと等しく、監督生の自我を殺して自分を選ばせることは、ジャミルの中にある願いに反することだからだ。
「……どうしました?」
二律背反する感情で、今にも頭の中が焼き切れそうなジャミルのことなど知りもしない監督生は、まっすぐにジャミルの瞳を覗き込む。ジャミルだけが持つ魔法も、それを発動させるための条件も、魔法の類いに耐性のない監督生の抵抗など意味をなさないことも、すべて知っているのに。
「……君は、どうして、俺の目を見れる?」
砂漠の夜に染み入るような、静かな声だった。監督生の視線から逃れるように顔を逸らしたジャミルは、一度だけ小さい舌打ちをする。ジャミルの魔法を知っているのなら、ジャミルと目を合わせていて、視線を逸らしたくなるのは目を合わせている相手側のはずだ。ジャミルはいつも、じっと静かに相手の心の隙を探っている。
なのに、どうしてだ? 相手はジャミルから目を逸らすどころか、星が映りこみそうなまっすぐな目でジャミルを見つめている。その視線から逃げているのは、ジャミルのほうだ。
「俺がこの魔法で何をしたか知っているだろう。君みたいな魔法も使えない人間、どうとでもできる」
「そうですね、何度かかけられてますし」
「それならなぜ、俺の目を見ていられる?」
憎々しげに言葉を吐くジャミルと対照的に、監督生はまるで思い出話をするみたいにあっけらかんとしている。なぜ、と問うジャミルに、しばし宙を仰ぐように視線を泳がせた。柔らかく細まるその瞳は、何を思うのだろう。ジャミルは、それに焦がれる。
「……わたしに、無理やりひどいことをさせる人だとは思いませんから」
歌うような、星を数えるような声だ。前にも聞いたことがある。空気が喉の奥を通り過ぎて、身体中に酸素が巡っていく感覚がした。監督生は「それに」と、いたずらに首を傾げる。
「ハンサムだって褒めるくらいなら、操られてなくたってできます」
「……馬鹿だな」
本当に、馬鹿だ。なんの関係もないことに巻き込んで、命すら危うい目に遭わせた人間を、許すような言葉をかける。そうされることで、一方的にエゴをぶつけたこちら側がどんなに惨めな思いをするか、考えもしない。
けれど、何よりも一番憎いのは、その言葉にまんまと救われてしまう、自分自身だ。
ジャミルは半ば諦めるような心地で、息を吐く。ゆったりとした足取りで談話室を通り抜け、バルコニーへおりた。空は今にも星が降ってきそうに晴れ渡って、その代わり、地平線はまるで底なしの海のように暗く、静かだ。後ろから自分を追ってくる足音がして、そこに監督生がいることがわかる。バルコニーの手すりに上半身を預け、宙を仰いだ。
「……絨毯に乗って見る空はきれいだろう」
「はい、とっても」
ジャミルも、その光景は何度か見たことがあった。カリムと二人で乗った絨毯の上で、自分がカリムの従者でなかったならと考えて、けれどそうでなければ、自分はここにはいないのだろうと思ったことを思い出す。
静かな目で宙を見上げているジャミルの横に並んだ監督生は、手すりに寄りかかりながら、ジャミルに倣うようにして、先ほどまで魔法の絨毯に乗って漂っていた夜空を見上げた。
「でもわたし、箒に乗って見る空も見てみたいです」
「箒? 乗ったことがないのか」
思いがけない言葉に、ジャミルは首を傾げる。普段、体力育成の授業などで箒を使うことも多いが、魔法力のない監督生はたしかに箒に乗ることはできないだろう。魔法が使えないことなど考えたこともないジャミルには、思いもつかない。
「ジャミル先輩、お願いがあるんですけど」
「……なんだ」
「箒の後ろに乗せてくれませんか」
監督生の「お願い」はこれで二回目だった。前回のマンカラも、今回の箒に乗りたいという願いも、ジャミルに言わせれば些細なものだ。けれど、監督生にとってはきっとそうではないのだろう。ジャミルに「お願い」をする監督生の瞳を見ると、そう思えてくる。その瞳がまばたきをすると、星が瞬く音が聞こえるような気がした。
まるで星みたいに、ジャミルを見つめる瞳が瞬いているように見えるのは、その瞳が星を映しているからというだけの理由ではないのだ。ジャミルはそれを自覚して、そしてようやく、自分の中にある願いの名前を知る。
「すごい、本当に箒が飛ぶんだ」
――はしゃいだ声が、耳と、監督生が寄り添っている背中を伝って響いて、どうにも落ち着かない。
監督生の願いを聞き入れたジャミルは、箒に跨がる自分の後ろに監督生を乗せ、空を浮遊した。倉庫から箒を一本持ち出して、自分が跨ってから箒の編み上げ部分に監督生を座らせ、その腕を自分の腹部にまわさせてから、バルコニーの床を蹴る。申し訳程度にまわっていた腕の力が、足が地面から離れた途端、きゅっと強くなるのには気付かないふりをした。
わあ、と感嘆の息を漏らす監督生の姿に、ジャミルは浮き足立ってしまいそうになるが、なんとか堪える。
「さっきまで絨毯で飛んでおいて、よく言う」
「だって、やっぱり箒は特別です。魔法使いみたい」
「だって」「魔法使い」なんて子どもみたいな言い方がくすぐったかった。否、この世界ではただの子どもだって魔法士のことを魔法使いだなんて言わない。魔法士に囲まれた生活をしているくせに、そんな無邪気な反応をする監督生に、ジャミルはその部分も浮遊しているのだろうかと思うほど、胃のあたりがふわふわと浮つくのを感じる。
耳元で風を切る音がして、その風はひどく冷たいのに、頬に当たる風だけはそうとは感じなかった。普段と同じように呼吸をしているのに、どうしてか息が苦しい。その理由のすべてに監督生がいることには、もうとっくに気がついていた。そのうえ、その理由の奥底にある自らの願いにも気がついてしまったから、自分の身体が訴える衝動を理解はしても、どう対処すればいいのかわからないのだ。
一人であれやこれやと考えるジャミルの背中から、監督生の声が聞こえた。それはひっそりと、静かな音をしていたけれど、風の音よりもジャミル自身の鼓動の音よりも、クリアにジャミルの耳へ届く。
「――カリム先輩と話していたことですけど」
箒の柄を掴むジャミルの手がびくりと震える。先ほど、ジャミルが監督生にカリムとのことを聞いたときは「秘密」だと言っていたから、無理やり記憶の底に押し込めていた。せっかく見えなくしていたのに、わざわざ掘り起こして広げて見せる監督生に、ジャミルはなんの返事もできない。返事を求めていないのか、監督生は気にせず言葉を続けた。
「もし分かり合えなくても、分かり合えないことがわかったら、変わることもあるんじゃないかって思います」
ひどく曖昧な、まるで謎かけみたいなことを言う。ジャミルには、それが何のことを言っているのかすぐにわかった。けれど、やはり返すべき言葉は持っていないし、今はまだ見つけようとも思わなかったから、ただ黙って空気を飲み込むことにする。そして同時に呆れた。ジャミルに寄り添うような言葉をかけても、それを真っ直ぐに受け取れないジャミルに突き放されて傷ついたのはつい昨日のことだというのに、懲りずにこうやって首を突っ込んでくる。ジャミルは深いため息をついた。
「……秘密なんじゃなかったのか」
「これはカリム先輩じゃなくて、わたしが思ったことですから。カリム先輩の言ってたことは秘密です」
含み笑いをするように息をこぼす監督生は、ただのお人好しのようでいて、そうではない。一歩踏み込んできたと思えば、さっと引いていって、寄せて返すのを眺めていれば、いつの間にか飲み込まれていたりする。
ジャミルが、お前に何がわかると言ったとき、監督生は寂しげに、自分にはわからないけれどと笑った。わからなくても、傷つけられても、わかろうとしてくれているのだろうか。ジャミルは、それが自分に都合のいい想像であることを自覚して、それでも、それに答えを出そうとはしなかった。
「……戻ろう。また風邪をひかせるわけにはいかない」
「ええ、もうですか」
「また乗せてやるから」
言いながら、ジャミルは箒の柄をぎゅっと握り直して大きく旋回する。ジャミルの腹部にまわっている監督生の手が冷たくなっているのを感じていた。また箒に乗せてやることを約束して、談話室のバルコニーへ戻ることにする。バルコニーへ降り立って、浮遊感に足元をふらつかせる監督生へ、ジャミルは手を貸してやった。ふと、カリムが同じようにそうしていたことが脳裏をよぎって、監督生の手に少しだけ力を込める。やはり、手は冷たかった。
「部屋までかけていくといい。寒かったろ」
そう言って、ジャミルは談話室に用意してあったブランケットを広げ、監督生の身体へ巻きつけるようにして羽織らせる。監督生はブランケットの合わせを両手で引き寄せて、それにくるまるようにしてから、ジャミルを見上げた。
「ジャミル先輩、お願いがあるんですけど」
じっとジャミルを見つめてくる監督生に、ジャミルは目をぱちくりとして、二・三度まばたきをした。
「またか」
「お願いはこれで最後にします」
これで、三度目の「お願い」だ。一度目は、マンカラを教えてほしいというもので、二度目は箒に乗せてほしいというものだった。そして、これが最後の「お願い」なのだと監督生は静かに笑う。
一度目のときも、二度目のときも、ジャミルは監督生の願いをそのとおり聞き届けた。でもそこで、願いを叶えられたような、何かを得たような気になっていたのは、本当は自分の方だったのかもしれない。ジャミルは、監督生の願いを叶えるたび、自分の中でふくらむ熱と、星の瞬きのような光が生まれることを知っていた。そして、これ以上自分の中に未知のものが流れ込んでくるのがおそろしかった。
監督生はいつかの、「今のジャミルの方がいい」と言っていたときと同じように、目を細める。ジャミルは、もういっそのこと、そのまま流されてしまってもいいのかもしれないと、どこか遠いところで思った。
「ジャミル先輩の願い事を、わたしに叶えさせてください」
小さくて静かで、耳をそばだてなければ聞こえないような声なのに、ジャミルはおもわず息を止めてしまう。
「……は、」
やはり、与えられるのは、未知の感覚だ。自分の口からこぼれた呟きは尻切れに消えていって、何度頭で繰り返しても理解ができない。
監督生は、ジャミルの願いを叶えることが、自分の願いだと言った。おかしいだろ、とジャミルは頭の中で詰る。自分の願いを、誰かの願い事を叶えるために使うなんて、馬鹿みたいだ。だというのに、その馬鹿な願いを、監督生は淀みのない表情で突きつける。
「わたしにできることなら、なんでも叶えますよ」
「……君に、叶えられることなんて、俺にできないわけないだろ」
「なんでもいいんですよ。使い走りにしてくれても、カリム先輩のことでも……」
「やめてくれ」
おもわず首を振って拒絶した。監督生の口からカリムの名前が出てくることも、今は耐えられなかった。先ほど、魔法の絨毯から降りてくる二人の姿を見ていたときは何も言えなかったことを思い出す。
もう自分を縛るものは何もないのだと知っていても、まだうまくできない。それでも決めたのだ。遠慮も我慢もしないと、もう何も譲らないと決めた。
「……なんでも、と言ったな」
「はい、わたしにできることなら」
善良で、愚かで、たぶん少し馬鹿だ。だから自分のような、狡猾な人間にいいように使われる。ジャミルはそう思いながら、監督生が自分にいいように使われた試しなど、今の今まで一度だってなかったことを思い出すのだ。面白いくらいに振り回されて、たったの一度だって勝てないのは、紛れもなくジャミルの方だった。
息を吸い込む喉も、そこから吐き出される声も、何もかもが震えている。でも、監督生がそんな目をするから、それを言ったって許されるような気がしてしまうのだ。
「……俺を」
だから、願わずにはいられない。ジャミルの中に生まれた、一番くだらなくて幼稚な、でも大事な願いだ。
「俺を、好きになってくれ」
その願いの名前を呼ぶ。監督生の瞳に映る星に願うように、そっと呟いた。
「カリムよりも、俺を」
――カリムよりも、他の誰よりも、自分を一番に、君の意思で、選んでほしい。それが、ジャミルの願いだ。
ひとつの願いというには強欲で、身勝手だ。願いを叶えようとする監督生に、「監督生の意思で」選ばれたいだなんてたちが悪い。それでも、これがジャミルの願いなのだ。誰かに、ジャミルの魔法にだって強いられることのない、混じりけのない本物が、自分だけに与えられたならどんなに満ち足りるだろうかと夢を見ている。
「……それって告白ですか」
「……それ以外の何に聞こえるんだ」
ぽかんとした顔をする監督生に、ジャミルは苛立たしげに言葉を吐いた。そうするしか、自分の願いをあけすけにしてしまったことへの焦りを誤魔化せなかったから。焦りだけではない。羞恥心とか、無力感とか、嫉妬心だってそうだ。そういう色んなものが綯い交ぜで、ぐちゃぐちゃになって、自分でも見たことのない色をしている。
黙って唇を噛むジャミルを尻目に、監督生は小さく笑い声をこぼした。
「そんなの、お願いにならないです」
そう言って一度俯いた監督生は、ブランケットの両端を握っている手をぎゅっと握り直して、小さく深呼吸をする。それから再びジャミルを見上げて、その瞳は揺れているように見えた。
「ジャミル先輩には、とっくに気付かれてると思ってました」
「……何を?」
「わたしがジャミル先輩をどう思ってるか」
監督生はそう言って笑うけれど、ジャミルには理解が追いつかない。ジャミルは、自分が引っ掻きまわされることにしか気をやる余裕がなくて、監督生がいつもあっけらかんとしているのを憎らしく思っていたくらいだ。
たった一度、監督生がジャミルに嫌われたのではないかと危惧するような言葉を口にしたとき、ジャミルは目眩を起こしそうな心地に襲われた。そして今もう一度、監督生の頬が、ランプの光とは違う色に染まっているのを見て、喉の奥が狭くなるような錯覚を覚える。まるで血が逆流しているみたいに、全身が熱くて、鼓動が早い。
「ジャミル先輩が好きだから、わたしがジャミル先輩の願い事を叶えたかったんですよ」
聞いたことがある声だ。歌うような、星を数えるような。その声が向けられているものに、心から焦がれた。監督生の瞳が、ジャミルを映したまま細くなっていく。今ならばその瞳に映る自分の姿を見るのがおそろしくないのは、監督生の声と瞳が向けられるものが、もしかしたら、ジャミル自身なのではないかと思ってしまっているからだ。
君を、丸呑みにしたい。そうすれば、外から誰が手を伸ばそうとその手は届くことはなく、どんなに監督生が外に出たいと嘆こうとその術はない。ただジャミルの腹の中で、溶けゆくのを待つだけだ。そうしていつか、ジャミルだけのものになる――そう思っていたのに。そんなふうにして誰も触るなと喚かなくても、監督生の自我を殺してしまわなくても、監督生自身の意思で、自分のことを選んでくれると言うのだろうか。
途方もない、圧倒的な感情に促されるように、吐き出した言葉は、熱く、震える。
「きみが好きだ」
押し寄せてくる波に、息をするのがやっとだ。足元から立ち昇る震えに、もう立ってはいられなくて、倒れ込むようにして目の前の身体に縋りつく。薄く、頼りない背中を強く強く抱いた。
そうしていないと、砂漠の夜の中に落ちてしまいそうだったから。