その人は、わたしを見つけるといつも、新しいおもちゃを見つけたような顔をする。それは、単に好意の表れなのかもしれないし、本当に「おもちゃ」を見つけたと思っているのかもしれない。前者なのだとしたら、飛び上がって喜んで、すぐにでもグリムを抱きしめてしまいたくなるけれど、後者なのだとしたらそうはいかない。もしもその人に面と向かってわたしは「おもちゃ」なのだと言われたら、きっとそのままへたり込んで、本当にものも言えない置き物みたいになってしまうだろう。だから、そうなるのが恐ろしくて、わたしはいつまでもその人にソレを聞くことができないでいる。
「オレ、小エビちゃん好き」
昼時の大食堂の喧騒が遠ざかっていくように錯覚する。その錯覚を起こさせる言葉を口にしたその人は、肩口から無理やりわたしの視界に入り込むように首を傾げた。一房だけ色の違う髪が揺れて、わたしの肩は一瞬だけ震える。昼食にしていたクラブハウスサンドを飲み込んだあとでよかった。心底そう思う。飲み込む前に聞いていたら、喉に詰まらせてそのまま呼吸が止まってしまっていただろうから。
「……そう、ですか」
「あー、なにその反応。つまんな」
左右で色の違う瞳を怪訝そうに細めて、彼は言葉の通り、つまらなそうに口を尖らせる。わたしはなにも答えられなくて、必死に作り笑いで取り繕うと、彼はぱっと顔を背けて、「もーいいや。じゃあね〜」と大食堂の奥の方へ行ってしまった。足が長いから、すぐにその姿は遠くなる。おもわず、喉の奥から重苦しいため息が溢れた。
「……おまえ、告られてんじゃん」
向かいの席で、フロイド先輩がいる間は息を殺すように気配をなくしていたエースがにやりと口角を吊り上げる。嫌なやつだな。
同じバスケ部の先輩のフロイド先輩には、部活の先輩だということ、それと先日のイソギンチャク事件のこともあって、極力目をつけられたくないのだそうだ。そういえば、エースはいつもフロイド先輩とわたしが話しているときは普段の騒がしさが嘘みたいに黙りこくっている。イソギンチャク事件がトラウマになっているのか、今は日直でここにはいないデュースとグリムもフロイド先輩――オクタヴィネルの三人にはあまり近寄りたくないらしい。つまり、自分が目をつけられないために、フロイド先輩の相手をわたしに押し付けているのだ。友達を売るなんてエースらしいといえばエースらしいけれど、次は絶対に巻き込んでやろうと決意する。
――それはそれとして。今はエースの発言とこのにやけ顔である。「告られてんじゃん」というエースの言葉と、先ほどの会話の流れで言われた「オレ、小エビちゃん好き」というフロイド先輩の言葉をつなぎ合わせた。たしかに、「好き」と言われたあれが「告白」と取られるのは、おかしなことではない。でも、違うのだ。
「あれは違うよ。たぶん」
「なんでわかんの?」
「だって、こんなところでこんなタイミングで告白する? ふつう」
「いやわかんないよ、フロイド先輩のやることだし」
「……そうだけど、違うよ」
クラブハウスサンドのもう一切れにかじりつく。トーストされたパンがザクザクで、みずみずしい野菜とカリカリのベーコン、柔らかくボイルされたターキーがたっぷり入って分厚いので、そう言ったきり、わたしはなにも言わずに咀嚼することに徹した。しばらく探るようにわたしを見ていたエースも、目をそらして机に頬杖をつく。
「――まあ、会うたびに言われてるもんな」
そう。そうなのだ。会うたびに、なにかしらの形でフロイド先輩はわたしを好きだと言う。そんな言葉に、特別な意味があるのだろうか。あの人の「好き」はきっと、わたしが期待しているような意味を持たない。わたしがクラブハウスサンドを好きだったり、フロイド先輩が気まぐれに参加する部活のバスケを好きだと言うのと、なにも変わらないのだろう。興味があるときもあるし、突如としてどうでもよくなったりもする。その程度のものなのだ。
フロイド先輩を知る人なら、誰でもこの考えに頷くはず。そうわかっているから、わたしはあの人に「好き」と言われるたびに感じる、チクチクと針を刺されるような痛みを隠していくしかないのだ。
わたしが、わたしの方だけが、「本当」にフロイド先輩のことを好きだなんて、気づかれてはいけない。
自分のことを「おもちゃ」なのだと思っていれば、好きな人から戯れに「好き」と言われたって別に辛くなったりしない――と、何度も目を瞑って言い聞かせたけれど、そんなことはなかった。だって、わたしは結局のところ「おもちゃ」ではないからだ。普通に感情があって、感情があるから期待もするし、期待をするから傷つく。
好きな人に「好き」と言われたら、どうしたって心臓はきゅっと締めつけられるし、その瞳が細くなるのを見たら、トクトクと鼓動が駆けていってしまう。そんな夢見心地な気分を自分で台無しにしなければならないのは、ひどく痛いことだった。でも、何度だって自分の頬を打って、目を覚まさなくては。
もっと、ずっと、痛くなってしまう前に。
「あ、いたあ。小エビちゃん」
――ああまた、夢かな。
放課後になって、日課になっている授業の予習復習をするため、ひとりで図書館を訪れていた。机に向かうわたしの頭上から降りかかる声に首をひねると、視界を塞ぐように、その人の姿が覆いかぶさっていた。一瞬止まってしまった息を、静かに、気づかれないように、細く細く吐き出す。フロイド先輩は、目が合うとご機嫌そうに笑って、わたしが座っているところの隣の椅子を引いて座った。この学校の図書館にある机や椅子は、とても重厚な作りをしているのに、彼が軽々と扱っているのを見るとそうは思えなくなる。机の下にしまうには長い足は少し窮屈そうで、身体を半分こちらへ向けるようにして座っていた。
「フロイド先輩、どうしました?」
「べつに? なんもないけど」
「……えっと、部活あったんじゃないんですか?」
「あったけど〜、飽きた」
フロイド先輩は、いつものブレザーではなく、ラフな運動着を着ていた。学校指定の、オクタヴィネルカラーのTシャツではないものだ。部活の練習着だから、厳密には決められていないのかもしれない。部活をするための格好をしているくせに、その部活に飽きたので抜けてきたと言う彼は、大きな身体を折り曲げるようにして、机にうつ伏せになる。そして顔だけをこちらに向けて、目尻を緩ませるのだ。
「カニちゃんから、小エビちゃんが図書館いるって聞いたから見に来ただけ」
この人は、こうやってまたわたしに傷をつけていく。わたしはその傷に耐えるのがやっとで、適切な――例えば、「そんなこと言って、部活をサボる口実でしょ?」とか、そういう返事もできない。ただ黙り込んで、息を止めて、フロイド先輩の真っ直ぐな視線から逃げることしか。
なにも言わないわたしに、フロイド先輩は不満そうな声で返事を促す。
「だめなの?」
「いえ、だめとかでは……」
彼の言うことに、嘘はない。フロイド先輩は、突飛な考えをする人だけれど、その考えをあえて偽ったりしない。思ったことは、その通り口にする。だから、彼が「わたしに会いにきた」と言うのなら、それは間違いなく事実なのだ。だから、素直にそのことを喜べばいいのに、わたしにはそれができない。わたしはフロイド先輩のことが好きだから、ただその事実だけでは、満足できないのだ。
「……どうしてかなって」
ポツリと、水滴を落とすような小さな声で呟いた。彼に問い詰めたいことは、結局そこに集約される。どうして、会うたびに声をかけてくれるの。どうして、わざわざわたしを探して会いにきてくれるの。
彼のことが好きだから、その行動に、理由が欲しい。そしてその理由が、わたしと同じものであれば、なんて、どうしようもない期待をしてしまう。
なにが返ってくるのかなんて、わかりきっているのに。
「だってオレ、小エビちゃんのこと好きだもん」
何度も、何度も何度も、聞いた言葉だ。
欲しくて欲しくてたまらない言葉のはずなのに、フロイド先輩の声でつくられるその言葉は、身体の奥の方に溜まって、積もって、どんどんと冷たくなっていく。好きだと言われて、笑ってもらえて、こんなにも嬉しいのに、これっぽっちも満たされない。わたしが、不相応で身勝手な期待を、一方的に彼に向けてしまっているからだ。
握っていたペンが汗で滑りそうだ。口の中で血の味がする。
「……なんでそんな顔すんの?」
視界に入り込んでくるフロイド先輩は眉を寄せていて、その視線は鋭い。うつ伏せる腕に隠れて、口元は微かにしか見えないけれど、きっとへの字になってしまっているだろう。
わたしが勝手な思いを抱いているばかりに、好きな人にまでこんな顔をさせてしまう。好意的な言葉をかけているのに、その反応がこれじゃああんまりだ。
訝しげな顔をするフロイド先輩に、なんとか笑顔を向ける。すっかり力が抜けてしまったから、笑顔を作るのは難しくなかった。
「……なんでもないです」
「うっそだあ。オレなんか変なこと言った?」
フロイド先輩の問いかけに、わたしは本当のことを返せない。自分もあなたのことが好きなのだと返せたら良かったけれど、彼と自分の気持ちは「同じ」ではないのに、「わたしも」だなんて言いたくはなかった。
いっそのこと、徹底的にふられてしまえば、みっともなく引きずっている自分の気持ちに、区切りをつけることができるのだろうか。
「……フロイド先輩の」
「うん?」
「フロイド先輩の『好き』って、どういう意味なんですか?」
顰めていた目元を、数度の瞬きのあと丸く見開いたフロイド先輩は、うつ伏せから半分だけ体を起こして、不可解そうに首を傾げた。
「え? フツーに好きってことだけど」
まるでわたしの方がおかしなことを言っているような口ぶりだ。でも、彼にとってはそうなんだろう。「好き」は「好き」で、他の何でもない。子供みたいに純真で無邪気で、だからこそ無遠慮に人を傷つけたりもする。そういう彼の危ういところも、わたしは好きだった。
だから、自分に向けられた「好き」が、彼にとっての自分が、面白いおもちゃなのか、ただの後輩なのか、それとも別の何かなのか、それを知りたい。
「……それって、あの」
「なに?」
「っと、友達として、というか」
「あ? なにもっとハッキリしゃべってよお」
フロイド先輩の目つきが再び鋭くなる。彼が煮えきらない物言いは嫌いだということは知っているけれど、どうしたってまごついてしまうし、緊張で息が苦しい。ふられることがわかっていて、それでも知りたくて聞いているはずなのに、わたしは懲りずに期待をしてしまっているらしい。
文句を言われたきり、言葉を続けられなくなったわたしに嫌気がさしたのか、フロイド先輩は再び机にべったりとうつ伏せた。今度は両腕を投げ出して、広い机なのに、手首から先は机の向こう側にぶら下がっている。
「小エビちゃんがなに聞きたいのか知んねえけどさあ、好きって言ったときいっつも微妙な顔すんのやめてくんない? 傷つくんですけどお」
えっ、と、声を上げそうになった。思いがけない言葉が聞こえた気がしたからだ。顔を伏せているフロイド先輩をまじまじと見ると、首を捻って、顔がこちらを向く。その視線は、鋭いものに変わりはなかったけれど、先ほどまでの怪訝そうなものとは違う。恨みがましそうな、まるで拗ねているみたいな、「傷ついている」みたいな。
身体を動かすときは外すのだというピアスのない耳の先が、ほんのり赤く染まっている。
「好きだから好きって言ってんの。どういう意味って、小エビちゃんが好きだからチューしたいよ〜の、好き」
わたしにとっては、決定的な言葉だった。人魚が、誰にだってキスをする種族ならば話は違うだろうけど、この話の流れで、理解ができないわけはなかった。だって、ずっと、期待をしてきたのだ。自分でその期待を打ち砕いては傷ついてきたけれど、それでも懲りずに、ずっと。フロイド先輩も、わたしのことを好きならいいのに、ずっと、そう思ってきた。
「……あ、会うたび、言ってきてたじゃないですか」
「え? だって好きって思ったから」
「ふろ、フロイド先輩はわたしのことおもちゃくらいにしか思ってないと、思って」
今まで何一つ聞けなかった代わりに、あれもこれもと問い詰めたくなる。これまで苛まれていたわたしの気持ちを思い知ればいいと詰りたくて、でも本当は、何か話していないと、こぼれそうだっただけだ。息を止めたら、きっとあふれてしまう。
震える声にはこれっぽっちも気づかずに、フロイド先輩はわたしの言葉を聞いて目を丸くした。
「おもちゃァ? たしかに小エビちゃんで遊ぶとおもしれーけど」
机を横断していた腕がするりと机の上を滑って、大きな身体がわずかに起き上がる。顔はこちらを向いたまま、そのまぶたが降りていくのが見えた。金とオリーブの両眼が白いまぶたに覆われていくのを目で追っている間に、それはすぐ近くまでやってきて、あっという間に、さらっていく。乾いた唇がただぺとりと、くっついて、そして離れていった。
「オレ、おもちゃにチューしたりしないよ」
鼻先が触れ合うくらいの距離でそう呟かれて、わたしはついに息を止めてしまう。そしてやっと気づくのだ。たとえおもちゃじゃなかったとして、それでもフロイド先輩に、わたしのことを好き勝手に遊ばれてしまうことに、きっと変わりはないのだ。