一日の最後の授業、特にそれが魔法薬学の授業だったときはひどく気が重い。すぐそこまで迫っている放課後が待ち遠しいのと、鼻を刺すみたいな薬品の匂いが服に染みついてうんざりするからだ。教壇にいるクルーウェルの話し振りにはもうだいぶ慣れたけれど、それでもこちらを仔犬呼ばわりされるとうまく集中できない(集中できないのはなにもこの授業だけではない)し、早く終われとそわそわして落ち着かない。
でもそれは、この授業が今日の最後の授業だからでも、魔法薬学が嫌いだからでもなかった。どちらかというと、魔法薬学の授業は実験みたいに手を動かせる分、座学の授業よりは楽しいし、授業が終わったところで今日の部活は休みだから、放課後に何か楽しみがあるわけでもない。でも、授業には集中できないし、そわそわする――いや、イライラするのだ。隣に座っている彼女の教壇を見つめる瞳が、調合に使う光る鉱石よりもずっと、きらきら光っているから。
オンボロ寮の監督生である彼女は、魔法薬学や錬金術の担当教員であり、自分たちの担任であるクルーウェルに、憧れみたいな気持ちを抱いているらしい。初めてそれを聞いたとき、自分は「教師と生徒はやべーだろ」と何も考えず声を上げて、彼女に無言で小突かれてしまった。「憧れ」とはいっても、彼女のそれは恋愛感情ではなく、大人の振る舞いに対する純粋な尊敬なのだそうだ。けれど自分には、その純粋な尊敬と恋愛感情の違いなんて、あってないようなものに思えてならない。だって、眩しいものを見つめるみたいに目を細めて、「クルーウェル先生ってかっこいいよね」なんて言って笑うのだ。それがたとえ、本当にただの「尊敬」なのだとしても、オレにとって面白くないものであることに変わりはなかった。
「よく出来ている。グッド・ガール」
自分とデュースの前にある小鍋の中にぽいぽいと材料を入れて適当にかき混ぜているうち、生徒たちの様子を見て回っているクルーウェルが近くまでやってきた。自分の隣――監督生とグリムが生成した薬品を見て、満足そうにそう評価する。そして、艶のある皮張りの手袋を付けた手で、彼女の髪を大きく混ぜるのだ。
クルーウェルは、生徒を褒めるときまるで犬にするみたいにぐしゃぐしゃと頭を撫でる。これは生徒が誰であっても同じだ。現に、彼女の次はグリムの毛並みを指先で撫ぜて、その部分はニワトリのとさかみたいに逆立っている。それに不満そうな声を上げるグリムとは正反対に、くすぐったそうに笑う監督生の喜びようったらない。自分の口が、ひとりでにムッと尖るのがわかる。
憧れだかなんだか知らねーけど、クルーウェルみたいな男に頭触られて嬉しいわけ?ていうかセクハラじゃね?監督生を睨みつけるけれど、ご機嫌な彼女はそんなことには気づきもしない。
「おいエース、これもう入れるぞ」
「それはまだ。ていうかお前は教科書の見てるページがそもそも違うから黙ってろ」
オレがデュースの相手をしている間に、クルーウェルは監督生とグリムの逆隣の生徒たちの方を指導しているようだが、監督生の視線はまだクルーウェルを追っていた。彼女の興味を逸らしたくて、監督生の前にある鍋を覗き込むように身を乗り出す。
「なあ監督生、ちょっと手順教えてよ」
「え、うん――っあ! エース、あぶな」
ようやく彼女の視線がこちらを向いたが、その目はオレの手元を見てハッと見開かれ、声を上げた。オレがその視線と声に気づくよりも先に、ガシャン、とガラスの破裂する音が実験室に響き渡る。
身を乗り出したとき、実験台の端のほうに置いておいた調合材料の薬品が入ったガラス瓶に、腕が当たって落下したのだ。うわやべ、と口走るが、オレが実験台の下を覗き込むよりも早く、目の前を何かの影が覆う。
「……この俺の靴を汚すとは、躾が必要か? エース・トラッポラ」
実験台には長い背板がついているから、自分たちにこぼれた薬品がかかることはなかったけれど、クルーウェルの足元には薬品が跳ねてしまっていたらしい。何よりも自分のファッションを重んじるクルーウェルの靴を汚したとあれば、ただでは済まないだろう。自分の喉から息の途切れる音が聞こえた気がした。これはまずい。
「罰として、全員分の実験道具の片付けをすること。一人でだ」
「ゲエ」
思わず、アマガエルの鳴き声みたいな、潰れた声をこぼしてしまう。魔法薬学の後片付けは、それはそれは面倒なのだ。薬品の調合に使う鍋やビーカーは、魔法薬が付着しているからそのまま水で洗い流すわけにはいかず、一度特別な薬品で中和させてから洗わなければならない。さらに洗ったものを拭いて棚に片付けてと、それをクラス全員分やるなんて、気が遠くなりそうだ。
「返事は?」
「……はーい」
「違うな」
「…………ワン」
「グッボーイ、よろしい」
隣でデュースが呆れたようなため息を吐いて、グリムが小馬鹿にするような顔で笑っているのが憎たらしい。いつもなら呆れるのも馬鹿にするのもオレの方だったはずなのに、この二人にそうされていることが余計に腹立たしいのだ。
気遣わしげな顔をする監督生の顔は、なんとなく見れそうにない。だって、クルーウェルを見ている彼女を振り向かせたくてした行動のせいで、よりによってクルーウェルに叱られる自分を見せることになってしまったのだ。
情けないのと腹立たしいのと、それからいつまでも消えやしないクルーウェルへの妬ましさは、鍋の中にあるグロテスクな色をした薬品とそっくりに、ぐつぐつと沸騰していた。
「あーくそ、むかつく」
ぶつくさと文句を言っても、それに返事をしてくれる相手はいない。けれど、愚痴を溢さずにもいられなくて、誰に聞かせるわけでもない恨み言を一人で呟きながら、慎重にマジカルペンを掲げた。すべての器具を種類ごとに分けて洗い場へ運び(めちゃくちゃ重い)、中和用の薬品と水とで二度洗いをする(めちゃくちゃめんどくさい)。あとは拭いて棚へ戻すだけだが、ひとつひとつ拭いていくなんて時間がいくらあっても足りないので、風の魔法で乾かすことにする。風の魔法は得意だけれど、慎重に威力を調整しなければいけない。それに浮遊魔法を複数の物に同時にかけるのはまだうまくいかないことが多いので、失敗して割ってしまう可能性を考えると、棚に戻すのは手作業の方が効率的だ。
残りの作業手順を反芻しながら、はあと吐き出した息は重い。マジカルペンから生み出される風が、ガラスについた水滴を少しずつ吹き飛ばしていく。
「エース、終わった?」
背後からかけられた声に振り返ると、実験室の入り口に実験着を脱いだ監督生が立っていた。少しだけ跳ねた肩を慌ててなだめる。実験台を避けながらこちらへ歩いてくる監督生の視線から逃げるように、振り向いた身体を元に戻して、再びマジカルペンを器具へ向けた。
「……もうちょいだけど。なに、手伝いに来てくれたわけ?」
自分の口から出てきた言葉は、予想よりずっと低く、優しくない声色をしている。なんでオレこんな不機嫌そうな言い方してんだろ。自分でも驚くくらいだ。
彼女がこうやって、自分の様子を見にきてくれて嬉しい。しかもデュースやグリムと一緒にではなく、彼女一人でやってきてくれたことが、からかい目的ではなく、オレへの純粋な気遣いを感じさせて、心臓がぎゅっと収縮するような心地がする。なのに、素直になれない自分の口は、こうやって素っ気ない言葉しか吐き出すことができないのだ。
そんなオレの後悔に気づきもしない監督生は、けろっとした顔でそばに寄ってきて、オレのマジカルペンから吐き出されるそよそよとした風を見つめている。
「手伝わないよ。先生、一人でやりなさいって言ってたでしょ」
監督生の、クルーウェルの肩を持つような言葉で、黒くてぐにゃぐにゃとしたものに腹の中を引っ掻き回されていく。べつに、監督生は先生を庇ったわけじゃない。ただオレが馬鹿をやって、罰掃除をさせられて、それをきちんと遂行させようとしているだけだ。そんなことはわかっているけれど、わかりたくない。
――なんだよ。手伝うよ、仕方ないなって言ってくれたっていいじゃん。
「……クルーウェル先生のどこがいいんだよ」
生徒のことを犬扱いする変人で、高飛車で、ドエスじゃん。今日のことだって、薬品がかかったくらい、あの人なら魔法ですぐに元通りにできるだろうし、そもそも実験の授業にあんな毛むくじゃらのコート着てテカテカの靴履いてくる方が悪いんだろ。
そう、頭の中で恨み言を唱えた。けれどそんなこと、クルーウェルに憧れている監督生に言えるわけがなくて、やっとの思いで呟いた言葉は、抑揚もなにもない。いつもと比べて、テンションが低いはずのオレのことなんか気にもせず、監督生は憧れの人について話せるのが嬉しい、と言わんばかりの顔をするのだ。
「わたしが女だってことを理由にしないし、でもちゃんと女の子扱いもしてくれるから、大人でかっこいいなって思うよ」
「……フーン」
相槌を打ってはみたけど、なにを言っているのかオレにはさっぱりわからない。女だということ考えないようにしたら女の子扱いなんてできないし、女の子扱いしようとすれば、こいつは女なんだからと色々なことを考え直さなければならなくなる。
それは、監督生の言葉の意味も、彼女の言うようなクルーウェルの言動も理解できないオレが、ただ子供で、ただ女心がわからないってだけなんだろう。でも、そんなオレにだってわかっていることがあるのだ。
「でもおまえ、女の子じゃん」
「……そうだけど」
マジカルペンを下ろして、隣にいる監督生の目をじっと見つめる。さっきまで目を合わせられなかった自分が嘘みたいに、真っ直ぐに。ぱちぱちと上下するまつげは上を向いて、まあるく切り開かれた瞳は淡く光ってビー玉みたいだ。
面と向かって「おまえは女だ」と言われた監督生は、まるで傷ついたみたいな顔をする。それだって、オレには意味がわからない。傷ついて伏せるまぶたも、拗ねて尖った唇も、当然だけどオレやデュースのするものとは全く違って、違うから、オレのことをこんなにもかき乱すのに。
「女だからとか、エースに言われると寂しいよ」
「……わっかんねーよ」
――うそだ。
本当は、オレにだってわかっている。監督生がオレたちに「女」だと言われたくない理由。彼女が、オレの視線に気づかないわけも、オレの不機嫌の理由を知ろうとしないわけも、いつもそばで笑うわけも。
全部、オレたちと友達のままいたいからだ。それは、オレの気持ちを察知して予防線を張っているとか、そういう話でもない。たった一人で知らない世界に迷い込んで、先のことはちっとも見えない。そんな不確かな自分の存在を、どうにかして確かなものにしたいから。
でも、ごめんな。
「オレにとっておまえは女なんだもん」
これはきっと自惚れじゃなく、オレたちはマブダチってやつで、お互いに大切な存在だ。けど、それだけじゃ足りないものをオレはもう持ってる。彼女の幼い憧れでさえ耐えられなくて、手放しで笑ってくれる今の関係を壊したとしても欲しいものを、見つけてしまった。
「デュースとかグリムと一緒には思えないし、他の男のこと褒められたらむかつく」
「……エース」
「わかれよ」
彼女こそ、オレのことをわかってない。そんな深いところまでわかろうとしていないのだから当然だろうか。でも、オレは彼女にわからせてやりたい。
肩の並ぶ距離を、少し詰める。今度は監督生の方が肩を跳ねさせた。今までは、なんでもない顔で自らそばに近寄ってきていたくせに。今更そんな反応したってもう許してやらない。
「おまえが好きだっつってんの」
不思議と、言葉はスムーズに流れた。ただ、告白だっていうのに、声はちっとも優しくなくて、温度もない。監督生は、驚きと、たぶん失望みたいなものがない混ぜになったような顔をしていて、さすがに心臓のある部分がちくちくと痛むのがわかる。
ごめんオレ、おまえのことなにも考えてやれないや。友達として、みんなの中のひとりになれることが、おまえにとってどれだけ安心で、居心地がいいかわかってる。けど、オレはそれを許せないのだ。
「オレといてもなんともない顔して、嬉しそうに他の男の話して、ふざけんなよ」
ガキくさい嫉妬も、オレの気持ちにいつまでたっても気づかない監督生への苛立ちも、全部ごちゃ混ぜになって吐き出した。監督生はきゅっと唇をつぐんで、かわいそうなくらい目を大きくして、オレの理不尽な焦燥を受け止めている。洗い場の淵に置いている手が、強く握られて白くなっているのが見えた。細く細く息を吸った彼女の喉が震えていて、こぼれてきた声もその通り震えている。
「……ごめん、わたし」
「……なに、オレのこと振るの」
「だって、エースは、最初の友達で」
その言葉を聞いて、心の底からのため息が溢れてくる。自分が、彼女の最初の友達としてよりどころになれているのは悪くないけれど、オレの欲しいものはそれじゃないからだ。
こちらのため息にもびくつくくらい、見たこともないほど弱りきった様子の彼女に、さっきまでの苛立ちに任せた衝動が消えていく。
「友達だったら好きになっちゃダメなのかよ」
「そうじゃないけど……」
声が震えていた。こちらを見上げてくる監督生は眉間にシワを寄せているけれど、瞳はゆらゆら揺れて、瞬きをするたびに目の際に水分が溜まっていく。もうほとんど泣いているくせに、まるで泣いてなんかいませんとでも言いたげにオレを睨みつけてくるのだから、たちが悪い。
「あーもう、泣くなよ」
本当は彼女の手を握って、抱きしめるくらいして思い知らせてやりたかったけれど、仕方なく監督生の頭に手を伸ばす。実験用の黒手袋を外した手で、間違ってもクルーウェルと同じにはならないように、髪の表面に滑らせるみたいにしてその髪を撫でた。
自分以外の男に憧れているなんて言われても、自分を少しも意識されなくて苛立っても、好きな女の子の泣いている姿には弱い。惚れてしまっているから、もう負けなのだ。
「わかった。いいよ。とりあえずは」
髪を撫でるオレの手にされるがままで、黙ってこちらを見上げてくる瞳は濡れている。あーあ、ずるいだろ。吐き出したくなるため息を飲み込んで、代わりに奥歯を噛み締めた。
仕方なく引き下がったオレの言葉に、監督生はあからさまにほっとしたような顔をして、息を吐く。その安心を壊したいし、その気の抜けた表情を崩したい。そう思うけれど、それは頭の中だけに留めておく。今のところは。
「……おまえは友達ヅラしときゃいいよ」
気が抜けたのか、彼女の顔から眉間のシワが消えて、代わりに目尻に溜まっていた涙がこぼれていった。涙が通っていった跡をなぞるようにして親指を擦り付けると、再び小さな唇にきゅっと力が入る。
本当なら、涙の跡ではなく、噛み締められたその唇に触れたかった。でも、今はそれでいい。今までのなにも考えていない顔じゃなく、伺うようにオレを見上げる彼女を見て、いい気味だ、と思う。
――おまえは、オレを友達だと思っててもいいよ。でも、
「オレは、頑張るから」
目を丸くして、少しだけ赤い頬の間抜け面が、どうにもかわいいと思ってしまう時点で、オレはもう「友達」には戻れないのだ。