01_prologue


1. prologue


空気がピンと張り澄まし、触れる風が涼しくなるこの季節が、とても好きだ。
早い時間から淡い色に変わり、冬が来ることを告げてくれる空……少し気の早い自分に苦笑しながらも、わたしは黄昏れた。
今日は10月1日だ。
昔から、この10月にはなにか特別なものを感じていた。どうして10月が好きなんだろうと、不思議だった。そんなのいまさらなんだけど……。
それはきっと、侑士先輩の誕生日月だからだ。そう、先輩とわたしは、運命だから!

「それは気のせいでしょ……」
「き、気のせいじゃないって! 本当に特別に思ってたし!」

教室で目を棒にして、千夏は「はいはい」とあしらった。
今月の後半にはいよいよ高校テニス大会があるため気合いを入れなくてはならない時期なのだけど、氷帝は中間考査期間であるため、部活は休み。それでもレギュラー陣は自由にテニスコートを使っていて、今日は先輩たちも練習に励んでいた。
『だったらわたしたち、教室で試験勉強してますね!』と送ったメッセージに、『伊織はえらいなあ。わからんとこあったら、遠慮なく聞いてや?』と、侑士先輩は優しいお返事をくれたの。が、このとおり勉強などまったくしていない。
「先輩、この問題わからないです」とか言ってみたいけど、バカだと思われたくないので、言ったこともない。先輩はときどき教えたそうにしているのだけど、それには気づかない振りをしている今日この頃である。

「忍足先輩と順調で、浮かれてんのはわかるよ。でもそんな気がするだけ。あんたが10月好きとか、あたしはじめて聞いたし。ほら、まさに気のせい」

わたしの親友は、最近ますます跡部先輩に似てきたと思う。前にも言ったとおり、千夏は跡部先輩に勉強を教えてもらうようになってから、しれっと成績をあげやがったうえに、最近、言うことも論理的になってきた。こういうのをロジカルハラスメントというのだ。まったくけしからん女である。

「本当に昔から好きだし!」
「わかったようるさいなあ……ってかさあ、おたくの彼氏はもとより、あたしの彼氏も10月なんですけど。てかあと数日ですよ」
「……ああ、そういえばそうだね」
「ちょっと、めちゃくちゃどうでもよさそうに言ってくれるじゃない」
「いやいやまさか。どうでもいいなんて思ってないよ。10月初旬はいつも戦争だもんね」
「今年は火曜か、疲れるな。って言ってたよ、景吾」

でしょうね、と、心のなかで賛同した。中1のころから見てきている10月4日(土日祝日の場合は前の平日になる。給料か)は、跡部先輩のお誕生日である。バレンタインデーも同様だが、氷帝学園だけでなく他校からもわんさか人が押しかけて来て、完全なお祭り状態なのだ……それが、今年は火曜らしい。跡部先輩としては嬉しい反面、多少はお疲れになるのだろう。週末が遠い火曜日だから、こちらはうんざりもしそうだ。
だってわたしたちは完全なる被害者なんです。ワールドカップがあるときの渋谷センター街状態なんだ。帰宅したいのに、正門にたどり着くまで20分かかる。いい加減にしてほしい。

「それで? 伊織はどうするの? 誕生日プレゼント」
「うーん、それなんだよねえ」

そう。そんなことよりも、愛しの侑士先輩は、もうすぐ18回目の誕生日を迎える。わたしの誕生日には、素敵な素敵な腕時計をくれた侑士先輩になにをあげたら喜んでくれるだろうって、このところずっと悩んでいるのだけど、決まらない。

「忍足先輩ってなにか好きなものないわけ?」
「あるよ、ほら……サゴシキ」
「それは喜ばないと思うよ普通に考えて」ピシャリと言われてしまった。しかもかぶせてきた。
「……かなあ?」
「あんたハマグリ好きだけど、誕生日に、コ・イ・ビ・トから! ハマグリもらって喜ぶの!?」
「うん、まあないよね。そう怒らないでよ、冗談なんだから」
「お悩み中ってことはよくわかったわ」
「そうなんだよねえ。はあ、どうしよう」

だって侑士先輩、ほしいと思ったものはちょこちょこお買い求めになられているのだ。
というのも、親御さんから送られてくる生活費のなかのお小遣いをあんまり使わずにいるらしい。さらに先輩は高校1年生のころからのひとり暮らしのせいなのか、それとも関西根性なのか、ちょっとした節約をしていらっしゃる。そうすると生活費が余ってくるので、それをへそくりに充てているらしい。だからほしいものがあったときは、「なんなく買えたりするねんなあ」と、前に教えてくれた……。
あは、いまちょっと侑士先輩の顔を思いだしちゃった。カッコいい先輩……イケメン。ケチなんじゃないの、倹約家なの。

「伊織ー!?」
「えっ!?」
「鼻の下が伸びまくってるから、その顔、なんとかして」
「またまたそんなわけ……あ、ホンマや!」
「うざい……」

侑士先輩にしこまれたネタを披露すると、千夏の目が、また棒になった。侑士先輩もこれ、ときどき跡部先輩の前でやってるけど、千夏とまったく同じ顔で返されてるもんなあ。
本当にお似合いよね、あなたたち。そのいかにも都会人のしらっとした感じとか。ふん。

「すっかり忍足先輩に感化されちゃって……それまったく面白くないからね? なに手鏡まで用意してんの? バカなんじゃないの?」
「うるさいな!」スベってしまったので、おとなしく手鏡をしまった。「それより千夏は? どうするの?」

いささかムッとしながら、千夏に聞き返した。
彼女は跡部先輩と付き合いはじめて、もうすぐ5ヶ月が経つ。慣れないわたしの情動とは違って、ふたりはすっかり落ち着いたものだ。
一方でわたしと侑士先輩はまだ、1ヶ月と少々。1週間ほど前に、ふたりきりで交際1ヶ月目のお祝いをしたばかりだ。まあだから、鼻の下くらい伸びさせろって思うのが正直なところだったりする。

「まあ景吾こそさ、ほしいものはなんでも手に入るからね」
「ですよね。わたしより悩ましい悩みだよね、千夏にとっては」
「でもあれで、庶民的なもの喜んだりするんだよ? だからまあ、なにか景吾の見たことないようなものをあげて、あとはあたしをあげれば満足してくれるはず」

外はまだあかるいというのに、千夏は堂々と言い放った。あたしをあげればって、それは当然、下ネタですよね? まったく、ここは女子校じゃないっての! あっ……いや女子校のみなさんすみません、そういう意味では……わたしの独断と偏見です!

「ちょっとお、なに言いだしてんのよ、恥ずかしいなあ」
「いいじゃん親友なんだから、それくらい言わせてよ」
「もうあんたってホント……エロ校生!」
「またまた、ウブな振りするのやめてくれるー? 伊織だってとっくに済ませてるでしょ?」

おおげさなんだから、と、つづけながら、流し目でこちらを見てくる。この女は最近、やたらと色っぽくなった。それもこれも跡部先輩のおかげ(?)なんだろうことはわかっているのだけど、自分がとっくに済ましたからと言って、わたしまで済ましていることにしないでほしい。
体が大人になると、脳まで大人になっちゃうんだろうか。うーん……まあそういうことは、あるかもしれないし、ないかもしれない。

「バカ言わないでよ、したら言うし!」
「え、伊織ってそういうこと、相談するタイプ?」
「た、たぶん。ていうかする前に相談すると思う。だって、こ、怖いじゃんかっ」
「ふうん。てことは、忍足先輩と、まだなの?」
「だからまだだってば……千夏に話してないってことは、そういうことでしょ?」

目も口も開けた千夏が、黙って目をそらしていった。
この女、いま、わたしのことバカにしてる、絶対。知ってるよ、だいたいみんな16歳くらいなんでしょ? そりゃ、わたしだってそのうちって思ってるよ。でも怖いじゃん。
それに侑士先輩から、そんなお誘い、受けたことないし……。

「なに、その顔」ムカついたので、つい、口を衝いて出てしまった。
「いや? 別に?」
「ねえ、千夏……」
「なに」
「どのくらいだったっけ……その、千夏と、跡部先輩は」
「んー、でもまあ、1ヶ月くらいだったよ。誘ってきてたのは、2週間くらい経ってからだったけど」
「1ヶ月……か」

とっくに過ぎてる……。
しかも付き合って2週間後には誘ってきてた? もう、跡部先輩って気が早くない? うーんと、わたしと侑士先輩って、付き合って2週間ってどんな感じだったっけ。
記憶をたどりながら思いだしているうちに、だんだんと気分が落ちてきた。そうだ……2週間といえば、竜也事件があったときじゃないか。

「ああ……」
「どしたの? 伊織?」
「いや……思いだすんじゃなかったなって」
「はい……?」

あれからしばらく経っていて、千夏はもう忘れているのかもしれなかった。
付き合って2週間……わたしと侑士先輩は、ものすごくすれ違っていた……(詳しくはどこかで紹介されているので、それを読んでいただきたい)。付き合う前よりもすれ違っていたと言っていい。期間としてはほんの5日くらいのことだったけど、精神的にはかなりきた。もうあんな思いはしたくない。まあ、あれから侑士先輩とは大きなケンカもなく、かなり順調なお付き合いをさせてもらっているけども。

「大丈夫、気にしないで」
「ふうん? ねえでもさあ、そういうお誘いとか雰囲気とか、感じるものないの?」
「雰囲気、ねえ……」
「あれだけ毎日のように忍足先輩の家でご飯つくって、『伊織、今日、泊まっていかへんか?』とかないわけー?」侑士先輩の声真似をしながら、ニヤニヤした。
「似てない」
「そこはスルーで。どうなのよ?」
「……ないよ。それを促されたこともない」

ニヤニヤ顔が、徐々に驚き顔に変わっていった。あげくの果てに、マジ……? と、目をむいている。
ちょっと待ってよ……その反応、落ちこんじゃうじゃん。それって、もう1ヶ月も過ぎてれば誘ってくるのが当然ってこと? いやいや、そんなバカな。時間をかけるカップルだって多いに決まってる! 侑士先輩は、わたしを大切にしてくれてるってことでしょ……た、たぶん。

「ね、伊織」
「なに……」

声にだしてないわたしの思いをよそに、千夏はすすす……とすり寄ってきた。完全にガールズトークをしようというわけだ。
ああ、なんか泣きそうになってきた。いろいろ考えて自分に言い聞かせてはいるけど、たしかに、ちょっとくらいそういう雰囲気があってもいいんじゃないかって、わたし、心のどこかで思ってる。
侑士先輩に不満があるわけじゃない。だけど中高生男子の頭のなかってそればっかりなのは、家庭環境で知っている。兄はよくパソコンでエッチなの見てるし、弟なんてまだ中学生のくせにパソコンでエッチなのばかり見ている。要するにパソコンでエッチなのばっかり見ている兄弟なのだけど、彼らに言わせれば「みんなそうだよ」と言っていた。彼女ができたらなるはやでしたいのに、早い段階で誘うと断られて困っているとも言っていた(最低か)。
でもわたし、侑士先輩から誘われた記憶がない。そういうこと、わたしとしたいと思わないのかなと、ちょっと心配であったりはする。

「ここだけの話、どこまでいってる?」
「どこまでって、そ、AとかBとか……?」
「……ねえ、死語」そんなとこまで忍足先輩に似なくていいから、とつづけた。
「Aダッシュってとこかな……」それを無視して答えてみる。
「いやいや、なにそれ?」
「だから、こう、濃い感じのキス、的な」

はじめてディープなキスをしたのも、竜也事件のときだった。侑士先輩の怒りから衝動的にされたキスだったけど、あれから侑士先輩は、たまに、わたしの舌を乞うときがある。
「伊織も舌、だして?」とか言って、ひゃああああああ、もうもうもう、ただでさえ侑士先輩、普通のチュウだって超エッチなのに、もう、超エッチが超絶エッチになるんだから!

「え、それだけ?」
「それだけ!? すごい死にそうになるんですけど毎回!」
「ていうかよくそれで終わるね?」
「ちょ、え、どういうこと? 普通は終わらないの?」
「だってそれって合図じゃーん」
「あ、あい、あいあい、合図!?」
「おサルさんかよ」

うまいツッコミではないか。メモっておこう。いや、そんなことはどうでもいい。
じゃあなんですか? 跡部先輩はエッチしようってときにディープなキスをされると? いやまあ、それはわかりますけど、ディープなキスはエッチ以外ではしないってこと? あ、待って待って、それが、大人の暗黙のルールってこと? なにそれ超大人!

「うーん、これは誕生日プレゼント、決まりだね」
「へ?」
「伊織を、あげちゃいなよ」
「は?」

どこぞの社長みたいに「YOUデビューしちゃいなよ」的なノリでいってくれるじゃないですか。

「わ、わたしから誘えって? しかも、侑士先輩の誕生日に? なんか押し売りみたいになるじゃん! 侑士先輩が嫌がるかもしれないじゃん!」
「はあ? あらあら、耳まで赤くしちゃって」

侑士先輩とそういうことすると思っただけで、体中が熱くなっていく。千夏はまるで近所のおばさんのような口調で、またしてもわたしをニヤニヤと見た。
ていうか、いまどきそんな女がいるわけないじゃんっ。どこのトレンディドラマよ!

「だって伊織だって、考えたことがないわけじゃないでしょ?」
「そ、そりゃあ、考えたことがないって言ったら、嘘になるけどさ!」
「ずいぶん怖がってるみたいだけど、大丈夫だって伊織」
「な、なんでそんなことが言えるの?」
「そりゃあたしは、伊織のパイセンになるわけじゃない。そっちでは」
「む……」

たしかに、女としてはパイセンということだ。そして千夏が跡部先輩と先に付き合いはじめたことで、とても勉強になったことがたくさんある。
とくにこの氷帝学園での立ちふるまいについては、千夏パイセンがいなければもっと大変なことになっていた気がする。だから、黙ってうなずいた。

「景吾もそうだったけど、忍足先輩も経験豊富なはず。だから優しくしてくれるって。怖がることないよ」
「そ……」

そうだよね、と言いたかったが、言葉が出てこなかった。千夏のなにげないひとことに、軽くショックを受けている自分がいる。
わかってますよ、ええ、わかってます。侑士先輩は、昔っからモテモテ。だからきっと、童貞ではない。ていうか、あんな色の塊のような見た目で童貞だったら爆笑したいくらいである。
それに、侑士先輩と付き合っていた人のことも、わたしは何人か知っている。学校では見たことない(というか高校生ではありえない)年上のお姉さんと、腕を組んで歩いているのを見たことだってある。クソッたれが!
……やだ、いけない。すぐ『その女、凶暴につき』になっちゃう。「ファッキンジャップくらいわかるよバカ野郎!」ってなもんだ。いやそれは『BROTHER』か(時代がついていけない人はググってみてくださいね)。待て、そんなことはどうでもいい。
だいたい、前の彼女さんのことだってマネージャーになったから知ったようなものの、本来は知らなかったわけだから、そんな彼女はこれまでだって、いくらでもいそうだ。
ああ、だからつまり……千夏の言うとおり、侑士先輩はたくさんの人とお済ましになってるよね。ええ、そうでしょうね、そうでしょうよ。
はー、卑屈になる!

「……伊織、めちゃくちゃ余計なこと考えてるでしょ、いま」
「え」
「そんなこと気にしてたら自滅するだけ。嫉妬したってしょうがないことなんだから」
「な……嘘でしょ千夏、なんでそんなことまでわかるの?」エッチすると体だけじゃなくて人としても成長とかしちゃうわけ?
「顔にモロ」
「ええー……気づかれないようにポーカーフェイスしてたつもりだったのに」
「そういうとこは忍足先輩の真似できないわけだ」
「うるさいなあ」言いつつ、千夏の助言に、反省した。「でも、そうだよね。嫉妬しても、仕方ないよね」
「そ。あたしたちにそれを責める権利もないし、彼らにしちゃ責められる要因もない」

しゅん、としてしまった。それでも嫉妬はしてしまう。千夏の言うことはわかるけど、嫉妬心が抑えられるわけじゃないんだ。
どんどんと気分が落ちていく。同じように落ちていった肩に、ぽん、と手が置かれた。

「……気持ちはわかるよ。でも仕方ないの」
「うん……そだよね」

千夏の顔も、切なくなってしまっている。きっと、彼女も同じ思いなんだと理解した。
嫉妬しないなんて言ったら嘘になる。正直、悔しくてしょうがない。わたしたちにとっては、なにもかも先輩たちがはじめてなのに、先輩たちは何度も経験していることだから。
それでも、ぶんぶんと頭を振った。考えても「仕方ない」。嫉妬しても「仕方ない」。気持ちを切り替えようと背筋を伸ばすと、千夏がにこっと微笑んだ。
ああ、なんか千夏って、やっぱり色っぽくて前よりすごく、いい女になったなあ。

「ねえでもあたし、冗談で言ってるわけじゃなくて、マジなんだけど」
「え、誕生日プレゼントのこと?」
「そうだよ、思いきって誘ってみたら?」
「わ、わたしから?」
「そりゃそうでしょ。やる価値あり!」
「無理だよっ! そんなことできないっ」だってなんか、はしたないしっ。
「忍足先輩、大喜びだと思うけどなあ」
「そんなのわかんないじゃんっ。もういいよ、この話は終了っ!」

結局、わたしを説得しようとする千夏との会話はうまく折衷案を出すこともなく終わり、お互いが彼氏の待つ場所へと向かうことになった。千夏は跡部先輩の待つテニスコートへ。たぶん、そのままバカみたいにデカい車に乗って、跡部先輩の家に向かうんだろう。
一方わたしは、『終わったで。シャワー浴びとくわ』とメッセージをくれた、侑士先輩の待つ部室へと向かった。





シャワールームから、水音が聞こえてきていた。
あんな話をしてしまったせいなのか、侑士先輩がいま裸でシャワー浴びてると思うと、なんだか悶々としてくる自分がいる。
……ちょっと一旦、落ち着こうか。いくらなんでも興奮しすぎじゃないだろうか。
部室にあるパソコンの前に座った。なぜ必要なのかわからないけれど、氷帝テニス部の部室にはデスクトップパソコンまで備え付けられているから、こういうときに便利だ。いやこういうときに使うわけじゃないとしても、ですな。
マウスを動かすと、すぐに画面が起動した。おそらく誰かが見てそのまま電源を切り忘れていたのだろう。それはあるあるなので、問題なかった。
が、目の前のディスプレイに、思いっきりアダルトサイトが表示されているではないか!

「なっ……! なあ!?」

ずいぶんとかしこいパソコンじゃないですか! アレクサでもいるの!? リアルタイムすぎるでしょうこれは!
そんなわけないと思いながら慌ててページを閉じようしたものの、アダルトサイトはしつこくディスプレイに舞い戻ってくる。バツを押すと一旦はページが閉じるものの、まるでバツがクリックボタンになっているかのように、同じページが開かれていくのだ。
なんちゅう高度なシステムだ! いやそんなことに感心している場合じゃない! こんなところ、侑士先輩に見られたら誤解されちゃう!

「なんなのこ……! ちょ……!」

しかし努力もむなしく、そしてこういうときに限って、とてもタイミングよく、いちばん見つかりたくない人に見つかるのも、あるあるだ。なんでだろう。なんでだろう。ななななんでだろう!

「なにしとん? 伊織?」
「ひゃああああっ!」ぽん、と背中を叩かれて、あっさりと大声をあげてしまった。
「ん……?」

侑士先輩が首をかしげて画面を見ている。ああああああああもう最悪!
大きなディスプレイに、おっぱいまるだしのお姉ちゃんたちどころか、完全にただの股間だけみたいな画像の数々がGIFアニメなのかなんなのか、カクカクカクカク動いていて、も、なんちゅう高度なシステムだ!

「ちちちちち、違うんです! 違くて! わたし、わたしがここを見ようと思ったわけじゃなくて! あの、つけたらあの、いきなりこのサイトで、その、違うんです! ああああもうなんで消えないの!?」

ディスプレイを見た侑士先輩が目をぱちくりさせていたものだから、支離滅裂に必死こいて侑士先輩に説明をした。しながらもバチバチと音が出るほどにバツをクリックしつづけたが、やはり消えない。

「くくっ……」
「へっ? ……ちょ、侑士先輩、笑わないでっ」
「やって、伊織かわいいから」くすくすと微笑んでらっしゃる。ふああ……イケメン。「よしよし、貸してみ?」

首からタオルを掛けたまま、座っているわたしのうしろから包みこむようにして、侑士先輩がキーボードを叩いていく。
ふわあ……もう、侑士先輩って、いつもさりげなくこういうことするから、ドキドキが止まらなくなるんだようっ。おまけに、こつん、と顎をわたしの頭のてっぺんに乗せてるのだって、なんか甘いようっ。ああ、それにいい香り……シャワー直後だから当然なんだろうけど、なんで侑士先輩ってこんな甘くて爽やかな香りがするんだろう。うちの兄と弟なんていつも犬みたいな匂いがするのに。ああ、先輩……抱きつきたい。

「ん、これでええな」顎を頭からはずして、今度はちょん、と頬を寄せてきた。
「わ、全部消えた……すごい」

少しだけ侑士先輩を見ながら言うと、目の前に先輩の顔があって、鼻先が当たった。
きゅっと先輩が微笑んで、チュッとキスされる。同時に体が包みこまれて、そのまま、短いキスを3回くり返された。

「ゆ、侑士先輩……」うっとりしちゃう。こんなとこでイチャイチャしちゃって、わたしたちってば……!
「そないに待たせた? 暇すぎてアダルト鑑賞しようと思ったんか?」
「ちょ、ちっ……違うって言ってるのにっ」
「くくっ。わかったわかった、冗談やがな、冗談」
「も、ホントに、つけたらいきなりだったんですっ」
「ふんふん、さよか。ま、ここ一応、盛りの男子学生ばっかりがおる場所やしなあ? あんなんしょっちゅうあるで。誰か消し忘れたんやろ。安心し。誤解なんてしてへんから」

優しく微笑みながら、ゆっくりと、わたしの髪の毛をなではじめる。
あ、くるなと思った瞬間に、もう一度、キス……。
はあーん、止まらなくなっちゃうよう。もうこういう時間が大好きすぎるっ。侑士先輩、好き、好き、大好きっ。

「はよ、家に帰りたなってきたな?」
「うん……」
「かわい、伊織。また照れとる」
「う……侑士先輩、だからだもん」
「ん……ほな帰ってもっといっぱいチュウしよな?」

チュウだけでいいんですか? と心に浮かんだわたしは、きっとどうかしている。千夏のおかしな提案のせいで、こっちが中高生男子状態になっているではないか。けしからん。

「……うん」
「ん、ちょっと待っとってな?」

バカなわたしの心のつぶやきなど知るはずもなく、侑士先輩は耳もとでささやいてから、さっと背筋をのばした。乱暴にバサバサッと髪をタオルで拭くと、そのタオルを丁寧にたたんで、ビニール袋に入れてからバッグのなかにしまいこむ。ほら、こういうとこも、うちの兄弟とはまったく違う。同じ人間だと思えない。母の怒鳴り声から推測するに、彼らはいつもバッグのなかがぐちゃぐちゃだ。体操着もタオルも靴下まで放り込んで、そこにノートとか入れているんだから信じられない。
やっぱりうちの兄・弟とは違い、侑士先輩は王子様なんだ、一緒にしてはいけない。

「だいぶ、涼しくなってきたなあ」

いつものように手をつないで帰路についた。少しだけ落ちはじめた陽を眺めて、「綺麗だね」と言い合ってから、先輩がぼんやりと空をあおぐ。

「ねえ侑士先輩、涼しくなってきたし、髪の毛を自然乾燥させながら帰ると風邪ひいちゃうよ?」

侑士先輩は部活のあとに必ずシャワーを浴びるけれど、絶対にいつも自然乾燥だ。そういうところはすごく男らしいのだけど、そろそろ季節的に心配になってきた。

「んー……。けど俺、ドライヤー苦手なんやもん」
「暑いからです?」
「せやあ。せっかくシャワー浴びたのに、また汗かいてまうやん」

ちなみに部室にあるドライヤーは跡部財閥からの提供によるものなので、さすがの品物、7万円もするドライヤーだ。なんとそのドライヤー、コンセプトは「乾かしたぶんだけ髪が綺麗になる」とかで、使わないよりも使ったほうが確実に髪がツヤツヤになる。さらには冷風を顔にかけるとリフトアップ効果もあるという美顔器状態。いやいや、男子高校生なのになんでそんなドライヤーが必要なんだ、とは思いつつも、わたしと千夏がこっそり使っているのは、ここだけの話。

「汗かかないように、ゆっくりしたらどうかなあ」
「ほな、伊織が乾かしてくれる?」
「もちろん!」
「ホンマかあ? みんなの前でもやで?」
「えっ……み、みんなの前でも?」
「そらそうや。最近はふたりきりのことが多いけど、中間考査が終わったら普通の部活に戻るんやから、俺がシャワー終わるころにはみんなおるで?」
「あ……そう、だった」
「くくっ……伊織かわええ。赤なって」

こめかみに、ちょん、とキスが落ちてきた。横をとおり過ぎていったおじさんとおばさんが、チラチラとわたしたちを見ていく。ああ、今度は違う意味で赤くなってしまう。恥ずかしい……。
街なかで、校舎内で、教室で、部室で……どこにいても侑士先輩は、したくなったらキスしてくる。高級ドライヤーが「乾かしたぶんだけ髪が綺麗になる」なら、「誰に文句言われる筋合いもないわ」が侑士先輩のコンセプトだ。
これでも最初よりはかなり慣れた。いまでは、ふたりきりのときだけなら、わたしからキスすることもあるくらいには……。

「みんなの前では、嫌なん?」
「嫌じゃないけど、ちょっと恥ずかしいかなって……」
「千夏ちゃんはいつも跡部にしてるやん。羨ましいなあ、あれ」
「よそはよそ、うちはうちー」
「もう……伊織はいけずやなあ」

とは言いつつも、侑士先輩は微笑んでいた。
そう。よそはよそ、うちはうちだ。だというのに、なぜだか頭のなかで千夏とのやりとりがよみがえってくる。一緒にいるだけで昇天してしまいそうな侑士先輩と体を重ねるなんて、恥ずかしくて死んでしまうかもしれない。だって、全裸を見られちゃうわけだし。当然わたしも、侑士先輩の全裸を見ることになるわけだし。
そりゃあ、先輩とこのまま順調に付き合っていけば、いつかはそうなるだろうし、わたしだって……正直、抱かれたいって思うけど。

――思いきって誘ってみたら?

なあああああ、誕生日プレゼントに首にリボンつけて「わたしを、あ・げ・る」ってか!?
ひくよ、普通、絶対にひく。そこまでバカまるだしのことしなくてもいいだろうけど、意図としては一緒だ。わたしが彼氏で、初体験であるはずの彼女がそんなに積極的だったらどうだろう。考えたところで、彼氏になったことがないからわからない。うう、困った。でもたぶん、ひくと思う。

「そういやあれからバタバタして忘れとったけど、伊織の家族に挨拶させてもらってないなあ」
「ああ、そういえば……そう、かな」

しかも、だ。それをやったとして、侑士先輩が全然そんなこと考えてなかったら余計に恥ずかしいじゃないか。だって侑士先輩、これまでそれっぽい誘いをしてきたことないわけだし。
千夏はディープキスがその合図だっていうけど、そんなの確証ないじゃん。どうして侑士先輩が誘ってこないのかって、わたしだって考えたことあるけどさ……!

「それも恥ずかしいからなん? ひょっとして」
「そうですねえ……恥ずかしいかな」
「ふうん。そういうもんか」

まだ家族への挨拶とか言ってる侑士先輩だから、実は超堅物で、実は超奥手なんてことないだろうか。それでわたしからお誘いしたら、「アバズレやな!」とかいう展開になってしまうかもしれない? 
いやいや待って。これまで何人もの女性と付き合ってるだろう侑士先輩が童貞なわけないのは確定だから、そこまで非難されることはないか……?

「せやけど付き合って1ヶ月は過ぎたしさあ」
「はあ」

そう考えていくと、わたしにはまだ、抱きたいと思うほどの魅力がないって結論になる? 前の彼女さんとはどうだったんだろう。比べるのもおこがましいくらい綺麗な人だったから、それとこれとは別、と思われているかもしれない。

「そろそろ、ええんちゃう?」
「……」
「ちゅうか俺が申し訳ない気持ちにもなるっちゅうか。はよ知ってもらいときたいっちゅうか」

そういえば兄が言っていた。「イチャイチャしたいとヤリたいは別だから」って。どういう意味かわからなくて聞いたら、「イチャイチャは好きでも、ヤリたいと思わないヤツもいるし、ヤるの好きでもイチャイチャしたいと思わないヤツもいるわけよ。ま、オレはイチャイチャもエッチも最高にどっちも」と、途中で聞くのをやめてしまったが、なんだか複雑すぎるじゃないか。侑士先輩はこのとおりイチャイチャ大好きさんだけど、エッチしたいと思わないパターンもあるってことだ。

「こないしてほぼ毎日、晩ごはんも一緒やん? 親御さんなにも言わへんの?」

前の彼女さんはスタイルもよかったし、なんだか体つきもセクシーだった。色気むんむんで……ああ、本当に比べたらおこがましい事態になっている。わたしには、前の彼女さんが持っているすべての要素が、ない。ぐうう。

「彼氏に会いに行ってるとは言うてるやろ?」
「……」
「それやのに彼氏が挨拶に来んって、俺が親やったら……って、伊織、俺の話、聞いとる?」
「えっ!?」

名前を呼ばれて、はっとした。
まずい……途中から全然、耳に入ってこなかった。
侑士先輩を見あげると、あからさまにショックを受けた表情でわたしを見おろしている。

「うわの空やん……俺とおるの、つまらん?」
「そんなことない! あのっ、ごめんなさい、ちょっと、考えごとしちゃって!」
「……」
「あ、侑士先輩、その、ごめんなさい……!」

ピタッと立ち止まった先輩から、切ない目で見つめられた。大切なものを失くしてしまったような、悲しい表情。ああ……侑士先輩、そんな顔しないで。

「俺とおるのに、違うこと考えとったん……?」

今度は、ぷくっと頬をふくらませて、口をむっと尖らせてきた。わあああ、もう、かわいいっ!

「いやその……ご、ごめんなさい……違うことじゃなくて」
「ほな、なに?」
「そ、いろいろ。ごめんなさい!」

とにかく謝ってみる。侑士先輩のこと考えてた、と言ってしまえば、「どんなことや?」と、きっと白状するまでしつこく問いつづけられるに違いない。あまりごまかしがうまくないわたしとしては、それは避けたい。だって最終的に侑士先輩とのアッチの営みについて考えてたなんてことがバレたら、なんならそれはアッチよりも恥ずかしすぎる! 絶対に言えない。

「なんやあ、いろいろって。要するに違うこと考えとったんやんかあ」
「だから……ご、ごめんなさい」
「嫌や、許さん」
「あああああ、許して侑士先輩。ごめんなさい!」

ぷいっと背中を向けて、完全にふてくされてしまわれた。
侑士先輩のダダこねが発動してしまった。ときどきある。絶対わざとだ。だから「あざと」でもあるのだけど、わかっていても、かわいい。

「うー……侑士せんぱーい……」
「もうええもん。俺なんかどうでもええんやな、伊織は」
「も、そんなわけないじゃないっ」

背中を向けてしまった侑士先輩の手をぐいぐいと引いた。
なんだかんだ言って、手も離さずに絡めたままだから、絶対に本気で拗ねてるわけじゃない。
やっぱり、「あざと」だ。学園のアイドルだから、そのあたりは心得ていらっしゃるのかもしれないけど……あああああかわいいっ! かわいすぎる! わかっているのにかわいいと思ってしまう!
これ逆だったら女に嫌われる女で、女側は「マジで男ってバカだよね! なんであんな女が好きなの!?」とか言っちゃうんだけど、立場が逆転するとこんなにも納得感があるとは。男もきっとそうなんだ。ぶりっこはあざとい。わざと&あざとだとわかっていても、かわいいもんは仕方ないのだ。なるほどですね。

「侑士先輩? ごめんってばあ」
「せやったら……」
「うん?」
「侑士好きーって言うて、そんでここでチュウしてくれたら、許したる」
「ぐは……」
「どないする?」

しばらく考えた「振り」をして、あざと侑士先輩はくるっとわたしに向き直った。
にんまりと不敵な笑みを浮かべて、勝ち誇ったような顔をしている。ああ……これが狙いだったのか。わたしが恥ずかしがりなのを知っていて、こんなこと言ってくるんだから、侑士先輩は絶対にドSだ。つまりそれはドMということでもある。どうでもいいけど。

「うう……侑士好き!」チュッとぶつけるようなキスを送ると、侑士先輩はチラッと斜め上を見てから、ふうん、と息を吐いた。
「……投げやりな感じが気に入らんけど、まあええわ。ごちそうさん。さ、今日の晩ごはん、どうする?」

ぶつぶつ文句を言いつつも、侑士先輩はご機嫌になった。それは狙ってなくて、結局かわいい。
ああ、こんな、わたしにはレベルの高すぎる彼氏に、「お誘い」なんて……。
千夏からの提案を、頭のなかへリロードしては削除する。そのたびに、じわじわと汗がにじんでくるのがわかった。

「なんや今日、涼しいと思とったわりに、ちょお暑なってきたな?」
「……そ、そうかな」
「ま、俺は伊織とおったら、いつでもアツいけど」
「また、そんなこと言って……」

優しい侑士先輩だからごまかしてくれてるけど……きっとわたしの手が汗でペタペタしてきたんだと思ったら、恥ずかしくてうつむいてしまう。これじゃはじめて異性と手をつないだ小学生状態じゃないですか。
高嶺の花すぎる侑士先輩と、経験値の低すぎるわたし。その落差に辟易しながら、わたしは先輩のマンションに入っていった。

「ホンマやもん。あ、さっきの返事してへんかった」
「え?」

もうすぐ部屋に到着するというのに、エントランスでまた、キスが落ちてくる。
まるでそのキスは、はじまりの合図のように思えた。

「俺も、伊織が好きやで」
「侑士先輩……」

誕生日カウントダウンが、スタートしたのだ。





to be continued...

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