12_凍える想い


12. 凍える想い


午前を過ぎるころやった。ようやく液晶に伊織の名前がでて、頬がゆるんだ。聞き馴染みのある音楽にも心が癒やされていく。さすがにあれだけ毎日のように会っとると、ひとりの夕食は静かなもんやった。テレビつけても、頭に入ってこんまま、ぼうっとしとったしなあ。
ああ伊織、待っとったで、と、電話に話しかけそうになった。それは電話をでてからしよか……ツッコむ心が虚しい。なんやかんや、やっぱり寂しかったんや。

「伊織? 遅いやん、寂しかったで?」

電話の受話ボタンを押して、俺は開口一番に伊織に甘えた。
口にすればその寂しさがまたつのっていく。それでも、伊織が今日になって突然、俺の家に寄らんと言いだした理由は、なんとなくわかっとる。
たぶん……やけど。伊織、俺の誕生日プレゼント、買いに行くつもりやったんちゃうかって。昼はおとなげなく駄々をこねたけど、一方でそんな予感が頭をかすめたのも事実。
やから、本気で拗ねたわけやない。拗ねた振りして、ちょっとイチャイチャしたかっただけや。結果的に、伊織の生活習慣の言い争いになっただけで、イチャイチャにもならんかったんやけど、さ。

「……侑士先輩」
「ん……?」

それでも、伊織は元気やった。昼、手を振って別れるその直前まで、笑顔でいっぱいやったのに。
この電話の声は、なんやろうか。直感的な焦燥が走っていった。落ち着いとる、と言われればそうなんかもしれへん、けど……なんや、弱ってへん? 俺がテンション高すぎるせいやろか。

「ごめんなさい、こんな深夜にいきなり……」
「なんでや。夜に電話するって、伊織、メッセージくれたやん。いきなりやないで?」
「あ、ははっ。そうだった。ごめんなさい、遅くなって……」
「ええんよ、遅いとか、軽口やから。なあ、どうかしたん?」

伊織の声は、普通や。いつもと変わらん笑い声も、しっかり聞こえてくる。でも俺の頭のなかには、泣きそうな伊織の顔が浮かんだ。なにかを堪えとるような、軋んでいくような心の音がなだれこんでくる。

「いつもどおりですよ? どうしてですか?」
「なんとなし……いつもどおりって気がせえへんから」
「あ……放課後、侑士先輩と一緒に居れなくて。わたしも寂しかったんです。声が聴けて、安心して、ほろっとしちゃったのかも」
「……さよか。こんな声でええなら、いくらでも聴かせたるよ」

恥ずかしがりの伊織が甘い言葉をぽんぽん吐きだす……逆に不自然や。
なにか、あったんや……その考えは、もう確信に近くなっとった。

「伊織、結局、今日はなにしとったん?」
「うんと、用事を済ませてからは、すぐにお家に帰りました。あっ、本当だよ侑士先輩?」
「なんや、なんも言うてへんやろ?」
「そうだけど……ライブハウス行っとったんちゃうんかー? って、いまにも言われそうで。ふふっ」
「言うなあ? 寂しがっとる彼氏にひどいやん。それとも説教されたいんか?」
「あははっ。侑士先輩のお説教、嫌いじゃないです。でも今日はお昼しか聞けなかったから……うん、わたしも寂しかった」

俺に心配をかけんようにしとるのは、百も承知や……せやけどさあ、伊織。俺、もっと寂しくなる。頼ってくれてもええのに。ちゅうか、頼ってや。俺は伊織のこと、守りたいんやから。

「寂しくて、眠れへん?」
「うん……でも侑士先輩の声が優しいから、眠れるかも」
「ほな、このままおしゃべりしながら寝る? もうお風呂は入った?」
「うん、さっきあがりました」
「ん、ええこやね。歯磨きもしたかー?」
「ふふっ。うん、歯磨きも」
「よっしゃ。ほな、布団に入り?」
「はーい」

くすくす笑いながら、ガサゴソと布のすれる音がする。ホンマやったらとなりで腕枕でもしながら、伊織を抱きしめてなでてやりたい。なにか辛いことを抱えとるんやろう伊織が眠るまで、ずっと。

「侑士先輩……」
「ん?」
「大好き……」

その声が、ほんの少しだけかすれとった。なにがあったんか知らんけど……やっぱり伊織は、なにかを堪えとる。

「俺も大好きやで……。な、眠るまでお話したるよ……なにがええ?」
「うーん……じゃあ、侑士先輩の小さいころの話、聞きたいなあ」
「俺はな、めっちゃかわいげない子やったんや、想像つくやろ……?」
「あははっ……笑わせたら眠れないー」

伊織を少しでも笑わせたくて、俺は子どものころのしょうもない話を脚色しながらたくさん聞かせた。
そこから10分ほどが過ぎたころ……伊織の相槌が、だんだんと小さくなっていくのを感じる。俺も声のトーンをさげていった。とにかく今日は、ゆっくり眠り……伊織。

「そしたら近所のおっちゃんがでてきてな」
「うん……」
「わしがチャリに空気入れたる、いうて」
「……ん」

そこから、伊織の声は消えた。静かな寝息が聞こえてくる。伊織が寝返りを打って、すっかり眠りに入ったことを祈りながら……俺は、そっと電話を切った。

「おやすみ、伊織」





伊織のことが心配で、よう寝つけんまま朝を迎えた。
もちろん、少しは寝たんやけど、眠りが浅かったせいか、朝からずっとぼうっとしとる。
ランチは当然、伊織に会った。いつものように伊織のつくってくれた弁当を食べて、たわいもない話をして終わった。伊織の様子は、すっかり昨日の「なにか」を払拭したんか、いつもと変わらず……せやけど、俺にはもうわかってしもたから、隠しきれとるわけやない。
あの子も、俺に負けず劣らずポーカーフェイスやと感心する一方で、伊織から話したくない心のうちをわざわざ聞くのも彼女のプライドを傷つける気がして、できてへん。
けど、当然、気になる……モヤモヤを残したまま、俺は部室に向かった。

「おい忍足」
「ん? どないしたん跡部」

マネージャーである伊織と千夏ちゃんはすでにコートでボール拾いの手伝いをしとった。このくらいの時間になると跡部はガンガン練習に励んどるはずやのに、なんでやか、部室に戻ってきとる。それだけで、妙な感じがした。

「お前に客が来てる」
「客……」
「いろんな事情があるらしい。だからここに連れてきた。佐久間の兄さんらしい」
「え、はっ……!?」

急展開に、目ン玉をひんむくどころか、そのまま一回転して戻ってきたような錯覚を起こしそうになる。
やってなんで……なんで伊織の、お兄さん!? ま、待て待て。お父さんには会ったことある、けどお兄さんにはない。お兄さんがわざわざ妹の学校にまで来て、跡部つかって俺を呼びだすとか、どういうことやねんっ。まさかっ……な、殴る? 殴られんの俺? お、お父さんと同じタイプ? 妹の彼氏は許さん! とかそういうやつ?

「あああああああ跡部、追い返してくれ」
「アーン? なに言ってる、もうそこで待ってる」
「なななななんでお前は俺に承諾も取らずにそんな勝手なことをすんねんな!」
「貴様、なにを怯えてやがる。佐久間になにかしたのか?」
「なんにもしてへんわっ」ま、まだ……してもキスまで。そんくらいええやろっ。「なんもしてへんのに、ほんで会ったこともないのに、俺、きききき嫌われとるかもしれんやんっ。やからって? 伊織のお兄さんに手なんかあげられへんし、もし、もしも殴られたらもうボコボコにされるしか術はないやんけっ」
「なにを言ってんだてめえは……」
「金属バットとか持ってへんかった? まさかそこまでされんよな俺っ」

とにもかくにも、気が気やなかった。
せやけど跡部は、俺の慌てる様子になんの興味も示さず、目を一直線にして呆れたあと、そのまま部室を開け放った。「ひいっ」という俺の声が喉の奥で消えていく。
お前いきなりなんちゅうことすんねん! と、心のなかで叫び倒すのと同時に、その人はもう、そこにおった。

「あ……」
「どうぞ、入っていただいてかまいません」

跡部がジェントルに部室のなかに向かって手で促すと、彼はペコッと軽い会釈をした。

「……はじめまして。侑士くんだよね? 伊織の兄です」

部室に一歩だけ踏みこむようにして、丁寧に頭をさげてきた。ラフな格好の、大学生くらいの男の人。
……これが伊織の、お兄さんなんや。お父さんは手塚っぽい、圧の強い雰囲気の人やったけど、このお兄さんはまた全然ちゃうな……。お母さん似なんやろか。顔つきも優しい。
いきなり「お前、伊織と付き合ってんだってな! 許さねえからな!」と、言われる不安をかかえとった俺は、その優しい顔にぴったりの穏やかな口ぶりに拍子抜けして、うっかりずっこけそうになった。

「あ、はい、僕です。はじめまして。あの、忍足侑士といいます。伊織さんとは、1ヶ月半前くらいから」
「ああ、知ってます。竜也からも聞いてます」
「あ……そうです、よね」
「すみません、いきなり押しかけて。緊張しなくて大丈夫です。オレは、父とは違うから」
「は、はい」緊張せんわけないやろ、と思いつつも……お兄さん、気遣いが優しい。ほんの少し、ほっとした。
「今日はちょっと、話があってきました」

そら、そうですよね……と、言いたいのを堪えて、奥に案内する。跡部は静かに頷いて、部室を出ていった。あいつもあいつで、気をきかせてくれたらしい。せやけど、俺はソワソワした。お兄さんの雰囲気からして、世間話をしようっちゅう感じやないのがわかったからやけど。

「あの、なんか飲みます? スポーツドリンクしか」
「おかまいなく。侑士くん、と呼んでいいかな」砕けた話しかたになりながら、お兄さんはソファに腰をおろした。
「あ、はい。もう、好きなように呼んでもらって……」
「オレ、伊織と昨日、買い物に出かけたんだ。侑士くんの誕生日プレゼントを買いに」

ピタ、とスポーツドリンクに手をかけとった俺の手が止まった。
そんなネタバレをしてもええんかと言いたくなるけど、いきなりこんなん言うてくるってことは……そこになにか問題があったんやろうと、察しがつく。それで、ようやく理解した。
伊織の様子がおかしかったことと、今日のお兄さんの訪問がつながっとる。せやから、わざわざ……お兄さんはコートで俺を待つのでもなく、伊織に見つからんように、跡部に頼んでここまで来たってことも。

「伊織は4月から小遣いを貯めて、侑士くんへの誕生日プレゼントを買ったんだ。いまのあいつの、全財産くらいは使ったはず」
「……はい」

話が見えへん……けど、そこまでしてくれたんかと思うと、胸が痛い。俺は伊織が傍におってくれるだけで、満足やったから。ひょっとして、金、使わせすぎやとか、そういうこと?
それでお兄さんとケンカして、落ちこんどったんやろか。

「君のこと、すごく想ってる。だから、どうしてもいいものをわたしたかったんだと思う。予算よりも奮発して……」
「あの、すんません、妹さんに、無理させてしまう形になって」お兄さんの正面に座りながら、先走って謝ってみる。
「いやいや、そうじゃないよ、侑士くん。その……ごめんな、オレもこんな勝手な真似していいのか……わからないから、正直、少し緊張してて」

お兄さんはそこで、言葉を切った。逡巡するように首を1回、ストレッチのように折り曲げてはる。その頭がパッと上にあがったとき、彼は、俺をまっすぐに見た。
……目の色が、変わりはった。

「その、帰り道だった」
「帰り道……?」
「頭のおかしな女に絡まれて、侑士くんへの贈りものが……」

お兄さんは、昨日の悲惨な出来事を、俺に訥々と話してくれた。
伊織が一生懸命お小遣いを貯めて、予算よりも奮発して買った、俺にわたすはずやったプレゼント。スラッとした、おそらく上級生であろう女の乱暴な言動のせいで、それがトラックの車輪につぶされたと聞いたとき……俺は、言葉を失った。

「その女、弁償すればいいんでしょって、伊織に金をわたそうとしたけど、伊織はそれを叩き払って、泣きながら走って帰っていった」
「……」その女って、まさか……。
「だから……贈りもののことは、気づかない振りしてやってくれる?」
「はい……それは、もちろん」

ぽつ、と言葉が途切れていく。俺の声が、震えとった。

「ごめんね。急にこんなこと、聞かせて」
「いや……ええんです」知らんほうが、嫌や。
「ただ今日こんなことを話しに来たのは、伊織からは侑士くんに言いそうにないと思って。だけど君には、本当のことを知ってほしかったから……」

わかる。俺を責めとるわけやない。それでも、妹を泣かされたという悔しさが、そこにはにじみでてきとった。当然や。俺かてこんなに許せへん衝動にかられとるのに……。

「それとね」お兄さんの目の色が、また変わった。「今回のことは、不可抗力だったと思う。侑士くんのせいじゃないのはわかってる。でも今後、もしなにか伊織が泣かされるようなことがあるなら、オレは耐えれない」

真剣な眼差しに、心臓を握られたような気になる。こんなことになったのが、もとはと言えば俺のせいやってことも、この人はわかりきっとるから……申し訳なさで、吐きそうや。

「侑士くん、たぶん君は、すごくモテるよね。これまでだって、伊織とはまったく違う恋愛をしてきていると思う。だからこそ、本当に伊織のことを想うなら、できる限り、伊織を守ってやってほしい」
「……お兄さん」
「侑士くんの過去に文句を言うつもりはない。だけど伊織を泣かせてほしくない。侑士くんが思いつく限り、取れる対策は取っておいてほしい」
「……すみません、俺……」
「いや……ごめんな、初対面で、失礼なこと。けどあまりにも……」

言いよどんで、ひとつ、呼吸をするように喉を鳴らして。お兄さんは、まっすぐに俺を見て言った。

「あまりにも、伊織がかわいそうだ」

その言葉は、俺の胸を、深く抉っていった。





「おい」
「……え、侑士?」
「ちょお話がある、こっち来てくれるか」

お兄さんが部室を出ていったあと、俺は3年の教室に戻った。どうせいつも遅くまで教室で女友達とたむろしとる。案の定、目的の教室に行くと、そこにおった。
俺の、元カノ。

「どうしたの? 急に」
「お前、なんか俺に言うことあるんちゃうんか」

もう誰も残っていない教室に入って、振り向きざまに女を見た。俺に呼び出されたことが関係してんのか、さっきまで輝いとった目が、口火を切った瞬間に色あせていく。
高揚しとったはずの女のオーラは、俺の冷たさと同じように変化していった。

「……ああ、やっぱり泣きついたってわけだ」
「アホか。伊織はお前みたいに浅はかな女ちゃうねん、一緒にすな」
「ふうん。かばっちゃうわけだ。でも昨日の件については、あたしが悪いわけじゃない。完全にあの子の不注意でしょ」
「お前が、つけまわしたからやろ」

別れるとき、この女は俺に本気になったって言うとった。それを一方的に冷たく振った俺も悪いんやろう。せやけどそれはただの執着で、愛でもなんでもない。
この手の女には、はっきり言わんと伝わらんと思った。でも、はっきり言うたら言うたで、矛先が伊織に向かうやなんてな。ええ加減にせえよ……。

「そんなことしたつもりないんだけど……まあでも、侑士が知ってるならちょうどいい。これ、わたしておいてくれない?」
「は……?」

バッグからなにを取りだすんかと思ったら、財布から5万円を抜きだして、俺の正面に置いてきた。
伊織も同じことをされたと、お兄さんが言うてはったけど……俺ですらめっちゃ腹が立つんや。伊織はこの比やなかったやろうな。

「なんか、恩着せられるのも借りがあるとか思われるのも癪だし」イライラした様子で、横に視線を向けて、人差し指がトントントントン、腕組みした皮膚を叩いとった。「だいたいあたしはあの場でわたそうとしたのに、強がって受け取らなかったんだから」
「……お前ってホンマに醜い顔しとるな」

おそらく、人生ではじめて言われたんやろうその言葉に、目の前の女は固まった。まあ、その顔やったら言われたことはないやろな。
わかっとるわ。わかっとるから言うてんねん。傷つけたる。人を傷つけるんが好きなわけやないけど……お前は俺の、世界でいちばん大切な人を傷つけたからや。

「は、はあ!?」案の定、ガチギレしとった。しょうもな。
「ひっどい顔やわ。性格が顔に出るってホンマやな」
「ちょっと……なに最低なこと言ってんの侑士」
「ああ、俺は最低や? せやけどお前よりマシ。性格も見た目もめっちゃかわいい彼女のおかげで、真人間にならなと思っとる」
「なん……」
「ブス」
「な……!」
「ブスや、ホンマにひどい顔しとる。何度でも言うたるわ。お前は自分さえよければなんでもええ。他人がどんなに傷つこうが関係ない。クズや。クソみたいな整形顔に、クソみたいな性格。お前みたいな女、誰が好きになんねん。そんなんやから、お前の見た目でしか男は寄ってこんねや。俺もそうやった。誰がお前のことなんか本気で好きになるか。お前みたいな女、ヤれたらよかったんや。欲求ぶちまけてさっさと捨てるべきやった。せやけど俺は、それすらめっちゃ後悔しとる。気持ち悪い女と接触した自分の体が汚らわしゅうてしょうがない。せやからお前の顔を見とると吐き気がする。二度と俺の前でそのボコボコな顔を見せんなや。俺は相手が女やろうが容赦せんからな……もっとボコボコにしたるわ」

机の上に置かれた5万円札を手にとった。目を見開いたまま絶句した女の前で、俺はその5万円を、ビリビリにやぶいた。

「ちょ、ちょっと! なにすっ……!」
「お前が伊織につけた傷はな、これだけしてもまだ、許せるような傷やないねん」

言い捨てて、俺は教室を出ていった。





部活に参加するのが遅くなった俺を、伊織は心配そうに待ってくれとった。帰り道、「今日はなにかあったんですか?」と不安げに見てくる表情がいじらしくて、すぐにでも抱きしめたくなる。
なにかあったんは、お前のほうやろ、伊織……。

「ん? なんで? 今日は伊織が来てくれるん嬉しいから、ご機嫌やけどな?」
「そうじゃなくて、部活……侑士先輩があんなに遅刻するなんて……。だって放課後、すぐに部室で着替えてたし」
「ああ、遅れたこと言うてんのか。あれや、ちょっと自主的な勉強。練習試合の録画とか見とっただけ」見てへんけど。こういう嘘は、必要やと思う。まさか伊織の兄ちゃんに会ったなんて言えへんし。
「ほ、ホントですか……?」
「ん? 疑ってんの?」俺、そんなに信用ないんやろか。ちょっといじわるな気分になってくる。「そうか、浮気がバレたか……実はちょっとほかの女の子とな?」
「えっ!?」う、浮気!? と、伊織の声がうわずった。
「ははっ。アホ。するわけないやろ?」

「浮気」っちゅう言葉に、あからさまに焦った伊織がかわいい。
昨日の今日で、伊織のなかにはいろんな不安が渦巻いとるんやろう。人間、落ちこんどると嫌なことばかり考えてしまうもんやから……俺もちょっと、いじわるすぎたかな。

「俺には伊織しかおらへんのやで?」
「う……浮気は、嫌ですよう、侑士先輩」
「もう、冗談やんか。あんな短時間でどうやって浮気するねん」
「でも30分は遅かったですもん……しようと思えば……」
「どないしたんや。俺の冗談、そんなに真に受けてどうすんねん」

おかしなやっちゃな、と付け加えると、伊織は小声で、「ごめんなさい」と謝ってきた。

「昨日……夜は一緒じゃなかったから、ちょっと寂しかったので」しゅん、と目をふせとる。昼はこの様子が普通に見えたのに、いまでは糸が切れそうに見える。昨日なにがあったかを、知ってしもたせいやけど。
「俺も寂しかったで。せやから、今日はご機嫌や。伊織とめっちゃイチャイチャしたい」

ぎゅ、と握っていた手に力をこめると、伊織はきゅっと口端をあげて微笑んだ。
一気に切なくなる……無理せんと、泣いてええのに。伊織、お前めっちゃええ女やな?

「今日の晩ごはん、なにがいいですか?」
「寒くなってきたで、ホクホクしたもんがええねえ」
「あ、じゃあ肉じゃが! どうですか?」
「お! 肉じゃがめっちゃ好き。俺も一緒につくるな?」
「はい!」

昨日のこと、実は聞いたって言ってしまおうかと、何度も思った。せやけど、それがまた伊織を傷つけるような気がして、俺は結局、口をつぐんどる。
伊織、俺には知られたくないんやろうから……言いたかったら自分から言うやろし。それが伊織のプライドや。こうして知らん顔して伊織のプライドを守れるなら、と思う。伊織がこないだ、俺にしてくれたのも、同じことやったから。

「あ、そうだ。侑士先輩、お誕生日、どう過ごしましょうか?」
「ん……せやね。どないしようか」

スーパーで食材を買って帰ってから、伊織はいつものように、キッチンで手を洗いながら聞いてきた。着替えながら視線を送ったけど、伊織の背中しか見えへん。
どんな思いで、どんな顔してその質問をしてきとるんやろうと、また、胸が切なくなる。

「わたしの誕生日のときね、侑士先輩、日付が変わった瞬間にお祝いしてくれたじゃないですか」
「……ん、せやったな」
「だから、わたしもあの日みたいにそうしたいなって思ってるんですけど、いいかなあ?」
「もちろんええよ。伊織に祝ってもらえるやなんて幸せや」

少し垂れさがった首。手首にある黒いゴムで、髪の毛を適当に結いながら、そのうなじを指でなぞる。そのまま、手首にある腕時計がゆっくりと外されていった。
しぐさのひとつひとつが伊織の心の動きのようで、俺はその背中を、じっと見つめながら会話をした。いつか、その肩が震えだすんちゃうかって、心配になって。

「……侑士先輩がわたしにくれた腕時計、やっぱり、すごくかわいい……素敵」
「……ん、気に入ってくれとるみたいやね。嬉しい。伊織によう似合ってるよ」
「本当ですか?」
「ホンマや。かわいさが引き立つで」
「ふふ……」

いつもなら、この会話のどこかで俺に振り返っとるはずの伊織やけど、今日は振り返らんかった。上品な微笑みを声にしたあと、彼女の動きは、そのまま止まった。
沈黙が、部屋のなかに響いていく。いつもはすぐにキッチンの横で、ハンドタオルの上に置かれる外された腕時計。それは伊織の手のなかに置かれたまま、たぶんいま、伊織を見あげとる。
歪んでいく、泣き顔を。

「……あのとき、わたし……すごく嬉しくて……、……侑士先輩が……」
「……伊織」

ついに、肩が震えはじめる。首がさらに垂れさがって、吐息も同時に震えはじめた。泣き声をおさえるように口もとに手があてられて、伊織の声がくぐもっていく。

「わたしのために……だからすごく……」
「もうええ、もうええよ伊織」

ずっと堪えとったんやろう。悔しさと切なさが氾濫しとる。
伊織……そんな姿見せられて、俺が我慢なんかできるはずないやん。
キッチンに入ってうしろから抱きしめると、伊織はくるっと体を向けて、俺の胸に顔を埋めてきた。

「侑士先輩、ごめんなさい……わたし」
「なんで謝るん? ええんよ、な?」

叫びそうになる声を殺すように、伊織が静かに泣きはじめた。
一生懸命、選んでくれたんやろうに。
ずっと考えとってくれたんやろうに。
俺にわたすの、楽しみやったんやろうに……ホンマ、めっちゃ切ない。

「わたし、侑士先輩へのプレゼント……」
「わかった。ん、もうええから」
「わたしの不注意で、わたせな……」

心が軋む音がする。伊織のせいやないのに。不注意なんか、ちゃうのに……。
それでも、そうとしか言いださん伊織の思いに、俺まで、泣きそうんなってくる。

「……好きや、伊織」

そんなことしか、言えへんくて。
悲しい涙を堪えるように……俺は伊織の震える背中を、泣き止むまでなでつづけた。




to be continued...

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