秘密_05



5.


人生最大の大ピンチだった。最大と大が重複していておかしな日本語になっているけど、そんなことに頭も回らないくらい、わたしも千夏も顔面蒼白状態だ。
車を降りる前から、道順に焦っていた。なんとなく、わかりはじめていた。これは偶然なのか、それとも……。
見あげた先には、カフェ『Zion』があったのだ。

「アーン? なにをぼうっとしてんだお前たち。行くぞ」
「せやでえ。行こうや?」

ぐんぐんと階段をあがっていく侑士と跡部先輩の背中を見つめたまま、わたしと千夏は階段の下で固まった。ふ、踏みだせない。踏みだせるはずがないでしょう!

「……伊織、どどど、どうしよ……」
「と、とにかく行かないと、不審に思われる……けどっ」
「ね、ねえ今日、出勤、誰……?」
「この時間帯は……えっと……えっと」

今日はバイトはない。ないけど、わたしたちが出勤するよりも2時間ほど早い17時。たしか、その時間帯はいつも……。

「ねえ……あのおしゃべり好きな、先輩じゃないっけ。かずちゃん」
「あ、ああ、そうだ。かずちゃんだ……!」

最悪だった。この時間帯、いつも入っているのは、やたらと馴れ馴れしい「かずちゃん」というフリーターの先輩だ。初日から「彼氏いるのー?」とか聞いてきて、ちょっと気持ち悪いと思ったので印象に残っている。いや2週間も働けば、それがかずちゃんという人なのだ、ということはわかったけど。
いいや、そんなことはいい! とにかくお客さんとして、しかも彼氏と一緒にわたしと千夏が店内に入ったら、あのかずちゃんだ、絶対に話しかけてくる!

「おいおい、なにしてんねんって。はよあがってきいや」
「どうした千夏。エスコートが必要か?」

お店の入口前で、すでに侑士も跡部先輩も待機しつつわたしと千夏を見おろしている。というか、いつまでも階段に踏みださない女たちを見て、眉間にシワを寄せていた。
なんで? ねえ、なんで、よりによってここなの!?

「あ、いや……ちょっと緊張して。い、いま行くからっ。い、行こう、伊織」
「え、あ、うん……けど、ふ、震えが止まらないよ、千夏」
「あたしだって、もう泣きそう……終わったよ、もう終わったよあたしたち」
「待って、まだ望みは捨てちゃダメだよっ。なんとかなるかもしれないじゃんっ」
「どうやって! か、顔でも隠す?」
「そ、そうだね、ちょっと伏し目がちに入ろう。とにかくやれるだけのことはやろうよ!」

千夏を励ましたものの、きっとなんともならない。わかりきっていながら、そう言うしかなかった。
わたしはハンカチを取りだし、口にあてた。千夏はマスクを持っていたようで、急にそれをつけだした。お互いの行動はあきらかに怪しいのだけど、そんなことかまっていられない。

「アーン? なぜマスクをしている、千夏」
「ひ、人が集まる場所では、風邪が、うつってしまうかもしれないし」
「……そんなこと気にするタイプだったか?」
「気にするよっ。するからマスクがあるんでしょっ」
「ほう? お前がマスクする姿などはじめて見たがな」
「ほんで? 伊織のハンカチはどうしたん」
「ちょ、ちょっと緊張して、あああ、汗が。おおお店が、オシャレだから」
「ふうん? 最近、寒なってきたのにな? 大丈夫やで。ただのカフェやし」
「そ、そうだね」

妙なのはわかっている。だけど詰問されているようなストレスと緊張でハゲそうになりながら、わたしたちはゆっくりと階段をあがっていった。

「よし、じゃあ入るぞ」
「せやな」

あ! と、うっかり声をあげそうになる。わたしたちが階段をあがりきった瞬間に、跡部先輩がなんのためらいも見せずに(ためらうわけないのだけど)、扉を開けたからだ。
さっと侑士の背中に隠れて、わたしは店内を見渡した。すかさず誰かが声をあげてこちらに向かってくる。まずい! とハンカチで目元まで隠したとき、当然、声がかかった。

「いらっしゃいませー」

その声に、はっとして千夏と目を見合わせた。かずちゃんの声じゃなかったからだ。ハンカチを少しだけさげて正面を見ると、そこにはエプロンをした店長が立っていた。刹那、店長がほんの少しだけ眉をあげる。つまり、一瞬でわたしたちだとバレたのだ。
だが、驚いたのはここからだった。店長はすぐにわたしたちから目を逸らすと、先頭に立っていた跡部先輩に、なに食わぬ顔で言った。

「……4名様でよろしかったですか?」
「え? あ……ああ、4人……」

え、と思う。なにも言ってこない。たしかにわたしと目が合った。たぶん、千夏とも。ハンカチで口を隠してたってわかったはずだし、千夏のことも認識したはずだ。
なのに、いちばんなにか言ってきそうな店長が、なにも、言ってこない……え、なんで?
プライベートな来店には声をかけないとか、そういうルールあったっけ? いや、ない。

「では、あちらのお席にどうぞ」
「ああ、ありがとう」

店内は空いている。空いているときは、いつも自由にお客さんに席を選んでもらっているのだけど、このとき店長はなぜか、中央のキッチンカウンターからいちばん距離のある場所を指定した。

「……なんや、つまらん」
「え?」

席に座ると、わたしのとなりに着席した侑士が、メニューを見ながらぼそっとそう言った。つまらん……? なにその、含みのある発言は。

「侑士先輩、なにが、つまらないんですか?」
「え?」
「いま、つまらんって言いましたよね?」
「え? ああ……あいや、あれや……ケーキ、ケーキの種類に、ティ、ティラミスないなあって思ったんや」
「え……」

ティラミス!? 侑士の口から出てくるとは思ってなかったワードに、かなり驚いた。この人……ケーキあまり好きじゃないくせに。え、ティラミスを注文をするつもりだったということ!?

「侑士先輩、ティラミスは好きなの? 甘いの苦手じゃなかった?」
「あ……いや、甘すぎるのは苦手なんやけど、最近、ちょお、お気に入りやねん。あれや、あの、ハーゲンダッツのドルチェあるやん」
「ああ、たしかに、あれ美味しいですけど。ティラミスのドルチェ、発売されてます?」
「あ……ある、あるで! それにハマってんねん!」
「本当? 数年前にはあったけど、最近まったく見かけないけど……」
「あ、あったんやもん!」

ハーゲンダッツのドルチェは美味しい。たしかに過去、ティラミスは発売されていた。でも最近はめっきり見ないのだ。いやそんなことよりも、それにハマってるなんて……超意外だ。

「ていうか侑士先輩の冷凍庫にハーゲンダッツなんかありました?」
「それは……あれや、俺は買ってすぐに食べるタイプ!」
「いつもわたしと買い物してるのに?」
「よ、夜中に無性に食べたなって買い……いたあっ!」
「えっ! なにっ!?」
「い、いやいや、ああ、あの、脛、ぶつけたみたいやわ……ここで……は、はは」

意外とおっちょこちょいなんだろうか。かわいすぎる。そして、足が長すぎるというのも問題だ。

「ドジ踏んでんじゃねえよ、忍足。ん?」
「……せやね」
「弁慶も泣くらしいからな」
「ホンマにな……お前もぶつけてみ……」

弁慶どころか、侑士も涙目になっていた。





なんでや……なんでやねん。計画とあまりに違いすぎるで。どうなっとんねん。しゃべることしか取柄がないっちゅう噂の従業員は、今日は出やないんか!? と、俺は憤りと焦りで混乱しとった。
だいたい、や。この店の調査は跡部に任せとったっちゅうのに。あいつ、俺のかわいい脛を蹴りあげよったで、めちゃめちゃ痛い。ホンマ、あとでどつきまわしたるからな。
ドジ踏んどるのお前やないか……! ああ、むしゃくしゃするわ。

「侑士先輩、この『チョコっとプリン』っていうの、美味しいと思いますよ!」
「ん? 『チョコっとプリン』?」

脛をひたすらなでとるときやった。伊織がニコニコしながらメニューを見せてくる。そこには、ベタなネーミングのチョコ味なんやろうプリンの名称が書かれとった。
ちゅうかさ、お前これ、食べたことあるんやろ? 美味しいと思いますよって……。

「侑士先輩ティラミス食べたかったんでしょ? これもココアパウ……いたあっ!」
「お、おいおい、急にどないしたんや伊織……」
「い、つう……あ、いや……わたしもここに、ぶつ、ぶつけた、みたい」
「気をつけなよ伊織。景吾と忍足先輩の計らいが嬉しいからって、舞いあがりすぎ。気持ちはわかるけど。ふふ」
「……そ、そうだね」

口を割る直前で、おそらく千夏ちゃんに蹴られたんやろうと察しがつく。跡部と千夏ちゃんって、こういうとこそっくりやな。
せやけど……俺は聞き逃した振りはせえへんで。

「ココアパウダーかかってんの? なんで伊織はそんなこと知っとるん?」
「いや違います!」
「違う? 違うってなにが?」
「コココココアパウダー、かかってるかもしれないないって思っただけです!」コが大渋滞しとるやないか。「ティラミスもチョコ系だし、いんじゃないかなって。これで実際かかってたらわたし天才じゃないですか!?」

天才なわけあるか。天才と呼ばれるためにはもっと鍛錬が必要なんや! ボケが! 
まあええわ。めっちゃ動揺しとるやん。ちゅうかさ、とっさにあんなん言うた俺が悪いんやけど、俺、チョコあんま好きちゃうっちゅうねん。

「じゃあ俺はコーヒー」
「景吾はなにも食べないの?」
「とくに必要ねえ」
「そっか。じゃわたしは『ココットの森』ってやつにしようーっと」
「ほう? それはどんなものだ」
「……さあ? 来たことないからわからないけど、店長おすすめって書いてるから」
「……そのようだな」

千夏ちゃんはさすがやった。跡部のしれっとした問いかけにびくともせえへん。さらに「来たことない」とか主張しよったで。ごかましがうまいうえに、心得とる。俺と跡部は目配せをした。
この状況や、どう考えても絶対に話しかけてくるやろうと踏んどった従業員は急遽、休んだっちゅうことやろう。ホンマにしゃべるしか取柄がないんやな。使えへん。
残るは、いまメインでホールを回っとるあの男やけど……伊織と千夏ちゃんが店内に入ったとき、微妙に眉が動いたのを俺は見逃してへん。それやのに、なんで声かけへんねん。普通かけるやろ。
「いらっしゃい伊織ちゃん」とか、「やあ、今日は彼氏と一緒?」とか。
……なんやねん馴れ馴れしい! ああ、想像しただけでイライラするわ。

「ご注文、お決まりですか?」

メニューを閉じたタイミングで、その男は颯爽とこっちに向かってきた。年齢は見た感じ、25歳くらい、やろうな。しかもかなり、イケメンや。
こんな男がおるとこで働いとるとか、体が震えだしそうになる。いやこの従業員だけちゃう。店のなかにぽつぽつおる連中も、なんやおしゃんな雰囲気満載で、クラブとかにおりそうな連中ばっかやで。あかんやろここ。危険すぎるわ!
イケメンは注文を取ると、俺と跡部にひとつ微笑んでから「少しお待ちくださいね」と礼をしてテーブルから離れていった。それと同時に、跡部が席を立った。

「どこ行くねん、跡部。トイレか?」
「バスルームと言え。下品な野郎だ」

悪態をついて、跡部はさっと背中を向けた。あいつ……俺との仲よしタイムがだんだん面倒になってきとるな。イラついとる証拠や。

「トイレって、下品なのかな……」うーん、と伊織がうなる。
「……みたいだよ。しょっちゅう『お前、女か?』って言われるもんあたし」
「とか言ってさ、いきなり行ったら絶対に『どこに行く!』って聞いてきそうだよね跡部先輩」
「そうなの! だからどうすりゃいいのよって話なんだけど、なんて言ったと思う?」
「え、なんて言ったの?」
「お化粧なおしに、と言え、だって。バカでしょ」
「お化粧してないのに?」
「そう。すっとぼけてんの、景吾って」

たしかにすっとぼけとる……せやけど彼氏がおらんとこやと、こいつらこんなに悪態つくんやな、と、俺はそっちのほうが気になっとった。今回のバイトもそんな流れで進んだ話やろうと思うと、跡部の悪口にのっかって一緒に笑いたいのに、笑えへんようになってくる。
それはそれとして、作戦が失敗しかけとるこの状況をどうしたもんかと思っとると、俺のポケットに入っとるスマホが振動した。たぶん、跡部や。

『あの男、店長らしい』
『え、マジで?』

案の定、跡部やった。
ちゅうか、あいつあれで店長やったんか。イケメンで若くてこの店の主? ますますいけすかんっ。

『ああ。どういうわけで初対面を気取ってやがるのか不明だが、気づいてないわけがない』
『せやな。せやけど、このままシラを切りとおされたらもう、作戦は失敗や』
『ああ。だから佐久間にピエロになってもらう』
『え?』

こそこそメッセージを返しながら、思う。跡部にはなにか、考えがあるようや。

『店長がダメならほかのスタッフに見せればいい。調理場のスタッフがキッチンカウンターに料理を持ってくることもある。忍足、佐久間を連れて店内を歩き回れ』
『……なるほど、CDやな?』
『そうだ。さらに運がよければ音楽システムについて、口を割る。一度ここに調査員を向かわせているが、音楽システムの話はスタッフからされることがない。つまりメニューとは別に用意されているミニブックを見ないとわからない』

俺はメニューが立てかけられとるところに視線を送った。伊織と千夏ちゃんは、まだ跡部の悪口で盛りあがっとる。

「でさ、怒るとホクロも一緒に震えるの。ピクピクッて」
「うそ! 生き物じゃん!」
「生き物だよ! ミニ景吾よ。ひょっとして見てないとこでちょっと大きくなったり小さくなったりしてんじゃない?」
「いやいや……それはありえないでしょ」
「でもいろんな写真で見ると大きいときと小さいときがあるから、さあ」
「え、ホントに言ってる? そんなわけなくない?」
「わかんないよお? そのうちプギャーって言いだして……」
「寄生獣じゃん! キングオブパラサイトじゃん!」
「めっちゃ強そうだよね! 楽しい!」

お前すごい言われようやで跡部……。俺もお前のバイトの件がなかったら一緒になって盛りあがりたいとこやけどな。いまは跡部と組んどるし、盛りあがるわけにもいかん。
ちゅうか……俺がおらんかったら俺のことも言いたい放題なんやろな! 忘れてへんで、「ちょろメガネ」のこと!

『わかったで跡部。つまり、俺がこのCDの山を見ながら、ほかのスタッフに声をかけさせるが第一目標やな』
『ああ、そうだ。佐久間を連れ回せ。おそらくスタッフの誰かが反応する。そして運よく音楽システムのことを佐久間が口走ったら、即座に詰めを。ミニブックを見たとか言いだしやがるだろうが、それも計算済みだ。俺らの座席にあるミニブックは隠しておいた』
『了解や』

俺はさくっと席を立った。跡部の悪口で盛りあがっとる伊織と千夏ちゃんが不思議そうに俺を見る。

「侑士先輩? どうしたの?」
「いや、ちょっとな」
「ひょっとしてバスルーム?」跡部の真似して、千夏ちゃんは笑った。「ひとつしかな」

そこまで言うて、「あ」という顔になる。なんや……伊織が口を割る前に、千夏ちゃんが吐いたやないか。店長が知らん顔してくれとるし、跡部の悪口で盛りあがって緊張が解けたんやろう。
一方の伊織は、千夏ちゃんをギンギンギラギラの目で見とった。脛、蹴らんのか?

「なぜそんなことを知っているんだ、千夏」

俺がツッコむ前やった。地獄耳の跡部が戻ってきながら声をあげる。

「な……なにが? なんのこと?」
「ひとつしかないと、忍足に言おうとしただろ、いま」ごく冷静に言いながら、跡部は着席した。「違うのか?」
「ち、違うよ! ひとつしかないかもしれないですよって、言おうとしただけだし! 親切だよ!」
「ほう? お前にそんな親切心があったとはな」
「ちょっとそれどういう意味」

跡部の目が棒になる。俺もなりかけながら、こっちはこっちで、生唾を飲みこんどるような伊織に話しかけた。

「すごいCDの数やから、伊織も見ん?」
「え、あ……」ピン、と背筋を伸ばして、伊織は目をきょろきょろさせた。
「どないした?」
「い、も、もうすぐ、注文したケーキ、届いちゃうかもなーって」キッチンカウンターのほうをしらっと見よった。なるほど、店長以外のスタッフがおるもんな。嫌なんや?
「それやったらなに?」
「え」
「ケーキなんか冷めたりするもんちゃうねんから、ええやろ別に。ちゅうかこんだけのCDが並んどるのに、伊織、やけに冷静やね?」切り込むと、伊織の目が、ぎょっと見開いていく。「無反応ちゅうても、ええくらい」
「そんそんそんそんなことないですよ! すっごく驚いてる! めちゃくちゃ興味あるし!」

嘘つけ。もう見飽きたくらいやろ。どこになにが並んどるかも全部わかっとる。それよりもバレんようにすることで頭が沸騰しとって、はじめての振りすることもすっかり忘れとるやろお前。
だいたいなあ、音楽好きのお前がこんな店に来て静かなほうがおかしいねん。ホンマやったら最初っから最後まで歩き回る勢いやろっ。

「じゃ、じゃあ行きましょう侑士先輩っ」あげく、また、ハンカチを持ちだしとった。
「どうしたんそのハンカチ。また汗かきそうなんか?」
「そ、そう! そうです!」
「ふうん?」

ええけど、別に。そんなんしたとこで一発でバレるやろ。俺はわざわざキッチンカウンターにいちばん近いCDラックに向かった。顔がはっきり見える位置でCDを見る振りをする。
店長とは違う、ひとりのスタッフとなんとなし目が合った。当然、伊織のことも目に入れとるはずや。せやけどそいつは、すぐに目を逸らした。
待て待て待て待て……なんでやねん!

「す、すごいなあ、CD、いっぱいあるー」
「……せやな」

おかしい。絶対におかしいで。こいつらみんなグルか?
クソが……こうなったら伊織に口を割らせたる。

「これなんか、ジャケット、センスええし、楽曲もよさそうやけどね」
「そ、そうだね」
「こんだけあるなら、試聴とかさせてもらえへんのやろか」
「あ、それなら……」

よっしゃ、引っ掛かりよった! と、伊織が口を開くのと、それはほぼ同時やった。

「お客さま」
「え?」
「お待たせしました。ご注文いただいたものをこれからお運びします。当店、ケーキも鮮度を大切にしておりまして、できればすぐに召しあがっていただきたいのですが……ひと口、だけでも」

イケメン店長やった。俺のうしろから急に声をかけてきて、着席をうながしよる。にっこりしてはるけど、妙な威圧感があった。
……タイミング、よすぎちゃうか。

「だ、だってー侑士! 戻ろっか!」
「え、おい伊織」
「早く侑士っ、早く!」

めっちゃええとこ邪魔された、そんな気分や。せやけど嘘をついとる様子もない。ホンマに俺らが注文したもんは、着席してからすぐに運ばれてきた。
伊織と千夏ちゃんには気づかれんように、跡部に向かって静かに首を振る。まあ、チャンスはいまだやけない。俺がすぐに戻ってきたことで、跡部もそれはわかっとるようやった。

「こちらでご注文の品はすべてお揃いでしょうか」

伊織と千夏ちゃんと俺が注文したケーキ、跡部のコーヒーを丁寧に置いて、イケメン店長が満足そうに微笑む。無性にイライラしてくるな、この男……。イケメンやからか? だいたいお前のせいでこっちはいろいろ予定が狂っとるっちゅうねん。バイトにおるはずの男を休ませとるし、伊織と千夏ちゃんのことは知らん顔するしで、なんやねん。
まあ、ええわ。ケーキをひと口でも放りこんだら、またすぐに席を立って伊織を連れ回したる。ほかのスタッフなら絶対にボロをだすんや。そうなったらこっちのもんやからな。

「それと、もう1点」

俺が決心したのと、これまたほぼ同時やった。イケメン店長が思いついたような顔をして言う。

「当店にはBGM提供メニューというのがございまして。楽曲1つにつき10円、アルバム単位でしたら50円で好きな音楽を店内で流させていただくシステムがあるんです。お客さまは全員、今回はじめてお店に来られたようなので」じっくりと、伊織と千夏ちゃんを見た。二人が、驚愕しとる。「ご説明させていただきました」

俺と跡部は目を合わせて、イケメン店長を見あげた。こいつ、わざわざ言いよった。「はじめて」って。ちゅうことは、や。
俺が伊織を連れまわして店内を回ったところで、無駄やったってこと? やっぱり全員、グルなんか? たしかにさっきも、別のスタッフは一瞬はこっちを見たけど、俺と目が合った瞬間に逸らしよった。
いやいや……全員がグルやとしたら、伊織と千夏ちゃんの言動がおかしいのが嘘になる。そこまで芝居ができる二人やない、絶対。
せやったら、こいつが全部、勝手にそうしとるってことか? はあ? なんでやねん!

「BGM提供メニューの詳細につきましては、こちらにミニブックが……おや?」

と、今度はイケメン店長が立てかけてあるメニューをバサッと勢いよく取った。
瞬時に、跡部と俺は目配せをした。あかん、跡部が隠したんや、その、ミニブックとかいうやつ……。

「ないですねえ、おかしいな。ん?」

跡部は眉間にシワを寄せて、ただ目を閉じた。店長が窓際のカーテンの横に移動する。そのカーテンの裏側から小さな薄いノート型の冊子を手に取って、パンパン、とホコリを払うように持ちあげた。
なんやねんこいつ気色悪い! なんでわかったんや! 

「どうしてだろう、こんなところに。こんなイタズラ、誰がするんでしょうね……困ったものだ」

ひとりごとのようにつぶやいて、一瞬だけ跡部を見る。跡部は知らん顔を決めとったけど、俺はゾクッとした。これは、完全に気づかれとる。
ついでに、威嚇や。これ以上、変なことすなっちゅう、大人の迫力……。

「そ、そうなんですね! 音楽、かけてもらえるんですって侑士先輩!」
「……そうみたいやな」

跡部は不機嫌そうにコーヒーに口をつけたきり、そこからしゃらべんようになった。





絶体絶命の時間を終えてから2日後。わたしも千夏も、あの日以来のバイトだった。

「おつかれ千夏」
「おつかれ伊織……さて、行く?」
「うん、もちろん」
「うん、だよね」

店長にお礼を言わなければいけない、とは、侑士と跡部先輩とのダブルデートを終えた夜、千夏と話しあったことだ。
もちろんお願いしたわけじゃないし、店長に「彼氏に秘密でバイトしちゃってるんでー」なんて話をした覚えもない。でも店長はなぜか、わたしたちが秘密にしていたことをまるで最初から知っていたかのように振るまってくれた。
おかげで、あの日の千夏とわたしにはかなり不自然な点が多かったにも関わらず、いまもお互いの彼氏にバレずに働けている。

「それにしても偶然っておそろしいよね。いきなりダブルデートって言いだすわ、場所は『Zion』だわ……」もうすでにしたような会話を、千夏はくり返した。
「ホント……寿命が縮まるかと思ったよね」そしてわたしも同じような返事をくり返している。それくらい、衝撃だったのだ。
「だいたいなんでダブルデートなんかしようって言ってきたんだろ。引退して羽伸ばしたくなったのかな?」
「わからないけど……ただちょっと気になってるんだよね」
「ん? なにが?」
「侑士さ、あの日からなんか、なんとなく、燃えたぎってる」
「も、燃えたぎってる?」

伝えかたが難しいのだが、ゲームの攻略をしているような雰囲気だなと感じていた。次は、次こそは……という悔しさ(?)のようなものをにじませているのだ。
ゲーム機はたしかに、お家にあるのだけど……テニスの試合でもあんな悔しそうな顔、見たことがない。ゲーマーなのだろうか。

「うん、なんだろう。あんまりいい意味じゃなくて、ピリピリしてるっていうかねー」
「ふうん……そういえば景吾もかも。なんかぶつぶつ言ってるんだよ」
「ぶつぶつ? 跡部先輩が? 考えごとしてるってこと?」
「そう。ぶつぶつ言いながら、なんか使用人さんにいろいろ調べさせてる。なんだろね?」
「生徒会の仕事が切羽詰まってるのかな?」
「まったく、そんなわけないだろ?」

突然だった。事務所へ向かっているわたしたちの背中から声がかかって振り返ると、店長が立っていた。二人でビクッと肩を揺らしたまま固まってしまう。
いつのまに……最近こういうこと多すぎませんか、わたしたち。

「てんちょ……もう、びっくりさせないでよー」はあ、と千夏はため息をついた。
「びっくりしたのはこっちのほうだよ。こないだのは、なに?」店長もため息をついていた。はっとする。
「あっ、そのことなんです! わたしたち店長にお礼を言わなきゃと思ってて」

店長はしらっとした目を向けてきた。遅刻ギリギリだといつもこの目をしてくるのだが、今日はなんだか、雰囲気が違うような気がする。
わたしも千夏も、ピンと背筋を伸ばした。

「このあいだは……!」
「ストップ」
「え」「え」千夏とハモってしまう。
「ありがとうございました、とか言うつもりなんだろ?」わかりきってると言わんばかりだ。「あのさ、お礼なんていいんだけど、先に言わせてほしいことがあるんだよ」
「な、なんでしょうか」千夏は、目をぱちくりとさせていた。
「まあ安心して、クビじゃないから」

しかし店長はなにも言わないまま、事務所に向かって歩きだした。ソファに座るように促されて、千夏と顔を見合わせながら、ゆっくりと着席する。
アイコンタクトは、「説教かな……?」だ。バイトで粗相をしたのだろうか、と不安に思っていると、正面に腰をおろした店長は、わたしたちの顔をじっと見つめた。

「……嘘はいけない」

言われた瞬間に、息をのんだ。店長はいつもユーモアを交えてしゃべる人だ。こんなに真剣な表情で話しかけられたことは、面接のときですら、ない。
そして「嘘」というのは……わたしたちの「秘密」について、店長は知っていた、ということ?

「俺が偉そうに口をだすことでもないし、言えた義理でもないんだけどさ」ただ気がかりでね……と、店長はつづけた。
「あの、店長……なんで」
「どんな理由があっても、大切な人を欺くのはよくない」

湖の静けさを持ったような視線が、わたしと千夏にからみついてくる。冗談を言ってるわけじゃないのはそれだけでわかった。やっぱり、説教だった。でもこれは、バイトの説教じゃない。
まったく、思いもよらなかった。なぜ店長は、知っているのか。

「さっきの会話、聞こえてたからさ。やっぱりなと思ったんだ」
「やっぱりって……」千夏がぼんやりとつぶやいた。彼女も相当に驚いている。
「知ってたん、ですか?」
「というか、気づいた。二人が彼氏を連れてきた数日前にね、電話があったんだよ、この店に」
「え?」

大人の男の声だったという。わたしと千夏が働いているのか、探るような電話だったそうだ。

「どちらか一方の在籍確認ならまだわかる。緊急だけどスマホがつながらなくて、ならバイト先に電話ってことはあるからね。でも二人まとめてはおかしい。ストーカーだとしたら気が多いし、学校関係者でもないだろう。氷帝はバイト禁止してないしね」
「千夏……もしかして」
「うん、あたしも思った。景吾の使用人かも」
「誰でもいいけどね。とにかく、だから4人で入って来たときに、ああ、あの日の電話はこの男の子たちの差し金だろうってすぐにわかったよ。君らの彼氏、入ってきた瞬間から、視線がおかしかったからね」
「おかしいって……」なんだかすごい言われかたをしてる。
「この空間すべてが敵、みたいな目をしていた。そこからはもう簡単。君らが恋人にバイトを秘密にしてるってことだ。千夏ちゃんの彼氏かな? コーヒーだけ注文した彼」
「あ、はい。そうです」
「BGMのメニューブックをすぐに隠してた。たぶん、俺が君らを見ても知らん顔したからアテがはずれたってことだろうね。彼らの想像じゃ、スタッフの誰かが話しかけて、バレて、そこからコンコンと詰める予定だったんだろうから。頭の回転が早いよ。まあでも、それを見て確信がね……だから、すぐにスタッフ全員に通達したんだ。とりあえず、知らん顔してあげてって」

店長のよすぎる勘に唖然としそうになる一方で、わたしも千夏も同時に肩を落とした。つまりあの日、侑士と跡部先輩はわたしたちを思いっきりビクビクさせたあとに大説教するつもりだったのだ。
でもそれが適わなかった。だからいま、あんなに躍起になっている。侑士はゲームに負けたから燃えあがってるんじゃない。次にわたしたちにどんな手を使ってビクビクさせようか、作戦を練りに練っているというわけだ。

「ぐあ……ねえ伊織」
「うん、バレてたんだね……」
「マジか……偶然じゃなかったってことだ」おかしいと思った、と千夏は付け加えた。
「ホント。すごい嫌なことするじゃんね!」はっきり言ってきたらいいのに!
「ホントだよ! 怯える姿を見ようなんて、最低じゃない!?」
「うん、なんかずる……!」
「ずるくて最低なのは君らもだろ」

ずるいよね! と言いかけたわたしだったが、店長からかぶせ気味に、ピシャリ、と叱られた。う、と言葉に詰まってしまう。
でも、だって……こっちにだって言いぶんはあるんだ!

「でも聞いてよ店長!」千夏が吠えた。
「ああ、女はすぐわめく……」
「黙って聞いて!」いいぞ千夏、いまのわたしもちょっとカチンときた。「あたしたちだって嘘なんかつきたくなかったよ! でもバイト許してくれないんだもんっ。男がいるとこはダメとかさ、そんなバイトどこにあんのっ! あとなんだ、新聞配達なら許してやるとか、あんなもんお金にならないじゃん!」すさまじい勢いだ。掛けあい漫才をひとりでやっているような早口だった。「でもあたしたちは、お小遣いだけじゃ足りないのっ。これから化粧だって覚えたいし、彼らのためにおしゃれだってして……!」
「彼氏に、大きな嘘つかれたことある?」

店長の質問が、唐突に投げかけられた。
千夏はまだ言いたいことがあったはずだ。だけど、それをさえぎってぶつけられた質問に、彼女は絶句した。
当然、それはわたしも一緒だった。うんうん、と千夏の言いぶんに強く頷いていた首が、ピタ、と固まってしまう。
そんなの……わたしだって千夏だって、深く考えなくてもわかる。
そんなこと、いままで一度だってない。

「それが答えなんじゃないの?」店長の声は、急に優しくなった。「まだ若い二人に、教えておくよ。与えられる愛と裏腹に相手を欺くと、必ず……後悔する」

なにも、言えなかった。





事務所をでて、夜道を千夏と歩く。階段では千夏が先におりた。その背中のしょんぼり具合ったら、なかった。きっとわたしも、同じくらいしょんぼりしているんだろう。
気分は沈んだ。いや、どこかでわかっていた。小狡く、悪どい自分たちのこと。わかっていながら、自分たちは悪くないと思おうとしたんだ。

「ひどい女かな、あたしたち」
「……ん」
「自分勝手で、欲張りで、傲慢で、卑怯で、冷淡で、嘘つき?」
「……見あわないよね、彼らに」

――ずるくて最低なのは君らもだろ。

店長に言われたことは、頭のなかのどこかにはあったけど、認めたくなかった自分たちの姿だ。わたしたちは、大いに反省すべき自分の卑しさにぶちあたった。
店長は、優しい……他人なのに、あれだけはっきりと言ってくれる人は、なかなかいない。いろんなことに、気づかせてくれた。認めたくない自分を認めれば、人は強くなれるのかもしれない。

「わたし、後悔したくない」
「うん、あたしも……」

やっぱり最初から、話しあうべきだったんだと後悔しても、もう遅い。だからこれ以上は、後悔しないように。
お互いが同時に、スマホをながめた。そして同時に頷く。

「いい人だね、店長って」千夏がぽつりとつぶやいて、笑った。
「うん、ホントに。だから離れるとなるとつらいけど」わたしも、静かに笑った。
「覚悟、決めよう」
「そうだね。本当に覚悟を決めるのは、こういうことだったよね」

ついてしまった嘘。きっかけになった束縛……だけど侑士は、わたしを欺いたりしない。
侑士、いまから、会いに行くね。





to be continued...

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