フリーダム_01




1.


バイトを終えて降りていく階段は、あのころと変わらない。Zionの盛況っぷりも相変わらずで、今日もわたしはクタクタだった。それでも、働いたあとというのはどこか清々しい気分でもある。大好きな音楽に囲まれて、汗を流して動き回っているからだろう。スポーツのあとのような爽快感も、あのころと変わらない。

「おかえり伊織」
「あれ、侑士……なんでここにいるの?」
「なんや、おったあかんの?」
「ふふ。違うよ。だけどめずらしいなって思っただけ」

階段を降りると、侑士が待っていた。少し肌寒くなってきた季節だというのに、シャツ1枚で突っ立っている。

「んん、たしかに最近、Zionに顔だしてないからなあ」
「侑士、すっかり忙しくなっちゃったもんねえ。遊びで」
「あ、いまの嫌味やな?」
「そんなことないよー? 大学は遊びに行くものだって、お兄ちゃんも言ってた」
「それは、ホンマに、そう」

このところすっかり穏やかになってきた会話が心地いい。反面、ときどき不思議な感覚にとらわれることが多くなった。付き合ってからの1年は、怒涛の日々だったからだろう。
侑士の嫉妬からはじまって、初恋の人問題やら、元カノ問題やら、バイトさせてくれ病やら、大人になりたい症候群やら……。ケンカばかりして、そのたびにたっくさん泣いて。情動が忙しい毎日……そしてかわいらしい思い出たち。この関係が落ち着いてきたのは、その年のクリスマスだったっけ。
わたしに内緒で、クリスマスイブに東京の夜景を一望できるホテルを予約した侑士。なにも知らなかったわたしは、跡部先輩のおかげで侑士と一緒に過ごすことができた。
あのときのペアリングは、もちろん、いまもお互いの薬指にある。そう……あれがきっかけで、侑士もわたしも、本格的に落ち着いてきたんだよね。

「だからって、飲みすぎたら体を壊しちゃうよ?」
「自分かて高1のくせに夜遊びしとったやんかあ、不良娘」
「あー、まずいっ。墓穴ほった! でもわたしお酒は飲んでないからっ」
「んん、たまに飲んどったの、俺は知っとる」
「侑士ほどじゃありませんー」
「ああ、あかん。それ言われたら、なんも言えん。伊織の勝ちやな」
「よしよし、わかればよろしい」

ペアリングが、もう二度とふたりを離さない証のように思えてから……早いもので、2年が過ぎている。
わたし、18歳。侑士はもうすぐ、20歳になる。すっかりふたりとも成人してしまった。
そういえば2年前の侑士の誕生日は、散々だったなあ、と、ふと思いだした。

「伊織、チュウして」
「わわ、侑士よろけてるじゃん!」ふらふらっとすり寄ってきた侑士をとっさに抱えた。「うわ、お酒くさーい」唇をつけてみたものの、ぷわんと漂ってくるワインの香りと、ムスクの香り……。こっちまで酔いそうだ。
「やってお酒、飲んできたもん」

倒れこむ勢いでわたしの腰を抱く侑士に、一緒によろけてしまった。付き合いはじめたころよりも、侑士はまた大きくなったのだ。彼の成長期はあと数年つづくんじゃないかと思っている。どこまで伸びるんだろう、この身長。

「どおりで薄着だと思った。体、熱いんでしょ?」
「ん、ちょっとな。ちょっぴりやで?」
「それで、人肌恋しくなって会いにきたの?」
「人肌やなくて、伊織が恋しくて、伊織に会いたかったから来たんやって」
「あらあら。今日はリップサービスがいいですねー侑士さん」
「あ、嘘やと思てる? ホンマやで?」
「わかったって。ほら、歩ける?」
「歩けるけど……そっけないなあ……昔はすぐにでも顔を赤くしよったのに。めっちゃかわえかったのに……なんか変わったよなあ伊織。侑士、寂しいで?」

たしかに、ちょっとそっけないかもしれない。いまも変わらず愛を捧げてくれる侑士が愛しい一方で、少し照れくさいのに加えて、誰といたの、と問い詰めたい自分がいる。

「そりゃ変わるよー。成長期だもん」だから、ごまかしてしまう。
「そういう意味ちゃう」
「侑士も変わったでしょ? いま赤くなってるのは侑士のほうだし。あれだけわたしに夜遊びどうこう、ガミガミ言ってたくせに、こんな酔っぱらって」成人とはいえ、お酒は20歳から。「ん……ていうか、いまはかわいくないって意味かな?」
「そんなことないで? 伊織はいまもかわいい」
「ふふ。適当なんだから」
「適当ちゃうよ。けど許して……先輩やらサークル仲間に誘われたら断られへんねん。大学の友だちとも、もう1年の付き合いになるやん。仲間意識も強なってきたしな」

その仲間に、女は何人いるんだろう。なんて、わたしも相当、面倒くさい女だな。

「そうだね。でも無茶はしちゃダメ。こんなふらふらになるまで飲むのは、控えてほしいよ?」
「ん、わかっとる……」

侑士を支えて歩きながら、思う。こんな冷静な自分、2年前のあのころと比べると嘘みたいだ。憧れて、憧れて、憧れまくっていた侑士と付き合えるようになってから今日までの日々。たくさん時間を重ねて、わかったことがひとつある。

「なあ、今日うち寄っていかへん?」
「えー、侑士、酔っぱらったらむちゃくちゃするんだもん、嫌だなあ」
「な、なんちゅう言いぐさや……それも愛やんっ」
「いーや、あれはただの性欲」
「ぐ……」

人は、慣れるということに。





高校3年になって、わたしは当時の侑士と同じクラスになった。教室も同じだ。あのころ、この窓際から校庭を眺めていたのかな、と、物思いに耽りながらぼんやりする。
あと数日で、侑士の誕生日なのである。

「あー、今年どうしよ……」
「んー? なにが?」

いつのまにか、千夏が顔を覗きこんできていた。お互いの恋人が学校を去ってから、ランチは決まって彼女とペアだ。とはいえ、ガールズトークも落ち着いてきている。跡部先輩と千夏も、穏やかな関係になってきたということかもしれない。

「うん、そろそろ侑士の誕生日だからさ。ねえ千夏、今年どうした?」
「あー、景吾の誕生日プレゼントのこと?」
「そうそう、まだ3回目だってのに、すでにネタ切れなんだよわたし」
「ネタ切れ問題あるねー」

一昨年は腕時計、去年はお財布をあげた。侑士はそのどちらも肌身離さず持っていてくれる。まあ、お財布はあたりまえなのかもしれないけど……すごく、嬉しい。

「あ、でもネクタイあげたかなー。ほら、記者会見とか増えてるからさ、あの人」
「跡部先輩はプロだからねー。でもいいかも、侑士も就職活動はじまるだろうし」
「ちょっと父の日っぽいけどね」

くすっと笑う千夏が、本当に美しい。彼女はこの2年で、想像したとおりの女性になっていた。跡部先輩との交際も拍車をかけたんだろう。千夏を知っているわたしとしてはツッコミたくなってしまうが、雰囲気だけはかなり気品あふれる「いい女」だ。
跡部財閥の御曹司がプロテニス界で活躍する一方で、彼女も何度かマスコミに撮られているから、ぐっと「いい女」度があがっている気もする。

「でも跡部先輩、喜んだでしょ。もうネクタイはこれしかつけない、とか言いそう」
「言ってた言ってた。それしか持ってないみたいだからやめてって言っておいたけど」
「相変わらず仲いいねえ」
「仲いいプレイだから。もうさ、そういう時期は過ぎたじゃんあたしたち。まったりしてきたから、努力してでもラブラブっぷりを発揮しないとね。そう考えるとちょっと虚しい気もするけど、妙な空気にならないようにしてるんだよ、あたしたちなりにね」

一理ありそうだ。
2年も付き合っていれば、関係性が落ち着いてくるのは当然だし、イベントごとだってそう。誕生日、クリスマス、バレンタインデーと年に3回はプレゼントを用意する。だからって毎回サプライズ、毎回キャピキャピきゅーん! なんて状況はつづかない。
まあ、バレンタインデーにチョコ以外の贈りものなんて、本当はしなくてもいいんだろうけど、初回では千夏もわたしも張り切ってしまったものだから、止めどきがわからない。結局、今年の誕生日で7回目のプレゼントだった。そりゃネタ切れにもなります。

「でも忍足先輩こそ、なにあげても喜ぶでしょ」
「うんまあ、そうなんだけど……」だから悩んでしまう。侑士は優しいから。
「ていうか、去年もこんな話してるよね、あたしたち」
「2年前もしてるよ、なんせはじめてのイベントごとだったしね」
「あのときはさ、伊織がサゴシキズシあげるとか言いだして、それはやめろって止めたね」
「2年前もバカだねーわたしは。でも初々しいねえ」
「どう初々しいの」
「だってわたしさあ、処女を捧げたんだよ? あの日」
「やだ! そうだった! やだもう、乙女か!」
「乙女だもーん」

慣れるのもそうだけど、侑士曰く、変わるもんだと思う。
セックスの話をしても平然としてる。というか平然と自分から振っている。いや、もともとそういうきらいがあったかもしれないけど……定かではない。
良くも悪くも、いろんなことに免疫がついて淡々としはじめるのが大人になるということなんだろうか。まだ高校生なのに成人といわれてもピンのこないのが正直なところではある。
ただ……侑士はこんな、初々しさを失ったわたしの姿を望んでいなかっただろうなあと思うと、少し申し訳なくなったりもする。
でも、だからって? いつまで経っても「侑士、大好き!」「愛してる!」なんてピュアさを発揮していても気持ち悪いというものだろう。
侑士だって、なんだかんだ言いつつ、前ほどのイチャつきっぷりはない。いつだって一緒がいい、なんてことも言わなくなった。大学に入って遊びで忙しいから、言えなくなっちゃったのかもしれないけど。
なんにせよ、いい意味で関係が長ければ感情は安定してくる……決して悪いことじゃないけれど、やっぱり、「ほころび」は見え隠れしたりして。

「あれ、侑士からメッセージきてた」
「あ、あたしも景吾からメッセージきてた」

お互いがメッセージアプリを起動して、ふむ、と頷いた。前なら「きゃーっ」と歓喜の声をあげていたのが、いまでは通常運転になってしまっている。
だからって冷めたわけじゃない。相変わらず侑士のことは大好きで、愛しくて、離れられない人だという事実はあのころから変わっていないし、それは千夏も同じはずだけど……これが噂の、マンネリというやつなのか。

「忍足先輩、なんだって?」
「ん、今夜、久々に映画でも観ようって。急だなあ」たまたまバイトがないからいいけど。こっちの予定はおかまいなしって感じなんだから、もう。「千夏は?」
「うん、待ち合わせにちょっと遅くなるってさ。最近こんなのばっか」
「なんだろうねえ。このしっくりこない感じ」やっぱりマンネリ?
「えー、伊織のとこはいいじゃん。忍足先輩、伊織にラブラブって雰囲気まだまだ強いじゃん」
「そうなんだけど……。これ、わたしの問題かなあ」
「え、なにが?」
「うん……ときどき、そういうラブラブな感じが、懺悔のように聞こえるんだよ」
「え……どういう意味?」
「んんー……いや、ごめん、なんでもない」

ここ最近になって、友だちや先輩との付き合いやらなんやらで、毎日のようにわたしの知らない人たちと飲みに行って、お酒に酔ってる日も多くて、その勢いでわたしを抱く侑士だって、好きだし、愛してるけど……でもやっぱり、ずっと頭に引っかかっている「ほころび」が、腑に落ちないのだ。





「腑に落ちんねん……」

大学のテニスサークルの部室で、女友達を相手にぼやいた。俺が日頃から考えとることなんて、当然ひとつしかない……伊織のことや。

「でもさあ、付き合って2年ってそんな感じになる時期なんじゃないの? あたしはよく、わかんないけどさー。そんなに付き合ったことないし」
「俺も、2年も付き合うのはじめてやし。ちゅうかちゃんと好きんなった子が伊織だけやからなあ」
「はいはい、何度も聞きました、それ」

麺棒で耳掃除をしながら、あくびをしたキャシーがだるそうにそう答えた。
別にええんやけどさ……俺、男やで? 彼氏でもなんでもないし、たしかにただの大学の友だちやけど、さ。一応、異性やで。
もう少し女らしさあってもええんちゃうやろか……なんちゅう意見は、キャシーには通用せんのもわかっとる。いわゆるサバサバ系やからなこいつ……1年も友だちやっとれば、その程度のことは俺でもわかる。

「てか、よく飽きないよねえ」
「ん? どういうこと?」
「2年もよくつづいてるよねって意味」
「ああ、そういうことか。まあ、飽きるってことは無いな。絶対、無い」

テニスサークル仲間であるキャシー。年は俺とタメで、大学ではじめて知り合った女友達や。なんでか知らん、最初からキャシーって呼ばれとって、飲み会にはいつもおるから、自然と俺もキャシーと呼ぶようになった。どっからどう見ても日本人なんやけど、そんなツッコミはこの女に限ったことやない。

「じゃあ腑に落ちてるじゃん」
「いや、そら伊織に不満なんかないで。せやけどたまには、付き合いたてのときみたいなイチャイチャがしたいねん俺は。あのころの伊織、めっちゃかわいかった。いつやって俺を見る目がキラキラしとって、大好きってオーラがすごかって。あ、もちろん伊織はいまでもかわいいで?」
「聞いてない」
「ああそう、堪忍。せやけどなんか最近、落ち着きすぎやねん……冷めたんかな」
「あのさあ、忍足」
「なに?」

はあ、と、これみよがしにため息をはいとる。呆れ返ったような顔して、なんやねん。

「そんなさ、2年も一緒にいて、いまだに『大好きー!』キャピキャピ、なわけないじゃん」
「ええー……そういうもん?」
「あたりまえじゃん。それじゃなくても毎日連絡とりあって、毎日会ってんでしょ?」
「連絡はそうやけど、毎日なんか会ってへん。週4くらいや」それでも減ったなあって、俺は思うくらいやのに。
「ほぼ毎日じゃん。そんなの飽きるに決まってるでしょ、いくら女子高生でも」
「あ、飽きてへんわっ。ちゅうか、女子高生は関係ないやろ」
「あるね。高校生のときは恋愛がすべてだったもん」
「いまは違うんか?」
「友だちだって増えるし、単位とか就職とか、将来のことしっかり考えなきゃならなくなるからね。おまけに彼女も氷帝なんでしょ? 受験のない高校生なんて、かなり気楽なもんだって」
「まあ……それは、そうかもしれへんけど」なんや俺まで責められとる気いする。
「てかさ、あたし思うんだけど」

普通の高校から受験戦争を突破してきた女は、足を組みかえたあと、麺棒をゴミ箱に捨てて、がっつり身を乗りだしてきた。
いちいち動きが大げさなヤツっておるよな……舞台俳優みたいな。

「ガキのどこがいいの?」
「はあ?」
「シロマもゴッチもビジーもみんな女子高生と付き合ってんじゃん。合コンもしてるし」

みんな同じテニスサークルの仲間のあだ名や。どういうネーミングセンスしとんねんと思うけど、揃いも揃って俺がサークル参加したころにはすでにできあがっとった。

「こないだもミンミンとタマピョンとリリッチと話してたんだけどさ」

以下同文や。あだ名が全部サブい。ほんで全員、女のあだ名に変わっとるけど。念のため。

「なんでガキがいんだろ。マジ意味わかんない」
「お前らみたいに純粋さなくしてないからちゃうやろか?」
「はあー!? 女子高生のほうがよっぽどだし」
「なにがよっぽどやねん。偏見やわ。しかも失礼。伊織はな、そんじょそこらの女子高生とちゃうねんぞ。それに、お前よりよっぽど大人やっちゅうねん」

おい誰か酒でも持ってこんかい! と、言いたくなるほどや。ホンマ、人の彼女に向かってなんちゅうことを……誰が誰に言うとんねん。
せやけど俺の言いぶんにも、キャシーはカチンときたんやろう。ふてくされたような顔をして目をそらしよった。ほらな、そういうとこ、伊織とは全然ちゃうわ。伊織は拗ねてもかわいいけどなあ。
にしても……女はようわからんとこで嫉妬する生き物やな。男友達が誰と付き合おうがほっとけや。
俺らはお前らが還暦のおっさんと付き合っとってもなんも言わへんで。いや、ひくけど。

「あ!」
「うるさいよなにー」

伊織を思いだして腕時計に視線を送ると、すでに17時になろうとしとった。あかん、遅刻してまう!

「俺、帰るわ。伊織とデートやねん」
「結局、今日も会うんじゃん、そりゃ飽きるよ」
「飽きてへんっちゅうねん」

急いでバッグを持ちあげた。最近の俺、遅刻つづきやから今日こそ伊織を怒らせてしまうかもしれへん。それだけは避けな……久々にめっちゃラブラブしたいねん、今日は。

「あ、待って侑士」ドアノブに手をかけたところで、呼び止められる。
「待たれへんってっ」急いでんねんこっちは!
「跡部くん、どうだった?」
「ああ、あれな……」

ずいぶん前から、跡部にサークル参加の誘いを促すように言われたとったことを思いだす。キャシーはなんやかんや言うても、このサークルの副部長や。

「うちの看板になってくれると超盛りあがるんだけど!」
「サークルのお遊びテニス部になんかに入るわけねえだろ、この俺が。やって」
「く……っそおー! あのボンボン! 部長にそのまま伝えられるわけないし!」
「せやろな。ご愁傷さま」

キャシーの怒りの声を背中に、俺は部室をあとにした。





映画館の前に到着したのは、約束の時間より10分もあと。めっちゃ走ったけど、電車の乗り継ぎが間に合わへんかったで、俺は伊織の背中にそっと声をかけた。

「堪忍、ちょお遅れた……」
「あ、侑士。来ないのかと思ったよー」
「来んわけないやん。俺が誘ったのに、堪忍な、待たせて。大丈夫やった?」
「うん、大丈夫。でも何度もメッセージ送ったのに未読だったから、少し心配だった」
「あ、堪忍……! 急いだから、見る余裕なくしとって」
「いいよいいよ、どれも間に合いそうだし。どれ観る?」
「ああ……ああ、えっと……」

いいよ、と言いながら、伊織は穏やかな顔をしてこちらを見とったけど……それが余計に怖い……。ホンマは怒っとる。絶対に怒っとる、この感じは。2年も一緒におったらそういうのはわかる。まとっとる空気が違うんや。
昔やったら「いいよ侑士! そんなの気にしないで!」とか、満面の笑みを見せてくれとったで……いまは笑顔でもしらっとしとる。はあ……最近、伊織のそういう顔も見てないなあ。
いやいや、そもそも遅刻した俺が悪いねんから、昔と変わったとか思う俺がようないよな。そうやで、キャシーも言うとったやん。こんなもんやって。お互い想いあっとる。それはたしかなんやから。

「伊織は? 観たいのないん?」
「え? あー……わたしは侑士が観たいのでいいけど」
「ん……でも、たまには伊織が選んでや。俺、伊織が観たい映画がええ」
「えー? 急だなあ」いつも侑士が選んでるのに。と、ぼやいとる。「うーん……別になんでもいんだけど……侑士、決めてなかったの?」
「そ……堪忍。ちょおデートしよって思っただけやし」映画は、俺らの思い出のひとつやったから。
「そっか。ならわたし、映画じゃなくてもいいよ?」
「え、そこ変更する?」
「え、だって侑士だって観たいのないんでしょう?」
「いや、ないわけや……」
「えー? なに、どっち? このやりとり、なんか変じゃない?」

くすくす笑っとるけど、微妙に、俺は傷ついた。はあ……なんでやろ、うまくいかへん。俺はなんか、伊織がいっつも俺に合わせてくれとるで、それに今日も遅刻してもうたし、なんちゅうか……そういう、アレやってんけど……。

「そ、それやったら、これ、かなあ」
「これね。うん、これでいいよわたしも。もう、時間もないんだから、最初からそう言えばいいのに」
「そうやな、堪忍な」

笑顔やけど、言葉の棘がチクチクと俺に刺さってくる。ああ……ご機嫌ナナメなん? ひょっとして。
遅刻……か、やっぱり……。





実際、苛立ちを覚えていた。
なるべく表にはださないようにと気をつけていたつもりだけど、少し尖っているのが自分でもわかる。遅刻はもう慣れっこだし、映画を決めてこなかったことも、気にならない。
でも、今日も香っているから……この数ヶ月で、やたら鼻につくようになった、ムスクの香り。過去に侑士が関係を持った女性たちを想像させて、その言葉どおり、鼻につく。

「じゃあ侑士、わたしチケット買っとくよ。侑士はポップコーン買うでしょ?」
「ん、買う。伊織、ハーフがええんよな?」
「うん。塩もキャラメルも好きー」
「やんな。……なあ、俺は?」
「へ?」
「俺のこと」

突然だった。ここからお互いが別の売り場に行くというのに、侑士が一歩近づいて、わたしをじっと見おろしてくる。ちょっと、待って……なんでそんな、切なそうな顔、してるの。
もしかして……不機嫌を察知したのかな。侑士、そゆとこ繊細だから……。

「そ……す、好きだよ?」
「ホンマ?」
「本当だよ、なに、どうしたの急に」

久々に、胸に甘い痛みが走っていく。ムスクの香りをぷんぷんさせているくせに。

「俺も伊織がめっちゃ好き……」こっそり耳もとで、優しい侑士の声が響いた。
「……ポ、ポップコーン、並ばないの?」
「ん、並ぶ。よっしゃ、今日はラージにしたろかな」愛でるように、わたしの髪をなでた。
「ええ? 食べきれないよっ」
「大丈夫やって。余裕や」

だから、悔しい。ずるいって思う。
もちろん、ただよってくるムスクの香水に、浮気を疑ってるわけじゃない。それがきっと大学の、わたしの知らない世界の女友達だってこともわかってる。だけどやっぱり癪で、だけどその気持ちを、侑士はうやむやにさせるから。
敵わないという羨望と、小さな嫉妬心……でも結局は安心してしまう穏やかさに、困惑してしまう。

「ホントにラージ注文してる……」
「やって気分ええねんもん。久々の伊織との映画デートやし」
「減らなくて困るよ?」
「大丈夫や、俺が食べたるって」

チケットも手に入れて、侑士は自然とわたしの手を取った。こんなふうにベッタリしながら映画館に入るのは、たしかに久々のことだ。
「大学の友だち」が口癖になった侑士に、どこか冷めた情動を覚えたのはいつからだろう。前はしょっちゅう映画デートもショッピングもしていたのに、このところ侑士の家で過ごすことばかりで……侑士はわたしを家に送った帰りに、そのまま飲みに行くことだって増えたから。
「大学の友だち」との約束で忙しくなった侑士。だからわたしだって、バイトで忙しくして自分をごまかした。

――努力してでもラブラブっぷりを発揮しないとね。そう考えるとちょっと虚しい気もするけど、妙な空気にならないようにしてるんだよ、あたしたちなりにね。

跡部先輩と千夏だって、そうした努力をしているんだ。わたしたちだって、たまにはラブラブっぷりを発揮しなくちゃいけない気がする。
そうだ……今年の侑士の誕生日は、日付が変わる瞬間にお祝いしよう。はじめてお祝いした、あの日みたいに。





映画のあと、久々に店長の顔が見たいと言いだした侑士を連れて、わたしたちはZionで向かいあっていた。

「あの主人公の友だちおったやん」
「うんうん、なんだっけ。マイクだ」
「そうそう。マイクさ、結局はほかの女と浮気したってことやんな?」
「そうだね。ヤケになっちゃってたから、そういうことなんだろうね」
「せやのに、あれはお咎めなしでええの? そんでハッピーエンドになるんあれ?」
「ああ、侑士はそこ許せないんだ?」
「あかんやろお。絶対あかんって」

侑士とは今日も恋愛ヒューマンドラマ系の映画を観た。そして辛口評論家っぷりを発揮している。もちろん、気持ちはわかるのだけど。

「でもさ、メインのふたりじゃないから」
「せやけどあの友だちの恋愛も大事なパートやったやん?」
「納得いかない? でもなあ、海外だと結構そういうのがカジュアルリレーションシップ的な、ふわっとした感じのこともあるし。海外ドラマでも多いよ」
「あかん。浮気は浮気や。だいたい節操ないわ。あっちこっち、情緒不安定かっちゅうねん」

特別につくってもらったオムライスを頬張りながら、おかんむりのご様子だ。ラージサイズのポップコーンを食べきったお腹は、いったいどうなっているんだろう。わたしも食べたけど、たぶん、いちばん小さいサイズの半分程度しか食べてない。このままの食生活をつづけてたら、侑士、将来ぽっちゃぽちゃになったりして。
ふふ、それはそれでかわいいかも。

「ん、伊織、なに笑ろてんの?」
「ううん。侑士らしいなって」将来ぶくぶくした侑士を想像してた、とはとても言えない。
「あたりまえやん。俺、浮気は絶対に嫌や」
「そりゃ、そうだよねえ」百も承知です、と言いたくなる。独占欲の塊だもんね、侑士は。
「あれ? 伊織は浮気、ええの?」
「え、もちろん、ダメだよ」なにを言いだすのだ。いいわけない。
「ふうん」が、疑いの目でこちらを見ている。「やけにしらっとしとるやん」
「してないって」
「あかんで。俺、絶対に無理。そんなんされたらもう、終わりやからな?」
まったく、なに言ってるんだか。「もう、信用できないの? あーあ、せっかく今日は侑士の誕生日の打ち合わせ、しようと思ってたのにー」
「えっ!」
「こんなに侑士のこと想ってるのに、ひどいなあ」

自分はよその女の香水が服につくほど遊んでいるくせに、と言いたくなったけど、もちろん、言わなかった。浮気してるわけじゃないのも、百も承知だからだ。かわいくない愚痴は控えたい。侑士にずっと、愛されていたいから。でも、すこしだけ困らせたくて、拗ねた振りをした。

「堪忍っ、信用してないとかちゃうで? ちょっとした冗談や」
「ふふ」どの部分が冗談だったんだろう。終わり、に関しては本音だと思うけど。「調子いいね?」
「そんなんちゃうって。で、俺の、誕生日?」目がキラキラしはじめた。でも、そういう侑士がかわいい。
「うん。今年のお誕生日はどうしよっか? なにかほしいものある?」
「なんもいらん。伊織がおってくれたらええ」

相変わらずの優しい笑顔だった。本心から言ってくれてるんだと、しっかり伝わってくる。照れくさい。素直に受け止めていたあのころに、たまには戻らなきゃ。侑士だって、日常になったこの関係に、懐かしい刺激を与えてくれようとしているんだから。

「ありがとう。でも、わたしはそれじゃ気が済まないの、知ってるでしょ?」
「ん……ふふ、嬉しい。せやなあ、でもホンマに、なんでもいい。あ、伊織の手づくりは食べたいで?」
「うん、そうだね。まずは食べたいものを聞いておこうかな」
「ええ、それも聞くん? 伊織のつくってくれるもんやったら、ホンマになんでもえんやけどなあ、俺」

侑士がくつくつと笑うように顔をほころばせる。これは、素敵な「ほころび」。
こんな顔はきっとわたししか見れないといつも思う、愛しいほころびだ。
今日は、いつもの日常とは少し雰囲気が違う。久々にうっとりとした時間を過ごしていることに、わたしの懸念もさらさらと消えていった。
14日の夜、サプライズで待っていたら、侑士はどんな顔をするだろう。驚きと喜びのまざった表情だろうか。想像しただけで、ニヤけてしまいそうだ。それだって、ささやかな刺激になるに違いない。

「ほな、ローズマリーの香草焼き」
「え……」ドキッとした。わたしですら忘れていたようなことを言われたせいだ。「侑士、それって」
「ん。付き合ってはじめての俺の誕生日のとき、伊織がつくってくれたやつな。今年は正々堂々、アルコール入りのシャンパンで乾杯しような? 伊織もたまにはええやろ? 無礼講やったよね?」
「ふふ……うん、侑士、覚えてくれてるんだね」
「覚えとるよ。伊織との思い出はぜーんぶ」
「本当? 10年後もそれ、言える?」
「言えるに決まっとるやろお?」

嬉しくて、テーブルの上に置かれた侑士の薬指を、トントンとノックした。指輪から、わたしの熱が伝わっているだろうか。優しい侑士。待ち合わせで不機嫌な態度を取ってしまった自分を、いまさらながら反省してしまう。

「ん? よう考えたらそれは、10年後も一緒におる気満々って受け取ってええんよな?」
「あはは。うん、でもそれは? 侑士次第だけど?」
「は、そうやってなんかあったら俺のせいにする気やな? 伊織かていきなり、俺のことなんかどうでもようなったりせんでや?」
「んー、それも侑士次第ってことでしょう?」
「かー、食えんやつ」

わたしの頬をちょこっとつねるようにしながら、侑士もそっと薬指に触れてきた。
綺麗な指先が、指輪をたしかめるようになぞっている。わたしたちのあいだに、言葉なんていらないんだと思うのはこういうときだ。互いの想いが交差しているのがわかる。

「そろそろ、俺の家に移動しよか?」
「……ん、そうだね」

微笑んだ侑士から静かな愛撫を受けた気がして、体が熱くなった。





誕生日の前々日、20時くらいやった。俺はキャシーに呼びだされて氷帝の大学生のたまり場になっとるバーに入った。

「お前なあ、平日からなにを飲んだくれとんねん」
「別にいいでしょもうハタチなんだからー」
「まあ、ええけどね」

キャシーは俺より数ヶ月お姉さんやから、ここ最近は酒をめっちゃ堂々と飲んどる。それが嬉しいんか知らんけど、酔い急ぐように酒量も増えとって、俺はそれが若干、心配やった。
店内はまだ、キャシーと俺しかおらん。そらそうや、ここ、さっきオープンしたばっかり。

「なんか、ご機嫌じゃん侑士」
「え? わかるか?」
「わかる。こないだはぶちぶちと彼女とのマンネリを愚痴ってたわりに、今日はやけにシュッとしてる」
「いつもシュッとしとるっちゅうねん」

俺ってそんなにわかりやすいんやろうか。いやいや、ポーカーフェイスファイターやったはずやけどなあ。むちゃくちゃテニスしとったあのころとは状況が違うで、気がゆるんできとるんかもしれん。まあでも、ええねん。実際、ご機嫌やしな。

「いいことあったんだ?」
「ん……こないだな、久々にラブラブやってんか。伊織、めっちゃかわいかった。もうたまらん。ときめきがぎゅーん戻ってき」
「注文しなよ」
「え、ああ。ビールください」
「あたしも、おかわりください」
「かしこまりました」

やさぐれたキャシーの声に、すっかり見慣れた顔のマスターが苦笑いで対応する。どうでもええけど、こいつ人のこと呼びだしといて、めっちゃ態度が悪いんやけど……。ま、いつものことか。絡み酒やからな、キャシーは。

「ほかの連中は?」たしか、ほかにもサークルメンバーが何人かおるって話やなかったっけ?
「ああ、もう少しかかるって」
「え、ほなそれまでお前とサシ飲みかいな」
「なによ、文句あんの?」
「いや、ええけどさ……」居心地が悪いやろ。伊織やない女とふたりきりとか。「ほかにも呼ぼうや。まだ連絡してへんヤツ、おるやろ」
「別によくない? そんなに増えたって大変だし」

俺がようないねん、と言いたいとこやったけど、口をつぐんだ。
まあ、伊織がここに来ることはまずないで、バレんやろ……ちょっと、罪悪感がわいてくるけど、この色気もなんもない女とどうこうなるはずがないし、そんな気も当然さらさらない。あとでほかのメンバーが来るまでのあいだやし、な……。

「侑士さ」
「ん、なに?」
「明後日、誕生日だよね?」
「おお。よう知っとるな」

ふっふっふ。明後日は、伊織とふたりきりで誕生日祝いや。もちろん去年もふたりきりで過ごしたけど、俺の都合で外食になってしもたし。せやのに伊織、奮発してええ財布くれたうえに、食事代も払わせてくれんかった。申し訳なさ半分、愛しさ爆発したんよなあ。
最近は平坦な毎日やったけど、こないだのラブラブっぷりを考えても、去年以上にむっちゃイチャイチャできるんやないやろか。ああ、ニヤニヤが止まらへん。

「ていうか、だから今日、誘ったんだけど?」
「え、そうなん?」

うっかりニヤニヤのまま返事しとったら、ギロリと睨まれた。いや、ちょお待って。なんで睨んでくるん。おかしいやろ。祝い酒ちゃうんかい。

「あたしの話なんか全然、聞いてないよね侑士って」
「いやいや、そんなことないで?」はあ、今日も絡み酒か。めんどくさ。
「これ」
「え?」

ぽん、と目の前にラッピングされた箱が置かれる。急なことに顎を引いた俺は、おそるおそるそれを手にした。チラチラとキャシーに視線を送りながらリボンを解くと、すぐにでも割れてしまいそうな、うすはりグラスが1脚、顔を覗かせる。

「これ、俺にくれるん」
「うん。だって誕生日だし」

そういうことなんやろう。友だちから誕生日プレゼントをもらうのは、全然はじめてやないけど……これは俺が、めっちゃほしかったやつ。
『HAPPY BIRTHDAY 侑士!』と書かれたメッセージカードも一緒や。しかも裏に、手書きのメッセージまである。読んで、俺は失笑した。

「めっちゃふざけとるな」
「あははっ、いいじゃん」
「アホすぎるわ。変なこと書くんやめてくれへん? 伊織に見つかったら誤解されるやろっ」
「そんなことで終わるような関係じゃないんでしょー?」
「そうやけど……なあ、なんで急に? スロットで勝ったんか?」
「それもあるけど」
「あるんかいな」
「ははっ。でも侑士さー、前にほしいって言ってた気がして」
「ん、言うた。よう覚えとったな?」

やさぐれた顔が、一気に笑みに変わった。さっきまでのやさぐれ感も芝居やったんかもしれん。こいつはこいつなりに、俺の誕生日を祝おうとしてくれとったっちゅうことか。

「どうせ当日は、彼女とデートでしょ? だからいまのうちにわたしておこうと思ってさ」
「そうなんや。ありがとう。大切につかうわ」
「それと、まだあるんだけど」
「え、なに?」

まだある宣言にさらに顎を引いとると、マスターが奥からケーキをだしてきて、俺は飲みかけのビールを吹きだしそうになった。

「ま、待て待て、ホンマ、今日なんなん!?」しかもまだ、誰も集まってへんのに。
「だからー、いまだけでも侑士の誕生日会だよ」
「え、うわあ、ええのそんなん?」たかだか1年程度の付き合いやのに、ここまでしてくれるとは思ってなかったで……。
「いつもお世話になってますからー」
「おおきにキャシー。このケーキ、マスターお手製?」
「いえいえ、キャシーさんがつくって持って来られたんですよ」
「え! 食えるんかこんなん!」
「おいー!」

グーで俺の腕を殴ってきたキャシーはゲラゲラ笑いながら、ろうそくまで立ててくれた。普通のショートケーキやったけど、こういう女友達がおんのも悪くない。せやけどやっぱり、俺の口には伊織のつくった手料理が合うらしい。俺の好みを抑えてくれとるから、甘すぎんし……キャシーには申し訳ないけど、楽しみやなあ、明日。

「今日は予定、ないんだよね侑士」
「ああ、ないで」
「じゃあ今日はゴチするからさあ、とことん付き合ってよ」
「えー、嫌やわ。普通に帰らせてくれ」
「いいでしょゴチるって言ってるんだからー」
「ホンマやろな」言うてこいつ、長いからなあ……。
「ホンマホンマー」

誕生日祝いまでしてもらったし、どうせそのうちほかの連中も集まるいうし、まあええか。と、俺はキャシーの適当な返事に笑った。
その気のゆるみが、俺の運命を左右することになるとは思ってもなかった。





足取りは軽かった。
当日にお祝いすると思っている侑士が、前夜祭を決めこんだプチサプライズにどんな顔を見せるんだろうかと心がはやる。
午前0時に侑士のバースデーを祝う。わたしの誕生日のときに、侑士がそうしてくれたように。あの日に告白されたんだと、懐かしい思い出に胸があたたかくなっていく。
付き合って2年とちょっと……去年は普通にお祝いしたから、きっと喜んでくれる。
今年はちゃんとアルコール入りのシャンパンを用意した。つくってきたケーキと、夕食の材料も、あのころと同じだ。もちろん、誕生日プレゼントも忍ばせてある。同じと言いつつ、確実に2年前より重たい荷物の量だけ、愛をこめた。侑士ならきっと、全部、受け止めてくれるだろう。
マンション前に到着したのは、14日の昼過ぎだった。たくさんつくらなきゃいけないから、最初から早めに来ようと思っていた。学校を早退して、着替えてから買い物に行って、大忙しだ。それでも彼の部屋を見あげて、ほっとする。わたしの居場所はここなんだと、思いださせてくれるから。
ジーンズのポケットに入れておいた合鍵を取りだし、そっと鍵穴に挿しこんだ。気づかれないように……と、静かに扉を開けて、重たい荷物を玄関先に置いたときだった。
ふと視線を落とした先に、見たこともない黒のパンプスがあった。
体が、硬直した。
美しい光沢が、じっとわたしを見あげている。胸の奥が魔女の長い爪に引き裂かれるような痛みを告げてきた。
吐く息が、震えていく。
自然と、足音を立てないようにそっと靴を脱ぎ捨て、わたしは歩を進めていた。ゆっくりと。
侑士しかいない部屋であるはずなのに……誰にも、気づかれないように。

嘘だ。
ひょっとして。
まさか。
あるかも。
バカバカしい。
言い切れない。
信じてる……。

リビングにつながる扉をあけると、部屋に充満しているムスクの香りが、わたしの喉をかきむしった。

「……あなたが、伊織さん?」

ソファに寝転がっている侑士にキスしているキャミソール姿の女は、いじらしいほど、美しかった。






to be continued...

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