フリーダム_04



4.


窓ガラスに白の旋律が落ちてきた。ロマンチックな夜だと思う。朝からやけに冷えこむと思っていたけれど、天気予報を見ていなかったので予想していなかった。メッセージアプリの背景では毎年のように見る情景だけど、物心がついてから、実際に見るのははじめてのような気がする。今日は、ホワイトクリスマスだ。

「すみません、マライアお願いしていいですかー?」
「はい、承ります。あ、ですが、この次に、ほかのお客さまからのリクエストでかかりますが、よろしいですか?」
「あ、そうなんですか。じゃあどうしよっかなあ? 安室ちゃんとかにする? 懐メロすぎるかな? どう思う?」
「お前がええなら、俺はなんでもええよ」

よりによって関西弁の彼氏にベッタリくっついている彼女の会話を聞くことになってしまって、空虚感に襲われる。いまごろ侑士は、なにをしているんだろうと思った。
彼から連絡がきていたのは、最初の2週間ほどだった。突然に、ピタリと、それは終わった。
なにか悟ったのかもしれない。いや、いい加減、勝手な女だと見切りをつけてしまったのだろう。それでいい。いいはずだ……。

「そっか。じゃあ、安室ちゃんにします!」
「安室ちゃん好きやなあ、お前」
「レジェンドだもーん」
「ふふ。せやね」

愛しそうに彼女を見つめる彼氏の視線に、酔いそうだった。いろんなことを思いだしては体ごと空洞になっていく妙な感覚だ。
だけどそれも、ずいぶんと勝手な話である。別れを切りだしたのはわたしだ。あんなひどい仕打ちをしておいて、イブだからって、しかもホワイトクリスマスだからって、羨んでしまうなんて、理不尽というものだろう。

――伊織とは長いこと親友やってきてるけど、かなり面倒くさいね、あんたって。

あの日に言われた親友の言葉も、わたしのなかにはしつこく残っていた。千夏が言っていたのは、こういうことだったんじゃないか。
こんな憂鬱をずっと抱えるだろうわたしを見越して、面倒くさい、と言ったんじゃないか。
千夏もあれきり、侑士の話はしてこなくなった。跡部先輩の話はたまに出てくるけれど、そこに絡んでくるだろう侑士の話は、してこない。もちろん不自然だけれど、それが千夏なりの気遣いなのかもしれないし、不穏なまま終わったあの会話の、わたしと千夏のわだかまりを物語っている気もする。彼女は、いまも「面倒くさい」わたしを怒っているのかもしれない。
要するに、わたしは侑士がいまどういう状況なのか、まったくわからない。彼はすっかり、日常を取り戻しているかもしれない。本当は、気になって仕方ないのが本音だけど……聞けずにいる。聞けるわけがない。

「お疲れさま、伊織ちゃん」
「店長、お疲れさまです」

忙しくホールを回っていた店長が、カウンター内に入ってきた。オーダーはすべてサーブ済み。スタッフ全員が、ほっと息をついたのは23時ごろだった。

「やっと、店内が落ち着いてきましたね」
「そうだね……2年前も、こんな会話、したね?」
「え……あ、そう、でしたっけ」

……覚えていた。去年のイブは無事にお休みをもらえたので、侑士とふたりで、普通のイブデートを過ごしたけど、2年前のイブは、忘れたくても忘れられない思い出のひとつだ。
今年もZionのなかは、恋人たちの愛にあふれている。休み希望をださなかったのは、わたしひとりだった。

「そういえば、あの日もマライアのオンパレードでしたよね!」心の切り替えのためにも、話題を変えた。
「ね、あと何年つづくんだろうな……B'zも根強いし」
「山下達郎はもっとです。ユーミンも根強い。あと意外なところで広瀬香美と稲垣潤一ペア」
「懐かしいなー! 伊織ちゃん年齢詐称だな」

店長との会話で、少しだけ気分が落ち着いてくる。店長は侑士とわたしが別れたことを知っているけれど、報告だけしたわたしに、なにも聞かずにいてくれた。

――そうか。うん、わかったよ。大丈夫?
――はい、大丈夫です。前向きです。

大嘘だった。それでも強がった自分を見せることしか、できなかった。
あの日から、なにも変わらずに接してくれる店長の気遣いがあたたかい。優しい人たちに恵まれて、わたしは幸せものなんだと、何度も自分に言い聞かせる毎日だったけど。

「そろそろ終わりだね。伊織ちゃん、あがっていいよ」
「はい、じゃあ、お先に失礼します」

Zionの夜はまだまだつづく。わたしはオープンから入っていたので、もうあがりだ。
少し痩せてしまった体に、エプロンの締めつけが痛い。早く、脱いでしまいたかった。
だけど、わたしが痩せるなんてお門違いもいいとこだよね……なんて滑稽なんだろう。

「伊織ちゃん」
「はい?」

もう気力が残ってない疲れをため息に変えて、ロッカールームを出たときだった。事務所にやってきた店長が、声をかけてきたのだ。

「その……さ」
「店長?」

言いよどんでいるその表情に、嫌な予感がした。目を少しだけ泳がせて、こめかみをポリポリと掻いている。
勘の鋭い店長のことだ。今日までなにも聞かずにいてくれたのは、わたしの心の内を見透かしていたからかもしれない。

「こんなこと、お節介なんだけど……」
「……」それなら、そっとしておいてほしいと思うのは、わたしのわがままなんだろうか。
「侑士くんとのこと、後悔してるんじゃない?」

不覚にも、わたしは黙りこんでしまった。
「後悔」なんて……絶対に、そんなこと、思っちゃいけないんだ、わたしは。だって、わたしがしたことだから。わたしが自分で決めたことだ。侑士をあれほど傷つけてまで、強引に終わらせたのは……わたしのエゴだ。

「……プライドだよな。わかってるよ。俺は、伊織ちゃんの味方だから。君の決断を、否定したくはない」
「それなら」見守っててください、と、つづけようとしたけれど、店長はさえぎった。
「だけど味方だからこそ、伊織ちゃんがもっと傷ついてるのは、嫌なんだよ」
「え?」
「君は、自分を自分で傷つけてる」
「……そ、違いますっ」
「違わない。ずっと寒そうだよ、そこ。2ヶ月前から、ずっと」

店長の視線が、ゆるゆると下げられていく。嗚咽が、胸の奥からせりあがってきそうだった。自覚しようとしなかった本当の自分の想いを、まんまと見透かされていたからだ。
視線は、わたしの左手の薬指に注がれていた。

「いつも、なでてる。言葉はあてにならない。現実を見つめようとしない人は、言葉で自分を偽っていく。でも体には出るよ。人間の本音が表れるのは、いつだって行動だ」
「これは、くせになって」
「凍えてる、寒いんだよ、寂しいんだよ。目を背けるために別れたって、君のなかではなにも決着がついていない。伊織ちゃん、俺の話を思いだしてほしい」
「……帰ります」
「俺が昔とった行動は、抗えなかった想いそのままだ。そこに後悔はない。だけど俺は、大切な人を騙してた、何人も」
「お疲れさまでしたっ」
「結局のところ俺は、自分がいちばん大事だったんだよ。自分さえよければよかった。それがどれだけ愚かなことなのか、君ならわかるはずだ」

逃げるように、裏口のドアを強く閉めた。
みぞおちの奥のほうにある暗がりに、誰かが侵入してきたような気持ち悪さが襲ってきた。決着なんて、ついてるわけない。わかってる。そんなの何度も考えては打ち消して、やっと2ヶ月が経ったんだ。
みんながみんな、すっきりして、決着つけて別れを経験するわけじゃないはずだ。別れはいつだってつらいものに決まってる。それを、なんとかみんな乗り越えてる。きっと時間が解決してくれる。
奥歯を食いしばって、そっと悲しみをこらえた。階段の上でうずくまって、じっと体があたたまるのを待った。
なんで、よりによって今日……店長はそんなことを言ってきたんだろう。落ち着こう。かき乱されてる場合じゃない。
コートを羽織って、ゆっくりと階段を降りていく。そのとき、スマホが震えた。見ると、店長からメッセージだ。

『ごめん。実は千夏ちゃんに、頼まれてた』

え、と声がもれでていく。
なんで……いまになってどうして、千夏が店長にあんなことを頼むのか。理解が追いつかない。喉が、ぎゅっと縮こまっていく。

『だけど、言ったことは嘘じゃない。全部、俺の意見だ。伊織ちゃん、今日は自分を振り返るチャンスかもしれないよ』

読み終わって、頭をもたげた。
要するに、わたしが間違っているんだと、店長も千夏も、そう言いたいんだ。そりゃ、正しいなんて思ってない。だけど店長が抗えなかったように、わたしだって、あの衝動に抗えなかった。
もう一度、頑なに奥歯を食いしばって、顔をあげたときだった。わずか、数メートル先。

侑士が、立っていた。

「え……」

絶句した。
となりに、あの日の、ムスクの香水の女性がいる。
侑士は、髪の毛が少し伸びたせいか、以前よりももっと大人びて見える。
その、「わたしの侑士」に……あの女性が、寄り添うように立っていた。
感情が、追いつかない。
2ヶ月前のように、目の前が歪んでいく。
二人が、わたしに近づいてくる。
やめてほしい、なにを言う気だ、もう、わたしを壊さないで……!

「……なんて顔、してんねん、伊織」
「ち、違……」

すぐに背中を向けて、立ち去ろうとした。
ああ、そういうことだったのかと思う一方で、今日の妙な出来事が頭のなかで流れていく。
もしかして、これも、千夏の……。

「待ってって、伊織……!」
「……離しっ」
「離さん。今日は離す気ないで、俺」

見たこともないような怖い顔で、侑士はわたしを壁に追いこんだ。
彼の傍に立っていたはずの女性が、わかりきっていたようにうつむいて、背中を向けて去っていく。
もしかして、と気づいたときには、もう遅かった。目からあふれでる涙が、止まらない。

「なんでそんな顔すんねんお前!」

侑士は、怒っていた。大きな目に涙をいっぱいためて、わたしに怒鳴った。
やっぱり、そういうことだったんだ。芝居だった。全部、仕組まれていた。
侑士から、ピタリと止まった連絡も。千夏があれ以来、侑士について話さなくなったことも。

「別れてって、言うたのお前やろ伊織!」
「言ったよ! だから、もう離してよっ!」

いつも、わたしを壊れものみたいに扱ってくれていた侑士が……悲鳴をあげるほど強く、わたしの手首を握りしめて、壁に押しつけている。

「卑怯やろ!」
「侑士やめてっ」
「なにも言わんと、いきなり俺のこと傷つけたんは、お前やないか!」
「やめてってば!」
「それやのに、なんでそんな、傷つけられたみたいな顔すんねん!」
「違っ……!」
「そんな顔するくらい、まだ俺のこと好きやったら!」
「離しっ」
「なんで話し合おうとしてくれんかったんや!」
「だって!」
「なんで俺を突き放したん!」
「そんなのっ」
「なんで……!」

痛い、と声がでそうになったときだった。
急に失速した侑士は、深いため息をついた。
わたしの肩に、顔をうずめて……静かに、掠れた声で。

「……なんで、俺を信じてくれんかったん」





正直、半信半疑やった。
当然や。あんな振られかたして、それでも伊織はまだまだ俺のこと好きやなんて、俺はそんなにうぬぼれてない。
それでも、跡部と千夏ちゃんが絶対やと言いきってきたのは、いまから1ヶ月以上前のことや。

「伊織は、忍足先輩に追いかけられたいだけ。待って伊織ー、なにがあったんやー。俺にはお前しかおらへんのにー!」
「ホンマかそれ……」ちゅうか若干、俺のことバカにしてへん? 千夏ちゃんが、な。
「ただの不満、不安、憤慨、だよ。もちろん、先輩にはいいわけしてほしいし、懇願されたい。だけど先輩から事情を聞いただけなんて、十分には納得できない。それに、忍足先輩にもその女にも、許せない感情だってある」
「それで、別れを切りだしたん……?」
「本当なら忍足先輩に頼んで、そのキャシーって女を呼びだして、『お前なんちゅうことしてくれたん、お前なんか好きちゃうわ。俺の女は伊織だけや!』みたいなこと言われれば、納得できるんでしょうよ。でもそんなことお願いできない、めちゃくちゃ醜いからね。そんなこと先輩に頼むような真似、したくないんだよ伊織は。だって忍足侑士の彼女だってプライドがあるんだもん。堂々としてたい」
「それやったら、ずっと堂々と、彼女でおってくれたら……」
「だからあ、それじゃずっと先輩を疑ったままでしょ? 結局、心は晴れないじゃん。自分だけが、どうしてこんな思いしなきゃいけないんだってことだよ。実際、話し合う気はないって言い切って、先輩には理由を告げなかった。嫉妬に狂った自分を、先輩に知られたくなかったからだよ」
「このまま交際をつづけていても、いつかボロがでるってわけか」嫌われたくねえってとこか? と、跡部がうながす。
「伊織は前に、忍足先輩の過去に嫉妬したでしょ。そのときに、景吾に言われたこともあると思う」

――自分の感情をぶちまけて人を動かそうとするのは、ガキがやることと一緒だ。もうそんな愚かな真似はするな。お前は自分の不安を忍足に埋めてもらおうとした。

そんなことがあったとは、そのときまで俺は、まったく知らんかった。そういや2年くらい前、過去に嫉妬されて、短いケンカしたわ……。

「今回も同じことになりそうだと、思ったってわけか」
「それ以上よ。だってキス現場を目の当たりにしちゃったんだから!」
「ち、俺してへん!」
「でも女はしてたの! 先輩が起きてようが寝てようが関係ない! 触れてたの!」
「はい……すんません」めちゃくちゃ怖い……。
「それならいっそ、このしがらみから自由になりたいと思ったのかもね。自分の不安を、自分で解消するために」
「せ、せやけど、千夏ちゃん、なんでそれが別れになるん……? 俺なんか、もうどうでもええってことになるん?」
「どうでもよくないから、別れなの。ただ、伊織は自覚ないんだろうけど、結局あのときと同じことしてる」
「つまり、別れで衝撃を与えて、忍足の出方を見たかったってことか?」
「伊織はそこまで狡猾に考えてはないと思うけど、まあ結果は、そういうことだよね。被害者意識が強いし、実際、被害者だよ。だけど本当は別れる勇気なんてなかったままの衝動でしょ。それでもつらくて、耐えられなかったんだと思う。そりゃそうだよね、キス現場に加えて、妙に仲よさげなメッセージまで見ちゃったんだからさ。しかも、手づくりケーキに、プレゼントも同じ」あげくそこに、ふざけたメッセージカードまで。と、千夏ちゃんは嫌味満載でつづけた。

『大好きな侑士へ よい1年を過ごしましょう! 愛しのキャシーより』

声に出して、わざわざ読みあげる始末や。

「バカじゃないのふざけんなってのよ! なんですぐ破り捨てなかったの! しかも『昨日はありがとう』なんてメッセージまで送るとか!」
「いや、そ、それは……」めっちゃ責められとるやん、俺。普通に送っただけやのに……。
「忍足先輩は、気を許した女と、許してない女との態度の差が激しいんだって。先輩が優しいのは知ってるよ。でも特別にベタベタに優しいのは伊織だけじゃなきゃ!」
「俺、伊織だけや! ベタベタに優ししてんのもっ」
「そうなんだろうけど、伊織からしたら知らない女にそれなりに優しくしてるのは気が気じゃないんだよ。おまけに、その女がキャミソール姿で、強引にキスしてまで先輩を奪おうとしてきてたんだから! 不安になって当然でしょ!?」
「……か、堪忍」俺の、せいやんな。
「だいたい、そんな女を家に泊めるとか!」
「や、キャシーが俺のこと好きやなんて、思ってもなかっ……!」
「鈍感野郎! しかも伊織に嘘ついて! プレゼントだって同じのもらってたくせに!」
「ちゃ、せやからそれは……!」不安にさせたなかったし、お、同じのやなかったもん……伊織のほうが物がよかった。いや、たしかにごまかしたけど。
「だから伊織は、ずっと気になってた鬱憤が爆発したの! こんな衝撃的なことあったけど、黙って尽くしたってのが伊織のプライド。そういうわたしって健気でしょ。かわいそうでしょってのが、あたしに求めてた答え。気持ちはわからなくない。でも正直、そんな女は面倒くさい!」

どっちやねん、と、そのときの俺は思った気がする。せやけど千夏ちゃんの力説は、伊織をよう知る親友の言葉やから……。

「あのさ……女が理由もなく不機嫌になることってあるでしょ?」
「あれはいったいどういうカラクリがあるのか知らねえが、不可解だな」跡部、深く頷いとるけど、千夏ちゃんにあとで怒られるで。
「言っておくけど、一応、理由はあるから。でも大抵、くだらないから口にしない。なのに機嫌が悪くなるのは、相手にかまってほしいから」
「んん、なんとなくわかるで」俺もようある……。
「今回の感じは、それに近いと思う」
「俺に、かまってほしいっちゅうこと?」
「たぶんなにもなかったって、伊織はどっかでわかってると思う。だけどやっぱり、不用心な先輩が許せないし、宣戦布告してきた女も許せない」
「なるほどな……」ふむ、と跡部が腕組みをする。
「なにがなるほど? え、跡部わかったん?」
「お前に別れを告げれば、刺激が強すぎる。千夏には理由を話した佐久間だ。ならばいずれその話が忍足に届くのは想定済み。事実を知った忍足がなにをするか。女ときっぱり白黒つけて、佐久間に誤解を立証する」
「そう。自分から頼んだわけじゃない。忍足先輩が、自らそこまでしてくれることに意味がある」
「え、そんなん、やるわ! それで伊織が戻ってくれるんやったら!」
「まったく、そういうとこだよ。この展開を無意識に期待して、今回の別れ話。まんまと伊織の望みどおりだよ。ほんっと、面倒くさい女なんだから!」

ま、本人、自覚してないだろうけどね。だから余計にタチが悪い。と、悪態をつきつつ、千夏ちゃんはつづけた。

「まあでも、伊織の気持ちはわかる」
「……千夏ちゃんも、同じことするん?」
「するわけない。あたしはそんなモヤモヤ、とっくにやり過ぎてバカになってるから」
「ん、んんっ」跡部の不自然な咳払いが、どこか虚しい。
「だいたいキャシーなんてふざけた名前、あたしだって頭に血ぃのぼって半殺しにしたくなるよ。だから、気持ちはわかるってこと!」
「なんや、堪忍……」すんごい怖い……ふざけた名前なのはたしかやけど。
「なに黙ってんの景吾」
「いや……」

要するに伊織のなかには、キャシーへの復讐心があって、今回の流れになったっちゅうことや。もちろん、メインは俺のことを疑うのに疲れたってこともあるんやろうけど……どっちにしても、反省を促したってことやろう。
そこまで計算してなかったとしても、俺が事実を知ったら、当然キャシーにはなんちゅうことしてくれたんやってなるし、伊織に復縁を迫る。伊織はそんな俺の姿を、キャシーに見せたい、思い知らせたい。俺が自ら、そうすることを望んどる……と、千夏ちゃんは推測しとる。

「伊織は愛情が深いぶん、裏切りだと感じたときの怒りも強いの。いまは嫉妬の鬼になってる。今回の伊織の行動はなかなか面倒くさいから冷たくあしらったけど……でも、気持ちはわからなくもないよ」
「話して、くれたらよかったやん……」
「それじゃ気が済まないんだって。それだけ傷ついたんだよ、伊織も。だから先輩も傷つけたの」
「やられたら、やり返すっちゅうやつ?」
「そう、百倍返し」

百倍以上やで、伊織……俺にとっては伊織が世界そのものやのに……。

「とはいえ。やっぱりあたしは親友として、伊織のやりかたは潔くないってことを教えたい」
「だな。本来なら、そんな回りくどい真似をしねえで、忍足に言えば済んだ話だ」
「それで気が済まないなら、気が済まないって素直に言ったほうがいい。でも、その醜さをさらけだすことができなかった。プライドが邪魔して」
「伊織のこと、醜いやなんて、俺、思わへんのに……」
「まだまだ自信がついてないんだよ。2年も、とか言ったって、たかだか2年でしょ。あたしだって、景吾の彼女2年やってるけど、いまだってすごく気張ってる。見合う人にならなきゃって」

跡部がそっと、微笑んだ。千夏ちゃんは、めっちゃ大人になったんやな、跡部……ホンマ、お前にぴったりや。

「伊織もそうだと思う。そんなときに芽生えた黒い感情が、忍足先輩には見合わないって思ったんだよ。ねえ、だから先輩、1ヶ月ちょっと我慢して」
「え、1ヶ月ちょっとって……そ、我慢って?」
「連絡は今日から禁止。姿も見せないこと」
「そ、そんなん嫌やっ! 伊織に男ができたらどうすんねんっ」
「できやしないよ、先輩のこと好きでしょうがないんだから。とにかく1ヶ月は、伊織が頭を冷やす期間ね。そして、決戦はクリスマスイブでいこうじゃない」
「ほう。ロマンチックじゃねえの」
「でしょー。伊織のやりかたはダメだけど、それをちゃんとわからせるにもお灸は必要。でも今回だけ、伊織の望みをかなえてあげようと思う」
「……え、なにするん」
「そのふざけた女にも、ふざけたことした侘びを取らせる。あたしの親友を傷つけたんだから。それだけは絶対に許さない!」





Zionの店長まで巻きこんで、伊織を待ち伏せして、イブにキャシーと一緒におるところを見せる。それが、千夏ちゃんの作戦やった。
伊織の顔を見るまでは、うまくいくんかどうか、不安しかなった。俺らが待ち伏せしとるところで、ほかの男が突っ立っとるだけで、伊織の新しい彼氏やったらどないしようって、泣きそうんなって。
そうやなくても、めっちゃ普通に「先輩、お久しぶりですー」って他人行儀に挨拶されたらどないようって、また泣きそうんなって。
せやけど……千夏ちゃんの言うとおり、その姿を見せるだけでよかった。
伊織は俺とキャシーを目にした瞬間、顔を歪ませた。それこそが、俺への気持ちや。不安が急激に確信に変わって、俺は一気に感情を爆発させた。
もとはと言えば悪いのは俺やのに、そんな顔するくせに、よう俺を振りがやったなって……怒りが湧いてきて、止まらんかった。

「俺がこの2ヶ月、どんな想いで過ごしてきたと思ってんねん、伊織……」
「侑士……」

カッとなった。やっぱり伊織は、俺のこと試したんやと思った。悪いのは俺やのに。
俺のこと信じてくれんかったの、なんでやなんやと思った。悪いのは俺やのに。
あんだけ俺のこと傷づけて、それでも好きやなんて、めっちゃ卑怯やと思った。

……悪いのは、俺やのに。





「俺が伊織以外の女に、触れるわけないやんか……」
「……だっ……て」

わたしの問題なんだ。
醜い……わたし、期待していた、この瞬間を。侑士に迫られて、懇願されて、ようやく気がついた。
あのムスクの女性が、こんなにわたしを求めている侑士を見て、うつむいて去っていく姿に、溜飲が下がっている。
わたし……ここまでしなくちゃ、許せなかったんだ。

「伊織、なあ、ちゃんと言うて……」
「侑士……」
「な、全部、受け止めるで。吐きだしてや」

唇が震えた。わたしは、なにを言いたいんだろう。どこから話せばいいのか、わからない。
それでも、ゆっくりと深呼吸をするように、なんとか声を絞り出した。

「侑士、大学に入ってから、すごく、楽しそうだったから……」
「嫌やったいうこと……? それが気に入らんかった?」
「違う、だけど、怖かった。どんどん大人になってく。侑士は違う生活になって、周りにいる人も変わって、それを全部ちゃんと吸収して、生きてる。だけどわたしは」

自分でも気づいていなかった不安が、口からどんどん漏れでていく。彼が大学に入ってからわたしはずっと、環境が変わった侑士が、遠くなった気がしていたんだ。
それに拍車をかけたのが、あの、ムスクの香りだ。

「わたしは、なにも変わってないから。ぼんやり、いつもの毎日を過ごしてたから」
「……寂しかったん?」
「わからない……でも、ずっとくすぶってた。あの日、すごくショックで、どうやって考えようとしても、ダメだった。具合が悪くなって、でも侑士は、たぶん、裏切ってないって思うのに、わたしはずっと消化できないままになる。そんなの、侑士をずっと困らせる」
「そんなん……そんなん、困らせたらええやんかっ」
「やだよ、だって、侑士が我慢することになっちゃうじゃん。わたしは我慢してないのに、おかしいよ」

感情が高ぶっていく。わたしは侑士を縛りたくなかった。だけど縛ってしまう。なにをしても襲ってくるあのシーンで、その嫉妬で、彼を困らせる。でもどれだけ侑士からの言葉を聞いたって、納得できない自分がいるのも、わかっていたから……。

「あたしからのクリスマスプレゼント、受け取ってもらえたみたいだね」

突如、聞こえてきた声に視線を送ると、千夏が無表情のままわたしに近づいてきた。
こちらは涙でぐちゃぐちゃになっているのに、彼女とのコントラストがはっきりしている。

「千夏……」
「ねえ、満足した? 伊織」
「千夏ちゃん、もう」
「先輩は黙ってて。ねえ伊織さ、あんたは考えが甘すぎる」

冷酷な目だった。ああ、と嘆きそうになる。
こんな手のこんだことまでして、彼女はわたしに、言ってくれるのだ。お前は甘すぎると、このままじゃダメだと。それがどれほど優しいことなのか理解できるのも、彼女のおかげだ。

「あんなに大好き大好きって言ってた憧れの忍足先輩だったのに、なんなんのよ、この有様は」
「……そう、だよね」
「そうだよ。付き合うことになって、浮かれきって、将来は絶対に一緒になるとか散々ほざいて、こんなとこでつまづいて、バカじゃないの?」
「……だって」バカじゃないの、に、多少の苛立ちを覚えた。わたしは、やっぱり子どもなんだ。
「だってじゃない。一生を共に過ごそうと思うほどの人なのよ? 自分の知らない女に言い寄られようが、それでどんな嫌がらせされようが、なんなの? 先輩は伊織だけを愛してくれてんじゃん。なのに伊織自身がブレてどうすんの。本当、こんなに伊織のこと愚かなバカ女だと思ったことないよ、失望させないでくれる?」

ぐぐ、と喉から音がでそうになる。ちょっと、言い過ぎのきらいがあるのではないだろうか。それが千夏らしいとはわかっていても、図星だからだろう、反発したくなる。

「バカは素直なのが取り柄なの。素直じゃないバカはかわいくない」

カチン、である。侑士もわたしも、すっかり涙が引っこんで、若干、ひいていた。

「だって……でも、千夏だってさあ!」
「なによ!」
「不安になったことは、千夏だってあるでしょっ? それに、あんな、キャミソール女とのキスシーンなんてっ」
「ちょ、もうそれええやん……」
「いくないっ! 見たことある!? ないでしょ!?」
「は? 何回もあるし」
「ええっ!?」

大きな声で反応したのは、侑士だ。わたしの驚きは声にならなかった。
千夏が、ふうっとあからさまなため息をついて肩をあげている。ひょっとして……千夏にとってわたしって、すごく次元の低い話をしたんだろうか、と、途端に恥ずかしくなった。

「言っておくけどうちの彼氏、おたくの彼より1億と2千倍、モテるんで」
「う……」
「そら、そうやね……うん」

なにも、言い返せない。

「でもあたしは、挫けたことないよ」
「……千夏」
「景吾は浮気しない。あたしだけ見てくれてる。あらゆる手でいろんな女が景吾との関係を匂わせようとしてきたけど、どれも景吾の本意じゃないもの。あたしは景吾を信じてるし、これからだって、絶対に景吾と一緒にいる。それが、跡部景吾って人を選んだあたしの覚悟で、あたしって女といまも付き合ってくれてる、景吾の覚悟だから」

次元が低かったんだと、自分の愚かさに胸が痛みはじめた。
わたしが起こした今回の騒動は、自立してない子どもの、癇癪そのものだったんだ。

「付き合うってそういうことでしょ伊織。別れを口にだしたって、先輩が自分から離れるわけないって、どっかでわかってた。だから、簡単に決断できたんだよ。違う?」
「……それは」違わない。だから2ヶ月経って、急に寂しくなったんだ。なにごともなくなった日常に。
「そういうの、最悪じゃない? 相手を傷つけるだけの、最低の手段でしょ? だから甘いって言ったの。もし相手が先輩じゃなくて景吾だったら、そんなかまってちゃん、かまってもらえないんだからね。お前がそう決めたらなら、それでいいってなもんよ」
「跡部なら……そうかもな」つぶやいた侑士の声に、耳が痛くなった。
「ねえ伊織、今回のは忍足先輩だから通用したんだよ。次はないよ? だからもうやめなよ。そんな伊織、あたし好きじゃない。忍足先輩は、それでもあんたのこと好きだろうけど」

でしょ? と問いかけるように、千夏は首をかしげた。侑士が、静かに頷いている。
それだけで、またボロボロと涙がこぼれ落ちた。
わたしの知らないあいだに、親友は、ずっと大人になっていた。愚かだ……心に品格を持てって、昔、跡部先輩に言われたのに。情けなさすぎる……。

「伊織も、同じ気持ちなんやったら、俺……」
「まったく、そういう優しいことばっか言ってるから、伊織がつけあがるんだってば」
「ええねん。伊織はつけあがっても。俺の傍におってくれるなら」
「侑士……」

侑士が、そっとわたしの頭をなでてくれた。
あんなにひどいことをしたのに、傷つけたのに、わたしを許してくれようとしている。
千夏の言うとおりだ……この人だから許してくれた。本気で別れるつもりだったのに、結局は後悔して嘆くわたしのことを、侑士だから、見放さずにいれくれる。

「はいはい、とんだ茶番でしたね。さて、帰ろっと」
「待って千夏っ……」
「なに? もうふたりで話はつけれるでしょ?」

呼び止めずにはいられなかった。去っていくその先には、きっと跡部先輩が待っている。でも、もう少しだけ……。
わたしの黒いよどみを流してくれた親友に、感謝を伝えたいから。

「ありがとう……大好き」
「……ん」千夏は、微笑んだ。「あたしも。また今度、ガールズトークしようね。メリークリスマスー」

ひらひらと手を振って去っていく千夏の背中を見つめて、心が洗われていくのと同時に、侑士の腕が、うしろからそっと回ってきた。
ほっとして、また目尻に涙が浮かんでくる。侑士の香り。肩に回るやわらかいコートを握りしめたら、応えるように強く抱きしめてくれた。

「怒鳴って、ごめんな……」痛くしたな? と、ささやいた。
わたしは、頭を振った。「ごめんなさい……侑士」
「俺が悪い……せやけど、伊織。今後はなにかあったら、話し合わせてよ、せめて」

髪の毛に、優しいキスが落ちてくる。たった2ヶ月なのに、ひどく懐かしかった。
このぬくもりも、この感触も……忘れられるはず、なかったのに。わたしは、千夏の言うとおり、つけあがりまくっていたんだ。
あんなに好きで、大好きで、やっととなりにいることができるようになった、大切な人だったのに。

「ごめんね侑士……本当に、ごめんなさい」
「ん……俺もごめん……けどもう、めっちゃ泣いたから、許して?」

そうだよね、ごめん。
あんなに愛されたいと思ってて、それが叶って……わたし、いい気になってたよね。

「面倒くさい女で、ごめんね。最低だったね」
「ええよ……俺も悪かったんやもん。最低ちゃう。たとえそれが最低でも、俺、伊織が好きや」
「侑士……」

触れた唇が冷たくて、それをあたためるように、涙が頬から伝っていく。何度も寄せられる熱が、いつだって、恋しかった。

「なあ、指輪と鍵、返しにきた」
「うん……返して」
「は……勝手やな」
「ごめんなさい……」

ぽつり、ぽつりとつぶやく声が、お互いに恥ずかしくなってきて、ふっと侑士が笑ったのと同時に、わたしも笑った。

「ねえ、侑士、さっきの人とは……」
「うわ……それいま聞くかー?」

侑士の目が一直線になる。だって、気になる……から。

「でも、そんなわたしも好きなんだよね?」
「カー……。好きやっても、嫌なとこなんかもう見たないわっ」
「侑士には無いって言える? 竜也とのこと、思いだしてよっ」
「カー! そういう過去の話を引っ張りだすのも面倒くさいで!? いつまで言うねんそれっ」
「ずっと言う」
「やめ言うとるやろっ」

怒ったように言いながら、それでも侑士は、笑顔のままだった。
半分冗談で、半分本気。そういう子どもっぽいわたしを、愛しいと言ってくれる彼が、大好きだと思い知らされる。

「まあ、いろいろは、あとでゆっくり話したるから。とりあえず遅いけどさ、クリスマス、いまからせえへん?」
「うん!」

この2ヶ月……おそらく、千夏に与えられていたんだろうわたしの不穏な自由時間。
結局は、勝手に侑士に縛りつけられていた心のなかだったけど……ほしくのない自由なんて、無意味だ。愛しい人と離れることで得られる自由なんて、偽りでしかない。

「その前に……」
「ん?」
「もう絶対、俺から離れんって、今度こそホンマに、約束してくれる?」
「……うん、ごめんね、約束する」
「絶対やで? 指切りしよ?」
「ふふ、うん」

小指同士を絡めて、大好きな彼の胸にしがみついた。ぽんぽんと頭をなでる彼の手が、少しだけ震えている。

「ほな、誓いのキスな?」
「うん」
「愛しとるよ、伊織」
「わたしも、ずっと、愛してる」

人目もはばからずキスをした、高校最後のクリスマスだった。





fin.



[book top]
[levelac]




×