君らに胸キュン


口をすぼめて窓を眺めた。薄っぺらい煙がすぐに消えていく。
なんにもしたくないけどなんとなく暇だ。部屋にぼんやりとした明かりをつけて、ゆったりとしたR&Bをかけて、ミントの刺激とワインを口にする。
いい女ぶった時間が好きだった。1ヶ月に一度くらいやってしまう。決まって生理前なのは、ホルモンバランス的なものが関係しているんだろう。
はじめて5分もしないうちにチャイムが鳴った。いい女タイムを完璧に邪魔する音だった。モニターを見れば無表情の侑士がそこにいる。同時にこちらも無表情になった。
ちょっと待ちなさいよ。暗い顔していきなり家にくるとか……お前はメンヘラか。

「どうしたの?」
「ちょっと落ちとんねん」でしょうね。見るからに。

お邪魔しますとも言わないまま、彼はリビングに進んでいった。「あ」と聞こえない程度の声をあげている。それでも十分に嫌味だった。侑士の「あ」は抵抗だ。

「また吸っとる。吸ったやろ?」くんくんと鼻をヒクつかせている。
「吸いますよそんなもん」
「やめる気ないんや?」
「なんでやめなきゃなんないわけ」
「俺が吸わへんから……とか」
「ない」
「やんな」

一応、悪態をついたものの、今日は言い返す元気もないらしい。
「どんな伊織もずっと好きやから」が口説き文句だった侑士としては、引き下がるしかない部分もあるだろう。

「赤ちゃんできたらやめてや?」
「そうだねえ。妊娠中はさすがにね。生まれたらパートナーと相談だね」
「いやパートナー俺やん?」
「ふふ。そんなのわかんないじゃん」
「なんでそんなこと言うん……」

侑士のワインを準備している背中に、ぎゅうっと抱きついてくるぬくもりがかわいい。苦笑してしまう。
やれやれ、今日はどうしちゃったのかな。

「しょげてるねえ。どうしたの?」
「……別に」
「沢尻エリカか」
「古い」
「ほかにツッコむネタないじゃん」
「せやね」
「ん? 言ってごらんなさい?」お嬢様口調でおどけてみる。
「……跡部と喧嘩した」

吹きだしてしまうところだった。
いい大人が……というかいい男といい男のいい大人が。三十路を超えてなんだというのだ。
小学生か。

「そうなんだ。なんで喧嘩しちゃったの?」そしてわたしはお母さんか。
「……なんやったやろ。もうよう覚えてへん」
やっぱり小学生らしい。「よくわかんないけど言い争いになったんだ?」
「ん……」

で、女になぐさめてもらおうというわけである。男って……本当に弱い生き物だ。アホらしい。だけどそれが愛すべき姿でもある。

「おまけに伊織はワイン飲んでこんなしっとりした音楽かけとる」
「おまけに、とは?」グラスに注いだワインを手渡した。
「余計に落ち込んでまうやんか」

乾杯、とつぶやいて侑士は赤ワインを一気飲みした。品がない。あんたが勝手に来たくせに。しかも結構いいワインなのにがぶ飲みしやがって。ここは居酒屋じゃないんだぞ。

「おかわり」
「はいはい」黙って注いであげた。
「跡部ひどいねん」
「そうなんだ?」
「てめえの脳みそどうかしてんじゃねえかこの関西メガネがっ! お前の言うことなど信用できるか! やって。ひどない? 俺ら、20年の付き合いやねんで? 正確には20年と8ヶ月」細かっ。「なあ、ひどない? なあ?」
「まあ、たしかに?」ひどいけど、たぶんもっとひどいことを侑士はその前に言っているんだろう。この細かさからして。
「そんな言い方することないやん。俺かて跡部のためを思っていろいろ」
「そうだね、侑士は愛が強いからね」
「俺の気持ちをなんもわかっとらんねんあいつ」

しょげまくっていた。わたしって、一体なんなんだろうかと妙な気分になってくる。これじゃまるで跡部さんが恋人じゃないか。

「はああああああ……伊織ー」
また抱きついてきた。今度は正面から、肩に顔を埋めている。「お、おおお、大丈夫?」
「アイコス、1本もらってもええ?」
「え」

やけくそ、な気分なんだろう。外ではカッコつけまくってるぶん、どうにもならない気分のときはここまで甘えてくる侑士が、なんだかんだと愛しい。そして、跡部さんと喧嘩するとこんなに落ち込む侑士も愛しい。

「いいけど……いいの?」
「ええねん。もう俺の体がどうなろうと、跡部には関係ないんやろから」
「極端すぎないかな」まあ侑士が喫煙しようが跡部さんには関係ないだろうけど。
「ええねん、吸わせて」

フィルターを準備して、侑士にわたした。ほんの少しだけ眉間にシワをよせて深呼吸をしている。

「これで吸えるん? わ、なんか震えた」
「もう1回ブブって震えたら、吸えるよ」
「おっ、震えた」

大きく吸いこんで、フーッときれいな白を吐いた。どういうわけか、目をまるくしている。
もう一服、今度は小さく吸いこんだ。アイコスを持っている手が美しい。

「……喉がスースーする」
「ミントだからね」
「悪くないな?」
「ふふふ。でしょー」

ソファに頭を預けて、侑士はぼうっと天井を見あげた。ジョニ・ミッチェルの優しくて母性ある歌声が、たそがれるにはもってこいだ。

「俺が知らん世界はいっぱいあるんやな……」
「起伏すごいことになってるね」たかが男友達と喧嘩したくらいで。とは、言わない。
「跡部にしかわからん世界に、俺、突っ込みすぎたんかな」
「そう思うなら、素直に謝るのがいいんじゃない?」
「……なんや酔いが回ってきたなあ」

さらっと流された。まったく、気楽なものだ。こっちはあなたに片思いしている名バイプレーヤー気分ですよ。もちろん、微笑ましいけどね。

「まったく。それはイヤなの?」
「別に……イヤとかやない。せやけど、ひどいこと言われたんは、傷ついたし」
「言った跡部さんも、きっと傷ついてるよ」
「……殴った手のほうが痛い的なやつ? そんなもん?」
「侑士がわたしと喧嘩したときだって、そうでしょ?」

最後の一服を吐きだすのと同時に、唇がつきだされる。ぶーたれていても、目の奥が切ない。拗ねてるぶんだけ、後悔が見てとれる。
ピロン、と腑抜けた音がした。侑士のスマホが光っている。覗きこむような真似はせずチラ見しただけだけど、「跡部景吾」と「言いすぎた」という文言はしっかりと確認できた。また、吹きだしそうになる。

「彼女から?」
「はあ? なに言うてんの。彼女は伊織やん」ニヤニヤしちゃって。
「ふふ。ちょっとヤキモチしてみただけ」
「なんや、かわいいこと言うて」

もうひとりの恋人にはできないキスを、代わりにわたしが受け止めた。





fin.



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