じれったい
窓から見える夜景を見おろす伊織さんの背中が、俺には滑稽に見える。
「タバコ、やめたんちゃうの?」
声をかけると振り向いて、無理やり笑顔を見せてきた。それ、どういう顔なん? なあ。
「タバコやめたから、ここにいるんでしょ」
「うまいこと言うなあ。それもタバコやん」
喫煙にうるさくなった会社やと、いまは加熱式のタバコしか吸えへん。
要するに、タバコをやめてそっちにしたと言いたいわけやな。正直、そんなんどうでもええんやけど。
「タバコ吸わないのに、忍足はなんでここにいるのかな?」
「喫煙室に入ってくのが見えたから来たんや」
定時もすっかり過ぎた深夜、社員の姿は俺と伊織さんだけやった。
残業で疲れ切った体を癒やすフリをして、ホンマは黄昏るためにここに来とること、俺にはバレバレなんやけど。
こんだけ恋い焦がれとる男が目の前におるっちゅうのに気にもならんのか、すぐに窓に向きなおった背中がいじらしい。我慢できんかったから、うしろからそっと抱きしめた。
「ちょっと忍足……ここ、会社」
「ええやん、誰もおらんのやから」
空気清浄機の音だけがする静かな一室で、俺と伊織さんだけの時間が過ぎていく。それだけで、めまいがしそうなほど狂わされる。もっと狂わせてほしい、あの夜みたいに。
「なあ、ホテル行こ?」
「調子にのるな」
「のるやろ、あんなことあったのに」
「あれは酔った勢い」
一度だけ重ねた体がひどく恋しかった。俺の気もしらんと、切なげに乱れた彼女のぬくもりが、頭にこびりついて離れへん。
「そんなん言わんとってや」
抱きしめた腕に力を入れると、伊織さんはふっと笑って、濡れたルージュを口づけてきた。このまま腕に閉じこめたいのに、やんわりとすり抜けていく細い体。あのときは、俺だけの体やったのに。
「これでいい? そろそろ帰らなきゃ。忍足もほどほどにしなよ?」
逃げようとする伊織さんの手首を、思いきりつかんで引き寄せた。
「忍足……っ」
「冷たくされたら、余計に好きんなる」
「……わたし、彼とうまくいってるから」
「嘘や、そんなん」
「嘘じゃないよ」
「うまくいっとるのに、俺に抱かれるわけない」
とっくに燃えあがった俺の心を、わざと傷つけようとするのは、なんで?
また男に裏切られそうやって、怖がって、遠ざけて、ずっとそうやって、いまの男と曖昧につづけていくつもりなん?
そんなん我慢できへん。ずっと好きやった人と、あんな激しく愛しあったのに、それでも手に入らんとか、頭がおかしくなりそうや。
「だから、あれは……」
「信じへんよ、そんなん。伊織さん、俺に溺れるのが怖いだけやろ?」
「うぬぼれ……ないで」
うぬぼれるで、そんな顔されたら。
「もう遅いわ。俺、伊織さんやないとあかんねん」
「忍足……、離して」
「離さん。俺は絶対に、引き下がるつもりはないで」
抵抗をなくした唇を奪うと、揺れた瞳から、涙がひとつこぼれおちた。
fin.
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