全部、君だった。


感情的にならないことが、ずっとあなたの傍にいれる秘訣だと信じていたのに。

――比呂士が別れたいなら、仕方ないね。
――今日まで、ありがとうございました。
――比呂士……。
――はい。
――わたしと一緒にいて、楽しかった?

ずっと幸せでしたと、口にすることは憚られた。口にしてしまえば、この醜い嫉妬心が伊織さんを傷つけるとわかっていたから。
愛をたしかめ合うための交わりも、なにもかも、はじめてのことは、すべてあなたでした。だからこそ、私は幸せだった。

――比呂士も、こういうことするんだ……。
――しないと思っていたのですか? 私だって男です。
――どうしよう。ドキドキが止まらなくて、おかしくなりそう。
――私もです。もう、止まらなくなりそうです。

その唇に触れたとき、ひどく困った表情で私を見あげたこと伊織さんが、少しも頭から離れてくれない。

――うん、すごい楽しかった! また行こうよ、みんな誘ってさ!

目の当たりにした姿に、最初はなんでもないと思っていたことも、日が経つにつれ心の奥で渦を巻いていくのがわかった。なんでもないと自身に言い聞かせるのは、最初から見て見ぬ振りなどできるようなことではなかったのだ。
くすぶりがはっきり嫉妬だとわかったとき、素直になればよかったのだろうか。伊織さんは私の恋人ではあっても、私の所有物ではない。交友関係に口をはさんで、関係が崩れるのを恐れた。しかしその判断が、伊織さんを深く傷つけていた。

――比呂士さ、最近、冷たくない?
――私がですか? 勘違いしているのでは?
――わたしが冷たいって感じたら、冷たいんだよ。
――そんな、おかしなことを。
――おかしくない! 最近、全然わたしのこと見てくれてないよ!
――なかなか会えないのは、申し訳ないと思っています。
――だから、そういうこと言ってるんじゃなくて!
――さみしくなったら、ご友人に助けてもらってください。私では埋めれないものもあるでしょうから。
――なんで、なんで比呂士、そんなこと言うの?

大きな瞳に浮かぶ涙が、私の感傷を強くした。泣きたい思いをしているのは自分なのだと、卑屈になった。すべてさらけ出して嫌われるくらいなら、この心が落ち着きを取り戻すまで待つべきだと、信じてやまなかった。
……別れを目前にしても、私は愚かだった。後悔しても、もう伊織さんはとなりにはいない。
雨が降り出した公園で、ひどく切ない思いに胸が傷んだ。1ヶ月が過ぎるというのに、あのときから私の世界は、時間が止まったようだ。

「じゃあまた今度……うん、次はわたしが予定を組むよ!」

雨音のなかで聴こえてきた声に、顔を向けた。止まっていた時間が、ゆっくりと動きだすような感覚にとらわれていく。
何度も、何度も愛した声だった。私の心を包んでくれる、誰よりも愛しい、あなたの……。

「……比呂士?」

離れた場所から私を見つけた彼女は、足を止めた。身動きができなくなるほど、私は伊織さんを見つめていた。こんなにも恋い焦がれているのに、なぜ私は、その手を放してしまったんだろう。

「……待ってください!」

立ち去ろうとする伊織さんに駆け寄って、その腕を強引につかんだ。怯んだ瞳に、あの日のように浮かんでいる涙に、もう自分をおさえることなど、できそうにない。

「はな、して」
「許してもらませんか?」
「え……」
「あなたを傷つけた。私は、本当に愚かで醜い男です。それでも、どんなに努力しても、伊織さんのことを忘れることなど、私は……私には、できませんでした」
「比呂士……」
「もう、遅いですか?」
「……」
「もう、諦めるしか、ないですか?」
「……」
「私はいまでも、伊織さんが好きで、大好きで……おかしくなりそうです」

濡れていく自分の頬が、雨なのか涙なのかもわからない。

「そんな顔、するくらいなら……」震えた愛おしい声が、私の耳に届いていく。「抱きしめてくれたら、よかったのに」

脆い想いがはきちれたように、伊織さんを強く抱きしめた。





fn.



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