汚れた王将_02


2.


午前8時30分。
「竜王の間」の襖を開けると、会場では準備が進められていた。13畳ほどある和室で、立花と記録係がせかせかと動き回っている。

「お、八段。おはようございます」
「おはようございます」

米沢も深々と挨拶をした。だんだんと熱が高まってくる。米沢にとって、すでに勝負は、はじまっているようなものだった。

「本当にすいませんね。なんか、てんやわんやで」立花が笑いながら頭をさげてくる。昨日のことを言っているのだろう。
「あなたのせいじゃない」

立会人や記録係が座る席のテーブルに、「封じ手」が置かれていた。米沢はそっと腰をおろし、封筒を手にした。

「いやあ、そいつが金庫のなかになくて、ホントに助かりましたよ」立花が米沢の様子を見て、嬉しそうに声をかけてきた。「それがなければ、さすがに中止ですからね、ええ」
「そうですよねえ」

助かった、喜ばしい、そんな感情をたっぷりと込めて、米沢は応えた。立花が縁側と和室のあいだにある障子を閉めている。記録係は駒並べに夢中だ。米沢はどの視線からもさえぎることができるように、背中を向けて、一瞬だけ「封じ手」を隠した。

チャンスは、いましかない。





「竜人の間」の近くにある別室では、将棋ファンが大勢たむろしていた。特別会場である。将棋のテレビ中継を見ながら、皆でやんややんやと騒ぐのであろう。昼間からやっている居酒屋でよく見る、競馬中継のアレである。ざっと20人くらいだろうか。
伊織たちも、そこに交ざって観戦することにした。

「はじまりますよ、忍足さん」
「佐久間さん……」

忍足は、なにやら考え込むように眉をひそめていた。将棋中継など見る気もないのか、テレビに背を向けている。

「俺、酢豚弁当が食べたかってん」まだ言っている。いつでも食べればいいと思うのだが、忍足にとっては切実な夢なのかもしれなかった。
「そ……か、帰りに食べたらいいじゃないですか」なんとか励ましたい伊織である。
「そんなん、帰りの新幹線、間に合うやろか」
「どんなに長引いても試合は18時くらいまでだと思いますから、晩ごはんでどうですか?」
「……ランチがよかったんやもん」信じられないわがままだった。
「なにを甘えた声をだしとるんじゃ忍足。はじまるぞ」

そこに、仁王が入ってきた。テレビ中継に視線を送りつつ、仁王は忍足の横にドン、と座った。一方で、今泉はほかの将棋ファンたちとワクワクしながらテレビにかじりついていた。

「はじまったらええやろ勝手に。俺の酢豚弁当どないしてくれるねん」
「しつこいですよ忍足さんっ。一緒に見ましょうよ!」近くにいた今泉にも忍足のぼやきが聞こえたのだろう。
「どうでもええ」
「まったく、張り切って捜査しまくっちょるのはお前じゃろうが」
「そら仕事やしね……」
「ほれ、例の『封じ手』、八段が開封したぞ」

仁王の言うとおりだった。テレビでは、米沢が封筒をハサミで切り開封していた。なかから用紙を取りだし、じっと確認するように見たあと、用紙を取りに来た記録係に手渡している。さらに記録係から、立花へと用紙が手渡された。

『米沢八段の封じ手を読みあげます』

封じ手にはなにかある、とは忍足の意見だ。忍足は相変わらず背中を向けたままだったが、それ以外の全員がテレビに見入った。

『4六銀』

立花の声が、たしかめるようにゆっくりと読みあげた。テレビ画面が将棋盤に切り替わる。米沢が銀将をバチン、と叩くように置いた。

『竜人戦第四局、2日目、開始します』

忍足が素早く、くる、とテレビに向き直る。伊織はぎょっと身を引きそうになった。つづけてすぐに、仁王と顔を見合わせていた。

「めっちゃええ手やよな?」
「ああ、最高の一手じゃろう。こりゃ竜人も苦戦するかもしれん」

そこまで将棋に詳しくない伊織にとってはよくわからなかった。というか忍足は、それがわかるならなぜ昨日、自分に負けたのか。そちらのほうが不思議だった。

「よっしゃ、ほな俺、行ってくるわ」
「え、行ってくる? どこにですか?」まさか酢豚弁当を買ってくるつもりか。
「『竜人の間』や」

まだ酢豚弁当を買ってくると言われたほうが、伊織には納得感があった。
想像の斜め上をいく忍足は、会場に乗り込もうとしていたのだ。





対局開始から、数分後のことだった。襖が開けられてわずかに振り返ると、顔を覗かせてきたのは忍足だった。
大事な対局中に関係者が会場に入ってくることは、ままある。つまり禁止されているわけではない。だが、配膳やよほどの用事でない限り、非常識極まりない行動だ。これは竜人戦だぞ、と、米沢は奥歯を噛んだ。いったい、刑事がなにをしにここに来たのか。
忍足は静かに襖を開け、静かに閉じると、隅のほうでちょこん、と正座をした。一応、音を立てないように配慮しているらしい。が、十秒もしないうちにテーブルをチラチラと見はじめた。まさか、と思う。
忍足がゆっくりと立ちあがった。テーブルの上にある「封じ手」を一直線に見つめ、会釈をくり返すように腰を低くしながら、彼は記録係の前から手を伸ばした。

「中谷竜人、3六歩」

しかし、記録係が中谷の指し手を読みあげたことで、忍足はビクッと手を震わせた。失敗したせいだろう、すぐに記録係と立花のうしろに回っていた。そして盗人のようにまた手を伸ばしながら、彼はごくごく小さなウイスパーボイスで、立花に声をかけていた。

「すんません、ちょっとええですかこれ。すんません」

迷惑そうな立花と記録係をものともせず、忍足は封じ手を手にし、隅でじっくりと確認している。米沢は忍足が気になって仕方なかった。ダメだ、いまは対局に集中しなければ。3六歩の次の指し手を考えねばならない。米沢は焦った。忍足が視線を上に向けてなにやら考え込んでいる。だが、気にしている場合ではない。

「ちょ……」

忍足が立花に話しかけようとしていた。しかし立花に睨まれて、忍足が口をつぐんでいる。
しかし、すぐに場所を移動して、今度は記録係の肩を叩いていた。なにをしているんだ、あの男は……3六歩の次の指し手を、考えなくてはならないのに。

「すんませんこれ、なんでしょうか」
「シー……」

記録係は見向きもしていなかった。忍足が封じ手のなかに入っていた用紙の端を指差している。あそこになにか、あったのだろうか。いや、記憶にない。
気が散る……どうでもいいことに違いないというのに、忍足にうろちょろされるだけで、米沢は苛立ちで唇が震えそうだった。
だが忍足はしつこかった。結局、立花にも話しかけていたのだ。

「すんません、これなんやと思いますか。これ」
「お願いしますよ、忍足さんっ」

立花にたしなめられ、忍足はちょこんと頭をさげていた。

「すんません……」やっと立ち去る気になったらしい。テーブルの上に封じ手を置いた。米沢は、胸をなでおろした。が、その直後だった。「すんません立花さん、これ、お借りしてええですか?」

何度も声を発する忍足に、立花は限界だったのだろう。立ち去ってくれるならなんでもいい、と言わんばかりに顔を歪ませ、頷きながらシッシッと手を払った。勝手に持っていけ、というわけである。米沢の安堵がたちまち緊張に変わっていく。あれを、あの封じ手をどうする気なのだ、あの男は……。





ガシャーン! と、なかから音がして、伊織は目をまるくした。
「竜人の間」でなにが起きたというのか。忍足を待っているだけの伊織に、不安がよぎっていく。

「ああ、佐久間さんお待たせ」
「なにか、あったんですか忍足さんっ」
「いや出るときにな、茶器、蹴っ飛ばしてもうて」
「えっ、ちょ、忍足さん、あんな緊迫感のあるところで、なにやってるんですかっ」
「うん。めっちゃ全員にメンチ切られたわ。それでも手に入れたで、封じ手」

忍足がふっと微笑んだ。そう、この封じ手を手に入れるために、忍足は会場に乗り込んだというわけである。だからこそ、心配でついてきた伊織だ。なんなら忍足の指示に従い、実行役(迷惑役)は自分が引き受けようと思ったのだが……。

――佐久間さん、ビビりやから無理やと思うねん。やっぱり俺が入るわ。
――び、ビビりじゃないですよっ。
――あかん。失敗できへんし。それに俺がうろちょろするほうが、米沢には効果的や。

それは的中した。したが、案の定、空気をあえて読まない忍足の行動は大変に迷惑だったと想像がつく。しかし結果オーライであることには違いなかった。

「どう思う?」

テレビ中継を行っている別室に戻り、忍足はテーブルの上に封じ手を置いた。
仁王、今泉もそろって封じ手を眺めた。皆、神妙な面持ちである。

「いい手だと思いますよ」今泉が口火を切った。すかさず、バチン、という将棋の駒を置いたときのような音が聞こえる。聞き間違うレベルだった。「忍足さんっ、そういちいちデコをはたくのはやめてくださいよっ! ぺんぺんぺんぺんっ!」バチン、と、忍足は返事をするようにまた叩いた。
「すみっこじゃろ、すみっこ」仁王も一緒になって今泉のデコを叩いていた。
「いっ……」

この時代ならパワハラと言われても仕方ない忍足と仁王の行動だが、もっとやっていいのでは、と、伊織は思っていた。当然、伊織もすみっこだとわかっていたからだ。
封じ手の用紙の左上の隅に、なにやらマークのようなものが記されているのだ。

「どういうことやろか、これ」
「なにか意味があるんでしょうか」伊織も頭をひねった。
「そりゃなんかはあるんじゃろう。じゃけど……」仁王もひねっている。
「どういう意味なんやろか。わからへん」そしてこればかりは、忍足にも難問のようだ。
「バツ……」

今泉がつぶやいた。全員が、ゆっくりと今泉を睨みつける。
バチン、バチン、と、忍足、仁王の順で今泉のデコが叩かれた。

「いたいっ!」
「そんなことわかるんよ、今泉」

警部殿のおっしゃるとおりだ。そこには不完全な囲いのなかに「×」が書かれている。
つまり実際は『(× 』と、書かれているのだ。

「なんで書いとるんやって聞いてんねん俺は」
「わ、わかりません」今泉には無理だろう、と伊織は小さく頷いた。
「サインかなにかなんでしょうか」
「んん……せやけど、バツのサインってなんやろか」
「チェックボックスみたいになっちょるのも気になる」
「例題、みたいなことでしょうか」伊織は遠慮がちにつぶやいた。
「不正解っちゅうこと? 封じ手はどう考えても正解の一手じゃったと思うがの」
「んん、せやけど……」

頭をひねる忍足を見て、伊織は一定、安堵していた。酢豚弁当のことなど忘れてしまったようだ。目の色が、さきほどとはまったく違う。そして同時に、やっぱり胸がときめいてしまうのだ。

「なんか意味あるで、これ」

忍足は、『(× 』を真剣に見つめつづけていた。





茶室を配した風情あふれる中庭で、米沢は新緑のなかを散歩していた。春には桜、秋には紅葉、冬には雪景と、移りゆく四季を楽しむことができる高級旅館は、将棋の休憩にももってこいの空間であった。

「あ、すんません先生ー」

だというのに、対局会場だけでなく、このひとときすらも邪魔してくる忍足という男に、米沢はいよいよ本格的に腹が立ちはじめていた。怒らせたいのだろうか。忍足の図々しさには感服すら覚える。米沢はじっとりと振り返った。

「会場を見に行ったらいらっしゃらなかったんで……お散歩ですか?」
「気分転換です」自分の声が低く響いているのがわかる。なんなら、お前のせいでそれも台無しだと言ってしまいたかった。
「平気なんですか、向こうは」
「長考に入られたようだから、竜人は」
「ん、チョーコー?」聞き慣れない言葉だったのだろう、忍足がカタコトになってくり返してきた。
「こういった対局になると、1時間や2時間、考え込むのはあたりまえです」米沢は昨晩、4時間ほど長考していた。
「はあ、なるほどなるほど。かなり悩んでましたよ敵は。勝てそうやないですか」

調子のいい声かけだったが、そのとおりである。米沢も、思わずほくそ笑んでいた。相当いい手を返してこない限り、今日は米沢が押している。勝負ありと言ってもいい。

「あの、2、3質問ええですやろか」
忍足がそう言ってくることも、米沢には想定内であった。だから、最初から返答も用意していた。「申し訳ないが忍足さん。対局中は遠慮してもらえると」
「すんません、気が回らへんで」
「どうせなにを聞かれても、頭のなかは局面のことしかありませんから」今日に至っては半分は嘘だが、概ね事実でもある。
「そうやと思います」
「終わったら、ゆっくり」

米沢は笑顔を見せた。鳥の鳴き声とせせらぎの穏やかさが気持ちのいい日中だ。米沢は、日頃から犯罪と向き合い、身も心も仕事で疲弊している刑事に引き際というものを与えたつもりだった。

「はい」しかし、相手が忍足だということを、米沢は一瞬、忘れていた。「ひとつだけ。すぐに終わります」
「……」呆れて逆に口が開かなくなる。
「事件に直接、関係あるかどうかはわからんのやけど」そして、今日も早口であった。「ちょっと気になったんです、あの……」

忍足が、背広の内ポケットから用紙を取りだしている。米沢は顔をしかめた。

「先生が書かれた封じ手です。いい手だってみんなそう言うてます」当然だろう。「ここちょっと見てもらえませんか?」

忍足が封じ手の左端上部を指差していた。たしかになにかが書かれてある。しつこく立花や記録係に聞いていたのは、これだったのか、と思う。米沢は目が点になりそうだった。なんだ、これは。

「これどういう意味ですやろか?」
「……失礼」米沢は忍足の手から用紙を抜き取った。「私は、こんなものは書いていない」本当のことである。
「え? 先生が書かれたんちゃうんですか?」
「ええ」
「はあ……ほな誰が書いたんやろうか。俺、てっきり先生やと」

普通はそう思うだろう。しかし断じて、あんなに慎重になって書いた封じ手の左端上部に、こんなものを記すはずがない。

「違いますね」
「最初から書いてあったんやろか……」ひとりごとのように、忍足がつぶやいた。
「論理的に考えるとそうなりますが、覚えてないな」

これも、本当のことである。米沢は、封じたときはかなり集中していた。ほかのことになど気は回っていなかった。そしていま、無駄な思考を入れたくはなかった。忍足はいろいろなことを気にする男のようだ。米沢にとってはどうでもいいことだったので、すぐに用紙を返した。

「あの、これなんやと思います?」

真面目な顔で、なにを聞いてくるのかと思えば……。用紙には『(× 』と書いてあった。つまりそれは……、

「バツ印でしょう?」
「そうですやんねえ……」それ以外、なにがあるというのだ。
「せやけどね、俺これどっかで見たことあるんですよねえ。しかもめっちゃよう見る気がするんです」

好きにしてほしかった。むしろ誰でも見たことがある。○か×で答えよ、の問題によくあるではないか。

「これひっくり返してみよかな」
「好きにしてください」

我慢ならず、米沢は若干、声を荒らげて本音をもらした。すると忍足が、用紙をじっと見て目をまるくしている。なにかに気づいたように「あ」と口を開けた。

「……忍足さん」
「くくっ、くくくっ」

本当に、イライラとさせる男だった。ひっくり返したところで『(× 』が『 ×)』になるだけである。腹立たしかった。面白いはずがない。

「ふっふっふ……はは、ああ、ふふ、くくくくくくっ」いつまで笑っているのだ。
「そろそろ勘弁してもらえませんか」
「さよか、ふんふん、くくっ」
「あの」

忍足が、ようやく米沢に顔を向けてきた。満面の笑みを浮かべて、しっかりと目を合わせてきている。

「そろそろ」
「すんません、あの、ありがとうございました。失礼しました。くく、くくくっ」

忍足は実に楽しそうに、背中を向けて去っていった。
しつこく厄介な忍足から解放されたというのに、米沢のなかに確実な不安の波が押し寄せてきていた。





「ただいま」
「おかえりなさい、忍足さん」

米沢の背中を追いかけていた忍足が、10分もしないうちに戻ってきた。テレビ中継ではいまだに中谷竜人が次の一手を考えており、なにも変わらない盤面に伊織も飽きがきていたときだった。

「佐久間さん、わかったで」
「え……バツ、わかったんですか?」
「ん。くくっ」
「なん、な、なんだったんですか?」
「ひっくり返してみ? それと俺、もう1回、会場に行ってくるわ」
「えっ!?」

やはりこの用紙にはなにかあるのだ。そそくさと出ていく忍足を見守るため、そして謎が気になるため、伊織も一緒になって会場に向かった。足早な忍足を追いかけるが、用紙をひっくり返して眺めているせいで追いつかない。そこで、手洗いに行っていた仁王とぶつかりそうになった。

「わ、仁王さんっ」
「危ないのう佐久間、前を見て歩きんしゃいよ」
「す、すみません」
「まだそれ、考えよるんか」
「はい、忍足さんはわかったそうです」

会場である「竜人の間」にたどり着いた。忍足はすでに会場である中心の和室の襖を開けている。部屋の扉を開けて忍足の様子を眺めながら、伊織は仁王にぼそぼそと伝えた。

「ひっくり返せって」
「ひっくり返せ? ほう」

仁王が用紙をひっくり返していた。首をかしげている。伊織も睨みつけたが、なにもわからなかった。仁王も同じ感想なのだろう。

「あの、あの、封筒、知りませんか?」

会場のほうから、忍足の声がわずかに聞こえてきていた。いまごろきっと、冷たくあしらわれているのだろう。

「あいつ、よう心が折れんよのう」感心する、と仁王はつぶやいた。
「はい、本当に……というかこれ、ひっくり返しても『 ×)』になるだけですよね」
「うーん……じゃけど、どっかで見たのう」
「まあ、悪い例、とかで使いますもんねこれ」捜査資料の書きかたマニュアルにもよくある。
「いや、そういうのじゃのうて……」

うーん、と、仁王がポキポキと首を鳴らしはじめている。少しだけ怖かった。

「捨てちゃったんかな……」

また、忍足の声である。ほかの人の声は一切聞こえてこないので、案の定、誰にも相手にされていないようだった。伊織は心配になって、和室を覗き込んだ。
忍足はその名のごとく、忍び足で屑カゴに向かっていた。そこに手を突っ込んで、ガサゴソと音を立てている。封筒を探しているのだろう……が、立花と記録係に睨みつけられて、ピン、と背筋を伸ばしながら何度も頭をさげていた。

「すんません……」恐縮しきりで申し訳なさそうに言いながらも、しつこく探している。少しかわいかった。
「あ」

そのとき、扉のほうにいた仁王の声がした。なにかわかったのかと思い、伊織は慌てて扉を背もたれにしている仁王のもとに戻った。

「なるほど、そうか」
「わ、わかったんですか、仁王さん」
「わかった。どうも妙な気分になるのうと思っちょった」
「は……?」
「くくっ、なるほどな。しかしなんで、こんなことになっちょるんかのう」
「ど、どんなことになっていると?」

まあ、そのうち佐久間もわかるじゃろ、と、仁王はごまかした。伊織は結局、答えを教えてもらえないまま、そこから数時間を過ごすことになった。

時刻はすでに、夕方に近づいていた。

「3二銀か」

将棋ファンの誰かの声で、居眠りをしていた伊織は目を覚ました。また長いこと考え込んでいた中谷竜人が、ようやく動いたのだ。対局は終盤にさしかかっていた。

「かなり追い込まれてますね、竜人」今泉が将棋ファンたちに話しかけている。
「勝負あったな」今泉のとなりに座っていたファンが応えた。
「決まったな」

今泉が勢いよく向かってきた。伊織も含め、忍足も仁王もすっかり飽きて茶菓子を食べていた。

「米沢八段の勝ちです。あともう押すだけですから」速報記者のように、今泉は興奮していた。
「これで八段、飛車を成って」ファンが得意げに声をあげる。
「成るって、なんですか?」伊織は誰にでもなく、たずねた。
「相手の陣地に入ったら裏返して強い駒に変わるじゃろ。あれを成るっちゅうんじゃ」仁王が丁寧に教えてくれる。
「佐久間さん、『成る』も知らんくせに将棋しとったんや……」

忍足が妙な暗さをただよわせていた。まさかまだ、昨日のことを根に持っているのだろうか。伊織が強かったわけではない。忍足さんが弱かったんです、と言えば、また喧嘩になってしまいそうなのだが……あんな勝負を根に持たれると厄介である。

「5三飛車成りですね?」一方で、今泉が頷きながら、ファンたちに聞いている。
「ここで飛車に成られたら、中谷竜人、ちょっと逃げようがねえな」

また、嬉しそうにファンがつぶやいた。つまり、これはもう米沢八段の勝ちが決まったも同然ということなのだろう。
ということは、対局が終わってしまう。

「忍足さん、時間がないですね」
「せやなあ……」
「で、でも、謎は解けたんですよね?」伊織自身はまったくわからないままなのだが。
「んー……まあ、そうなんやけど」
「さっさとパクらせればええじゃろ忍足。あれでも十分だ」仁王らしい言いぶんである。
「あの謎だけやと、決め手にならへんから……」
「じゃからパクって吐かせればええだけなんじゃけどのう」

忍足と仁王のやりかたの違いはそのまま性格の違いだが、どちらも優秀なのだ。だがこの二人、実は昔、「相棒」さながらに動いていたことがあるらしい。
そこで大喧嘩になり、上からコンビを解消させられたという過去がある。伊織はついこのあいだその話を知り、大変に驚いた。そして驚くほど想像がついた。なんだかんだと顔を合わせれば嫌味合戦をくり返している二人だが、実は仲がよくて仲が悪いのだ。いささか微笑ましかった。

「お、ついに決めるか米沢八段」

今泉の声がし、ぼんやりと話していた伊織たちはテレビ中継に目を向けた。
米沢の手が、「5三飛車成り」に向けて動いている。しかし成る直前、米沢の手の動きが止まった。

「ん?」
「なんじゃ? なんで止まっちょる?」

忍足が黙ってその様子を見ている。米沢の手は完全に固まっていた。中継で機材トラブルがあったのかと思うほどだった。だが、指がわずかに震えている。トラブルではなさそうだった。
そして米沢は、そのままぐっと位置をさげて、飛車をそのまま置いた。

『米沢八段、5六飛車』

ファンたちが予想していた場所とは、まったく違っていた。

「5六飛車!?」

どよめきが起きていた。伊織には意味がわからなかった。おかしいのか? おかしいんだろう、この反応を見る限り。

「なんで成らないんだ?」
「なに考えてんだ八段は」

今泉も一緒になって嘆いている。伊織は首をかしげた。

「なあ、どういうこと?」忍足も意味がわかってないようだった。
「チャンスを棒に振ったっちゅうことじゃ」仁王が答えた。「なんか計算があるんかもしれんが」
「ちょっとこれは読み切れないね」しかし仁王の計算説も、ファンたちのどよめきのなかで間接的に否定されていた。
「読めるわけないよ、こんな手」

そこからの勝負は、ファン曰く「ぐだぐだ」と言ってもいいものだった。あっというまに形勢が逆転し、米沢が追い詰められていく。
やがて、テレビ中継から米沢の声が流れた。

『ありません』

それは「まいりました」と同義である。

『投了です』

テレビ中継から流れる「投了」の合図に、伊織と忍足と仁王は、3人で顔を見合わせた。絶対に勝てるはずだった勝負を棒に振った米沢の思考がわからない。それが事件と関係あるのか。いや、あるに違いないと、今泉を除く刑事3人は確信していた。

「竜人、初防衛おめでとうございます」
「いまのご感想は?」
「どこで勝ちを意識されましたか?」

ほどなくして、廊下から記者たちが中谷に群がっている声が聞こえてきた。となりの廊下はにぎやかな一方で、中継を見ていたこの部屋に集まるファンは、全員がげんなりとした様子を醸しだしている。

「しかしなんで、あそこで飛車を戻すかねえ」
「あれで流れが変わっちゃいましたからね」今泉が、すっかりファンの人たちと交ざって会話をしはじめた。
「あそこで成ってたら絶対に勝ってましたよ、八段」
「なあ、ちょっとええか?」

逆転に入ってからずっと黙り込んでいた忍足が、ようやく声をあげた。今泉がたむろしているファンたちに向かって話しかけている。

「米沢八段の手、そんなにおかしかったん?」
「だって、意味ないですもん」今泉が真顔で答える。
「あそこは絶対、飛車を成らさなきゃダメだよ」ファンが答えた。
「指し違いっちゅうことは?」仁王も質問を投げかけた。
「じゃないかと思うけどねえ」
「なんか、作戦やったちゅうことはないん?」
「ないね」

呆れたような声をあげたもうひとりのファンに、忍足は深く頷いて立ちあがった。
急に長身になったので、伊織はびっくりしてのけぞりそうになった。頭が障子の鴨居にぶつかりそうである。

「あの、ちょおすんません、ええですか?」しかも大声だった。「誰かこんなかで米沢八段の手、合理的に説明できる人、おりません?」

その場は静寂に包まれた。忍足が10秒ほど待ってから、にっこりと頷く。

「ありがとう。佐久間さん、ちょっと一緒に立花さん探そか。大至急」
「は、はいっ」
「仁王は八段、見張っとって」
「まったく。俺、上司なんじゃけど?」

そうは言いながらも、仁王は口端をあげて笑っていた。
伊織はすぐにその場から走って、忍足と手分けをして立花を探した。のっそりとした猫背の背中を見つけたのは、5分後のことだった。
立花を足止めしてから、1分もしないうちに忍足はやってきた。立花が迷惑そうな顔をして忍足を見ている。

「すんません立花さん」
「あなたねえ、対局中もちょこまかと」
「ホンマにすんませんでした。それで、ちょっと変なこと聞きますけど」
「なんですか……」無視した忍足に、立花がしらけた顔をする。
「竜人戦で使った将棋盤と駒、結局どこから持ってきはったんですか」

面倒くさそうな顔だった。答えるのが億劫なのか、それとも忍足にうんざりなのか。そのどちらもだろうと思うと、伊織まで申し訳ない気持ちになってくる。ですが立花さん、忍足さんは、悪い人じゃないんです。あえて、空気を読まなかっただけで……。

「もしかして、米沢八段の部屋なんちゃいますか?」
「え……あ、ああ、そのとおりです」

立花が、なんでわかったんですか、と言いたげに驚いていた。伊織の手柄でもないのに、勝手に得意げになっていく。どうだ、これが忍足さんなんですよっ。

「あれでも、モノはかなりいいんですよ?」
「そうですやろねえ」
「本当はね、竜人の部屋にあったのを使いたかったんですがね。竜人、その上で物食って、汚しちゃったんですよ」
「くくっ。なるほど……ありがとうございました」

事件解決までもうまもなくなのだと、伊織の経験が告げていた。





思っとったとおりでした。んん、試合に使った駒、ゆうべ米沢八段の部屋にあったモンでした。
今回のポイントはふたつ。まず、米沢八段が使った封じ手のトリック。そしてもうひとつ。なんで八段は、勝てるはずの勝負を捨てんとあかんかったんか。今日はちょっと急いどるんで、このへんで……忍足侑士でした。






鹿威しの音が響いていた。
夕暮れ時、米沢はまだ、会場にいた。呆然としたまま、そこから動けなかったのだ。静かな部屋の縁側から、足音が聞こえてくる。米沢にはもう、それが誰かわかっていた。あの男しかありえない。

「残念やったですねえ」

両手を組みながら、忍足がやってきた。最初から、この男は状況を読まずに人を苛立たせようとしている。それで感情をあおってボロをださせようという魂胆なのだろう。その手に乗るものかと、米沢はそっぽを向いた。

「んん、お気持ちはお察しします。つらいとこですね」ゆっくりと、米沢の斜め正面に正座をしはじめた。
「実力でしょう」かろうじて、米沢はそう答えた。
「いいえ。あなたは勝っとった。勝てる勝負をみすみす棒に振りはったんです」

ピクリと、自分の眉が動くのを米沢は止められなかった。人生をかけた勝負に負けた男の傷を、試合直後に抉ってくる忍足が許せなかった。

「ひと晩かけて考えた封じ手で負けたらあきませんよ」

米沢はこのとき、やっと忍足の目を見た。一気に体の熱が下がっていく感覚だった。これ以上のどん底は、もうないと思っていたのだが。

「意味が、よく」
「またまたまたまた……。ほんなら気分直しにひとつ、手品を」忍足が、さきほどのように背広の上着から用紙を取りだしている。今度は封筒つきだった。
「忍足さん」うんざりだった。
「ほな、なにか好きな動物をひとつ」
「忍足さんっ」いい加減にしろ。
「なんでもええですから、好きな動物を」
「ひとりにしておいてくれませんかっ」落ち込んでいるということがわからないのか。
「すぐに終わります。好きな動物を」
「もうあなたに付き合っている気分じゃないんだっ!」

米沢は叫んだ。どれも本音だった。忍足がやろうとしていることは、すでに理解ができる。だが、いまは負けてしまった喪失感で、米沢はひどく落胆していた。もうたくさんだっ!

「……」忍足が黙って見つめてくる。米沢は声を荒らげた自分を恥じた。感情的になってはいけないと、思ったばかりだというのに。
「……失礼しました」
「なんでもいいですから、好きな動物をひとつ、挙げてください」

しかし案の定、忍足は見逃してはくれなかった。いや、ただ性格が悪いだけだろう。そして忍足という男がしつこいということだけは、知り合ってまだ丸1日も経っていない米沢にもわかる事実だった。

「……キリン」米沢は、静かにつぶやいた。わざと難しくしたのだ。
「キリン……ん、んん、ま、わかりました」手もとでなにやらコチョコチョとやっていた。「んんん、キリンキリンキリン……キリンの首はなぜ長い。頭が上のほうにあるから。誰か引っ張って伸ばしたんやろか……なんて、しょうもないこと言うてみる。あかんな、関西人の名が廃る。さんまやったらもっとおもろいこと言うんやろけど……んんん、はい、開けてください」

パッと、封筒を掲げてくる。米沢はクスりともせず、そして封筒を受け取ることもなく、ただ黙って忍足を見つめた。

「……ん、ほな失礼して俺が開けます」

そして、なかの用紙を、堂々と見せてきた。楕円と棒の積み木を組み合わせたような滑稽なイラストが、そこには描かれていた。

「キリンです。当たりました。ご感想を」
「……そんなのキリンじゃない」

忍足の眉が、しゅん、と八の字になった。意外にも、ショックを受けているようだ。

「そういうことにしとってください。俺、絵が苦手なもんやから。しかも、ペンの代わりに使ったのは……これなんです」

こっちのほうが堂々としていた。忍足がつづけて掲げてきたのは、つまようじだった。

「仕掛けはもうおわかりですね?」

米沢は、額に汗をかきはじめていた。わかっていたが、実際に突きつけられると動揺してしまう。しかし、試合には負けたのだ。

「フロントに行ってカーボン用紙を借りてきて、袋のなかへ。でもって封筒の上から書く。このつまようじで……」

これを暴かれたところで、痛くはない……はずだ。しかし米沢には、忍足の次の手が読める。それは将棋よりも容易い次の一手であると、米沢は生唾を飲んだ。

「キリンは失敗しましたけど、『4六銀』ならばなんとか書けるはずです」
「忍足さん……」が、米沢は呆れたように見せた。認めるわけにはいかない。
「あなたはこれと同じ手を使ったんや。あらかじめ袋のなかに同じ大きさのカーボン用紙を仕込んでおいた。そして袋には白紙を入れ、今朝になってひと晩じっくり考えた『4六銀』の手を上から書き込んだ」

米沢は言葉に詰まった。すべて、そのとおりであるからだ。唇が震えそうだった。なぜそんなことが、忍足にわかったのか。証拠の隠滅はきっちりしておいたはずだというのに。
すると忍足は、まるで心のなかを読んだかのように、言った。

「なんでわかったか、種明かししましょうか」忍足がまた1枚、用紙を上着から取りだしてきた。「これです」

米沢は勇気をもって、その用紙を見た。忍足が対局中に中庭で見せてきた、『4六銀』の封じ手だった。

「このマーク」忍足が、バツ印を指していた。「やっとこの意味がわかりました。この謎が解けたらすべてが見えてきました」

あのマークだけは、米沢にも理解不能だった。当然だ。書いた覚えがないのだから。

「こっちから見てみましょう」と、忍足は用紙をひっくり返した。「ほら。よーう見てください。このだらけきった文字。この下に、『心』をつけてみてください」

米沢は目を見開いた。『 ×)』のカッコ部分は円の半分くらい丸まっている。その下に、心をつけると……。

「『忍』っちゅう文字になります。忍足の『忍』です。これ俺が書いたんです。実はゆうべ、大石さんの部屋でルームサービスのボーイにサインを頼まれたんです。俺、気づかへんかったんですけど、これが入った封筒の上で書いちゃったんです。せやから字が写ってもうた。サインって面倒ですやん? めちゃめちゃ省略したくなる。俺はいつも忍足の『忍』の一発目をシャッと丸めて書く癖があります。あ、本気だしたらもっと綺麗に書けるんですよ? せやけど今回は……まあ、それはええか。ともかく見覚えがあるはずです、これ、俺の字なんやもん!」

早口でまくしたてた忍足に、米沢はがっくりと肩を落としそうになった。よりによって、なぜこの男がサインを頼まれ、そしてよりによって、なぜ封じ手の上でサインなどしたのか。いやそもそも、よりによって封じ手をあのデスクの上に置いた私の責任か。いやもっといえば、よりによって封じ手を使うことになるほど追い詰められた私の……。

「んんー……どうしても勝たなあかんかったんですね、この試合に」そのとおりだ。どうしても、勝たなくてはならなかった。「将棋の世界も、世代交代やそうで……。ここで踏んばらんと、あとは若手の波に飲まれるだけ。なんとしても勝ちたかった。大石さんを殺したのは、秘密を知られたからですね」

ついにきた、と米沢は思った。ごく自然と流れていくように告げられた言葉に、王手をかけられた気分になる。だがしかし、米沢はそんな勝負の場を何度もひっくり返してきた名棋士である。そんな自分を、誇りに思っていた。

「忍足さん」
「はい」
「証拠があるんですか」
「んん……痛いところを突いてきはりますねえ」

そらみろ、と、米沢は忍足の王手を跳ねのけたつもりでいた。犯罪の決め手は、すべて「証拠」がなければ話にならない。背広の上着を畳まないということは知らなくとも、その常識なら知っている。そしてすべての状況証拠を、論理的に説明することが必要となるはずだ。

「肝心のカーボン入りの袋もなくなっとるし……こっそり持ち去りましたね?」
「よしんばそれが残っていたとしてもですよ、忍足さん」
「はい」
「それは私が不正を行っていたことの証明であり、殺人の関与をなんら立証するものではない」

忍足が背筋を伸ばした。鼻からじっくりと息を吐いている。完全に形勢逆転だ。米沢は高揚すら覚えていた。

「違いますか?」
「んん、さすが論理的な方や。……せやけど、違います。見つけたんです。あなたが殺したっちゅう証拠」
「……」嘘をつくな。そんなものはありはしない。少なくとも、忍足の手にはないはずだ。
「正確には見つけたのは、先生ご自身です」

米沢は身が凍りそうになった。まさかそこまで……読まれていたというのか。封じ手も知らなかった、この男に。

「控え室で話題騒然でした。あなたがなんであんな手を指したんかって。あそこで飛車が成ってれば、あなたは絶対に勝っとった! なんも知らん連中は、平気でそういうことを言うんです」

恥ずべき行為だったことは、忍足に言われるまでもなく、米沢にはわかっていた。だが、ああするしかなかったのだ。

「せやけど!」忍足は大きな声をあげた。「実はあなた、あのとき、駒を戻すしかなかったんです。飛車が成れば、裏返しにせなあかんからです。そんなことは死んでもできへん!」

また、忍足に王手をかけられている。接戦だ。だが、米沢はあきらめるわけにはいかなかった。

「裏返しにすればバレてまうからです、あるモノが。俺の勘が正しければ……!」

忍足が、何度も自分のこめかみを叩き、その指をそのまま、盤面にゆっくりとおろしていった。米沢は一定、あきらめた。逆転のチャンスはまだあるはずだ。そんなものがあったところで、私の犯罪の立証にはならない。
忍足が、飛車を取った。その駒をひっくり返して盤面にバチン、と音を立てて置いた。
赤が、付着している。

「血痕です」

米沢は遠くに視線を逸した。忍足と目を合わせる気になれない。だが、これが最後のチャンスでもある。

「飛ぶんです、血痕っちゅうやつは……これは、鑑識に回すとします」
「決め手にはならないっ」
「十分やと思うんやけど」忍足が即座に返してくる。
米沢はたたみかけた。「この駒は、たしかにゆうべ、私の部屋にあったものです」
「んん」
「そこに血痕が付いていた。おそらく大石さんのモノでしょう」
「そうですやろねえ」
「しかしそれは、犯行現場が特定されたに過ぎない」そうだ、これこそが論理的思考というものだ。「私がやったという」
「せやったらなんで隠そうとしはったんですか!」

大声でさえぎってきた忍足の言いぶんに、米沢は言葉に詰まった。目の前が一瞬で暗くなっていく。

「一生を左右するかもしれへん大事な試合に負けてまでも、あなたは血痕を隠そうとしはった。なんでや?」
「……」説明など、できるはずがない。
「俺が問題にしとるのは、そこです……血痕そのものやありません」

忍足がじっと見つめてくる。米沢は組んでいた腕を開き、膝の上に置いた。

「……投了と考えて、ええでしょうか?」

もう、完全に勝敗がついたと、首を垂れるしかなかった。

「結構でしょう……」

深いため息が、忍足からもれる。それはまるで米沢の心を映しだしたような、悲しい嘆きの音だった。

「殺しを犯してまで勝とうと思った勝負やのに。んんー……皮肉なもんですね」

米沢はふっと笑みを浮かべた。ゆっくりと椅子から立ちあがり、縁側に向かう。この「竜人の間」に足を踏み入れることは、もう二度とないだろう。

「忍足さん」
「はい」
「本心を言います」
「……どうぞ」
「ほっとしてるんですよ、内心は」

忍足に背中を向けて、米沢はこれまでの人生を思いだしていた。この部屋の縁側から見る庭が、米沢は好きだった。

「実はもうすぐ、感想戦というのがはじまる。今日の対局を一手ずつ、初手から振り返ってみんなで検討するんです」

来る日も来る日も、将棋ばかりをしていた。米沢の人生には将棋しかない。それがすべてだった。

「大抵は下手な指し手も、強引に理由をつけて説明するんですが……あのときの飛車の動きに関して、私は説明のしようがない」

でもそれも、今日ですべて、終わる。

「途方にくれていたところで……」

終わらせたのだ。誰でもない、米沢自身が。

「合理的な説明ができないくらいなら、自首したほうがましだ」
「……お察しします」

ようやく忍足と顔を見合わせて、米沢は、心からの笑みを浮かべた。





fin.



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