笑える死体_02


2.


「ご苦労さまでした」

ようやく、警察全員が帰っていった。アリは疲労困憊していたが、すぐさまキッチンへと向かった。忍足の最後との会話がやけに気になっていたせいだ。
勢いよくオーブンを開けると、そこには鶏の丸焼きが入っていた。

――ほかにもな、あるんだよ、今夜は……。

田代の置き土産だ。忌々しい。
アリは田代の言葉を思いだしながら、素手で鶏をつかみあげた。

――あれはまあ……デザートとしては最高ですね。

忍足はアリを疑っている。正当防衛じゃないと思っているのだ。アリは大きな音を立てて、鶏をゴミ箱へ放りこんだ。

翌日の昼休みのことだった。書類整理をしていると、受付から「忍足さまがお見えになってます」と連絡が入り、アリはうんざりした。来たか、と思う。できればいま、いちばん会いたくない男だったが、通さなければさらに疑われるだろう。わざわざ休診時間を狙ってきたのはそのためなのだろうから。
「お通しして」と伝えて、アリは手にしていたボールペンを置き、覚悟を決めた。すぐに院長室の扉がノックされる。

「どうぞ」
「……失礼します」扉を開けた瞬間、ソワソワとした笑顔を向けてきた。癪に障る。
「どうぞそちらに」
「いやあ、立派な病院ですねえ」忍足はソファに腰をおろしながら大げさな声をあげた。「先日はうちの佐久間がお世話んなったようで。あのー、神経科っていうんですか」
「ええ」
「はああ、そうなんや。精神科っていうのと、どういうふうに違うんですか?」
「おんなじですよ。アメリカじゃ歯医者さんよりも全然、生活に密着してるんです」
「はああ、そうなんや」うんうんと首を振りながら、忍足は横に置いたバッグに手をかけた。「ちょっと見てもらいたいもんがあるんですけど」

とくに興味がなかったようだ。それなら聞くな、と言いたいところだったが、このマイペースさが忍足の作戦なのだろう。相手のペースを崩したいのだ。精神科医のアリにとって、そんなことはお見通しだった。

「なんでしょうか」
「どうしても辻褄があわへんことが多くてですね、ご意見を……」まだバッグのなかをまさぐっている。「んん、ゆうべちゃんと寝れました?」
「おかげさまで」苛立ちが募っていたが、アリは笑顔で応えた。
「そうですか。そらよかった……ええと、これなんですけど」と、1枚の写真を見せようとして、刹那、「あっ……刺激が強いんやけど、我慢してくださいね」と、写真をひっこめた。回りくどい男だ。
「……鋼の神経ですから」アリはもう一度、余裕の笑顔を見せた。
「そうですか。ほな、大丈夫や。ええと、遺体の写真です、田代慎吾さんの。先生がナニされた……」

皮肉のつもりなのか、忍足はテーブルの上に写真を置いた。
アリはピク、と眉が動きそうになるのを我慢しながら、写真を手にとった。ストッキングをかぶったまま絶命している田代の顔のアップ、そして全身、あらゆる角度から撮影されている数枚の写真を、アリは眺めた。これがなんだというのだ。

「あのー、不謹慎を承知で俺も言うんですけど、長年その、いろんな仏の顔を見てきてますけどこれほどその……なんちゅうか、笑えた写真もめずらしいんですね」ストッキングを頭からかぶれば、誰もがこんな顔になる。「こんな顔で亡くなって彼もさぞ、残念やったでしょう」
「これがなにか?」アリは写真を返すように、テーブルに置いた。「笑えませんけど」

忍足がアリの顔を見て眉をあげた。笑えるだろう、とでも言いたげだ。

「……ひっかかりませんか? よう見てください」言いながら、忍足がもう一度、写真を見せてくる。「この、顔のつっぱり具合を」

仕方なく、アリは顔がアップになっているその写真をよく見た。とくに笑えない。面白いとは思わない。子どものころなら爆笑していたかもしれないが。

「上に向かってひっぱられた感じになってますやん。目も眉毛も鼻も口もこう、つっぱらかっちゃって!」
「ええ……」
「普通ストッキングをかぶったら、下に向かって引っ張られた感じにならんとおかしくなりませんか?」

アリは怪訝な顔で忍足を見た。なぜ、そんなことが気になるのか。
忍足が、さっと視線を合わせてくる。もう俺のなかでは答えがある、と言わんばかりに目が見開かれていた。

「脱ごうとしとったんやないでしょうか、彼は。せやからこんな顔に」

まずい、とアリは焦った。それが言いたかったのか。アリは困惑した振りをした。どう切り抜けるべきか。

「……覚えてないけど、言われてみれ」
「脱ごうとしとったんですかストッキングを!」またしても、食い気味でかつ、早口だった。
「忍足さんがそうおっしゃるなら」
「いやいや、たしか向かってきた、せやから殴った、そうでしたね?」
「ええ」アリは頷いた。
「ストッキングを上にひっぱりあげながら向かって……」ストッキングを上にひっぱる仕草をして、突然、ぱっと手を下ろしアリに向き直る。目を、じっと見つめられた。「どういうことなんでしょうかね?」
「さあ……」

アリは居心地が悪くなった。忍足は自分を試している。アリはそう確信した。絶対にこの男のペースに巻き込まれてはいけない。

「んん、それからですね」そしてまた、忍足はバッグをまさぐってからなにかを取りだした。「これ。流しの三角コーナーで見つけました」タバコの吸殻だった。「鑑識の結果、田代さんが吸ったものに間違いないそうです」
「……ずいぶん、礼儀正しい泥棒ですね」
「そうなんです彼はめっちゃ、礼儀正しい男やったんです、しかし、不思議なんはそのことやなくって……」また、忍足がじっと見つめてくる。なんだ、なにを言うつもりだ。「ストッキングかぶっとって、タバコ吸えるんやろか」
「……脱いでから、吸ったんじゃないんですか?」そう考えるのが自然だろう。
「いちいち脱ぐやろうか。結構、手間かかるんです、かぶるのに」
「かぶったこと、おありになるの?」
「いや、俺はまだ一度も……」
「かぶったままで……吸えないかしら。息ができるんだから、タバコだって吸えるでしょう?」
「吸えるやろか……」

忍足が、眉間にシワを寄せて頭を抱えたときだった。院長室の電話が鳴る。アリは一気に緊張がほぐれた体を自覚した。

「ちょっと失礼」忍足に背中を向け、電話を取った。「はい」
「先生、ご来客中かと思いますが、午後の予定はどうされますか。長引きそうであれば……」
「もうすぐお帰りになります。ですから午後の予定はそのままで」
「承知いたしました。では患者さんのご案内はじめますね」
「お願いします」

これで解放される。こっちは仕事があるのだ。忍足にはさっさと帰ってもらおう。と、受話器をもとに戻して振り返った瞬間、アリの時間は止まった。
忍足は、美しい顔をした男である。長身で、切れ長の目に、大人の色気たっぷりの、いわゆる、いい男だ。
その、忍足が。
頭からストッキングをかぶって、ゆっくりと紫煙を吐いていた。

「……吸えます」ひどい顔である。原型がどこにもない。
「忍足さん、そろそろ次の予定がありますので」アリは、ピクリとも笑わなかった。
「ああ、そらすんません」

さっとストッキングを脱いで、忍足は携帯灰皿でタバコをもみ消した。というかこの男はまた、許可も取らずに……警察じゃなければ通報しているところだ。

「どうも、お邪魔しました」ストッキングを脱いだあとだからなのか、目をシパシパとさせていた。「ほなまた新しい情報が入りましたらあの、連絡しますんで」
「はい」
「それじゃ……」

扉に向かう忍足の背中を見ながら、アリは昨日のことを思いだしていた。いつまでもこの男のペースに乗せられていてはいけない。突然、そんな感覚が脳に落ちてくる。

「忍足さん」
「はい」忍足がピタッと足を止め、にこやかに振り返った。
「知ってます? チキンを焼いてね、ヨーグルトソースをかけて、果物とあえて食べるの。デザートとしては最高よ」

どうせ、あとで調べるだろう。だがアリにとっては、それでよかった。実際にそうした料理がある。アリは海外旅行が好きだ。世界にはさまざまな料理があるということをよく知っていた。

「……ゆうべはそれをおつくりになったんですか?」
「ええ」

アリはにっこりと頷いた。
忍足もまた、納得したように頷いて、頭をさげた。

「それじゃ」と、また背中を向けたが、忍足はすぐに振り返ってきた。「あのー……あれ、ひとりで全部お食べになるんですか?」
アリは悠々と背筋を伸ばした。「ご存知ないんですね。ひとり暮らしの女の食欲」

忍足の目がきょとんとしている。この男、こんな顔して女には疎いのだろうか。まあこの回りくどい性格なら、あまりモテないかもしれないが。

「食べますよ」

アリはたっぷりと笑いながらも、忍足を睨んでいた。





最後の患者がキャンセルとなったことで、アリはいつもより数時間ほど早く帰宅した。夕方の早い時間に帰宅するのは久々だ。東京の夜景を見ることはできなかったが、早い時間から家でのんびりするのも悪くない。その時間が脅かされることになるとは、このときは思いもしなかった。
それは、アリがさっと車から降り、颯爽とマンションに入っていこうとした直前のことだった。

「先生!」

条件反射的に振り返ると、忍足が小さな自転車に乗ってこちらに向かってきていた。自転車のかごの模様を見て、すぐに気づく。セリーヌだ。

「まいどまいど。いやね、実はね、うち、近いんですわ、ここ」勝手にマンションの敷地内に入り、自転車を停めはじめている。「ちょうどよかった。あの、夕飯、お食べになりました? そこのマーケットで買ってきたんです。つくりますから、ひと休みしてってください。ね?」

忍足の手には、食材が入っているビニール袋が提げられていた。人の家に上がりこもうとしているくせに、ひと休みしていけとは、いったいどういう言い回しなのか。このときばかりは、アリは苛立ちを抑えることができなかった。これがこの男のやり方だと、わかりきっているというのに。
アリは無言で背中を向けマンションのエレベーターに乗ったが、当然のように忍足もついてきた。心を落ち着かせなくてはいけない。まだこの男には、話し足りないことがあるのだろう。いいわよ、受けて立ってやろうじゃない。

「いつもこうなんですか」エレベーターのなかで、アリは余裕の笑顔をつくった。
「なにがでしょうか」不思議そうにこちらを見つめてくる。
「忍足さんのやり方」アリもしっかりと見つめ返した。「ずいぶんと強引なのね?」
「……そうやろか」
「偶然会った振りして、本当は待ってたんでしょ?」女を口説くときもこれなのだとしたら、やはりモテないだろう。
「んなっ……ちゃいますよ」

忍足が目を逸らした。図星のようである。その隙に、アリは忍足が両手に抱えているビニール袋の中身を盗み見た。笑わせてくれる。

「しなびてるわよ、三つ葉」

え、という表情で忍足が自分の胸もとに視線を送った。抱えている三つ葉をじっと見つめ、苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、ぽりぽりと頭をかいた。ざまあみろ、とアリは思った。この男、責めるときは意気揚々としているぶん、責められると弱いらしい。伊織と一緒だ。警察はそんな人間ばかりなのだろうか。

「ミートローフお好きですか?」あげく、話を変えてきた。
「大っ嫌い」

これからつくるつもりなのだろう。本音では、アリは好きでも嫌いでもない。ただのいじわるだった。実際、忍足は困惑している。

「……茶碗蒸しは?」
「嫌い」
「焼き茄子」
「絶対にやめて」

いじめつくしたタイミングで、エレベーターが到着する。アリはツンとしながらエレベーターをでた。忍足の目は、しらけていた。

部屋に入ってから、忍足はすぐにキッチンに立った。大変に勝手な男である。遠慮もなにもない。忍足にたいするモヤモヤとしたストレスはあるものの、アリはリビングのソファに座って、のんびりと雑誌を見ながら待つことにした。どうせ調理中は話している余裕などないだろう。あとは忍足のつくった料理をとりあえずは食べ、さっさと帰せばいい。
ただ、忍足の目的がそれだけではないだろうことは、アリにも察しがついていた。しかし一方で、これはチャンスかもしれないとも思っていた。疑いを晴らすのだ。忍足がどれだけアリを疑っていようと、それは推測の域を越えない。田代とアリとの関係性は患者と医者だ。証拠はそれしかない。あの男はただの愛人だった。田代曰く、「俺たちってそういう関係じゃない」のだから。

「あつっ……せ、先生ー!」

そのとき、突然、忍足がキッチンで叫びはじめた。一気に苛立ちが募っていく。キッチンのほうに顔を向けると、忍足はなにやら、鍋の前で慌てていた。

「先生すんません、ちょお、ちょお、はよ、大至急、はよお願いします! おねが……はよ、はよ!」

うるさい。アリはわざとゆっくりとキッチンに向かった。忍足の両手が挽き肉の油で汚れている。

「鍋の火、止めてほしいんです、すんません。お休みのところすんません」アリは黙って火を止めた。呆れた男である。「ありがとうございます。大丈夫やろか……」

鍋のなかを覗いていた。勝手にしてほしい。アリはリビングに戻ろうとした。が、すぐに忍足がまた大きな声をあげてくる。

「あ、先生! ついでにお願いしちゃおうかなあ。あの、そこにボウルがあるでしょ? 卵をといて、となりにある鍋の煮汁と混ぜてほしいんです」
アリは苦笑した。「できない相談ね」
「いや料理がお好きやっておっしゃったやないですかあ。お願いしますよお」

いまさらながら、アリは迂闊な発言をした昨日の自分に後悔した。

「卵は2個。で、とくときくれぐれも泡立てないようにお願いします」アリは忍足を睨んだが、忍足は飄々とつづけた。「すんません」

ここで断固として拒否することもできた。しかし、アリは考えた。この男のことだ、また「辻褄があわない」と騒ぎはじめたら厄介なことになる。
卵と煮汁を混ぜるくらいなら、なんてことはない。ちょっと手伝えば収まるのであれば……アリはため息をつきながらも、中央にあるキッチンカウンターに立った。このボウルに、卵を2個……考えながら、卵をひとつ手にしたときだった。

「あっと!」忍足がまた大げさな声をだす。アリはビクッと肩を揺らした。「できたら手え、洗ってから……すんません」

アリは無言で、流しに向かい手を洗った。苛立ちがますます募ってくる。人の家に上がりこんでおいて、ずいぶんと偉そうな男だ。見た目は抜群にいいが、この男は絶対にモテない。

「これね、テレビをね、テレビを見とって覚えたんですよ」だからなんだ、と言いたい。忍足は挽き肉の入ったボウルに手を突っ込み、なにやらこねていた。「よいしょ、よいしょ、よいしょ」

アリは手洗いを終えて、もう一度キッチンカウンターに立った。卵を持って、ボウルの角に思い切りぶつける。ガシャン、と派手な音がした。忍足が即座に振り返ってくる。

「ああああああ、か、殻、殻、入れないほうがええんですよ……?」

カチン、ときた。ボウルのなかで割れてぐちゃっとなった卵のなかに、粉々になった殻が入っていた。アリはボウルをそのまま持ちあげて、流しに向かった。

「な、なん、なにしはるんですか?」忍足が戸惑いの声をだした。
「殻が入りましたからっ」ボウルの中身をそのまま捨てた。
「捨てることないのに……」

忍足の避難の声を無視して、アリはもう一度、卵を手にした。今度は丁寧にボウルの角で卵を割る。両手でゆっくり落とすと、綺麗な目玉がボウルに落ちた。ふん、これくらいはあたしにだって、できるわよ。
が、直後、忍足の手がうしろから伸びてきて、卵をつかんだ。さっとボウルの角に卵をぶつけて、片手で割りいれる。

「ん、そんで、これをこれにお願いします」鍋の煮汁とボウルを交互に指さして、さっさと自分の作業に戻っている。腹立たしい。
「……ご自分でやれば?」
「いやこっちがありますんで」しつこくも挽き肉をこねている。
「なにつくってるんです?」
忍足は眉を八の字にした。「……ミートローフ」アリは、睨んだ。「変更きかんかったんです、すんません。美味しさは保証します」
「ちなみに、これは?」アリは自分の目の前にある卵を指さした。
「……茶碗蒸し。すんません」この男は……。「あのー、ときながら。その箸つかって」

そんなことくらい、わかっている。アリは苛立ちをぶつけるように、ボウルのなかを箸でかきまわしはじめた。背中を向けあって忍足と料理をつくっている。よく考えたら、信じられない状況だった。

「えーっと……料理といえば、田代さんの勤め先ご存知でした?」

アリの眉が、ピクリとうねった。この話が目的だったのか、と、ようやく合点がいく。

「いいえ?」そうだったの、という調子で、アリは声を高くして答えた。
「患者さんやのに?」
「ええ、かなり前ですから」
「はあはあはあ……あの、青山のフランス料理店やったそうですよ」
「へえ」アリは初耳を装った。
「なんや、若いのにかなり腕のええシェフやったそうです」
「……興味ないですから」

笑いを交えて、アリは答えた。一方で、喉にせりあがってくるものがある。忍足の魂胆が見えた気がしたからだ。アリは箸で卵をがむしゃらにかき混ぜた。すかさず、忍足が振り返って覗いてくる。

「ん、泡立てへんようにお願いしますね」いちいち、うるさい。「いやおかしいのはですね、金に困った様子がないのに、なんで盗みに入ったかっちゅうことなんですけどもね」オーブンの中皿を手際よく準備しながら、忍足はつづけていた。「煮汁のほうもお願いしますね」
「盗癖症だったんですよ? 彼」アリはとなりにある鍋のふたを取った。たしかに煮汁が入っている。
「んん、せやけど万引き専門でしょう? 空き巣ははじめてや。そこんとこもひっかかるんですけどねえ」
アリは煮汁を全部ボウルに流しながら、微笑んだ。「エスカレートしていったんじゃないんですか?」
「エスカレート、なるほどねえ」
「ええ」そしてまた、箸でかき回す。茶碗蒸しというのはこうしてつくるのかと、アリはぼんやりと思った。「心理学的にはあり得ると思うんですけど」
「ふんふんふんふん、ちゅうことは先生のクリニックは全然、役に立たんかったっちゅうことですか」

どういうつもりなのだろうか。アリは失礼極まりない言葉に苛立ちを隠しきれず、横に立った忍足を強く睨んだ。が、一方の忍足は目を合わせずに、しらじらしくもつづけている。

「あ、そうや。田代さんといえばあの、ゆうべの彼の足取りを調べてみたんですけどね、ここに来る前にね、東急ハンズに寄ってはるんです渋谷の……えーっと……混ぜてくれてます?」

うっかり手が止まっていることに気づいて、アリはまた箸を動かした。忍足がポケットからなにやら取りだしてくる。それを広げて、わざわざアリの目の前に掲げてきた。

「レシートです。彼のポケットに入ってました。時間が書いてますやん?」レシートには、『04:11 PM』とある。「昨日の午後4時11分にパーティーグッズ売り場で9620円の買い物してはるんですね……なにを買ったんでしょうか?」

忍足が怪訝な表情でアリを覗きこんできた。田代め……どこまでも余計なことを。

「お店の人に聞いてみれば?」アリは笑った。患者と医者の関係で、そんなこと知るわけがないのだから。
「いや、覚えてへんっていうんですねえ」アリは若干、安堵した。「それから夜の10時に先生に殴り殺されるまで、田代さんの足取りは不明……」
「ずいぶんじゃないですか」

もう気取る必要もない、とアリは判断した。回りくどいが、つまりこの男が言いたいのは、アリの正当防衛を疑っている、ということだ。
しかし、忍足はアリの挑発に乗る様子がない。かわりに、「あっ」と声をあげて両手を合わせた。大人の男によほど似つかわしくない、少女のような仕草だった。

「忘れてました」と、忍足がアリに向き直る。「おめでとう、言わなあかんかったですよね。昨日、先生の誕生日やったそうですね。あの、病院の方に伺いました」
「別にめでたくはないです、この歳になると」
「いやいやいや、おめでとうございます」忍足が、わざとらしく一礼する。頭にきた。
「めでたくはないって言ってるでしょう」アリは不機嫌を隠すこともしなかった。ここにきて、本格的に睨んだ。
「そんなことないです、おめでとうございました」が、忍足は気にもとめない。「じゃああの、そろそろそれ、こっちのほうに移してもらえます?」

忍足は「よし」と言って、オーブンの中皿に置いた挽き肉を持ち、また背中を向けた。
ちょこまか動きながら、こうして調子を崩す気なのだ。おまけに話をころころと。料理の指示をして、世間話の振りをして核心をつこうとし、また料理の指示をする。ということは、この次は。

「あのー、神経科の先生が患者さんが親密になるってことはあるんですか?」きた、とアリは構えた。
「……要は相談相手ですから、あたしたちは」動揺を見せてはいけない。
「相談相手……」ピ、ピ、とオーブンレンジの音が聞こえる。忍足がボタンを押しているのだろう。
「ええ、親身になって話を聞いていれば、愛が芽生えてもおかしくないんじゃないんですか?」
「ふんふんふんふんふん……」
アリはゆっくり、忍足の背中に振り返った。「……満足?」
「大満足や。あとはオーブンで35分!」

忍足は意気揚々と、ピ、とスタートボタンを押していた。





昨日、田代と向かい合って食事をしていたテーブルで、今日は忍足と食事をしている。ゆうべは田代を完全に手のひらの上でころがしていたが、今夜の目の前の男は、そう簡単にいきそうもない。どう主導権を握ろうか……アリはそればかり考えていたせいで、食事に手をつける気にもならなかった。

「いただきます」忍足はフォークにミートローフを突き刺し、口に運んだ。「んんんん、ええ出来です」

食事中、人は油断する。アリは少しだけ前のめりになりながら、忍足を見た。

「質問していい?」
「はい、なんでしょうか」
「この取り合わせは、なにか意味があるの?」
「んん、ああ……」
「ミートローフに焼き茄子に茶碗蒸し」
「いや、あの、得意料理を並べてみたんやけど……」
「統一感ゼロね」
「すんません……」苦笑しながら、忍足がフランスパンに手を伸ばした直後、茶碗蒸しを持ちあげた。ずぷっと、パンを浸している。アリは気分が悪くなった。
「あの、フランスパンを茶碗蒸しに浸して食べるの、やめていただけません?」

忍足が驚愕の顔でアリを見た。それは、はじめて見る忍足の本心のような気がした。関西では、そういう食べ方をするのが普通なのだろうか。野蛮だ。アリには考えられない。

「あー……いけるんやけどな」アリは静かに睨んだ。「あっ……やめます、すんません」
忍足がおとなしくスプーンを持ったのを確認して、アリはつづけた。「忍足さんは……」
「はい、なんでしょうか」
「どうして刑事に?」
「んん……なんでやろか」
「人の話を聞くばっかりで、自分のことは全然」

くすっと笑みをこぼして、アリはふとテーブルを眺めた。刹那、はっとする。
ランチョンマットのすぐ横に、5ミリほどの細長い銀紙を見つけたのだ。まだ、残っていたのか。昨日、髪の毛から見つけたときはクラッカーの残骸だと思っていたが、部屋飾りのモールもこうしたものがたくさんついていた。
アリにとって、それはガラスの破片だった。一気に緊張が押し寄せてくる。

「いやでも、話し好きな刑事っちゅうのも……」忍足がつづけていた。「んん、そうやなあ。でも昔から、人の粗を探すんは好きでしたね。子どものころよく、新聞の誤植を見つけて投書してました」

アリは忍足に目を合わせた。これが忍足の目に止まったら、まずい。自分に集中させなくてはならないからだ。

「それで刑事に?」
「そうです」
「そんな理由?」
「そんなもんですよ」
「ふうん。はぐらかすのお得意ねえ」

言いながら、アリはさっと銀紙を指先でとらえ、ランチョンマットの下に隠した。一瞬だけ忍足から目を逸らしたが、またすぐに忍足を見つめる。彼の視線は動いていない、とアリは確信した。大丈夫だ、うまくいった。

「そうやろか……」
「ええ。心を開いて人と話したことなんかないんじゃない?」
「ああ、よう昔から、心を閉ざすんがうまいって言われてました。せやから、ないんかもしれませんね」
「回りくどい言いかたは、いわゆる作戦?」

アリは銀紙を隠したことで、乗ってきていた。そもそもアリから質問したのは、このためだ。忍足にではなく、主導権を自分が握る。いつも診察で行っていることだった。

「回りくどいやろか?」
「ええ、相手を怒らせて本音を吐かせようっていうんでしょ?」
「……そこまで考えてないんやけどな」
「あたしに言わせれば見え見えの手口」
「見え見えですかあ?」
「ほら、いまのもそう」
「はい?」
「相手の言葉を反復する。聞いてますよーって合図を送ってるわけでしょ。話を引きだすテクニック」

忍足が困惑した表情で、頭をぽりぽりとかきはじめる。この男は困ると、頭をかく癖があるようだ。

「いや、かなわんなあ」
「ふふっ。お見通しなんですけど」
「せやから苦手なんですよ、神経科の先生っちゅうのは」

忍足は困り果てたように茶碗蒸しを食べはじめた。目を泳がせながら、もぐもぐと口を動かしている。

「あら、ほかにも神経科の先生、ご存知のような言いかたね」

が、アリがそう詰めた瞬間、忍足の視線がテーブルの上を見つめたまま、止まった。ごまかしがきかなかったと痛感したのだろう。忍足はいま、完全にアリの手中だった。

「ふっ。知らないくせに。対象を広げて問題点をぼやかそうとしている」
「いや、そこまで考えてませんけどね」
「無意識に考えているの」

アリは気分がどんどんあがっていった。さんざん自分を皮肉ってきた忍足という男を、論破している。実に気持ちがいい。

「いい? あなたが苦手なのは、神経科の先生じゃなくて、あたしなの。違う?」
「ん……ふふ」忍足が観念したように天井を見あげた。
「よーく考えてみて」
「……ん」

忍足はそのまま、眉間にシワを寄せはじめた。アリは、ほんの少し動揺した。あれだけ人を責め立てておきながら、自分が責められると弱い、ということはなんとなく感じていたが……これほど傷つくものだろうか。

「……泣いてるの?」
「……ちゃいます」

忍足がようやく、天井から視線をさげてアリを見た。

「冷める前に、食べちゃってください」

忍足は、わずかに微笑んでいた。





いやあ、これは難しい事件です。田代を殺したのはアリです。これは事実です。せやけど正当防衛であれば彼女を逮捕することはできません。有罪を立証するためには、計画的やったことを証明しなければなりません。実は彼女と田代が深い関係やったっちゅう、証拠。ゆうべふたりでパーティーをやったっちゅう証拠を見つけなければなりません。……実は、あったんです。この部屋のなかに。おかわりですか?
ヒントは……東急ハンズ、田代の性格、そして「いちばん目につきやすいものほど見つけにくい」という心理学の鉄則。そして……俺側のテーブルにも落ちとった、細かく切られた、この銀紙。
……忍足侑士でした。






忍足のつくった料理は、たしかにどれも美味しかった。得意料理というだけある。アリは嫌いと口走った手前、ほどほどにしておいたが、ミートローフは赤ワインとの相性も抜群だった。
さっきは少し、責めすぎただろうか。このあたりで一旦、褒めておこうかとアリが逡巡しているときだった。忍足が、突然に切りだしてきた。

「プロの立場から、ご意見を伺いたいんですが」
「……どうぞ?」
「一見バリバリのキャリアウーマンが実は嫉妬心の塊でそれで殺人まで犯してまうなんてことが心理学的にあり得ますやろか」

忍足はまた、早口になっていた。なるほど、やはりこの男に、情けなど必要なさそうだとアリは瞬時に判断した。しっかりと、腕組をした。とことんやりあってやろうと思ったのだ。

「いままででいちばん、回りくどい言いかたね」
「くくっ」忍足が嬉しそうに笑う。「せやけど核心はついとると思うんですが」
「……十分、ありえるんじゃないんですか」

忍足が、じっとアリを見つめて微笑んだ。赤ワインをひとくちだけ飲むと、落ち着いた様子でつづけた。

「これは、計画的な殺人です」
「根拠は?」

アリがドスをきかせると、忍足はそれに対抗するように、ワイングラスを強くテーブルの上に置いた。

「先生。先生にはローストチキンは焼けませんよ無理です絶対に無理です。茶碗蒸しもろくにつくれへん人に絶対に無理です」言ってくれるじゃないか。「実は俺は今日はそれを調べに来たようなもんなんです」

そうなんだろう。アリにも、それくらいの見当はついていた。だが、証拠はなにもない。

「あれを焼いたのはおそらく、田代さんでしょう」アリは無言で顎をあげた。「最初に見つけたとき、まだぬくかったんです。ちゅうことはあの夜ここに誰かがおってチキンを焼いたっちゅうことになります。まさか見ず知らずの人が忍びこんでチキンを焼いて逃げてくなんてことがあり得ますか、あり得んでしょ?」
「……そうねえ」

アリは小首をかしげてはにかんだ。忍足がたっぷりと時間をかけてアリの目を見ている。この眼力に負けてはいけないと、アリは踏んばった。
これは威嚇なのだ。アリと忍足はいま、確実に戦っていた。

「田代さんはシェフや。そしてあの夜は、先生の誕生日でした。ここは田代さんが焼いたと考えるのがいちばん自然やないでしょうか。となると先生のお話は、なんもかもが怪しくなってきます」
「……苦しいわね」

それだけでアリが計画的に殺人を行ったと、証明できるはずがない。忍足の言いぶんは筋はとおっているかもしれないが、すべて憶測でしかないのだ。
あの夜、田代以外の人間がチキンを焼いてないと証明するのは、不可能だ。証拠がないのだから。しかし……。

「ストッキング」忍足はついに、アリを指さしてきた。「ストッキングに関しては頭が下がります。うまくやりましたねえ……田代さんの性格を利用しはったんでしょう。あの人は人を驚かせるんが大好きやったそうやないですか。彼を知っとる人はみんな言うてはりました。よう、かぶりもんして仲間をびっくりさせとったそうです、それを利用しはったんでしょ!」

アリは悟られないように呼吸をくり返した。忍足の威圧に負けてはいけない。頑として、アリは首を縦に振らなかった。

「ストッキングを見つけたら十中八九それをかぶるとあなたは踏んだ。的中しましたね! 実に神経科の先生らしいやり方や!」
「……ありがとう」
忍足がふっと頬をゆるめた。「それは、自白と考えてええんやろか」

もちろん、アリは首を縦に振らなかった。アリにとっては困惑も怯えも忍足に見せたくはなかった。だから言った、「ありがとう」と。堂々としていたかったのだ。

「すべては想像でしょ」アリは体を前のめりにし、忍足に詰め寄った。「そんなことで有罪にできるの?」
忍足が小刻みに頭を振る。残念そうだった。「できません」
「あたしと田代をつなぐ証拠は?」忍足が弱ったのを察知して、アリはたたみかけた。「あの人があたしを祝ってくれたっていう証拠、ある?」

忍足は、はあ、と、まるで聞かせるように深いため息をついて、片肘をついた。手のひらに顎をのせて、じっとアリを見つめてくる。

「……さっきから気になっとるんです。頭になにかついとる……ゴミが」
その手に乗るものか、とアリは身を引きしめた。「そんなことはいいの」
「いや気になるんやっ」

忍足が語気を強めて、アリの頭を指さしてくる。アリはむっとしながら、髪の毛に手を伸ばした。またペースを崩された。頭にくる。その苛立ちが、髪の毛をはらう指先に伝わったときだった。
ぱらり……と、青く光るゴミがテーブルの上に落ちた。アリがそれを拾おうとすると、「あっ」と、忍足は声をあげた。
忍足の指先が、ゴミに伸びていく。そのときにはもう、アリは気づいていた。また、なのか。

「よう見てください」忍足は拾いあげたゴミをアリに掲げてみせた。「これなんやと思いますか?」
「……さあ?」
「銀紙です、細かく切った……」アリは生唾を飲みこんだ。「実はここにも」

忍足の指先が、またアリのほうに流れてきた。アリの正面にあるランチョンマットの下から、銀紙を拾いあげる。

「さっきあなたが隠したやつや……」気づいていたのか。アリは引きつりそうになる頬を、無理に持ちあげた。「なんでこんなもんが?」
「さあ……」
「どっから落ちてきとんやろか」

アリは首をかしげた。落ちてきているんじゃない、片づけたはずの残骸だ。それにしては、多いが。

「よう見てください」

忍足が2つの銀紙をテーブルの上に置く。ひとつは5ミリ長方形型に切られた銀紙。もうひとつは正方形に切られた青の銀紙。昨日、見つけたのは……金色の、細長い2センチほどの銀紙だった。
アリは忍足をじっと見つめた。嫌な予感がしてくる。

「ほら、表彰式なんかで、よう上から落ちてきよる。あれなんて言いましったっけ、ぶら下がっとって玉が割れる……」
「……くす玉?」
「くす玉!」忍足が大きな声をあげた。「あのなかによう入ってますよね、こういうの」

アリは逡巡した。だから? 部屋の飾りはすべて片づけた。くす玉を開けられた覚えもない。昨日の飾りは……すべて。

「で、割れる前に、なんかの振動で、1枚だけひらひらひらひら、落ちてきたりして……興ざめなんやよな、ああいうの……」

忍足がまた、片肘をつく。下から覗きこむようにして、アリに首をかしげてきた。

――ほかにもな、あるんだよ、今夜は……。

まさか。

「最も、目につきやすいものが、いちばん見えにくい……」

まさか……そんなはずは、ない。
忍足が身を乗りだしてきた。アリはすでに、言葉を失っていた。自分が忙しなく重ねた手をなでていることにも、気づかないままだった。

「全部、捨てたつもりでも、ひとつだけ残っとったんです、パーティーの飾りが」

忍足が前にだしてきた体を、ゆっくりとうしろに仰け反るようにして背筋を伸ばす。その瞬間、右の拳でテーブルを叩きつけた。ビクッと、アリの体が悲鳴をあげた。
しかし忍足は、怒鳴り散らそうとしたわけではなかったようだ。ひらひらと銀紙が舞い落ちてきて、アリはようやく、そのことに気づいた。銀紙に視線を向けて、思う。たしかにいま、天井のほうから、この銀紙が……。

「そうなんです……」

忍足が、ゆっくりと天井に指をさす。彼が見あげるのと同時に、アリも天井を見た。もう、見なくてもわかっていたが……。

「俺もさっき見つけたんです」

アンティークショップで買った、金色のシャンデリア。曲線が優雅で、インテリアとしての存在感もアリの好みにピッタリだった。その曲線、中心部に……同じ色のくす玉が、隠されていた。

「紐が……」言いながら、忍足が立ちあがる。紐をつかんで、わざわざ聞いてきた。「ええですか?」
「……どうぞ」

忍足が紐をひっぱった瞬間、破裂音と同時に大量の銀紙とにぎやかな垂れ幕が落ちてきた。
垂れ幕に、大きな文字で「おめでとうアリ先生」と書かれている。忍足が、じっくりとそれを眺めながら、静かに着席した。アリはそれでも、まだ諦めていなかった。こんなものが、証拠になるはずがない。

「あの人が書いたかどうか、わからないじゃない」苦しいだろう、わかっていたが、そう言うしかなかった。「あたしにだって祝ってくれる友だちの一人や二人……!」

が、忍足がにっこりと首をかしげてくる。アリはぞっとした。
これまでの不敵な笑みとはまったく違ったからだ。かわいいものでも見るように、忍足の口端があがっている。そして、ゆったりと垂れ幕の裏を見せてきた。
そこには、「フロム田代」と書かれていた。アリは今後こそ、絶望と同時に、興ざめした。

「……バカな男」

忍足が、自分が言われたようにしゅんとしながら、テーブルの上に両肘をつき、手を組んでいた。まるでなにかに祈っているようだ。

「忍足さん……ひとつだけいい?」
「どうぞ」
「あなた考え違いしてる。あたしが殺したのは、嫉妬なんかじゃないわ。ジェラシーなんて言葉で片づけないで」

そう、忍足の言いぶんのなかで、アリはそれがいちばん、気に入らなかった。バリバリのキャリアウーマンであることはたしかだ。田代との関係にロマンスを感じたこともなかったわけじゃない。だが、アリは田代の女に嫉妬をしたわけじゃなかった。それだけは、微々たるものでも、中身は大きく違うものなのだ。

「これは、プライドの問題なの」

忍足が、静かに目だけで頷いた。憐れみの視線ではなかった。同情とも違う。忍足の視線からアリが感じたのは、優しさだった。
彼にはすべて見抜かれていたが、これだけは、名刑事でも推理できなかったというわけだ。アリはそれが、なぜか嬉しかった。

「わかってないのね。女心。……まだまだね」
「……勉強します」

忍足が微笑んだのを見て、アリは泣きたくなった。でも、そんなのはプライドが許さない。
アリは即座にグラスを持ちあげた。忍足も同じようにグラスを持ちあげる。乾杯の言葉を口にしないまま、お互いが微笑んでグラスを掲げた。
アリはせりあがってきているものを飲み干すように、赤ワインをたっぷりと流しこんだ。





fin.



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