lovey-dovey


また騒いでる……。
飽きもせずあの人たちは、いい歳して中学生のころからなにも変わっていない。俺と1歳しか違わないとはいえ、一応先輩だというのに、頭のなかはずっと小学生なんじゃないかと思う。あれで数ヵ月後には大学生だって……? 呆れてものが言えなくなるぜ、まったく。

「いいか、わかったな忍足」
「もうー、俺そういうん嫌やってえ。なんで? なんで俺を呼ぶん? いつもなんでそんな勝手なん跡部は?」
「ナビゲーターがいるだろ」
「お前な、何年か前もそんなこと言うて俺のことヘリに乗せよったよな。あれ全然、俺、行く意味なかったやろ。そもそも知らん場所やのにナビゲーターってなんのことやねん。ずっとツッコミたかったんやこっちは。あ、日吉や」
「よう若、調子はどうだ?」

すでに引退しているというのに毎日のように部室にやってくる先輩たちは、俺にとって面倒な連中であることには変わりない。来るんだから指導してくれるのかと思いきや、この人たちはずっと部室でダラダラしてダメ出ししかしない。

「いったい、今日はなにをしているんですかアンタたちは」
「それがなあ……あ、そや、日吉も来たらええやん」
「は?」なんの話だ。
「ふむ。まあ二人が四人になったところでなんの問題もねえ。お前も来るか? 日吉よ」

なにも説明しないまま、跡部さんは前髪をかきあげた。日吉と呼んだり若と呼んだり、謎に忙しい跡部さんの強引さはいまにはじまったことじゃない。
とはいえ、あっさり「いいですよ」と言えない空気感がすでに漂っている。そもそも、だから、なんの話なんですか。

「なんなんですか藪から棒に。ここは教室じゃないんですよ。毎日毎日、ここでなにをしてるんですか」
「そらお前、日吉がうまくやっとるか心配やから来てんねんやん」
「忍足さんに心配されなくてもテニス部は順調ですよ」
「アーン? 俺の心配もいらねえってか? 若よ」今度は若ですか……。統一しないのはなぜなんだ。
「必要ないですね。いまは俺が部長なんで。それで、なんの話なんですか」

ほかのメンバーはとっくに帰っていた。俺だけがコートに残り練習を終えて、ゆっくりひとりで着替えようと思っていたというのに、そういうときに限っていつもこの人たちが邪魔をしてくる。

「実はな、来週の土曜なんだが、手塚に釣りキャンプに誘われ」
「お断りします」
「んん、瞬殺やな。さすが日吉や。セッカチ。セセセセッカチ」
「なぜセセセをつける必要が?」
「なんとなくや。なんか知らんけどつけてまうねん」

来週の土曜は予定がある。そうじゃなくても釣りキャンプなど、俺は微塵も興味がない。あげく手塚さん? フン、気に入らない。ライバル校のテニス部元部長だっていうのに、やけに仲よくして、なにが楽しいんだか。跡部さんは昔から手塚さんが好きだ。

「そうか、まあじゃあ、仕方ねえな。ということで忍足、準備はしとけよ?」
「あ、ちょお待てって跡部! あ……行ってもうた」

言いたいことだけ言って(言いたいことだったのか?)、跡部さんは部室を出ていった。今日はダメ出しもないって、本当になにしに来てんだあの人は。

「日吉……」気づくと、忍足さんがじっとりと俺を見てきていた。
「まだいたんですか。帰ったらどうです」
「ホンマに行けへんの? 河口湖あたりやって。めっちゃ富士山綺麗やと思う」
「興味ありませんね」だいたい、アンタも嫌がってたじゃないですか。「それに俺はその日、予定があるんです」
「そんな、どうせたいした予定ちゃうやろ?」
「はい? 忍足さんは暇かもしれませんけど、俺は暇じゃないんですよ」
「んなっ……なんちゅう失礼なやっちゃ……」

実際、たいした予定だ。俺にとっては。

「でもな日吉、そこ、見晴らしのええテニスコートがあるんやって」
「だからなんなんです。テニスなら四六時中やってますよ」
「そうやけど、行かんと損すると思うで?」
「忍足さん断りたそうにしてたわりに、言ってることむちゃくちゃですね」
「いやいや、俺もいま、急に心変わりしたとこや」
「は、よく言いますよ」

忍足さんの説得がつづくなか、俺は頑なに拒否をしつづけた。
絶対に頷くわけにはいかない。その日は、恒例になったリアル脱出ゲームの日だからだ。しかも伊織とふたりで……。ここ最近の俺にとってはなにより大事な予定だ。

「跡部も手塚も、まあ俺もやけど、みんなラケット持っていくで」
「好きにしたらいいんじゃないですか」
「んん、冷たい。俺、先輩やねんけど日吉。お前との付き合いもかれこれ」
「それとこれと、なにか関係があるんですか」

会ってどのくらいだろうが、俺にとっては伊織との予定が優先事項だ。
たしかに、彼女に出会ってからそう長いわけじゃない。しかも他校の生徒だ。それも、原宿にあるリアル脱出ゲームの店で、10名ほどの参加者のなかにいたのが伊織だった。最初に挨拶したときはとくになにも感じはしなかった。ファシリテーターの説明のときもリアクションが大きくて、「静かにできないのか」と口走ったほどだ。

――え、なんか、感じ悪い……。
――そりゃ悪かったな。
――ねえ、あなたどこ中ですか?
――氷帝。
――あーどおりで感じ悪い! しかも年下!
――いいか。俺は高校1年だ。
――うわあ、タメ! もっと感じ悪いですね!

周りの参加者が引くほどにいきなり言い争った俺たちをよそにゲームははじまった。こんなうるさい女と協力できるか、と内心は思っていた。だが、開始20分を過ぎたあたりだった。俺たちは難問にぶちあたった。そのとき、伊織があるロジックに気づいた。

――待って。その日吉若くんが持ってるキーワードが引っかかる。そこになにかあるよ絶対。
――これが? いや、これはさっきのヒントになっただけで、あれ以上の意味はないはずだ。
――それが引っかけなのかもしれないよ。見せて。
――おい、勝手に取るな。俺につっかかってるだけじゃないのか。
――もう、真面目にやってんだから協力して若くん!
――む……別に、協力しないとは言っていないだろ。

結果、伊織の読みが当たり、全員が初対面の俺たちは見事、脱出に成功した。彼女がいなければ脱出はあり得なかったことに、ひどく感動したのが1年前のことだ。
そこから全員で連絡先を交換して、ときどき会うこともあった。伊織は、ハツラツとした女だった。最初はお互い感じが悪かったせいか、気の強い女だと思っていたが、2回目のときは「あの日ごめんね」と謝ってきて、3回目のときは、「若くん優しいとこあるよね」とストレートに言葉にしてきた。

――お前は、そういうことを言って、恥ずかしくないのか。
――え、なんで? ダメだった? ていうか、若くんが恥ずかしがってるだけじゃん?
――お、俺は……お前が恥ずかしいことを言うから、こっちまで恥ずかしくなってるだけだ。
――えー、それ嬉しかったってこと?
――違う。
――素直じゃないー。
――うるさい、お前はいつも、しゃべりすぎだ。

自分に正直な女だった。脱出ゲームのときは物怖じしないところもあるが、それ以外はふんわりとした雰囲気で、人当たりもいい。俺とは、真逆だ。
真逆だからこそ、知りたくなったというのもある。そこからは、仲間内で脱出ゲームへ行くようになり、やがて自然と名前で呼び合うようになり、気づけば伊織とは、月に何度かは顔を合わせている。来週の土曜も、そういう流れで集まる予定だった。だが当然、毎回のように全員が集まれるはずもない。が、俺と伊織は高校生という身分の軽さのせいか、出席率は100パーセント。それが、今回は……。

――そっか、誰も参加できないんだ。じゃあやめとこうか。
――やめるのか?
――え、だって、人数が集まらないと、さ。
――別に……俺とお前のふたりで参加してもいいんじゃないのか。
――え、でもふたりだよ? これ四人……。
――よく見ろ。最大四人だ。ふたりでも参加できる。

……たまたま、ふたりだっただけで、別に俺としては三人でも四人でもよかったけどな。
とにかく、そういうわけで、来週の土曜は伊織とふたりで新たに開催された脱出ゲームに参加する予定だ。はじめて……ふたりで参加することになった日だ。
だからこそ、絶対に、頷くわけにはいかない。

「なあ日吉、よう考えてみ?」しつこい人だな……これは関西人だからなのか? それとも忍足さんだからなのか。
「考える必要性がわかりませんね」
「手塚と跡部やで?」
「だから?」
「お前、忘れたわけちゃうやろ? 頂上対決。あれ以来、手塚と跡部の試合なんか俺らお目にかかってないやん」

こっそりしとるかもしれへんけどさ。と、忍足さんが付け加えるなかで、不覚にも俺の鼓動がバクッと音を立てた。
頂上対決……あの試合は、いつまでも見ていたかった……それほど、感動したのはたしかだ。

「あ、ほら。日吉いま、興味もったな?」
「も、持ってませんよっ」
「そもそも手塚と跡部で行く予定やったんや。やり合うに決まっとる。今回は手塚の腕も万全やで、マジの頂上対決やろ。俺はどうせその審判で呼ばれたようなもんやで」だからナビゲーターとか言われてたのか、この人。氷帝のNo.2だというのに、雑な扱いだな。「周りには誰もおらへんで。日吉、手塚とやりたないん?」
「え、手塚さんと?」
「そやでえ。手塚、日吉と手合わせしてくれると思うで。あいつ、ああ見えてええヤツやんか。ほんでもう、プロやん。ほんで当然、跡部も手合わせしてくれるで。ちゅうことはやで? 日吉のひとりじめや。日吉ひとりじめ練習試合やで」

ゾクゾクッと、今度は武者震いが襲ってきた。跡部さんとは何度か試合をさせてもらったが……高校に入ってからはあまりその機会もなかった。手塚さんと当たるなんてことはこれまで一度もない。いや、このさきもおそらく……頼み込めばやってくれるかもしれないが、そんな真似はしたくない。もはや忍足さんとの試合はさして興味ないが、頂上対決が見れるうえに、俺と試合を、あの二人が……。

「下剋上チャンスやな、日吉」
「ぐ……」この人、安易にトドメを刺しにきたな。
「なあ日吉? 考えとってや。時間まだあるし。な? ほな、お兄さん帰るわ」

誰がお兄さんだ……悪魔め。
俺にとっての最高チャンスと最大チャンスが同じ日に……クソ、どうする日吉若……。





「悪い……それで」
「うん、いいよ全然。またにしよ。ほかの日ならほかのメンバーも集まれるかもしれないしね! ふたりも楽しみだったけど、やっぱり人数いるほうが脱出率あがるだろうし」
「ああ、まあ、そうだな」

結局、俺はあの悪魔につかまった。手塚さんはすぐに海外に飛び立っていく人だ。滅多なことがなければ手合わせできるような人じゃない。加えて跡部さんもあの性格だ。そう簡単に試合はしてもらえない。
それを俺だけが抜け駆けでき下剋上できるかもしれないチャンスを、俺は諦めることができなかった。

「でもいいねー、先輩たちと旅行なんてさ」
「いや、旅行じゃない。キャンプだ」
「え、キャンプ!? この、このめちゃくちゃ寒い季節に?」
「ああ。まあ跡部さんのことだから、防寒は万全だとは思うが」
「え、跡部さん来るの?」
「ん……? ああ、まあ」

俺が氷帝だと知って「どおりで感じが悪い」と言った伊織だ。当然、跡部さんのことも知っている。が、このとき急に伊織の声色が変わって、俺は妙な気分になった。

「そうだよね、若くん、たしかテニスやってるんだもんね」たしか、かよ。「そっか、跡部さん来るんだ」
「なんだよ。跡部さんのことが気になるのか?」
「いや、一度はお目にかかりたいっていうか……」有名人じゃん! と声を高くした。
「……フン、別に普通の人だぜ」

なぜ嘘をついてしまったんだろうか、俺は。一方で、また違うチャンスがやってきているんじゃないかと思い立った。忍足さんの悪知恵のようなものが、氷帝テニス部のレギュラーとして俺にも受け継がれてしまっているのか?

「伊織」
「うん?」
「お前もキャンプ、来るか?」
「えっ……い、行っていいの!?」
「ただし、早朝に出発だぞ。あの人たちは朝が早い」
「うん! 全然、それは大丈夫だけど……ほ、本当にいいの?」
「……四人が五人になったとこで、なにも問題はねえよ」

跡部さんの口調を真似しながら、伊織に会いたい自分の気持ちにも、もうごまかしが効かなくなっていた。





さっきからぶつぶつと、恨み節のような低い声が俺の周りにまとわりついている。
よく晴れた青空、寒くても朝の澄んだ綺麗な空気の下だというのに、この人だけ負のオーラがすさまじい。なんてうっとうしい人なんだ……。

「だいたいやで、なんで手塚と跡部のイチャイチャに俺が付き合わなあかんねんって思ったからお前を呼んだのに、女を連れてくるとかどういう神経しとんねん」

釣り場までは距離がある、と手塚さんは言った。河口湖周辺までは跡部さんの家の車で8時には到着したが、手塚さんは釣りに相当なこだわりを持っているらしく、どうやらあまり人には知られていない穴場に跡部さんを招待する予定だったらしい。
おかげで、よくわからない林のなかだか山のなかだかを、俺たちは歩かされていた。かれこれ5キロは歩いている。

「だから、女じゃないって言ってるでしょう」
「女やんけ。どっからどう見ても女やんけ」
「生物学的な話じゃそうですが、忍足さんが言ってる『女』じゃないって意味ですよ」

じとっと、しらけた目で見つめ返された。伊織は手塚さんと跡部さんについて行くように、ひと足、先に進んでいる。
俺の肩に手を回して、さっきからジメジメしたことばかり言っているこの人の世話は、どうやら俺がしなくちゃならないらしい。やれやれだな。

――はじめまして! 佐久間伊織といいます。あの、いきなり、お言葉に甘えて、図々しくついて来ちゃってすみません。
――アーン? かまわねえぜ。呼んだのは日吉だろ?
――跡部さんに会ってみたいと言っていたんで、呼んだだけです。
――なるほど? 跡部は相変わらず、人気が高いのだな。
――フッ……光栄なことじゃねえか。それで? 生の俺はどうよ?
――はい! オーラバリバリで、カッコいいですねー!
――わかってるじゃねえか。

跡部さんと手塚さんは予想どおり、なにも気にしちゃいなかったが、忍足さんはずっと俺のことを線のような目で見つめてきていた。それじゃ青学の天才になりますよ、と言ったところで無駄だった。

「ふむ。リアル脱出ゲーム、というものがあるのか」手塚さんは、意外にも伊織の話に興味を示していた。
「はい、そうです。それで若くんと一緒になって。それから遊ぶようになって」
「ほう、日吉もプライベートはそれなりってわけだな」
チラッと跡部さんが振り返る。ニヤニヤしていた。「余計なお世話ですよ」
「余計なお世話ちゃう。お前がこんなことに女を誘うとかそれしかあらへん」ボソッと、忍足さんが俺だけに聞こえるように言ってくる。
「いい加減にしてくださいよ忍足さん。手をどけてください」

何度か払おうとするものの、忍足さんは言えば言うほど、きつく首に手を回してきた。なんなんだこの人はっ! ああ、うっとおしい!

「それは脱出をリアルにするということなのか?」
「そうです。たとえば殺人犯とかがいて、謎を解いて」伊織が懸命に説明をしていた。
「なに。それは危険ではないのか」
「あ、いえ、ぜんぜ」
「当然だろ手塚。リアルに脱出するんだぜ? だが命を落とせば間違いなくニュースになっている。おそらく医者や救急隊員がそこに駐在しているんだろう」
「なに。では怪我人が出る可能性もあるのか」
「だろうな。なんせリアル脱出ゲームというくらいだからな。それなりの覚悟は必要だ」
「いえ、あの、そんなこ」
「ふむ。命を削って参加するというのに、料金がかかるとは。テニスと一緒だな」
「アーン? 言い得て妙じゃねえか手塚」
「あの、話を聞い」
「面白そうだ。今度、調べてみよう」
「ああ、そこで俺と対決だ手塚! せいぜい死なないように踏ん張れよ!」
「ふん、こちらのセリフだ跡部」

カイジでも観てきたばかりなのかあの人たちは。バカすぎる会話内容に、伊織も困惑というよりドン引きしている。
本当にあの人たちが部長でよかったのか? もともと異常性が高い人たちだとは思っていたが、あそこまでバカだとその背中を追ってきた俺まで情けなくなってくるな……。

「なあ、日吉の彼女、付き合ってどんくらいなん?」
「しつこいですよ忍足さん……」ツッコミ役をアンタが放棄してるからこうなるんだ。「彼女じゃないって言ってるでしょう」
「せやけど、日吉すっかり、への字やん?」
「それを言うなら、ほの字です」しょうもないボケを……。
「んん、ナイスツッコミ。日吉はへそまがりやから、への字でええと思うけど」
「とにかくおかしな勘違いしないでください」
「へえ? ほな、俺が口説いてもええの?」
「はあ!? アンタいい加減にしてくださいよ!」

ずっとボソボソと聞こえないように話していたというのに、忍足さんの挑発に俺がやすやすと乗っかったせいで、前方の三人が俺に振り返ってきた。まずい……根掘り葉掘り聞かれたら最悪の事態になる。

「おお、こわ」く、この人、完全に面白がっているな。
「どしたの若くん……?」
「いや……」
「どうせ忍足がくだらないボケでもかましたんだろ。なあ若?」だから……呼び方の統一をしてくださいよ。
「関西人というのはお笑いの聖地に生まれているというのに、なぜああもくだらないのか、永遠の謎だな」四天宝寺もひどかった。と、付け加えている。
「手塚……お前に言われたないで」
「どういう意味だ忍足」
「いろいろや。このド天然。ボケメガネ。むっつりスケベ」
「なに? 誰がむっつりスケベなんだ? 俺はむっつりとはしているがそこにスケベは入れていないつもりだが」
「それがむっつりスケベ言うねんアホ」

息を吐くように次から次へ悪口を言う忍足さんは、俺にかまうのが飽きたのか、俺を追い越して跡部さんと手塚さんのもとへ進んだ。伊織だけが、立ち止まって心配そうに俺を見ている。

「大丈夫? 若くん」
「大丈夫だ。心配ない」
「そっか。なんか、個性的な人たちだね」跡部さんも、イメージと違った。と、伊織は笑っている。
「どんなイメージだったんだ?」やけに、跡部さんのことが気になっていたんだな……。
「んー、もっとイケイケオラオラかと思ってたけど、上品だし、気さくで、ちょっとお茶目で、素敵な人だね」
「……フン、そうか」

跡部さんのことを話す伊織に、複雑な気分になっていく。跡部さんは俺の目標だが、それはテニスプレイヤーとしてであって、男としてというわけじゃない。
だが慕っている先輩だ。称えられると妙な優越感がある一方で、チクチクとした痛みが心に響いてきた。

「それにしても、結構、距離あるね」
「ああ、だな」

話を変えた伊織を見ると、腰に手を当てていた。かれこれ1時間以上は歩いている。日頃、脱出ゲームばかりやっている伊織はインドアだ。俺たちのように鍛えているはずもない。あげく誘われたキャンプで、まさかこんなに歩かされるとは思ってもなかっただろう。

「先輩たち」
「アーン?」
「なんや?」
「どうした日吉」

すでに距離は5メートルほど離れていた。俺が伊織にペースを合わせていたせいだ。あの人たちのペースに合わせて歩いてたなら、相当な負担が足腰にかかっているかもしれない。
まったく、女がいるというのに歩幅も合わせず……先輩たち、男としてどうなんですか、それ。

「先に行っててもらえますか。彼女、疲れてるようなので」
「え、いいよっ」伊織が慌てて俺を見あげた。
「無理するな。休憩は必要だ」
「ではお言葉に甘えて先に行くとしよう。早く行けばそれだけ釣りが長く楽しめる」アンタはほんと、気遣いのかけらもない人ですね手塚さん……。
「ふうん。さよかさよかー。俺も付き合おか日吉ー?」ニヤニヤと、忍足さんがわかりきってるような顔でこちらを見てきた。
「先に行ってていいです。こいつを連れてきたのは俺ですから、先輩方にご迷惑かけれません」
「ふうん。そうなんや? そうなんやあ? 俺、おらんほうがええんかなあ?」クソ……どこまでも頭にくる人だな。
「ごめん……若くん」申し訳なさそうだが、疲労の色は見てとれる。
「いいから、お前は休んでろ」
「……まあ、なにかあれば連絡しろ、日吉」今度は名字だ……。どういう使い分けがあるんだ、いったい。
「わかりました」

くるりと背中を向けて、先輩たちは進んでいった。その歩幅が、さっきよりもずいぶんと大きく、速度も早い。
なるほど……先輩たちはあれでも、伊織に合わせていたってことだ。

「日吉ー、あんま遅なったら、あかんで?」

最後に、にんまりと振り返って手を振ってきた忍足さんのことは、無視した。

近くにあった石のでっぱりに座り、水筒のお茶を飲んで、伊織は「ふあー」と息を吹き返したように天を仰いだ。やはり、相当に疲れていたらしいとわかる。

「生き返るー。ずっと水分も取らずに、すごいよね先輩たち」もう、見えなくなっちゃった。と、眉の上に手をかざして、遠くを眺めた。
「あの人たちはずっと鍛錬してるからな」
「若くんもだよね。お茶、飲む?」気軽に水筒をわたしてくるが、それ、さっきお前が口をつけていたんじゃないのか。
「……あ、ああ」

結局、もらった。
冬だというのに、喉をうるおす冷たいお茶が気持ちいい。少しだけ、甘酸っぱい気もする……って、なにを言ってるんだ、俺は。

「やっぱり若くんって優しいよね」
「勘違いするな。先輩たちに迷惑をかけたくなかっただけだ」
「ふふ。また素直じゃないー!」
「お前が素直を履き違えてるんじゃないのか」
「すっごいツンツンしてるー」

と、伊織がケラケラと元気を取り戻したときだった。ガサ、という物音が聞こえて、俺は即座に振り返った。時間は9時を過ぎたところだ。まだ外は明るい。が、ここは山林だ。手塚さんおすすめの穴場スポットに向かっているせいで、ひと気がない。変質者はだいたい、こういうところにいる気がする……。なにかあったら、俺が伊織を守らなくちゃならない。

「若くん、どうかした?」
「いま音がしなかったか?」
「音? いやちょっと聞こえなかっ……」

辺りを見渡すように言った伊織の声は、そこで途切れた。途切れた瞬間に、すっと息を飲んだかと思うと、悲鳴が山林に響きわたった。
そこからは、すべてがあっという間の出来事だった。
まず、伊織と俺が座っていた場所から、かなり距離はあったものの、正面に猪がいた。叫んで伊織が立ちあがって走りだすのと同時に、俺も叫んだ。

「バカ! 叫ぶな! 走るな!」
「ぎゃああああああああああああ!」

もう叫んでいたあげくに走っていたから無駄だったが、遠く離れた猪を見ると、地面を蹴っていた。まずいと思って伊織を追いかけるのと同時に、猪が向かってくる。
すさまじい速さだった。まるで車が突っ込んできたのかと思うほどのスピードだ。俺は追いついた伊織の腰を即座につかみ、横に避けた。が、そこはなだらかとはいえない、斜面だった。

「なんやいま、悲鳴みたいなん聞こえへんかった?」
「アーン? 忍足よ、まさか引退して体がなまってんじゃねえんだろな。疲れて幻聴か?」
「アホ言え。お前に毎日どんだけ走らされてきたと思ってんねん」
「忍足、引退したとはいえ体は鍛えておいたほうがいい。そうすると日々のストレスから解放され、悲鳴のような幻聴はやがて収まることだろう」
「せやから幻聴ちゃうっちゅうねん人の話を聞かんなお前らは!」
「言わんこっちゃねえな、ストレスがたまってやがる」
「お前らのせいじゃボケ!」

そんな会話がされているあいだ、俺は伊織を胸のなかに押し込めるように抱きしめたまま、山林の崖から転がり落ちていた。





「ぐ……」
「う……」

朦朧としたなかで、脳に起きろと指令を出しつづけた。なんとかパチパチとまばたきをくり返していると、胸のなかで俺にしがみついている伊織が見える。

「伊織……」
「い、う……」
「大丈夫か……?」
「だ、だい……あ、わ、若くんごめっ、え、だ、大丈夫!? いたっ!」

見あげると、結構な崖が俺らを見おろしている。服のあちこちに枝が刺さっていて、見なくてもわかるほど、体中が打撲していると実感した。
伊織もどこか打ったんだろう。起き上がって顔をしかめた。

「ごめん、わたしは、大丈夫。ねえ、若くんは? 大丈夫?」
「ああ、問題ない」

俺もゆっくりと起きあがった。どんなふうに転がったか検討もつかない。とてつもなく長い時間のように感じたが、おそらく数十秒もないだろう。だというのに、さっきまでいた場所がどこだったかもわからない。

「手、手が……どうしよう」伊織が俺の手に触れていた。擦り傷だらけだ。
「たいしたことない」
「でも……ごめん、わたしのことかばってくれたから、こんな」
「謝るな。それより、立てるのか?」
「え、あ、うん……」

全身が脈を打つようにジンジンとしていたが、俺は立ちあがって伊織に手を差し伸べた。見たところ、どこにも怪我はない。伊織も打撲はしているだろうが、とにかく無事だったらしい。はあ、よかった……ほっとした。

「完全に、迷ったな」
「うん、あ、場所、スマホならわかるよね!」
「ああ。ついでに、先輩たちに、知らせないとな」
「そう、そうだよね……!」

言いながらスマホを取りだしたが、すぐにお互いが顔を見合わせることになった。俺の手にあるスマホも、伊織の手にあるスマホも、バキバキに画面が割れ、電源が落ちている。マジかよ……電車で見かける女子高生よりひどいぞ、これは。

「うわ……電源、つかない」
「俺もだ。チッ……仕方ないな」リュックのなかに入れていれば無事だったろうが、俺も伊織もポケットに入れていたから、もろに衝撃があたったらしい。
「どうしよう……若くん、跡部さんの番号とか」
「覚えてない」
「だよね……」しゅん、と伊織が落ち込んだ。
「大丈夫だ。日があるうちに、街に出ればなんとかなる」幸い、荷物は失くしてはいない。「そこからキャンプ場に向かって、待ってれば先輩たちも戻ってくるはずだ」
「そ、そうだね」

それでもまだ不安げな伊織が気の毒になって、俺はそっと彼女の手を握った。はっとするように、伊織が俺を見あげてきた。おかしな空気だった。いや、そうさせたのは俺か……? そんな目で、こっちを見るなよ。

「街に出るまでは足もとが危険だ。このうえ、はぐれたら面倒だからな」
「あ、そ、そうだよね……うん」

きゅっと握り返してくる伊織の手が、熱かった。指先が俺の手のひらの傷口に当たって刺激したが、それはどこか、甘い痛みだった。





そこからトボトボと、1時間以上は歩いたころだった。ようやく車が見えはじめて、俺たちは「あっ」と声をあげた。

「街だよ若くん!」
「ああ、だな」

まるで本当の脱出ゲームだな、と思う。握られていた手が、感動のせいで離れたことに寂しさを感じながらも、伊織の元気を取り戻した顔に癒やされていく自覚は、十分にあった。

「見えるとこまで行ってみるか。あそこからなら、富士も綺麗に見えるかもな」
「うわあ、そうだよね。くー、スマホ壊れてるのが悔しいねー!」
「目に焼き付ければいいだろ」
「だけどさあ、自慢もしたいじゃん」

はしゃぐ姿が、初対面のときはうっとうしいと思ったはずだった。それなのになぜ、いまの俺はまぶしいと思うのか。伊織に会ってからというのも、俺は変わった。いや、こんな感情は、きっと伊織にしかわいてこない。
俺はもう一度、伊織の手をとった。

「え」
「まだ危ないからな。あっちに行くぞ」
「あ、うん」
「……また、来ればいいだろ」
「へ?」
「富士を見に。スマホを買い替えたら、また一緒に、見に来てやってもいいぜ」
「若くん……」

まともに顔を見ることはできないままそう告げると、伊織の足がピタ、と止まった。
早まったか。焦りが一気にふくらんで顔を覗きこもうとすると、伊織の視線が俺のうしろのほうを見ている。

「伊織?」
「見て」
「え?」
「富士山もいいんだけど、ほら」

振り返ると、何台もの車が大量に駐車されている様子が見えた。ここから下れば、あの場所へたどり着く。そんなことよりも、目についたのはそびえ立っている巨大な建造物だった。

「……あれ、さ」ぼんやりと、伊織が口を開く。
「そうか。そういえば、そうだよな」

俺たちはゆっくりと、顔を見合わせた。お互い言葉にはしない。それでもお互いの気持ちが手に取るようにわかっていく。さっきのつづきは、ちょっと置いておくことにする。
なぜなら俺と伊織の出発点は、そもそもこれだ。釣りでもキャンプでもない。もちろん、跡部さんでもない。

「あそこには、アレがあるよな」
「うん……あるね」伊織の目の色が変わっていく。「若くん……行く?」
「行くに決まってるだろ。本来、今日はそういう日だったんだからな」それに、せっかくここまで来たんだ。と、俺はつづけた。
「で、でもさ、先輩たち」目の色が変わっても、伊織には不安もあるようだった。
「1回だけだ。それなら問題ない。もう市街地まで来たってことだしな」
「そ、そうだよね! うん、1回だけ。1回だけだからね!?」
「わかってる。約束する。1回だけだ」
「うん。あそこなら絶対に、公衆電話もあるし」
「ああ。なんなら土産を買ってもいい」
「そ、そうだね! 連絡つかなかったお詫びってことで!」

あの先輩たちにそこまで気を遣う必要もないが、伊織は初対面だからこそ気になるだろう。
俺らは無言で歩きだした。また、自然と繋がれていた手が離れていく。だがもう寂しさも感じない。体中が痛かったはずが、そんなことも一切忘れて、俺らは軽く走り出していた。
目的地は、富士急ハイランドだ。





「てめえはいったい、なにを考えてやがったんだ」
「ご、ごめんなさい、あの、わたしが……!」
「いえ跡部さん。俺が悪いです。伊織を引き止めたのも俺です。すみませんでした」
「……やけに素直じゃねえか若よ」ここでは若ですか……。「俺たちがどれだけ心配したと思っている? アーン?」

フリーパスを購入して『絶望要塞3』に入ってから、俺たちはあれほど「1回だけ」と誓いあったにもかかわらず、当然のように時間を忘れた。そもそもフリーパスを購入した時点で「1回」で終わらせる気がなかったわけだが、いまさらそんなことを言っても仕方がない。
富士急ハイランドの『絶望要塞3』は脱出ゲーム好きにはたまらない超高難易度のアトラクションだ。公式ホームページによれば、これまでの『絶望要塞』の脱出率は0.001パーセント。それがリニューアルしていまもクリア者は出ていない。バカげている。

――悔しい!
――もう1周だけするか。あの謎は絶対に俺が解いてみせる。
――すごい、すごい惜しかったよねさっき! あとちょっとでクリアなのに!
――まったく、誰があんな意地悪いものを思いつくんだ。人間じゃないんじゃないのか? 

挑戦相手がAIという設定だったが、実際にゲーム自体もAIにつくらせているんじゃないのか?
結局、俺たちは「1回だけ」が「5回だけ」になり、それがいつのまにか「時間が許す限り」になり、やがて辺りが暗くなりはじめ、気づいたときには17時になっていた。そのころにはもう、15回目の挑戦が終わっていた。たまたま人が少なく、回転率がよかったせいもある。止まらなかった……。
要するに、キャンプ場に到着したときには先輩たちはすっかり待ちぼうけ状態で、跡部さんは青筋を立てて怒っていた。そこからずっと、俺は正座をして謝りつづけている。

「なにが絶望要塞だ! 俺たちがどれほど絶望したと思っている! こっちが絶望要塞だぜ!」
「すみません……」笑ってしまいそうになるが、謝るしかない。
「もういいだろう跡部。無事だったんだ」意外にも、厳格そうな手塚さんが助け舟を出してきた。「魚を焼こう。新鮮なうちが美味しい」それが目的か?
「せやで。それだけで許したろうや。こんなぎょうさんお土産も買ってきてくれたんやで。俺、この激辛柿の種、めっちゃ好き。佐久間さん、ありがとうね」忍足さんはすでに菓子を開けていた。
「あ、い、いえ……」
「忍足、菓子を食べるのもいいが、魚を三枚におろしてくれないか」
「なあ手塚……俺ひょっとして、そのために呼ばれたんちゃうよね?」
「フッ……なんのことだ?」
「腹黒メガネって呼ぶでお前のこと」
「あまりいいネーミングとは思えないな」
「嫌味やからな!」

なんだかんだと言いながら、忍足さんは手塚さんとうまくやっていた。そのかけあいがあるだけで、跡部さんに説教されているというのに気が紛れていく。ああいうバカげた会話も、たまには役に立つものなんだな。

「ったく……なにもなかったからいいようなものを」
「本当にすみませんでした」

とはいえ、跡部さんには申し訳ないことをした。おそらく、性格的に(この状況を見ても)この人がいちばん心配したであろうことは、想像に容易かった。

「怪我は、ないんだろうな? 彼女のほうは問題なさそうだが。お前は大丈夫なのか日吉?」
「問題ありません」
「……そうか。ならお前たちは罰として、手塚の魚とは別に夕食をつくれ! 食材はそこに置いてある」ビシッと跡部さんがクーラーボックスを指さしている。4つはあるぞ……どれだけ食べるつもりだよ。
「あ、じゃ、じゃあわたしが!」椅子に座って頭をさげていた伊織がすっと立ちあがった。
「ダメだ。若も一緒にやれ。それが責任を取るということだ」

ふん、と鼻を鳴らして、跡部さんが背中を向けた。日吉と若と、交互に呼び方を変えるのはなぜだ……その疑問がしつこく頭をもたげつつも、俺は跡部さんに感謝した。
そろそろ足が限界だった。正座は慣れているが、こんな草木の上だとさすがに痛くなってくる。

「若くん、大丈夫?」
「ああ。それよりお前、料理はできるのか?」
「うん、ちょっとだけだけど……」

クーラーボックスを開けている。ご丁寧にカレールーが入っているのを見つけて、伊織は微笑んだ。

「ふふ。定番だもんね。これくらいならできる!」ここにレシピも書いてあるし、と、嬉しそうにつづけた。
「大量につくらないと足りなそうだがな。野菜を洗うか」
「うん、だね」

ボウルに入れた野菜を抱えて流し場に移動しながら、伊織がくすくすと笑っている。
冬のせいか、キャンプ場には誰もいない。おかげで伊織の声は、俺の耳によく届いた。

「なにがおかしいんだ?」
「ううん。跡部さん、なんだかんだ優しいなあって」
「跡部さん?」チク、とまた胸の奥がなにかに突かれていく。
「うん。若くんは正座させられてたけど、わたし、実はちょっとだけ足をくじいてたんだよね」
「なに? 大丈夫なのか?」アトラクションではあれだけ走っておいて……火事場のってやつか?
「うん、全然、大丈夫だけど、正座はきつかったかも。跡部さん、それ気づいてたのかな。それともジェントルだから、女にそんなことさせれないって思ったのかな。椅子に座れ、ゆっくりだ。って。開口一番がそれだった。あんなに、怒ってたのに。それに夕食つくるのが罰ってのも、なんか優しいよね」

カッコいい、とつづけた。
その表情は、いままでのどんな伊織よりも嬉しそうだった。リアル脱出ゲームのときには見たことのない優しい笑顔に……俺はいつのまにか、右手に拳をつくっていた。

「……俺は?」
「へ?」
「俺はどうなんだ。お前をかばって怪我までして守ったというのに、俺のことはそう思わないのか?」

な……なにを言っているんだ、俺は。跡部さんがカッコいいのは百も承知で、女子ならみんなが目をハートどころか血眼にして追いかけるような人だぞ。
嫉妬するのもバカバカしいってのに……は? 嫉妬? 嫉妬だと? 嫉妬なわけがない。テニス以外で、なんで俺があの人に嫉妬しなきゃならないんだ。

「……若くん、それ」
「な……なんて顔してんだ。なんだよ、その顔は」

伊織が、真っ赤になっていた。これだから、嫌になる。
俺とは間接キスも、不可抗力だが抱擁も、手もつないだ伊織が、跡部さんのことを「カッコいい」と称するのは、癪だった。お前が好きなのは、俺だろ。
俺以外の男のことを……伊織がそんなふうに言うのは、俺のプライドが、どうしても我慢できない。

「そ、女に言わせるとか、カッコよくない」
「ぬ……」なん、だと?
「若くんから、言ってくれるの、わたしずっと、待ってるのに」
「なっ……」まったく、女というのは、意味がわからない。「それ、言ってるようなもんだろ」
「ううーもう、だからカッコよくない!」

ぎゅっと俺の袖口をつかんできた。はじめての伊織からのスキンシップに、鼓動が波打っていく。触れたいと、体が強く訴えかけている。
俺は、伊織の右腕に抱えられているボウルを手にとって、地面に置いた。伊織が、はっと俺を見あげてくる。周りには、誰もいない。ただ少し先にある流し場の明かりだけが、うっすらと伊織の顔を照らしている。その揺れる瞳……完全に、俺を誘ってるだろ……。
袖口にある伊織の手に、俺は指を滑らせた。そのまま絡ませて握りしめると、伊織は唇を噛んだ。

「……お前が、好きだ」

目を見て伝えると、伊織はその目を伏せた。だが裏腹に、絡まる指が熱くなっていく。伊織……なんとか言えよ。

「おい、言ったぞ?」
「……」
「おい、伊織」
「……うん」
「なんだよ……返事は、ナシなのか?」

その刹那、胸にドンッと衝撃が走って、俺は固まった。
伊織が、俺に抱きついてきていた。まったく予想していなかった大胆な伊織の行動に、これまでとは比にならないほど、急激に体温があがっていく。

「な、ちょ、なにしてる」
「好き。わたしも。若くん、大好き」
「そ、あ、う……」ちょ、ちょっと待て。
「若くん、抱きしめて」
「な……いま、気持ちを伝えたばかりだぞっ」

こういうのは、俺ははじめてなんだ……ちょっと、待て。
まずいだろ、絶対にまずい、止まらなくなる。告白していきなりこんな、接触を持っていいものなのか? 頭が、いや体中が、沸騰する。

「でも崖から落ちたとき、抱きしめてくれたじゃん」
「あれは非常じたっ……」
「カッコよかった」
「え」
「めちゃくちゃ、世界一、若くんカッコよかった……だから、ぎゅってして」

かわいい声に、降参するしかなかった。
伊織のやわらかい体を強く抱きしめて、俺はそのまま、彼女の頬に、唇を寄せた。

「若く……」
「誘ったのは、お前だからな」

もうこの唇に、俺以外の男をカッコいいなんて言わせない。そんな子どもじみた思いを胸に、俺はもっとやわからい赤に触れた。

「好きだ。伊織……」
「嬉しい、若くん」

先輩たちが近くにいたことは、まったく、知るよしもなかった。





fin.



[book top]
[levelac]




×