死者からの伝言_01


1.


犬を飼っとる人に、ひと言。
名前を呼ぶときに「ちゃん」をつけるのはやめといたほうがええです。犬は「ちゃん」までが自分の名前だと思いこんで、「ちゃん」をつけんと振り向かん場合があります。
……犬には、んん……。






ひどい豪雨だった。ただでさえぼんやりとした暗い道だというのに、そのせいで車のフロントガラスがよく見えない。それでも、目的の場所に行かないわけにはいかない。今日だと、決めていたからだ。助手席に愛犬の万五郎を乗せてこの道を通るのは三日ぶりのことだった。小石川ちなみはその三日前のことを、思いだしていた。
地下金庫室のなかで、あの男を見あげた。資料をまさぐる彼の背中。おぼつかない脚立の上の足。傍にいた愛犬。脱ぎ捨てられたスリッパ。

「本当にあんの?」畑野茂は言った。こちらに背を向けたままで。
「たぶん」

ちなみは、はにかんだような声をだしたつもりだったが、畑野はそのわずかな機微に気づくような人間ではなかった。

「あ、これか」と、畑野は缶詰を手にした。
「なんて書いてあります?」
「愛犬の友」なぜか自慢げに振り返った。
「……それじゃなくて」

ちなみはもう一度はにかんだが、畑野はムッとした表情で、また背を向けた。

「もっと、奥だと思うの」

言いながら、ちなみは静かに足を引いた。一歩、一歩、慎重に。ここで気づかれれば、すべてが台無しだ。その様子に気づいた愛犬の万五郎が室内からでていく。ゴールデンレトリバーは、賢い。いまだと、ちなみのなかで合図がくだった。畑野はまだ背を向けて缶詰を探している。そこから目を離すことなく、ちなみが地下室の扉をゆっくりと閉めようとした、そのときだった。

「……なんだよ?」

暗がりが闇に変わりつつあることに気づいた畑野が振り返った。ちなみはそれも、計算していた。最後の言葉を告げるためだ。気づいてもらわなくては、意味がなかったのだ。

「さよなら」

分厚い扉を閉めた。
船の舵のような鍵を何度も右へ回した。
それが三日前だ。あの洋館へ、ちなみはまた行かなければいけない。
道中、立ち往生している車に気づきながらも、ちなみの意識は、そこにはなかった。





「ダッシュ! ダッシュ!」

車から出て、すぐに万五郎に合図を送りながら、ちなみはボストンバックを頭上に掲げ洋館へと入った。万五郎のむきだしになった足がフローリングに濡れた跡を残していく。一目散に確認すべきは、当然、あの地下金庫室だ。ちなみは懐中電灯を片手に、金庫室につながる階段の扉をゆっくりと開いた。
この階段の先に、あの男の死体が眠っている。当然、死んでいるはずだとわかっていても、その足取りが重くなっていくことを感じずにはいられなかった。単純な恐怖もあった。もしも畑野が死んでいなかったら……その可能性も捨てきれない。地下室はもう目の前までやってきている。ちなみは慎重に扉に近づき、耳を澄ませた。なかから物音のようなものは聞こえない。分厚い扉のせいで聞こえないのかもしれないが、おそらく大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせた。
舵型の鍵の上にある、ダイヤルをつまんだ。これを規則的に右に回せば、ロックが外れる仕組みとなっている。舵型の鍵を、左へと回していく。ゆっくりと扉を開けた。ホラー映画に出てくるような扉の軋む音と同時に、懐中電灯の先にうつぶせで倒れている畑野を確認し、ちなみはそっと足を踏み入れた。じっくりと、顔を照らしていく。畑野の顔は、白かった。
……死んでいる。確実だ。





今日は車中泊になってしまうのだろうか、と、佐久間伊織は憂鬱を隠しきれなかった。後部座席で、さっきから30分以上は停まってしまった車に乗っている。先輩である今泉慎太郎が豪雨のなかボンネットを点検しているようだが、期待できない。彼は総理大臣のような名前をしている割に、まったく使えない人なのだ。

「だ、ダメですね。完全にイカれてます」

案の定のセリフを吐きながら、今泉が車内に戻ってきた。薄い髪の毛に滴っている雨のかけらが散ってきて、伊織は顔をしかめた。

「原因不明。お手上げ状態」でしょうね、と言ってしまいたくなる。
「たぶんやけど、ガス欠やと思うで」

助手席に座っている上司の忍足侑士が、運転席のインストルメントパネルを指さしながらそう言った。伊織はぎょっとした。同時に、今泉も固まっている。すぐにエンプティを確認して、泣きそうな声をだした。

「気がついてたなら言ってくださいよお!」
「注意力ゼロやな。失格やな、刑事として」伊織は素知らぬ振りで身を縮めた。「あのな、2、3キロ先にガソリンスタンドがあるで」
「ど、どこですかっ」今泉が、忍足に身を乗りだしている。
「ちょ、寄るな、寄るなや」
「だって、どこらへんですかっ」どうやら、忍足が手にしている地図を確認しようとしているらしい。
「さがって行ったら間違いないわ」と、忍足は今泉に懐中電灯をわたした。伊織は、うわあ、と心のなかでひとりごちた。忍足には、こういうところがあるのだ。
「え?」懐中電灯を受け取りながら、今泉が戸惑う。
「やって、一晩中ここにおるわけにいかんやろ。佐久間さんなんか女の子やで。かわいそうやないか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよお。佐久間くんっ、今度は君の番じゃないかなっ。君が行くのはどうかなっ」
「え、わ、わたしですか!?」冗談じゃない、と言いそうだった。なにが悲しくてこの豪雨のなかを2、3キロも歩かなくてはならないのか。自分の車でもないのに。
「今泉くんなあ、そういう後輩いじめ、ようないで。足もと、滑るから気をつけて行ってきいや?」

忍足は有無を言わさない様子だった。伊織は、このどこか性格がねじまがっている忍足に密かに想いを寄せている。だって、こんな感じで、女の子には優しいのだ。

「こんな雨のなか、傘もないのにっ」そして今泉は、往生際の悪い男だった。
「いやそんだけ濡れたんやったら関係ないやないか」
「やや、山道、怖いですよっ」
「ええ大人がなにを言うとんねん」
「じゃ、じゃあ一緒に行きましょう」
「アホなこと言うなや。体が弱いんや俺は」それは絶対に嘘だろう、と伊織はツッコみたくなったが、抑えた。
「忍足さあん!」
「たかだか2、3キロやないか」
「2キロと3キロじゃ1キロも違うじゃないですかあっ」
「ええから行ってこいって」
「忍足さん……」
「今泉くんさあ、帰ってなんかあったかーいモンでも食べようや。なあ佐久間さん? そうしたいやんなあ?」
「あ、はいっ! 帰ってあったかいもの、食べたいです、わたしも」
「せやろ? ほれ、佐久間さんもそう言うとるわ」

今泉は口をつぐんだ。毎度のことだが、最後まで粘るのが今泉のよさ……と、言えなくはない。伊織と忍足をじっとりと恨めしそうに見つめながら、今泉は車のドアを開けた。

「今泉くん……熊にも気いつけや」

なにか言いたげだったが、声にならない悲鳴をあげるような顔で、今泉は車から出た。今泉の背中が遠くなっていくのを見ながら、伊織は緊張しはじめていた。忍足とふたりになることがはじめてなわけではないが、この狭い車内で、しかも夜中となると、おかしな妄想をしてしまいそうになる。
忍足は美しい男だからだ。身長もスラッと高く、警察署内では婦警から絶大な人気を誇っている。伊織は忍足の部下として配属されたとき、そのモテモテっぷりを噂で聞き知っていたからこそ逆に苦手意識を持っていたのだが、いまではすっかり虜になっていた。人間というのはアテにならない生き物だ。

「あれ……忍足さん」
「ん……どないした佐久間さん?」

とりとめのないことを考えてぼんやり景色を眺めているときだった。森林の隙間から、明かりが見えた。伊織は数分前もそこを見ていたはずだったが、明かりはなかった。ということは、たったいま誰かが明かりをつけたということだ。
そして、思いだしていた。数分前、この車の脇を通り過ぎた、あの車。

「見てください、あそこ」
「……明かりがついとるね」
「はい、さっきも見ましたが、そのときにはついていませんでした。それから数分前に赤いポルシェが通り過ぎていきました。あのお屋敷に誰か戻ってきたのかもしれません」
「んん、佐久間さんは優秀やねえ。今泉と大違いや。よっしゃほな、メモやね」
「メモ?」
「ん」

胸ポケットから手帳を出し、忍足はメモを書きはじめていた。今泉に宛てているのだろう。このあたりは山のせいか、スマホも圏外だ。忍足はハンドルの中心に、上手にメモを挟みこませた。

「ほな、行こか」
「すごい雨だから、わたしたちもびしょ濡れになっちゃいますね」
「ああ、それなら大丈夫やで?」
「え?」
「俺、傘あんねん。ちょっと大きめやし、佐久間さんも入れるで。相合い傘やな」

今泉に貸さなかったのは、やはり性格がねじ曲がっているからなのだろうか。
それはそれとして、と伊織は思う。きゅん死にしそうとは、こういうことを言うのではないか。身を寄せ合うように黒い傘に包まれながら、忍足が、ほんの少しだけ腰に手を当てて体を支えてくれている。伊織は自身が刑事だということも忘れて、たしかに女の幸せを感じていた。
要するに……このさきに事件が待ち受けているなど、思いもしなかったのだ。





「そうなんです。1ヶ月ぶりに来てみたら……地下の、金庫室で」

ちなみは電話をかけていた。相手は警察だった。シナリオは前から考えていた。驚くほど冷静に電話できている自分が不思議でもあった。計画を練っていたとはいえ、実際となるとそう淡々とできることではないだろうと考えていたが、女という生き物は、冷酷になろうと思えばいくらでもなれるのかもしれない。

「亡くなってるみたいなんです、ええ」

リビングにあるモスグリーンのソファに腰をおろし、女優になった気分だった。こうしたネタで、次回作はこれまでとまったく趣向の違うものを描いてもいいかもしれない。と、関係ないことが頭をもたげていく。

「どのくらいかかるんですか……そんなに? ええ、こっちも酷い雨ですけど……あたしは、どうすればいいんですか? はあ、なるべく早くお願いします。はい」

電話を切った。警察というのはこの時代になっても融通のきかない組織らしい。人が死んでいると報告しているのに、すぐには向かえないと言いだした。ちなみは呆れた。

「予定どおりにはいかないものね」

愛犬の万五郎に声をかけた、その直後だった。玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に、この洋館に、いったい誰が来たというのだろう。若干の不安を覚えながら玄関に向かうと、ガラス越しに長身の美しい男が立っていた。その横に、背の低い女もいる。見たところ、会社の上司と部下だろう。黒い傘にふたりで窮屈そうに入っていた。

「はい?」ちなみが、ガラス越しに声をかける。
「あの、こんな時間にすみません。車が立ち往生してもうて。すぐそこなんですけども。電話をお借りできませんでしょうか」

長身の男は、関西訛りだった。ちなみはためらった。なんせ、この洋館の地下には死体があるのだ。見られることはまずないとわかっていても、人をいれるというのは気がのらない。しかしこのあたりは圏外だ。困っているということも十分にわかる。

「決して怪しい者じゃないんです」と、男が胸ポケットからなにかを取りだし、ちなみに向かって掲げた。「見えます? 警察の人間なんですけども。忍足侑士と申します」

忍足がちなみに見せたのは、警察手帳だった。

「わたしは佐久間伊織と申します」と、伊織も警察手帳を出した。

ちなみはおかしな運命を感じた。今夜に限って、警察の人間が偶然にこの洋館に訪れている。ピンチなのか。それともチャンスなのか。どちらにしても、あの死体が自身をまとう呪縛から、一刻も早く解放されたい。

「電話を拝借できませんかね?」忍足はつづけた。
ちなみは迷いつつも、頷いた。「はい」

玄関を開けた。「どうもすみません」と言いながら、忍足と伊織が、洋館に足を踏みいれていく。
忍足はさっそく電話を借り、部署に電話をかけていた。伊織が洋館をぐるぐると見渡している。古さに圧倒されているのか、それとも大きさに圧倒されているのか定かではないが、とにかく「うわあ」と声をあげていた。

「すんません、足止めくうてしもて。そうなんですよ、あの今泉のアホが。ええ。それで、東京に戻るのが夜中になるんです。せやから幡随院の取り調べは明日っからっちゅうことで……」めずらしい名前だ。なにをしでかしたのだろうか。「すんません、そうさせてください。はい、はいどうも」

忍足の電話の内容を聞きながら、ちなみはどうすべきか考えあぐねていた。このまま帰すこともできる。しかしあとで、この件がわかってはややこしいことになりそうだ、とも思う。一方で、すでに警察は呼んであったから、という言い訳も成り立つが……。

「どうもありがとうございました」忍足が電話を終えた。「助かりました」
「いえ……」
「ん……?」

ちなみのとなりには、いつも愛犬の万五郎がいる。それに気づいた忍足が、声をあげた。

「おいで。おいでや」
「かわいいですよね、ワンコ」
「なんや、佐久間さんも好きなんか?」
「大好きです」

このふたりは付き合っているのだろうか。まるで上司と部下とは思えない雰囲気に、ちなみは思考をめぐらせた。が、すぐにどうでもよくなった。
万五郎が忍足に寄っていく。

「よしよし、よしよし。大きな犬ですねえ? なんちゅうやつですかこれは」
「ゴールデンレトリバーです」ちなみは微笑んだ。万五郎は賢い。人見知りもしない。自慢の愛犬だ。
「名前は?」
「万五郎」
「かわいい名前ですね!」伊織がハキハキと言う。ちなみも嬉しくなった。
「くくっ……万五郎、万五郎、お手は? お手」

万五郎の足が忍足の手のひらにピトッと乗せられる。直後、忍足が眉をあげた。手のひらに、濡れた土がついて汚れていた。

「あ、ちょっと汚れてますね」忍足はニコニコとしていたが、ちなみは「あっ」と声をあげた。
「ごめんなさい、さっき雨のなか走ったものですからっ。タオル……!」
「いやいや、全然、大丈夫ですよ」と、忍足は手をはたいた。
「忍足さん、ハンカチどうぞ」
「おお、おおきに、ありがとうな。ほな、お邪魔しました」
「ご協力ありがとうございました」

ふたりの刑事は、ちなみに頭をさげてきた。これでもう出ていくようだ。しかしちなみは、帰してよいのか、いまだ考えあぐねていた。どうしようか、言うべきか、言わざるべきか。

「あの……」
「ん?」
「はい?」

リビングを出ようとした忍足と伊織の足が止まる。ふたりが同時に振り向き、視線を向けてきていた。これは、運命だ。あとで、なぜあのときなにも言わなかったのだと聞かれたらどうする。このまま帰すのは、やはり得策ではない。ちなみは覚悟を決めた。

「あの、実を言いますと……」
「なんでしょうか?」忍足が伺うように、身をかがめた。
「いま、警察に電話をしていたところなんです。土砂崩れで、すぐには来れないって言われちゃって……」
「なんかあったんですか?」

忍足の表情が、一変した。





地下金庫室に足を踏み入れながら、伊織はふう、と息を吐いた。刑事なので、死体は見慣れている。しかし伊織は毎回、死体を拝むたびに体の中心から糸で引っ張りあげられているような浮遊感を覚えずにはいられなかった。死体と一緒になって自分の魂も抜かれた気になってしまうのかもしれない。と、一応は結論づけてるが、それでも毎回、緊張するのだ。

「では、失礼しますね」
「ええ、どうぞ」

伊織は女性をじっと見つめながら、頷いた。美しい女性だった。ウエーブのかかったセミロング。華奢な体に見合った華奢な声色で、言葉を発するにも一定のリズムを保っていた。全身全霊で儚い雰囲気の女性なのだが、根底に強い芯がありそうだ。

「忍足さん、先に入られますか?」
「ん、佐久間さんが怖いんやったら、それでもええけど」
「こ、怖くはありません。刑事ですから!」
「強がるなあ……」

忍足の懐中電灯と一緒になって、伊織は死体を照らした。見るからに死んでいる。男はうつぶせだった。額に血がこびりついている、頭を打ったのだろう。死体の周りには何枚もの用紙が散らばっていた。そこには、イラストが描きこまれていた。漫画のようだ。その一枚を、死体の左手が強く握りしめていた。右手には万年筆。なにか記そうとしたのだろうか。しかしメッセージのようなものは、どこにも書かれていない。

「忍足さん」
「ん……」
「これ、見てください」

死体の側に、重たそうな金庫が放置されていた。その角に血痕が残されている。これで、頭を打ったということか?

「ふうん……」

言いながら、忍足の懐中電灯は、死体が履いていただろう片方だけのスリッパを照らしていた。





死体を確認してふたりの刑事と一緒に、ちなみはリビングへ戻った。ソファに座ってひと息つく、ということには、当然ならなかった。

「亡くなってから3日は経っとるようですね」
「3日……」ちなみは、確認するように声をだした。
「はい」
「あの部屋はなんなんですか? デカい金庫のようやったけども」
「いまは物置に使っているんですけど……ここはもともと、ドイツ人の外交官が住んでいたところで……あ、どうぞ?」

ちなみは伊織の視線に気づいて、紅茶を勧めた。忍足が「あ、すみません」と言いながら角砂糖を紅茶に放り込む。最近はこの角砂糖を見ることも少なくなってきた。洋館だけでなく、趣向もアンティークを好むのだと思われているかもしれない。単に近くのスーパーが田舎くさいだけなのだが。

「向こうのお屋敷には、ようああいうのがありますよね。映画で見たことがあります」忍足はティーカップをくるくるとスプーンで回しながら、つづけた。「ということは……なかからは開かへん、ですね? で、あなたが発見されたときは、ドアは閉まっとったと」
「そうです」間髪いれず、ちなみは答えた。ためらいを見せてはいけない。
「んん……こら窒息死と考えて、間違いないでしょう」ティーカップに口をつけながら、忍足は若干、早口になった。「まあ詳しいことは検死結果を待つとして、状況から考えれば……なんておっしゃいましたっけ……ええと」
「畑野さん」窒息死でいい。うまくいった。
「はい?」
「畑野さん、です」聞こえていないはずはないと思うが、忍足が聞き返してきたことで、ちなみは若干の苛立ちを覚えた。
「ああ、畑野さん、ですね。畑野さんはなんらかのアクシデントで金庫内に閉じ込められて、出るに出られず、なかの空気を使い果たして亡くなりはった。まあ、そう考えるのが自然でしょう。それで……どういうご関係なんですか?」

ちなみは、自分の頬がわずかに揺れたことに気づいていた。微妙な揺れだが、しかしこの程度の質問は、想定済みだった。

「あ……昔から、仕事のほうでいろいろとお世話になっていて。あの人、編集者なんです。雑誌の」
忍足が、眉間にシワを寄せた。じっとちなみを見つめてくる。「失礼ですけど……」
「あ……あたしあの、描くほうの仕事をしてまして」
「小説ですか?」
「コミックです」
「コミック……! んん、コミカルなモンですか?」まあたしかに、コミックは本来、喜劇という意味だが。伊織が近くに置いてあるコミックを手に取った。
「忍足さん、これじゃないでしょうか」どうやらこの女性刑事は、勘が鋭い。
「ん? なに?」
「あの、これ、よろしいですか?」おまけに、丁寧だ。ちなみに伺いを立ててきた。
「あ、はい、どうぞ」

伊織が忍足に、『カリマンタンの城』第1巻を手渡した。題された表紙をめくって、内側の作者欄の写真を見つけると、彼は即座に頭をあげてきた。

「あれ?」

写真とちなみを二度見しながら、忍足はちなみに指をさしてきた。ちなみは苦笑いを浮かべた。ふざけているのだろうか。あたしに決まっているじゃないか。

「あー、小石川ちなみさん……あ、はじめまして、忍足と申します」すでに挨拶は済ませたが、忍足はソファから腰をあげた。握手まで求めている。「お名前は聞いたことがあります。ご本のほうは、正直言ってまだ一度も……すみません」
「少女コミックですから」名前を聞いたことがある、というのも怪しい。
「そうですか。漫画いうたら、『のたり松太郎』しか読んだことが……」
「漫画じゃなくてコミックです」これだけは譲れない。あたしはコミック作家なのだ。
「あ、すんません」忍足は即座に謝ってきた。しかし適当な響きがあり、ちなみはまた苛立ちを覚えた。「へえ、『カリマンタンの城』、面白そうですね」
「そうでもないですけど」
「はあ、そうですか……どうも」忍足が、コミックをテーブルに置きながら、つづけた。「ええと……あのー、畑野さん……この家の鍵、お持ちやったんですか?」
「ええ」ちなみは、正直に答えた。
「ほう……お持ちやったんですか?」再確認するように、忍足は同じことを聞いてきた。
「兼用に使ってましたから。あたしはだいたい月末に、ここに仕事に来て……」はい、と忍足が相槌を打つ。伊織はスマホでメモを取りはじめていた。「あたしが使ってないとき、畑野さんは別荘のように、ときどき使っていたみたいです」
「そうですか……」
「上に、専用の部屋もあって」
ふんふん、と、忍足が頷いた。「すみません、ちょっと突っ込んだ質問しますけど。まあ答えたくなければ答えんでも結構です」
「……どうぞ」
「あのー……亡くなられた畑野さんとはその、かなり、親密な関係やったんですかね?」

目の前にいる女刑事の目つきが変わった。やはり、そこは突っ込まれるのだ。ちなみは笑顔をつくった。あんな男、あたしのなかにはもういないのだから。

「いいえ。畑野さんとは、長い付き合いですけど……あくまでも、仕事上の。プライベートはまるっきり……」
「……わかりました」

果たして、忍足が本当に納得したのかどうかもわからない。
しかし話は終わったと、ちなみは感じていた。これ以上は無駄である。証拠はなにもない。万五郎がパタパタと近寄ってきた。忍足の顔がほころんでいく。彼は動物が好きらしい。

「よしよし」万五郎に手を差しだし、頭をなではじめた。「んん、ええ毛並みしてますねえ」
「手入れが大変で」と、ちなみも万五郎の体をなでた。
「そうでしょうねえ……万次郎、おすわりは?」当然、ピクリとも動かない。この男は、ふざけているのだろうか。「万次郎、おすわり」どうやら本気のようだ。
「万五郎、おすわり」正しく名前を呼ばれた万五郎は、すちゃ、とおすわりをした。本当に賢い犬である。
「よしよしよし、ええこや、ええこやねえ。金庫室でなにされとったんでしょうかね、畑野さん。探しものでも?」

苛立ちを通り越してすでに呆れそうになっていたが、その刹那、ちなみはピタ、と固まりそうになった。なぜそんなこと、あたしに聞くのだろうか。

「……古い原稿がしまってあったんで、それを見てたんじゃないかと思います」
「ああ、床に散らばっとった?」
「ええ」
「そうですか。よーしよしよし」忍足は万五郎をなでながら、さらにつづけた。「あなたはなにをしに行かれたんですか?」

ちなみは思わず、目をまるくしていた。妙なことを聞かれはじめている。驚いた顔をしたせいだろうか、忍足は、ふっと笑みを浮かべた。

「いや、ここについて荷物もほどく前に、地下室に行ってはりますよね」忍足が指をさした先に、フローリングに放置されているボストンバックがある。「虫の知らせってやつやろか?」
「……いえ、畑野さんが来てらっしゃるって聞いたんで、呼んでも出てこないもんですから」ごく、と喉を鳴らしてしまいそうになる。動揺を、見せてはいけない。
「そらまた、抜群の勘ですねえ」

どうすべきか。ちなみは必死に考えた。

「前にも一度あったんです」
「と、言いますと?」
「畑野さんが調べ物をしているときに、なんかの拍子でドアが閉まってしまって。まあ、そのときにあたしは居たので、すぐに開けてあげれたんですけど」
「かなり危険なドアなんやなあ」
「そのときにストッパーでもつけておけば、こんな事故には……」
「いやいやいや、ご自分を責めることはないですよ。せやけど……んん……本当のことを言いますね。実はですね……ん、万五郎、ちょっと席はずしてくれるかな?」今度こそ名前を覚えたらしい。万五郎がスタスタと部屋を出ていく。忍足が向き直ってきたことで、ちなみはかまえた。「あの、めっちゃ申し上げにくいんですけどね、これは殺人の可能性があります」

なぜだ……と、警告音が頭のなかで鳴り響いていく。ドクン、と心臓の音が聞こえる気がした。まずい、この刑事は、なにかに気づいている……?

「……まさか」それでもちなみは、笑ってみせた。
「いや、正式な現場検証をしてみな、なんとも言えんのですけどね」
「だってさっき、窒息死だって……」
「誰かに閉じ込められたとしたら? 意図的に。これは立派な殺人や」
「……どうしてわかるんですか? あなたもそう思われるんですか?」

ちなみは、伊織に問うた。伊織は恐縮するように首を縮めている。それはYESなのかNOなのかはっきりしない。伊織の曖昧な態度のせいで、ちなみの焦りは、さらに加速していった。

「畑野さんのここに、殴られた痕が」忍足が、額を指さしている。「致命傷ではないんですけど、かなり強く」
「……まさか」微笑みが固まっていきそうなのを、ちなみはなんとか堪えた。
「たしかにありました」
「あ……どっかにぶつけたとかじゃ」
「ご覧になりませんでした? 床に小さな金庫が」
「え、あ……はい」首をかしげつつも、ちなみは肯定した。
「落ちてましたね? あの角の部分に血痕がありました。誰かがあれで、殴ったんです」

殴った……? ありえない。あの扉はあたしが閉めたのだ。畑野ひとりを残して。そこに誰が入りこんで畑野を殴るというのか。あたしは畑野に手も触れていない。この刑事はなにか、勘違いをしている。

「でも……そんなことありえません」
「ありえない? ああ……え、なんでやろ?」
まずい、ありえないは言いすぎたかもしれない。と、ちなみはまた焦りはじめた。「あ……あたしが来たときは、もう鍵がかかってたんですよ?」
「金庫室の?」
「ええ。あそこを開けられるのは、あたしと畑野さんだけです。ほかに誰も開けられないです」だから、誰かが殴るなんてことは、ありえないのだ。
「そうですか……」

見当違いだということを、ようやく理解してもらえたらしい。忍足は話を切りあげるように額をなでた。そしてその指先を、そのまま奥の部屋へと向けた。

「いたずらしとる」

見ると、万五郎がスリッパの片方だけを骨に見立てたようにかじっていた。これは万五郎のお気に入りのいたずらである。

「万五郎」少しだけ尖ったような声で注意すると、万五郎をすかさず立ちあがって、その場を去っていった。
「やっぱり、ちゃいますねえ」
「はい?」万五郎の賢さのことだろうか。
「いや、作品を描きはる方の発想いうか、物の言い方、いうか」
「どういうこと、です……」また、心臓がうなりだす。この話はさっき、終わったんじゃなかったのか。
「いやね……あなたどういうわけか、畑野さんが閉じ込められたあとに誰かがやってきて頭を殴ったように思ってはる。普通は逆やないでしょうか。殴られてからあそこに押し込められたって考えるほうが自然でしょう。たとえばやけど、缶のなかにクッキーが入っとって、開けてみたらかじってあったとしますね。これ100人が100人、かじってから蓋をしたと思います」

ちなみは言葉がでなかった。だってあの男を閉じこめたのは自分なのだ。あたしはあの男を殴ってなどいない。誰かに殴られたなら、あたしが閉じこめたあとでしか、ありえなかったからだ。

「まあ、発想がちゃうって言うたのはそのことなんです。とりあえず、3日前に畑野さんが誰とここへ来たんか、調べてみる必要はあると思います。佐久間さん、任せてええよね?」
「もちろんです」伊織は相変わらずスマホでメモを取っていた。あそこに、なにが書かれているのか。
「あのすんません、お手洗いをちょっと……借りてもええですか?」
「あ……つきあたりです」ちなみは生唾を飲みこみながら答えた。
「失礼します」
「あ、忍足さん、わたしも行きます!」
「ええ? 俺が先やで?」
「それはちゃんと待ちますよっ」

……あの刑事をこの洋館に入れたのは、間違いだったかもしれない。





忍足が「畑野さんの専用の部屋を見せてもらえますか?」と言ってきたので、ちなみは仕方なくそれに従いながら、階段を一緒にのぼっていた。なんとかこの男の疑いの目を逸らさなくてはならない。部屋を見せることを断れば、またさらに疑われる。迷っている場合ではなかった。

「しっかし、おそろしく大きな家ですねえ」
「本当……入ったときはびっくりしました」伊織が意気揚々と答えている。
「佐久間さん、こないに大きな家に入ったのはじめてちゃう?」
「はい、大きな家で事件が起きるのは小説や映画のなかだけですからね」

いまのは、嫌味なのだろうか。伊織がわずかな笑みを浮かべて視線を合わせてきたことで、ちなみはまた苛立ちを覚えた。忍足だけならここまでの緊張感はなかったかもしれない。伊織の視線はずっとちなみを追いかけている。それが、ちなみにとってはなによりも気味が悪く、焦りを膨張させるものだった。

「あのー……畑野さんの怪我」ちなみは気を取り直し、忍足に問いかけた。
「はい?」
「かなり重いんですか?」
「んん……相当、強くやられてます。おそらくは気を失いはったんじゃないでしょうかね、畑野さん」
「……」いったい誰が、どうやって。ありえないのだ、そんなことは。
「小石川さん、こちらでしょうか?」と、伊織が唐突に言葉を発して、ちなみは顔をあげた。
「あ、ここです」

歩いているうちに、畑野の部屋の前に到着していた。「失礼します」と、忍足がためらいなく扉を開ける。電気をつけると、忍足と伊織は同時に白い手袋をつけはじめ、一目散に正面にある作業机へ向かっていった。畑野の小さめのキャリーバッグが、そこに置かれたままだった。忍足が、それを即座に開けている。なかからなにが出てくるのか。あたしとの関係の証拠はないはずだ、と、ちなみは踏んでいた。そこにかけては、あの男は用意周到だったのだ。

「……おしゃれな方やったんですねえ」整髪料や香水を取りだしている。
「どちらかというと」ちなみは適当に相槌を打った。
「ふうん……ん?」と、忍足がなにかを見つけて声をあげた。「マメな人なんやなあ。領収書がこんなに。佐久間さんこれ、日付確認」言いながら、忍足は手帳を広げはじめた。
「はい」伊織が1枚1枚、じっくりと領収書を見ている。「忍足さん、日付はすべて3日前です」
「ん、せやろなあ」
「ガソリンスタンド、高速道路……」
「畑野さん免許はお持ちやったんですか?」

伊織の報告をさえぎって、忍足はちなみに向き直った。ちなみは部屋の入口から動く気がしなかった。しかしここで嘘をつけば、また疑われる。

「いえ、持ってなか」
「持ってへん」断定的な言い方で、大変な食い気味だった。「やっぱり連れがおったっちゅうことや」
「あとはドライブイン、コンビニ」伊織がつづけた。
「ストップ」
「え?」
「それ、見せて佐久間さん」
「あ、はい」

見ながら忍足は、ちなみに向かって手招きをした。ぎゅっと背筋が伸びていく。あの男にはあまり近寄りたくないと、本能が訴えかけてきているような感覚だった。

「はいこれ、見てください。ドライブインの領収書。カレーライスとカレー南蛮蕎麦を食べてはる。ひとりで食べるにはずいぶんな取り合わせです。インド人やってこんな食べ方はせえへん」また、ものすごい早口だ。「やっぱり畑野さん3日前に、誰かと連れたってここへやってきたんや」
「……」さらに、やはり伊織の視線がじっとこちらを見ていた。曖昧な笑みを浮かべて首をかしげるしかない。さっきからなんなの、この部下の女は。
「ホテル代わりにここを使っとったんやないやろか」
「……相手は女性ですか?」そういうことがあってもおかしくない、という意味合いを込めて、ちなみは努めて明るい声をだした。
「エイズ予防はされとったようですね」と、忍足が2本の指先にコンドームを挟んでいた。「その女が第一の容疑者……畑野さんの女性関係、心当たりありませんか?」
「かなり派手に遊んでたみたいで」と、ちなみはもう一度、微笑んだ。これは事実だから。
「かなり……そうですか」
「忍足さん」と、伊織が口を挟んでくる。手帳を広げていた。
「ん?」
「小石川さんのおっしゃるとおりのようです。これは相当なものです」

畑野の手帳など見たことがない。忍足の肩から覗き込むように目を凝らすと、手帳にはほぼ毎日のように、時間と、アルファベット1文字が書かれてある。奥歯を噛み締めそうになっていくのを、ちなみは堪えた。

「ホンマや。こら相当なもんやねえ。予定がびっしりや。ほら、見てください」忍足が、わざわざちなみに合図を送る。
「M、N、Y……なんでしょうかこれは?」伊織が、また口を挟んできた。
「佐久間さんそういうとこピュアやねえ。女の頭文字に決まってるやんか」
「うわ、最低……」それには同意だ。
「あの人なら、考えられなくはないですね」と、ちなみは余裕を持って声をだした。
「うらやましいのひと言につきよるなあ……ああ、3日前、あったあった」
「頭文字、『O』の女性のようですね」

伊織が手帳を見ながら、ちなみを見た。心当たりがないか、目で聞いてきている。
畑野は忙しい男だった。急いで書いたのだろう。あきらかにスマホでスケジュール管理をしたほうが早いというのに。見られる可能性があるから、わざわざ手帳に記していたのだろうか。それにしても乱雑な文字である。

「ん、『O』……」口端をあげないように、ちなみは確認を取るように頷いた。
「大山、大川、大田黒。なにか思い当たりませんか?」伊織も早口になっている。なぜ黒をつけたのか。大田でよい気がするが。
ちなみは流した。「いえ、ちょっと」
「佐久間さん、待って。それ、俺によう見せて」
「え、あ、はい……どうぞ」

忍足が、伊織から手帳を受け取った。目と手帳の距離が3センチほどしかない。逆に見えないのではないか、と、ちなみが心配になるほどだったが、やがて忍足はバッと手帳から顔をあげた。

「これ、『C』やで。ほれ、よう見てみ? 『O』に見えるけど、右斜め上がちょこっと切れとる」
「あっ、本当ですね! うーん、視力検査じゃないんだから」と、伊織が呆れている。
「視力検査でもこれ出たらめっちゃ難問やねえ」ま、俺は見えるけど。と、付け加えながら、つづけた。「さて、『C』、難しいねえ、『C』……」
「……『C』……」と、ちなみは、忍足の顔色を伺いながらつぶやいた。手に、じんわりと汗が浮かんでくる。「外人?」
「んん、『C.C』ちゅうたらクラウディア・カルディナーレ。日本人やとなんやろか」
「ちゃ、ちゅ……」ちなみは、もう一度つぶやいた。
「ちょ」と、ご丁寧に伊織がつづける。
「名字やないんかな。んん……あかん、『加藤茶』と『荒井注』しか思い浮かばへん。二人にも一応あたってみるけど、おそらく関係ないやろな」
「そうですね」一応、あたってみます。とバカ丁寧に伊織が答えている。荒井注はすでに亡くなっているはずだが。
「いや、待って……『ち』でもええよね?」と、忍足が突然、ちなみに振り返った。「あなたが『ちゃ』とか『ちゅ』とか言うからや。『島倉千代子』『奥村チヨ』、たとえは古いけど結構おるやないですか……そういえば、あなたもたしか」

表情を、崩してはいけない。ちなみは頬をあげた。そう、あたしもいま気づいたの。そんな感情を、全力で演じた。

「……『小石川ちなみ』さん」
「……ええ」

笑った。にっこりと。ちなみだけでなく、それは忍足も伊織も、同時に笑ったのだった。
忍足がくるりと背を向ける。

「佐久間さん」
「はい、なんでしょうか」
「スマホの電源、まだある?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ほな、行こか」

忍足と伊織はさっさと部屋を出ていった。階段の音がする。ふたりの刑事はまた、地下金庫室へと向かっていった。
ついていくと、パシャパシャ、と、機械的なシャッター音が響いていた。伊織がスマホで死体の写真を撮影しているのだ。あんなものをスマホのデータに残すことになるとは、普通の女性なら嫌がりそうなものだが。

「位置関係だけ抑えときたいんですよ」聞いてもいないのに、忍足が告げてくる。
「そうですか……」

パシャ、と最後に照らされた1枚は、畑野の左手が握りしめられている、ちなみが描いた原稿だった。





to be continued...
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