Look at meeeeee


となりからバチバチと激しい音が聞こえてくる。たいした記事を書きもせずミスばかりやらかすわりに、経費でわざわざ購入しているキーボードはプログラマー仕様でゴツゴツしている。なんでそのキーボードが必要だったんだよ……正直、不快だ。
新人で後輩とはいえ、わたしよりも3つも年上のくせして、プライド高いわ偉そうだわ、それで仕事ができるならまだしも、記者のいろはもわかっていない。編集長はなんでこんなのを雇ったのだろうか。中途採用ならもっとマシなのがいたんじゃないのか。

「佐久間さん、ちろっと書いたんでチェックしてもらえます?」バチン! とエンターキーを押していた。うるさい。そして偉そう。
「わかりました。データのURL、チャットに貼ってもらえますか?」
「あーもう印刷したんで。お願いしまーす」

言ってるそばから、わたしの横にあるプリンターが動き出し、2枚の用紙がはきだされた。そのままわたしが取れよってこと? マジでこの男は……ぶん殴りたい。

「……明日までにチェックしておきます」

いまからやる気にもなれない。そろそろ時間が差し迫ってきていたこともあり、乱暴に用紙を手にして席を立った。ホワイトボードにある「佐久間」の横の空欄に黒ペンで「取材直帰」と書きなぐる。

「おう佐久間、外出か」声をかけてきたのは編集長だ。
「はい、これから出ます」
「しっかりな。再来月の目玉だ」
「わかっています」

襟を正して会社を出た。今日は、越前リョーマのインタビュー取材日だ。





スポーツ記者になって早5年が過ぎている。最近、ようやくひとりで取材を行うことができるようにまでなった。「もう一人前なんだから」と編集長に言われ調子にのっていた矢先、転職組の、生意気な年上後輩をつけられてしまったことがネックではあるものの、わたしはこの仕事にやりがいを感じている。
5年前の初取材は、今日会うプロテニスプレーヤーの越前リョーマだった。わたしの生まれ年の人間にとって越前リョーマは年齢が近いというだけで自慢にあたるほどのスポーツ選手だ。かつて松坂大輔と同年の人々が「松坂世代」と胸を張っていたのと同様、日本スポーツ界の宝である越前リョーマは世界で活躍するスーパーアスリート。会う前から期待値が高かったのは当然だったけれど、わたしは会った瞬間に、越前リョーマに恋に落ちた。

――越前選手、次回のウィンブルドンのご活躍を日本中が期待しています、頑張ってください。

あの日、取材終わりに言った生意気なわたしの発言に、越前選手は振り返った。

――アンタは?
――へ?
――アンタは応援してくれないわけ? オレのこと。
――そんな、もちろん、応援してますよ!
――それなら、アンタの気持ちをぶつけてくんない? 目に見えない日本中なんて言われたって、実感ない。
――あ……応援してます、越前選手! 絶対に、いつか世界一を!
――サンキュ。アンタのことも連れて、オレはもっと上に行くから。

年下に気持ちを持っていかれやすいわたしに、越前リョーマはしびれるほどカッコよかった。ときめきを通り越して「愛してます」と言いそうになるほど、わたしはその場でのけぞりそうになったのを、いまでも思いだす。
だけど、相手は越前リョーマだ。当然と言えば当然なのだけど、あれから仕事で何度か取材で会っても、越前リョーマはわたしのことをちっとも覚えていなかった。5回目に会ったときにようやく覚えてそうな雰囲気を出したくらいで、当時からわたしに興味がないのはわかりきっていた。
が、いまでも取材となると、こうして淡い恋心を抱いているのだから厄介だ。この5年ずっとテニスの担当をしていて、取材対象は越前リョーマでも取材するのはご勝手に、で、インタビューなどほとんどさせてもらえない。会話をしてくれるのはいつも彼の父親でありコーチである南次郎さんやほかのスタッフさんたち。だから、越前リョーマとどうにかなろうなんておこがましいことは思っていない。いわばこれは、叶わぬ初恋のような感情で……。

「ようー、チワワ。今日も取材か?」

指定されたテニスコートに入ったときだった。背中からチャラそうな声がかかる。振り返らなくても、わかってしまう。「チワワ」という勝手につけられたあだ名もそうだが、このチャラ声と馴れ馴れしさは、なんなら越前リョーマよりも印象に残っているせいだ。
あげくこの人は、なにを聞いても適当なことしか言ってこない。わたしのなかでは絡んでくるくせに情報をくれない、いわば面倒臭いの最たる人間。

「こんにちは。リョーガさん」

越前リョーマの兄である。おそらく血はつながっていないので、叶姉妹のようなものだろうと推測しているが、詳細は不明だ。別に調べあげようとも思わない。
というか、毎度のことだけどさ……誰が「チワワ」だ!

「あの、わたしのこと『チワワ』って呼ぶのいい加減に」
「お前もしつこいヤツだよなあ。会うたびに同じこと言ってさ」
「あなたが言わせてるんです!」
「しょうがねえだろ、チワワに似てんだからよ」

はじめての取材のときにだって、この人はいた。越前選手が「兄貴」って呼んでいたので「えっ!? 兄弟いたっけ!?」と驚いたのも5年前の話だ。まあ結果、兄弟じゃないっぽい、という噂を聞いて終わってしまったのだけど……。
だいたい、だ。
わたしは年上が苦手だ。たかだか上に生まれたというだけで偉そうにするわ、「お前」呼ばわりだわ、うちの年上後輩だってそうだけど、ちょこちょこ上から物を言ってくる。
男社会で生きてきたわたしにとって、男ってのは本当にしょうもないプライドの生き物だとはわかりきっているが、年下ならそれがかわいくても、年上になると嫌悪感すら出てきてしまう。最初っからタメ口だし、あだ名つけておちょくってくるし、だから、誰が「チワワ」だよ!

「どこが似てるっていうんですかっ」
「そういうとこだろー。キャンキャン吠えるけどチビだしな」カカカッと笑いながら、わたしの頭に気安く触ってきやがった。
「ちょっと! やめてくださいっ! セクハラですよ!」
「おうおう威勢がいいねえ。そういうとこもチワワだな」

ささっと体を動かしながら、越前リョーガはわたしが払いのけようとする手すら交わしていく。憎たらしい。どうせ結構なイケメンだから、俺ってモテるし? とか思ってんだろう。だから女に触れても許されると思ってる。あげく、越前選手の兄だからなのか、運動神経も抜群にいい。どうだ、俺ってカッコいいだろ? って感じの表情も、ああ、イライラする!
全然、好きじゃないからアンタみたいなの!

「ところでチワワ、チビ助のインタビュー取材に来たんだろ?」チがつくあだ名が好きなのかこいつは。
「そうですよ。リョーガさんに用はありません。失礼します」
「場所、間違ってるぜ?」
「へ?」
「そっちはオヤジたちがいる会議室。チビ助なら、真逆のトレーニングルームにいるぜ?」
「え……え、だって会議室でって……!」そういう連絡だったはずだ! その、オヤジである南次郎さんからは!
「適当なんだよ、うちのオヤジは。じゃな。せいぜいお仕事、頑張れよ? チワワちゃん」

ひらひらと手を振りながら、越前リョーガは去っていった。





数ヶ月ぶりに会う越前リョーマは、また少したくましくなったように思う。27歳の彼は、スポーツ選手の年齢としては決して若くはないが、パワーは格段にあがっていた。そして、以前よりもぐっと大人びている。見るたびに違った顔を見せながらも、底に眠っている幼さが見え隠れする魅力的な人だ。1歳しか違わない年下の彼に、わたしは今日も、1日だけの恋をする。なんて、メルヘンもほどほどにしたいのだけど。

「では最後に、日本のファンの方にひと言、お願いいたします」
「ええ……またそれ、聞くの?」思いつかないよ……と、ぼやいている。かわいいなあ。
「すみません越前選手。いつものことですが、越前選手の独占インタビューはなかなかほかの雑誌では読めないんです。うちの目玉ですから、ファンの方も待っておられるんですよ」
「ん……いつも応援、ありがと。感謝してる。次はもっと上に行くから、これからもよろしく……かな」
「はい、ありがとうございます」

ピ、とボイスレコーダーのスイッチを切ると、越前選手は盛大なため息を吐いた。ほんの20分程度だったのだけど、彼は、インタビューが苦手なのだ。試合後のインタビューすらしたくないと言っていたから、余程シャイなんだろう。こうなってくるとあの「兄貴」と叶姉妹状態だというのは至極納得がいく。少し比喩がややこしいだろうか。

「それでは、今日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「仕上がりは南次郎さんに送らせていただきますね」
「ん、そうして」

すっくと席から立ちあがって、癖で胸ポケットに手を突っ込んだときだった。いつもあるはずの感触がなくて、思わず顔を向けてしまう。
あれ? と周りを見渡そうとしたときには、越前選手はすでにトレーニング機器に乗っかり、筋トレをはじめていた。

「悪いけど、出てってくんない? ひとりで集中したいンだよね」
「あ、すみません! すぐ……」でも、どうしよう、と心のなかで独りごちる。「出ます、すみません」

パタン、とトレーニングルームから出て、青くなっていく。わたしの胸ポケットにいつも挿しているはずの万年筆が、失くなっていたのだ。
就職祝いに両親からプレゼントされた、とても大切なものである。テニスコート前に到着したときには、たしかにあった。トレーニングルームに落としたのだとしたら越前選手のインタビューがはじまる前だけど、そこには彼しかいなかったから静かだったし、なにか落ちたような音もしていない。
だとすると、この広大な施設のどこかに、落としたということになる。

「すみません、ここ、今日は何時まで開けてますか?」
「えーっと……今日は越前選手だけなんで、彼のトレーニングが終わるまでですね……18時かな」

受付スタッフに聞きながら時計を見ると、すでに17時を過ぎていた。あと1時間もない。見つかるだろうか。

「あの、落とし物とか、届いていませんか?」
「落とし物? いつ失くしたの?」
ここに到着したのは16時だ。「16時以降なんですが」
「今日の?」こくり、と頷くと、うーん、と返された。「届いてないよ。なに失くしたの?」
「万年筆なんです」
「んー……じゃあまあ、届いたら連絡するから」

名刺をわたして、わたしはすぐに玄関口に戻った。すでに撤収しはじめている人たちの数人が、わたしの不審な動きをチラチラと見はじめたが、そんなことを気にしている余裕もない。約束の時間より早めに到着したせいで、いろんな場所に行ってしまったことがいまさらのように悔やまれる。
ベンチの下、女子トイレの各個室、あらゆる場所でほぼ四つん這いになりながら、そのまま30分ほど経過したときだった。

「チワワ……ついにマジで犬になったのか」
「……」うるさい。いま話しかけるな、と、言いたくなるのを堪えた。
「おー? 記者さんじゃねえか。そんなセクシーなポーズで、なにしてんだー? おじさんを誘ってるのかな?」
「やめとけってオヤジー。チワワ、すぐに吠えんだぜ? セクハラキャン! って言いだすんだって」
「言いだすよなあー。それがまた、たまんねえのよ」

親子(?)そろって頭にくる。
しらけた目をしながらゆっくりと頭をあげると、そこには南次郎さんと越前リョーガと越前リョーマの三人が、わたしを物珍しそうに見ていた。

「なにやってンの、アンタ……」越前選手が、ようやく声をあげる。
「すみません、越前選手、もう終わりですか? トレーニングルームに行ってもいいですか?」
「え……いいけど……え、どうかしたの?」
「いえ、お気遣いなく! 大丈夫ですので!」
「おいチワワ! もう閉館になるぞここ!」
「わかっています! ご丁寧にどうも!」つい、棘のある返事をしてしまう。ほとんど八つ当たりだ。
「かー、かわいくね……」

最後の投げられた越前リョーガのひと言には聞こえない振りをして、わたしは三人のあいだをすり抜けながらトレーニングルームに走った。
だけどそこに、万年筆はなかった。





うちの家は、決して裕福ではない。それなのに私立大学に進学してしまったわたしに文句のひとつも言わず、両親はなんとか学費を工面してくれていた。それだけでも親不孝だというのに、スポーツ記者になったとき、両親はモンブランの万年筆をプレゼントしてくれたのだ。モンブランは世界でも有名な高級万年筆メーカーだ。絶対に10万以上はする。それを失くすなんて、わたしはまた、親不孝を……。

「佐久間さん、昨日頼んでおいたチェック終わりましたかね?」
「あ、悪いけど、まだできてないんです」

翌日のことだった。夕方近くになって、年上後輩がぶっきらぼうな物言いで問いかけてきて、はっとする。
昨日はそれどころじゃなかったのだ。あれから受付の人にお願いして1時間ほど閉館を延長してもらったけど見つからなかった。帰ってからはなにもやる気が起きなかったというのに、記事が1本欠けていると編集長からの連絡があった。その記事だって、年上後輩にまかせていたはずのものだったのに、この野郎は「頼まれてませんけど」と言ってきやがったらしい! もう怒る気力も失せて、わたしが1本書きあげることになったのが帰宅後の話だ。
気分はガタ落ちだわ、腹が立つわ、それでも記事も書かなきゃいけないわ。
お前の記事チェックなんてお守り仕事をやっている余裕など、わたしにはなかったんだよ!

「いや今日、校了なんだけど」この男……敬語じゃなくなってるの気づいてるないんだろうか? パイセンだぞこっちは! 腹立つ!
「であれば、編集長か、ほかの人にチェックをお願いしてください。記事、1本欠けてたので、その仕事で時間が取れそうにないんですよ」嫌味たっぷりに返してやった。
「あーあれ……はいはい、わかりました」

なら昨日のうちに言ってくれよ、と、小声のつもりなのか、ぶつくさと、それでもはっきり聞こえてくる。ああ……殺したい。もとはと言えばお前がなあ……!

「佐久間!」
「えっ、はいっ!」

叫びだしそうになっている矢先だった。編集長がドンドンと大きな音を立ててやってくる。手には印刷されている来月号の雑誌が握られていた。
え、なんか、怒ってらっしゃる……?

「これ、まずいぞ……!」

この時点ですでに、まずいってなんのことだと、冷や汗がでそうだった。
大抵のことは笑って済ませてくれる編集長の顔が、引きつっていたからだ。

「選手の名前、間違えてる!」
「えっ……」

編集長がペラペラと雑誌をめくり、「これ!」と叩きつけるようにわたしのデスクに広げる。指摘されたページは巻頭インタビューだった。越前選手とは別の、プロテニスプレーヤー……しかも、業界内ではかなり厄介だと知られる、ベテランの、だ。
編集長の指先は、そのベテラン選手の紹介文のところを押さえていた。小さい字なので目が険しくなっていく。渡邉の「邉」が「邊」になっていた。
というかこの紹介文を書いたのって……。

「どうなってる!?」
「え……ちょ、これ、どうなってるの!?」

たしかにわたしがチェックした記事だった。でもこのときに指摘したはずだ。漢字、どちらが正しいか微妙だから校正チームに確認するように頼んでおいた。そしてその後、巻頭だからこそ最終チェックを念のために編集長にしてもらうように、指示していたのに!

「ねえ! 校正チームへの確認は!? 最終チェック、編集長には!? お願いしましたよね!?」
ぶんっと勢いよく年上後輩を見ても、ヤツは我関せずでそっぽを向いたまま、言った。「佐久間さんがOKって言ったから、自分は校了しただけですけどね」
「はい!?」
「そんな指示されたかな……」

つまりまた、「頼まれてませんけど」で乗り切るつもりなのか、首をひねりやがっている。安易に想像がつく流れに、愕然とした。
校生チームに確認を怠ったんだ。そして編集長のチェックも怠り、わたしのOKだけで校了した。なんで? 面倒だから? たしかに期限が迫っていたけど、残業すればできる仕事だったはずだ。編集長がチェックをしていたら、絶対にこんなミスは起こらない。

「もういい佐久間! お前がいながら、なにしてるっ! なんのためにメンターについてもらったと思ってるんだ!」

もう一度、「わたし、お願いしましたよね!?」と言いだす手前だった。編集長の怒号が上から降ってくる。そりゃ……わたしはこのバカのメンターだけど、こんな理不尽なことってある!?

「も……申し訳ありません!」それでも謝るしかない、わたしの監督不行き届きといえば、それも間違いじゃない、だけど……。
「もう修正できない。お詫びのペーパーを入れるが、お前はいますぐ本人に謝ってこい! いまはトレーニング中だそうだ。場所は昨日と同じテニスコート! 早く!」
「はいっ! すぐに行ってきます!」

編集長にこれほど怒鳴られたのは、入社してからはじめてのことだった。編集部の全員が同情の視線を送ってくるせいで、泣きそうになりながらバッグに荷物を詰めた。仕事では絶対に泣かないと決めていたのに、直接的に自分が起こしたミスじゃないせいか、悔しさが半端ない。

「いやあ……佐久間先輩」

まさか、そんな小声でいまさら謝ってくる気じゃないだろうな……。
怒り寸前で横を見ると、なぜか年上後輩は、ニヤニヤとしていやがった。

「ま、落ち込まず、元気だしていきましょうや」

ぶち、と血管の音が聞こえた気がした。
ブチギレる、という言葉はこの音を認知した人間にこそふさわしいんだろう。

「ふざけんなあっ!」

早く行け、と言われていたのに。

「あんた、わたしが頼んだ仕事まともにやったことある!? それでも編集経験者!? こんな絶対にあっちゃいけないミスをやらかしておいて、なにが元気だしていきましょうやなんだよっ!」
「え、ちょ……」年上後輩の顔が、一瞬にしてひきつっている。ひきつりたいのはこっちだ!
「記者ってのはね、適当にやってできる仕事じゃないの! 楽したいなら事務員にでもなりなよ! プライドだけどんどん上げやがって、不満があるなら辞めたらいい! どれだけの人間に迷惑かけると思ってんの!? あんたこの仕事ナメてんでしょ!」
「佐久間、やめろ!」編集長の声が、遠くで聞こえる。
「しょうもない記事ばかり書いて、これだってほとんどわたしが書いたようなモンでしょ! ただコピペするだけの作業しかできもしないくせに、あげく誤字だ!? そんなこともできないでなにが記者だ!」

止まらなかった。そのときにはもう、遅かった。

「……こ、これはパワハラですよ編集長! みなさんも聞きましたよね!? 上に報告します、労基にも、報告します! アンタの態度にはうんざりだ! もう我慢の限界だ!」





こんな気分のまま、取材でもないのにまさか2日連続でこの場所に来ることになるなんて。
テニスコートに到着したときには、編集長からメッセージが届いていた。年上後輩もブチギレたらしく、わたしのパワハラ問題を全社メールで社長に報告しているらしい。
呆れてものが言えなくなる。パワハラは社会問題だから、いくら状況を知っている部署のみんながかばってくれても、調査や面倒は避けられないだろう。最悪、クビだ。
ああ、もう、クソくらえ!

「渡邉選手は、いまどちらにいらっしゃいますか」
「おや、記者さん今日もなの? 忙しいねえ。休憩所だと思いますよ」
「そうですか」
「あ、万年筆は、見つかった?」
「いえ……」
「そう……うちにも、落とし物の届けがないんだよね」

お気遣いありがとうございます、と頭を下げながら、また泣きたくなる。大切な贈り物を失くすわ、年上後輩の尻拭いさせられるわ、最悪、会社はクビになるかもしれないわ……たかだか28年しか生きてきてないというのに、人生どん底を味わっているじゃないか。

「渡邉選手、すみません、いま、お時間よろしいですか」
「……あー。あの件? 何時間か前に、おたくの編集長から電話があったよ」
「はい、申し訳ございません」
「じゃあまず、どうしてこうなったかのプロセスを教えてもらっていい?」

プロセス、とは……あまりこうしたときに使う言葉として適切な気はしなかったが、わたしは丁寧に説明をした。この選手は何度も言うようだが、とても厄介だ。プレイスタイルも乱暴なのだけど、とにかく面倒な人だ。インタビューのときもそうだったが、「それどういう意図があって聞いている質問なの? 君はバカなの?」と言われたことは、一度や二度ではない。

「なるほどねえ。言い訳ばかりしてるけど、結局、おたくが悪いってわけだ」

言い訳をしたつもりはなかった。年上後輩のことすら言っていない。校正チェックが漏れていた、最終チェックを怠った。それだけをお伝えしたつもりだったのだけど。

「おっしゃるとおりです」

まあ、そちらにも最終稿は見せているはずだが。
指摘もなく、掲載OKの返事をもらっている。が、もちろんそれには言及しなかった。どうせ、見ていないのだろうし。

「どう詫びてくれるわけ? 俺に」
「それは、いま……」これ以上、どう詫びろと言うのか。
「土下座でしょー、こういうときは」
「え……」

カピ、と固まってしまいそうになる。こいつ、もうそろそろ30過ぎるはずだよね……言ってることが高校生の悪ガキと変わらないじゃないか。よくこんな性格で、スポーツ選手なんかやっていられるな……越前リョーマとの違いがすごすぎて、内心、ドン引いてしまう。
でも……そんなことで許してもらえるなら、いくらだってやる。わたしはそういう意味で、プライドが高い。

「なに? できないの?」
「できます。申し訳ありませんでした」

履いていたパンプスを脱いだ。その瞬間、ペッとなにか目の前から飛んでくる。いま膝をつこうとしていたその場所に、塊になった唾液が落ちていた。

「そこにちゃんと、頭こすりつけてな」
「……はい」

新手の風俗か……。あの年上後輩、絶対に許さない。
本当に、人生のどん底だ。これが記者の仕事か? いやいや、それでも、これも仕事のうちなんだ。いろんな感情がないまぜになって、吐きそうになるのを抑えながら膝をつこうとした、その刹那だった。
突然、目の前の渡邉選手がぶっ倒れた。あまりに早かったので、なにが起こったのか、瞬時に判断がつかない。一方で、窓に鳥が激突してくるような衝撃音が、耳に残っている。目をまるくしてその様子を見ていると、彼の頬に、テニスボールがめり込んでいた。
え……て、テニスボール? ていうかこの顔、ほ、ホラー……?

「え……」
「みっともねえ真似してんじゃねえよ、チワワ」

バッと勢いよく振り返ると、そこには越前リョーガがいた。なんでここにいるのか。
今日、このテニスコートで越前選手の練習は行われていない。彼もテニスをやっているのは知っているけど、いつだって越前選手のコーチングをしているはずなのに……ふらっと練習でもしに来ていた……? というか、だな……。

「な、なんてことするんですかリョーガさん……」
「いま、通りかかったもんだからさ」完全に伸びている渡邉選手の横から落ちたテニスボールを拾って、ポンポンと遊びはじめている。「土下座したって意味ないだろ? どうせ、掲載はされるんじゃねえのか?」
「え……ちょ、話、どこから聞いてたんですか!?」いま通りかかったにしては、詳しすぎません!?
「あー、チワワに盗聴器しかけてるからな。迷子にならないように」
「はっ!?」
「ははっ。バーカ。んなわけないだろ。地獄耳なんだよ、昔っから」

ケラケラと、越前リョーガがにっこりとわたしに微笑んでくる。そして急に、わたしの手首をつかんできた。

「えっ」
「急ごうぜ? 目を覚まされたら厄介だろ? よっと!」
「ひゃあっ!」

その行動に反応するより早く、彼は走りだした。いつのまにかわたしのパンプスをつかんでいる。そして、わたしを抱きかかえたまま、テニスコートから離れていった。





「なんですかこれ」
「俺のおごりだよ、飲めよ」
「いただけません」
「強がってんじゃねえって。たまには息抜きも必要だぜ?」

たしか、彼も今年30歳だったはずだ、と、いまさら思う。渡邉選手とはなにかで知り合いだったんだろうか。同い年なら、テニスという共通点でそういうこともあるだろう。なんせ越前リョーガはプロよりも強いと言われるほどの腕前だ。どこから声がかかってもプロにならないのは、なぜなのか。
いやそんなことよりも、この状況、なんなんだろう。ビール片手に、海の見えるベンチで。よくあるドラマのワンシーンに出てきそうな展開だけど、ときめくどころの騒ぎじゃない。
なんせ相手は、偉そうな年上男子なわけだから。

「で? なにがあったんだよ。雑誌のことは盗聴器で聞いたけど」
「その冗談やめてもらえますか。笑えません」

慰めているつもりなんだろうか。越前リョーガが、ふっと、また微笑む。気取っているな、と思う。だけど、たしかにイケメンだ。

「お前さあ、なんでそんなにツンツンしてんの? あー、俺だから不満ってか? やっぱりチビ助のほうがよかったってわけだ?」

突然に言われたその言葉に、ビクッと、素直に体が反応してしまった。プルトップを開けたばかりのビールが勢いよく流れ込んでしまい、口からこぼれ落ちそうになる。
ちょっと待ってよ……まさかこの男……マジで盗聴器つけてないよね!?

「ははっ。なんだよその反応。図星すぎるってわけだ?」
「なん、なんのことですか……違います」ち、違わないけど。
「あっそ。別になんでもいいけどな。それで? 愚痴なら聞くぜ?」

彼がそう言ってわたしに首をかしげてから、沈黙が、10秒はつづいた。
夜空を見あげはじめたかと思えば、ポケットからおもむろにオレンジを取り出し、皮ごとかじっている。りんごと間違えているんじゃないのか、と、最初は思ったけど、彼のこの姿はもう見慣れていた。
不思議だ。この波の音のせいなのか、それともビールの爽快感なのか、夜風がいつもより澄んでいるからなのか。わたしがなにも言いださないのを、ただ黙って待ってくれている、越前リョーガの優しさに触れたからなのか。
最悪の日だというのに、なんだか少しだけ、心地よかった。

「クビになるかもしれません、わたし」
「は?」
「パワハラで訴えるって言われたんです」

年上の男性に愚痴るのは、二度目のことだった。昔付き合っていた人は、3歳年上だった。そう、この越前リョーガと一緒だ。彼は入社したてのわたしの愚痴を、「甘いよ。俺なんてさ……」と、よりによって説教しはじめた。解決策を知りたかったわけではない、という女性は多いが、それは解決策でもなかった。
ただひたすら、自分の話だ。聞きたくもない苦労自慢にうんざりして、あげく説教され、これが恋人かと思うと、嫌気がさしたことを思いだす。偉そうに、上から、わたしの仕事をなにも知らないくせに、なにもかもわかったような顔をして。

「んじゃその年上の後輩の責任じゃねえの?」
「そうですけど、わたしがメンターなので、責任はわたしにあります」
「会社ってのは、厳しいんだな」首をひねりつつも、まっすぐと正面を向いて、苦笑していた。
「……リョーガさん働いたことないんですか」
「適当なバイトくらいはあるけどな。俺が会社員なんてできるタイプじゃないのは、チワワもよくわかってんだろ?」
「たしかに。まったく想像できないですけど……」皮ごとオレンジをかじるような自由人には、向いてないだろうと思ってしまう。
「でもさ」
「はい?」
「その年上の後輩にたいする、チワワの態度も悪かったんじゃねえのか?」
「え?」
「今回のことじゃなくて、これまでのことな。俺にもそうだけど、チワワはどうも、年上が嫌いなんだなってオーラがすげえよ。笑っちまうくらいな」実際に、くくくっと声をもらしている。「お前が言うようにプライドが高い男なら、感じの悪い年下女にムカつくだろうしな」

だから、仕事をまともにやらなくてもいいと? そんなことが理由になるとでも?

「ムカつくのは勝手ですけど、仕事はきちんとすべきですよね?」
「もちろんそうだろうけどさ。ただ、仕事だっていっても、結局は人間関係だろ? お前から先に拒絶してたら、相手の歩み寄りも見逃しちまうってことがあるんじゃねえの?」

ため息がこぼれおちていく。同時に、またか、と思った。
なぜ年上は説教をしたがるのか。それともわたしの年上バイアスが悪いのか。隠すこともせず、むすっとしてしまう。
越前リョーガはそれに気づいたのか、くくくっと、わたしの顔を覗きこんで、また笑ってきた。バカにしてんの?

「あ、また怒ってんな?」やっぱり、バレてる。結構、めざとい。
「怒ってませんよ……」怒ってるけど。
「見下されてるとでも思ったか?」ええ、思いましたとも。
「先に生まれたというだけで、見下されるのは嫌いなんです」本当に、たったそれだけのことで。
「それさ、勝手にそっちが見上げてるだけだって、気づかねえのか?」
「え?」

風がそよいできた思ったら、越前リョーガが目の前に立っていた。
いつのまにベンチから離れて立ち上がっていたんだろうというくらいに、まさしく、風のような人だ。
そういえばいつだって、彼はいつのまにかそこにいる。気配を感じたことがないのは、わたしが鈍いから? それとも彼が、わたしにとっては空気のような存在だった?

「なあチワワ」
「チワワって……」やめろ、というのも、もう面倒になってくる。
「チビ助になら全部、話してたのか?」
「は……?」ぐ、と言葉につまりそうになる。ピン、とわたしは背筋を伸ばした。「あの、さっきからなにか勘違いされてるようですけどっ」
「これも、お前のガッカリのひとつだろ?」

急だった。
すっと、目の前にキラキラとしたものが差しだされる。「え!」と俊敏に立ちあがって口を開けたまま、わたしは越前リョーガとそれを何度も視線で行き来した。
意味がわからない。なぜ、この万年筆を、彼が持っているのか。

「こ……どうしたんですか、これ!」
「お前が昨日から探してたの、これじゃねえの?」
「……こ、これです! え、なんで、えっ!?」
「いつも胸ポケットにあったのが無かったしな」ま、受付のおっちゃんにも聞いたけど。と、越前リョーガはペロッと舌を出して、言った。「親からもらった大事なもんなんだろ? 失くしたら大変だ」

ゾッとする。いつも胸ポケットにあるのを、見ていた? 注意深すぎないかな。しかも、なぜ両親にもらったことまで知っているの……? 背筋に変な汗が流れていく。
まさかまさかまさかマジで盗聴器……! と思って一歩だけ後ずさろうとしたものの、うしろがベンチなので動けない。
しかしそんなわたしの様子をじっと見ていた越前リョーガが、次第に目を棒にしていった。どうやら、呆れているようである。いや、呆れられたって、怖いし!

「あのな、変な想像すんなよ?」俺は犯罪者かよ。と、ぼやいている。
「だだだだだって怖……」犯罪者だったらどうしよう、と、思わず声にもれでてしまいそうだ。
「はあ……」実に、深いため息だ。「お前はそう思うだろうけど、俺は記憶力もいいんだよっ。初取材のとき、言ってたじゃねえか。まあ、お前が話してたのはチビ助だったけど」

つん、としながら、越前リョーガがそっぽを向いた。
初取材のとき……? と、曖昧な記憶がよみがえってくる。たしかに初取材のときは、挨拶で越前選手と話したけど……。

――なんかすごいペンッスね、それ。
――あ、これ……両親から就職祝いにもらったんです。せっかくなので、慣れたくて。持ち歩いてるんです。
――へえ、キレイじゃん。

そういえば……そんなことを話したような気が、しなくもない。あのときは完全に越前選手に気持ちを持っていかれちゃってたから、あまり覚えていないけど……。え、それも、地獄耳?

「て、ていうかこれ、どこで、見つけたんですか」
「あー、テニスコート玄関前の、草木らへんに落ちてたぜ?」
「え……あ」そういえば、昨日は早く到着したから、お庭のお散歩もしたような。「あの、でもいつ見つけ……」
「……それは、別にいいだろ」

なぜかむっつりとしながら、越前リョーガは目をそらした。
え、と思う。なんだろう、年上のくせに、そのかわいい反応は。やけに動揺してしまうじゃないか。いや、動揺してるのは、彼のほう?

「もしかして……探して、くれたんですか」
「……」人にツンケンするなと言いながら、彼は十分にツンケンしている。
「あの、もしかして、今日もテニスコートにいたのって……」

かぷ、と音がした。そっぽを向いたまま、黙ってオレンジをかじってらっしゃる。いまはそのタイミングじゃない、絶対に。
というか、なんで拗ねたような顔をしているんだ。そうは思っても、声がつづかなかった。あらゆる想像が、わたしのなかに駆けめぐってきたからだ。
あれだけ、わたしが探して見つからなかったというのに。この人はいったい、何時間かけて探してくれたんだろう。まさか朝から? もしかして昨日の夜も? いつも飄々として、適当なことばかり言って、わたしをチワワとからかってくるこの越前リョーガが、四六時中、あの広大なテニスコートで……。
じんわりと、胸に熱が広がっていった。感動しながら受け取った万年筆をよく見ると、失くしたときよりも輝きが増している。また、はっとした。もしかして……え、嘘でしょ……?

「りょ、リョーガさん……これ」探して見つけてくれただけじゃ、ない? 「磨いてくれたんですか」

問うと、越前リョーガがまた目をそらした。鳥を目で追っているのか、というくらい空を見ている。星すら、出ていないのに。

「……土埃にまみれたから、ちろっとティッシュで拭いておいただけだ」嘘だ。それでこんなに輝きを増すわけがない。
「……あの」なにこの人……なんか、いい人すぎない? ていうか、面倒見がいいのかな。「その、ありがとうございます」
「ま……もう失くすなよ? 俺が偶然、見つけたからよかったようなもんなんだからよ」

その下手なごまかしに、不覚にも、かわいすぎると感じてしまった。
そこは適当なんだ。そんな適当な嘘に、わたしがだまされるとでも? それも年上のプライド? 必死に探しちゃった俺、カッコ悪いとでも? 逆だよ逆! 素敵じゃないのよっ。

「なあ」
「は、はい……」

やばかった。顔が、ニヤけそうで。どうしよう、あれ? わたし、なんかときめいて……。
と、はっとしたときだった。
体が、揺れた。突然、目の前が暗くなる。人肌のぬくもりが舞い降りてきた。それが全身をかけめぐって、わたしは、これまでにないほど、硬直した。

「え、ちょ……ええ!?」
「悪い、我慢できなかった」
「ちょ、あのっ」
「いま少し、俺にチャンスあるって」そういうの、見逃さねえんだよ、俺……と、つぶやいている。
「そ……せ、セクハラですよっ!」それしか言葉が出てこない。なんで急に、抱きしめてるの!?
「チワワは……チビ助が好きか?」
「そ……」ちょ、ちょっとだけ! でもなんか、いまはそれどころじゃないっ! ていうか、チが多いんだってば!
「だとしても……俺にしよう?」

何年ぶりかの胸の高鳴りが、脈の動きが、怒涛のように押し寄せてきた。人ってこんなに急に、ドキドキするものなんだろうか。
いやいや待ってほしい、ち、チワワなんてバカにしてわたしのこと呼ぶくせに、わたしのことが、好きだったとか言いだすつもりじゃないよね!?
待って、困る! え、なんで困るの!? だってわたし、年上男は苦手のはずなのにっ……す、すごいドキドキして、頭がおかしくなりそうだっ。

「俺を恋人にしたら、あいつよりかわいいかもしれねえぜ?」
「りょ、リョーガさん……」やめて、心臓が壊れそう。
「お前、かわいい」
「は、はっ、えっ……」か、かわいげないって、言ってたくせにっ!?
「だからつらいときは、俺が守りたいって思う。傍にいたいって思う。ひとりにしたくないって思う。強がって吠えてても、本当は弱いってことも、わかってる」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいなんですかいきなりっ」やめて、もう、無理だって!
「だからチワワにしたんだけど……記者のくせに鈍感すぎねえ? 好きでもない女、あんなにかまうわけないだろ?」

絶対に……バカにしてるんだと思っていたのに。
年下だからってからかって……だけどそれは、わたしが、勝手にあなたを見上げてたから?

「要するに、な」
「リョーガさん、あの」
「伊織」
「……う」ずん、と胸に迫ってくる、この衝撃はなんだ。そんな急に名前で呼ぶとか、ずるいっ!
「俺さ」
「ま、リョーガさん待って……」
「好きだよ、お前が」

ストレートな告白に、声がでなくなった瞬間……わたしの唇に、オレンジの甘さが広がった。





fin.



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