ビューティフル_14


14.


今日は、父の命日だ。

白無垢の着付けが終わった直後に、母と景吾が一緒に控え室に入ってきた。ころころと、二人はすっかり仲のいい親子よろしく笑っている。母の背中に触れないように、それでも支えるようにエスコートしている景吾の手に、愛しさが込みあげた。いつか結婚するなら、うちの母に優しい人じゃないと絶対にダメだと思っていたから。

「いいですね、お母さん。僕の厚意を受け取ってくださらないと、僕が悲しいですから」
「ですけど……あんな素敵な新築マンション、申し訳なくて……それに、お邪魔じゃないかしら」

結婚が決まって、いまはふたりで景吾のマンションに住んでいるものの、わたしたちは門出として、新たなマンションを購入することになった。景吾はさらに、そのとなりの部屋も購入しよう、と提案してきたのだ。そこに母に住んでほしいと言う。母がOKさえ出せば、契約が完了する手筈になっているらしい。
母はこの数日、そのことで恐縮しきっている。遠慮なんかいらない、とわたしも言ってみたものの、それでも申し訳なさが先に立つらしい。これまで貧乏暮らしだった佐久間家だから、当然なのだけど。

「お母さんが近くにいてくださったほうが、僕が安心なんです。ですから、お願いします」
「そんな……ああ、どうしましょう」

とか言いつつ、すでに母は契約書にサインしているのだけど。もう少し落ち着いたら、景吾に書類を渡すつもりなのだろう。まあ、景吾がぜひそうしてほしいと言っているのだから、甘えればいいのだ。それで、景吾の気も済む。
なんせ、父を亡くしてからの母には、家族はわたししかいなかった10年。そんなわたしが嫁ぐのだから、寂しくないはずがない。その寂しさを、景吾は埋めてくれようとしていた。

「ふふ。二人ともすっかり、親子だね」
「ああ、伊織……」母が、ようやくわたしに顔を向けた。「こんな伊織の姿が見れるなんて、母さん、夢を見てるみたい」
「あははっ。ちょっと、なにもう泣いてるの」
「だって、もう、ああ、お父さんにも見せてあげたかったね……」
「……うん、そうだね」

景吾は、微笑みながら母にハンカチを手渡した。はっとする母に、「お気遣いなく」と小声で付け加えている。
いつも思うのだけど、あの別人のような猫かぶりの紳士っぷりは、いったいなんなんだろうか。あれも上流階級の教育ですか。まあ、そうなんでしょうね。

「景吾さん、本当にうちの娘でいいんですか?」おかげさまで、父の事件が本当に意味で解決に向かったこともあったから、母はすっかり景吾の虜だ。
「伊織さんじゃないと、僕はダメなんですよ、お母さん」誰だよ、お前。
「うちの娘がご迷惑をおかけすること、とっ……ても、たくさんあると思います。本当によろしくお願いします」やけに溜めてくれるじゃないか。
「はは。お母さん。もうその挨拶は大丈夫ですから、涙も、式の最後まで取っておいてください」

景吾がそっと肩をなでると、ありがとうございます、と言いながら、母は「あ、いまは本当にお邪魔よね……」と照れくさそうに出ていった。いったい、なにで顔を赤くしていたのか怪しいほどだけど、まあわたしたちの身近にこんなイケメンがいることはなかったので(父さんごめんね)、仕方ないということにしておくしかなさそうだな、と思う。

「ん? なんだ、その目は」
「ちょっとドン引きするくらいの猫かぶりだからさ、いつも」
「アーン? 俺はとくに変えてるつもりはねえけどな」
「どこが……」ツッコミどころが多すぎる。
「それにしても……」

じっとりと、景吾の視線が足の先から頭の先まで、ゆっくりと注がれていく。試着のときもそうだったけど、ちょっといい服を着たりしただけで、景吾はいつもこれをしてくる。あとは……裸になったときも。きゃあああ……なに思いだしてるんだわたし! はれの日に! 父の命日に! 不謹慎!

「な、なに?」
「俺の妻は、いい女だと思ってな」
「景吾……」

そっと、触れる程度のキスが落ちてきた。きゅん、と胸がときめいていく。妻と言われると、途端に弱くなってしまう。景吾はそれも、ちゃんとわかってる。抱き合うと、着崩れてしまうかもしれないからだろう……ぎゅっと、両手を握りしめてきた。

「も、仁王さんに、キス禁止って言われたのに……」
「ふ、大丈夫だ。わかりゃしねえよ。しかし仁王のメイクは、いつ見てもトップクラスだな」器用なヤツだ、昔から。と、つづけた。
「あの人すごいよ、本当に。プロフェッショナルすぎる」

なんなら特殊メイクとかもできてしまうんじゃないだろうか。映画の撮影のときだって、怒る芝居のときは前のカットと変わらないように、でも少しだけメイクを変えて怒った表情にしてくれるのだ。魔法使いか。

「さて、そろそろだな、伊織。はじまるぜ」
「うん。だね」
「夜まで、お前がいちばん大変だ。だがお前がいちばん、誰よりも美しく輝く日だ」
「もう、景吾……恥ずかしいよ」
「見せつけてやれよ、その美しさを。今日がデビューなんだからな」

わたしだけの、世界でいちばん素敵なプロデューサーが、ぽんっと背中を叩いた。





緊張しながらじっと出番を待っていると、すでに式場内で着席しているはずの仁王さんが、こちらに向かってきていた。

「え」
「お客さま? どうされましたか?」
「ああ、すまん。この人のメイクした仁王じゃけど」
「仁王さん、どうしたんですか?」

巫女姿のスタッフさんがソワソワしている。あと2、3分ほどで扉がひらく予定だったからだ。しかし仁王さんは、わたしの顔を見てすぐ、はあ、とため息を吐いた。

「最終チェックにと思って覗いたら、これじゃからのう」
「えっ、え? なに? なんかまつ毛とか取れちゃってます?」
「俺の目をごまかせると思いなさんなよ……キス、したじゃろ?」

スタッフさんの前で、堂々と告げられた。ええ!? と、声を張り上げてしまいそうになる。嘘でしょ! さっき手鏡でチェックしたけど、なにも変わってなかったのに! も、バレてるじゃん景吾!

「まったく、あれだけ禁止じゃって言うたのに」さっと、仁王さんがポケットから紅を取りだした。「ま、無駄じゃとは思っちょったけど?」
「う、そんな……」恥ずかしすぎる。
「お客さま、あの、間もなく……っ」
「ああ、すぐ終わる、悪いな。俺の仕事なんよ、許して」

ふっと微笑んだ仁王さんに見つめられて、巫女さんは黙りこんでしまった。出た、と思う。もう見飽きた光景でもあるのだが、仁王さんはセクシーすぎて、すぐに女性を虜にする。この、マジで恋する5秒前に遭遇するたびに、「あの、彼は婚約者いますからね?」と余計なことを言ってしまいそうになる。
さくさくっと紅の上に筆が落とされていく。手際が早くて、というか準備もよくて、呆気に取られてしまう。それにしても仁王さんは、異常に細かい。こだわりがすごすぎて、撮影現場でもメイク待ちで時間を押すくらいだった。名も売れていない新人女優だというのに、だ。肩身が狭かったことは、言うまでもない。とはいえ、それだけ仁王さんが真剣に取り組んでくれているという証でもある。文句は言えなかった。

「よし、これで完璧。じゃあ戻る。もうしなさんなよ? 跡部にもよう言うちょけ。ちゅうても、このあとする暇も、場所も、ないじゃろうけどの」
「う……」

くすくすと巫女さんたちから笑いが漏れて、せっかくの白無垢だというのに、わたしの顔が熱くなっていった。ああ、本当にむちゃんこ恥ずかしい……。

「ふふ。仲がよいのは素敵なことですよ。式でケンカされる新婚さんもいますから」
「すみません……」フォローまでいただく始末だ。「ありがとうございます」

巫女さんの笑顔とともに、仁王さんが去った直後だった。ゆっくりと、重たそうな扉が開かれる。門出にふさわしい、尊く清らかな空気が、ふわっと風に乗って肌をかすめていった。
辺りからは、流れる水の音。ときおり吹く穏やかな風に竹林の触れあうざわめきの情緒。和の格式あふれる庭園と建築は、年月を重ねることでしか表現できない風格と意匠が色濃く映しだされている。優美な雅楽が流れるなか、古きよきものを受け継ぎ伝えるこの場所に、紋付袴を着た景吾が待っていた。

「伊織、ショータイムのはじまりだ」
「うん。よろしくね景吾」

すっと、手が差し伸べられた。おしとやかに努めてそっと手を置くと、景吾が目を合わせて、ひとつうなずく。
長い廊下を、赤い和傘を持つ景吾と一緒に歩く。角を曲がったとき、歓声が遠くから聞こえはじめた。わらわらと、顔を出してスマホを掲げている親戚や仲間たち。全員が一斉に写真を撮りはじめていて、思わず笑ってしまった。

「まったく、品のねえヤツらだな」ぼそっと言いながらも、景吾はとても嬉しそうだ。
「ありがたいね。ちょ、ねえ、忍足さんの顔……」ぷふ、と声がでてしまった。
「ったく、なにをはしゃいでやがんだ、あいつは」

いつもキリッとクールな忍足さんが、少女のような顔をしてこちらを見ている。となりにいる先生も同様で、あのふたりは本当にお似合いだ。感謝してもしきれないカップルふたりの結婚はいつになるだろうと、実は楽しみにしているわたしがいる。結婚式の日にデビューを飾ろうと提案してくれたのは、ほかでもない忍足さんと先生だったからだ。
でも、その前に……今日という日に結婚式を挙げようと提案してくれたのは、景吾だった。

――え、父の命日に? でも……。
――なんだ? 嫌なのか?
――わたしたち家族はかまわないと思うけど、景吾のご家族がどう思うか。縁起が悪くないかな……。

父は10年前の今日……10月25日に、亡くなった。当時、死亡診断をしたお医者さんにもそう言われたし、なによりいまでは、スマホの録音データもそれを証明しているのと同時に、父の死は突然死ではなく、殺人だとわかったのだ。日本中で報道されてしまった事実である以上、その日に人生の節目である結婚式をあげるというのは、個人的にはよくたって、景吾のことを考えると、なんだか気後れしてしまった。

――なに言ってる。縁起が悪いなんて、佐久間さんに失礼なこと言ってんじゃねえよ。
――だけど……。
――どんな形で亡くなったにせよ、故人は盆と命日にはこの世に戻ってくるというだろ。
――景吾……。
――たとえ姿は見えなくても、俺は、俺の父親となる佐久間さんにも出席してほしい。それが、俺の願いだ。だから、いいだろ?

なんて素敵な人なんだろうと、涙があふれた。感激と一緒になって、惚れなおして抱きついたのは、1ヶ月ほど前のことだ。いや、正確には、1ヶ月を切っていた。
だからこそ、そこから映画の話が決まり、さらには結婚式の準備までしなくてはならないという状況は、本当に本当に本当に、大変だった。
映画の撮影は短期集中ということで、連日、朝早くから深夜までつづいた。朝早くといったって、6時とかの早朝だ。メイクもあるわたしは5時に現場入りしなくてはならない。そして深夜までといったって、終わるのは2時とかなのだ。帰ってお風呂に入って寝て、をするころには3時で、もうそれはほとんど朝じゃないか! と叫びたくなったのも一度や二度ではない。おかげでこの期間は、景吾がまだ財閥の仕事をはじめてないのをいいことに、わたしは甘えっぱなしだった。

――俺が車で送ってやるから、到着まで寝てろ。
――ほら、スープを作っておいたから、少し飲んで体をあっためろ。
――セリフの相手? いいぜ、どこからだ?
――大丈夫だ、お前は俺が認めた、一流の女優なんだからな。

何時であろうと、いつも起きて待ってくれていたし、何時であろうと、いつもわたしより先に起きて準備を進めてくれていた。たった2週間と言われればそうなのだが、初の仕事にしてはなかなかしんどかったのも事実だ。でも景吾がいてくれたから、頑張れた。
わたしがそんな有様だったせいで、結婚式の準備も、景吾にまかせっきり。撮影が終わったころには、すでにほとんどの段取りを景吾が決めてくれていて、さらに二次会はシゲルさんと忍足さんペアで幹事をやってくれることになったと聞いたときには、感謝で胸がいっぱいになった。
周りの愛に包まれて、いよいよ、今日という日を迎えたのだ。当然、わたしは結婚式でも披露宴でも、幸せにあふれて、泣きっぱなしだった……。





4着目のウェディングドレスはしっかりとしたブルーのドレスだった。1着目が赤、2着目が黄色、3着目が緑、そしてなう、青である。残すはあと1回。わしゃ虹か、と言いたくなるのだけども、景吾が一生懸命に考えてくれたお色直しなので、正直、体も頭も痛いが、こちらも文句は言えない。まさか自分の結婚式で5回もドレスを着替えることになるとは思わなかった。金があり余っているというのも、困ったものだ。

「それではみなさん、ご自由に前までいらしてください」

司会者の掛け声で、ぞろぞろと人が集まってくる。
入場して、ちょこちょこ余興や友人たちの挨拶をはさみつつも、時間がくると30分ほどの撮影タイムがはじまった。来場者が多すぎるせいか、これが全然、30分で終わらないのだけど。

「跡部、もっと伊織さんとピッタリくっつけよ!」

こちらもすでに4回目になるが、景吾の学生時代のチームメイトたちのご登場だ。赤い頭でムードメイカー的存在の人が、ニカニカと笑顔を向けてきていた。

「おい、押すんじゃねえよ。騒がしい野郎どもだな」
「跡部さん……本当に……おめでとうございます」臼のように大きい人が、いつも同じ言葉を口にする。
「聞き飽きたっつうんだよ、何回言えば気が済む?」嬉しいくせに、素直じゃない。
「跡部が結婚するなんて思ってなかったしいー」しい、が口癖のくるくるパーマさんは、眠そうな顔をしている。
「オレもだぜジロー、このこの跡部っ!」赤頭さんはニカニカ顔を崩さない。あかるい人だ。
「それに関しては、オレも同感だな! なあ長太郎?」
「はい! 今日は本当にカッコいいです跡部さん!」この二人はなぜか、いつも掛け合いをしている。まるでコンビみたいだ。
「アーン? いつもだろ?」
「相変わらずの俺様っぷりですね、あなたは」鋭い目つきの彼は、景吾にチクチクと物申すのだけど、どうしてだろう、なんだかかわいい。
「相変わらず、言うねー、ピヨちゃん」髪がサラサラな人がくすくすと笑った。
「その呼び名やめてもらえませんかねっ?」ほらね、かわいい。

なんだけど、口々にしゃべるものだから、誰が誰だか覚えられない。が、みな個性的でくせが強い。今度、このメンバーが我が家に来ることになっていると景吾から聞かされて少しビビってしまったせいか、わたしはずっと顎を引いて会話を聞いていた。入っていける気がしないからだ。
しかし、そんな空気をものともしない人が、正面に立っていた。こちらも本日、4回目である。

「殿方たち! 景ちゃんへのオイタがすぎるとアタシがいたずらしちゃうわよ!」
「ほれ、はよせんとシゲルさんに怒られるでお前ら」忍足さんが、ようやく声をあげた。
「やべえっ、それだけは勘弁だって!」

とはいえ、この人たちだけではない。景吾の友だちはほかにも本当に多くて、くらくらするほどの人の入れ替わりだ。それだけで酔ってしまいそうだった。
さっきから着替えるたびに仁王さんがバタバタとしているし、披露宴会場を出た途端にスタッフが走り回っているのを見て、わたしは完全に主役というよりも、裏方気分だった。

「ほらほらみなさん、撮影タイムようー! もう4回目だからおわかりよね? アタシにお・ま・か・せ! ちょっと氷帝軍団! さっさとどきなさいよう、んもう!」

しかし、このシゲルさんの自主的な計らいのおかげで、それでも混雑を防げているほうなのだ。シゲルさんはスタッフでもないのに、盛大に撮影者たちをあおりながら、みんなのスマホを受け取り撮影してくれている。お調子者のふりをしながら、本当に優しい人だと心にしみる。まったくもって、ありがたすぎる師匠だ。

「ちょっとお、伊織、このドレスも綺麗ー!」
「ああ、ありがとう。ごめんね? こんな何回も……」
「いいんだよう! もう、本当におめでとう!」

今日は小劇場時代の仲間たちも、参加してくれた。このやりとりも4回目になるのだけど、みんな笑顔で来てくれるものだから、感激してしまう。まあ、当然のように響也はいないんだけども……。

「ちょっと大根たち! さっさと並びなさい!」
「もう、シゲルさん失礼だなあ!」
「大根だったのは伊織だけですから!」
「ちょっと、それも失礼なんですけどっ」すかさずツッコむも、誰も聞いちゃいない。
「ホントのこと言ってなにが悪いのよまったく、大根! 貧乏役者! はい音痴に笑ってー!」

長い撮影時間が終わり、奥の方で、スタッフさんが大きく手を振って合図をしてきた。そろそろ、最後のお色直しの時間が近づいてきているということだ。
トクトクと、胸の奥が躍動しはじめる。景吾にまかせっきりの式だけど、この先のちょっとしたサプライズだけは、わたしから提案したものだったからだ。喜んで、もらえるだろうか。

「それではみなさま! 短いお時間で恐縮ですが、そろそろですね、新婦は最後のお色直しへと入らせていただきます」

えー、という会場の声を受けながら、司会者の方が目配せしてきた。コホン、と喉を鳴らしてしまう。なぜこんなに緊張してしまうのか、自分でもまったくわからない。が、とにもかくにも、わたしは背筋を伸ばした。

「いよいよか」となりで、景吾が小さくつぶやく。
「うん」と、景吾にも目配せをすると、彼はわたしの手を取って椅子からゆっくり立ち上がらせてくれた。「ふふ。ありがと」
「こういう演出は、必要だろ?」

景吾がチラッ、と司会者を見た。司会者もわかったのだろう、にっこりと合図を受け取って、もう一度マイクを掲げた。

「おや、それにしても少し、うしろが長いドレスですね? 付添が必要じゃないですか伊織さん? 景吾さんが、優しくエスコートされているようですが」と、司会者が打ち合わせどおりに進めている。ここで、わたしにマイクが手渡された。
「あ、はい。ちょっとわたしオテンバなところがあるので、それをなんとか守ってくださる方が必要かもしれないですね。でもその……景吾さんじゃ、ちょっと……」
「アーン? 俺じゃ不満だってのか?」

会場に笑いが起きた。わたしたちのわざとらしい、いかにもな大根演技に笑っているに違いない。

「おっと。これはトラブルですね。どうですか伊織さん? 景吾さんでは、いささか不安ですか?」
「はい、いささか、あいえ、かなり、結構、頼りなくて……」
「おい」

また、笑いが起きる。一緒に笑っていた司会者が、すっと背筋を伸ばし、BGMが変わった。
『The Origin Of Love』が会場に響きわたる。はっとした本人がわたしに目を合わせてきた。

When the earth was still flat,
地球がまだ平らで
And the clouds made of fire,
雲は火でできていて
And mountains stretched up to the sky,
山が空に向かって背伸びして
Sometimes higher,
ときには空よりも高かったころ
Folks roamed the earth
人間は地球をゴロゴロと
Like big rolling kegs.
大きな樽みたいに転がってた

そう。この曲は、ミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の中核となる歌であり、この音源も、ブロードウェイの1公演から抜き取ったものだ。

「それでは花嫁からの希望なので、退場を手伝っていただく方を指名させていただきたいと思います。新郎新婦共有のご友人である、シゲルさま、お願いできますでしょうか!」

They had two sets of arms.
見れば腕が二組と
They had two sets of legs.
脚も二組あって
They had two faces peering Out of one giant head
大きな頭には顔も二つ付いていて
So they could watch all around them
それであたりが全部見渡せて
As they talked; while they read.
本を読みつつ話もできて
And they never knew nothing of love.
そして愛については無知だった
It was before the origin of love.
愛がまだできる以前のこと
The origin of love
愛の起源

シゲルさんのもとへ、マイクを持ったスタッフが駆けつけた。シゲルさんがじっとわたしを見つめ、目をまんまるにしている。そんなシゲルさんの表情を、わたしははじめて見た。
一度、天井を見つめたシゲルさんは、Aメロが終わったころに、ふっと息を吐いてスタッフからマイクをぶんどると、叫んだ。

「やってくれたわね、オテンバ!」

直後、シゲルさんの目の色が変わった。スポットライトが当たったせいか、キラキラとしたオーラを全身にまとい、音楽に合わせて歌いながら、わたしのもとへと向かってきたのだ。
こうなると思っていた。本当にやってくれるのは、いつだって師匠であるシゲルさんなんだ!

And there were three sexes then,
そしてそのころ性別は三つ
One that looked like two men
ひとつは男が二人
Glued up back to back,
背中と背中でくっついたやつ
Called the children of the sun.
そいつらの名前は太陽の子たち
And similar in shape and girth
それと同んなじ形して
Were the children of the earth.
地球の子らというのもいたの
They looked like two girls
見た目は二人の女の子
Rolled up in one.
それが一つになったもの

体を自在に動かして、観客たちと化したみんなに目配せをしつつ、一瞬でミュージカル劇場に塗り替えられていくその圧巻のパフォーマンスには、会場中から拍手がわき起こった。

And the children of the moon
それから月の子供たち
Were like a fork shoved on a spoon.
ちょうどスプーンに挿したフォークみたいで
They were part sun, part earth
はんぶん太陽 はんぶん地球
Part daughter, part son.
はんぶん娘で はんぶん息子
The origin of love
愛の起源

やがて壮大なサビと一緒になって、シゲルさんがわたしの手を取る。まるでほかの男に連れ去られるかのような絵面に、参加者たちから指笛まで飛び出すほどだ。

That the pain down in your soul
あなたの心の底にある痛みは
Was the same as the one down in mine.
私のここにあるのと同じもの
That's the pain, Cuts a straight line
この痛み 一直線の切り込みが
Down through the heart;
心臓をまっぷたつに貫いてる
We called it love.
それをあたしたち、愛と呼んだわ
So we wrapped our arms around each other,
だからたがいに腕をまわして
Trying to shove ourselves back together.
どうにか元どおりに一つになれないかと
We were making love,
けんめいに抱き合い愛を交わした
Making love.
愛を交わした

この場にいる全員がわかっている。この歌は、シゲルさんにこそふさわしい。

「なんてことしてくれんのよっ、アンタっ」歌の合間に、シゲルさんが告げてくる。
ご丁寧に、マイクを向けてくれた。「すみませんっ、師匠っ!」
「アタシこういう、びっくりさせられるの、嫌いよっ!」
「そんな、わたしは、師匠が大好きですっ!」

マイクを向けられるたびにわたしもおちゃらけて、シゲルさんにベッタリとくっついた。どんな余興よりも盛りあがっているのは、シゲルさんのすごすぎる歌声のせいだろう。アカペラ以外ではじめて聞いたけど、しびれるほどカッコいい!

「おおお、おやおや、ええと、これはちょっと、新郎が黙っていないかもしれませんね!」と、司会者も楽しくなってきたのか、あおっている。
「おい、くっつきすぎだろ!」

景吾が最後の大爆笑をしっかり取ったところで、わたしとシゲルさんはちょうど、退場となった。
扉がしまった瞬間に、わたしとシゲルさんは盛大に笑った。そんな時間はないはずなのだけど、こればっかりは止められない。

「ああ、すごすぎますシゲルさん、今度、カラオケでも歌ってください!」
「もう、アンタは……サプライズもほどほどにしなさいよっ」
「シゲルさんに言われたくないですよ、景吾のマンションに無理やり連れて行ったくせに」
「結果的によかったってことでしょ!? アタシのおかげじゃない!」
「はい、それはおっしゃるとおりです」

佐久間さま、そろそろお願いいたします、とスタッフさんから声がかかる。控え室に行って、最後のドレスに着替えなくてはならない。
はい、と返事をしてから、わたしはシゲルさんに向き直った。

「シゲルさん、ノリノリでありがとうございました!」
「ふふ、いいのよ。さあ……オテンバ、おいで」

彼の手が、そっとわたしの頬に触れる。はっとしたときにはもう、シゲルさんの表情が、優しくなっていた。体が揺れて、静かにハグをされる。その手が離れる直前に、チュ、と軽く頬にキスが落ちてきた。ぎょっとするよりも先に、ドキン! としてしまった。
だ、だってシゲルさんは、一応、心は乙女だけど、見た目は男だから! しかもずいぶん前から気づいてたけど、この人、イケメンなんだっ。

「景ちゃん嫉妬深いんだから、内緒にしとくのよ、オテンバ」
「は、はいっ……」
「いい子ね」と、シゲルさんは微笑んで、つづけた。「伊織、今日まで本当に、よく頑張ったわ。アンタは……間違いなく、アタシの一番弟子よ」

シゲルさんはそう言って、手をひらひらとさせながら、会場に戻っていった。とんでもない、サプライズ返しだ。
呆然としていた体に、波が押し寄せてくる。これまであった、たくさんの思い出が氾濫して……わたしはそこで、ぼろぼろと泣いてしまった。





最後のお色直しで着るドレスは、純白のウェディングドレスだった。
もしも女優になれたら着ることがありそうだな、と思っていた。が、女優になる前で着ることになるとは思っていなかったから、それだけでも泣きそうだというのに、戻ってすぐにはじまった原作者スピーチでも、また泣いてしまった。メイクを整えてくれた仁王さんに、先ほどさんざん笑われたばかりなんだけど……だって先生、すごく感動的なスピーチをするんだもの。

――彼女には、ずっと傍で支えてくれていた跡部さんのほかに、この映画でも演出を担当してくださった、大師匠がいらっしゃいます。その方がおっしゃいました。『あの子を選んでくれてありがとう』と。ですが、わたしが選んだというよりも、もう運命は決まっていたように思います。今日の日のように。あなたじゃなければ、こんなに素敵な作品にはならなかったと思います。それはこの絵本の主役が、あなたそのものだからです。

忍足さんの彼女である先生は、本当にとても気さくな人で、わたしのような女優を使ってくれた。こちらこそ感謝してもしきれないのに、シゲルさんからのメッセージまでそえて、わたしにエールを送ってくれるなんて、反則だ。

――The real love is putting someone else before yourself. I wish you both happiness forever.

『真実の愛とは誰かを自分自身より優先することです。二人の愛と幸せが永遠に続きますように』
英語で告げられたメッセージの前半は、映画『アナと雪の女王』でオラフが言ったセリフだ。ミュージカル女優を夢見ているわたしにミュージカル映画のセリフを選択してくれたところも、作家先生らしい憎い演出で、しびれてしまう。

「泣きすぎじゃねえの? また仁王に笑われるぞ?」
「もう、お色直しのたびに笑われ尽くしたよ」

花嫁だというのに、みっともなくずるずると鼻をすすりながら映画を見ていると、となりに座っていた景吾がそっと席を立った。気になって顔を向けたままでいると、景吾はくすくす笑いながら、わたしの肩に手を置いた。

「もう、そんな笑わないで……どこか行くの景吾?」
「ああ、まあな」と、彼はわたしの耳もとに口を近づけてきた。「キスシーンを見たくねえから、席を外す」
「また、いつまで言ってんの」これに関しては、今後も面倒なことになりそうだなと思うわたしがいる。「たいして濃くないってば」
「そういう問題じゃねえんだよ」

ふん、と顔を背けつつも、その態度とは裏腹に、景吾は微笑んでいた。なんだかんだ言いながら、きっと忍足さんのところへ行くんだろうなと察しがつく。

「お前は? ここにいるのか?」
「うん、映画を見てるみんなの顔を観察したいから」
「だろうな。じゃ、いってくる」
「ん」

肩をぽんぽんと2回弾いて、景吾が壇上からそっと降りていく。すでに一緒に住みはじめているせいだろうか、その背中を見るだけで、彼のご機嫌や思考がわかるようになってきた。景吾はしょっちゅう、会話のなかで忍足さんの名前をだす。昔チームメイトだったときの話を聞くたびに思う。今日までずっと景吾は、忍足さんに感謝してきているって。
そのうえ、18年という月日が流れてもずっと近くで見守っていてくれて、今日という日もあんなに邁進してくれた忍足さんだ。感謝しまくっているに違いない。
どんな言葉を、かけるんだろうか。熱い男の友情を見てみたい気持ちもあったけれど、きっとそのうち先生が教えてくれるはずだと思うと、それだけで顔がニヤけていった。

90分の映画は、あっという間に終わった。
何度も観まくったというのに、飽きることなく観れる。自分が好きすぎる、と呆れられてしまいそうだけど、こんな大きなスクリーンに自分が映しだされる日が来るとは思っていなかったのだ……嬉しくて、たまらない。
そんな昂ぶった余韻を残したまま、いよいよ、披露宴も終わりに近づいていた。

「それではそろそろ、お開きの時間となります」

司会者の進行につれて、また緊張が押し寄せてくる。このあとは、新婦からの手紙があるからだ。誰かの結婚式に参加するたびに、わたしには絶対にできないと思ってものすごく抵抗したのだけど……景吾と、式場スタッフさんからの強い説得に押し切られ、なんとか3日前に書きあげた、家族への手紙だ。

「それでは伊織さん、よろしくお願いいたします」

スタンドマイクの前に立ち、ゆっくりと、用意していた手紙を開いた。会場の奥に立っている母が、すでに涙目でこちらを見ている。ほらね、こうなるってわかってるから、嫌だったのに……。読む前からわたし、泣いてるじゃんか。

「伊織、しっかりしろ」
「うん、ごめん」

情けない会話をマイクが拾ったせいで、会場に穏やかな笑い声があがった。しかしどれだけ笑われても、泣いて言葉にならなくても、これはやり遂げなくてはいけない。
背筋を伸ばした。この思いが、母に届きますように。そして、天国にいる父にも……。
見計らったように、会場が静かになった。すっと息を吸い込んで、わたしは、声を発した。

「10年前、女優になりたいと言ったとき、父さんは反対しましたね。『甘い。俳優で食っていける人間なんて、ひと握りだ』と、怖い顔で常套句を口にして、顔を合わせればケンカをする毎日でした。母さんは、それでもいつも優しかった。わたしを慰め、父さんをなだめつつも、わたしが女優を志すことに口出しせず、一方では父さんの考えも理解して、殺伐とした父娘の冷戦の日々を、笑って過ごしていました。
だけどわたしは、ご存知のとおり、言いたい放題、やりたい放題の娘です。結局は根負けした父さんが、大学の学園祭で舞台を観に来てくれたとき、本当に嬉しかった。いま思えば、きっと観に行くように父さんを説得してくれたのは、母さんだよね?
父さんはあの日、わたしに言いました。『お前、歌がうまいんだな。やってみなさい。やることに意味があるんだろう、きっと。伊織がすごく、楽しそうだった。そういう顔ができることが、大事なんじゃないかって思う。どうせ生きるなら笑ってたほうがいいだろう』と。当時、きっととんでもなく演技が下手だったわたしのような大根役者に、父さんは最後にエールをくれたんです。それが、父さんとの、最後の会話でした。

今日は、父の命日です。今日という日に結婚しようと言ってくれたのは、景吾さんでした。『命日には故人がこの世に戻ってくる。たとえ姿は見えなくても、自分の父親となる佐久間さんにも出席してほしい。それが願いだ』と言われて、胸がいっぱいになりました。景吾さんのおかげで、今日という日を無事に迎えることができました。

父さん、母さん、今日は花嫁姿を見せることができて幸せです。今日までずっと、なかなか口に出してお礼を言えなくてごめんなさい。父さんには直接聞かせることはできないけど、景吾さんの言うとおり、父さんがいま母さんのとなりで聞いてくれているはずだと思って、言います。本当に、いままでありがとう。心から、感謝しています。
父さんと母さんの娘に生まれて本当によかった。ふたりはわたしの自慢の両親です。これからどんなことがあっても、景吾さんと乗り越えていきたいと思います。

そして最後に、景吾さんのお父さま、お母さま。景吾さんを、こんなに誠実で優しい人に育ててくださって、ありがとうございます。景吾さんにはずっと助けてもらっていますが、これからはわたしもしっかりと景吾さんを支えていきながら、おふたりのように仲のいい夫婦を目指していきますので、よろしくお願いいたします」

自分でも自分の声を聞いていられないくらい、ボロ泣きだった。大きな拍手に包まれるなか、景吾に背中を押されて、わたしは景吾のご両親の前に向かっていった。花束を手渡すと、景吾のお父さんが優しく頭をなでてくれる。

「頑張ったね、伊織さん」景吾のお母さんも、ボロ泣きだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、息子を選んでくれて、感謝しているよ」お父さんは小さくウインクしてきた。
「もったいないお言葉です……」

景吾と母も、なにやら話していた。だけど、歓声と拍手が大きすぎて、全然聞こえない。
全員で握手を交わし合って、わたしたちは参加者たちに顔を向けて立った。景吾がマイクを持つ。最後は、新郎からの締めの挨拶だ。会場が、パラパラと静かになっていく。

「みなさま、本日はご多用のなか、私たちの結婚式にお越しくださり誠にありがとうございました。みなさまよりたくさんのあたたかいお言葉をいただき、感謝の気持ちと同時に、改めて身の引き締まる思いです。

伊織とは出会って、そう時間は経っていません。ですが私は10年前、彼女のお父さまと一緒に仕事をさせていただきました。責任感が強く、誠実な方でした。当時、仕事の合間にプライベートなお話をさせていただいたことがあります。『夢はなんだ?』と生意気に私が質問したのがきっかけです。ひとつは、『一度でいいからすごい値段のするウイスキーを飲んでみたいんです』とおっしゃっていた。そしてもうひとつは、『娘が幸せな家庭を築くのが夢です』とおっしゃっていたことを、いまでも思いだします。そしてもうひとつ、『娘が将来、女優になって少しでも活躍していたら、応援してほしい』と、私あてに、メッセージが残されていました……。ウイスキーは、私がおごると約束したにも関わらず、叶えることができませんでした。ふたつめの夢は、私たちが出会ったことで、この先なにがあろうとも、一生をかけて叶えつづけると、今日ここに誓います。そして最後の夢は……私だけでは叶えられないと危惧していたとき、ずっと私たちのことを静かに見守ってくれていた親友の忍足と、そのパートナーによって、叶えることができました。ふたりとも、本当にありがとう。

こうした軌跡の数々は、伊織のお父さまがいつも見守っていてくださるからだと、私はそう信じています。この軌跡を無駄にしないよう、ふたりで助け合いながら、必ず、幸せな家庭を築いていきます。みなさま、まだまだ未熟な私たちですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。本日はお集まりいただき、本当にありがとうございました」





帰宅したのは、23時頃だった。結婚初夜だというのに、色気もなくお互いが疲れ果てている。すぐにお風呂に入って、すぐにベッドに横になった。

「はあ、終わったね、景吾」
「だな……こんなに疲れたのは、久々だ」

そっと、景吾がふかふかのお布団のなかで抱きしめてくる。時計が午前0時をさしていた。
父の命日が、終わる。そう思うと、余韻がまだ残っているのか、胸に迫ってくるものがあった。

「今日はありがとう、景吾」
「ん?」
「最後の挨拶……すごく嬉しかった」

本当なら、自分の両親への感謝も伝えたかったはずなのに。メインはずっと父の話だった。それだけ景吾が、父への思いを秘めていることに、喜びがあふれていく。本当に、なんて素敵な人と結婚できたんだろうと、あらためて胸が熱くなっていった。

「あれはな、伊織……」
「うん?」
「すべて、本心だ。俺は心から、お前という存在と、お父さんに感謝している」もちろん、お母さんにもな。と、つづけた。
「うん……わたしも感謝してるよ。景吾のご両親にも、景吾にも」

静かに唇が重なる。うっとりとする甘く優しいキスが、お互いの想いを交差させるような幸せを氾濫させて、わたしたちは微笑みあった。

「ねえ、景吾」
「ん……なんだ?」
「最後の挨拶の前、母さんとなに話したの?」

景吾の鼻先をくすぐるように指先でなでると、景吾は微笑みながら目を閉じた。彼の手がわたしの髪の毛をすくって、頬を包む。あたたかいそのぬくもりに、わたしも安心したように目を閉じた。

「景吾さん、ありがとうって言われてな」
「うん……」
「あんなに身も心も美しいお嬢さんを生んで育ててくださって、こちらこそ、ありがとうございますって言ったんだよ」

ぎゅっと、手が握られた。目を閉じているというのに、自然と涙があふれていく。跡部景吾がうちの母にそんなことを言う日が来るなんて、想像もしなかった10年だ。景吾に出会ってからの数ヶ月、本当に、すべてが奇跡だった。

「まだ、夢みたい」
「ふっ……いつまで言ってんだよ、それ」
「だって……幸せすぎてどうにかなりそう」

目を開けると、景吾はじっとわたしを見つめていた。コツン、と額が重なる。これが、景吾が甘えてくる合図だとわかったのは、ついこのあいだのことだ。

「この先もっと、どうにかなろうぜ?」
「ふふ」
「俺とお前でな。誰もがうらやむ幸せな家庭を築こう。約束だ」
「うん、約束……」

お互いの胸の前で、小指を絡ませた。わたしたちはそのまま、眠りについていた。
朝起きるそのときまで、景吾とわたしの小指は、つながれたままだった……。





「オテンバ! その芝居、アンタどういうつもりでやってんのよ!」

シゲルさんの雄叫びがレッスンスタジオ中に響いた。台本を床に叩きつけて吠えている。わたしには、誰よりも厳しいシゲルさんだ。周りで見ている全俳優が、引いていた。

「それは、もちろん悩んでいる芝居ですよっ! この先どうするか、わたしには人生がかかってる!」
「講釈垂れてんじゃないわよ! アンタがやってんのは『困ってる』! アタシが求めてんのは『悩んでる』!」
「えっ!」
「いい!? アンタがやってんのは考えることの『放棄』よ! それは困ってるの! 悩むっていうのは解決への『挑戦』よ! 挑むの! 最初からやりなおし!」
「は、はいっ!」

今日は舞台稽古初日だ。2ヶ月後に公演を迎える『演出家・シゲル』のミュージカルは、発売初日5分でソールドアウト。期待値が高いぶん、出演者たちも緊迫していた。

「ん、そういうこと。言えばできるようになってきたわねオテンバ。まだ半人前だけど」
「……前に一流って言ってくれませんでしたっけ」
「生意気言ってんじゃないわよ! 嘘に決まってんでしょそんなの! 調子に乗るんじゃないわよ! このスットコドッコイ! 休憩よ! このカブ大根!」
「うう……ひどい」

大根にカブがつくとは……なんだか大根よりヤバそうで泣きたくなる。とはいえ休憩時間だと思うと気分は上々、わたしは少しご機嫌になりながら、さっと立ち上がった。
さっきまで引いていた俳優さんたちが、ちょこちょこと群がってくる。みな一様に、顔が若干、引きつっていた。

「大変だねえ、伊織ちゃん……」見ているだけでゲッソリとしてしまったのだろう。あれほどシゲルさんを怒らせるのは、わたしくらいだから。
「いえいえ、いつものことですから」
「シゲルさんも伊織さんの指導となると目の色が変わっちゃいますもんね」
「わたしがまだ半人前なので……でも、ありがたいですよ!」

話しながら、歩いていく。ロッカールームでは景吾が待っているはずだった。顔は笑って愛想よく話してもいるけれど、結構、心はズタボロだ。シゲルさんは容赦ない。この2年、彼とは腐るほど仕事をしてきたけど、いつだって容赦ない。結婚式のときに見た、あのまぼろしのようなシゲルさんは、いったいなんだったのか、と思うほどである。

「あ、伊織さんっ。外には出ないほうがいいですよ! ファンの人たちいたから!」
「えっ、あ、そうでしたか。すみません、ご迷惑おかけして」
「気にしないでー。でも稽古場に出待ちが来るなんて、さすが人気女優さんだよねえ」

からかっているのか嫌味なのかよくわからないベテラン俳優のニヤニヤに、それこそ愛想笑いで応えつつ、わたしは自販機でジュースを買うのをあきらめて、ロッカールームへと向かった。
まだ稽古がはじまって2時間しか経ってないのに、シゲルさんのしごきのせいで、キンキンに冷えたコーラが飲みたくてたまらない。

「オテンバ」
「えっ」

仕方なく、近くにある「ご自由に」の常温のミネラルウォーターに手をつけ、ロッカールームに入る直前だった。うしろから声をかけられてビクッと肩がとがっていく。まだなにか言う気だろうか、と疑りの視線を向けていると、シゲルさんは、ふん、と鼻を鳴らした。

「これ、いるんじゃないの?」
「あ……コーラ!」

キンキンに冷えているだろう缶に入ったコーラをシゲルさんが掲げている。飛びつくようにそれを受け取ろうとすると、シゲルさんは、ひょいと手を上にあげた。

「ああっ! いじわる!」
「コーラ! じゃないわよ! 小学生のガキなのアンタは!」
「くださいよう! いじわるしないでシゲルさん!」
「んほほほっ! ほうら、取ってごらんなさいっ。湯葉女っ、大根役者っ」
「ああうっ」

湯葉パンティは卒業して長いというのに、いまだに言ってくる。腕をひょいひょい上下にされ、全然、つかむことができない。シゲルさんは身長も大きいうえに筋力もすごい。いい筋トレくらいに思っているのか、わたしはことあるごとにこれをされてしまう。前はわたしが貸したサウンドトラックCDだった。わたしのなのに! というツッコミは、通用しない。

「ったく、おい! いつまで待たせやがる!」

バタバタしていると、またうしろから声がかかった。振り返らなくても景吾だとわかって、わたしはそのままシゲルさんのコーラを奪うため、ぴょんぴょんと跳ねまくった。
が、景吾とシゲルさんとわたしが3人並んだことで、それを遠巻きに見ていた端役である新人俳優さんたちから、小さな悲鳴があがりはじめたのだ。

「あら景ちゃん、アタシに挨拶もせずに、ロッカールームでオテンバを待ちぼうけ?」
「モニターから様子は見ていたぜシゲル。相変わらず張り切ってやがるな」
「シゲルさんーっ、コーラ、飲みたいっ!」

黄色い声はまだつづいていた。おそらく、ほとんどがシゲルさんと景吾に向けられているものだけど。
この2年で、シゲルさんはひっきりなしに依頼がくる演出家へと変貌し、景吾は跡部財閥を継いでいる。そしてわたしは、映画『ざわざわきらきら』の大ヒットのおかげで、恐縮ながらも忙しい毎日を送る女優になっていた。
景吾とわたしの結婚とも関連すれば、シゲルさんの演出家デビューとなった『ざわざわきらきら』は、今週、地上波初放送を果たす。その宣伝がテレビでは連日のように行われており、2年前のアレコレも、ようやくみんなが忘れ去ったころにワイドショーでぶり返されて、このところ我々3人が揃うと、新人さんたちからは黄色い声があがるようになってしまったのだ。

「はあ……うるさいわね、あの連中。ほら、オテンバ、コーラやるわよ。そのかわり、半分までしか飲むんじゃないわよ!」あとの稽古に響くからだ。承知している。
「やった! ああ、コーラ飲みたかったー!」3分の2、飲んでやるっ。
「おい伊織、お前、俺のこと忘れてんじゃねえだろな?」
「景ちゃんこそ、オテンバのことばっかりじゃない! んもう、妬けちゃうわ!」
「忘れてないない。ロッカー戻ろ?」
「そうよう、もう退散退散っ。ああもうアンタたち、うるさいわね! 静かにしなさい!」

シゲルさんが一喝して、さらに黄色い声があがった。それぞれが好き勝手なことを言いながら、自然と解散する。単純に、3人で揃ったところを騒がれるのが、わたしたちは恥ずかしいのだ。景吾はこのあいだ、「懐かしい気持ちに浸りたいんだがな」とボヤいていた。たしかに、3人でオーディション連絡を待っていたあのころが、懐かしい。いまとなっては、3人でスマホをガン見していたあの時間は、思いだし笑いをしてしまいそうになるほど滑稽なんだけど。

「景吾、今日も忙しいんでしょ?」
「ああ、これから会議だ」
「忙しいのに、わざわざ顔を出さなくてもいいんだよ?」

それでも、シゲルさんが担当する稽古になると、景吾はちょこちょこ現場に顔を出してくる。シゲルさんは「オテンバが好きでしょうがないのよ」と言うが、わたしはシゲルさんに会いたいんじゃないかな、と思っている。本人は、その理由については白状しない。たぶん、どんな理由にせよ、照れくさいんだろう。

「ああ、だがちょっとな。今日は夜、間に合うんだろ?」

ロッカールームに入った途端、景吾がぐっと腰を抱いてキスしてきた。コーラを飲んでいる途中だったので、うっかり口移しする形になった。コク、と喉を鳴らした景吾が唇を寄せたまま微笑んだ。

「シュワシュワさせてくれるじゃねえの」なんちゅうセリフだ。
「ごめん、だって。タイミングが悪いんだよ」
「アーン? 俺とのキスよりコーラが大事ってか? マジで小学生だな」

憎まれ口は相変わらずだけど、愛情が深いのも相変わらず。景吾はとびきりカッコいいけど、わたしの前ではちょっとだけかわいい。そういうところが、また好きになっちゃうんだけど。あはは。

「夜、間に合うよ。大丈夫」嫌味はスルーして、答えた。
「遅れるなよ? 大切な日だからな」

そう……今日は、父の命日だ。つまり、結婚記念日である。
去年もそうしたように、今年も不二さんのお店である『アン・ファミーユ』でディナーをすることになっていた。

「用事ってそれ?」
「ああ、いや、先にわたしておこうと思ってな」

言いながら、景吾がポケットからラッピングされた小さな箱を取り出した。去年はイヤリング。今年はなんだろうと、現金にも胸がときめいてしまう自分がいる。

「ふふ。いつもお店ではわたしてくれないね?」
「別にいいだろ、どこでわたそうが」

きっと不二さんのところでわたすのが恥ずかしいんだと思うと、とことんからかいたくなるのだけど。こういうところが景吾はかわいい。いまだってメロメロになってしまう。
手渡された箱をあけると、美しいネックレスが入っていた。今年も高そうで気後れしてしまう。同じくらい価値あるものをわたすことは到底無理なのだけど、なるべく景吾と同等でいたいので、今年は彼のプレゼントを見てから、後日わたそうと心に決めていた。

「綺麗……」
「俺の選んだものだからな、当然だ。つけるか?」
「ふふ。うん、つけて?」

景吾がわたしの背中にまわって、ネックレスをつけてくれる。直後、うしろから強く抱きしめられた。忙しい日々を過ごすわたしたちだからこそ、ちょっとしたスキンシップは大事にしている。いまだって、この腕のなかに包まれる瞬間が、たまらない。

「あ、メッセージカードある!」
「ん……それはあとでいいだろ」
「そんなあ、ここで読ませてよ」

目をそらす景吾に嬉しくなって、いじわるにメッセージカードを正面に掲げた。
そっと開くと、丁寧な文字が規則正しく並んでいる。真っ直ぐで、美しく堂々とした筆跡は、まさに跡部景吾らしい。

『いつだって美しい君へ。これからも、一緒に羽ばたいていこう』

頬がゆるんで、思わず口もとに手を当ててしまう。1年目はなんだったっけ? よくも毎年、これほどキザなセリフが浮かぶものだ。だけど、ニヤニヤが止まらない。どれほどキザでも、景吾だから似合うし、なにより、これほど愛されていることが、最高に嬉しい。

「ふふ。ねえ景吾、なんか足りない、聞きたいー」だけど、わたしにはいじわる熱がつづいている。景吾に振り返って、おねだりした。
「……本当にお前は、相変わらず贅沢な女だな?」ため息をつきながら、右眉をくいっとあげた。ああ、それもカッコいい。「俺からやすやすとそんな言葉を言うと思うのか?」

しょっちゅう言うくせに。
まったく……ここには誰も来ないからって、わたしたちも大概だ。イチャイチャしすぎ。そうは思っても、こんなに素敵な旦那さまに見つめられたら、完全にふたりの世界に入っちゃうんだもの。

「I love you so much.」
「ううう、もう、死ぬほどカッコいい!」
「ああ、そうかよ」

笑いながら抱きしめあって、この先もずっと、景吾とは幸せに過ごしていく。彼の一生の誓いを、わたしも一緒に誓ったんだもの。

「わたしも、超超超、愛してる。これからもよろしくね、景吾!」
「ふっ……当然、だな」

今日は、結婚記念日で、父の命日だ……何年経っても、こうして毎年、優しいキスで誓いあおう。
このすばらしく美しい日は、父がきっと、近くで見守ってくれているはずだから。





fin.

≠following link novel
 - Yushi Oshitari「ざわざわきらきら」
 - Ryoma Echizen「TOUCH」
 - Masaharu Nioh「ダイヤモンド・エモーション」
 - Syusuke Fuji「XOXO」
 - Keigo Atobe「ビューティフル」


下記の書籍より多くの知識をいただきました。末尾ながらここに記して厚くお礼申し上げます。

『出版業界の危機と社会構造』小田 光雄(著)論創社
『鍼灸真髄』代田 文誌(著)医道の日本社
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト(著)草思社
『モラル・ハラスメントの心理構造』加藤諦三(著)大和書房
『なぜ、あの人は自分のことしか考えられないのか―――「ナルシスト」という病』加藤諦三(著)三笠書房
『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』毎日新聞社会部(著)明石書店
『死体は語る』上野 正彦(著)文春文庫



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