ビューティフル_12


12.


あれほど恋しかった人に求められたのに、わたしは拒絶した。拒絶するしか、なかったから。

――愛してんだよ!

跡部のあんな必死な顔を見ると思ってなかったせいで、余計に動揺した。それでも彼の想いの強さに負けて身を委ねてしまったら、わたしは千夏さんのなかに宿る命を、裏切ることになる。それだけは、信念としてできなかった。

――キスは、はじめて?

跡部の傷ついた顔が忘れられないまま、わたしはシゲルさんの自宅に戻った。「おかえり」と優しく声をかけてくれたシゲルさんを見ただけで、感情を保っていられずに、泣きついた。
シゲルさんは、泣いてばかりのわたしの背中を、ただひたすらなでてくれた。なにも聞かずに、「眠りなさい、寝て忘れるのよ」と、心地よいベッドを提供してくれた。

「オテンバ、そろそろ帰りなさい。もうマスコミも、アンタを追いかけてないわ」

そう声をかけられたのは、あの日から5日経った、昼のことだった。

「そうですよね……さすがにお世話になりすぎだと思っていたところです、わたしも」
「そうよう。男も連れ込めやしないじゃない。景ちゃんも追いかけられてないし、ワイドショーもそろそろ飽きてきてるみたいだし、ちょうどいい頃合いよ」

おっしゃるとおりである。シゲルさんが本当に男を連れ込むかどうかは別として、跡部どころか、わたしもまったくのノーマークとなった。ただ、相変わらずテレビ画面には自分の姿が映っていた。夢みていた形とは違えど、いま、なんの変装もしないで外を歩けば、声をかけられるだろうと思う。自惚れでなく、真面目に。

「オテンバママのほうはどうなの?」
「はい、母もそろそろと思っていたようなんですが……田舎の空気が美味しいとかで、もう少しのんびりするそうです」
「んま、優しいママね。記者会見で帰りづらくなったんでしょうに」
「はい、だと思います……」

こちらもおっしゃるとおりである。母はあれから祖父の住む田舎に引っ込んだまま、東京には帰ってきていない。パートもずっと休ませてもらっている状態で、ひょっとしたらクビになっているかもしれないが、そういった近況を知らせるどころか、わたしの記者会見のことすら、なにも聞いてこなかった。
ただひとこと、「母さん、伊織が間違ってると思わない」と言ってくれたのだ。思いだしただけで、目尻に涙が浮かんできた。

「ちょっとお、辛気くさい顔してんじゃないわよ! 覚悟のうえだったんでしょ!」
「も、もちろんです、後悔はしてません!」
「ふん……ならいいのよ。じゃ、準備ができたら、シャワー浴びなさい」
「はい、シャ……は?」

準備します、と言おうとした手前で、あきらかにおかしなことを言われていると気づく。おかげで、あのシゲルさん相手だというのに、わたしはノリツッコミばりに聞き返してしまった。

「シャワーよ、シャワー」
「……え、なんで、ですか?」
「バカね! これから自宅に帰るんでしょう? 女優はね、いつなんどきでも、外出するときは完璧にしておくものなのよ!」
「はあ……」いやでも、もう女優としては致命的なことをしでかしたのですが……。
「アンタ! まさか、あきらめたわけじゃないんでしょう!? 覚悟とあきらめは違うのよわかる!?」
「それは、なんとなくわかりますけど。でもシャワーは……」いったい、なんの意味が?
「オテンバ。よく考えなさい。人間、寝起きで顔を洗っただけの女と、シャワーを浴びて全身の汚れを落とした女と、どっちが美しいの?」
「それは、まあ、シャワー……」
「そうでしょうよ!」大変な食い気味だ。「お正月に朝イチでお風呂に入るのは身を清めるためなのよ! つまりそっちのほうが清く美しいということよ!」

これほどの勢いでこられて、「いや、違いますよ」とも言えない。実際、お正月に朝イチでお風呂に入るのは、実はやってはいけないことなのだと教えてくれたのは、そういえば父だった。などと、関係ないことを思いだしてしまう始末だ。

「女優たるもの、いつだって美しい姿でいなきゃダメなの! わかったらとっとと入る! いつマスコミに写真を撮られてもいいようにしておきなさい!」

ええー……とは思いつつ、なんとなく逆らってはいけない雰囲気を感じとる。仕方なく、シャワーを浴びることにした。さっき、もうマスコミは追いかけていないと言ってなかったか。よくわからなかったので、顔と体だけ洗って済ませようとした。
しかしなんとシゲルさん、今度は脱衣所にまで姿を現したのだ。

「オテンバ!」
「ひゃあ! シゲルさ……ちょ、そこでなにしてるんですか!」

もちろん、シャワーを浴びている最中だったので、すりガラス越しだから見えはしない。
とはいえ、生物学的にはシゲルさんは男である。わたしは大変に大声をあげた。

「ちゃんと髪の毛までしっかり洗いなさいよ! そこにあるアタシのヘアケア使っていいから! あと、なんなのこの下着は!」
「そ……」わざわざ髪の毛まで!? ていうか、なんで下着を見ているんだっ。「シゲルさん、あんまりです!」
「バカね! いい? 下着はアタシが用意しといた。ここに置いておくからそれを身に着けなさい!」
「は、はい!?」なんでわたしの下着を、シゲルさんが用意するわけ!? 「ちょっと待ってくださいシゲルさん、なんなんですか急に!」
「急にじゃないわよ。アンタねえ、あれだけの記者会見やったのよ!? そこからはじめての外出なのよ!? もしも事故にあって救急搬送されることがあったら、服はぜーんぶ脱がされて、医者の前ですっぽんぽんなのよ!?」

そのとんでも設定はいったいなんなのだ! そんなの、一生に一度あるかないかじゃないか!

「いつなんどきでも! 女優は! 誰に見られても! 美しくなきゃ! いけないの! あんな大見得切ったぶっとびキチガイ女が、みすぼらしい姿なんか見せちゃダメよ! まったく、なんなのこの湯葉みたいなパンツは!」
「そ、履きやすいんですよ!?」なんでこんなことまで答えてるんだ、わたしも。
「アンタ! いい!? 毛の処理とかちゃんとしてるんでしょうね!」
「そ……脱毛してます、それなりに!」だが、相手が師匠だからなのか、答えてしまう自分が虚しい。
「下の毛は!?」
「し……それなりにちゃんと……してます!」
「ふん、なるほど……ならいいわ。若い男と寝てただけあるわね」
「う……」

なんとなく逆らえずに頭も洗い、言われたとおり全身を綺麗にしてから脱衣所に戻ると、タオルがあるワゴンの上に、なんともセクシーなネイビーの下着が上下セットで置かれていた。サイズがピッタリであることに驚いたのもつかの間(見たらわかったんだろうか、おそろしい眼力である)、下のほうは、なんとTバックだった。

「し、シゲルさん……む、ムズムズしますこれ!」
「はい!? アンタまさかTバック履いたことないの!?」

脱衣所からそっと顔を覗かせたわたしの開口一番に、シゲルさんはものすごい剣幕で向かってきた。これはなんの講座なのだろうか。いくら女優だからって、え、女優さんって本当にこういうもの? にわかに信じがたいんですけど……。

「履いたことないですよ、なんか、うう、変な感じ」
「まったく呆れた女ね。そんなものは慣れよ!」
「ていうか、なんかセクシーすぎませんかこれ……」
「女優なんだからそれくらい当然よ。まさかハミぼう毛ーマンじゃないでしょうね!」絶妙な業界用語に顎を引いてしまう。
「それは……」VIOラインは、お金をかけたので問題ない。っていうかそういう問題なのか。「大丈夫、ですけど」
「ホッ……ならいいわ。はあ……でもその服、全然ダメね!」
「え」家に帰るだけなので、普通にデニムとTシャツだ。
「終わってるわ。下着はアタシからのプレゼントだけど、これもあげる」
「え!?」

今度は、クローゼットからライトグリーンのワンピースを取りだしてきた。
夏らしく、フロントボタンが可愛らしい一方で、全体のラインが優雅で大人の美しさもある。さっきの下着とは打って変わって、ふんわりとした優しい雰囲気に、わたしは現金ながらも、ぽわん、と胸を躍らせていた。

「か、かわいい……ですね、これ」
「そうでしょ。アンタはイエベスプリングだから、こういう色のほうが似合うわ」
「い、イエベスプリング……?」
「知らないの? まったく女として致命的よ。終わってる。そんなだから本物のぶっとびキチガイ女に出し抜かれるのよ! とっとと着替えなさい。それが終わったらヘアメイクよ!」
「え……いやあの、シゲルさん、こんなにたくさんいただけませんよ!」

しかもヘアメイクまでしてくれるというのだろうか。記者会見のときもしてもらったけど、今日はなんだというのだ。

「ヤボなこと言わないでよ、オテンバ。今日はアンタの旅立ちなのよ!」
「え……」

いつもの大きな手振りで、シゲルさんが、わたしを見据えていた。心なしか、レッスンのときよりもその目がギラギラと真剣味をおびているように見える。そして、「旅立ち」というその言葉に、わたしはうっかり胸を打たれていた。これは、シゲルさんの最後のレッスンなのかもしれない、と思ったからだ。
今後、女優として脚光を浴びることはないだろうが、心は女優であれ、ということ? よくわからないけど。

「アタシからの指導は今日で終わりよ。ここまでよく頑張ったって激励なんだから、全部、受け入れなさい。いいこと? 全部よ!」





1時間もしないうちに終わるはずの準備は、2時間近くかかって、ようやく終わった。
シゲルさんが呼んでくれたタクシーのトランクにキャリーバッグを放り込む。
乗り込む前、「お世話になりました」と頭をさげると、シゲルさんは微笑みながら、「ま、次は飲みにでも行きましょ」と手をひらひらさせて部屋に戻っていった。その仕草は、これまで見たシゲルさんのなかで、いちばん女らしかった。
流れる景色のなか、窓に映るキメこんだ自分の姿に笑いそうになった。記者会見のときは濃い派手なメイクをしてくれたシゲルさんだけど、今日は淡い優しい雰囲気に仕上げくれている。たしかに、女は着る物やメイクひとつでいくつもの顔になれるんだなと思い知らされた。なるほどこれが女優としての最後の指導だというわけだ。女優はいくつも顔を持っていなきゃいけないのだから、見た目の研究をもっとすべきかもしれない。
平日の昼間だからなのか、道はそう混んでいなかった。
だからなのか。それともシゲルさんとの師弟関係を感じる別れの余韻に、ぼうっとしていたせいなのか。わたしはしばらく、道順が間違っていることに気づいていなかった。

「あの、運転手さん」
「はい?」
「道、間違ってらっしゃいませんか? なんか、方向が……」
「いや、言われた目的地に向かってますよー?」
「え?」

タクシーはシゲルさんが呼んでくれていた。「もう料金も払っておいたわ」と言っていたから、おそらく配車サービスを使っているのだろう。だからこそ、目的地は言わずとも勝手に車が動きだしたのだ。
しかし運転席の中心にあるナビを覗くと、やっぱりうちとは真逆に向かっていた。シゲルさん、わたしの住所、間違えて教えてないだろうか。これじゃシゲルさんが損してしまうのだけど。

「もう着きますよー」
「は?」

シゲルさんの自宅から、このタクシーはわずか5分程度しか走っていないはずだ。着くわけないだろうと思っていると、タクシーはそのまま、見覚えのあるタワーマンションの地下駐車場に入っていった。
そしてようやく、はっとした。
完全な、デジャヴだった。バカみたいに大量な食材を部屋まで運んだ、あのときのデジャヴだ。というか、それからわたしは二度もこのマンションに来てるんだ!

「そ、ここだって言われたんですか!?」
「ここだって設定されてますからねー。あ、あの人かな。出迎えもあるって言ってましたよ」
「ちょ、え……」

タクシーが停まった。わたしの座席の扉が、容赦なく開く。停まる前から、窓から見えていたからわかってる。わかっているけど、全然、目を合わせることができない。これはいったい、どういうこと……? 

――全部、受け入れなさい。いいこと? 全部よ!

あのオカマ……! こういうことだったのか!

「おせえぞ、伊織」

そこには、跡部景吾が立っていた。





跡部はピクリとも動こうとしないわたしの手首をつかんで、強引にタクシーから引きずりだした。

「ちょっと、痛い!」
「うるせえ」

あげく手首をつかんだままトランクを開けて、片手でやすやすとキャリーバッグを取り出した。キャリーバッグとわたしを引きずったまま、とっととエレベーターに乗り込んでいく。高級マンションには性能のいいエレベーターもセットなのか、最上階までの道のりはあっというまだった。そのあいだもずっと、わたしは「ねえ、なんなの!」と問いかけているというのに、跡部は質問を完全に無視したまま足早に廊下を進んでいった。

「跡部ってば! 入りたくない!」とうとう、部屋の前にまで到着してしまったではないか。
「うるせえ。黙ってられねえのか」
「こんな拉致みたいな真似されて黙ってらんないよ!」

ただでさえ、跡部の顔を見るだけでつらいのに……どういうつもりでこんなことしてるのか、意味がわからない。なにを言われたってわたし、跡部と結ばれるなんて絶対にできないんだから……!
その思いをぶちまけようとしたとき、部屋に引きずり込まれた。
刹那、時間が止まる。玄関の奥につづく広いリビングルームの扉は、開け放たれたままだった。そこに、千夏さんがいたからだ。となりには、誰かはわからないけど、まるで千夏さんを見張っているかのような強面の男性が一緒だった。
状況が、全然、把握できない。それよりもこの、重々しい空気は、どういうことなのか。わたしは口を開けたまま、棒立ちになった。

「悪いな。痛かったか?」

そう言って、跡部はようやくわたしから手を離した。それよりも、穴が開くほど千夏さんに見つめられて、わたしはたじろいだ。その目が、深海の底に沈んでいるような暗闇をまとっていたからだ。

「なにこれ」

それが、千夏さんの開口一番だった。それを言いたいのはこっちだったけれど、声を発することもできない。このあいだまで見ていた千夏さんとは、別人に見える。全身から、淀みのようなものが溢れていた。
やはり、重い……なにがどうなっているのか、思考がまったく追いつかないまま、千夏さんがまた、口を開いた。

「こんな見張りまでつけて、どういうつも」
「俺はお前を捨てて、伊織と付き合う」
「ちょ……ちょっと跡部!」

跡部の発言に、わたしはさらにたじろいだ。有無を言わせない強さで、はっきり、きっぱりと言っている。待ってほしい、そんなことなにも決めてない。
しかし、咄嗟に出たわたしの声など二人には届いていなかった。

「景吾、まだわかってないんだね……」
「なにがわかってねえんだ?」
「この子のこと忘れたわけじゃないんでしょう!?」

千夏さんが自分のお腹に手を当てて、跡部に叫んだ。そのとおりだ。わたしですら、跡部にあれほど訴えてきたのに。跡部は……跡部景吾という男には、そんな残酷な決断は似合わない。
だが、そんな思いを再確認したのは、この瞬間までだった。

「なら、説明しやがれ」
「はあ?」

跡部がおもむろに動いたかと思うと、見張りをしていたんだろう男性から、いくつかの書類を受け取った。直後、千夏さんの前まで行き、立ちふさがるように背筋を伸ばす。
直後だった。跡部がものすごい勢いで、その書類を千夏さんの体に投げつけたのだ。

「きゃっ!」
「跡部!」

あまりの修羅場に、ひゅっと自分の息が吸い込まれていく。千夏さんの目が大きく開くのと同時に、わたしもいつのまにか、千夏さんの前まで進んでいた。
千夏さんの体が心配になったからだ。妊婦さんに、過度のストレスは絶対によくない。だからこそ、跡部のしたことが信じられずに、千夏さんに駆け寄った。
が……千夏さんは、書類に目を落としたまま、固まった。静まり返った部屋で、千夏さんがごくん、と喉を鳴らす音だけが響いた。

「……これは」

あきらかに、声が震えている。
それは、恐怖からくるような、怯えた声だった。

「お前の武器はもう消えたぞ。3億の件も、お前が野瀬島に話してマスコミにリークさせたんだろうが」
「えっ……?」

今度はわたしが固まる番だった。咄嗟に、床に散らばっている書類に目を落とした。そこには、いくつかの妊娠検査薬やエコーの写真と一緒に、誰だかわからない顔写真と、署名捺印された書類があった。
まさか妊娠が……嘘だったということ?

「野瀬島と利害が一致でもしたか? 俺もずいぶんとナメられたもんだな」

跡部の声を聞きながら、わたしは落ちていた書類を、自然と一枚もちあげた。ゆっくりと、目で追っていく。ある程度の覚悟はしたつもりだったが、その内容に、脳みそがぐらぐらと揺れそうになった。

『佐久間伊織と跡部さんを引き裂くには有効です』
『絶対にバレることはないですね?』
『お話したとおり、こちらからも条件が』
『跡部景吾を失墜させる情報がひとつだけあります』
『例の件、お話できますか』
『明日17時、いつもの場所でお待ちしています』
『物品そろいました。おわたしします』
『野瀬島さん、佐久間伊織も失墜させてくれませんか』

野瀬島と千夏さんのやりとりは、ところどころ読んだだけでも、吐き気をもよおした。
でも、書類にあったのはそれだけじゃない。エコー写真、陽性反応が出た検査薬の発注メール、たしかに売ったという証言の数々、仕入れ先ルート……そのすべてが記載されていた。どれも、あきらかな反社会組織から野瀬島克也へと行きわたり、それが最終的に、「吉井千夏様」宛となっている。

「なんで……じゃあ、赤ちゃんって言ってたのって」わたしは思わず、口にしていた。
「この女は妊娠なんかしてねえよ。保険証をたどっても、産婦人科にかかった記録すらない。それなのに、こいつは俺だけじゃねえ、親や友だちにまで妊娠を偽って、なんとしてでも俺との結婚を成立させようとしやがった」
「……だって、だって景吾が!」
「俺がなんだ? 結婚後に、流産したとでも言うつもりだったのか?」
「景吾はあたしのものなの! 全部あんたのせいじゃない!」

千夏さんが、鬼の形相でわたしを見た。カチカチと、頭のなかで音がする。
わたしはいろいろなことを、思いだしていた。要するに千夏さんという女性は……シゲルさんが、見抜いていたとおりだったというわけだ。

――あの高慢ちきはね、オテンバのことずーっと熱っぽい目で見てる景ちゃんに我慢ならなくなったのよ。そうに決まってる。

だから、こんな手を使い、親や友だちにまで妊娠を偽って、跡部と結婚しようとした? そのための交換条件として、跡部を、野瀬島に売った……?
おかしいじゃないか。あなたが憎いのは、わたしだけのはずじゃないの?

「だからって……なんで……あなた跡部のこと、愛してるんじゃないの!?」

全身に怒りの震えが噴出し、わたしも声が震えていた。
シゲルさんとよくよく話しながら、3億のリークについてはそうかもしれないと思っていた。それでも実際そうだったと知れば知るほど、わからなくなる。
わたしだけじゃなく、跡部まで陥れる必要が、どこにあったというのか。

「愛してるわよ! それをあたしから奪っていこうとしたのはあんたじゃない!」

ドン、と体が強く押された。バランスを崩して倒れそうになったところを、跡部が支えてくれる。
見張りのような男性が、すぐさま千夏さんの腕をつかんで制止した。

「跡部……」
「離してよ! そうやって、景吾はこの女ばっかり!」
「それ以上はやめておけ。俺が容赦しねえぞ」

跡部が、千夏さんをしっかりと睨みつけている。それは千夏さんも同じだった。愛し合っていた二人とは思えない視線の交差に、息が詰まりそうになる。
いや……愛し合ってなどいなかったんだ。跡部のほうはともかく、千夏さんは、跡部のことを、愛してなんかいない。愛してる人に、こんなこと、できるはずがない。

「もういい。そろそろだ」
「え……?」

そこから、わずか数秒後のことだった。ガチャ、という玄関が開けられる音と同時に、ドドド、と激しい足音が聞こえてきた。わたしは驚きのあまり、体をビクッと震わせて、跡部の胸にしがみついた。
だって、黒ずくめの男性たちが部屋のなかにわらわらと入ってきたのだ、怖いじゃないか!

「な、なに……っ」
「まあ、見てろ」

ぽんぽん、と跡部がわたしの背中を叩くのと同時に、彼らは無表情で千夏さんの前に立ちはだかった。その先頭にいる男性が、スーツの襟をピシッと整える。
そして、まるでロボットのように口を動かした。

「吉井千夏さん。警視庁の者です。お話を聞かせていただきます」
「ちょ……ちょっと、景吾! なにこれ!」
「詐欺罪だ。週刊誌に偽造した通帳を見せ3億の振り込みがあったとリークし、金銭を受け取っただろうが」
「そ……そんなこと、あたしはしてない! 野瀬島が!」
「アーン? バカかてめえは。言い訳なら、そこにいる警察にしやがれ」
「景吾! 野瀬島から近づいてきたの! 今度のことだって、あたしが望んだわけじゃない!」
「どうでもよすぎるな……」視線を斜め上にして、跡部はうんざりとしていた。
「行きましょう、吉井さん」
「景吾!」

叫びながらも、千夏さんが何度も跡部を振り返る。警視庁の人たちに腕をつかまれて、そこから逃げようと無理やりに体をねじらせていた。
ひどく無様だった。まるで2時間ドラマの真犯人にハメられたエキストラのようだ。人間、本当に崖っぷちとなると、ああいう動きをするんだなと、どこか冷静に考える自分がいる。
それはこの頭のなかに、さっきから湧きあがっている怒りがあるからだと気づいたとき、わたしは声を発していた。

「待って!」
「……伊織?」

跡部が不安そうな声をあげたけれど、わたしはそれを無視して、引っ張られている千夏さんの前まで歩を進めた。
警視庁の人たちが、なにかを察したのか足を止めてくれる。ドラマでもそうだが、実際にもそうしてくれるとは思っていなかった。しかしおかげで、腕をつかまれながらも、千夏さんにはわたしを睨む余裕ができていた。
ちょうどいい。どうか警視庁の人たち、そのまま、その腕をしっかりつかんでいてください。
心のなかでそう言って、わたしは目の前にある頬を、平手で思いきりぶん殴った。

「つっ……なにすんのよ!」
「わたしが邪魔だったのはわかった。許せないけど、百歩譲って、このさい跡部にしたこともいい」
「いいのかよ……」と、跡部が小声で背中からツッコんでいる。黙って。
「だけど、絶対に許せないことがある」
「はあ!?」

まだ噛みつこうとする目の前の女を、わたしはもう一度、思いきりぶん殴った。
スラムダンク的にいえば、さっきのは跡部のぶん。そしてこれは、ご両親のぶんだ!

「あなた親にまで、同じ嘘をついたんでしょう!? わたしはそれが許せない! 自分の親をなんだと思ってるの!? そんな親不孝者、跡部に愛されなくて当然よ!」

同じような演技依頼がきたら、きっともっとうまくできるのに……と後悔するほど、わたしの声は、うるさすぎた。





「景吾さま、それでは私はこれで」
「ああ、面倒に巻き込んで悪かったな。調査も完璧だった、さすがだ。ボーナス、期待しておいていいぞ」
「いえ、それには及びません。失礼いたします」

非常にスマートに、見張りの男性は千夏さんが連行されてから、すぐに出ていった。
二発も人を殴ったせいで、手のひらが悲鳴をあげている。今回の記者会見で参考にさせてもらった古畑任三郎も、たしか木村拓哉が演じた爆弾犯を殴ったときに手をぶんぶん振っていた。そう、あれは自然の行為だったのだ。わたしもいま、手のひらをぶんぶんと振っている。

「さて」

見張りの男性を玄関先で見送った跡部が、わたしに振り返った。
じっと見つめながら、距離を詰めてくる。なにがなんだかわからない展開で頭が混乱していたけれど、この目に見つめられると、一瞬で胸がときめきはじめるのだから、不思議だった。

「これでもお前は、俺を拒むのか?」

気づくと跡部が、目の前まで来ていた。そっと、右手で頬を包まれる。

「……普通、ここまでする?」ほとんど負け惜しみで、そう言った。
「こうでもしねえと、お前、俺のものにならねえだろ?」
「跡部……」
「お前が俺の言うことを信じるなんて保証は、なかったからな」
「だからって……」
「それなら、こうするのがいちばん手っ取り早い」

言いながら、跡部の唇が静かに重なった。すでに一度は交わしたキスだけど……5日前とは比べものにならないほど優しくて、愛しい。あのときだって愛しかったけど、同じくらい、背徳の苦しさで胸が痛かった。
ぎゅっと抱かれた腰が、あたたかい。首に手を巻きつけるのだって、許されるんだ。
そう思ったら、涙がでてきた。

「跡部……好き」
「……最初からそう言えよ」
「だって……ゆ、夢みたい」
「ああ……俺もだ。だが夢じゃねえ。だから、泣くな……」

何度も重なる唇から、お互いの熱がもれでていく。跡部がそっと、キスをしながらわたしの頬を拭った。
たしかめるように全身をなでていく。その心地よさに酔いしれて、体まで熱くなってきたときだった。とても自然に、だけど突然に、わたしの体が、ふわっと浮きあがった。

「ひゃっ」

驚いて、思わず声が出ていた。
が、跡部はなにくわぬ顔をして、すたすたと奥の扉のさらに奥の扉へと進んでいく。
もしや……と感じた。そしていまさら合点がいったわたしは、本当に女としての自覚が足りないかもしれないと、実感していた。
まさか朝からシゲルさんがあれこれ世話を焼きまくったのは、これを予期してたってこと!?

「あ、跡部っ」
「アーン?」
「ちょ、ま、まさか、するのっ?」
「するに決まってんだろ」

堂々と答えた跡部が、いちばん奥の扉を開けた。そこに、キングサイズベッドがどっしりとかまえている。完全にベッドルームだと思うと、じんわりと熱くなっていた体中の血が一気に沸騰するほど緊張してきた。

「ま、待ってよ跡部」

と、一応、言ってみた。
だけど跡部は全然、聞く気がないらしい。問答無用だと言わんばかりに、ドサッとベッドに寝かされた。跡部が覆いかぶさっているこの状況が、まったくもって信じられない。

「俺はな、伊織」

じっと、切ない目でわたしを見おろしている。その目に、息が止まりそうになる。
そ、そういうのずるいと思う。ただでさえイケメンなのに、そんなつらそうな顔されたら、断れない……いや断るつもりあるかって言われたら、ないんだけど……。

「俺は……この寝室に、人を入れたことはない」
「……え?」
「ここはマスターベッドルームだ。これまで何人かと付き合ってきたが、ここにだけは、誰にも立ち入らせなかった」

胸が、急激にバクバクしてきた。そのベッドルームに、なんでわたしがいるの? と、聞きたくても聞けずに、口をつぐんでしまう。
やがて、太陽に照らされていた日当たりのいい部屋の窓が一斉に暗くなり、薄暗い照明だけがわずかに残っていった。
いつのまに……ああ、ダメだ。跡部に見つめられるだけで、体、もう溶けそう。

「理由はわからねえ。自分が潔癖なだけだと思ってた。だがな……伊織」
「は、はい……」
「お前のことは、この寝室で抱きてえんだよ」

その直後、さっきまでの優しいキスとは違う、熱くて、うっとりするようなキスが落とされた。
歯列をなぞった跡部の舌が奥に届いてきて、わたしはその舌を、愛でるように吸った。
体が、ふわふわしていく。キスだけで、ビクビク反応しちゃっている……それがとても、恥ずかしい。

「ン……景吾……」

それでも、ずっと呼びたかった名前を、ついに声にだしていた。
呼ばれた跡部が、少しだけ目を開いて唇を離す。彼は沈黙していた。じっとわたしを見つめながら、また、切ない表情になって。

「……って、呼んでも、いいかな」控えめに問いかける。
「ああ……呼んでくれ」と、彼は微笑んだ。「ずっと、お前にそう呼ばれたかった」

チュッと、また、優しいキスが落ちてくる。

「景吾、信じられない……」
「かもな……だが俺はもう、お前だけのものだ」

わたしだけの、景吾が……首のうしろに手を回して、体ごと抱えこんだ。
ちゅうっと吸いつくようなキスを、何度もくり返す。ときどき目を開けて見つめ合っては、唇を離して、ふたりで微笑んだ。

「キス、好きか?」
「うん……好き。景吾は?」
「俺も好きだ。伊織とのキスが、好きだ」

フロントボタンが、ぱちぱちとはずされていった。景吾の舌が首筋を伝っていく。少しだけ体を起こされて、ブラジャーが静かにほどかれた。ふわっと自分の胸があらわになって、すっかり欲情したわたしも、景吾のシャツに手をかけた。されるがままの景吾がわたしの胸に、カプッと唇を寄せる。もう一方の胸も大きな手で包みながら、先端を指先で優しくつまんできた。

「あっ、やっ」
「や、じゃねえだろ? いいって言えよ」
「あんっ……ごめ、ああっ……景吾」
「ん……気持ちいいか?」
「う、うんっ」

景吾は裸になったあと、もう一度わたしの上に覆いかぶさった。
ドク、ドク、という、少し早い胸の音が、ダイレクトに伝わってくる。景吾も昂ぶっているんだと思うと、呼吸が荒くなった。
そのままするっと、下着の上から中心がなぞられた。あの指先がそこにあると思うだけで、腰が浮いてしまう。

「すっかり、よくなってるな」

クチュ、と音がした。あああ、恥ずかしいけど、嬉しい。

「う、だって……ああっ」
「もっと、とろけさせてやるよ」

中指で花弁の中心部を何度もこすりながら、上にある蕾の部分に親指を立ててカリカリと揺らされた。頼りない布がつるつるとすべって、景吾の指が、ときおり直接皮膚に当たった。頭がおかしくなりそうだ。

「あ、あっ、景吾……や、あ」
「ほう……? またずいぶんと、大胆なの履いてんだな」
「えっ、あ、そ……」

それはシゲルさんが、とは、ここでは言えない。なんなら、ちょっと感謝してるくらいだ。
細い布の横から、景吾の指先が、今度こそはっきりと皮膚に触れた。ぬぷ、という音と一緒になって、そっとナカに入っていく。
Tバックだとわかったせいか、景吾は上の蕾だけ、布の上から焦らすように揺らしていた。

「なんだかんだ、お前も十分、その気だったんじゃねえか」
「ち、違っ……」
「アーン? てことは毎日こんなの履いてやがんのか、おい」

急に、ムッとした顔で奥のほうをまさぐってきた。ふくらんだ柔らかいところを、何度も何度もなでられる。そのたびに、ビクン、ビクン、と脚が震えた。

「は、ああっ……景吾」
「あ? どうなんだよ」
「え……そ、どうって」

いつもは湯葉みたいなのです、とも、ここでは言えない。しかも毎日Tバック履いてたら嫌なんだ? 謎だよ、なんで怒ってるの? 興奮してたくせに。

「や、あっ……ち、違うけど……はあ、ン、あ……あんっ」
「けど……?」
「ああっ、景吾、待ってっ……そんなにしたら、すぐに……!」
「待たねえ、言えよ……けど、なんだ?」

音が激しくなっていた。ぷちゅ、ぬちゅっと、景吾の指先が動くたびに、はっきりと耳に届いていく。気持ちよすぎて、自分がどんどん大胆になっていくのが、嫌というほどわかった。

「あっ、ああっ……嬉しい、景吾に、あっ、だ、抱かれて」

ごまかしついでに、本音がもれでてしまった。狙ってたわけじゃなくても、ずっとこの腕に抱かれたいと思ってた。それが嬉しくて、体がこんなに喜んでる。指だけで、どうにかなりそうなほど、気持ちがいい。

「や、は、イッちゃう……!」
「いいぜ……許してやる」
「あ……ンン!」

キスをしながら、景吾の指先の動きがもっと激しくなった。足先がピンと伸びて、わたしは呆気なく果てていた。ピクピクと小刻みに揺れるわたしを見つめながら、チュポッと、景吾が指を抜く。舌先と指のあいだでツツ……と糸を引きながら、さっきまでわたしのナカに入っていた中指を舐める景吾に見おろされて、頭が、爆発しそうだった。

「……かわいい声、出してくれるじゃねえの」
「えっ」

そのまま、景吾の頭が股のあいだに落ちていった。硬くなっている舌先が、布の横からすべりこんでくる。ぬるっとした感触が肌に伝わって、また、腰が浮きあがった。

「ひゃっ、あっ、ああっ……!」
「綺麗だな、伊織……ここ、すげえふくらんでるぞ」
「や、はあっ……景吾……あ、ま、またっ、イッちゃう……!」

わたしが揺れるせいで、ベッドがギシ、と音を立てる。くるくるとかきまぜるように舌でころがされた蕾から、今度はぐっと強く、花弁のナカに舌が押しつけられたのと同時に、景吾の舌からも、じゅ、ちゅうっと音がした。

「なに我慢してんだよ、イケよ」ちゅる、とまた、音を立てる。
「あっ、や、景吾……っ、待って、あっ」

やんわり視線を送ると、景吾も股のあいだから視線を合わせてきた。じっとわたしを見つめながら、その指先が胸の突起に伸びてくる。キュッと指のあいだにはさむようにして、両方の胸が揺さぶられて、わたしの体に、またしても限界がきていた。

「あっ、景吾、い、イッちゃう……!」
「愛してる、伊織……」

ぐり、と舌先がもう一度ナカに押し込まれた瞬間に、わたしはまた、果ててしまった。しつこくもビクビクと体が揺れて、膣の奥がキュンキュンとうずきだす。イッたことくらいあるけど、短時間で、イキすぎじゃないかな……こんなに気持ちいいの、はじめてだよ……。

「あ……ああ、景吾」
「ふっ……キスしてやろうか?」
「ん……」
「ちょっと待ってろ。口の周りがベトベトだ」と、笑いながら足もとのシーツで口を押しつけて拭いだした。なああ!
「ちょ……もう! やだっ!」なんという辱めだ!
「ははっ、そう怒んなって。かわいかったぜ?」

微笑んで、頭を包み込んで、頬をなでながらキスを送ってくれる景吾がまぶしい。
ゆらゆら舌を転がして、甘噛みするようにお互いの唇を吸いあった。ああ、なんて幸せなんだろう。

「大好き、愛してる、景吾……」
「ん……俺も愛してる、伊織」
「景吾も、よくなろう?」
「ん?」

くるっと体勢を変えるように、今度はわたしが景吾に覆いかぶさった。少しだけ困惑した瞳が愛しくて、唇を首筋に移動させる。胸もとやお腹にキスをくり返しながら、わたしは景吾の熱い部分をまさぐった。
理解した景吾が、「はあ」という吐息とともに、わたしの頭をそっとなでる。
早くよくしてあげたくて、付け根から登っていくように舌をすべらせた。すでに濡れてる先端に短いキスを何度も送ると、わたしの唇につながって、ツー……と糸がひかれていく。
景吾と、ばっちり目が合った。つい、嬉しくなる自分がいる。

「はあ……なに、見せつけてやがる」
「景吾、感じてくれてるかなって」
「……あんま、いじめんじゃねえよ」
「ふふ。ごめん……」

口のなかに唾液をたっぷり含ませてから、わたしは屹立を咥えこんだ。だらしない音がもれでるのと同時に、景吾の手が、わたしの腕を、頭を、何度もなでていく。

「はあ……ンッ」

そのまま、付け根の下に位置するふくらみにも舌をはわせながら、痛くないように口に含むと、景吾の腰がビクビクとうねった。

「あっ……ン、ああ……伊織」
「景吾、気持ちいい?」
「ん……気持ちいい。なあ、こっちに来い」
「え……まだ、終わってない」
「そうじゃねえよ、そのまま、脚をこっちに持ってこいって意味だ」

つまりアレを、やろうということだ。わああああ、と、処女のように慌てそうになる。
はじめてのエッチでやるにしてはかなり大胆だと思いつつも、わたしはおずおずと、景吾の顔の前に臀部を突きだした。この肌が触れ合う気持ちよさに、恥ずかしさがまったく勝てない。

「ったく……信じられねえくらい、エロい下着だな」
「う……興奮、する?」
「ああ、ほかの男の前で履いてたとしたら、殺してやる」
「そ、怖……あっ! ああっ……ン!」

ぐっと、景吾がわたしの腰を落とすように抱え込んだ。そのまま、また舌が花弁に転がっていく。容赦なく指まで突っ込まれて、うしろから責められる快感に身をよじりながら、景吾の大きくなった熱も、同じように愛した。

「ん、んんっ……は、ああっ」
「あっ、はあ……お前、もう二度と、あのガキと寝るんじゃねえぞ」
「そ……あっ、んん、そんなこと、しないよっ」
「お前……最後にあの野郎と寝たの、いつだ……」
「そんっ……あっ、はあっ」

グリグリと押し込まれる指が、さっきよりも強い。けど、気持ちいい。どうしようもないな、わたしも。

「言えよ」
「ん……ああっ……」どうしよう、正直に答えなきゃいけないのかな。「に、2ヶ月前、くらい?」
「チッ……クソが」
「景吾だって……彼女いたじゃんっ……あ、ああんっ、いいっこなしだよお……!」
「俺はそれよりも、もっと前だっつうんだよっ」

景吾ってもしかして嫉妬深いのかと思ったら、それもまたゾクゾクして、どれだけ強くされても、濡れていくのがわかった。Mなんだろうか、わたし。
だけどもう、耐えれない……次にイクなら、景吾で、イキたい……。

「ね、景吾っ……」
「はあ……アーン?」
「も、ほしい……」

顔だけうしろに振り向いて脚をどかしながらおねだりすると、景吾が唇を拭いながら、静かに起き上がってきた。枕もとにあったゴムを口でビッとやぶり、わたしにキスしながら装着する。

「……挿れてやるから、上にこいよ」
「わ、わたしが挿れるの?」
「ほしいんだろ?」
「うん……」

景吾に抱きつきながら、下着をそのままに少しだけ腰をおろそうとすると、ぎゅっとお尻をつかまれて、一気に腰を落とされた。

「ひゃっ、ああっ!」
「ン、ああ……すげえいい……あったけ……」
「景吾……あっ、ああっ」

ぬちぬちっと、景吾の熱いものが、奥に入ってくる。そのままわたしを抱きかかえるように、景吾はベッドに仰向けに倒れた。
うまく動けないわたしをよそに、景吾は下から何度も突き上げてきて、そのたびに、ずちゅ、と音がする。ああもう、ぐちゃぐちゃにされたい。

「あ、あんっ、や、あっ、気持ちいいっ」
「ああ……俺も、すげえいい……伊織、キスしようぜ」
「うんっ、ン、ン、あっ」

舌をだし合って、とろけるようなキスをする。強く抱きしめながら、景吾はずっとわたしの頭を、愛でるようになでてくれた。

「かわいいな、伊織……」
「ん、あっ……ほ、ホント……?」
「ああ……世界一かわいい」

押しつぶされてる胸がじわじわと汗をかきはじめる。恥ずかしくて少しだけ体を離すと、そのまま胸の突起が円を描くように舐められて、またイキそうになっていった。

「はあ、伊織……好きだ」

わたしを見あげる景吾の目が余裕をなくしていて、これ以上ないほど愛しくなる。きっとすごくだらしない顔をしてるけど、それでも好きだって言ってくれる景吾が、大好きで、たまらない。

「あっ、あ、景吾……っ、わたしも好きっ……大好き……ああっ」
「く、ンッ……はあ、伊織」

ぐるん、とそのまま逆さになった。景吾が背筋を伸ばして、体が離れていく。わたしの下着に手をかけて、脱がせるためだ。
つながっていた体が離れたせいで、どことなく切ない気分に襲われた。景吾を見あげると、ふっと微笑みながら、わたしの頬を優しくなでる。

「そんな泣きそうな顔すんなよ……すぐやるから」
「ごめ……なんか、寂しくて」
「こんなに愛し合ってんのに、なにが寂しい?」

いじわるに笑って。顔中にキスを落としながら、入る場所をたしかめるために花弁に指をあてる。トントン、と合図するように、中指がそこをくすぐってきて、気持ちいい半分、思わず、くすくすと声をあげた。

「あははっ、も、なに」
景吾も、くすくすと笑っている。「お前のここ……気持ちよすぎて、すぐにイッちまいそうだ」
「そんなの……出していいよ?」
「ダメだ。もったいねえだろ……せっかくお前を抱いてんのに」
「景吾……」
「ここに、挿れて……」じわっと、指が侵入した。「もっと何度も、奥まで突きあげてえだろ?」
「あっ……!」

ずぷんっと、なんのためらいもなく、景吾の熱が入ってきた。ぎゅっと景吾がわたしを抱きしめて、ゆっくりと揺れていく。

「景吾っ、あっ……ンッ、愛してる」
「愛してる、伊織、俺も……あ、はあ……っ」

景吾のがナカでこすれるたびに、目に涙が浮かんでくる。
気持ちいいのと、嬉しいのと、幸せなのと、ひとつになって愛されてる喜びで、もう、ネジが飛んでしまいそうだ。

「イッちゃいそ……景吾、もっ」
「はあ……なら、一緒にイクぞ……伊織っ」
「あっ、奥、気持ちいっ……ああっ」
「ん、はあっ……あふれるくらい、出してやるよ」

肌が重なる音が強くなって、そのぶん、わたしと景吾は激しく熱く、抱き合った。
何度も唇で愛を交わしながら、お互いの想いをたしかめて……果てたあともしばらくずっと、そのままキスを、くり返していた。





「今日、このまま泊まってもいいの?」
「あたりまえだろ。最初からお前を帰す気なんかねえよ」

景吾のあたたかい胸のなかで、わたしはぼんやりとこれまでのことを考えていた。
あんなに嫌っていた人を、こんなに好きになってしまうなんて信じられない一方で、あんなに嫌っていたからこそ、その反動が激しいのかもしれないと思う自分もいる。

「景吾、わたしのこと抱く気、満々だったんだ?」
「お前も抱かれる気、満々だったろうが」
「もうー、だから、違うってばあ」
「ほう? にしてはやけに積極的だったがな?」

じゃれ合うように何度も重なる唇が気持ちいい。まさかあの跡部景吾と、こんなに愛し合うことになるとは、思ってもいなかった。
それもこれも、全部、はじまりは父の死からだと考えると、図々しくも不思議な縁を感じてしまう。
おかげで、すっかり忘れていたことを思いだした。景吾とは結ばれたけれど、まだ、残っている問題があるってことに。

「ねえ、景吾」
「ん?」
「お願いがあるの」
「なんだ? 言ってみろ」

わたしの顔が真剣になったせいか、景吾も真剣な表情になった。そっと前髪をすくうように顔をなでながら、じっと静かに見つめてくる。

「父のスマホをね、わたし、形見で持ってるんだけど」
「……スマホ?」
「父が亡くなる直前まで使ってた古いスマホなの。そこに、亡くなった日のボイスメモが入ってることに、こないだ気づいたんだよね」
「なに……?」
「うん。けど、誰と誰の声なのか、よくわからなくて。ただ、それを聞いてる途中に、3億のニュースが流れてきたから、そのままになっちゃって」
「……そうだったのか」
「うん。長いの、それ……1時間、くらいだったかな。最初の数分しか聞けてないんだけど、つづき、ひとりで聞くのが、ちょっと怖いんだ」
「今日の荷物のなかに、あんのか?」

景吾が少しだけ、身を起こす。ぶんぶんと首を振ると、そうか、と少し残念そうにつぶやいて、わたしをそっと抱きしめてきた。

「明日、ここに持ってくるから……一緒に聞いてくれる?」
「ああ……わかった、そうしよう」
「ありがとう、景吾」
「なに言ってる……それを言うなら、俺のほうだ」
「え……」
「ありがとな伊織。俺を信じてくれて」

幾度となく注がれた熱い眼差しが、また、注がれていく。
ようやく結ばれたわたしたちの夜は、お互いの想いをぶつけあうように、長く、長くつづいていった。





偶然に発見したボイスメモの再生を押すのは、今日で二度目になる。
リビングにあるソファの上で、わたしは一度、大きな深呼吸をした。となりに座っている景吾が、背中をなでてきた。「大丈夫か?」と優しい声でささやいたあと、わたしたちは見つめ合った。

「……大丈夫」
「ああ、お前のタイミングでいい」

ここになにが残されているのか、お互いが、なんとなくわかっている。なにもないかもしれない。それでも最後に父が遭遇した景色が音となって残っていることには、変わりないのだ。

「うん……じゃあ、再生するね」
「ああ」

ジー……と、またあの音が流れはじめた。ガサゴソと、服にこすれるような雑音。ガタ、ガタ、と、椅子の引かれるような音。
聞き取りにくいその声たちに、景吾とわたしは、慎重に耳をすました。

「こんなところに顔を出していいのかよ親父」
「親父と呼ぶな。お前を息子だと認めたことはない」
「ああ、そうだな。だから俺はいまでもこのとおり、この世に存在しない人間だよ」
「……お前、誰のおかげで生きていれると思ってる」
「その恩なら返してやってるだろ。こんなゴミ溜めみたいなところで働かせやがって」
「うまくやってるんだろうな。進捗を聞かせろ」
「どこにあるかわかんねえんだよ」
「なんだと?」
「現場監督の佐久間が邪魔だ。書類のある棚に鍵がかかってやがる」
「その鍵を、佐久間という男が持っているのか」
「そうだよ。目的のものを手に入れたとして、今度はそれを捏造して元に戻さなきゃならないんだろ? なんでそんな遠回しなことしなきゃなんないんだか」
「言ったろ。この建設の最高責任者は跡部景吾だぞ? まだハタチのピチピチの坊っちゃんだ。財閥を陥れるならいましかない」
「ふんっ……そんなこと言われてもな。俺にはなんの関係もない話だ」
「俺にだって関係あることじゃない。だが跡部財閥は、なんとしても潰さなきゃならないんだ」
「親父さまがそこまでするのには、相当な理由があるんだろうな? 金か? 籠沢の社長に、相当な恩を売られてんだな、アンタ」
「……いいか。佐久間が邪魔なら、好きにしろ」
「はあ? 好きにしろって、どういう意味で言ってんだよ」
「そのままの意味だ」
「おいおい。いくら俺がパイプ持っててもさ、そんな簡単に動くような連中じゃないんだよ、ヤクザは」
「誰がヤクザを使えと言った。お前は得意じゃないか、そういうことが。お前が俺の息子にしたのは、そういうことだろう」
「……はっ。なんで俺がアンタのためにそこまで。それに、手を下したのは」
「貴様、警察に突き出されたいのか」
「やってみろよ。そのネタだけじゃないね。俺がアンタの言いなりになってんのは、例の件とは別に、金を恵んでくれるからだ。俺が捕まってみろ。お前のことも一緒に自供してやるよ」
「はははっ。バカだなお前は。それこそ、やってみろ。誰が信じるんだ? お前みたいなクズを」
「クズはお前だろ。自分の息子を、二人も葬れるんだからな」
「貴様、もう一回っ」
「待て、いま誰か……」
「なにっ……誰だっ!」

心臓が、バクバクとうなっていた。となりにいる景吾の拳が震えている。
音声はここでむちゃくちゃになっていた。誰かを追いかける音、大きなドアの開閉音。それらが10秒ほどつづいたのち、ついに、父の声が聞こえた。

「うっ!」
「佐久間……アンタ」
「い、いまの会話は、うっ……ぜ、全部、聞かせてもらったよ、野瀬島くん」
「おい克也、そのまま戻るぞ!」
「クソッ……!」

わたしはここでようやく、男のうちのひとりが、野瀬島克也だと気づいた。
その驚愕に浸る暇もなく、また扉の開閉音がする。服が擦れる音も、大きくなった。これは、父の服に入っていたものだ。作業着にいくつもつけられているポケットのなかでも、下半身側、いちばん奥のジッパーつきのポケットに、このときから入れていたのだとわかった。

「あなたたちは、いったい、跡部さんになにをしようとして……うっ」
「デカい声を出すんじゃねえ! ああ? ……ぼっちゃんの言いなりだよな、アンタ、最初から」
「く、やめ……」
「克也、そこまでにしとけっ」
「う、ぐ……」
「バカなのかアンタ。この男を生かしておけると思」
「離せっ、離さないかっ!」
「クソッ、佐久間!」
「あなたは……執行役員でしょう!? なにを考えてる!」
「くっ、なんだ、平社員が、俺にたて突くのか!?」
「九十九さん! あなたの件は、絶対に報告させていただきますよ!」
「ふざけるなっ!」

ドゴン、と大きな音がする。しばらくもみ合っていたのか、父と、九十九と呼ばれた男のあいだで、雑音が大きくなった。

「おい、親父! な、ぐ、クソ、佐久間っ、暴れてんじゃねえっ!」

そこでなにかにぶつかるような派手な音がして、そのまま、しばらく唸り声が聞こえていた。
九十九という男の声が慌てるように入ったが、それよりも物音がすごくて、わたしは父の身に起こったことに、体が震えはじめていた。
人と人がぶつかりあう音じゃない。人と人が暴れて、なにかにぶつけあっているような音だった。

「ってえ……クソ……はあ、おとなしくなりやがった」
「……殺したのか」
「落としただけだ。それこそ、こういうのは得意なんでね。は、ははっ……ああ、アンタのおかげで、こんなこと覚えてもなんの役にも立ちゃしねえと思ってたが、割と使えるんだな……クソ、首が痛え」
「……克也、鍵をさがせ」
「ああ?」
「いや、その男を好きにしてからでもいい。とにかく、俺はもう帰る。あとはお前でなんとかしろ」
「おい……後始末を俺にやらせる気か? 元はと言えば、アンタがこんなことに来なけりゃなあ」
「いいか、どんな手を使ってもいい。その男を黙らせろ」
「おい、わかってんのか? お前はいま、完全にまたひとつ、俺に弱味を握られたんだぞ? このままこの男が死んでみろよ。最初に手をだしたのはアンタで、指示したのもアンタだ」
「それを、なんとかしろと言っているんだ」
「はっ……親父さまよう。こうなってくると話が違ってくるぞ。見返りはなんだ?」
「……後日、話しに来い。お前はお前のすべきことをしろ」

カツカツと、靴音が遠ざかってく。そこからはしばらく無音だった。1分も過ぎるとじれったくなって、わたしは液晶に表示されている周波数の動きを凝視しながら再生部分をスワイプした。30分ほど送ったところで、液晶の周波数が波打っている。咄嗟に手を止めると、それは水の音だった。むせかえるような、父の声もしている。そのたびに、野瀬島は言った。

「汚えなあ、早く飲み込めよ」

死んだ虫を捨てるような、物言いだった。
わたしは両手を、口もとに当てていた。景吾は、体を震わせ、頭を抱えていた。
これは父が殺されている音だと、わたしも景吾も、わかったからだ。なにを飲まされているのかわからなくても、それだけは、はっきりしている。
やがて、またいくつもの物音が通り過ぎていった。そこから数分ほど、無音がつづいた。もう、スマホを持つことすらままならないほど、手が、震えだす。
ついに、終わりまでわずかというところまでポインターが進んだときだった。突然、父の声が再生されはじめたのだ。

「跡部さん……かはっ、は、はっ……!」

はっとした。頭を抱えていた景吾も、勢いよく顔をあげる。わたしたちはもう一度、スマホに向かって、慎重に耳をすました。
咳払いを長くつづけたあと、また、父の穏やかな声が、スマホから静かに聞こえてきた。

「跡部さん……ああ、私は、死ぬようです……なんだか、体がひどく……しびれています」

ひゅっと、景吾の息をのむ声が聞こえる。目を大きく見開いたまま、景吾はスマホを凝視していた。わたしも、自分の両手を握りしめた。父は最後に、景吾へのメッセージを残していたのだ。

「……きっと、これは跡部さんが……見つけてくれると……信じてます……。気を……つけてください……。九十九と、バイトの……の、野瀬島……あなたを……り、利用して……はあ……。でも……大丈夫です……か、か、鍵は……見つからないところに……安心、してください……。ああ、跡部さん……ふふっ……高いウイスキー……飲みたかったなあ……。はあ、はあ……その、約束は……いつか、……あの世で、お会いできたら……お、お願い、します……あ、はあ、ああ……あのね、跡部さん……。う、はあ、うう、うちの娘……じょ、女優になりたいん……だ、そうです……。き、今日ね……今日、……娘の晴れ舞台が、ありましてね……ははっ……ああ、はじめて、見たんですよ……。かはっ……ああ、それが……演技が……下手くそで……ははっ、はあ、はあ、でも……う、歌がね……うまいんですよ……お、親バカなのか、なあ……はは、ああ……でも、うまかった……。ああ、あ、跡部さん、……私の夢をひとつ……あ、跡部さんの……は、はあ……夢に、してくださるって……い、いっ、……言ってくれました、よね……はあ、はあ。……あ、あの……図々し、お願いを……はあ、ああ、……し、してもいいですか。……も、もし、も……もし、これを……はあ……ああ、聞いてから……う、うちの……うう、うちの娘が……どこかで……す、少しでも……活躍……していたら……はあ、はあ……跡部さん……応援して……、はあ、……や、や、やってください……お願いします……。はあ、はあ、それと……はあ、母さん、伊織……ご、ご、はあっ……ごめんなあ。父さん、ヘマし……ヘマ、しちゃったよ。……元気でい」

そこで、録音は切れていた。
ずいぶん前から、激しい動悸と嗚咽が、わたしを襲ってきていた。でも、録音が切れたことで……それは堪えきれないように、体中から飛びだしていった。

「け、景吾……」
「伊織……」

支えてほしくて景吾に向き直ると、景吾が強く、わたしを抱きしめてきた。
その目からも、ひと筋の涙がこぼれ落ちている。お互いが体を震わせながら、なぐさめ合う。涙声の吐息だけが、わたしたちを包んだ。

「すまない伊織……お前の言うとおりだった」
「え……」
「佐久間さんを殺したのは、結局、俺だ……」
「そ……そんな、景吾、違うっ」

景吾の頬に手を当てて、わたしはその涙をぬぐった。どれだけ後悔してもしたりないと言わんばかりに、景吾はわたしの肩に頭を埋めた。

「俺が、調子にのって経営に手さえ出さなければ……佐久間さんは……」
「やめて景吾、そんなふうに、自分を責めないでよっ……景吾のせいじゃない、絶対に、景吾のせいじゃないんだから」

肩に落ちてきた黒髪を、さらに強く抱きしめる。目の前の景吾が自分自身を呪い、怒っていた。
その怒りを鎮めるように、わたしは何度も景吾の頭に、頬を寄せた。




そのまま、長い時間が過ぎていた。
悲しみにくれたわたしたちは、抱き合い、お互いを支え合って、ようやく落ち着きを取り戻しはじめていた。
景吾の額が、コツン、とわたしの額に重なる。彼はまだ後悔に歯をくいしばりながら、そのまま、じっとわたしを見つめた。

「伊織……」
「うん、なに? 景吾……」
「……俺と、結婚してくれ」

突然のプロポーズに、わたしは目をまるくした。
驚いたわたしに笑うこともなく、景吾は切ない目を向けたまま、わたしの体をそっとなでた。瞳が、揺れている。

「そ……あの、な、なん」
「佐久間さんの夢が、俺の夢だからだ」
「え?」
「佐久間さんと仕事をしているときに、話したことがある。夢はなんだってな」

――跡部さんには、絶対にグランドスラムへ行ってほしい。私の夢が、またひとつ増えました。
――ほう? 佐久間さんのほかの夢はなんだ? 聞かせてくれよ。
――いや、お恥ずかしいです……。
――いいじゃねえの。たまにはそういう話もしたいんだよ、俺も。
――うち、跡部さんと同じくらいの歳の娘がいるんです。娘がいい人と結婚して、幸せな家庭を築いて……。
――なるほど、それで孫を抱かせてくれたらって?
――はい、本当にお恥ずかしいですが。
――いい夢じゃねえの。その夢も叶えるために、これは絶対に成功させよう。成功すれば佐久間さんは安泰だ。その佐久間さんの夢、俺も自分の夢のひとつに追加しておく。
――はい! 頑張ります! ありがとうございます!

「いい笑顔だった。俺はたしかに、あのとき佐久間さんと約束したんだよ」
「景吾……」
「いま、ここに、佐久間さんがいる気がする」
「え……」

景吾が、部屋のなかを静かに見わたした。

「俺とお前で、悪党どもの証拠を手に入れた。ようやく佐久間さんの願いが叶った。この瞬間、佐久間さんはきっと、この場にいる」

それは、景吾らしくない発言だったけれど……わたしの胸には、とても強く響いてきた。それがいまの、景吾の願いなんだ。
人の命は、遅かれ早かれ、いつか終わる。だからときに約束は、永遠ではない。それでも景吾は、亡くなった父との約束を、永遠にしようとしていた。

「だからこそ、いま言いたい。伊織……俺と結婚して、幸せな家庭を築いてみねえか?」
「景吾……っ」

泣きながら頷くことしかできないわたしの頬に、景吾のキスが落ちてくる。
そのキスは、悲しくて、切なくて、でもたしかに誰かが見守ってくれているような、あたたかさのあるキスだった。
やがて、ふうっと、景吾が仕切り直すように呼吸を吐いた。赤くなっていた目も、みずみずしい透明感を取り戻してきている。少しホッとしたようにその顔を見あげると、景吾の眉根が、ぎゅっと険しくなった。

「モタモタしてられねえ。伊織、行くぞ」
「え、ど、どこ……」

正直、個人的には、もう少しプロポーズの余韻に浸っていたかった。
が、景吾が父の形見であるスマホをさっと取り上げて立ちあがったとき、なにかに弾かれたように、冷静な怒りがよみがえってきた。

「お前が再会したマル暴にだ。たしか、不二の店の前だったと言ったな?」

静かに頷く。
わたしも全身の力を込めて、ソファから立ちあがった。





to be continued...

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