ビューティフル_11


11.


「お前は自分のことだけ考えればいい。財閥の対応は俺のほうでやっておくから」
「聞かねえのか?」
「ん? なにを?」
「理由だ。なぜ、こんな勝手な真似をしたのか」
「なにお前、聞いてほしいの?」
「いや……そういうわけじゃねえが」

普通は聞くだろうが、こういうときは。

「どうでもいい。事実か虚実か、それがわかればいいだけだ。事実ってんなら、お前なりの理由があったんだろ?」
「親父……」
「いいか景吾。こういう場合、敵は近くにいる。心当たりがあるなら早めに手を打つことだ」
「ああ、わかった。悪いな親父……」
「おお? らしくないねえ景吾。親はな、子どもの迷惑には慣れてる。その責任をとるのが親の役目なんだよ。じゃあな」

親父はそう言って、すぐに電話を切った。伊織に電話をかけたかったが、誰が敵かはっきりわかっていない状況が、俺をためらわせた。盗聴の可能性もあるからだ。
クソ……たかだがチケットを買うという欲求のためだけにやった戯れが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。響也とかいう野郎に偉そうに講釈を垂れたくせに、伊織の妨げになってんのは、俺じゃねえか……情けねえにも、ほどがある。

「常務、どうされますか? お車は裏口に手配しています。マスコミも、そこにはいません」
「悪いな。すぐに移動する」

3億の件は俺と伊織のなかだけのことだった。ほかに知っていた人物は、千夏しかいない。
俺は、千夏に電話をした。

深夜0時を回ったころだった。ちょうど伊織との電話中に物音がして振り返ると、千夏がそこに立っていた。
それでも、「お前の声が聴けて安心した」と、電話越しの伊織にためらいもなく口にした。ほぼ確信していたからなのか、それとも目の前の女が、俺を睨みつけていたせいか。
電話を切り、俺が口を開こうとする前に、千夏は言った。

「あの人には、優しくささやくんだね、景吾は」
「……千夏、ニュースのことはもう知っているな?」
「ねえ景吾、いまの電話と態度が豹変してるの、自分で気づいてる?」

嫉妬のかたまりが俺に投げつけられてくる。これまでも幾度となくそれは投げつけられてきたが、これほど直截的だったことは一度もない。
わかっている、心変わりをした俺が悪い。だとしても、ここまでする必要があったのか。

「3億のことを部外者で知っていたのはお前だけだ。心当たりがあるんじゃねえのか?」
「部外者……あたし、景吾の奥さんになるのに、部外者なんだ?」
「千夏っ!」
「そうだよ、あたしだよ! あたしに決まってるじゃない!」

俺が声を荒らげた瞬間、千夏は叫んだ。
あっさり認めるとは思っていなかっただけに、俺のなかで、なにかが崩れていった。
開き直りやがった……つまりこの女の正気の境界線は、すでに振り切っていたというわけか。

「事実を公表しただけでしょ。なにが悪いの?」
「お前、言ってたよな? こんなことがバレたら、大変だと」

――戻ってきたからいいようなものの、こんなことがほかの過労死案件の遺族にバレたら、大変だよ!?

「それがわかっていながら、お前は週刊誌にバラしたってことか?」
「あたしのせい? やったのは景吾でしょ?」
「ああ、もちろんただの遊びであんなことをした俺が悪い。だがそれを、なぜ公表する必要があった? どれだけの影響があると思ってる?」
「じゃあ聞くけど、あたしへの影響は無視なの!? 景吾、いっつもあの人のことばかりだよ! あたしの体のこと、考えてくれたことある!?」

妊娠を訴えかけるように腹に手を当て、千夏は噛みついてきた。
たしかに俺の心は伊織に持っていかれちまってる……それでも、妊娠している千夏の体のことは、十分に考えていたつもりだ。
だが千夏にとって実際に考えていたかどうかなんて、問題じゃねえってわけか。
当然だよな……それとは別のことで千夏を傷つけていたのは事実だ。だとしても……。

「なあ千夏、こんなことをして、お前になんの得があるってんだ?」
「決まってるでしょ! 景吾とあの女を引き裂きたかったの!」

すべては、そこにある。幾度となく反省したところで、もう遅い。この結果を招いたのは、俺自身だ。目の前の女はどんな手を使っても、俺を手に入れようとしている。
だがな千夏……こんなことをされて、俺がお前を愛せると思うか……?

「なぜだ……なぜ最初から俺にぶつかってこなかった?」
「ぶつかってどうなるのよ! 力ずくにでも引き裂かないと、どうにもならないじゃない!」

悲鳴のような千夏の声に、俺は目を瞠っていた。交際をはじめて3年、喧嘩はいくらでもしたが、これほどヒステリックに責められたことはない。頬が震え、髪を振り乱して爆発している。
こいつはいつから、こんな女になっていたんだ……それも全部、俺が見逃していたということか?

「あの人を女優にするためだかなんだか知らないけど、動画が拡散されて、あたしがどんな惨めな思いをしてるかわかる? 景吾はあたしの婚約者なのに、ほかの女にうつつを抜かしてるって、友だちにも親にも責められて、あたし妊娠してるのに、気が狂いそうよ!」
「だからといって……俺だけならまだしも、財閥を潰す権利も、彼女の夢を奪う権利も、お前にはない」
「あの人があたしから景吾を奪う権利だってないじゃない!」

最初は純粋にいい女だと、その見た目だけに惹かれた。いつのまにか付き合うようになり、お互い仕事が忙しいなかで、1ヶ月に一度くらいは会いながら3年が過ぎた。
胸がやけつくような激しい恋心はなかったが、居心地は悪くなかったはずだ。
だが、いまの千夏は……嫉妬に苛まれ、そのためならなにをしてもかまわないと、全身で訴えかけてきている。俺が、こんな女にしたのか。それとも最初から、こんな女だったのか。
シゲルの言うとおりだ……悪いのは俺なんだろうが、こいつが、鬼に見える。

「千夏……」
「景吾はあたしの婚約者でしょ!? あたしがいちばん大切なはずでしょ!? なのにどうして、あの人のことばかりかばうの!?」

嫉妬の鬼だ……こんなことに、伊織を巻き込んじまった。俺の後悔が、俺自身を蝕んでいく。こんな状態になってまで、つづけられるはずがない。もっと早く、別れておくべきだった。

「もういい……別れよう。悪いが、もう無理だ」
「は……?」

お互い限界であることは、わかりきっているはずだ。伊織との約束を忘れたわけじゃない……だが、こんなことをしでかした女と結婚できるほど、俺は自分を貶めることができない。
いくらこの女の腹に俺の子どもの命が宿っていたとしても、愛し合ってもいない夫婦のもとで育つくらいなら、どちらかいないほうがマシに決まっている。
子どものためにもそうしたほうがいいという俺の思いは、このとき、確信となっていた。

「子どもをどうするかは、俺がとやかく言える立場じゃない。だが、お前とは結婚できない。結婚以外の責任ならすべて取る。子どもを育てるのが俺でもかまわない」
「なに……なに言ってるの、景吾」
「ほかに好きな女がいる。お前の想像どおりだ」

きっぱりとそう言った瞬間、千夏は俺の頬を打った。
女に殴られたのは、はじめてだが……ここまで俺を落胆させた女も、はじめてだった。
そうして俺のことを、最初から殴ればよかっただろうが……その痛みを伊織にまで背負わせる必要が、どこにあったってんだ……っ。

「結婚するの! あなたは、あたしと結婚するの! 絶対に別れたりしない!」
「千夏……」
「冗談じゃない! 子どもはどうなるの!? かわいそうじゃない! あたしのお腹には、景吾の赤ちゃんがいるの! あなたの責任は、あたしと結婚して、父親になることだけよ! それ以外ないの!」

どこまでも……それが千夏の武器だ。そして、俺の障壁……吐き気がしそうだ。
この事実が、俺をどこまでも苦しめやがる。

「俺の心変わりがお前を苦しめたことは謝る。そんな体にして、自分がどれほど醜いことを言っているかも自覚している。それでも俺はお前のとった行動を、どうしても許せねえんだよ」
「あたしは……あたしは景吾を愛してるの! だからしたんじゃない! どうしてわかってくれないの!?」
「千夏、もうお前もわかってるだろ? 無理なんだよ!」
「景吾は一瞬の熱に侵されてるだけよ! 目を醒まして!」

千夏は俺を突き飛ばし、逃げるように部屋を飛び出していった。
一瞬の熱か……ああ、もしかしたらそうかもしれねえな。だとしても、俺はお前を、もう愛せはしない。お前はそんな俺と、なぜそんなに結婚がしたい……?
そう問いかけたところで意味がないことも、十分に、わかっていた……。





越前から着信があったことに気づいたのは、その数時間後のことだった。
俺のニュースを見て心配したんだろう越前を安心させるはず電話で、俺はまた、違う問題に混乱することになった。

「野瀬島って人が治療院に来てるらしくって。芸名らしいっス……保険証が本名でしょ?」
「……なんだと?」
「本名は九十九……なんだったかな」
「まさか……九十九、淳一か?」
「あ……そうだったかも、しんない」

きっかけは、そんな会話だった。
越前はいま、俺の元トレーナーだった女と付き合っている。彼女が院長を務める治療院に、野瀬島克也が九十九淳一の保険証を使って通っていると、越前は言った。

「野瀬島克也が、九十九淳一の保険証で治療院に通っているのか?」
「そうッス、たぶん」

いったい、どういうことだ?
23年前から引きこもりとされている九十九淳一は、どれだけ調べても野瀬島とは別人だ。しかし、この息子が野瀬島と同い年であることに、俺はたしかに、きな臭さを感じてはいた。その答えが、これか?
なぜその保険証を野瀬島が所持し、使用している?

「その野瀬島って人、10年前から治療院に通ってるらしいッス」
「10年前……? どんな症状でだ?」
「なんか、車で一人相撲して、軽く打ったとかで。むちうちだって言ってたけど」
「むちうち……?」

俺はパソコンをつけた。野瀬島のことはできる限り調べたが、ヤツの過去に車の事故の記録はない。単独事故であれば記録に残らない可能性もあるが……野瀬島のことだ、本当か嘘かわかったもんじゃねえ。

「跡部さん、オレが知ってんのは、ホントにそれくらいなんスけど」

単純に考えれば、野瀬島が九十九静雄に頼んで淳一の保険証をいまだに使わせている、ということになる。10年前に使ったことで、いまも使わざるを得なくなったか? あの治療院でなければ痛みに耐えられないという理由で、致し方ない可能性は十分にある。それほど、彼女の腕はピカイチだ。しかしなぜ、10年前に自分の保険証を使わなかった? どんな理由がある?
さらに10年前というのが、引っかかる。佐久間さんが亡くなったのも、10年前だ。野瀬島は孫請けのバイトとはいえ、佐久間さんと一緒に働き、伊織にありもしねえことを吹き込んでやがった。なんなんだ、この気味の悪い偶然は。
いや……偶然であるはずがない。

「わかった。落ち着いたら治療院に行く。彼女にもそう伝えておいてくれ」

直接本人から聞く必要がある。そう思い何気なく口にしただけだったが、越前はゾッとしたような声をだした。

「げ……それじゃ、バレるジャン」

そういや口を割る前から、守秘義務だとぼやいてやがったが……またずいぶんと、手懐けられたもんだ。越前を尻に敷くとは、あの女もなかなかやるじゃねえか。

「俺がフォローしといてやる。安心しろ」思わず笑いながら、そう言った。
「いいッスよ、別に……ちゃんと俺が説明すれば、わかってくれるんで」
「ほう? えらく信頼関係ができあがってんだな」

前に電話をしたときも越前は彼女に心酔していたが……テニスのことしか頭になかった男が、女でこれほどにまで成長するものか? まったく……微笑ましいじゃねえか。

「……跡部さん」
「アーン? なんだ」
「俺、近いうちに彼女と結婚するんで」

唐突に発せられたその声に、俺は目をまるくした。
越前が折れて覚悟を決めた、というわけでもなさそうだ。その告白に、やけに納得する自分がいる。好きな女と結婚ができる……いまじゃあたりまえのことが、なぜ俺にはできないのか。うらやましい反面、ひどく切なくなった。

「へえ? ずいぶんとお熱なんだな、王子様は。かわいいじゃねえの」
「うっさいな……元気そうで安心したよ。それじゃ!」

自分からノロけやがったくせに、からかわれると恥ずかしいのか、ガチャ切りしやがった。
こんな状況だってのに、笑っちまう……あの女なら、越前をうまく支えることができるだろう。どうやら越前も、ベタ惚れのようだしな。
仲間の幸せは、俺にとっても幸せだった。が、笑ってる場合じゃねえか。俺には問題が山積みなぶん、やることも山積みだ。
野瀬島と九十九の件は、一旦、横に置くことにした。いまなにより最優先なのは、伊織の夢を実現させることだ……そこに、迷いはなかった。





越前と電話を切った直後、俺は信頼をおく関係者に、ひたすら電話をかけた。
跡部景吾が佐久間伊織を金で買おうとしたと流布させ、マスコミに食いつかせるためだ。
そしてその計算は、見事に当たった。
ワイドショーではここぞとばかりにマスコミが俺を叩き、世間はその情報にまんまとのせられ、俺は針のむしろ状態だと揶揄されるようになっていた。
俺の勝手な情報操作で親父は肩身の狭い思いをしているはずだったが、3日後には「お前のやりたいようにやれ、こっちのことは気にするな」とだけ、メッセージが届いていた。
その親心に胸を痛めるしかなかったが、俺は財閥を犠牲にしてでも、伊織を守りたかった。
その甲斐あってか、世間的に俺は金に物を言わすクズになり、伊織は被害者という図式がなりたった。ここまで伊織が被害者と受け入れられれば、ミュージカル主演はいけるかもしれない。
いい流れだった。すべて計算どおり……その、はずだった。

事態が変わっていったのは、ニュースが報道されてから5日後の、日曜日のことだった。
俺はその日、九十九静雄に会社に呼び出されていた。

「休みの日に呼び出して悪いな跡部。お前に会えないもんだから」
「申し訳ありません。この1週間は、リモートワークのみで対応しておりました」

九十九は社長室のソファに悠々と腰をかけ、葉巻をくゆらせながら俺にウイスキーを勧めてきた。もちろん、飲む気にはなれない。俺は軽く頭をさげるだけに留め、九十九の正面に座った。

「仕方ないだろうな。しかしお前は昔から、やることが派手だねえ」

ニュースになってから5日も俺を放置していたわりには、急に用事ができたのか。
だが、俺にもちょうどいいタイミングだ。伊織の件も落ち着いてきた。あとは財閥にかけた迷惑をなんとかしなきゃならねえが……その前に、この件を片付ける必要がある。
俺にも聞きたいことが山のようにあるんだよ、九十九。

「ご迷惑をおかけしております」
「なあに、そんなことじゃないよ。跡部財閥がどうなろうが、俺の知ったこっちゃない」

下品な笑い声があがる。そういやこいつは、財閥の派閥で人生を狂わされた男の金魚のフンだったんだよな……。
だとしたら、それは本音か? むしろ喜んでんじゃねえのかよ?

「アスピア商事の人間として聞きたい。野瀬島さんとの提携の件、お前、いろいろとおかしなことを探ってるらしいね」

いよいよ食いついてきやがったか……と、俺は内心、ニヤリとした。

「おかしなこと、とは? なんでしょうか」
「しらばっくれるな。野瀬島さんに、妙なことを言ったらしいじゃないか」

バカまる出しで、「おかしなこと」「妙なこと」と自ら口にしやがった。焦っている証拠だ。やはり今日がその日になるか、と腹をくくる。
どこまで突っ込むべきか……いや、このさい全部だろうな。

「ほう……妙なことというのは、どういったことですか」

野瀬島に言ったことなら、当然のように覚えていた。
こうして九十九から責められるだろう機会を、俺は狙っていたからだ。

「俺がいつ、野瀬島社長と息子を比べた?」

――九十九も、まだ若いのに、とんでもない商才を感じる、と言っていました。
――加えて、『うちの息子とは、大違いだ』とも。

やはりあの発言が、野瀬島にも九十九にも相当なダメージだったらしい。
言い訳もそれなりに考えておいたが、これ以上モタモタしていても、埒があかねえ。そうじゃなくても、こいつのひと声で俺はクビだ。どうせ今回の件でも、それは決定しているはずだった。
それならそれで、暴れやすいじゃねえか。

「いけませんでしたか? 野瀬島社長へのリップサービスだったつもりですが」
「リップサービスだと? お前ね、俺の息子がどういう状態か知っているんじゃないのか?」
「ほう……どういう状態、とは? 引きこもってらっしゃることでしょうか」

途端、九十九は黙った。黙って、ただ俺を睨みつけている。

「社長が野瀬島さんにやけに注力されているので、調べさせていただきました」
「跡部……お前この提携に、最初から反対だったね? だからってなあ、痛くもない腹を探られるような真似をされて、俺が黙っているとでも思ったか? ええ?」
「へえ……痛くない、ねえ?」

九十九と同じように、俺も睨み返した。

「……なんだお前の、その目は。その態度は。その口の利き方は」
「社長のご子息である淳一さんの保険証を、野瀬島克也が10年も前から使用しているのは、なぜですか?」

九十九の目が、大きく見開かれていく。
あの治療院の院長が俺の専属トレーナーだとは、知りもしなかった事実だろう。なんせ、通いはじめたのが10年前じゃあな。

「その保険証を、野瀬島克也はいまも使いつづけている。保険証の履歴は野瀬島が通っている治療院のみ。つまり、ご子息の保険証を野瀬島が所持している」

この件については、越前から話を聞いてすぐに調べていた。九十九淳一は23年前、引きこもりと称されてから、治療院以外では一度も保険証を使用していない。

「さらに10年前は、跡部財閥グループが運営するテニススポーツクラブが建設に入った年だ。俺はそこで責任者として籠沢建設の佐久間さんという現場監督と一緒に働いた。あんたは当時、籠沢建設の執行役員。そして野瀬島は、その現場でバイトをしていた。妙じゃねえか」
「は……なんの話をしている。俺はそんなものに関わったことはないぞ!」
「表面的にはな。佐久間さんは突然、建設中の事務所のなかで急性心不全で亡くなった。野瀬島はその遺族に、ダメ押しのように俺の嫌がらせによる過労死だと吹き込んでいる」

九十九の唇が、わなわなと震えはじめた。

「今回の提携の話は最初から妙だった。保険証の件とつなげりゃ、建設現場のバイトはあんたの紹介だ。あんたも野瀬島も知り合ったのはここ最近だと言い張っているが、実際は違うんじゃねえのか? ならばなぜそれを俺に……いや、公に隠す必要があった? 説明してもらおうか」
「跡部……貴様、調子にのるなよ」

もう格式張る必要もないと、お互いが理解した瞬間だった。それをいいことに、俺は九十九に凄んだ。

「痛くもない腹は、実際は人生最大の痛みを抱えてんじゃねえのか?」

あまりナメてかかってんじゃねえぞ。俺がどうなろうと、かまわない。
だがてめえらは、佐久間さんの死に関係してんじゃねえのか。俺はそう確信している。だからこそ、俺は決してお前たちを許さない。

「……お前はクビだ跡部!」
「はっ、好きにしろ。どうだっていい」
「忘れているようだがな、俺はアスピア商事のCEOだぞ!」
「アーン? だからなんだ。野瀬島に頼んで暴力団でも使って殺す気か?」
「口を慎め貴様!」
「こっちのセリフだ! てめえは野瀬島となにを企んでやがる。なんで野瀬島の言いなりになってる? 不二になんの恨みがあった? 佐久間さんになんの恨みがあった?」

九十九はもう一度、俺を強く睨んだ。なんの罪もない人間を闇に葬るような野郎が、堂々と大手商社のCEOを名乗って権力を手にのさばってやがる。
お前たちにとって俺の仲間は、虫けら以下か? それを俺が黙って見てるとでも思ったか。

「いいか。俺は俺の人生のすべてをかけてお前と野瀬島の正体を暴いてやる。アスピア商事のCEOがどうした? そんなもの、痛くも痒くもねえよ!」

テーブルを叩きつけた。俺に出されていたウイスキーが波打っていく。ぶるぶると全身を震わせている九十九はソファから立ち上がり、背中を向けたまま、「出ていけ」と短く言い放った。

「言われなくてもそうする」

言いながら、ふと、ウイスキーに視線を流したときだった。
琥珀色の液体のなかに、わずかな粒子が見える。よくよく目を凝らさないとわからないほどだが、運よく、俺は動体視力がいい。
ワインならありえることだが、なぜウイスキーにそんなものが混ざっている?

「跡部……お前、後悔するよ?」
「ああ、そりゃ楽しみだな」

俺はウイスキーグラスを持ち上げ、グラスの端に口をつけた。飲むフリをして、そのまま立ち上がる。九十九が振り返らないのをいいことに、俺はグラスを持ち去った。

会社の荷物を整理しながら、秘書が使っているジップ付きの保存用袋にウイスキーを流し込んで、グラスも別の保存袋に入れ、タクシーですぐに自宅に帰った。
社長室をでた直後、唇についた粒子をこすり落とすように水で流したが、ビリビリとした痺れが1時間以上はつづいている。
この唇の痺れはなんだ……あの野郎……俺になにを飲ませる気だった? とっくに殺す気だったってことか? これをすぐに警察の鑑識に回したいが、いまここで動いたところで九十九の殺人未遂が立証されるだけだ。まだ早い。野瀬島と九十九は絶対に組んでいる。二人の犯罪の立証があきらかにならない限りは、意味がない。
ほかにも情報が必要だと、パソコンを開いた。いつものように跡部財閥のニュースが飛び交うネットを見ていると、そこに「3億を送金された女性、17時から記者会見」という見出しが目に飛び込んできて、俺は一瞬、固まった。
パソコンに表示されている時刻は17時1分だった。急いでリンク先をクリックしライブ動画配信サイトへ飛ぶと、そこにはマイクを持って立つ伊織の姿があった。
ドクン、と心臓が激しく動く。同時に、全身に鳥肌が立った。
いつもより派手なメイクをし、髪を巻いている。スッキリとした黒いノースリーブのワンピースを着ているが、伊織が好むような服装じゃない。
こいつ、なにしようとしてやがる……!

『あの3億円の慰謝料は、わたしが跡部景吾さんを脅して巻き上げたお金です』





鋭い目で会場を見わたすように、伊織はそう言った。俺はそこで、思考停止に陥った。

『どういうことでしょうか!?』
『それをこれから説明しますよ? よかったらご質問はそのあとに。さて跡部さんとは、ある人の結婚式の二次会でお会いしたんです。わたしは被害者遺族として、跡部さんをずっと恨んでおりました。跡部さんが責任者となって建設したスポーツクラブの現場監督をわたしの父がしていたのですが、彼にいびられ過労死したと聞いていたからです。ですが跡部さんに会ったとき、わたしは彼を跡部さんだと認識してませんでした。認識したのは、名刺をいただいたときだったんです。実はそこまで、かなり長いあいだお話して、少しいい雰囲気だったんですね、ふふ。それでわたし、彼が跡部景吾だと知ってショックを受けまして。せっかくいい雰囲気だったのに腹が立ってしまって、怒って帰ったんです。ただでさえ恨んでいたのに、期待させるだけさせて、奈落の底まで落とされたような気分でして。考えていくうちに、目にもの見せてやりたい、と思いはじめたわけですね。というわけで後日、わたしのほうから連絡をしました。さきほどいい雰囲気だとお話したのは、いい雰囲気のなかで、実は彼のちょっとした秘密を握ったからです。その秘密を武器に、父の過労死への慰謝料として3億を支払ってほしいと脅迫し、跡部さんが支払うと承諾されたので、口座番号をお伝えした、ということなんですね、ふふふ』

俺は頭を抱えた。伊織のやろうとしていることが、手にとるようにわかる。
やめろ、やめてくれ……何度もそう祈ったが、そんな俺の心の叫びが、伊織に届くはずもない。

『ゆえに3億が振り込まれたというわけです。しかし週刊誌に掲載されている通帳はわたしのものではありません。巧妙につくられているようですが偽物です。本物は本日お持ちしました、こちらです。どうぞ、カメラに収めていただいてかまいませんよ。撮れてますか? ここに、週刊誌に掲載されていたような「慰謝料として」という文字はありませんよね? あちらの週刊誌の記者さんはなにをつかまされたのか知りませんが、こちらが本物です。あ、それからあの週刊誌では跡部さんの記事がまた出ていますが、わたしに関連することはすべて事実無根です。そのほかのことも怪しいですよねえ。まあこんな偽物を堂々と全国紙に載せる週刊誌なので、9割ガセネタでしょうけども……あ、これって名誉毀損とかになっちゃうのかしら?』

長ゼリフを丸暗記し、変人女を演出していることが、俺には、わかる……。その立ち姿、仕草、眼光、口調、すべてが伊織とは違う女だ。
あの女、これまで培ってきた演技力を、自分の夢を放り投げてまでこの記者会見にぶつけてきやがった。
そのすべてが……俺のためだということか?

『ですけど名誉毀損を言いたいのはこちらですから、おあいこ、ということで。ですが3億の件は事実です。こちらは1割に入ったわけですね。しかしこれはまぎれもなく、わたしが彼を脅して巻き上げたものであり、跡部さんはわたしへの興味などありません。口説かれたこともありません。では、ご質問を承ります』

その後、伊織は記者の質問に毅然とした態度で答えていった。それはこれまで見たどんなレッスンよりも完成度が高く、佐久間伊織という女優の底力が漲っていた。

『跡部さんの秘密というのは、犯罪などに関連することでしょうか?』
『ん、ん、ん、それは申し上げられません。が、彼は犯罪者ではありません。犯罪者なら、わたしのほうですよね? 1円も使っていませんし被害届も出ておりませんが。親告罪ではないので逮捕されちゃうと困りますけども、警察もそこまで暇じゃないでしょうから』
『あの、後日3億をお返しになっていますよね? その通帳では、1週間後に返金が行われています。なにがあったんですか?』
『ああ、はい。そうそう、そのこともご説明しなきゃならないですね。ふふふ、ちょっと面倒ですけど、いたしましょう。3億が入金されたあと、わたしは跡部さんの会社に行きました。どういうつもりですか? と乗り込んだんです』
『え、どういうつもり、というのは? あなたが脅迫したんでしょう?』
『ええ、ええ。ですけどね、こうしたものは贈与税がかかるじゃないですか。わたしは3億を受け取りたかったわけですから、贈与税を払うと2億くらいになってしまうでしょう? 手取り3億がほしかったんです、わたしは!』
『な、なるほど……』
『うふふふ。ずいぶん、がめつい女だと思われるでしょうけど、ですが約束と話が違うんじゃないかと。そしたら跡部さんが、「贈与税が1億かかるだろうから引いて2億円分の慰謝料だ。お前の父親を、俺が殺したと思ってるんだろう? 俺からふんだくらないと気が済まないだろう」とおっしゃって。すっかり言われたとおりに払った気分になってらっしゃったんですね。天然ボケっていうのかしら、ああいうの。だから、その約束が違うでしょう、とお話したんです。ふふ、まるですれ違いのコントですよ? なんだかバカにされた気になりまして、「うちの父の命は、こんな金で片付けられるようなものじゃない!」とわたしは反発したんです。そこで思いついたんです。こうなったら、やり直しさせてやろうと』
『その、やり直し、というのは……?』
『ええ、意地の悪いところがあるんですよ、わたし。仕事でもミスをすると、最初からやり直し、などと言われますよね。あれ面倒じゃないですか。そっちがちょっと直してくれればいいだけなのにねえ? ま、ですから、面倒くさいことをやらせてやろうと。簡単にいえば、ちょっとした嫌がらせですね。要は、追加で贈与税分を振り込ませるより、一度は返金されてから、さらにまた一気に大金を振り込んだほうが彼の罪悪感も手間も増すでしょう? また銀行に行って、最初からやり直しです。ですから言ったんです。「わたしがお金に困ってそうだからって気前よく出たつもりなんでしょうけど、すぐにお返ししますから、口座番号を教えて!」と言いました。わたしが貧乏くさかったからでしょうか、跡部さんからすれば、2億でも十分だと言わんばかりでしたから。腹が立つでしょう? あげく約束が違うじゃないですか? みなさん、そう思われませんか? そしたら跡部さん、「あんなひどい言葉を浴びせられて口座番号を伝えてきたくせに、返金するというのか。すでに1週間も経って、知らず知らずに使ってた可能性もあるんじゃないのか?」と。ですからわたしは、1円も使ってないと言ったんです。というか使ってようが使ってなかろうが関係ありませんよね? なにを言ってるんだと思いまして。「だからさっさと、アンタの口座番号を教えなさい!」と凄むと、口座番号を教えてくれました。返金はその流れでしたんです。それで手取り3億になるように振り込んでいただこうという魂胆だったわけです』
『なるほど……混乱しそうですが、経緯はわかりました。しかしですね佐久間さん、その、あなたが提示した本物通帳を見る限り、その後、跡部さんからは大金が振り込まれてませんね? 交渉が決裂したということですか?』
『ええ、それにも理由があるんです。やっぱりわたしも、まだまだ腹が立っていたんですよ。贈与税を引いて3億円を支払ってもらうことと、さらに跡部さんを困らせる条件をつけました』
『条件……とは、なんでしょうか?』
『そう急かさないでくださいよ、いまからお話しますから。記者のみなさまはすでにご存知かもしれませんが、わたし、ミュージカル女優を目指しています。ですから、わたしをデビューさせるため、プロデュースしてくれないか、と言いました。これが条件の詳細です』
『は……え、跡部さんが、あなたを、ということですか?』
『はい、そうです。彼は跡部財閥の御曹司です。コネの宝庫でしょう? それはわたしにとって魅力以外のなにものでもありません。しかも彼、その条件をすんなりとのんでくださいました。そしたら、ですよ。そこからが忙しかったんです。ブロードウェイ帰りの先生から週3のレッスンを無料で受けることになりました。引き受けた以上は、ということで、プロデューサーとして跡部さんにレッスン見学も強制したんです。もちろんこれも嫌がらせだったのですが、跡部さんは真面目な方ですから、週に何度も来てくださいました。そしてまずは世間にわたしを知ってもらいたくですね、跡部さんをまた脅迫し協力をさせて、あの動画を撮ってもらいました。わたし、歌が抜群にうまいですんですよね、おわかりだと思いますけど。そのとなりに、イケメンがいたらバズるでしょう? 狙いどおり、動画がバズってラッキーだったところに、このニュースが。おわかりですか? 跡部さんもわたしも、条件をつけたことで忙しかったんです。お互いがお金の件をすっかり忘れていました。そしてすっかり忘れていたことを、このニュースで思いだしたくらいです。おかげでこんな記者会見まで開くことになり、わたしは全国的に有名になりました。どうぞエンタメ関係のみなさま、なにか舞台があれば、ぜひわたしにオファーをください!』

会場が、シンと静まり返っていた。
伊織のつくりこんだ圧倒的なキャラに、記者たちが気圧されている。まったくと言っていいほど共感を呼ばない言動は、しかし伊織の演じる、頭のおかしい女というキャラで、妙な説得力を発揮していた。

『しかし……佐久間さん、この記者会見は、あなたの人間性としては不利なのでは……』
『ん、んん、どういうことでしょうか?』
『その、さっきから聞いているとですね……いい印象を受けません、なんせ、脅迫もしてらっしゃる。跡部さんが、気の毒ですよね』
『はい、そうなんです。跡部さんってとてもお優しいんです。わたしはそこにつけこんだ、ということですね。しかし、不利ですか? わたしは結局1円も使っていませんし、結果的にまだ手取り3億も受け取っていません。まあこうなってしまった以上、受け取れやしませんしね』
『あの、そうなると、この記者会見はなんでしょう?』
『はい。この数ヶ月のあいだに知ったことがあるんです。跡部さんは、実は恨まれるような人ではありませんでした。わたしは跡部さんが父を殺したと思っていました。朝から晩まで働かせ、無理な注文をつけて精神的にも身体的にも追い込んだと思っていました。ですが、事実は違ったんです。跡部さんは父にとてもよくしてくださっていたことがわかりました。彼はそれでも、わたしの剣幕に押され、ちょっとした秘密も握られてしまったので、同情してくださったんでしょう。仕方なく3億も支払い、仕方なくコネを使ってわたしをデビューさせようと努力してくださいました。呆れるほどのお人好しです。お金持ちってみなさんそうなんでしょうか。貧乏人のわたしにはわかりませんが、とにかく心がピュアな方なので、あっさりと引っかかってしまったんでしょうね。ということで、今回ニュースで流れていることは3億が支払われたこと以外、すべてデマです。これには、さすがのわたしも良心が痛みました』
『えーっと……だから、あなたは記者会見を開いたと? 跡部さんのために?』
『あははっ……ああ、まあそれは、ついでですね。この記者会見を開いたいちばんの理由は、わたし自身を有名にするいい機会だったからです。でも記者会見を開くからには、真実を話すしかないですよね? もちろん記者会見で被害者を偽ることもできましたが、記者会見で被害者として映る人ってなんだか不幸そうで嫌じゃないです? タバコを吸ってる女って不幸に見えるでしょう? それと一緒です。それにですね、わたしは嫌われることを恐れていません。あくまで、女優として有名になれればよかったので。プラス、跡部さんへのちょっとしたお詫び、という感じでしょうか。こうなったのも、跡部さんのおかげですから。3億はもういいかな、と。ですので、マスコミのみなさん、こちらの記者会見は当然、明日は一面で。テレビではトップニュースで流していただきたいですね。こうしたお騒がせな女優は、なんだかんだ話題になるといって、使ってくれる人がいらっしゃいますから。よろしくお願いしますね』

その挑発は、二度とどこにも使ってもらえないことを理解しているだろう意図で発している。
クソ……クソ、クソ、クソ……クソが! なんてことしやがんだあのバカ女!
俺はすぐさま、シゲルに電話をかけた。たった5コールだというのに、その時間はとてつもなく長く感じられた。

「景ちゃん? 見てるの?」
「お前がいながら、伊織になにさせてやがる!」
「ああああっん! もう、うるさいわね! そっちだって大概でしょうが! アタシはね、オテンバの気持ちに寄りそったまでよ! 女として理解したの!」
「お前わかってるんだろう!? 俺の気持ちも! なぜこんなことを許した!? 俺が翌日からしていたことが台無しじゃねえか! 舞台の夢はどうした!? なにを考えてる!?」
「バカじゃないの! アタシが止めたところであのオテンバが止まったと思う!? 見なさいよこの演技力! オスカーものじゃない! 景ちゃん、それだけアンタは、このオテンバを夢中にさせたの! 気持ちに応えてやらなくてどうするの!? アンタがいまできることは、アタシに怒鳴ることじゃないでしょう!?」

こんなに自分を許せないのは、はじめてだ……伊織、あのバカ女……!

「どこにいるんだ伊織は! いますぐ教えろ!」
「んー、それがねえ……バカバカしいことに、言うなって、言・わ・れ・て・るっ」
「てめえシゲル……こんなときにふざけやがって、殺されたいか!? 俺の言うことがきけねえってのか!?」
「ああもう、うるさいわねえ! わかってるわよ! 一度は断った事実をつくっておきたかっただけよ! 帝国ホテルのイベントホールよっ。いい? オテンバの努力を水の泡にするような行動だけは謹んでよ景ちゃんっ」
「なぜそれを伊織に言わなかった!? 俺の努力を水の泡にしやがってバカが!」

頭にきて電話を切り、俺はすぐに帝国ホテルへと向かった。
なにが、『こうしたお騒がせな女優は、なんだかんだ話題になるといって、使ってくれる人がいらっしゃいますから』だ、バカが! あんな頭のおかしい女を使ってくれるヤツなんて、いるわけがないだろうが!





あの記者会見であれほど伊織が語ってしまったことは、もう取り返しがつかない。
肝心なところだけ嘘をつき、あとはすべて真実を話しているところも、有名になりたかったという頭の悪さとトチ狂ったようなキャラを演じたことといい、言ってることがむちゃくちゃでも、信じさせてしまう完璧なシナリオだった。シゲルとそんなことをずっと練り、あの記者会見の模擬レッスンをしていたのかと思うと、いたたまれなくなる。なによりそれが俺への想いだとわかるだけに、心がかき乱されていく。
ここからどうすれば、俺が伊織を救ってやれるのか……どれだけ考えても、答えがでない。

「景吾さま、こちらです。これは帽子です。それからマスクとメガネもご用意しました」
「悪いな……マスコミは?」
「はい、この駐車場は気づかれておりません。イベントホール控室までは別の者が案内します。お戻りのさいは、私にお電話ください」
「ありがとう、いってくる」

イベントホールの控室は奥まったところにあった。真っ白なデスクとホワイトボードがあり、俺はそこで使用人が預けてくれた変装セットを取り外し、伊織が戻ってくるのを待った。あれ以降、どんな質問が記者からされたかはわからねえが、シゲルと伊織のことだ。すべて想定済みで、完璧な回答を用意していたはずだ。
本領を発揮したシゲルも伊織も、一流の俳優だ……二人とも、頭の回転が早い。その才能を、こんな無駄なことに使いやがって……。
ガチャ、と扉が開かれる音がした。即座に振り返ると、すっかり素に戻っている伊織の姿が、そこにはあった。

「え、跡部……!」

疲れきっているかと思いきや、やりきったような顔をして、伊織は立ち尽くした。
何度もぶり返してきた憤りが、俺のなかにまた湧きあがりそうになっていた。それは伊織へ向けられたものじゃない。俺自身への怒りだ。
伊織を目にしたのは、8日ぶりだった。本当なら、抱きしめてえってのに……!

「お前……なにをしてんだ?」
「うう……言わないでって、シゲルさんに言ったのに」
「うるせえ、質問に答えろ。どういうつもりだ? お前は夢をあきらめたのか?」
「そ、跡部……怖い」
「女優になるんじゃなかったのか? あんなことをして、もうお前の夢は途絶えたようなもんだってわからねえのか? あれほど努力しつかんだ主役の舞台はどうする? 佐久間さんとの約束はどうした?」

にじり寄る俺に、その距離が縮まるごとに、伊織は顔を歪ませていった。

「も、そんなに責めたてないで!」
「責めるに決まってるだろうが!」
「跡部わかってないよ。これがいちばん、いいんだもん!」
「いいわけねえだろ! わかってねえのはお前だ!」
「だって、わたしがあなたの人生をぶち壊すなんて耐えれない!」
「俺もお前の夢をぶち壊すなんて耐えられねえんだよ!」

怒鳴った俺の声に、伊織の体がビクッと反応し、怯えたように口もとに手をあて、目を伏せた。
その肩に、手を伸ばしたくなる。思いきり抱きしめて、頭をなでてやりたくなる。
だが、そうはできない悔しさに、俺は拳を震わせ、深いため息を吐き、うなだれた。

「バカが……」
「跡部……」

情けない……こんなに自分を無力だと感じることが、伊織になにもしてやれない自分が、俺には耐えられない。

「……俺のためだったんだろ」
「それは……」
「全部、俺のせいだってのに」

なにもかも、最初から俺のせいだった。あんなバカげた戯れを千夏の前でやり、その女を信用しきって、口止めすらしなかった。あげく妊娠、結婚だと責めたてられ、いまだにしっかり別れることもできていない。
伊織……俺は……お前の足もとにも及ばない、弱い男だ。

「違うよ、跡部」
「違わない……俺のせいだ」
「そんな……違うって!」
「そもそも俺が、お前にあんなことをしたのが間違っていた。俺が全部、悪かった」
「違うってば!」

俺がうなだれたまま吐き出した弱音を、伊織は、声をあげて制止した。
その手が、俺の肩に触れた。熱を感じて、俺は顔をあげた。揺れている瞳が、俺を射抜いていく。女の顔が、俺を見つめる伊織の顔が、すぐそこにあった。
ドク、と体が反応する。幾度となく伊織を見るたびに揺さぶられていた感情が、寸前に迫っていた。

「跡部は、なにも悪くないよ」
「伊織……」
「自分を責めないで。跡部はずっと、優しかったじゃん」
「……俺は、お前の夢を邪魔して」
「そんなことない! 悪いのは、全部わたしだよ!」

その瞳から、大粒の涙が流れていた。
伊織、お前……そんなに泣きながら、なにを言ってる? そんなわけねえだろ。お前が悪いことなんて、ひとつもない。
そう訴えたかったが、俺の言葉は、伊織の真剣な表情に目を奪われて、出ていかなかった。

「跡部はずっと優しかったよ。ずっと優しいまま生きてきたのに、わたしが勝手に跡部のこと誤解して、あんなふうに拒絶したから、こんなことになったんだよ。だから、跡部は悪くない」

その泣き顔に、俺はもう、我慢の限界だった。
俺の肩に手を置いていた伊織の手首を引きよせた。瞬間、目を見開いた伊織の唇に、そのまま唇を寄せた。

「ン、跡部……」

小さな体を強く抱きしめながら、俺はこれまでの想いをすべてぶつけるようなキスをした。伊織の手が、首に巻きついていく。その愛に応えるように、俺は何度も角度を変えながら、手のひらで頬を包んで、伊織を求めた。
愛してる、伊織……お前のことを、俺はあきらめきれはしない、絶対に。

「跡部……っ」
「好きだ、伊織」

もう、このままどこか連れ去ってしまいたい。なにを捨ててもいい。どれだけ自分が罵られてもかまわない。なにを犠牲にしてもかまわない。ふたりだけの世界に消えてしまいたい。俺には、伊織しかいない。

「ダメ……っ」

だが、求めあっていたはずの熱は、突然、伊織から一方的に切られた。つながっていた唇を押し返すように指をはさみこみ、強引に顔を伏せ、伊織は我に返ったように、俺から体を離した。

「伊織……」
「ダメだよ、こんなの」

息を切らしながら、伊織はそう言った。

「伊織……俺は、お前がほしい」

黙ったまま、伊織は床を見つめていた。興奮した体を休めるように、何度も呼吸をくり返し、手の甲を唇に押し当て、俺とのキスを後悔したかのように、それを拭い取った。
そして、ゆっくりと俺の目を、非難の色で見つめた。

「やめてよ、こんなこと」
「……俺が、婚約しているからか?」
「そういうことじゃない。誤解しないで。ちょっと、流されただけ」
「伊織、待ってくれ」

俺から後ずさるように、距離を取った。離れていく気配に、たまらなくなる。抱きよせようと手を伸ばすと、伊織はまた一歩、両手をあげるようにして、俺から遠ざかった。

「触らないでっ!」
「伊織……」
「跡部には、千夏さんと、赤ちゃんがいるんだよ?」

わかってる。千夏にとってもそうなように、お前にとっても、それがすべてだということを。
だからこそ、俺はお前との約束を守ろうとした……だけどもう、無理なんだよ。

「……千夏とは、別れる。話なら」
「なに言ってんの? わたし、跡部に興味ないから」

俺の言葉をさえぎって、伊織は冷淡な表情でそう言いながら、荷物を急いで胸に抱え、俺から逃げるようにして部屋を出ていこうとした。
いまここで伊織を手放せば、永遠に失ってしまう……そう、強く感じた。
そんなのは、無理だ……俺はもう、お前なしで生きていける気がしない。

「伊織、待ってくれ!」その手首を、咄嗟につかんだ。
「待つわけないでしょ!? わたしもどうかしてた。いまのは忘れて、離して!」
「好きなんだ、お前が!」

これほど懇願して女を口説いたことなど、一度もない。
ごまかしなど、とっくにできていやしなかったってのに……こんなことになるまで放っておかず、もっと早くに伝えておくべきだったんじゃねえのか、俺は。

「離してってば!」
「愛してんだよ!」

その言葉に、伊織は表情を変化させた。感情的だったものが、平坦なものに変わっていく。
そこからにじみでてくるような冷たさは、この俺をも怯ませた。
それは出会って間もないころの、佐久間伊織そのものだった。まるで壁を見ているような目で俺を見据えている。俺に恨みを抱え、俺のことなど大嫌いだと言っていた、あの、伊織だ。

「……バカじゃないの」
「伊織……」
「迷惑、そういうの」

それが演技だということなど、百も承知だ。
だが、いくら頭で理解できていても、俺の心には、現実として重くのしかかっていく。
完全な拒絶に、じわじわと胸が痛みはじめた。

「よせ、伊織……」
「は?」
「俺はお前を好きになってから、お前のことしか頭にねえよ」
「……何度も言うけど、わたしは跡部に興味ない」
「そうは見えない。俺には通用しねえぞ?」
「は、はは……すごい自信。でも言っておくけどわたし、これでもモテるの。響也とも付き合ってるの、知ってるでしょ?」
「そんなこと、どうでもいい。どれだけ考えても、俺にはお前しかいねえんだよ」
「やめてよ。急に彼氏面されるの、ゴメンだから」
「伊織……俺が必要としてんのは、お前だけだ」
「そ……笑える。ちょっと優しくしたらこれ? キスしちゃったから、勘違いさせちゃった? 跡部って意外とピュアなんだ?」
「俺は下手な芝居にも、挑発にものらねえぞ」
「ん、そっか。なに言っても無駄そうなんで、帰るね」

あっさりと背中を向けた伊織と扉の正面に、俺は割り込むようにして立ちはだかった。
伊織が呆れたような顔をして、俺を見あげる。だが瞳のその奥に潜む強烈な切なさが、俺には流れ込んできていた。
伊織……どれだけ拒絶されようと、お前を手放したくねえんだよ、俺は。

「聞いてくれ、伊織」
「しつこい。帰らせて」
「伊織!」
「キスは、はじめて?」

薄ら笑いを浮かべながら首をかしげて、伊織はそう言った。
これほど愛した女に足蹴にされたことに、俺は、自分でもバカバカしいほどに傷つき、動けなくなった。
バタン、と虚しい音が背中で聞こえた。伊織が、出ていったとわかる。
俺はそのまま、柄にもない期待を寄せてその場で待った。だが、いつまで経っても、伊織は戻ってこなかった。





伊織とキスをした……それだけだってことくらい、俺でもわかってる。
あれから家に帰って、酒を口にした。気がついたら、そのまま朝になっていた。
そこから4日間、俺の心は伊織で侵食された。野瀬島や九十九の件が残っているというのに、頭がまったくといっていいほど、まわらなかった。なにもかも煩わしくなり、家のチャイムもスマホの着信も、すべてを放置した。
おもむろにつけたワイドショー番組では、いまだにあの記者会見のダイジェストが流れている。マスコミや世間は一転して伊織を頭のおかしい女だと罵り、俺の評判はガラリと変えられていた。笑っちまうくらいに簡単だ。デビューもしてない女の演技に、日本中が踊らされている。跡部財閥の御曹司はバカ女に引っかかり、人生を棒に振った哀れで純真な人間として同情されていた。よくもこれほどの短期間で、感情を一変できるものだ。それほど人間は、愚かだということだろう。
それでも、伊織が人生をかけてやり遂げた記者会見を、俺がさらに台無しにすることはできなかった。あれほど切望していた夢を犠牲に、跡部財閥と俺の人生の危機を救ったも同然だったからだ。これ以上、俺の立場を悪くする情報操作をすれば、どちらの情報にも信ぴょう性がなくなる。それは伊織への裏切り行為だと、俺は翌日には悟っていた。
なにもかも捨てて伊織のもとへいきたいというのに、それを伊織が許してはくれない。想いあっていたはずの伊織があれほど俺を拒絶するのは、千夏に腹に宿る小さな命があるからだと、嫌というほど理解している。
伊織……こんなにお前を愛してるってのに、俺にほかの女と結婚し、父親として責任を果たせってことかよ。
その願いは千夏とまったく同じものだ。その皮肉さに、俺は絶望していた。千夏の対象は自分自身だが、伊織は子どもだ。俺の結婚にたいする伊織の思いを強固にしているのは、すでに父親を亡くしてしまったという現実があるからだ。そう思うと、強引にはなれないジレンマが襲ってくる。

「伊織……」

会いたい。会いたくてたまらねえってのに、それすら叶わない。
気づくと、また着信音が鳴っていた。重たい頭をぼんやりとそこに向けると、液晶には「不二周助」と出ていた。
誰かに慰めてほしいと思うほど、弱っていたのかもしれない。俺は気まぐれに、その電話を受けた。

「跡部?」
「不二……どうした」
「やっとつながった……ずっと電話に出てくれないから、心配したよ。大変だったね」
「ああ……」

まともに返事ができないほど、俺は憔悴しちまってるってことか。
情けねえ……何度そう思えば、この地獄から抜け出せる?

「用件は、それだけか?」
「……ずいぶん、弱ってるようだね。ごめんね、大変なときに」

せっかく電話をかけてきてくれたっつうのに、優しくなれない俺を、不二はなんの文句も言わず受け入れた。
心が疲弊すると、これほど人に気を遣えなくなるものなのか。何度目になるかもわからないため息を、俺はまた、吐きだした。
が、その感情を打ち破るように、不二の声が低くなった。

「でも跡部に、どうしても話しておきたいことがあるんだ」
「……話したいこと?」
「うん……話す前に、先に謝るよ。跡部には忠告されていたのに、僕は、野瀬島のことを調べた」
「なに……?」

徐々に、頭がクリアになっていた。不二が語ろうとしていることは、俺の求めていたものだ。
不二の店が突然に閉店するとわかったとき、俺は不二に会った。

――お前のそのプライドは、俺が守ってやる。だから野瀬島には手を出すな。その遺恨は、俺に預けろ。

だが、野瀬島の被害にあった不二自身が野瀬島のことを調べるのは、危険すぎた。
だからあれほど、言っておいたっつうのに……。

「不二、お前……」
「うん、止めてたよね。だから、ごめん」言わんとすることをさえぎって、真摯に謝ってくる。
「わかっていながら、なぜそんな真似をした?」
「ありがとう跡部……心配してくれているんだよね。でもいま君の声を聞いて、強く思ったよ」

なんの罪もないというのに、不二は野瀬島にターゲットにされ、経営していたレストランを廃業にまで追い込まれている。
不二もしばらく、弱っていた。だが、いま聞く不二の声は、やけに凛々しい。

「君もいまは、すごく弱っているでしょう。どうして、誰にも頼らないの?」
「話をそらすな。俺のことはいい」
「よくないよ。君は僕を助けてくれた。だから僕も、君を助けたいと思うんだ」
「不二、いいか。気持ちはありがたいが」
「いまの跡部は、遠慮している場合なの?」
「……なにを言ってる?」
「プライドってのは、ときには弱さを認めて人に頼ることで、もっと高潔になっていくものなんでしょう?」

――いまのお前は、遠慮なんかしてる場合じゃねえんだよ。プライドってのは、ときには弱さを認めて人に頼ることで、もっと高潔になっていくもんなんじゃねえのか?

いつしか俺が不二に言ったことを、不二はくり返していた。
人のことには首を突っ込むわりに、俺はたしかに、人に頼ることをどこかで避けている。

「僕のプライドを守ってくれたように、僕も跡部のプライドを守るよ」
「不二……」
「だからこれから話すことをしっかり頭に叩き込んで。あとは跡部に任せたいと思ってる。いい?」

不二はそんな俺を、たしなめていた。
少し間を置いて、俺は口調をゆるめた。そうするしか、なかった。

「……ああ、悪いな、不二」
「うん……じゃあ、話すね」

意味深な間に、わずかに緊張が走った。俺はソファに座りなおし、近くにあったノートパソコンを広げた。重要なことを聞く前に、メモを取れるようにしておくためだ。
俺はそこからしばらく、不二の話に耳をかたむけることになった。

「野瀬島は、無戸籍児だったらしいんだ」

そこからは、俺の知らない話ばかりだった。野瀬島は高2のとき、所属していたレスリングの海外遠征の話をあきらめざるを得なくなったらしい。おそらくそこで、自分が無戸籍だったと気づいたと、不二は言った。

「……それは、たしかなのか?」
「うん、300日問題だよ。彼の母親が勤めていたスナックのママから聞いたんだ。野瀬島の母親はDV被害を受けていた。逃げだしてきたその場所である男に出会い、子どもを産んだ。それが野瀬島克也だよ。そして彼の父親は、九十九静雄だ」
「……なんだと?」

なにかが小さく、カチンと音をたてた気がした。いくら探しても見つからないパズルのピースが、目の前に転がってきたからだ。
窓から太陽が照りつけてきている。真夏の炎天下だというのに、俺はほんの少し身震いをした。
そうか、そういうことだったのか。

「九十九には、野瀬島と同い年の息子がいるようなんだけど」
「ああ、九十九淳一だな」

23年前、九十九淳一は引きこもるようになったが、その同時期に野瀬島は不登校気味になり、東京によく出かけていたらしい。そして同じころ、野瀬島の母親が勤めていたスナックで、トリカブトの食中毒事件が起きたと、不二は言った。
俺の頭のなかに、衝撃が走っていく。

「トリカブトだと……?」
「しかもその日、野瀬島は店の手伝いに入っている。そこから間もなくして、九十九淳一は引きこもりになっているんだ」
「野瀬島が……淳一になにかしたということか?」
「……真実はわからないけど、僕はそう確信してる」

数日前、唇に残った痺れが、俺の記憶によみがえる。ジッパー付きの保存袋に入っているあの成分は……トリカブト毒のアコニチンか? 九十九は野瀬島から、トリカブト毒を預かった? 俺が邪魔になったからか?
しかしそうなると九十九静雄は、息子に手をかけた野瀬島と、いまは協力しているということになる。そしてその九十九淳一の保険証を、佐久間さんの亡くなった年……つまり10年前から、野瀬島が使っている。

「10年前、俺が責任者となって財閥から任された仕事に、テニススポーツクラブの建設があった。そこで、野瀬島は孫請け会社のバイトとして働いていた可能性があるんだが」
「うん、それも知ってる。10年前、野瀬島はたしかに働いていた。しかもそこで、野瀬島と折の合わなかった作業グループのリーダーが、急性心不全で突然亡くなっているんだ」
「なに……? 急性心不全だと?」佐久間さんと、同じじゃねえか。
「うん。跡部のテニススポーツクラブ建設がはじまる、1ヶ月ほど前にね。亡くなった前日、そのリーダーの命令で、野瀬島は複数人から暴力を受けていた」

俺はノートパソコンを閉じて、車のキーを手にとった。
いますぐ治療院に行って、保険証のことを聞く必要がある。10年前のむちうちは、やはり佐久間さんになにか関係しているんじゃないのか。

「悪い不二、ちょっと出かける」
「うん、わかった……でも、最後にいいかな?」

跡部に、いちばん伝えなくちゃいけないと思ってたことがあるんだ、と言った。

「……どうした?」
「跡部……君の婚約者と野瀬島は、つながっているよ」

その言葉に、俺は強く打ちのめされた。





不二は、野瀬島と千夏が会っているところを見た、と言っていた。俺は仕事で野瀬島と関わったが、千夏は別の部署だ。しかし九十九が成績優秀な千夏をも動かしていたという可能性は十分にありえる。衝撃はそれなりにあったが、いまは野瀬島のことを解決するほうを優先すべきだと判断し、俺は治療院に向かった。

「跡部さん、お待ちしてました」
「悪いな、休憩中に」
「お呼び立てしたのは、わたしですから」

俺の元専属トレーナーは、電話で「野瀬島の件で聞きたいことがある」と連絡すると、「その件も含めて、治療院に来てくれませんか?」と、快く迎えてくれた。

「さっそくだが野瀬島克也は、九十九淳一の保険証を使っているらしいな」
「ええ、まさか別人だとは思っていませんでした。ただ、リョーマに話したことがすべてです。それ以上の知っていることは、ほとんどありません。10年前、むちうちで来られました。外からの強い衝撃を受けたことはわかりましたが、さすがに触っただけでは、それが車の単独事故じゃなかったとしても、詳細までは……」
「……そうなのか。となると、俺が呼び出されたのは?」
「はい。それとは別件なんです」

また、俺のなかに緊張が走っていく。
不二から電話をもらった直後のように、目が見開いていくのが、自分でもわかった。野瀬島以外の別件など、ひとりしかいねえじゃねえか。

「跡部さん。千夏さんの脈拍は、正常です」

唐突な告白に、俺は戸惑った。それが、なんだっていうんだ。

「通常、妊婦さんは脈拍が早くなっているものなんです」
「……なんだと?」
「わたしの見立てでは、千夏さんは、妊娠していません」

不二に聞いた言葉がよみがえる。

――跡部、君の婚約者と野瀬島は、つながっているよ。

「だが、検査薬や、エコー写真を……」
「そうしたものを売る人が世のなかにはいます。通帳の捏造よりも、それは、簡単に手に入ります」

俺に見せてきた妊娠の証拠となるものが……野瀬島から提供されてたってことか?

「跡部さん……千夏さんとわたしと、どちらを信じますか?」

その問いかけに、俺は目だけで答えた。
千夏……お前は妊娠を偽ってまで、俺を地獄に落とすつもりだったのか。





to be continued...

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