Episode2


ぱらり、とまた1枚、紙の擦れる音がした。
ページいっぱいにオレンジが5つ、並んでいる。ひなみの小さな人差し指が、絵本にたくさん並んだオレンジを指さした。

「きんよーび、きんよーび、オレンジをいーつつたべましたー」ひなみはご機嫌に歌っていた。
「さっきからえらい同じもんばっか食べるんやなー」
「侑士さん、そういう歌なんだからー」千夏がさり気なく忍足くんにタッチする。
「さよかー、ツッコミどこ満載やな」と、忍足くんはご満悦で動画を撮っていた。
「さいごねー、これひなちゃんさいごー」

ぱらり、とまたページがめくられた。
色とりどりのお菓子が並んでいるページに、ひなみのテンションは最高潮だ。

「うんうん、これ最後ね!」
「いっぱいたべたよー」
「いっぱい食べたんだねー、ひなちゃん」千夏はすっかりママ気分ではしゃいでいた。
「おうー、もうこんなん、腹いっぱいやなあ」こっちはパパ気分だろうか。

時間は大丈夫なのかな、と思ったけど、このふたりの世界に入り込む気にはなれない。あたしと周助はラッキーとばかりに、ふたりにひなみの面倒を見てもらっていた。
今日は6月24日。前回のUNOからさらにちょうど2ヶ月後の、11時50分。
ご飯をつくらなきゃいけないあたしも忙しければ、お風呂掃除とたくさんの洗濯物に勤しんでいる周助も忙しい。
そんなときに、すっかり我が家の常連客となった千夏と忍足くんがやってきた。
突然の訪問に「ああ、またなのね」と思ったあたしと周助だったけど(たぶん周助も思ってた!)、今日のデートはうちの近所のデパートのなかにある映画館らしい。

――急にごめんね伊織! 映画までの時間、ちょっとひなちゃんに会いたくなっちゃって!
――ダメもとで来てみたんやわ。

ウソつけ、と言いたくなったけど、黙っておいた。千夏はそうでもないけど、忍足くんの訪問は、いつも突然だからだ。そして、ダメだったことがない。だからなんだろう、忍足くんは、いつも前もって連絡をしてこない。ま、別にそれはいい。
っていうか、忍足くんだって近くに住んでいるんだから、そこでイチャイチャしておけばいいのに、このふたりはどうやら将来の家庭気分を味わいたいらしい。最近、訪問が頻繁なのはきっとそのせいだと、あたしは踏んでいる。
ひなみをふたりの子どもに見立てて、幸せの模擬体験をしているつもりなんだろう。
たまに来て「かわいい」って言うだけなら、そりゃ幸せですよ、と心のなかで悪態をつきつつ、やっぱりそんなふたりがうらやましいような、なんだか複雑な気分だったりして。
いや、もちろん子育てに奮闘しているあたしの毎日だって、幸せだけどね。そんなずっと笑ってられることばっかりじゃないっていうのも、現実としてあるし。いや、幸せだけど、サ。

「伊織、こっち終わったよ。手伝おうか?」

とか思っていたら、周助が掃除を終えてキッチンに来た。
ほらね、あたしだってこうして優しい言葉をかけてもらうたびに、幸せを実感しているんだってば。ホントです。……って、誰に言い訳してんだか。

「ありがと周助。食器だすのとか、お願いしていいかな?」
「もちろん。……それより、ふたりとも、時間は大丈夫なの?」

自分の用事が片付いたからなのか、周助がしれっとふたりに声をかけた。別に邪魔なわけじゃないんだけど、これからご飯だし、という暗黙の威圧を、あたしだけは感じ取った。
その声に、ひなみはともかく、『はらぺこあおむし』の歌と絵本に夢中になっていた千夏と忍足くんは、一緒になってはっとした。

「あ! あかん、千夏さん、何時!?」
「やば、11時51分!」
「あれ、取ってくれたチケット何時やったっけ!」
「じゅ、12時ちょうどだよ、まずいっ」
「うわ、間に合うやろか。もう、千夏さんしっかりしてえやあ」
「えーっ! わたしのせい!? 侑士さんにだって時間、言ってたじゃんっ」
「せやけどチケット予約してたん、千夏さんなんやからさあ」

めずらしく、ふたりが言い争っていた。喧嘩というほどではないけど、あたしからすれば、千夏は十分にイラッとしていた。あたしの親友は、スケジュールが狂うとすぐイラつく。長年付き合ってきて、その事実にあたしはすぐに気づいていたけど、忍足くんはまだ付き合いが浅いから、知らないとか? そろそろあの女の猫かぶりも限界だな、これは。ケケ。

「そんな、わたしにだけ責任があるってこと!?」ああほら、言っちゃった。
「え、誰もそこまで言うてへんやん。そない怒らんでも……ええのに」

忍足くんの言い方はとても穏やかなんだけど、千夏には無理だろう。千夏って、痛いところを突かれると冷静になれないんだよね、昔から。そゆとこ、急に短気。

「だってなんか、侑士さんの言い方……! なんか感じ悪いしっ」
「か、堪忍やって。なあ、機嫌直して。謝るから」

もう謝ってるし、なんちゅう甘やかしだろうか。そんなこと言ってたら千夏はつけあがるだけなのに。どっちが年上かわかったもんじゃないな、これは。

「だったら最初から言わな……え……あれ」
「なに? どないしたん?」

ふたりの言い争いに周助と顔を見合わせてニヤニヤしていたら、千夏がスマホを見て固まった。ひなみはもうすでに終わってしまった『はらぺこあおむし』の絵本を放り投げている。
ひなは、熱しやすく冷めやすい子だ。誰に似たんだか……。

「……ごめん侑士さん、わたしが予約してるの、昨日のチケットだ」
「は?」
「ごめ……」
「うそやろ? ちょ、待って。せやったらなんやったん、いまの時間」
「……そ……ですよね。あは、ははは」

一瞬、変な間が流れたあと、ふたりはくつくつと笑いだした。
それを聞いていたあたしと周助も、「ええー」と引きつつ、千夏の天然っぷりに笑ってしまう。

「千夏ってそういうとこ、あるある。喧嘩損だねー忍足くん」
「あるある。ホンマや、喧嘩損」めずらしく、忍足くんがあたしに賛同した。
「ないよっ! こんなミスはじめてだってば!」
「慌てる必要なくなって、よかったじゃない。ふふ」微笑ましいのか、周助もにこにこした。
「うう。はずかしい……」
「まったく、これやから……うちの奥さんは」

みんなに失笑されている千夏に、忍足くんは優しい。ちゃっかり、まだ奥さんでもないのに、奥さんとか言いやがった。ここぞとばかりに千夏の機嫌を取ったなと思うと、やっぱり、忍足くんのほうが千夏よりもウワテだ。

「ごめん……ホントに」
「くくっ。ええよ」
「ごめんね、侑士さん」

笑いながらも、千夏は、ぽーっとした顔で忍足くんを見つめていた。
ほら、ごらんなさいよ。35歳の女にそんなこと言ったら、もうメロメロに決まってるでしょうに。忍足くん、これだけ期待させて千夏と結婚しなかったら、怒鳴り散らしてやるんだから。

「ええって。ほな行ってから、どうするか決めようや。な?」
「うん、ありがと」

忍足くんに頭をぽんぽんされて、千夏はすっかりほだされたようだ。
数分後、「お騒がせしました」と、まだまだ笑いながら幸せで満たされたふたりを、あたしと周助も笑いながら見送った。

「なんだかあのふたりが来ると、いろんなことを思いだしちゃうね。ふふ」
「えー? 周助なに思いだしてたの?」
「覚えてない? 僕ら付き合う前に、映画を見に行ったじゃない」

ね? ひなみ。と言いながら、周助はひなみを抱っこして揺すった。大好きなゆさゆさ攻撃に、ひなみがきゃっきゃと笑い声をあげる。
ひなみが覚えているわけないのに、「ね?」と言っちゃう周助も、やっぱり少し天然だ。

「覚えてるよー、あの日、よく笑った気がする!」
「うん、僕らもおっちょこちょいだったよね、すごく近いもの感じちゃったよ、忍足たち見てると」

ちょっと、聞き捨てならない言葉じゃないのサ。

「いやいや。あれは、僕ら、じゃなくて、周助が、だから」
「もう、また僕だけのせい? 忍足みたいだね、伊織」
「ちょ、ホントのことじゃん!」

周助と出会ったのは中3のころ。彼の『助平事件』をきっかけに少し仲よくなったあたしたちだったけど(細かいことはこのひとつ前の話を読んでほしい)、その後、とくに目ぼしい進展のようなものはなかった。
周助がときどき声をかけてくれて、あたしもときどき、周助のテニスの練習を見学に行くようになって。だけど周助は、やっぱりあたしにとってはずっとずっと憧れの不二周助だった。テニスをする彼を見るようになってからは、余計にそう思うようになっていった。
周助は、あたしの想像をはるかに超えるほど、強い人だったから。
だから、あの『助平事件』は奇跡のような時間だったんだと、あとで思い知らされたのだ。
誰々さんが不二くんに告白したらしい、という噂を聞くたびに、うっと息が詰まるような思いをしながらも、あたしには周助に想いを伝える勇気なんか、到底なかった。

「でも僕、幸せだったな、あの時間」
「……まあ、それは、あたしもだよ」思いだすと、ちょっと柔らかい気持ちになる。
「あ……伊織かわいい。顔、赤くなってる」気づいたのか、周助が、ぷに、と指で頬をさしてきた。
「な、なってないよっ」
「なってるじゃない。忍足たちに触発されちゃったのかな? 僕の奥さんは」
「も、いいからご飯できたよ、食べよっ」
「ふふ。かわいいね、伊織」

赤く、なってたかもしれない。あの初々しい日を忘れることなんて、できないんだもの。
だって、あたしと周助のはじめてのデートだったんだから。バカバカしくても、この人とずっと一緒にいたいと思った、あの日……。
いまも周助と一緒にいて、「奥さん」になっている現実に浸って、胸がときめいてしまった。





それは、高校2年の冬休みの前日だった。
中3、高1、となんの進展もなかった周助との関係は、それでも長い時間をかけていたおかげで、クラスが離れても「友だちなの」と言えるくらいにはなっていた。
「聞いたよ、忘れたんでしょ?」と、あたしが古典の教科書を忘れると必ず貸しに来てくれたり(いま考えるとちょっと怖い)、「こないだ写真を撮ったんだ。佐久間さんも見て?」と、趣味の写真を見せに来たり。そういう、ちょっとした時間が蓄積されてきたような2年間だった。
にも、かかわらず。
あれほど「突然」という言葉がハマったことはない。周助は突然、あたしをデートに誘ってきたのだ。

「ねえ、佐久間さん」
「あ、不二くん。元気? どしたの?」
「うん、元気。あのね、お正月のあたり、どこか空いてない?」
「へ?」

そう聞かれたのは、終業式のあと、教室でバッグのなかに荷物を詰め込んでいるときだった。
お正月は、いつも家族と過ごして、2日はおばあちゃんの家に行って、無事にお年玉をゲットして……空いているとしたら、3日以降だった。でもなんで、そんなことを周助が聞いてくるのか、このときはまだ全然わかってなくて。

「うんとー、3日とかなら? 空いてる、ケド……」
「じゃあ3日に、僕とふたりで、映画を見に行かない?」
「へっ!?」

高校2年にもなれば、いや、なんなら中3のときだって、ふたりでどこかに行くということがなにを意味するかなんて、わかりきっている。
周助は、「僕とふたりで」と言った。はっきりと言った、と、あたしは心のなかで何度もくり返したんだ。

「佐久間さん、ディズニー好きでしょう? ほら、前に僕に話してくれた」
「え、あ、うん。好き、超好き、だいす……」好きを連呼している自分が急に恥ずかしくなった。ちょっとあたし、不二くんに言ってるみたいになってるじゃん!
「うん。それで、このあいだ公開されたのがあるでしょう? あれ、一緒にどうかなって」
「そ……な」

なんで? と聞こうとしたあたしは、ここで言葉をのみこんだ。そんなヤボなことを聞いてしまったら、女の質がさがると、なんとなく思ってしまったのだ。
それがヤボかどうかは、このときのあたしにはわかってなかったけど、不二くんが誘ってくれてるんだから、理由なんてどうでもいいっ! と結論づけた気がする。

「な?」
「なんでもない! 行く!」実は大晦日にでも妹のナルミと一緒に行こうと約束していたんだけど、あたしはその予定をすぐに捨てた。こういうあたしの現金さに、妹は慣れっこだ。「行きます、行きたい」
「あ、本当? よかった」周助が、本当に嬉しそうに微笑んだから、あたしもテンションがあがった。
「み、観たいって思ってたけど、一緒に行ってくれる人いなくて、ちょうどよかった!」それで、嘘までついた。
「ふふ。そっか。誘ってよかった。姉さんがね、いいよっておすすめしてくれたんだ」
「不二くんの、お姉さんが?」たしか、超美人って噂のお姉さんだ。
「うん。でも僕の周りも、一緒に行ってくれる人がいなかったから」

あ、と思った。そして嘘をついてよかったと、心から思った。あたしはこのとき、自分の気持ちを知られたら、やっぱり無し、なんてことになる気がして、嘘をついたのだ。不二くんは友だちとして誘ってくれているのに、あたしが不二くんのこと想ってるなんて知られたら、「思わせぶりなことしてごめん」とかなりそうだ、とか、あれこれ考えちゃって。
不二くんは男の子だから、ディズニーを一緒に観に行く人がいないのは頷ける。だから、ディズニーを好きだと言っていたあたしのことを思いだして、ちょうどいい、となったに違いない。
あたしも同じ理由で誘いに乗ってる、という現状が、とてもスッキリと、スマートでいいじゃん、とか、高校生らしいことを考えていたなと、いまでも思う。
大人になればわかる。きっとお互い、嘘つきまくりだったんだってこと。

「じゃあ、3日にオデヲンの前、13時でいいかな?」
「あ、うん!」
「ありがとう。また、当日ね」
「うん、ばいばい!」





と、約束はしたものの、あたしもうかつだったなと思ったのは、2日の夜だ。
「友だち」と人に言えるくらいの関係だったはずなのに、あたしと周助はメッセージアプリの交換もしていなかった。
毎日、学校で顔を合わせていたせいかもしれない。1週間に一度は声をかけられていたから、気にもなってなかった。「明日は約束どおり、13時にオデヲン前だよね?」とメッセージを送ろうとして、そんなことに気づいたんだから。
そして、あたしは思っていた。不二くんも大概じゃないか、と。
普通、デート……と言ってしまっていいのかわからないけど、こういう待ち合わせをするなら「連絡先、交換しとこう」とかいう提案があってもいいはずだ。でもあたしはもう知っている。不二くんが、天然だということを。
あたしから言うべきだったんだと、深く後悔した。
約束が反故になっていたらどうしよう、待ち合わせの場所で会えなかったらどうしよう、とかいろいろ考えたんだけど、学校の誰かに周助の連絡先を聞いたら、余計な勘ぐりを働かされそうで嫌だったし、あたしは結局、めいっぱいのオシャレをして、当日オデヲンに向かった。来てくれますように……と、電車のなかでずっと祈りながら。
到着してから、5分後だった。周助の声が、あたしの背後からかかったのは。

「佐久間さん!」
「……うわ」

振り返ったあたしは、不二くん、と声をかけるでもなく、微笑むでもなく、ただ唖然と両手で口もとを押さえて舞い上がっていた。
周助は紺のチェスターコートに黒パンツで、えんじ色のセーターから白いシャツをちょこっと出した大人スタイルで登場した。これがもう、めっちゃくちゃカッコよくて、「ひゃああああああああ」と心のなかで大絶叫していた。シンプルで、オシャレだし、超大人っぽくて、いつも学生服と青学テニスのユニフォーム姿しか見たことなかったあたしは、心臓が跳ね上がった。だいたい、えんじ色なんて、イケメンじゃなきゃ似合わない。

「ごめんね、待たせちゃったかな?」
「ううん。全然、待ってない!」

これはホントだ。こういうところで嘘をつくことにならないのが、あたしという人間だ。行動はいつもギリギリ。ギリギリでいつも生きていたいから。なんてな。

「それならよかった。あけまして、おめでとう」
「あ、そうだよね! あけましておめでとう」
「うん。今年も、ずっとよろしくね」
「ず、ずっと……? あ、うん! 今年もよろしく」

また天然かな? くらいに捉えていた。このときすでに周助があたしに告白しようと思っていたなんて、思いもしなかったし。まあそれは、さらに1ヶ月以上先になったんだけど。
でも、このデートをきっかけに周助が勇気を持ったってことは、いまになってわかる。

「じゃあ、入ろうか」
「あ、うん」

あたしたちはそうして軽くお決まりの挨拶をしてから、同時に映画館に歩き出した。
そこで周助は、思いだしたように言った。

「僕たちそういえば連絡先の交換もしてないって、さっき気づいたよ。ふふ」

約束したときに気づけや、お前が誘ったんだろ。とは、もちろん口が裂けても言えない。あたしだって前日まで気づいてなかったんだから、ここはお互いさまと言ってもいいか、と思った。偉そうなのは、昔からだ。
だけどあたしは一方で、そういう不二くんが好き。とか思っていた気がする。

「だよね! あたしも昨日になって気づいちゃって。へへっ」
「うん。だからいまのうちにしとこうかなと思うんだけど。どうかな?」
「あ、うん!」

チケットを買う列を待っているあいだ、あたしたちはお互いがスマホを持って、メッセージアプリを起動した。
周助と連絡先を交換できるみたいなんて、あのときは夢みたいだった。これで、もっと距離が近づくのかなと思ったら、嬉しくって。

「じゃ、僕がID言うね」
「え、あ、わかった」

普通、こういう面倒なのって男が受け持たない? とは思いつつ、あたしは素直にIDを検索窓に入れる準備をした。
不二くん相手に普通を求めちゃダメだ、と、すでに諦めの境地にいた気もする。

「f、u、j、i、s、y、u……」
「あ、不二くん、もういいやわかった」
「え、わかったの? 佐久間さん、すごいね」
「うん。あの、もうヒットしたから」

全然すごくないし、早い人はもっと手前で気づくはずだ。
だけど、「最初から『ローマ字で不二周助だよ』って言えや」とも、言わなかった。というか、こんな簡単なIDでいいんだろうかこの人は。まあだから、率先して言いだしたのか。
心のなかでぶつぶつと考えつつ、あたしは友だち追加やらスタンプを送ったりだのいろいろしていた、というのに。
突然、目の前でカシャ、と音がして、咄嗟に顔をあげた。見ると、周助がしっかりとあたしにスマホを向けて、うんうんと頷いていたのだ。

「え?」
「ふふ。ごめん。撮っちゃった。佐久間さん、オシャレだね」
「……と、撮っちゃったって」
「うん。僕、カメラ好きだからね」

そういうことを聞きたかったわけじゃないんだけど。いまなら完全に盗撮だと騒いでもいいぐらいのことを、周助は平気でやってのけた。
だけど、相手は周助だったから、あたしはここでまた、舞い上がっちゃって。
あたしの写真が不二くんのスマホに保存される!? と考えただけでドキドキしたのだ。
あたしも大概である。

「不二くん、そ……急に、はずかしいよ」
「あれ、ダメだったかな?」
「だだ、ダメじゃないけど! ほかでやったら、逮捕だよ……」
「え、盗撮じゃないのに?」

盗撮だろうがよ。

「変に、写ってない? うう」
「大丈夫。佐久間さん、かわいいよ」
「……そ、うそばっかり!」
「ふふ。信用ないのかな、僕って。あ、そうだ、もうチケット買ってたんだった」
「へ……?」
「ふふっ。ここに並んでる意味なかったね。入ろうか」
「……あー、うん、それなら、入っちゃおう!」

どこまで本気なのか全然わからなくて、わりと怖かった。たぶん、結構、本気だったんじゃないかとも思う。そんなんで、よく「信用」とか言えたもんだと思ってしまった。
あげく、連絡先の交換をしたというのに、周助はその場で友だち追加もしなければ、あたしが念のために送ったスタンプも確認しなかった。
思えばあれは、盗撮するための手段だったのではないか、と、周助に詳しくなったいまのあたしは思う。この人って、そういうところがある。一石二鳥、くらいに思ってそうで。
付き合ってからも、あたしがどれだけこの人にあらゆる写真を撮られてきたか……! ああ、まあいいや、それはまた今度にしよう……。

「すっごい、人だね……」
「そうだね。佐久間さん、大丈夫? 人ごみ平気?」
「うーん、得意じゃないけど。でも大丈夫」
「うん。具合が悪くなったりしたら、言ってね?」

席についてすぐ、周助はあたしを気遣ってくれた。この人はちょいちょい黒いオーラをまとったり、ぎょっとするような提案をしたり、ドン引きするような言動もあるのだけど、当時からずっと変わらないのは、こういったときの優しさだ。

「なにも買ってなかったね。時間、まだありそうだし、僕、行ってくるよ」
「え、いいの?」
「もちろん。佐久間さん、なにがいい?」

ここでも、人ごみのなかを歩かせたくないという周助の優しさを感じて、嬉しくなった自分がいる。

「ありがとう! じゃあ、コアラのマーチ!」
「うん、わかった。待っててね」

いまってどの映画館もかなり大きくて、綺麗で飲食物も豊富だけど、あたしがこのとき周助と行ったのは昔ながらの映画館で、簡素なカウンターにエプロンをつけた店員さんが二人。売っていたのは、市販のお菓子類にアイスクリーム、それっぽいポップコーンと、あとはその場で注がれるジュース類だけだった。
ちゃっかり売店をチェックしていたあたしは、そこに目をつけていた。いまでも無性に食べたくなることがある謎のお菓子、コアラのマーチは、「まゆげコアラがでると幸せになる」という口コミで爆発的ヒットを飛ばしていた。
あたしの時代にはすでに廃れたような口コミだったんだけど、当時のあたしは唐突にそれを思い出したんだ。
もし不二くんが買ってきてくれたコアラのマーチのなかから、まゆげコアラが出ちゃったら、不二くんと幸せになったりしてー! と、頭のなかはすっかりお花畑だった。
そこから10分経ったくらいだっただろうか。周助は階段を軽快にのぼって、あたしに向かってきていた。
でも、周助の姿を見つけたあたしの目は、点になっていたと思う。
だって、周助が右手に抱えていたのは、なんかすごいデカイもので……いや、正直言えば、もうこのときには気づいていたんだ。ただ、なにかの間違いであってほしいと、心のなかで叫んでいたような気がする。
でも間違いじゃなかった。周助は、あたしのとなりにトン、と腰をおろしてから、なぜかドヤ顔で言った。

「はい、佐久間さん。おまたせ」

おまたせ、じゃねえよ。

「ちょ、え?」
「え?」

わたされたのは、バカデカサイズのコカコーラだった。不二くんが自分のために買ってきたものでありますように、というあたしの切なる願いはここで途絶えた。
あとでわかったけど、なんとその量は1.3リットルのアメリカンサイズだった。あの映画館も、どうかしている。
周助の姿が見えたときから、嫌な予感はしていたんだ。あれはどう見てもコカコーラであり、コアラのマーチではない、と。

「これ……いや、え、あの……」
「どうしたの、佐久間さん?」

どうしよう、と思う。さっきから天然をぶちかましまくっている不二くんに、言うべきか、言わざるべきか。2年前に悩んだ自問自答を、またすることになるとは思っていなかった。
でも目の前の周助を見ても、やっぱりボケてる雰囲気じゃなかった。かなり真顔で、「これがほしかったんだよね?」という声のトーンからして、おそらく、素だ。つまり、完全に天然が発動している。

「うん……えっと」
「うん?」

神妙な時間だった。
たぷんたぷん、という音がするほど、コーラはよく冷えた状態で波打っていた。
なにをどうやって間違えたらこうなったんだろうと、あたしの頭のなかは高速回転だった。
そうした逡巡の結果、あたしはついに答えにたどりついた。ついにと言っても、1分くらいだったとは思うけど。
コアラのマーチ、コーラのマーチ、コーラのラージ……!
これかー! と気づいたとき、バカバカしすぎて……周助には悪いけど、ぷっと吹きだしてしまっていた。

「ど、どうしたの佐久間さん? なにか、おかしかった?」
「いや、あたし、コアラのマーチって言ったん、だけど」
「え……」
「こ、これ、ひょっとして、コーラのラージ? ぷふっ」

そこでようやく周助も気づいたのか、「あっ」と口をあけたまま、ぷっと吹きだした。

「だ、だって、誰が飲むの、こんなに。くくっ」
「ごめん。僕も、佐久間さん、すっごく飲むんだなって思ったんだ」

よく考えたら、わかるよね、と、周助はめずらしく自分でツッコんでいた。
ていうか、思ったのかよ。マジでよく考えろよ。

「あははっ。ごめん、あたしの滑舌が悪かったんだ、きっと!」それでも、当時のあたしは健気だった。
「ううん。僕が聞き間違えちゃったから。ふふふっ」

ふたりで爆笑して、やっぱりすっごくバカバカしかったんだけど……だからこそ、かもしれない。このとき、あたしの望みは、一瞬にして変化したから。

「コアラのマーチとコーラのラージ……はははっ、不二くん、天才っ」
「あ、傷つくなあ。そういう意味で天才って言われたことないよ、僕」いえ、みんな隠れて言ってると思います。
「あははっ、だって。ごめんごめん」
「僕、耳鼻科とか行ったほうがいいかな、ふふっ。佐久間さん、トイレ大丈夫かな、とか余計なこと考えちゃったよ」

こんな時間を、不二くんとずっと一緒に過ごしたいって、欲張りにも思ってしまった。

「ていうか、こんなわんぱくな女子、いないじゃんっ」
「佐久間さんなら、ありえるかなって」
「もうー、どういう意味なのそれー? ひどいー」
「ふふ、ごめんごめん」

こんなふうに笑い合いながら、ずっと一緒にいれたら幸せだって、たしかに感じたんだ。

「じゃあ、これ、一緒に飲もう? 僕も喉が渇いてきちゃったから」
「えっ……あ、いいの?」
「うん? いいって?」

あたしの想いが急激に変化した瞬間に、周助がそんなことを言いだしたもんだから、あたしはすごく、驚いた。
どんなにバカデカサイズのコーラでも、ストローは1本しかついていない。そうなると、間接キスになっちゃう! と思ったあたしは、内心、きゃー、と慌てていた。慌てていつつも、すごいラッキーだと思っていた。
不二くんと間接キス、不二くんと間接キス、不二くんと……!

「僕、これ持ってるから。はい、真ん中に置いておくね」
「え」

と、舞い上がっていたのは、つかの間だった。
周助は、バッグのなかからポケットサイズのウェットティッシュを出してきたのだ。

「これで毎回拭けば、大丈夫だから。ね?」
「……そう、だね」

周助は、とてもにっこりしていた。なぜ、ほかのことにはバカまる出しのくせして……あ、いやこれはまたまた、言いすぎました。……ほかのことには天然のくせして、こんなときだけ、余計なことに気がつきやがる。
周助のこういうところが、あたしは昔から、解せない!
とにかく、このときのあたしが苦い気持ちになったのは、言うまでもないでしょうよ。

「ねえ佐久間さん、こんなにコーラがあるし、コアラのマーチはもう……」
「え、ダメだよ」
「え」
「だってあたしコアラのマーチ食べたいんだもん」

苦い気持ちになったせいで、あたしは強気に出てしまった。『助宗鱈の助』と言われたときのようなイライラが、間接キスの前にウェットなティッシュで拭き取るという提案の用意周到さで、よみがえってしまったのだ。
それに、まゆげコアラ見つけたら、不二くんと幸せになれるかもしれないじゃん! と、もうすぐ17歳になるというのに、あたしはとても子どもっぽく、そんなことを考えていたのである。

「あ、そうだよね。ごめん。じゃあ僕もう1回、行ってこようかな」

あたしのちょっとした怒りが、周助には伝わったのかもしれなかった。このとき、周助は困ったような顔をして席を立ったから。
その表情にはっとしたあたしは、嫌われたくない! という気持ちが先行して、かなり思い切った行動に出ていた。

「あ、不二くん!」
「えっ」

衝動的に、周助のえんじ色のセーターの袖口を、つかんでいた。つかんだのは自分なのに、心拍数があがっていって。うわあ、なにしちゃってんだろう、という内心の叫びは、それでも手を離す、という選択肢につながらなかった。

「ふ、佐久間さん?」
「あの……」
「どう、したの?」
「その……今度は間違えないように、一緒に、行こうかなって」

もう、間違えるはずもないのに。苦しまぎれにそう言った。だけど、周助はそれを、ちゃんと受け止めてくれたんだ。

「え……いいの? 人、いっぱいだよ?」
「……うん、あの」
「うん?」
「……ひとりで待ってるの、なんかさっき、ちょっと寂しかった、し」

はあああああ、言っちゃった! と、あたしは顔を伏せた。
周助の顔なんて見れなくって、なんか告白してるみたいな気分になっちゃって。
だけど、そのあと……周助の袖をつかんでいたあたしの手が、ふわっと、あたたかいぬくもりに包まれた。

「えっ」
「じゃあ……こうしたら、寂しくないね」

顔をあげると、周助の手が、あたしの手を握っていた。周助のそのあたたかさと、その声に……あたし、このまま、死んじゃうんじゃないかって思って。

「このまま、行こう?」
「ふ、不二く……」手、というあたしの言葉は、声にならなかった。
「階段、ちょっと急だし。あっちは人が、いっぱいいるから。はぐれちゃったら、困るし、ね?」

手をつないだ理由を、周助はなんでもないように、そう言って。
あたしは思わず、周助の手を、きゅっと握ってしまった。でも周助も、すぐにきゅっと握り返してくれて。

「ふふ。大丈夫。離さないから」
「あ……う、うん」

指先が、どんどんしびれていった。緊張っていうより、この手から、あたしの想いが伝わっちゃうんじゃないかって、ドキドキして。本当に、死にそうで。

「大丈夫? 転ばないでね?」
「うん、だ、大丈夫」

そうして、自分の胸を落ち着けようと、うまく言葉も出せないままに手を引かれて向かった売店は、まだ行列でいっぱいだった。うしろに並んで、並んでるあいだなんて、はぐれようがないのに……それでもあたしたちは、ずっと手をつないだままでいた。

「……あったかいね、佐久間さん」
「えっ!」
「ふふ。体温、高いのかな。コーラ飲んで、冷やさなきゃ、だね。僕もすっかり、熱くなっちゃってるけど」

にこにこと、いつもの笑顔で、周助ってば、超思わせぶりなことを言ってきた。
あー、思いだしたら顔がニヤけてきちゃう。あたしと周助にだって、そんな時代があったんだ。
でも周助がすっとぼけていたのは、このときもそうだった。
ようやく行列が終わって、コアラのマーチを買った直後に、ぽつ、と言った。

「僕、アイスも食べたくなってきちゃった」
「へっ!? あのでも、映画……」そろそろ時間が迫っていた。しかも、行列はまだつづいている。
「買ってもいい?」
「……あ、うん、もちろん!」

先に言えや! と、言いそうになる口を、懸命に閉じた。
ディズニー映画だからちゃんと最初から観たかったのに、という思いも、もちろんあったけど……あたしはとにかく、周助とつながっている手を、離したくなくて。
このときのあたしの欲求は、もう完全に周助に傾いていた。不二周助という人は、あたしが長年愛を注いできているディズニーを、手をつないだだけで、悠々と超えたのだ。

「なんだか、人が急に減ったね?」
「うん、……そうだね」

それは映画がはじまっているからです、とも、言えなかった。そんな天然っぷりを、このときは愛していたんだと思う。いまなら怒る、たぶん。
そしてもちろん、アイスを買い終わったころには、映画の本編がはじまっていた。

「あ、はじまっちゃってる……」
「うん、だね」

気づいてなかったんかい! とも、言えない。
わかりきったことを口に出した周助に、あたしはくすくすと笑った。

「ごめん、佐久間さん。最初から観たかったよね?」
「ううん、大丈夫。でもちょっといまは、進んでいけないね」
「ふふ。うん、そうだね。ここでちょっと、じっとしてようか」

ふたりでくすくす笑いながら、あたしたちは出入り口付近で、手をつないだまま、じっと映画を観た。別世界のディズニーの映像は、それだけで十分、あたしの気持ちを盛り上がらせた。
ときどき、周助がぎゅっと力を入れる手に、あたしもぎゅっと握り返す。そんなことが何度もあって、あたしたちはそうして、想いを伝えあっていたようにも思う。
このときは全然、そこまでは気づけなかったけど。

「いまがチャンスだね、行こうか」
「うんっ」
「真っ暗で、危ないから、ね? しっかり、握ってて」
「……う、うんっ」

少しだけ物語が落ち着いたころに、周助は握っていた手を、また強く握って、あたしを守ってくれながら、席まで引っ張ってくれた。
席に座る前に、ゆっくりと離れた手が、名残惜しかった。ああ、今日はもう、この手を洗いたくない! とか思っちゃって。
不二くんも同じ気持ちだったら嬉しい……そんな思いを込めて横を見ると、彼はすぐにウェットティッシュで、ゴシゴシと手を拭き上げていたのだ。

「……」へえ、である。
「まだ序盤だね。よかった」

と、彼はのん気にアイスクリームの蓋を開けていた。
だから、あたしの舞い上がった時間は、完全にそこまでだったんだけど。
まあ……そうだよね。手っていっぱいバイキンついてるし、アイス食べるんだもんね、と、あたしはなんとか自分を納得させた気がする。
そして暗闇のなかで、あたしはまゆげコアラを必死に探した。でも結局、この日、まゆげコアラは出てこなかったっけ。





そこまで思いだして、ニヤニヤしていたというのに、しらっとした気分になってしまった。
手をつないだとこで回想を止めておけばよかった。
よく考えたら、あんなに手をゴシゴシ拭きまくらなくったって、いいじゃないか。

「懐かしいね。結局、コーラはなくならなかったよね」

周助も同じように思いだしたのか、あたしのつくったパスタを食べながら笑っている。

「だってとんでもない量だったもん。あのとき、ウェットティッシュめちゃくちゃ使ったよー。折りたたんで拭くけど、それでもポケットサイズだと小さかったから」
「ふふ。伊織が毎回、親の仇みたいに拭くから、ああ、よっぽど僕との間接キスが嫌なんだなって思ってたよ、僕」
「えっ! だって、ウェットティッシュ出したの周助じゃん!?」ていうか自分だって、手を離したあとに、ゴシゴシゴシゴシ、拭いてたくせに!
「あれは、気遣ったんだよ、わかってるでしょ?」
「わかんないよそんなのっ。そんな、周助があたしのこと好きなんて、思ってもなかったんだからサー」
「僕が思い切ってデートに誘って、手までつないだのに、鈍感なんだから」
「ど、鈍感はどっち!?」

周助ぐらいモテてたら、自信満々でおかしくないのに、この人はいつも、肝心なところですっとぼけている。そういうところは、いまも変わらない。
でもたしかに、周助は付き合ってからは自信満々だったけど、付き合う前はすごく繊細にあたしの気持ちを探っていたな、と思う。いまさら、なんだけど。

「どん、かん」
「そうだよ、ひな。パパ鈍感」
「あ、また変なこと吹き込んで。違うよひなみ。ママのが鈍感だからね?」
「どん、かーん、どっかーん」
「そうそう。鈍感でどっかんしちゃうんだよ、ひなみのママは」
「どっちが変なこと吹き込んでんだよー」

そうは言いつつ、お互いが顔を見合わせて笑いあった。そう、こんな家族の時間が、あたしはなにより大切で、あたしの欲望はこの14年間、ずっと叶えられてるんだって思う。
こんなとき、いつも恋の神様に感謝する。こんな幸せをくださって、ありがとうございます、って。よく喧嘩もするあたしたちだけど、あたしにはやっぱり、周助じゃなきゃダメだから。

「でも伊織、気づいてなかったでしょう?」
「うん? なにが?」
「伊織はコーラ、飲む前にこれでもかってくらい、ウェットティッシュで拭いてたけど」
「だからそれはー、周助がそうしろって言ったんじゃん!」

しつこい。しつこさ天下一品。

「うん、だけど僕が飲むときは、拭いてなかったんだよ?」
「え?」

うそでしょ? 周助が口つけるとこなんて、じっと見てたら気味悪がられると思って、わざと見ないようにしていたのは、たしかだけど。
ていうか、ディズニー映画の内容、全然覚えてなかったから。結局あたし、あのあとナルミともう1回、観に行ったくらいだ。それくらい、緊張してたんだもん。

「ほらね、伊織のほうが鈍感」
「ちょ、それって……」
「ふふ。当然、伊織の間接キスがほしかったから、だよ」いまはもっとくっつけるけど、ね。と付け加えた。
「も、周助、そういうの、も……へへっ」

もう子どもまでいる、いい夫婦だってのに、いまだにニヤける自分が、はずかしい。
周助はくすくす笑いながら、食事を終えた食器を持って立ち上がった。
そうしてキッチンまでそれを運んでテーブルに戻る手前、そっと、うしろからあたしの肩に手を置いた。
その手のぬくもりは、いまも変わらず、あたしに注がれている。

「伊織のあとのコーラ、甘くておいしかった」

耳もとで、ささやいてきた。ちゅ、とそのまま耳にキスが落ちてきて。
うう、ひなみが目の前にいるのに、なんて人なんだろう。いろいろ思いだしちゃったから、平気で胸がうずいてしまう。

「周助、変態っぽい……」負け惜しみで、そう言った。
「もう、すぐ変態あつかいするんだから。困ったなあ、僕の奥さんは」
「も、周助、ご飯、食べれないっ」
「ふふ、離してあげない」

うしろから抱きしめて、ずっと首筋にキスを送ってくる周助を、ひなみは「パパおいち?」と言いながら、にこにこ見ていた。

「おいしいよ? ママは世界一なんだ」
「おー、ママ、おいち。ひなもー!」
「変なこと吹き込まない!」

この子も周助の血を受け継いで天然かもしれないと思いながら、苦笑した昼下がりだった。





fin.
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