sweet hot spa



指先に、そっとぬくもりが落ちてきた。
流れる景色が綺麗で、ぼうっと外を眺めていたから、はっとする。目が合うと、先輩はふっと微笑んで言った。

「外ばっかり見ちょらんと、たまには俺のことも見てくれんか?」
「ごめんなさい、運転の邪魔になっちゃいけないと思って……」
「ははっ。伊織、まともに受け取りすぎじゃって」
「え」
「じゃけどその返事は、本当ならずっと俺の顔を見つめときたいっちゅうことか?」
「ち……も、先輩ずるい……」

また、からかわれてしまった。
先輩は、すごく大人だ。29歳だから大人なのはあたりまえなのだけど、精神年齢がわたしよりも数倍、大人だ。よく、女の精神年齢は上でも下でも男より上、と聞くのだけど、先輩とわたしに限っては、それはまったく当てはまらない。わたしだって26歳のいい大人だというのに、いつまで経っても後輩である。

「そろそろ着くかのう。着いたら近くの散歩でもするか? ずっとドライブで、窮屈じゃったろ?」
「ううん、全然、平気! でも、お散歩は、したいな。先輩と……」
「ん、もうすぐじゃき、待っちょっての」

先輩と知り合ったのは、18歳のときだった。大学の先輩で、モテモテだった。噂のイケメンを見ようと、ミーハーな友だちに連れられて見かけたのが最初だ。瞬間、顔が熱くなるくらい、素敵な人だった。だけど、絶対に好きになっちゃいけないタイプだってことも、同時に理解していた。だから先輩には、近づかないようにしていたのに。

「テニスコートでも近くにあれば、汗が流せるんじゃけどのう」
「え、先輩もしかして、持ってきたの? ラケット」
「いや? 伊織がどうも乗り気じゃない気がしたんでな、やめちょった。が、コートあればラケットくらい貸してくれるじゃろ」
「無理ですっ。わたし汗だくになっちゃう、はずかしいもんっ」
「んー、じゃからええんじゃけど。わかってないのう、お前は」
「え……」

大学のときにテニスサークル部に入ってテニスをやりはじめたわたしは、先輩がプロ並のテニスプレーヤーだということを知らなかった。先輩はサークルにも入ってなかったし、気まぐれなお遊び程度のつもりだったのだろう。突然、声をかけてきた。そのとき一緒にテニスをしていたのが、またミーハーな友だちで……どういうわけか、男女でペアを組んでダブルスをすることになった。それが先輩と話すようになった、きっかけだった。

「汗だくになるのが、いいってことです?」
「汗だくの女はそそるんよ」
「……先輩、変態っぽいよ」
「好きに言いんさい。男で賛同せんヤツはおらん」

対戦相手はそのミーハーな友だちと、柳生先輩という、こちらもプロ並のテニスプレーヤー。結果、わたしと先輩は負けてしまったのだけど、そのとき、一度だけ4人で食事に行った。なにかの縁だから、と言われて。
そこから、先輩はときどき、わたしにいたずらをしかけてくるようになった。もうそれで、すっかり虜になっている自分にも気づいていた。だからこんなはずかしがりのわたしが思い切って一世一代の大勝負に出たのが、大学2年のときだ。
大学を卒業してしまう先輩に、わたしは想いを伝えたかった。

――仁王先輩のこと、ずっと、好きでした。あの、よかったら……!
――すまん佐久間。俺、ずっと付き合っちょる彼女がおる。気持ちは嬉しいが、それに応えることはできん。すまんの。

先輩は、即答だった。
そして、そのずっと付き合っている彼女のことを、わたしは知っていた。だけど、別れたという噂を聞いていたので、思い切ったのだ。でも結局、先輩は彼女とは別れてなかった。あの噂だけは、いまも苦い。あれさえなければ、わたしが先輩に身の程もわきまえずに告白するなんてこと、きっとしなかったと思うのに。
先輩の彼女は、先輩よりもさらに4つ年上の、とっても綺麗な大人のお姉さんだった。ときどき、大学に来ていたのを何度か見かけたことがある。先輩、いつもすごく嬉しそうな顔して笑っていて……。いま、こうしてとなりにいるのは自分なのに、思いだすだけで、胸が痛い。

「伊織? どうした?」
「えっ」

なにを思いだしているのだろう。いま、彼女なのはわたしだ。自信を持たなければ。
あれから先輩は就職して、わたしも大学を卒業して、それまで会うことはなかったわたしたち。
それが、やっぱり不思議な縁というのはあるもので、わたしは転職先で、先輩に再会したのだ。そして恋心が、あっという間に再燃した。昔から先輩は、麻薬みたいな人である。

「なんかぼうっとしちょるのう? 眠くなったか?」
「大丈夫! もうすぐだから、わくわくしちゃって」
「ん。期待しちょってええぞ。俺もはじめてじゃけど、部屋、よさそうじゃったき」
「うん、楽しみっ!」

再会してから1年後、前回のことがあったので、好きだけどずっと見つめているだけの毎日だったというのに、思ってもみなかったことが起こった。

――佐久間のこと、好きなんよ。俺と付き合ってくれんか?
――え……わ、わわわたしなんかで、いんですか?
――そんな言い方せんでくれ。俺はお前じゃないと、嫌なんじゃって言うちょるんよ。

なんと3ヶ月前、先輩がわたしに告白をしてきたのだ。あれほど、いままで一度も信じたこともない、神という存在に感謝したことはなかった。そういうわけで、わたしはずっと好きだった先輩になるべく粗相がないようにと、なんとか今日まで付き合ってきている。
顔が……ニヤけてしまう。そんな先輩と、はじめての旅行だったから。
都会ではなかなか目にすることのない、たくさんの緑に囲まれた道。歩いていくと、のどかな雰囲気をしっかり残している趣のある建物がわたしたちを出迎えてくれた。
先輩が、わたしのためにいろいろ調べて、予約してくれた旅館だった。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、仁王様。お部屋へご案内いたします」

歩くたびにわくわくする。
なんの変哲もないただの連休なのに、先輩はわたしのおねだりを聞いてくれたから。

――今度の連休……先輩と旅行してみたいなあって、思うんですけど……先輩、どうかな?
――旅行か。ええのう。なら俺がプラン立てちゃる。伊織は楽しみにしちょきんさい。

そうして先輩が選んでくれたのが、この旅館だ。
ゴールデンウィークの激戦だというのに、先輩がこんな素敵な旅館を予約してくれたというだけで、もう嬉しい。
青さがふんだんにただよってくる風の、気持ちいいこの季節に、先輩と温泉に来れるなんて……わたしは、一生分のラッキーを消費したような気分になっていた。

「それでは、どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」

と、先輩は紳士的に言った。そういうところも、大好きで、たまらない。
仲居さんから部屋の説明を受けたあと、わたしはすぐにお庭を見た。
広大な敷地に点在する一軒家のような離れは、すべて2階建てだった。
大きな庭を配した古民家調のお部屋は、和の趣のアンティークやアジアンテイストの家具をしつらえていて、懐かしさをかもしだしている。
そして、海に向かって開かれた絶景の緑のお庭には、デッキチェアと大きな露天風呂が備えられていた。極上としかいいようがない。
あまりの非現実空間に、感嘆のため息が出ていった。

「すごい……」
「気に入ったかの?」

うしろから、先輩がそっと抱きしめてきた。これまた、うっとりに拍車をかける。先輩の香りがふんわりと鼻をくすぐって、どんどん体が熱くなってしまいそうだ。

「こんな高そうなところ……よかったんですか?」
「そんなこと気にせんでいいって。来たかったんじゃろ? 温泉」
「はい……先輩と、旅行してみたかったから」
「それなら細かいことは忘れて、思いきり楽しみんさい」

嬉しくて、先輩に顔を向けると、優しいキスが落ちてきた。
お酒も飲んでないのに、酔いつぶれてしまいそうになった。





荷物を置いて、わたしたちは約束どおり、さっそくお散歩に出かけた。
仲居さんに聞いたところによると、近くに竹の小径があるとのことだった。気持ちのいい季節だが、歩いてしまうとやっぱり汗をかいてしまいそうなので、わたしたちはその服装のまま散歩に出ることにした。
予想はしていたけれど、ここも、別世界だった。
すっと伸びた竹が囲む小径は静寂に包まれている。心身が癒されていくというのは、こういうときだ。穏やかな気持ちになったのは、わたしだけじゃなかった。

「ああ、癒やされるのう。仕事のことがすっかり頭から消える」ちょうどあったベンチに座って、先輩は空を見あげた。
「先輩、最近、疲れてたもんね」
「あのプロジェクトしんどいんよ……連休前じゃったから、詰め込んだしのう」
「同じチームだったら、たくさんお手伝いできたんだけどなあ」
「んー……それじゃと、俺が伊織のこと気になって、仕事にならんから」
「も、嘘ばっかり……」

付き合う前の先輩にもすっかり虜だったわたしだけど、付き合ってからの先輩は、本当に優しくて、甘くって……もうどっぷりだ。
こんなに甘い人だったとは思っていなくて、付き合いたての1ヶ月は、心臓がいつ止まってもおかしくないくらいだった。

「照れちょるんか?」
「それは……はい、少し」
「ははっ……かわいいのう。伊織、こっち向いて」
「うん……」

サワサワという心地よい葉づれの音、風が運ぶ竹の香りのなかで、先輩の唇が、何度も触れてくる音がする。
はずかしくなってうつむくと、先輩はわたしの顎を持ちあげて、ふっと笑った。

「伊織は、慣れる気配がないのう? 俺とのキス」と言って、また、短くチュッと触れてくる。
「……先輩のせいだから」
「それは、褒め言葉か?」
「ドキドキ、しちゃうんだもん……」

ぷっ、と、先輩が吹き出した。
悔しい、といつも思う。子どもじみているわたしは、いつもこうしてからかわれるときに、先輩の前の彼女のことを思いだしてしまっていた。
いつ別れたのかは知らないのだけど、わたしが彼女を最後に見たのは、先輩が22歳のときだった。つまり、当時の彼女は26歳。いまのわたしと同い年だ。
どう考えても、あんな色気たっぷりのお姉さんにはなれていない自分に、わたしはずっと引け目を感じている。あげく、あのときから6年も経って、先輩もぐんと大人になってしまったから、余計かもしれない。
先輩がどうしてわたしと付き合いたいと思ったのかはわからないけど、わたしが先輩の好みのタイプとはかけ離れているだろうなということも、わたしにはよくわかっていた。

「また、笑った……」
「伊織がかわいいからじゃって」

いろいろ考えているとなんだか切なくなって、わたしはじっと先輩の来ているシャツを眺めた。カラリとした、ブルーの七分袖のシャツに、黒のゆったりとしたパンツ。シンプルだからこそ、先輩のイケメンっぷりを際立たせている。
その上から2番目のボタンがとれかけていることに、わたしは気づいた。

「先輩、ボタン……」
「ん? お、外れそうじゃの」

先輩はそれをブチッと取って、パンツのポケットにしまいこんだ。外れたボタンは、自分でつけなおすつもりなのだろうか。
そこまで考えたときだった。これまでまったく思いだしたこともないような記憶が、脳裏によみがえったのだ。
前に、先輩と前の彼女を見かけたときのこと。遠目で、声だけ聞こえてきた、あの日。

――雅、ボタンとれかけてるよ。
――おっと……なあ、これ、家に帰ったらつけてくれんか?
――もう、しょうがないなあ、雅治は。やってあげるよ。

あの人には、先輩、おねだりしてたな……と、思いだして卑屈になった。
わたしにはなにも言わないまま、ポケットにしまいこんじゃって……。それだけで、ああ、あの彼女とわたしはやっぱり、先輩のなかでは違う人種なんだろうなと思った。

「さて……そろそろ戻るかのう」
「あ、うん!」

手をつないで歩いてくれる先輩の気持ちを、疑っているわけじゃない。
でも先輩に、「ボタンをつけて」と言われるくらいには、頼られる彼女になりたいと思った。





「さて、じゃあ風呂に入るか」
「うん、お先にどうぞ」

お部屋に戻ってからお庭の絶景を眺めてお茶を飲んでいた。先輩は張り切ったように服を脱ぎはじめていて、わたしが目のやり場に困っていた矢先のことだった。

「なに言うちょる。一緒に入るに決まっとるじゃろ」
「えっ」

まったく予想していなかったわけじゃない。外が暗くなってからは、あるかなとも思っていた。だって、露天風呂がそこにあるから。
だけどわたしと先輩は、一緒にお風呂に入ったことなんてなくて……だから、まだこんなガンガンに日が差している時間帯に一緒に入るとは、思ってなかったということもある。

「だって、裸になる……ますよね?」動揺で、口が回らなくなっている自分に気づいて、余計にはずかしくなる。
「あたりまえじゃろ」

呆れたように言う先輩は、やっぱりすごく大人だ。先輩にとってはこんなこと、なんてことないのはわかっているんだけど……わたしは、あまり慣れてないから。

「う……そ、ちょっと、はずかしい……な」
「何度も裸になってきちょるのに、なにがいまさらはずかしい? なんのために部屋付き露天風呂にしたと思っちょる」このためだったんですか、と聞いたところで、即答で返事されそうだ。
「で、でもまだ明る……」
「先に入るのがええか、あとに入るのがええかくらいなら、選ばせちゃる」

問答無用、と言わんばかりに上半身裸で腰に手を当てている先輩に文句など言えなくなってしまい、わたしは少し、時間をかけて考えた。
先に脱ぐのは気が引けるけど、あとに入ったらたぶん、先輩はあの露天風呂に入るまでじーっと見てくるだろうから、だったら先に入って、先輩が来るのを待っていたほうがいいような気もする。
いやどっちにしても、このお庭がある限り、丸見えなんだけども……それでも……っ。

「先!」
「ええよ。じゃあここで待っちょくから、はよ入ってきんさい」
「脱いでるとこ、見ないでね……?」
「わかったわかった。まったく、どうせ脱ぎきったとこ見るっちゅうのに……」

なにやらぶつぶつと言っている。面倒くさい女だと思われただろうか。
大人の女性なら、豪快に脱いで、「雅治、早く来なよ!」とか言うのかな……うーん、わたしのキャラじゃない。
あれこれと考えながらも、わたしは服を脱いで、広くて四角い露天風呂のなかに、そっと身を沈めた。お湯は少しぬるめで、長風呂ができそうなほど、気持ちがいい。海からくる風も穏やかで、お風呂で火照っても、いい体温を保ってくれそうだった。
やがて、ガラガラ、と扉の開く音が聞こえた。まったく振り返ることもできずにいると、ちゃぷん、とうしろで気配がする。覚悟をして目を閉じると、あっという間にうしろから抱きすくめられてしまった。

「ひゃあっ」
「はずかしがりやじゃのう。俺、変質者じゃないんじゃけど?」
「わかってるけど……はずかしい」

おっぱいが、丸見えだ。その真下に、先輩の綺麗な腕が交差していて、わたしの足の横に、長い足が伸びていて、あげく、お尻あたりに……先輩のが……あ、当たってる……。

「なにをもぞもぞしちょる、伊織?」
「だ、だって……」
「……伊織に興奮しちょる俺が当たって、はずかしいか?」
「あっ……ンっ」

耳元でささやかれたと思ったら、そのまま耳を舐められた。体がビクッと反応してしまう。
それを楽しむかのように、先輩はふっと笑って、わたしの顔を真横に向けた。
唇に、舌が滑り込んでくる。先輩の指先が、そっとわたしの乳房の先端を揺らした。

「あっ……せんぱっ……」
「ここで、こういうことしたかったんじゃけど……伊織は、嫌か?」
「そん、そんなこと、ないけど……ンッ、あ」
「伊織、ここ弱いよのう。かわいい声だな」

先輩の手が、わたしの全身をたしかめていく。するすると潤いをもなでて、わたしの体をくるっと、向き合うように座らせると、さっきまで揺らしていた胸の先端に、何度もキスをくり返した。

「ほら、つけて」
「いつのまに……」
「俺は、最初からそのつもりじゃき」

先輩が口で封を切ったコンドームを受け取って、先輩の手と一緒につけていく。
そのまま上に跨って挿れるように促されて、わたしは先輩にしがみついた。

「あっ……ンッ、はあっ」
「ほら、伊織……自分でしっかり、動いて」
「んんっ、雅くん……っ、あっ、あんっ」

いつも、このときだけは、「雅くん」と、呼んでしまう。
いつからだったかわからない。先輩が、名前で呼んでって言って……つい、呼んじゃって。
先輩、そのとき、なんだか喜んでたから。

「はあっ……伊織、もっと揺れて……俺のこと、気持ちようさせて?」
「雅くん、あっ、ンン……!」
「ん……ええよ、伊織……俺も気持ちいい」

今日だって、優しい顔して、たっぷりキスを送ってくれる先輩が、愛しい。





穏やかな風が髪の毛を揺らして、頬にくすぐったさを感じたとき、目を覚ました。
伊織の背中が、俺から離れた場所で丸まっている。なにやらゴソゴソと動いている彼女を見て、また、愛しさがわいてきた。
露天風呂で愛し合ったあと、まだいじめ足りなくて、結局はベッドになだれ込んだ。こんな休日も、たまにはいい。
年下と付き合ったのは、はじめてだった。俺の家庭環境が影響しているのかはわからんが、俺はいつも、だいたい年上とばかり付き合っていた。
とくに選んでいたわけでもない。ただ、惹かれるのがこれまでずっと年上だっただけなんだが、伊織には再会してからというもの、強く惹かれた。
なんせ、この女は我慢強い。仕事に対する姿勢がまっすぐで、努力を惜しまない。大学のときに知り合ったこの年下の女は、いつもどこか抜けていて、ぼんやりしている印象しかなかったっちゅうのに、社会人として懸命に働く伊織の姿は、俺にとっては新鮮で、意外性のあるものだった。
仕事に邁進している女は、とにかく綺麗だ。俺は再会して1年後に、伊織に告白した。一度は振ったことがあるのも、当然、覚えていた。それでも伊織は、俺を受け入れてくれた。
健気な一途さを感じたせいか、付き合ってからというもの、どうしようもなく、かわいい。

「ああ、うまくいかない……」

ひとりごとなのか、まるで俺から隠れるようになにかしている伊織の背中に、俺はそっと近づいた。まだ付き合って3ヶ月。伊織の初々しい反応は、これまで付き合ってきた女のどれとも違っていて、またそれが、俺を陶酔させる。

「なーにしちょる」
「ぎゃあ!」

思いきり抱きつくと、チクッと指先に痛みが走った。
瞬間、伊織が固まって、俺も固まった。痛みの走った先に視線を送ると、小さな針の先端が、俺の指先に刺さっていた。

「ああああああっ! 先輩っ!」
「おう、針か」どおりで、痛いわけだ。ちゅうても、ほんの少しだった。
「やだっ! ごめんなさいっ」
「いや、大丈夫だ。俺がいきなり抱きついたからじゃの」
「やだやだ、血、血が出てるっ!」
「そりゃ、針を刺したんじゃから、出るじゃろうのう」

たいして痛みはなかったんだが、伊織は大げさに慌てふためいた。
まあ伊織の性格なら、無理もないかもしれん。
俺の指先からは、てんとう虫くらいの血が溜まっていた。

「ごめんなさい先輩っ、ごめんなさいっ!」
「ええって」
「だって、ああ、もう、わたし、不器用だからっ」
「ははっ。針なんか持って、なにしよったんじゃ?」

指先を舐めながらそう聞くと、伊織ははっとして、顔を真っ赤にしてうつむいた。
手元を見ると、俺が今日着ていたシャツが、そこにあった。

「ひょっとして……ボタン、つけようとしてくれちょった?」
「……とれかけてたから……仲居さんに、お願いして……お裁縫道具、借りたんです」

しょんぼりとした伊織の膝の上に、小さなケースに入ったソーイングセットが置いてあった。
なんでこんなにも、かわいいことをするんじゃろうか……こいつ、裁縫は大の苦手のはずやが。

「ごめんなさい、本当に、ごめんなさいっ」まだ、謝っている。
「……伊織、舐めて」
「へっ?」
「血、また出てきちょるから」
「え……あ、は、はい」

俺が舐めた指先を口もとまで持っていくと、ちゅうっと伊織は素直に指を舐めた。
あー、さっき抱いたばっかりじゃっちゅうのに。この無垢さに、また興奮してくるんじゃけど。この天然は、まったく気づいとる様子もない。まあ、やらせたの、俺じゃけど。

「止まった、かな……」
「ん……今度は、俺が止まらんようになった」
「へ? ……ンッ!」

そのまま深く口づけて耳のなかに指を挿し込むと、甘い吐息が漏れでていく。
性格だけじゃなく、体まで素直な伊織が、かわいすぎる。

「お前、裁縫、嫌いじゃろ?」
「う……はい、もう、最悪で」苦手、なの……と、言い直した。
「そんなこと滅多にせんのに、なんでわざわざしたんじゃ?」
「……いや、その」

針を丁寧に置かせて、頭をなでるようにして抱きしめた。伊織は言いにくいことがあると、いつももごもごと口を動かす。だが、俺がこうして頭をなでているとそのうち言いだすところも、かわいらしい彼女の一面だった。

「言ってみんしゃい」
「……もっと、大人の女性になりたかった、というか……」
「大人じゃろ、十分」
「そ、そうじゃなくて……こういうのサラッとできるような、先輩に似合う人に、なりたくて」
「は?」

ボタン付けができるのが大人という解釈もよくわからんし、サラッとボタン付けができることが、俺に似合う、という解釈も、まったく理解の範疇を超えている。
伊織にはもともと、こういうところがあるような気がする。思い込みが激しいっちゅうか、なんちゅうか……。

「……だって先輩、前に……言ってたから」
「俺が? ボタン付けできる女が好きとか言うたかの?」
「そうじゃなくて……!」ごくん、と緊張したように、喉を鳴らした。「先輩、前の彼女に、ボタン付け、お願いしてたの、見たことあって……」

まったく記憶にないことを言われて、面食らった。

「お前それ、いつの話しよる?」
「大学のころ……」唖然、としか言いようがない。
「……そんなはるか昔のこと、なに気にしちょる?」
「だって先輩さっき、ボタン、ポケットにしまって……わたしが、子どもっぽいから……お願いもしてこないんだろうなって」
「……はあ、お前は本当に、呆れた女じゃの」なんでそういう解釈になる?
「だって先輩は……大人の女性とばかり、付き合ってきたでしょう?」

潤んだ目で見あげてきた。過去の女に嫉妬するかわいい視線が、俺の胸を打っていく。これまでなら面倒くさいと感じるものが、伊織だと不思議と、愛しさに変化していった。

「わかってないのう、本当に、お前は」
「え……」
「俺は、伊織が好きなんよ。大人の女が好きなわけじゃない」

あれだけ唇を求めて、あれだけ愛し合ってきたっちゅうのに、不安にさせているのかと思うと、自分が情けなくもなってきた。

「先輩……」
「いまのままの伊織が好きだ。あまり口にせんから、不安になったか?」
「そんなこと! そうじゃなくて、これは、わたしが勝手に……妬いてるだけだから」妬いてる、と素直に言うところも、かわいい。
「無理して大人になろうとせんでもいい」

はい、と小さく頷いて、伊織はそそくさと針をソーイングセットにしまい込んだ。とても上手だとはいえないボタンの縫い目が、俺への愛情にあふれている。
俺は伊織の両頬をつかんで、顔を上に向けさせた。

「伊織」
「は、はい」
「お前は、いろんなことに一生懸命よのう」
「え……」
「仕事もそうだが、お前が誰よりも努力家で頑張っとることは、俺がいちばんよう知っちょる。俺はの、そういうお前が好きだ。そういう伊織に、惹かれちょるんよ」
「先輩……」

潤んでいた目が、また潤みだす。泣きむしなところも、全部、俺が包み込んでやりたい。

「人間、苦手なもんは誰にでもある。俺は伊織が好きだから、裁縫が苦手なところもかわいい。ボタンを付けてくれる女が好きなわけじゃない。伊織が好きなんよ。じゃから、俺のために変わろうとせんでいい。そのままがええんよ、俺は」

わかったか? というと、伊織は黙って、何度か頷いた。本当に、素直でいい。また、夢中になる。

「先輩……嬉しい」
「雅くんって、呼んでくれんのか?」
「へっ……」
「俺に抱かれるときだけ、そうやって呼ぶじゃろ? いま、そのタイミングやと思うんやけど?」

ぽーっと、伊織の顔が赤くなって、こぼれそうになっていた涙が引っ込んでいく。
すまんがの、こっちはとっくの昔に、もう欲情しちょるんよ、伊織。

「だ、え、だって、さっきも」
「なに言うちょる。今日は休ませんぞ」
「ちょ、雅くっ……」
「ほら、言うた」

その呼び方も、伊織にしかされたことがない。ちと、はずかしい反面、それがまた、たまらなくそそる。

「もっと呼んで……伊織」
「や、あ……、ンっ……雅くんっ」

かわいい伊織を激しく愛したあとの旅館の飯は、抜群にうまかった。





fin.
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