ビューティフル_08


8.


跡部がわたしを見つめて、愛を語っている。
そんな錯覚を起こすほど、ふたりで演奏した『A Whole New World』はわたしを熱くさせた。
どこまでもつづいていきそうな声が、たしかな楽器となって流れていった。歌は気持ちのいいものだ。もともとそれがたまらなくてミュージカル女優を目指したようなものだったけど、これほど自分の声が伸びやかに、なんの緊張もなく響いていくのははじめてのことだった。まるで魔法にかけられたみたいに、幻想的な世界のなかでわたしは羽ばたいていた。跡部の手によって預けられた、大きな翼で。

「跡部、歌うまいんだね」
「嘘つけ。お前のとなりじゃごまかしがきかねえ。恥かかせやがって」
「いや、選曲したのそっちじゃん!」

跡部は本当に、歌がうまかった。それ以上に、ピアノがうまかった。なにをやっても完璧なんだなと思うと、到底わたしのような人間には手の届かない人なのだと思い知らされる。こうして笑い合う時間だって、一瞬の特別だ。
だって跡部は、わたしの跡部じゃない……。

「帰ろう。ちょっと具合が悪くなってきたの」

跡部と談笑しているあいだ、いつのまにか背後にいた千夏さんに、その時間を奪われたと感じた。

「……そうか。わかった」

本当に奪っているのは千夏さんじゃなく、わたしなのはわかっていた。このわずかな時間でさえ、わたしは跡部がほしかった。連弾して、一緒に歌って、その気持ちは確実なものとなって、わたしに沁みわたった。
でも、わたしにとって彼女は跡部の婚約者で、彼女にとってわたしは、きっとただのお荷物なのだ。それをもっと思い知らされたのは、千夏さんがふいに言った、衝撃的な現実だった。

「千夏さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すみません、景吾の子だからなのか、暴れん坊で」
「え……」

眉間にシワを寄せて俯く千夏さんに心配になって声をかけた、直後のことだった。お腹を大事そうにさすりながら、千夏さんはわたしをしっかりと見て微笑んだ。まったく出てもいないお腹。そこに、跡部の子がいることを思いがけず知らされた。
つい、跡部の顔を見てしまった。わたしの視線に気づいた跡部は、逃げるようにその目を伏せた。
だからだったんだ、と思った。跡部と彼女の婚約は、彼女の妊娠によってもたらされたものだったのだと、理解した。
息が止まりそうだった。目の前が歪むのを必死に堪える。「おめでとう」と、言うべきだとわかっていた。でも、声が出てこない。さっき、あれほど声を出して歌ったのに。

「あの、すみません」

そこに、背後から声がかかって、正直、救われたと思った。歌を聴いてくれた人だろうか。誰であろうと、この時間をぶちこわせるなら、もうなんだってよかった。

「え、はい?」
「失礼ですが、プロの方ですか?」

そこにいたのは、物腰の柔らかい男性だった。彼は、わたしだけを見ていた。その鮮やかなピンクカラーのシャツを見て、沈んだ現実から、地上に引っ張り上げられた気になった。
カチッとボタンを押すように気持ちを切り替える。それでもその質問に、どう答えようかと思った。プロと言ってしまうのはおこがましい。お金をいただいて公演をすることはあっても、それだけでは生活できない。でも金をもらえばそれはもうプロと一緒だと、誰かが言っていた気がする。

「あ……いえ、えっと」逡巡していると、すかさず跡部が割り込んできた。
「彼女はほとんどプロだ。俺は素人だが」

まるでわたしの心のうちを読んだかのような「ほとんどプロ」という説明には納得しかなかった。プロではないけど、プロと言っていいときもある、という「ほとんど」という意味合いに、感心した。

「ですよね。あ、すみません、失礼なことを……女性の方にだけ、ちょっとお話があるのですが」

ですよね、という言葉に、若々しい響きを感じた。服装もそうだけど、初対面の人間にくだけた物言いをこぼしてしまうのも、若い。

「わたしが、なにか?」
「はい。オーディションに参加してみませんか。海外公演も予定している、ミュージカルです」

出された名刺には、『ピエロ株式会社』という文字と、ピエロのロゴが描かれていた。この業界、エンタメといえばピエロだった。どの映画もどの舞台もどのテレビドラマも、このロゴを見ない日は皆無と言っていい。『弾けだす、イマジネーションの世界へ』がキャッチコピーのピエロは、本当に世界中で弾けている。
わたしは咄嗟に跡部を見上げた。その目が、見開かれていた。跡部はゆっくりとわたしに視線を合わせると、確かめるようにひとつ頷いた。声が、脳内に伝わってくるようだった。
――伊織、その名刺を受け取れ。

「ピエロ株式会社の入本と申します。僕があなたを、主役に推します」

入本、と名乗った男性の目は、真剣だった。だから若いんだ、と瞬時に理解する。エンタメの世界にいる人は、一般人とは違うオーラをまとっている。わたしは慎重に名刺を受け取った。オーディションは、どんな舞台のものなのだろうと、好奇心が抑えきれない。

「あの、どんな舞台で、オーディションがいつなのか、教えてもらっても……?」急いた口調で問うと、
「はい、オーディションは27日の土曜日にあります。今日が10日なので、あと、だいたい20日かな」と、親切に答えてくれた。正確には17日だ。時間はそれなりにある。「舞台作品は『情婦』です。長い時間をかけた弊社の説得で、念願かなって日本での舞台化が決定しました」

『情婦』は、もとは『検察側の証人』という戯曲をハリウッドの巨匠ビリー・ワイルダーが映画化したものだ。短編小説で、原作はアガサ・クリスティが書いた法廷サスペンス。
主役は男性だが、この作品は巧妙に作られていて、容疑者として捕まる男のアリバイを証明する夫人に、「主役」のような部分がある。
舞台では『検察側の証人』というタイトルで、ブロードウェイなどでロングランされたものだ。これをわざわざ映画化された『情婦』から逆輸入するということは、「主役」は夫人に当てられる、ということだろう。
わたしはもう一度、跡部を見上げた。お互いの目に、熱がこもっていく。これに受かれば、世界で演じることもできるかもしれないんだ。

「受けます、受けさせてください。いいよね跡部?」
「当然だ。こんないい話、そう転がっちゃいねえよ」

わたしの背中を、跡部が強く叩いた。





「バズらせましょう」というのが、入本プロデューサーの提案だった。
演技力は見なくていいのですか? とわたしが言ったあとの、唐突な返事だった。

「伊織さんは圧倒的な歌唱力がありますね。あの表現力はきっと演技にも活かされています。もちろん、後日演技している動画を送っていただきたいですが、まずはその存在をSNSで流行らせましょう。ある程度の仕掛けはこちらで用意します」

テキパキとした物言いで、連絡先の交換を求めてきた。即座に「やることリスト」が届き、さすがピエロのプロデューサーだと思った。とにかく効率的で、頭の回転も早い。
その「やることリスト」のなかに、『ピアノのレッスン』と書かれていたのだ。

「ここで週に何回か演奏してください。あなたの歌唱力はきっと拡散されます。オーディションまでにその存在が一部界隈で賑わうこと、これが合格への近道です。日時の決定の前日には、僕にその日時の連絡をしてください。ただし数回でいいのでピアノのレッスンをどこかで受けていただきたい。少しピアノがおぼつきません。技術的に、ピアノの演奏は高ければ高いほどいい。しかしそんな人材を僕が用意することはできません。そちらの方の演奏は素晴らしかったですが、会社員の方ですよね? そんなに都合良くはここには来ていただけませんよね?」と、苦笑しながら跡部を見た。
「付き合ってやりたいのは山々だが……」

と、跡部は千夏さんを気にした。当然だ。妊娠している彼女もそうだが、仕事も忙しいだろう跡部が、わたしの都合に合わせてピアノを弾きに来ることはできない。それじゃなくても、シゲルさんの無茶をきいてレッスンスタジオに来てくれているというのに。
そういうわけで、わたしはピアノのレッスンを受けることになった。でも、まさかこんな展開になるとは、思っていなかったもので……。

「今度、演奏しようとしているのはこれか?」
「うん」

楽譜を見て、跡部がピアノの前に座る。見た瞬間に、指を慣らすようにして弾いていく旋律が、驚くほど美しい。
そう、わたしのピアノの先生が、跡部景吾になってしまっていた。

「明日行くんだろ? 暗譜はきついだろうな」
「そうだね、ちょっと」と、苦笑してしまう。あなたほどの頭のよさはないので、無理です。「えっと、この35小節目のとこが、うまくいかないんだよね。ごまかそうかな?」
「妥協すんな。ここは間奏じゃねえか。ピアノで聴かせるしかねえだろ」

千夏さんと帰った跡部は、すぐにわたしにメッセージを送ってきていた。「レッスンは俺が引き受ける」と。
そのメッセージに、気づいたことが2つあった。1つはシゲルさんとのレッスンがはじまってからしぶしぶ跡部と連絡先を交換して、そこからはじめてのメッセージのやりとりだったこと。もう1つは、跡部がスタンプを使うということだ。メッセージのつづきには、「問答無用だ」という言葉が添えられた、おそろしい顔をした犬のスタンプがついてきたのだ。
ギャップ萌えかよ……と、思わずつぶやいてしまったことを、わたしは恥じている。萌えている場合じゃないんだよ……!
とまあ、入本プロデューサーに会ってから2日後、シゲルさんのレッスンスタジオが終わってから、わたしは跡部の家にお邪魔している。どこまでも世話焼きな跡部に甘えてしまったのは、下心があるからなのか。そんな自分も情けなかったし、やっぱりうしろめたい。

「ねえ、千夏さん大丈夫なの?」
「アーン?」
「なんていうか……このマンションにさ、わたしが来るってどうだろう? いまさらだけど」いまさらなことを来てからいう自分にも、いささか呆れてしまう。
「いまさらだな。気にするなと言ったはずだ。こうして俺が人を家に呼ぶことはたまにある」
「あの、そういうことを言ってるんじゃなくて、ですね……」

大きなグランドピアノの前で、跡部はしれっと言ってのけた。わざとわからないフリをしているんだろうか、それともただの天然か。跡部の場合はどちらもありそうなので、判断がつかない。あの健康オタクっぷりは天然だろうし、だけどシラを切ることもうまそうだ。

「とにかく座れ」と、半ば強引に座らされた。磨き上げられている美しい漆黒のピアノが、わたしを見上げている。「いいか? このアルペジオ部分はもっと腕をしならせろ。お前の演奏は腕に力が入りすぎている。指先にだけ若干の力を入れて、ただ置くように」
「ただ、置くように……こう?」音を出してみた。跡部より、音が硬い。
「もっと優しく。こうだ」

跡部の手が、ふっと上から重ねられた。後ろから包み込むように位置しているその熱に、胸が容赦なく高鳴っていく。あと2週間、こんな日常が数回あるのかと思うと、身が持つか心配だった。これ以上、好きになってはいけないと思うのに、気持ちが止まらない。

「そうだ。やるじゃねえの。……お前、たしかに吸収が驚くほど早いな? シゲルの言っていたとおりだ」

跡部はなんてことないように言って、微笑んだ。
ん? と思う。シゲルさんがわたしにそんな言葉をかけてくれたことなど、一度足りともない。彼女、いや彼はとにかく、わたしを褒めたりなど絶対にしないからだ。

「え、シゲルさんそんなこと言ってくれてたの!?」驚きのあまり声が跳ね上がった。
「あ……いや」

跡部が、まずい、という顔で手を口に当てた。困惑した顔が、ものすごく素敵だった。って、いかん、いかんいかん! ピアノに集中しなさい! と、自分を叱ってもドキドキとしてしまう。救いようがない。
跡部はそんなわたしに気づく様子もなく、ぷいっと背中を向けて近くのソファに座った。きっと、シゲルさんに口止めされていたんだろう。

「とにかく、その調子で右3回、左6回と練習してから、1回とおして弾いてみろ」
「あ、はい、すみません」
「なんで謝ってんだ、わけのわけんねえ女だな。早くしろ。時間が無駄になる」

練習中はずっと、煩悩がわたしを支配していた。
跡部はあの手で、千夏さんに触れているんだ。そんでもって、あんなふうに困惑した顔で、千夏さんと抱き合ったりしちゃってるんだろうかと思った。卑屈になるのと同時に、嫉妬でどうにもならない思いを、わたしは最後に演奏にぶつけた。
それは、かなりちょうどよかった。演奏曲が、悲しみの果てにある切ない想いをぶつけるような、激しい曲だったからだ。

「技術はまだいまいちだが、かなりよくなったじゃねえか」
「うん、跡部のおかげだよ」いろんな意味で、と言ってしまいそうになる。
「たいしたことは教えてねえよ。短時間でこれほど上達するなら、あの入本って男が言っていたようにバズれるかもしれねえな」

1時間ほどの練習を終えると、ふっと微笑んだ跡部が、「ひと息つけよ」とルイボスティーを用意していくれていた。健康オタクらしい跡部の選択に、わたしも思わず顔がほころんでいく。このところ、跡部もわたしもよく笑い合うようになっていた。あの連弾の日から、わたしたちのあいだに流れる空気が変わっていた。
このなにもかも洗練された跡部と結婚するというのは、どういう感じなのだろうか、と思う。そしてこの人との子どもをお腹に宿すとは、どれほどの喜びなのだろうか。演技しろと言われても、皆目検討がつかない。演技審査にこの設定が出てきたら、落ちるだろうなと思いながらソファに腰をおろすと、跡部は斜め前に座った。その距離感に、切なくなった。

「跡部、さ」
「ん?」
「千夏さん、妊娠してるんだよね?」

なぜ、そんなことを聞いてしまうのだろう。この部屋にくると愛人気分になる自分にも、嫌気がさしてしまう。

「……まあな、そうらしいぜ」
「そうらしいって……」

だとしても、1ミリも笑顔を見せず、まるで他人事の跡部の態度には違和感があった。この男が超ジェントルなのを、わたしはよく知っている。その跡部には、よほど似つかわしくない反応だった。

「検査薬だとか、エコー写真を見せられたからな。そんなもの見せられても、なんの実感もねえんだよ、俺は」なにが写っているのかもよくわからなった、と付け加えた。
「嬉しく、ないの?」
「……それもわからない。実感がわかねえっつうのは、そういうことだろ?」

これが、男の本音なのだろうか。どう見てもいまの跡部は、「仕方なく責任を取る男」の姿、そのものだった。わたしの友だちにもできちゃった婚をした人がいる。男の態度が煮え切らないまま結婚したが、ついこのあいだ、離婚した。
完璧だと言われる跡部景吾も、こういうときはごく普通の男の心情に陥るものなんだろうか。
そういう跡部を見るのは嫌で、でもそういう跡部を見ている現実に、複雑な気分になっていく。

「笑うだろ」と、言い出した。嫌味を言うときの笑顔だった。「完璧と言われる俺が、そんなミスするとはな」

跡部が、わたしに心を開いている。それが十分すぎるほどわかる、跡部の本音であり、弱音だった。だけどその言葉は、あまりにも冷たい。
やっぱり、嫌だった。跡部の口から、そんな言葉を聞きたくはなかったのかもしれない。

「跡部、なんか嫌なヤツになってる」
「アーン? なに言ってる。お前にとって俺はずっと嫌なヤツだろうが」
「そうだけど……」嘘をつく自分も、こんなことを言い出す自分も、十分、嫌なヤツだ。「でもひとつの命を授かっているのに、ミスなんて言い方、ひどいよ」

千夏さんが乗り移ったのかと思うほど、わたしは悲痛な声で訴えた。おこがましくも、自分に置き換えてしまった。わたしがもし彼女だったら、ミスだと思われているのは、我慢ならない。それは結婚どうこうじゃない。子どもを守りたい、母親の気持ちだ。

「伊織……」跡部の声が、悲しい音を持って投げられた。困惑しているとわかる。
「それじゃ生まれてくる子はどうなるの? 大人の無責任でミスなんて言われて、かわいそすぎるじゃん」

なにに怒っているのか、自分でもよくわからなった。こんなことに口を挟む権利はわたしにはないのに、なにかがとても悔しくて、なにかが壊れてしまいそうだった。
わたしへ向けた父の愛情を、思い出してしまう。子どもは、親に愛されたい。どこまでも。

「なんで、お前が泣いてんだよ……」
「わかんないよ……でもそんな跡部は嫌いだよ」
「もともと嫌いじゃねえかよ、俺のこと」

ポロポロ落ちる涙は、わたしが演技練習をしすぎだからなんだろうか。すぐに感情移入してしまう。わたしは千夏さんで、わたしは跡部の子どもになっていた。お願いだから、愛してほしい。
わたしの座っているソファが、重みで沈んだ。気づくと跡部が、となりに座ってきていた。そっと肩に手が置かれて、わたしははっとした。

「そういう意味じゃねえよ、悪かった。泣くなよ」優しい声だった。わたしに責められる理由もなければ、わたしに謝る必要はどこにもないのに。
「千夏さんの前で、絶対に口にしちゃダメだよ?」
「わかってる……そこまでバカじゃねえよ」
「わたしの前で言ってる時点で、十分バカだよ」
「そうかもしれねえな……ガキなんだ、俺も。お前ほど大人になれない」
「そんな……調子のいいときだけ、年下ぶらないでよ」
「本心だ。男なんて、所詮ただのガキだろ」

おかしな時間だった。どこをどう切り取っても、わたしと跡部の関係性で、この会話は変だ。
それなのに跡部は、落ち着け、とハンカチを差し出してきた。跡部の香りがするハンカチに顔を埋めて、胸が痛くなる。この愛しさがほしい。だけど跡部には、弱くても強くいてほしい。ずいぶんと矛盾した感情が、ずいぶんと勝手に流れていく。人間って、なんて愚かなんだろうか。

「ただな……伊織」
「……うん?」

聞いてあげるべきなんだと思う、わたしがこの人の弱音を。誰の前でも完璧でいる跡部は、どこか孤独で、寂しい人だ。誰よりも努力しているからこそ、その張ってきた糸は切れやすい。
わたしと跡部のあいだには、あの連弾の日から、確実に友情が存在していた。通じ合ったと思ったのは、きっと跡部も一緒だった。だからこんなに、心を開いているんだ。

「結婚することが本当に自分にとって正しいことなのか、わかんなくなってきてんだよ、俺は」
「跡部……」

見たこと無いような、跡部の目だった。こんな顔をするんだと、驚いてしまう。そこには小さな男の子がいた。行く手を阻まれて、追い詰められて、どうにもならなくて、あきらめた……そんな俯いた男の子が、必死に歯を食いしばっている。
その視線が、たしかな熱を持っていた。助けてほしいと、訴えかけるように。

「それでも、きちんと責任果たさなきゃ。ね?」

さらさらとしたその黒髪を、わたしは撫でた。男の子を慰めるように、一度だけ、そっと。

「ああ、わかってる……」

跡部の手が、黒髪に添えられたわたしの手を取った。
これ以上、目を合わせてはいけない、ここにいてはいけないと、直感が体をこわばらせた。
わたしは、急いで席を立った。

「変なこと言ってごめん。お茶、ありがとう。またレッスンよろしくね、跡部先生」

跡部はなにも言わなかった。ただじっと、わたしを見上げていた。そこからピクリとも動かない跡部を背中に、わたしは彼のマンションを去った。





「アンタ、なにか聞いてないの?」
「……シゲルさん、近いです」

翌日の土曜日だった。今週は中途半端に終わった日があったので、振替で2時間ほどのレッスンに来ていた。臨時レッスンなので、跡部は来ない。それをいいことに、シゲルさんは跡部の結婚について、さっきから30分以上は憤慨している。ずっと愚痴りたかったのに、昨日は跡部がいたから言えなかったんだろう。
にじり寄ってくるシゲルさんに、わたしは少し引いていた。

「アタシあの女、前から嫌いなのよ」
「それは、跡部の彼女だからですよね?」
「違うわよ! 景ちゃんの彼女だからじゃなくて、あの女が嫌いなの! なんで景ちゃんがあんな女と付き合ってるのか意味がわかんなかったのよ最初から!」

曰く、前からチクチクと顔を見せるたびに嫌味を投げているそうだが、千夏さんはシゲルさんのことなどまったく相手にしておらず、それがまた癪に触るらしい。

「可愛げがないのよだいたい。オテンバだって可愛げないけど、あの女ほどじゃないわ!」
「いい人そうじゃないですか。美人だし、スタイルもいいし。どことなく控えめだし」
「はー!? ったくアンタってホント! アンタってホントに……!」

2回も同じことを言って、シゲルさんはパンパンと手を2回叩いた。レッスンの合図かと思って背筋を伸ばすと、すかさず「違うわよ!」と返されてしまった。
というか、さっきからストレッチばかりやっている。演技指導を、していただきたいのですが……もうすぐ、オーディションだし。
その話もしたというのに、シゲルさんはそれどころじゃないらしい。

「あの女のどこが控えめなの! それほど人を見る目がなくて、よくも女優なんて言ってられるわね! ああ、逆にそれだからこの業界ではやっていけるかもしれないわ!」
「いや、みんな同じ印象持つと思うんですけど……」

千夏さんは聡明な雰囲気の人だ。でも跡部のとなりにいるときは、可愛らしい一面を見せてくる。普段はふんわりした印象なのに、あのバリキャリ感からして、決めるときは決めるんだろう。まだ若いのに社交性も抜群で、おしゃべりだってうまい。ほとんどの男からすれば高嶺の花のような存在に跡部が惹かれたのは、納得できると思っていた。
シゲルさんが言うには、「ああいう女はブロードウェイにもたくさんいた!」らしく、同じ匂いがするそうだ。シゲルさんにとっては、とにかくいちばん狡猾で最低の部類に入る女らしい。

「いい? わざわざあんなとこで婚約指輪がどうとか言い出さないのよ! 控えめな女は!」どうやら先日、響也が来ていたときの話をしている。
「話の流れだったんじゃないですか?」
「だから言ってんの! 話の流れでわざわざ言う必要のないことを言うなんて、威嚇に決まってるじゃない!」
「はあ、そうですかね」どこに向かって威嚇する必要があるというのだろう。とっくに跡部に愛されているじゃないか。
「だいたい、景ちゃんの腕にだってベタベタ触れて! 人前であんなことする女、相当なタマよ!」

玉がついてるのはシゲルさんのほうだ、と言いたくなったのを堪えた。きっと殺されるし、そういう意味じゃないのは百も承知だ。
そのシゲルさんの憤慨を聞いて、ふと思った。そういえば千夏さん、言わなくていいことを言っていた気がする。わたしが妊娠を知った、あのときだ。「景吾の子だから」と言われて妊娠しているのだとわかったのだけど、たしかに、あそこで発表する必要があったのかと言われると、疑問かもしれなかった。

「ん、言われてみれば……」
「なに? なんかあるの?」シゲルさんがぐいっと顔を寄せてきた。だから、近いです。
「うーん」

とはいえ、シゲルさんに言ってもよいものか。まあでも、シゲルさんの説が正しいとすれば、千夏さんは口を滑らす人なのだ。だからどうせ、これも時間の問題だろう。

「妊娠してるそうなんですよ」
「は!?」
「はい。それもたしかに、千夏さんの発言から知ったことでした」

わたしは先日のことを話した。ピエロのオーディションの経緯ことは話していたので、シゲルさんの理解は実にスムーズだった。

「に、妊娠ですって……景吾の子だから暴れん坊ですって!?」

バタ、とシゲルさんが倒れるように床に寝そべった。「殺す、あの女、絶対殺す……」と、完全に男の声色でつぶやいている。物騒すぎるし、もうストレッチも放棄している。いつになったらはじまるのかわらかないレッスンに、こっちが頭を抱えそうだ。
まあ、タダだから、いいんだけど……。
シゲルさんは、その体勢のままわたしの目をじっと見た。見ているようで、睨んでいる。正直、怖かった。

「いや、シゲルさん……わたしを睨んでもですね、こればっかりはどう」
「アンタ、それでいいの?」
「……はい?」わたしの発言を阻んでまでしてきた質問の意味が、わからない。
「はい? じゃないわよオテンバ。アタシが気づいてないとでも思ってるわけ?」
「き、気づいてないって、なにを、ですか」

一気に心臓が跳ね上がった。オーディションの比じゃなくらいの緊張感に、全身の毛が逆立っていく。なにを言い出す気なんだろうか。
まさか、まさか、このわたしの気持ちに、シゲルさんが気づいてる!?
安く見られたもんね、アタシも。と、髪をかきあげて、シゲルさんは上半身を起こした。

「アンタ、景ちゃんに惚れてるじゃない」ズバリだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいシゲルさん、いったい、なん、なん、なん」口が回らなくなってしまった。あれだけ発声練習やら早口言葉やらやっているというのにっ。俳優にとって噛むのは致命的だというのにっ。
「でもって景ちゃんも、アンタに惚れてるじゃない」
「は……はい!?」

とんでもない発言が、2つあったように思う。1つはもちろん、わたしの秘めた恋心を、シゲルさんが言い当ててしまったことだ。
だけどもう1つはどうだろう。
景ちゃんも、アンタに、惚れてる……? だって? バカ言っちゃいけませんよ、そんなわけないでしょう!

「な、なに言ってんですかシゲルさん……」
「アンタ、ものすごい鈍感なのね。よくそれで30年以上も生きてるわね。それとも男の経験ないの?」
「あります! 失礼な!」
「あんなガキと付き合ってるから大人の男の視線がわからないのよ」ま、それは景ちゃんも一緒かもね。とパタパタと顔を仰いでいる。「あの坊や、アタシにちょうだい。いいでしょ?」

坊や、とはおそらく響也のことだ。いや、ちょっと待ってほしい。そもそも響也とはそれだけの関係でしかないし、個人的にはシゲルさんとどうなってもらってもいいのだけど、多分ノーマルだから無理だろう。いやでもシゲルさんは、そういう子を落とすのがいいとか言っていた。いやそんなことじゃない、重要なのは。響也のことは、一旦とりあえず置いておかなくては。わたしもかなり混乱している。

「あの、ど、なんでシゲルさん、そんな突拍子もないこと、言ってるんですか?」これではレッスンどころではなくなってしまうじゃないですか。
「突拍子もないと思ってるのはアンタだけよ。だから張り切っちゃってんでしょうよ、あのいけ好かない高慢ちきな女が!」
「え?」たぶん、話の流れからして千夏さんのことだろう。
「あの高慢ちきはね、オテンバのことずーっと熱っぽい目で見てる景ちゃんに我慢ならなくなったのよ。そうに決まってる。だからコンドームにでも穴開けたんじゃないかしら! ありえるわ!」鏡に向かって自分に頷いている。ドラマのワンシーンのようだ。
「いや、シゲルさん、話が飛躍しすぎ……」
「あら、やるわよそれくらい、あの女なら! 何度も言うけど相当なタマよ! それにね、景ちゃんがそんなミスおかすわけないじゃない!」

また聞いてしまった「ミス」という発言に、わたしは「だあ!」と声をあげてしまった。
だって、シゲルさんまで! 男ってみんなそういう感じ!? でもシゲルさん、心は女でしょう!? あれ、違うのかしら……そっちの世界は複雑だからわからないっ。とにかく!

「ミスなんて言わないでくださいっ。それ跡部も言ってましたけど、わたし怒ったんですから! あまりにも子どもがかわいそうですよ!」
「はー? 景ちゃんに説教垂れたですって!?」

シゲルさんが鼻をヒクヒクさせて近づいてきた。怖すぎる。まるで犬だ。威嚇してんのはそっちじゃないか、と言ってしまいたい。

「……ずいぶん偉そうな立場にいるわねアンタ。よくもそんなこと言えたわね! このオタンコナス!」オテンバがオタンコナスに降格されてしまった。もはや人間ではなく野菜扱いだ。「いい? じゃあ愛し合ってもない夫婦のもとに生まれる子どもはかわいそうじゃないの? 景ちゃんはかわいそうじゃないの!?」
「や、そ……愛し合ってもないなんて、愛し合ったから、できちゃったわけですから」言っていて悲しくなる。
「いまは愛し合ってないってことでしょうよ!」
「そんなのわかりません!」もう、なにを言い争っているのかわからない。
「オタンコナス、なにもわかってないようだから、よく聞きなさい」オテンバに昇格はしないのだろうか。せめて人間でありたかった。「景ちゃんは決して子どものことを蔑んでるわけじゃないの。ミスと言ったのは、自分のおかしてしまった過ちに対してよ。本当に景ちゃんのミスなのかはともかく、景ちゃんはそれでも責任を取ろうとしてる。しかもそのミスは、セックスのことを言ってるんじゃない。景ちゃんはね、自分がダラダラしてたせいで、あの高慢ちきをつけあがらせたことに後悔してんの。もっと早く自分の気持ちに気づいてとっとと別れてりゃ、こんなことにならなかった。結婚したくない女に迫られて、そんなときに別の女に惚れちゃって、がんじがらめよ! そういうの全部ひっくるめて、ミスだって言ってんの! あの景ちゃんがそんなこと口にするってことは、相当に弱ってんの!」

ものすごい迫力だった。全力の演技を見せられているような感覚に陥って、目が点になってしまう。
ていうか……跡部がわたしに惚れてる? 嘘でしょ……そんなわけ、ないでしょう。

「なに黙ってんのよ、オタンコナス」

じゃあもし跡部がわたしに惚れてたとして、シゲルさんは、わたしと跡部がくっつくのは、なんとも思わないんだろうか。いや、シゲルさんの勘違いだとは、思うけど……。

「ちょっと、シゲルさんの推測の一部には、賛同できかねるので、どうしようかと……」
「はっ……別にいいわよ、アタシだって言う気はなかったのに、つい言っちゃったことなんだから。でもね、オタンコナス。こんなこと一度しか言わないからよく聞きなさい」

シゲルさんが、ようやく立ち上がった。さっきよりも憤慨が、いくぶんか冷めているようだった。また、鏡に向かってポーズを決めている。一瞬一瞬が、俳優だ。

「自分に素直にならないと一生後悔する。アタシだって景ちゃん取られるのは癪だけど、どっちかってなら、あの高慢ちきよりはアンタのほうが納得よ」
「シゲルさん……」立ち上がったシゲルさんに倣うように、わたしも立ち上がった。ずっと厳しいシゲルさんだけど、本当は優しい人だってことは、知ってるから。「ひょっとして跡部の強制レッスン見学って、そういう意図があったんですか?」

シゲルさんはゆっくりとわたしに向き直った。そして、ニヤリと笑った。

「それがわかったなら、アンタも少しは成長してるわ、オテンバ」

ここにきてやっと、昇格したようだ。





シゲルさんが言っていることがもし事実だったとしても、わたしにはどうにもできない。それは跡部だって同じだ。お腹に子どもがいる婚約者と破局なんて絶対にできないし、そんな婚約者を持つ人とどうこうなろうなんて思えない。
そんな想いを込めて、わたしはラブソングを歌った。切なくて涙が出そうな、翌週の土曜の夜だった。オーディションまで、あと1週間を切っていた。美味しい香りがただよってくる賑やかなオフィス街で、わたしは週に何度か熱唱している。
跡部が教えてくれたピアノのおかげで、なかなかの演奏が披露できていた。
「あまり披露するのはもったいない。やっても2曲までにしてください」とは、入本さんからの忠告だった。
ゲリラ的に現れて去っていく。それがまた見たいと思わせるのだと、入本さんは言っていた。現に、SNSの一部では、入本さんが仕掛けた動画が拡散されているようだった。それでも、トレンドにあがるほどではない。まだまだ努力が必要である。
そうして演奏を終えたときだった。跡部の友人である、不二さんという人のキッチンカーでテイクアウトでもしようかなと楽譜を片づけていると、背中から声がかかった。

「すみません、お姉さん」

誠実そうな声に振り返ると、そこにはスキンヘッドのヤクザ風味の男が立っていた。恐怖を感じて、思わずのけぞりそうになったが、となりに可愛らしい女性が居たので、若干、警戒が解けた。

「私のこと、覚えておいでですか?」と、男性はつづけた。
「……え」

こんな怖い人をわたしは知らない、と思ったものの、眉間にシワを寄せた深刻そうな顔に、たしかに見覚えがあった。その印象は強かった。父の亡くなった日に、会った人だったからだ。

「あなたのお父さんの、担当をした……」やっぱり! と思う。
「あっ……あのときの警察の方!?」

そうです、お久しぶりです、と男性はスキンヘッドを撫でて、頬をゆるませた。その笑顔も印象的だ。当時はロン毛だったので、一瞬ではまったくわからないほどの変貌を遂げている。警察でなにがあったのだろうというくらい、貫禄がついていた。
となりにいた女性が、気を利かせるようにその場を離れようとした。が、わたしはそれを制した。わかっていてもちょっと怖いので、なるべく女性に側にいてほしかったのだ。

「その節は、失礼をしました」と、警察官の彼は頭をさげてきた。ツルンツルンである。
「いえ、お気遣いいただいたことは、わたしも母もわかっていましたから。でも、結果的によかったと思っています。やっぱり父の体を切られるのは、抵抗があったので」

じわじわと記憶をめぐって、いろんなことを思い出していた。彼は当時、上司に連れられてきていた新米刑事だったように思う。警察の話では父の死に「事件性はない」とされたので、わたしも母も納得していたところに、彼がそっとひとりでやってきたのだ。
そして言われた。「解剖を、希望してみてはいかがですか」と。独断でやってきたと、すぐにわかるほど小さな声だった。そのときの母とわたしは憔悴しきっていて、「少し考えさせてください」とだけ伝えた。「時間がありません。それでもよく考えてみてほしいんです」と、彼は食い下がった。そのときの誠実な目が、いまもそのまま残っていた。

「しつこくして、すみません……」
「いえ、違うんです。あの直後に、うちに父の職場での状況を知らせに来た人がいたんです。それまではわたしも母も迷ってたんですけどね。でもその人の話で、父は過労だったんだって、わかりましたから。それでお医者さんもそうだろうって、納得されたので」
「籠沢建設の人間が、状況を知らせに来た……?」

父の働いていた会社は大手ゼネコンの『籠沢建設』だ。そのロゴの入ったジャケットを身にまとった男が知らせてきたことが、跡部景吾への誤解の元凶でもある。
母もわたしも、父が楽な仕事じゃないのはわかっていた。痩せてきていたし、きっと大変な任務を担っているとは承知していたせいか、その人の話はすんなりと入ってきた。跡部景吾が嫌なヤツそうなのも、こういってはナンだけど、勝手なイメージですんなりと入ってきていたのだ。

「その人の名前、覚えてますか?」
「え……あー」

突然に聞かれて、唸った。
そういえば、なんて名前だったか。あまりいい思い出じゃないので、普段はなるべく考えないようにしていたせいか、すぐには思い出せない。でもたしか、「の」からはじまる名字だったのは、鮮明に記憶に残っていた。だけどそんなことをいまさら聞いて、どうしたというのだろうか。

「のせ……のじま、じゃなくて……。のきた、……ああいや、のせ、じま、だったかな」
「え?」

口に出すと、すんなりと名前が出てきた。記憶をめぐるのは、声に出したほうがいいのかもしれない。

「うん、野瀬島、だ。そんな名前だった気がします。めずらしい名字だなって思ったんです。ただ名刺とかもらわなかったので、口頭でしかわからないんですけど」

ふむ、と警察官の彼が考え込む。「お父さんの同僚だと、言っていたんですね」
「ええ、作業着だったので、そうなんだろうなと」言っていたかどうかは、定かではない。

シゲルさんにひきつづき、このところよく意味がわからない質問をされるなと思っている横で、となりにいた女性が目をまん丸にしてスマホを触りだした。そして、そのまん丸な目をそのままわたしにぶつけてきたので、わたしは、またのけぞりそうになった。

「あの、すみません!」
「えっ、はい?」怖い。なんなんだろう。
「この、この人じゃないですか!?」

彼女はスマホをわたしに見えるように逆さまにした。でっぷりとしたおっさんが、そこには写っている。似ていると言われれば似ているような気もするが、はっきり同一人物だとは言い切れない。でもこの人だったとして、なにかあるんだろうか?

「うーん、すみません、顔をあんまり覚えてないんです。本当に一度きりくらいだったので。でも……たしかにこんな感じ、だったような。もう少し細かった気がしますけど」

正直に答えたところで、彼女は落胆していた。そしてすぐにまた顔をぐんとあげて、わたしに近づいてくる。やっぱり怖かった。感情の起伏がおかしな人なんではあるまいか。近づき方は、まるでシゲルさんだった。

「あの、それって何年前のことなんですか?」
「えっと……ちょうど10年ですが」
「10年、ですね。それであの、現場っていうのは、どういう……?」

跡部の名前を出すのはなんだか嫌だったので、「スポーツクラブの建設現場です」とだけ答えると、彼女はまた力強く頷いた。

「わかりました、ありがとうございました」
「なにか、あるの?」警察の彼が、怪訝な顔で彼女を見ている。それは、わたしも聞きたいことだった。
「いえ、おにいさん、なにもありません、大丈夫です」

彼女の「おにいさん」という言葉に、わたしは心底ぎょっとした。





その数日後、跡部のマンションに来ていた。今日は2回目のピアノのレッスンである。跡部とはあれ以来、レッスンスタジオでは顔を合わせるものの、まともに話してはいかなった。
シゲルさんが変なことをわたしに吹き込んだもんだから、スタジオではぎこちなくなる。吹き込んだ当の本人はなにくわぬ顔をしているけど、相変わらずロッカーにあるスポーツドリンクのメモに息が止まりそうになってるのを覗き込んで、「あらあ、今日もラブレター?」とからかってくる始末だ。

「かなりよくなってきたじゃねえか」
「思ったけど、このグランドピアノがいいって説もある気がする」
「当然だろうな。あのアップライトとうちのグランドじゃ話にならねえよ」

あのアップライト、とはあのオフィス街の楽器店の前でわたしが弾かせてもらっているアップライトピアノのことだ。あれでもかなりいい音だとは思うけど、跡部にとってはおもちゃのような感覚なのかもしれない。
しかし、すっかりいつもの跡部を取り戻しているな、と少し嬉しくなった。このあいだのルイボスティータイムとは空気そのものが違っていた。いまならきちんと、謝れる気がした。
シゲルさんに言われたことが、ずっとひっかかっていたからだ。

「跡部、こないだごめんね」
「アーン? なんだ急に。なんのことだよ」
「その、わたしが口を出すべきことじゃないことに、口を出してしまった件について、かな」

跡部は、顎をあげた。この部屋にはBGMもないので、沈黙はやたらと長く感じる。

「……いや、お前の言ったことは正しい。あんな言い方、すべきじゃなかった」
「それもだけど、わたし跡部の気持ち、わかってないんだろうなって思ったから……でも、もう謝ったからいっか! ごめん、ぶり返して」

謝ったので、とっとと切り上げようとした。じゃないと、またこのあいだのような変な空気になっても困ると思っていた。跡部に触れられてしまったら、わたしは終わってしまう気がする。
跡部はその切り替えに気づいたのか、ふっと微笑んだ。

「人の気持ちなんて、そう簡単にわかりゃしねえ。俺にもお前の気持ちはわからない。だから俺に腹を立ててるんだろうが?」
「へ?」
「親父さんのことだ。俺は家族を亡くした経験がない。だから、お前のつらさは計り知れない」

跡部が父のことを口にしたことが、とても意外だった。
「わたしの父親を殺したの」と詰った日から今日まで、跡部はわたしの前では、一切、父の話をしなかったからだ。こっそりと墓参りに行っていたことも、わたしは知らないことになっている。

「……悪かったな」
「跡部、それはさ」
「過労からくる急性心不全だったと聞いてる。俺の責任だ」
「違う!」

思わず声を荒らげていた。跡部が驚いた顔で、こちらを見る。わたしはもうあなたに腹を立てていないし、恨んでもいない。その誤解は、解いておきたかった。

「どうした? 伊織」
「跡部のせいじゃないって、最近、気づいたの」
「……どういうことだ?」

そういえば、こないだも父の話をした。あんな可愛らしい人のお兄さんがあんな強面ということに驚いた。兄妹には見えなかったけど、そうなんだろう。それで、跡部が散々、父をいびっていたと言いに来た男の話になったのだ。そうだ、わたしはそれで誤解した。

「わたし、すごく浅はかだったと思う。父さん死んですぐに、父さんの同僚って人が家に来て、その話、鵜呑みにしちゃって」
「なんの話だよ、おい」
「ごめん……。こないだあの場所でピアノ弾いたあとに、父さんを担当した刑事さんに偶然会ったの。それで、その話したから、思い出しちゃって」

わたしはかいつまんで、あの日のことを説明した。そうなんだ。あの日も思ったけど、もとはと言えば、父の同僚だと言っていた、あの「野瀬島」という男がわたしに跡部の悪口を吹き込んだからこうなった。
いや、悪口なんてもんじゃない。あれはあきらかな悪意だった。この人も父と同じ目に遭ったんだと、わたしは思ったのだ。だからそこに、信ぴょう性を植え付けた。勝手に、わたしが。

――跡部財閥のぼっちゃんがボスでね。まだ20歳そこそこで、偉そうに無茶な注文ばかりつけてくる。佐久間さんはあの息子ほど歳の離れた跡部景吾に、いいようにこき使われてました。毎日ひどいこと言われて、業者と現場の人間に頭さげて、それを見てるにも関わらず、あの若造は佐久間さんをいびり倒してた。そりゃストレスも溜まりますよ。佐久間さん、もう嫌だってずっと言ってましたから。家族にはそんな顔見せれないからってね、健気に頑張ってましたけど。

「でも、事実は違うでしょう? あなたを見てればわかる」
「ちょっと待て。いま、警察に名前を聞かれたと言ったな?」
「え、うん」

跡部の顔が、突然、険しくなった。

「それが、『野瀬島』という名前だと、言ったな?」
「え……うん」

あの妹さんの顔と一緒だった。スキンヘッドの警察官のとなりにいた、あの子と。目をまん丸にして、跡部がなにかに驚愕している。
彼は即座に立ち上がって、近くにあったノートパソコンを開きはじめた。文字を打ち込みながら、なにか調べているようだった。やがて「籠沢建設……」と、父の勤めていた社名を口にして、考え込んだ。
わたしは跡部の背後に立って、そのパソコンに表示されている文字を見ようとした。が、瞬間、跡部がバチン! とパソコンを閉じ、勢いよくわたしに振り返った。

「あ、ごめ……」
「顔は覚えていたのか?」顔写真を見せられたことを聞いてきた。
「いやそれが、はっきりとは、覚えてなくて」
「そうか……伊織、約束してほしいことがある」
「え?」

跡部のその様子に、わたしの胸はざわついた。誤解だったと、わたしが気づいていることへの驚きじゃなさそうだった。とても深刻そうな、なにか重要なことを、知ってしまったような。その秘密が「野瀬島」という名前にあることは、ここまでくると明白だった。

「もう、その件には触れるな」
「跡部?」
「お前を危険な目には遭わせたくない」
「ちょ、どういうこと? なにが危険なの。野瀬島って人が、なにかあるの?」
「まだ言えねえ……つうか、わからねえ。でも約束しろ。もう、その話を、その名前をほかでは口にするな。なにかわかれば、必ずお前に話すから」

跡部の手が、わたしの手を握った。体温が、やけに冷たい。跡部の真剣な眼差しに気圧されて、わたしは頷くことしかできなかった。
パソコンに出ていた、「九十九静雄」という文字列だけが、頭のなかに残っていた。





to be continued...

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