TOUCH_08


8.


あんなに何度も愛された夜は、はじめてだった。

「もっと聞かせてよ、伊織さんのかわいい声」
「リョーマ……おかしくなるっ」
「見たい……そういう伊織さんも、全部っ……全部ちょうだい、オレに」
「リョーマ……あっ、ああっ!」

あの夜だけは、きっとこの先なにがあっても忘れないだろうと思う。
少し前から予感していたリョーマの熱っぽい目は、わたしの勘違いなんかじゃなかった。甘い声で、わたしの耳にキスして、何度も「綺麗」と囁いた。

「伊織さん、すごく綺麗。ホントだよ」
「そんなこと……、ンッ」
「ねえ、オレの名前呼んで、伊織さん」
「は、あ……リョーマ」
「その声、ずっと聴いてたい、オレ」

もうすっかり枯れているだらしない体を強く抱きしめて、唇を重ねつづけた。リョーマは何度果てても、そうしてわたしを求めては、ベッドを濡らした。

「伊織さん……」
「うん?」
「このままずっと、朝まで伊織さんのこと、抱いてたい」
「無理だよ、壊れちゃう」すでに体はくたくたで、重たくなっていた。
「じゃあずっと、見つめさせて?」
「リョーマ……」
「ん?」
「明日、MRI、ちゃんと受けてね」

これ以上聞いていたら、溺れきってしまうだろう自分が怖くて、話を逸らした。微笑んで、口づけて。リョーマはいつもの、少年のような瞳をわたしに向けた。

「伊織さん、ついてきてくれる?」
「……ん」
「伊織さんが一緒に行ってくれなきゃ、オレ、嫌だよ」
「ふふ……ね、もう寝て。明日、検査早いんだし。今日は疲れたでしょ」
「ん、激しかったから、ね」
「バカ……」

髪の毛をなでて、ゆっくりと瞼に触れると、リョーマはすぐに眠った。
プロのスポーツ選手に抱かれたのははじめてだけど、精力がとんでもない。
眠れないままそんなことを考えていたわたしに、「バカなんじゃないの?」と彼が言い出す前に、起き上がった。
本当に、優しくて熱い夜だった。
だからって……リョーマとそんな関係をつづけるという選択肢は、わたしにはなかった。
彼に抱かれた以上、彼が愛しいと感じているのは事実だ。それでも、愛情を持ってしまったならなおさら、わたしはきっと結婚を迫るだろう。もし付き合ったとして、5つ年下の彼を困らせることなど、単純明快すぎる未来だった。
最初に会ったころ、結婚について議論を交わしたことを思いだす。

――結婚結婚って言われたって、結婚した自分のことなんて想像できないし。

とか言ってたな、このガキ。
思いだして、笑ってしまいそうになる。相手は越前リョーマだ、当然だろう。
今年33歳になろうとしているわたしが彼と交際なんて、一瞬でも考えた自分に呆れる。これからまだまだテニスをやっていくだろう彼の妨げになるのは、目に見えている。
そう、女のわたしにはリミットがある。男のリョーマはまだまだ、これからだ。
あの夜だって……きっと泣いてばかりのわたしに、感情が流されたのだ。あの少年のような瞳を保てているのは、リョーマが純真な証拠でもある。
わたしは彼の膝を壊して、彼の夢の妨げになった。あんな大事な局面で、選手生命を奪うかもしれないほどの怪我の前兆を、見逃した。一度だってしてはいけない、許されないミスだった。まだまだあきらめていないリョーマを、もうこれ以上、苦しめるわけにはいかない。
だからリョーマ。ありがとう……いい思い出になりました。愛してるよ。
心のなかでそうつぶやいて、リョーマの唇にそっとキスして、部屋をあとにした。





真っ暗な治療院のなかに、一点だけ薄暗い青のライトが灯っていた。おかげで見えたその背中に安堵する。こんな暗闇のなかで、いったいなにをしているんだろう。閉院をまかせて出かけたのに、電気を消すならすべて用事が済んでからじゃないだろうか。順番がおかしい。

「留守番電話を、1件、消去しました」ピー、という音のあと、電話がそうしゃべっている。
「秋人?」

パチンと電気をつけると、秋人はこちらに勢いよく振り返った。手にはタブレット端末を持っている。

「おう、伊織」
「こんな真っ暗のなか、予約確認?」
「ああ、いまちょうど、予約が入ったから。ついでだからさ、予約登録して、消しておこうと思って」

帰国してから、5日後の夜だった。あれから、秋人とはまともな会話はしていない。帰国時、念のために連絡したときも、どうせ別々の席だから意味はないのに、一緒に帰ると言ってきかなかった。
業務連絡だけはきちんと行う必要がある。その程度の会話を、わたしたちは5日やり過ごしていた。そろそろ、なにも言ってこない秋人に言うべきだと感じる。

「ねえ、いつまで働くつもり? ほかのスタッフもしっかりしてきたし、当面は予約も混雑してないし、無理して来なくていいんだよ?」
「……クビは覚悟してる」
「そんな言い方、卑怯だよ」この関係を壊したのは、あなたのほうだ。
「でも話を聞いてもらう前に、辞めたくないんだ。ごめん」

秋人が何度も話し合いを試みていたことには、もちろんわたしは気づいていた。でも、聞ける気がしなかった。「お願いだから、わたしからなにか言いだすまでは黙ってて」と告げたことで、秋人は黙ってくれた。それでも、ときどきはなにかを言い出そうとしていた。そのくり返しだ。
5日もあったのだからいろいろと考えたけれど、やっぱり、聞いたところで納得はできないと思う。もう別れたのだから、聞く必要もないと思う。
それでも、目の前にいる秋人の我慢強さと、健気ともとれる姿勢が、わたしの心に揺さぶりをかけていた。これ以上、引き延ばすことに意味はないかもしれない。

「……もう、わたしには聞く資格もないよ」

リョーマのことが頭をよぎった。
秋人の目が、激しく揺れる。なにかを悟ったのかもしれなかった。

「それでも、聞いてほしい。現状、別れてることも、理解してる。だけど俺、伊織のこと、愛してる」
「ははっ……」から笑いが漏れた。なんて滑稽なことを言うんだろう、この人は。「愛してるのに、どうして傷つけるようなことができたの?」
「なあ、明日、閉院のあとに時間とってくれないか?」
「へ?」

唐突だった。わたしの質問にも答えず、そう言った。
目の奥が血走っている。その必死な眼差しに、思わずのけぞりそうになった。

「相手の女性に、会ってほしい」
「……は?」
「その人に、会って聞いてほしい。俺の言うことなんて、きっと信用できないだろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでそんな話に」
「もちろん俺も同席する。俺をクビにするなら、俺と本気で別れるなら、最後の頼みだと思って、聞いてくれないか」

秋人とは思えない、強引さだった。いや、ロンドンに押しかけたときだって、ものすごい強引さだとは思ったけど。
相手の女性というのは、あの女子バスケットボールの元選手のことなのか。新聞やネットでしか見たことのない女性に、あなたの浮気相手に、あなたの子どもの母親に、会えって?

「本気で言ってるの?」
「本気だ。そうじゃないと、埒が明かない。彼女も話してくれると言ってる。それも全部、ロンドンに行く前に話をつけてきてたんだ」

これ以上、なにがあるというのだろう。
その自分勝手さにうんざりとしながらも、わたしは承諾していた。





気になったからだ。秋人の真剣さにも、埒が明かないという言葉にも。
ただの浮気じゃないからこそ秋人が血眼になっていることを、なんとなく理解したせいかもしれない。

「はじめまして」
「……どうも。どうぞ、入っておかけになってください」

画面のなかで見るよりも、おっとりしてそうな女性だった。化粧をすると抜群に美しくなるのだなと、どうでもいいことを思う。ショートカットの黒髪と、ジーンズにTシャツというラフさが、3歳児の母親だというのに、まだ若さを象徴していた。

「誰かに聞かれるのは嫌だと思って、ここにしました。すみません、ご足労いただいて」
「いえ、いいんです。場所の配慮まで、ありがとうございます」

事務的な口調だった。なにを考えているのかまでは、読み取れそうもない。
秋人はわたしのとなりに座った。「悪いね」と声をかけている。彼女は秋人の目も見ようとしなかった。妊娠と公表で脅して結婚を迫るほど執着していたわりに、やけに冷たい。こんなところにまで連れてこられたせいだとしても、もっと女の部分をむき出しにしてもいいようなものだが、彼女の目に、秋人への愛情は感じられなかった。
3年も前のことだから、もう秋人には飽きたのか。だとしたら、秋人がその条件をずっと守りつづけていたことに、矛盾が生じる。

「一度きりの関係なんです、あたしと、秋人さんは」

彼女は出された飲み物に口をつけることもなく、背筋を伸ばしてそう言った。
少し、意外だった。一度で子どもができてしまったのか。何度もわたしを裏切ったのだと思っていた予想がいきなり崩されて、わたしは確実に動揺していた。

「ずっと前から、秋人さんのことが好きでした。彼女がいるのは知っていたので、密かに思っていただけです。あたしの一方通行なのも、わかっていました」

なのに、秋人はこの人を抱いたのか。わたしがいるのに。
でも、責めるのはいまじゃないと思い、黙って話を聞くことにした。

「小さい大会のトーナメントで優勝した日、大きな打ち上げをしました。あたし、そこでチームメイトに頼んで、秋人さんにお酒をどんどん飲ませてもらったんです」
「え……?」

秋人は、決してお酒に強くはない。いつも少量で顔が真っ赤になってしまうし、お酒を口にした夜は、すぐに眠ってしまう。
だから自分から進んではあまり飲まない人だ。その彼に「どんどん飲ませた」とは、やることが悪どい。その異常性に、気味悪さを覚えた。

「秋人さん優しいから、断れずに飲んでました。それで、酔っぱらっちゃって」

チームメイトやほかのコーチと一緒に、彼をホテルの一室に寝かせました。と、小さな声で言った。
当然だ。お酒を飲めば酔っぱらう。まさか、それを狙っていたのか。

「あたしだけ、こっそり鍵を持ち出してホテルに戻ったんです。忍び込んで、まだ寝ている彼の服を脱がせました」
「ちょ、ちょっと待って」
「あたしが犯したんです。酔いつぶれていても、できました」

犯したんです、と言った。間違いなく。
衝撃的だった。この世にそんな女がいることにも衝撃だったが、まさか、秋人は記憶がないままだったのかと、愕然とした。
彼の顔を見ても、ずっと顔を伏せて、頭を抱えている。こんな真実なら、彼女を訴えることだってできたはずだ。なのに、どうして、秋人はしなかった?

「ホテルに避妊具はありませんでした。あたしも大丈夫だろうって思いました。そしたら、生理が止まりました」

気づいたのは2ヶ月後です。と言って、ようやく飲み物に口をつけた。さっきからひとりでしゃべっているので、喉を潤したくなったんだろう。
彼女はさっきから、事務的な口調をやめない。それどころか、わたしの目すら見なかった。そこにまた、異常性を感じる。自分の言っていることが、理解できているんだろうか。

「あの」
「はい?」
「なぜ、そんなことしたの?」

決まってるじゃないですか。と、彼女は笑った。はじめて見せた、表情の変化だった。でもそれはごく刹那、また、無表情になった。

「好きだったからですよ。秋人さん、それからもずっと優しかったです。最中に気づいて、すごく抵抗していたのに、あたし無理やり最後までしました。それでも、優しかった」抵抗しても、酔った体では力が入らなかったのか。「あたしのこと責めませんでした。妊娠を告げたときも、それは一緒でした。秋人さんが悪いんじゃないのに、堕ろせって怒鳴ってもいいのに、それもしなかった。子どもに罪はないって。俺が不注意すぎたって。自分を責めてました」

犯されたことを、不注意だと、自分を責めた……まるで、セカンドレイプにあった被害者女性のような状況だ。
ああ、と、声が漏れ出てしまいそうだった。
わたしも秋人の、そんなところに惹かれたのだ。秋人は優しい。だからこそ、5年も付き合っているのに、「結婚」となるとうやむやにして怒りだす秋人には違和感があった。お互いが怒って喧嘩をしはじめたのも、「結婚」の文字をわたしが出してからだ。彼は不可抗力で起こってしまった過ちを嘆いていた。あの怒りは、自分に向けていたものだったのかもしれない。

「どうしても別れたくないんだって、当時から言ってました」
「え……」
「恋人にバレたら、彼女はきっと、俺を捨てるって。子どもがいるなら、堕ろしてもらうしかない。でもそんな決断、俺にはできない。そういう俺を見越して、その子の父親になるべきだと言われるに決まってるって。あたしだって堕ろす気なんてなかったから……あたしはそういう秋人さんの優しさと、あなたへの愛に、つけ込んだんです」

だから、公表しないことを条件に、秋人とわたしの結婚を阻んだのか。子どもの父親を月に数回させて、いつか自分に振り向かせようとしていたのか。3年間も、秋人に地獄を見せていた。
おとなしそうな顔が、いまはおそろしい悪魔に見える。秋人の弱さは、こんな悪魔にまで優しい、慈悲にも似た人間愛だ。

「どうして……言う気になったの? わたしに」
「頼まれたからですよ、もちろん。あなたにバレてしまったことで、秋人さんはあたしの知ってる秋人さんじゃなくなりました。情けない姿をさらけだして、土下座までしてあたしに頼みこんできた」

――伊織を失いたくない。もう伊織にバレたならこんな契約どうだったいい。きちんと養育費は払いつづけるし、父親の役目だって果たす。公表したってかまわない、君の親御さんに説明しろというならどんな嘘をついてたっていい。
だから、真実を、伊織にだけは話してほしい。一生のお願いだ。俺には伊織しかいないんだ!

「呆れました。一気に熱が冷めたんです。うちの子と遊んでるとき、秋人さん、すごく優しかったから。少しはあたしに傾きはじめてるって、あたし自惚れてたんです。こんなこと3年もつづけて、それでもまだ恋人が好きでたまらないなんて。うんざりしました」

話は以上です、と、彼女は席を立った。開き直りも甚だしいほどに。
黙り込んで、その背中を見送ることも、殴りつけることもできなくなったわたしたちを気にもせず、立ち去った。
長い沈黙が、治療院の事務所を支配した。だから、秋人は彼女に会わせたがったのだと、いまならわかる。こんな嘘のような話を男性側からされたところで、信じられるわけがない。

「伊織」
「……うん」
「これでも無理なら、俺、あきらめるしかないって、わかってる」

被害届けを出せば、違った未来があったかもしれないのに。黙っていれば、わたしにさえバレなければ、自分さえ我慢すれば、そう思ったのか。
男性の性被害は理解されがたい。おまけに当時、秋人は34歳だ。簡単には信じてもらえないだろう。この人の優しさや脆さを知っているわたしですら、信じていたかわからない。
そして妊娠という絶望をつきつけられて、秋人はすべてをあきらめた。たったひとつの小さな命を見捨てれるような残酷さを、彼は持ち合わせていないから。

「どうして問題が起きたときに、わたしに打ち明けなかったの?」涙が出てきた。
「……軽蔑されたくなかったんだ。いまみたいに、当時の彼女が真実を話してくれるわけ、なかったし。信じてもらえるとも、思えなかった」
「わかるけど……」

胸が苦しくて、はりさけそうだった。震える自分の声が虚しい。泣きたいのは秋人のほうだ。
彼は、被害者だった。
ほかの女性とのあいだに子どもがいると知って、ずっとわたしを裏切っていたと知って、彼を憎しみつづけた時間への後悔が、怒涛のように押し寄せてくる。

「伊織……俺、答えが出るまで、待ってるから」
「秋人……」
「そんなすぐに、整理つかないだろ。だから、ちゃんと、待つから」

ごめんな、つらい思いさせて。
そう言って、秋人はわたしの頭に優しく手を置いた。泣いて顔を覆うわたしの髪を梳いて、そっと、事務所から出ていった。





「人生、ほんの少しのチャンスがあるときはつかまないと一生後悔しますからねえ。先生もわかるでしょう?」
「まあ、そうですねえ。チャンスは逃したくないですよね」
「だからウィンブルドンだって行ってたわけでしょう? 困りましたよ、そのあいだ来ても先生がいなかったから、私の体が悲鳴をあげていました」
「わたしじゃなくても、優秀なのが何人もいるでしょう?」
「いや、やっぱり先生がいちばんです。おっと、これはみなさんには秘密ですよ」

と、まだほかのスタッフは来ていないものの、秋人がいるのに声がでかい。
朝一、九十九さんという10年来の患者さんがやってきた日だった。衝撃の夜から、1ヶ月以上が過ぎようとしている。
いま、わたしにリョーマのことを思い出させるのは正直やめてほしかったが、それはもちろん、口にはできない。
いつも大声であるこの患者さんを、テレビでごくたまに見かけることがある。そのときは芸名を使っているようだった。あまり詳しくないので下手なことは言えないが、テレビで需要があるとは思えないほど嫌味な雰囲気を持った人である。加えて、話すこともいつも偉そうだった。

「私はそれを経験上、よく知っているんです。おかげでほとんど後悔がない。だから先生も、後悔しないような人生を送ってくださいね」むちうちの経験は、後悔していないんですか? と言いたかったのを我慢した。
「はい、そうしたいと思います」

思いっきりの社交辞令の笑顔を向けて、その背中を見送った。はあ、とため息が漏れてしまう。九十九さんの施術は、接客部分がいつも面倒で、精神的に疲れてしまうのだ。
ただ、今日言われた「後悔しない人生」については、少しだけ感情を揺さぶられてしまった。
秋人はあれから、まったく迫ってきたりはしなかった。あの日の言葉どおり、わたしの答えを「待っている」。辛抱強いと思う。あの話を聞いたあとでは、それも当然だと思う自分がいた。
わたしはおもむろに、プリントされた本日分の予約表を見た。11時前だ。ほかのスタッフは13時からやってくる。平日の午前中はあまり予約が入らないので、いつもそういうシフトにしていた。秋人と二人きりで入るのも久々だ。おまけに予約は、昼過ぎまでない。
いま思いついただけだが、いま言うことに意味があるような気がした。
「後悔しない人生」のための、第一歩かもしれない、と。

「秋人」
「うん?」

その背中に声をかけた。秋人がゆっくりと振り返る。いつだってこの人が好きだった。誠実な目と、優しい声。あれだけ喧嘩していたのが嘘のように、すっかりとおとなしくなった彼の表情は、1ヶ月前よりもいくぶんか穏やかになっていた。

「わたしたち、やり直せるかな……?」
「……伊織」
「あ、でもまだ、気持ちの整理はついてない。子どものことだってあるし。前ほど全力で秋人のこと好きかって言われると、正直」

そこまで言って顔をあげると、腕を強く引き寄せられ、キスが落とされた。
秋人にこんなことをされるのは、実に2ヶ月ぶりだ。強く、体が抱きしめられる。

「ごめん、それでもいい。嬉しい」
「秋人、……ちょ、外から見えるからっ! 調子にのりすぎ!」

我に返って体を離すと、秋人が笑顔になった。「ごめん」と謝っている。
その視線が、わたしの後ろを見て止まった。なにが見えたのかと思い、わたしもなにげなく振り返った。
そこには、越前リョーマが立っていた。





じっと、わたしを見つめている。静かな怒りが、こちらにまで伝わってきそうなほど、リョーマをとりまく雰囲気が激しくなっていた。
リョーマとは、あれから連絡は取っていなかった。わたしはもちろんしなかったし、リョーマからもアクションはなかった。でも、それでいいと思っていた。彼には、幸せになってほしかったからだ。
帰国するというニュースは、どこかでやっていたんだろうか。わたしは知らなかった。この、瞬間まで。
リョーマは静かに、治療院に入ってきた。膝が、すっかりよくなっているように見える。安堵する一方で、どうしてわたしに会いになんて来るんだろうと、胸の奥が、痺れていった。

「秋人、いまのうちに、お昼ごはん食べてきてくれる? できれば外で」
「……わかった」

秋人は、いつも昼は外食だ。わざわざ「外で」と言ってしまった自分に、焦りがあるのだと気づく。なにかを感じ取ったのか、秋人はひどく嫌そうな顔をしていた。それでも、大人としてのプライドなのか、彼はわたしに従った。
リョーマは沈黙のまま、秋人が出ていくのを待っていた。そのあいだ、一瞬もわたしから目を逸らさなかった。

「どういうこと? 伊織さん」
「リョーマ……」
「なんであいつ、ここにいんの? 別れたんじゃなかったの?」

久々に聞くリョーマの声に、その視線に、息切れを起こしそうだった。胸がバクバクとうなっている。
あきらかに怒っている様子に、なにか言わなくちゃと思うのに、声がでない。

「ねえ、伊織さんって」
「リョーマには……関係、な」
「関係ないわけない!」

ビクッと、肩が揺れた。リョーマの怒号を、はじめて聞いたからだ。試合中くらいしか、彼が叫ぶのを見たことがない。まっすぐにわたしに向けられた嫉妬心に、困惑が襲いかかってきた。
彼にとって、あの夜はどんな夜だった? 好きだとか、愛してるだとか、言われたわけじゃない。ただ、お互いの傷を慰めあった。だからこそ、自惚れずにあのまま終わって、お互いなんの連絡も、取っていなかった。そのはずだったのに。リョーマのあの熱が、まだつづいてる……?

「なんで、キスなんかしてんの」
「それは……」
「なに聞かされたのか知んないけど、伊織さん、あの人がやったこと忘れてるわけじゃないよね?」
「リョーマ……秋人にも、いろいろ事情があって。わたし、納得したの」
「は?」

一歩、近づいてきた。障害物がなにもない空間で距離が縮まったことに、とめどなく感情が揺さぶられていく。
それは怯えとは違う。焦りとも違う。わきあがってきていたのは、ごまかしてしまいたいほどの、彼にたいする切なさだ。胸が痛くて、締め付けられる。

「ほかの女と子ども作った男に、納得した? マジで言ってンのそれ。一種の過ちだったとか、そういうことで納得しちゃったわけ?」本当に、過ちだったんだ。しかも、彼が望んだわけじゃない。
「そんなこと、リョーマに言われる筋合い」
「オレと愛し合ったじゃん!」

手首を強くつかまれた。傷つけようとしても、取り合ってはくれなかった。

「あれは」
「ねえ、伊織さん。忘れてないでしょ、オレと」
「あれこそ、一種の過ちだから!」

泣き叫んでしまいそうなほど、大きな声をあげた。その手を、強く振り払った。
そうじゃないと、呑み込まれてしまうのが自分でもわかっていた。
リョーマの顔から、怒りの雨がはけていく。傘に落ちた水滴がポロポロと弾いていくように、冷たく乾いた不安へと変わっていった。
傷つけた。わかってる、傷つけようとしたんだから。秋人とやり直そうとしていたのに、こんなに強く揺さぶられた自分を、知られたくなくて。

「信じないから、オレ」
「……リョーマ」
「愛し合ったはずだから。それだけは絶対に、オレの勘違いなんかじゃない」

黙るしかなかったわたしの顔を見て、リョーマは背中を向けた。「また来るから」とつぶやいて、彼は、静かに帰っていった。
夏の快晴だったのに。見慣れた景色のなかにその後ろ姿が溶け込んでいく。わたしはひどく疲れ、急に、寒さを覚えた。





数日後、週末のことだった。跡部さんの彼女が、来院してきた。

「ご結婚されるそうですね」
「はい、まだ詳細は決まってないんですけど。それで、ちょっと体が最近、腰がつらくて」
「跡部さんから、妊娠されていると聞きました」
「ええ、まだ7週目くらいなんですけども」

彼女の来院前に、跡部さんからは連絡をもらっていた。淡々と話す彼の声はまったくと言っていいほど、喜びを感じられなかった。
あの人こそ、プロ時代から結婚にはなんの興味もない人だったから、ひょっとして「失敗した」と思っているのかもしれない。いくらジェントルであろうと、交際している女に「妊娠した」と言われれば、結婚を考えていない男なら誰でもそう思うだろう。
それにしても、まさか跡部さんほどの完璧主義者が、避妊に失敗するとは。おそらく知らないうちにコンドームが避けてしまったくらいのことだろうが、およそ彼には似合わない「失敗」に、思わず笑ってしまいそうだった。

「お腹、まったく出てないですね。まあ、最初はそういう人も多いんですよ。わたしの知っている人は、7ヶ月目くらいからようやくポコっと出てきた人もいましたよ」
「へえ、そうなんですか? そういうこともあるんだ」

うんうんと、深く頷いている。
秋人は、もしも妊娠したのがあの悪魔ではなくわたしだったら、喜んでくれたのだろうかと、ふと思った。リョーマが来た日にも、それから数日経ったいまも、彼は一定の距離を保ってわたしに接している。衝動的にキスしてきたのはあの日だけで、「まだうまく整理がついていない」と言ったわたしを、見守ってくれていた。
ただひとつ、あの日リョーマが去って彼が戻ってきたときに、「彼と、なにかあったの?」と静かに聞いてきた。「リョーマにも相談してたから、ちょっと怒ったみたい。でも、説明したから」と、わたしは大嘘をついた。
すんなりとそれを信じたのか、その日の夜に、指輪をもう一度わたされた。「結婚しよう」とは言われなかった。わたしも、「ありがとう」とは言わなかった。ただ沈黙のなかで、そのケースごと、わたしは受け取った。

『伊織の決心がついたら、つけてくれると嬉しい』

そのメッセージを受け取ってからも、指をとおすことができないままでいる。「また来る」と言ったリョーマのことが、頭から離れないからだ。あんな彼の悲痛な叫びを目の当たりにしたまま、もう自分がどうしたいのか、わからなくなっている。
秋人への深い愛情が存在する。リョーマに感じるときめきも、たしかに存在する。いい歳してこんなふうに人の気持ちをもてあそんでいるような自分が、嫌いになりそうだった。
だから目の前の幸せな若い女性を見ていると、いろいろと複雑な気分になる。
さっと軽く、頭を振った。仕事に集中しなくてはならない。施術台で体を横にしてもらってから、わたしは脈診をした。

「28歳、になられたばかりでしたね?」
「ええ、なにか?」
「もっとお若いときから、冷え性ですか?」
「ああ、はい。夏でもエアコンが強いところでは、すぐに」
「そうですか。妊婦さんなら、体を冷やしてはいけません。冷え対策、しっかりされてくださいね」
「ありがとうございます」

触れればすぐにわかるほど、手首が冷えていた。首にも触れた。手首よりも体温はあるが、やはり冷えている。脈拍は、正常だった。
とりあえず腰に手をあてると、かなり凝り固まっていた。妙なことを考えないようにして、わたしは跡部さんの彼女の施術を終えた。

その日の夕方だった。見覚えのある立ち姿に目を凝らすと、思ったとおりの人がこちらに向かってきていた。
いよいよ登場してきたかと、テレビドラマを見ている気分になる。いつか、なんとなく来るのではないかと予想していた。
彼女はツンとした様子で院内に入ってくると、「そろそろ終わりですよね?」と案の定ツンケンした棘のある声で聞いてきた。

「お久しぶりです、千夏さん」
「お久しぶりです。急に帰るなんて、ひどいですよ。まともに挨拶もしてくれないんだから」
「ごめんなさい。合わせる顔がなかったの。朝も早かったし」

正直な思いだった。そこまで仲よくなかったし、という嫌味は、胸の奥にしまってみる。

「ちょっとでいいので、話せませんか」
「わたしと?」
「いいでしょう? 一緒に戦ったチームメイトなんだから」

わたしと千夏さんは、一切、戦っていないのだけど。言わんとしていることは理解できた。
すでにスタッフは何人か帰っていた。近くにいた秋人が、気遣うように声をあげた。

「院長、いいですよ。閉院は俺がやっておきます」
「すみません。ありがとうございます」

お客さんの前なので、お互い丁寧に挨拶をする。秋人は千夏さんに軽く会釈をした。
「お元気そうですね」という言葉に、「あなたも」と微笑んだ。千夏さんのことは、よく覚えてないのだな、と感じた。
無理もないか、と思う。千夏さんが女子バスケチームの栄養管理担当となり、秋人が辞めたのはそれから3ヶ月後だと言っていた。その3ヶ月、秋人にとっては地獄の日々だったはずだ。周りを気にしている余裕など、なかっただろう。
近所にオープンしたキッチンカーに足を運んだ。スタッフからの噂を聞いて、機会があれば食したいと思っていたが、なかなか来ることができなかった。機会というのは、こうして突然やってくる。

「千夏さん、せっかく来てくださったから、ここはわたしが払うね」
「え、いや、そんなつもりじゃ!」
「いいのいいの。年上なんだし、カッコつけさせて」
「お決まりですか? 僕のおすすめはこれですけど。どうなさいますか?」

ニコニコと、非常に透明感のある爽やかな男性がキッチンカーのなかから声をかけてきた。
さりげなくおすすめを教えてくれるシェフであろう彼に、好感が持てた。
フレンチを提供するという異色のキッチンカーは、想像以上に大きかった。近くではテーブルも用意されて、談笑しているグループがよく冷えてそうな白ワインを飲んでいる。
ときどき演奏されている奥のストリートピアノには、誰も座っていなかった。あのピアノが音色を奏でていたら、もっと気持ちがよさそうなのに、少し残念だ。

「じゃあおすすめで。そこの公園で食べるので、テイクアウトさせてください」
「はい、少しお待ちくださいね」

シェフの手は、大きな傷あてパッドのようなもので覆われていた。あの手で料理をしているんだろうか。非常にやりにくそうだと思うのに、提供された料理は驚くほど繊細に作られていた。

「うわ、美味しい……」

千夏さんが思わず声をあげるほどだ。彼女も料理のプロだ。その人をうならせるとは、なかなかすごいシェフである。キッチンカーの食事にしては少々値段がはるものの、倍の値段を出しても惜しくないほどの納得の味だった。
公園のベンチで食べているというのに、まるで空間が変化したようにうっとりとする。食事で、人はここまで幸せになれるのか。魔法みたいな料理だと思った。

「ホント。すごく美味しいね」
「なーんかあの人、どこかで見たことがあるんだよなあ」首をひねっている。これほどの味を提供できるシェフだ。料理の道で食べている千夏さんが知っていても、不思議ではない。
「千夏さんって、いろんな人を知ってるのね」

嫌味のつもりはなかったが、千夏さんはそれを聞いて、どういうわけか背筋を伸ばしてムッとした。
なにか、嫌なことでも思い出させてしまったんだろうかと、一抹の不安がよぎる。

「リョーマと、なにかありましたよね、伊織さん」
「えっ」

突然の言葉に、ぎょっとする。まんまと目を見開いて彼女を見ると、半目になったような顔をして、じっとりとこちらを見てきた。
まずい、いまの顔は、肯定したも同然だった。

「秋人さんのこと、見てた人がいて」ロンドンに来てたそうじゃないですか、と鼻息を荒くしている。「それで我慢できなくて、リョーマに聞きました」
「え、そ、え……な、なにを?」

リョーマ、まさか、話したんだろうか。いや、この場合、どこまで話したのかが重要だ。まさかまさか、わたしに怒ったみたいに「愛し合った」とか、言ってないよね……?

「千夏には感謝してる部分もあるけど、むしゃくしゃしてる部分もあるからって、意味不明に怒られたんです、あたし」
「……そう、なんだ」

どうやら言っていないようだと察して、ほっとする。リョーマの言葉の真意は、よくわからない。千夏さんが秋人のことを(故意ではなく)わたしに知らせたから、今回のことがあった。秋人と別れるまで話が進んだことに感謝をしていて、でも秋人がプロポーズしてきたことに、むしゃくしゃしているんだろうか。
でもそんなの、千夏さんのせいではない。決して。八つ当たりにしては、かわいそうだ。

「あんなリョーマ見るの、はじめて。だから絶対、伊織さんとはなにかあったんだって」
「えっと……とくになにも」
「嘘つかないでください。あたしこれでも、勘は鋭いほうです」

ですよね、と心のなかでつぶやいてしまう。
最初からこの子はわたしに警戒していた。わたしもリョーマもお互いなにも感じていなかった日から、やけに攻撃的だった。それは勘というより、預言者ではないだろうか。

「でも、あたしリョーマのこと、あきらめてません」
「……はい、いいと思います」好きにしてほしい。
「伊織さん、バカにしてません!?」
「えっ!? し、してないよっ。なんでそうなるの!?」
「なんか余裕ぶっこいてるじゃないですか。言っておくけど、リョーマは結婚してくれないですよ!?」

大声でなにを言っているんだろうか。そんなことは百も承知だ。
だからわたしは一瞬でもよぎったリョーマとの可能性を、同じくらいの早さで打ち消したのだ。
だからこそ、リョーマがあんなに感情的に気持ちをぶつけてきたことに驚いている。だけどそれが結婚まで発展するなんて、誰も思っていない。彼は跡部さんと同じくらい、おそらく結婚には興味がないはずだ。

「あの、千夏さん。さっき見たからわかると思うけど、わたし秋人と」
「付き合ってるんですね? それ、信じていいんですよね?」

……そういえば、付き合っていると言っていいのか、よくわからなかった。
別れた、一瞬。そしてやり直そうと言った。でもそこから、衝動的なキスはあったものの、前のような恋人同士の時間は、一度も過ごしていない。言葉だけのやりとりを見れば、付き合っているということになるんだろう。ただ、感情面ではどうだろうか。秋人は、いまだにわたしの決心を待ってくれている。実に曖昧だ。
黙ってしまったわたしのことなどどうでもいいのか、彼女はそのままつづけた。

「あたし、もう遠慮しません」

あなたが遠慮したことなんて、一度たりともないだろうとは、雰囲気的に言えなかった。
ごくごく真剣な声色が、茶化すべきじゃないことを知らせてくる。

「リョーマを全力で仕留めにいきますから」

その眼差しに、かわいい、と思ってしまった。これくらい愛してくれる人に愛されたほうが、リョーマも幸せなんじゃないかと感じる。
わたしのような、枯れかけているアラサーよりも、よっぽど。
わずか3歳ほどしか違わないのに、まだみずみずしくて美しいアラサーの彼女が、きらきらと輝いて見えた。

「お似合いだって、思うよ」
「その言葉、貫いてくださいね」

本心でそう思ったのに。
わたしの声は夜の公園のなかで、虚しく消えていった。





to be continued...

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