ざわざわきらきら_08


8.


右手から、骨が突き出ていた。
ものすごい衝撃のあとだった。どのくらいの高さまで登っていただろうか。たいした高さじゃない。「カント!」と周りの人が叫んでいる場所まで、まだ半分くらいあったから。
それが「完登」というクライミング用語だと知ったのは、ほんの数分前のことだ。
ボルダリングと言われる3、4メートルの壁を登るエリアなら、落下地点はふわふわしたクッションのような着地点だった。
でもリードクライミングと言われるその場所は、12メートルの高さを登るというのに、着地点はカチコチだった。どういう仕組みなのかはわからない。でもリードクライミングは通常、二人一組でやるものらしい。命綱を支えている人がいるからこそ、ふわふわしたクッションのような着地点は逆に不安定になるのだと思う。
でも、わたしには必要だった。こんなことに、なると思っていなかったから。

「伊織っ!」
「いけないっ! 救急車を呼んで!」

すでに遠のきそうな意識のなかで、新次の声が聞こえた。ついで、さっきまで丁寧に教えてくれていたインストラクターの人の声が聞こえた。その、直後だった。
わたしの右手から、骨が突き出ていた。
全身に感じていた痛みよりも、目のなかに入ってきたその衝撃のほうが強かった。中指のつけ根から、白いものが皮膚を破って空を見上げている。目の奥のほうがクラクラとした。そして、目の前にチカチカとした黄色い点々が降ってきた。自分のものとは思えない血が、噴水のように飛び散っている。
わたしはそこで、意識を失っていた。

なにが起きていたのかは、ぼんやりとした記憶しかない。麻酔をかけられるまでもなく、わたしはまどろみのなかにいた。
きっかけは、「少し変わったデートがいいね」と言った新次の言葉だった。映画を見て、ランチを終えて、軽めのショッピングをして、夕方近くなったころ。ディナーの前に「お腹を空かせたいよね」と、彼は言った。異論はなかった。ランチの量が多くて、ショッピング時の歩行程度では空腹にはなっていなかったからだ。
わたしたちは、ただ街中を歩いていただけだった。そこに、たまたまクライミングジムを見つけただけだった。高さがわずか3、4メートルのボルダリングは、ホールドと呼ばれる色とりどりのプラスチックが埋め込まれていて、そこに手をかけて登っていく。その光景にジャングルジムのような無邪気さを感じた。誘ったのは、わたしだ。

「ねえ新次、これやったことある? よく見るよね!?」
「ああ、オリンピック競技にもなるかもしれないものだよね。どんなスポーツなんだろう」

新次も、興味を持っていたから。手を使うスポーツなのはわかっていた。だけど所詮はジャングルジムだ。わたしも、もちろん新次もなんの不安もなく体験プランの申し込みを終えた。体験プランの申込書には、誓約書も含まれていた。いかなる事故が起きても、ジム側に一切責任を負わせないというもの。つまり、すべては個人の判断によるもので、「自己責任」で処理されるということだ。サインしたときに、そんな事故が起こるなど、誰も思わない。わたしも新次も、気軽にサインをした。
ボルダリングは、想像以上に楽しかった。登っていくのに、筋肉量は逆に邪魔になるというインストラクターの話も面白かったし、いかにも登れそうなのに、まったく登れない初心者用の課題も面白かった。
そんな時間がやがて1時間も過ぎたころ、インストラクターが言ったのだ。

「よかったら、お二人で来てらっしゃるんで、リードやってみません?」

リード、がなにを指すのかは、その現場に行ってはじめて理解した。
高さは12メートルの壁だった。ボルダリングと同じように、色とりどりのホールドが埋められている。決定的に違うのは、登る人と、その命綱を引っ張っている人が見守っていること。ボルダリングはひとりの競技だが、リードクライミングはテニスで言えばダブルスだった。
その足が震えるほどの高さに、わたしは拒絶を覚えた。「カント」するまでに、相当の体力を使うこともわかっていたし、それだけ手が痛むこともわかっていた。すでにボルダリングで手の力が弱くなっていたこともあって、わたしは抵抗を示した。わたしは絵描きだから。
新次も気遣ってくれた。「それなら、やめよう。手になにかあっても大変だし」と言ってくれたのだ。でも、追加料金を狙ったのか、ノルマがあったのか、スタッフの人は、かなり強くリードクライミングを押し付けてきた。

「安全です。ずっと自分が見ていますし、事故は起こったことがありません。ただ支える側のビレイヤーのほうが難しいので、それは彼氏さんのほうがいいかしれないッスね」
「じゃあ、やってみる? 伊織、少しなら大丈夫だよ。オレがちゃんと支えてるから」
「でも……ちょっと怖い」
「まあ、やってみよ! もっとお腹すいて、美味しい酒が飲めるよ、きっと」
「あー、それは間違いないッスね! ほら彼女さん、ハーネスつけて!」

結局、わたしと新次は、その空気に折れたのだ。





目が覚めたとき、鋭い痛みが全身を蝕んでいた。なにより、右手がギプスに覆われている事実に、わたしは嗚咽した。
わたしが、あんな提案さえしなければ。その後悔が、荒波のように体中をかけめぐった。
それから間もなくして、忍足さんが病室に現れたのだ。

「伊織さん……もう泣かんで」
「だって、だって……わたしっ。あと、1ヶ月ないのにっ」

全部、なにもかもわたしのせいだ。忍足さんにあれだけ注意されていたのに、わたしは浮かれていた。自分のプロ意識の無さで、この人を傷つけている。
忍足さんは、会社まで辞めて、わたしの夢に賭けてくれていたのに。なのに、忍足さんはわたしを責めもしなかった。それどころか、泣いているわたしを、強く抱きしめて、慰めてくれた。

「お、忍足さっ……ごめんなさいっ、わたし、本当に、ごめんなさいっ」
「ええねん。大丈夫、大丈夫や。もう泣かんとき、な?」

わたしのせいなんです、と何度も訴えた。その声に、忍足さんは無反応だった。ただひたすら、「大丈夫」と言って、背中を何度もなでてくれた。
わたしの右手は死んでいた。抱きしめてくれる忍足さんにしがみつきたいのに、左手しか動かない。悔しくて何度も持ち上げようとしたけれど、うまく動いてはくれなかった。

「大丈夫や。チャンスはいくらでもある。伊織さん、才能あるんやから。絵も絶対、描けるようになる。な? それまで頑張ろうや。俺が絶対、プロにする。約束したやん」

後悔でぐちゃぐちゃになっているわたしの頬から、涙を親指で何度も拭き取って、忍足さんはそっとベッドに寝かせるように、わたしの両肩を押した。

「もう、寝んとあかんよ。伊織さん、泣き疲れたやろ」
「……寝れそうにっ……ありませんっ」

忍足さんは、困った顔して、微笑んで。そっと頭を撫でてくれた。その手が、大きくて、あたたかくて、また涙がこぼれおちていく。

「今夜は、ずっと俺が傍におるよ」
「忍足さん……」
「伊織さん寝るまで、ずっとおる。安心やろ?」

ギプスで巻かれた右手の下に、看護師さんが用意してくれていた枕をはさんで、忍足さんはベッドの左側に椅子を用意して座った。ゆっくりと、確かめるように左手を包み込む。

「ほら、はよ目え、つぶり。伊織さん俺よりお姉さんやろ? しっかりしい。寝んと怒るで」
「……はい」

ぐずぐず鼻をすすっていたのは、そこから数分のことだった。トントンと、忍足さんの片手がわたしのみぞおちあたりで規則的に動く。お姉さんと言ったくせに、まるで子どもをあやすようにそうしてくれた。そのあいだもずっと、左手を握っていてくれた。
あたたかさと優しさに包まれながら、わたしは眠りに落ちた。





退院は、事故から4日後のことだった。
病院側からは午前中の退院を求められていた。今日は、忍足さんがわざわざ車で迎えに来てくれることになっている。手術や入院にかかった費用を支払おうと思いナースステーションにいくと、「全額支払いが終わっているようですよ」と言われ、愕然とした。
絶対、忍足さんだ。そんなにお世話になるわけにはいかないのに、事故をしてからというもの、忍足さんは異常なくらいに優しかった。
この4日間だって、ほぼ一緒にいてくれた。ときどき、なにか大事な用があったのか、時間を気にして夜中に出ていくものの、病院にいるあいだは、とにかく世話をやいてくれたのだ。

「これ、必要そうな荷物、入れとったから」
「そんな、数日だから大丈夫だったんですよ?」
「あっ、心配せんでも下着はあんま見てへんから! 適当にカゴに入れたでな!」
「だ……誰もそんな心配してませんって」

とか、

「はい、口あけて」
「忍足さん……あの、左手でもなんとか食べれます。スプーンもあるし」
「あーかん。そんなモタモタしとったら看護師さんに怒られるで。ええからはよ、あーんして」
「あ……あーん」
「ん、ええこ」

とか、

「指先、真っ黒んなってる……かわいそうや。看護師さん、これ治ります?」
「もちろん時間とともに治りますよ」
「どす黒いですよねえ。でも数日でだいぶよくなるって、こないだ先生も、わたしに説明してくれましたよ」
「せやけど……あ、そうや、少し明るめのリキッドファンデとか塗ったらええんちゃう? そうや、俺めっちゃ頭ええ!」
「忍足さん! 素人が患部に触れるなんてとんでもありませんよ! なに考えてるんですか!」
「す……すんません」

とか……。
昨日は看護師さんに怒られる始末だ。
もう、どうしてくれようというくらい、いたれりつくせりで、わたしはすっかり忍足さんに心を奪われまくっている。だって、こないだまでの忍足さんなんだったのってくらい、優しいんだもん。そりゃ、どうせいまだけだろうけど……ああ、天然のイケメンってだから罪なんだよおー! と、ジタバタしても仕方ない。そもそもはじめて会ったときからタイプだし、そんな男に尽くされて惚れないわけないんだから、もう開き直ろう。それしかない。
お財布を開くこともなく、わたしはぼやぼやと病室に戻り、忍足さんの登場を待つことにした。
窓の外では、子どもたちが大人しく遊んでいた。入院は人生で2度目だが、病院にいる子どもを見るのは、やっぱり慣れない。わたしを絵本作家へと導いてくれたあの少年を思い出してしまうからだ。あの子はこの空の上で、元気にしているだろうか。もしも願いが叶うなら、図々しくも、この怪我が早く治るように魔法をかけてほしい。あの少年なら、それができる気がした。
「絵は描けるようになります」と担当医の先生は言った。それでも全治3ヶ月は見ておいたほうがいいらしい。忍足さんがくれたチャンスまで、あと3週間。絶望的だ。
わたしが、台無しにした。忍足さんが一生懸命つかんでくれた、たったひとつのチャンスを……。

「伊織」

絶望的なわたしの背中に、絶望を感じさせる声がかかった。それくらい、その声は小さく、弱く、いまにも壊れそうだった。どこか懐かしさも感じて、わたしはゆっくり振り返った。
新次が、泣きそうな顔で立っている。

「新次……」
「ごめん、全然、来れなくて」
「ううん。いいの。どうせ、忍足さんでしょ?」

忍足さんは、事故の詳細をなにも聞いてこなかった。それがずっと不可解だとは思っていた。看護師さんの話では、当日、ここに忍足さんを呼んだのは新次だ。それが新次なりの誠意だということもわかる一方で、忍足さんが新次のことを責め立てただろうことも、安易に想像ができる。忍足さんはわたしにつきっきりだった。もし病院に来ていても、新次がこの病室の扉を開くのは気が重たかっただろう。
だから新次の顔を見たのは、あのリードエリアの地面に叩きつけられたのが、最後だった。

「……オレが、悪かったから。本当に、本当にごめん」

ぽろ、と、俳優みたいに綺麗な涙を落としている。憔悴しきった顔が、わたしの胸をひどく痛めつけた。

「新次、思い詰めないで。事故なんだよ、しょうがない」
「オレが手を、うっかり離したから……っ」
「故意にやったわけじゃないんだから、そんなに自分を責めないで……ね? 忍足さんになにか言われたんだろうけど、それも、気にしないで」
「伊織、オレ……本当に、ごめん」

うなだれて、片手で目をふさいで、泣いている。付き合っていたときにだって、新次がこんなふうに泣いたのを、見たことはなかった。それほど彼が後悔して、それほど苦しい思いをしていることが、ダイレクトに伝わってくる。
抱きしめてあげたくなった。大好きな人だったから。こんなに弱ってしまった新次を救えるのは、きっとわたししかいない。でもその思いは「恋」や「愛」とは明確に違うと、どうしてだろう……いまこそ、わたしは確信してしまった。

「ねえ新次」
「ん……ごめ、泣いてばっかで」あの日のわたしみたいだ。
「いいの。そのままでいいから、聞いてくれる?」
「ん」こくんと、子どもみたいに頷いた。
「わたし、もう新次に会えない」

黙ったまま、新次は顔をあげた。わたしを見つめたまま、胸板が大きく揺れている。
少しだけ太い眉毛が好きだった。大きな垂れ目も、筋が通った高い鼻も、キスしたあと、何度も触れなおしてくる柔らかい唇も。全部、大好きだった。
長い沈黙が流れた。そのあいだ、新次は一瞬もわたしから目を逸らしたりはしなかった。

「……結局、オレ、あの人に負けたんだな」
「……」なにもかもわかったような言葉に、わたしの視界が歪んでいく。ごめん、新次。
「はじめて会ったときに、もう気づいてた、本当は」

新次は、天井を見上げた。懸命に笑おうとしていた。涙をこらえて、拳で胸を叩いている。
もしかしたら、こうして言われることを知っていたから、今日まで会いに来なかったのかもしれないと思った。それくらい、新次の表情は驚きよりも切なさに満ちていた。
ようやく正面を向いてわたしに目を合わせたころには、もう、笑っていたから。

「はあー、うん」大きなため息をはいて、きゅっと口を閉じるように、微笑んで。「お似合いだよ、ふたりとも」
「え……」
「忍足さんも、伊織のこと、愛してると思う。だから、幸せになって」

また、ひどく胸が痛みはじめた。向けられた背中を追いかけて、やっぱり抱きしめたくなる。5年前に別れたのに、いまもわたしを想ってくれていた、大好きだった人。
だけど、守りたいと思う愛じゃない。
この気持ちは憐憫にも似た、情だった。





忍足さんは看護師さんから人気があった。あったけれど、おばさんと呼ばれる年齢になっているわたしから見ても、十分おばさんに見える看護師さんには、完全に遊ばれていた4日間だった。

「それじゃ看護師さん、お世話になりました」
「本当、どっちをお世話したかわからないくらいでしたよ」
「ぷっ」
「ちょ、それどういう意味なんや。てかなに笑ろてんねん、伊織さん!」
「はいはい、いいから気をつけて帰ってね」

最後まで遊ばれた忍足さんは、ぶすっとしたまま車を運転していた。「世話された覚えなんかないわ」と、おかんむりの様子である。すんごくかわいいんだけど、どうすればいいのだろう。さっき新次に言われたこともあって、ものすごく心臓がバクバクしている。
いや、あれはきっと、新次なりにカッコをつけたくて言ったに違いないとは、わかっていつつも、だな……。

「忍足さん、道、あってます?」

車に乗ってぼんやりと景色を見ながら不思議な気持ちになった。どうも、わたしの自宅に向かっている気がしなかった。どちらかというと都心に向かって進んでいる気がして、困惑した。

「ん。ちょっと伊織さんに見せたいもんあってな」ぽりぽりと、頭をかいている。
「え、どこか連れて行ってくれるんですか?」
「いやまあ、そんなたいそうなとこ、ちゃうけどな」

忍足さんらしくもなく、まごまごとした物言いで余計に胸がドキドキする。退院祝いのランチとか? いやいや、それって人前で、あの「あーん」をするかもしれないってこと? やだあ、忍足さんそれは無理だよお! と、頭のなかがお花畑になってきた。
別にこれまでもこんな会話くらい普通にしてきているのに、この入院期間がわたしをおかしくさせている。
そしてここまできて、感傷的な自分の一部を再確認しはじめた。はっとしたのだ。
だって、ですよ。わたし今年32歳になるのに、大丈夫なんだろうか、こんなことで。怪我して優しくされたからって、2歳年下のイケメンに片想いして、あんなイケメンの元カレ振って。忍足さんに告白したところでたぶんうまくいかないってわかってるのに(一度告白してめちゃくちゃキレられたし)、新次を振るとか、バカすぎない? だからってこの気持ちに嘘ついてまで新次と付き合えないし、ああもう……どうしたら。

「……伊織さん、なんか考えごとか?」
「えっ!?」
「いや……めっちゃ眉間にシワよせとるし。自分、気づいとる? 頭、抱えてんで。左手だけやけど」

わたしは黙ったまま固まった。そっと小指で眉を触ると、たしかに眉間にシワがある。そしてその手は、額に位置していた。
完全にわたしを不審な目で見ながら、忍足さんはつづけた。

「頭まで骨折したんか?」
「してません! なにげにひどいこと言わないでください!」
「ほなはよ、車から出てくれへん? 到着してんねん、さっきから」
「え! あ、ホントだ! すみませんっ」

気がつくと、パーキングに車が停められていた。どこに向かうのかわからないまま、忍足さんの背中を追う。都心のど真ん中、表参道。やっぱりランチだろうかと思っていると、あまり表参道には似つかわしくない古ぼけたビルに、忍足さんは入っていった。

「忍足さん、どこに……」
「もうすぐやから」

エレベーターに乗り込んで、4階を押す。2つほどある扉のうち、端っこの左側の扉に、忍足さんが鍵を挿し込んだ。
足を踏み入れると、簡素だけれどポップな空間がわたしを出迎えていた。
大きなクリアテーブルに、カラフルな統一感のない椅子。その先端にモニターがある。テーブルが位置する壁は、全面ラックになっていて、漫画や小説など、エンタメのすべてが詰め込んであるような書庫になっていた。
その右側に、大きなテレビとソファ、ローテーブルが、これまたカラフルに置かれていて、ほっとするような空間を醸し出している。
これは、どう見ても人の住む部屋じゃない。人が集い、話し合い、なにかを生み出す空間だ。

「忍足さん、ここ……」
「そう、新事務所。社名、まだ考えてへんけど、そのうち伊織さんにロゴとかいろいろ考えてもらおって思とるから、まずはお披露目しとこかと思ってな」
「うわあ、すごい! 忍足さん、さすがセンス抜群ですね!」そう言うと、忍足さんは嬉しそうに笑った。
「俺、あんまこういう性格ちゃうから、いろんな人に意見もらったけどな」
「でも、おもちゃ箱ひっくり返したみたいになってて。いかにもエンタメの世界です! あ、ほかの新人作家とか、これから探すんですか?」

怪我をしたわたしの部屋にいる意味がなくなったから、忍足さんは自宅で作業をするのだと思っていた。けれど、忍足さんは事務所を契約していた。
作家エージェントとしての活動を広げていかなくては利益が出ないのだから当然のことだけど、わたしがその1号にはなれなくなると思ったら、ちょっぴり残念だ。
それでも、このいよいよスタートする雰囲気に、容赦なく気持ちは高ぶっていった。

「まあ、そやね。目星つけとるヤツがおらんこともないけど。あとはプロで、何人か俺を通して仕事したいって言ってくれた作家さんもおるから、そこも進めていくつもりや」人身事故を起こしたライトノベル作家とかもおるで。と、付け加えた。
「そうなんですか! さすがですね、忍足さん」

忍足さんは事務所のなかを歩き回りながら説明しつつ、まだ片付いていないダンボールを開けた。なかには書籍がびっしりと入っているようだ。巨大なあのラックに並べている。
少しでも手伝えればと、忍足さんにつられるようにわたしもダンボールから一緒に書籍を取り出してラックに並べていった。左手なら自由に動く。それが、妙に嬉しかった。

「ん。ほかに、スタッフも雇わんとあかん。でもな、伊織さん」
「はい?」
「まずは、伊織さんやから」
「え?」
「言うたやろ? 俺の作家エージェントとしての最初の仕事は、佐久間伊織をプロにすることやって。それまで、ほかの仕事に時間をかける気はない」目を丸くして忍足さんを見つめても、忍足さんは一切、表情を変えずにつづけた。「ああ、でも焦らせたいわけちゃうよ? とにかく早く治して、また頑張ろ、な?」
「あの、でも!」

それだと、完治するまでに3ヶ月はかかるし、完治してからもプロになれる保証はないのに、忍足さんの食いぶちに余裕がなくなってしまう。なんでこの人、そんな危険な賭けに出るようなことを言い出しているのだろう。

「説教を聞くつもりはないで。俺、こう見えて頑固やねん。伊織さんがいまから言おうとすることなんか手にとるようにわかるけど、心配せんでええから」
「そんな……」

忍足さんはなにもかもわかったような顔して微笑んでから、「ああ、それと……」と、不自然にわたしから目を逸らした。どういうわけか、またまごまごとしながら、ぽりぽりと頭をかいている。
ふと思う。もちろん事務所を見せることも目的のひとつだったんだろうけど、なにか本題のようなものが、この先にあるのでは、と。

「提案っちゅうか、お願いがあるっちゅうか」
「どう、したんですか?」

んん、と言いながら急にキッチンのようなところまで移動して、冷蔵庫をあけた。挙動不審がすごくてびっくりする。
ペットボトルの水を差し出されたので、軽く会釈をしながら、右脇に抱えて左手でキャップをつかんで力を込めた。

「不便よな、やっぱり」じっと、ペットボトルを見つめている。
「ええ、でもこれはもう慣れっこです」左手で持ち上げて、口に含む。お礼を言わなくてはと思い、慌ててつづけた。「あ、お水ありがとうござい」
「シャンプーしたる」

その瞬間、わたしは見事にペットボトルを落としてしまった。

「ちょおなにしてんねんっ、もうっ!」
「……は、は!?」

忍足さんはバタバタとタオルを持ってきた。まだ借りたばかりの事務所の床は美しい。
磨く必要などないのに、磨かせてしまった。

「忍足さん……」
「なんや! 新しい事務所に水ぶちまけよって」
「いまなんて言いました?」
「せやから、しゃ……シャンプーや!」
「は、はい!?」

それは、一緒にお風呂に入るということにならないだろうか。だいたいシャンプーなんて全裸でやるものだ。少なくともわたしにとってはそうだ。それをシャンプーしてやるってどういうこと? タオル巻いてればいいじゃんとか、そういうこと?
いや、怪我してるから気遣ってくれてるのはわかりますよ、いくらわたしだって。でもシャンプーは左手だけでもなんとかやるし! 看護師さんにやり方とかレクチャーしてもらったし! ていうか忍足さんの前でタオル一枚になるとか無理だし!

「ちょ、伊織さん、なんて顔してんねん……」
「いや、だって……!」

わあああ、と、いろんな妄想をくり広げたわたしの顔は、どんなことになっていたんだろう。忍足さんが困惑の表情で立ち上がり、わたしを見おろしている。

「ちゃう、ちゃうよ、ちゃうって」
「え、だって、しゃ、シャンプーって」
「せやから……ああ、もう見せたほうが早いな。こっち来て」
「え、ちょ、えっ」

忍足さんはわたしの左手首をつかんだ。強い力で引っ張られたところに、カーテンで仕切りがしてあった。シャーッと、なんのためらいもなく忍足さんはそのカーテンを引いた。

「え……」
「伊織さんが考えとるようなことちゃうよ。そら……体も洗うん大変やろうから、それも手伝えたらええんやろけど。でも、頭ってしっかり洗いたいやん。体なんか、適当でもええけどさ」

いや、わたしは体もしっかり洗いたいですが。
そんなことどうでもよくなるくらい、目の前の物体は、この事務所に似つかわしくない。
そこには、美容院に何台も置いてあるような、あのシャンプー台が設置されていた。

「こ、どうしたんですか!?」
「知り合いの美容師に、中古販売業者を教えてもろたんや」
「だって……高いでしょ!?」
「そんなんええねん、どうでも」
「よくないですよ! あ、そういえばわたし、治療費も! 忍足さんでしょ!?」
「もう、それもええって。俺の監督不行届きやし」

まるで本物のアイドルプロデューサーの言い分である。だからって、アイドルが怪我してもプロデューサーが支払いしたりしないと思うんですけど!

「なに言ってるんですか! ていうか、あと2週間でギプス取れるんですよ!?」
「取れたって動かしにくいやんけ」
「だけど完治だって3ヶ月くらいだし、こんな、もったいない……!」
「そんなん、言わんでや……喜んでくれると思っとったのに」

ぶすっと、拗ねている。まただ、と思った。「大きな子犬」という矛盾した日本語が頭に浮かぶ。いつだったか、この人はこんなふうに拗ねていた。ああ、そうだ。新次が来た日だった。なんかしんないけど機嫌が悪くって。
ほら機嫌なおして、よしよし! って、したくなる。要するに、母性本能をくすぐりまくるような状態だった。

「いや、よ、喜んでなくはないですよ。ちょっと、びっくりしちゃって」
「ホンマ……?」

眉を八の字にして、わたしの顔を覗き込んできた。うわあああ、やめて忍足さん。無理。いま無理。いまわたし、完全にあなたに夢中なんだから、そんな顔してこっち見ないで。もっと好きになっちゃう。

「治るまで毎日したるよ、俺にできることなんてそれくらいしかないから」
「へ……」
「ほら、座ってや」
「い、いまから?」
「ええやん。いまのうち洗っといたら」

まだ少し拗ねているので、仕方なく、腰をおろした。ウィーンと音を立てながら、本当に美容院さながら、頭が洗い場まで移動した。動かしたことがなかったのか、忍足さんは「おおー」と小さな歓声をあげている。

「シャンプーもその美容師のとこで買うてきてん。髪にええで。髪だけやなくて骨にもええかも。ビタミンとかいろいろ入っとるみたいやし」

そんなわけあるだろうか。わからない。最近は美容業界もすごい進化を遂げている気がするので、ひょっとしたら骨にもいいかもしれない。
シャワーの音が静かに流れ出して、まもなくわたしの髪があたたかいお湯に包まれた。
忍足さんの手が、優しくわたしの髪の毛を撫でていく。気を失ってしまいそうだ。

「髪、きれいやよな、伊織さん」
「そ、そうですか……ね」

なんだかとんでもなく恥ずかしい姿を見られている気がして、とても目を開けることができそうになかった。忍足さんに髪を洗われながら見下ろされていると思うと、体がどんどん熱くなっていく。

「忍足さん、目にタオルしてくれないんですか?」
「贅沢を言うとんちゃうわ」
「だってなんか恥ずかしいですっ」
「伊織さんの表情見れんかったら、気持ちええかどうかわからんやん」

鼻血が吹き出るかと思った。なんか卑猥じゃないだろうか、この会話! ダメだ、絶対わたしの顔、恍惚としてる。恥ずかしい。死にたい。
でもシャンプーをする忍足さんの手は、すごく優しくて、本当にすごく気持ちがよかった。美容院でもこんなに気持ちいいと思ったことがない。

「気持ちええ? どない?」
「き、……はい、いい、です」
「ん、ええこ」

ああもう、変な想像ばかりしてしまう。「気持ちいい」と言うのはなんとか止めたけど、退院してからも治るまで毎日こんなにいたれりつくせりだったら、心臓が爆発して怪我が治る前にあの世いきなんてことにならないだろうか。

「伊織さん、な」
「は、はい、なん、なんでしょうか」どもりがさっきよりも激しくなっている。
「俺、いまも信じとるから」
「え……?」
「伊織さんはプロになれる。せやから余計な心配せんと、いまのうちにしっかり構想を練っとき。ええ休憩時間やと思ってな」

優しい声に、胸がいっぱいになる。わたしは自然と、左手を唇に当てていた。ふるえる声を、漏らしてしまいそうで。

「やっぱり、目元にタオルほしかったな……」
「ふっ……なに泣いてんねん、アーホ」

バサッと顔に乗せられたタオルから、忍足さんの優しい香りがした。





ピピピピピ、とスマホの着信音がして、忍足さんが慌てるようにわたしにお尻を向けた。

「ごめん伊織さん、ちょお、とって」
「ああ、はい」

日課となっているシャンプータイムの最中だった。泡だらけになっている手ではスマホをとりたくなかったのだろう。パンツの後ろポケットから、わたしは忍足さんのスマホを抜き取った。いまちょっと、お尻に触れてしまった気がする。キュッとしてた……そんなところまでカッコイイ……変態かわたしは。

「えっとー、におう? まさはる? とかいう人っぽいです」
「仁王か。あ、出てくれる? フリーフォンにして」
「あ、はい、わかりました」

言われたとおりフリーフォンにして、わたしのお腹の上に置いた。
週末、土曜日の午前中だった。今日、わたしは久々に友人の吉井とランチすることになっていた。「ひとりで食べれるんか?」という、まるで要介護の老人を見るような目で忍足さんにぶつぶつ言われながら、お許しをいただけた。
最初からひとりで食べれると言っているし、なぜ許可を取らなきゃならんのだと思いつつも、いまも毎日ご飯を食べさせてくれたり、こうしてシャンプーしてくれる忍足さんに文句は言えない。
わたしはまるで、彼のペット状態になっている。最高に幸せなので、怪我がしばらく治らなくてもいいと思うほどだ。いや、治ってほしいのだけども。複雑である。

「仁王?」
「おう忍足。すまんの、いま大丈夫か?」
「ん、ええよ。こないだおおきにな」
「かまわんよ。お前の好きな絵本」
「ああああああああうるさいっ!」

軽快な挨拶から、突然、忍足さんが雄叫びをあげて、わたしはものすごく驚いた。
忍足さんの好きな絵本の話を、仁王という人がしはじめた途端の出来事だった。この人は、機嫌のスイッチがバカになっているんだろうか。なにをそんなに大声をあげて拒むことがあったのだろうかと考えても、さっぱり理由がわからない。

「やかましっ……! まったく、うるさいのはそっちじゃろう! なんなんじゃ」そしてこの人は、地方出身なんだろうか。さっきからしゃべりかたに特徴がありすぎる。
「余計なこと言わんでええから、さっさと本題に入れ!」

一瞬、沈黙が訪れた。忍足さんは小声で、「ええんや伊織さん、気にせんとき」と笑っている。あんな大声を気にするなというほうがおかしい。情緒、大丈夫だろうかこの人。心配になってくる。慣れないことをしすぎて、頭おかしくなっているんじゃないだろうか。
やっぱり早く食いぶちをなんとかしないと、もっと不安定になる気がする。金の不穏というのは恐ろしいのだ。わたしは貧乏生活が長いので、それをよく知っている。

「……なんでキレられちょるんかわからんが、合コン、来週の土曜に決まったんよ。忍足、空いちょるかのう?」

その言葉に、自分でも顔が歪んだのがわかった。合コン……だとお?

「なっ……ちょ、仁王、そんなんわざわざ電話してこんでもっ」空いとるけどもやな! と、つづけている。
「メッセージやと返事が面倒じゃから電話しろっていうたの、お前のほうじゃろう」
「え、そんなこと言うた俺!?」
「とにかく、来週の土曜の20時からだ。店はまた決まったら連絡する。ちゅうことで、空けちょきんさいよ」
「……わ、わかった」

電話はあっさりと切れた。むすっとしてしまう。目は閉じているけれど、眼球が一直線になっているのが自分でもわかった。
わかってます、わかってますよ、もちろん。わたしがなにか文句言えるような立場じゃないのは。でもおかしくない? 自分はいいんだ? わたしのデートにはあれだけ反対しておいて。

「いや、仕事の付き合いで、な?」なにも言っていないのに、忍足さんはなぜか言い訳をしはじめている。なるほど、うしろめたいということですね、わかります。
「へえ。美容師さんと仕事の付き合いがあるんですか。ああ、なんか絵本売りに行くっていってましたもんね」
「や、伊織さん、嘘やと思っとるみたいけど、これがホンマで」
「そうですかあ。ずいぶん、いい仕事の付き合いですね、合コンとは! わたしのデートはダメなのに、自分の合コンはOKと。なるほど、なるほど」
「ちゃうねん、伊織さんの絵本を買うてくれるって言うんやんか、こいつが」顎でくいくいと、わたしのお腹のうえにあるスマホを指している。
「忍足さん耳に泡が入りました、もっとちゃんと丁寧にやってくださいよ!」
「ああっ、堪忍っ。どこ? ああ、ここやな……」さくっとタオルで拭きっとってくれた。「そんでな、絵本を買うかわりに合コン来いって言うねん」
「バッカみたい」

そんな話を信じるとでも思っているんだろうか、この人は。敏腕編集者じゃなかったっけ?
もっとマシなストーリーを思いつけないのだろうか。

「ちょ、嘘やと思てる!?」嘘じゃん、どうせ!
「わたしは新次と会うのやめたのになあ。忍足さんの言いつけ守って」
「え……」忍足さんの手が、ピタリと止まった。
「でもそうですよね。わたしこのとおりの体になっちゃったし、別に会うのやめなくてよかったんだ、よく考えたら。忍足さんも我慢してた恋愛し放題だ」

嫌味全開でそう言うと、忍足さんの手が、弱々しく動きはじめた。

「なあ伊織さん、ホンマなんやってば! なんやったらさっきの仁王に電話して、証明してもらってもええよ俺!?」
「別に、忍足さんが合コンに行こうか行かまいが、わたしになんの関係もないですし。好きにしたらいんじゃないですか?」

気持ちとは裏腹なことをピシャリと言い放つと、弱々しく動いていた忍足さんの手が、また止まった。「止めないでくださいよ!」と言おうとしたところで、急に素早く動きだす。しかも、なんだか爪が立っている。ゴシゴシゴシゴシ、痛くはないけど、強い。

「ちょ、忍足さんっ、なんか強い!」
「そうやよな、よう考えたらどうでもええよな。あー別に、俺かてどうでもええんやで。そんなにあの優男に会いたいんやったら、会ったらええやん。どうせしばらく絵も描けへんねんからっ!」
「ひどいっ! そんな言い方しなくたっていいじゃないですか!」
「ホンマのことやないかっ! 発情してデート行って、しょうもない怪我しやがって」
「ひ、ひどい! もう、早く流してください! ランチに間に合わなくなったら忍足さんのせいですよ!」
「ちょお待っとけ! まだトリートメントしてへんっちゅうねん!」
「じゃあ早くしてくださいよっ!」
「口閉じとけこの発情女!」

すっかりいつもの調子を取り戻したわたしたち。
あの穏やかでうっとりするような忍足さんとの日常は、わずか1週間しかもたなかった。





久々に会った吉井は、痩せていた。

「たしかにわたしなんてもう用無しだろうけどさ、怪我して急に合コン行くことないじゃない。しかも下手な嘘つくんだこれがまた」
「でも結局、そんなにムキになるほど好きになっちゃったんだねえ、その人のこと」

怪我をしてから1週間しか経っていないというのに、今日は飲まずにはいられなかった。
吉井に前に会ったのはいつだったか。ちょうど3週前だった気がする。それにしては、痩せ方が急激だった。
が、吉井のことだ。聞いても話してくれるはずもないので、わたしは指摘をしないまま、自分の話をすることにしたというわけである。

「だって……超優しかったんだもん。つい、さっきまで」
「元カレと会うのやめるほどなんでしょ。正直に言いなさいよ、本気だって」
「……本気、かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「村上春樹かっての」

いい大人になったというのに、わたしはもともと天の邪鬼なところがある。恥ずかしがり屋といえば聞こえはいいが、本人を目の前にしているわけでもないのに素直になれないのは、どう考えても忍足さんのせいである。
だいたいセクハラ事件前までは、忍足さんはともかく、わたしは外面よくして話してたわけで、わたしだって素直になろうと思えばなれるんだ。
でもあんな詐欺まがいのキスされて、あげくそれから作品をコケにされまくり、弱ったとこ見せたらちょっといい感じになって、かと思えば悪態つかれて、こんな態度にもなるというものだ! ああ忙しいッ!

「じゃあ、あたしからのアンタにひとつ忠告しとく」
「え? なによ」
「本気で好きな人のためなら、なにごとも諦めちゃダメ」
「へ……」

いつになく、吉井の目が真剣だった。まだワインを半分も空けていないというのに、もう酔ったんだろうか。いや……シラフだからこそ、この真剣さなのだ。こんな吉井の目は、長年付き合ってきたわたしですら、はじめてお目にかかるものだった。

「吉井?」
「会ってないあいだに、アンタも怪我したり恋したりいろいろあったみたいだけどさ……実はあたしも、いろいろあって」
「どうしたの……? そういえば、痩せたよね」ついに、言ってしまった。
「ん……離婚、進めてるの」
「えっ!」

驚愕だった。
吉井の旦那さんは超がつくエリートだ。しかもハイパーイケメン。吉井に紹介されたとき、こんな男がいるんだと思ったくらいである。最近、いるって知ったけど。忍足さんに会って……。
でも旦那さんは忍足さんと違って、「いつだって」ジェントルである。そんな彼と離婚するなんて、なにがあったというのだろう。

「あたし、ほかに好きな人がいたの」
「う、嘘……ま、マジで言ってる?」
「うん。軽蔑した?」
「いや……」

不倫、だろうかと思った。たぶん、そうなんだろう。吉井に好きな人がいて、その男が落ちなかったことなど、たぶん人生で一度も経験していない、この友人は。
でもあのハイパーイケメン旦那を凌駕するほどイイ男が、吉井にはいたということだろうか。

「それで……その人と、一緒になりたいってこと?」
「バレちゃってさ。まあ、バレる前から薄々勘づいてたんだけど、あたしどう転んでも、その人のほうが好きなの。だから、一緒になりたいって思ってる」
「そう……そうだったんだ」
「でもね。その人のこともすごく傷つけちゃったから、離れてるんだ、いま」

傷つけた、という言葉に、わたしが傷ついてしまいそうだった。
ひょっとして、相手の男性には既婚ということを隠して付き合っていたんだろうか。吉井なら、そういうこともできそうだと思ってしまうから怖い。彼女はとにかく、昔から秘密主義者だ。だから、いまその近況をわたしに話しているだけでも、結構な大事件である。

「だけど諦めないって決めたの。本気だから。離れてみると、どれだけ本気だったのか思い知られる。だからさ、まあアンタは、付き合ってるわけじゃないから、ちょっとあたしとは状況が違うだろうけど……それでも、彼が信じてくれてるなら、そういうの全部ひっくるめて、諦めちゃダメよ」
「……吉井」
「飲も。酔いたいよ、今日くらい。しばらく酔えなかったからさ」

自分の愚かさを笑うようにワインを飲み込んで、それきり、吉井はその話はしてこなかった。
それでもわたしのなかには、吉井から言われたことが、何日経っても消えなかった。





さらに、1週間が過ぎた。
ついにギプスが外れた。指先を少し動かすくらいは、できるようになっている。それでも、ペンを持ってなにかをするということは、うまくできそうにない。
明日からはリハビリもはじまる。
午前中、忍足さんが病院から自宅まで送り迎えをしてくれた。今日のシャンプーは、すでに済ませてくれていた。気分は爽快。だけど本当は、ちょっぴり心細い……というか、妬ける。

「ほな、安静にな」
「はーい」
「絶対やで? なんかあったらすぐ連絡してや?」
「わかりましたって。ていうか今日、合コンのくせに」
「そ、それといま言うたこと、なんか関係あんのか!」
「連絡したって来れないじゃん。どうぞ楽しんできてくださいねー」
「ちょ、せやから仕事の付き合いやって何回言わせ……!」
「さよならー!」

言ってるそばから扉を閉めてやった。くすくすと笑いが込み上げてくる。忍足さんもなんだかんだ、笑っているかもしれないと思うと、ちょっとくすぐったかった。
思いっきりの深呼吸をして、わたしはケント紙の前に座った。この数日で、こそこそと道具も買い揃えた。決戦まで、あと12日。どこまでやれるだろうか。でもわたしにいま描けるものは、この想いしかない。それは天から降ってきた知らせだった。
あの少年が、見守ってくれている気がする。

『お姉ちゃん、笑ってるね』
『笑えるようになったの』
『笑えるようになるのって、難しかった?』
『難しくなかった。単純だったよ』
『それは、お姉ちゃんが幸せだから?』
『うん、そうだと思う』
『見たいよ、その想い』

さあ……いよいよ、わたしの本当の戦いがはじまる。





to be continued...

next>>09
recommend>>TOUCH_08



[book top]
[levelac]




×