ビューティフル_07


7.


佐久間さんの墓参りから1週間後に、俺は社長室へと足を運んだ。
先週の金曜日、頼まれていた『株式会社トリアノン』オーナーである野瀬島の店がオープンすると聞いて、レッスンスタジオへの訪問を取りやめ、レストラン『トリアノン』へ行って、野瀬島と軽い挨拶を交わした。その報告のためだった。

「やあ、跡部。野瀬島さんに会ったらしいね」
「はい、ご挨拶だけですが」

不可解だな、と思ったのはレストランに到着してすぐのことだった。2店舗先に不二の店である『アン・ファミーユ』があり、しかも金曜だというのに灯りが消えていた。店先まで行くと「閉店のお知らせ」と、俺にとっては衝撃的な張り紙がしてあった。
そのとき、ようやく思い出した……野瀬島克也。不二の料理をブログで批判していた、料理批評家じゃなかったか。どこかで見た名前だと思ったのはそのせいかと検索すれば、すぐにヒットした。
批判して不二を追い込んだ男が、不二の店の2店舗先に店を構えてやがる。あげく、そのオープンとほぼ同時期に不二の店が閉店とは、どう考えてもおかしい。

「どうだった? 野瀬島という男は。話はどこまで進めた? お前の見解を聞かせてくれ」
「そうですね……。たしかに、商才はありそうな方だと思いましたが……まだ時期尚早かと。うちの事業を担うほどの成績もありませんので、様子見でしょうか」

この勘の鋭いCEOにあたりさわりのない言葉を投げるのは、多少なりとも気がひけた。だが、まるっきり嘘だということでもない。あの野瀬島という男の頭は悪くはなさそうだった。ただ、どうも気味の悪さを感じさせる威圧のようなものがあった。

「跡部、お前ね」
「なんでしょうか」
「1週間後にもってきた話がそれなのか? お前、そんなに時間をかける男だったかね?」
「申し訳ありません。ほかの仕事もあったものですから」
「さっさと方をつけておきたいと言ったのを、忘れたわけじゃないだろう?」
「もちろんです」
「どんな仕事よりも最優先だと、わからないのか? そんなに要領の悪い男か、お前は」

この程度の嫌味はどうってことはない。俺は不二から聞いた閉店までの経緯に、怪しげな影を感じていた。
不二の店には、ブログ酷評からまもなくして暴力団が来るようになった。そして数ヶ月後に店のスタッフのほとんどを野瀬島に引き抜かれる。やがて閉店まで追い込まれたというわけだが、野瀬島は不二に執着し総料理長のオファーを前々からしていたらしい。
日本人シェフでミシュランの三ツ星を獲得する人間はそう多くない。フレンチならなおさら、野瀬島にとって不二はどうやっても手に入れたい人材だったに違いない。すべてそのための計画だとしたら、野瀬島は反社会的組織と手を組んでいる、という図式になる。

「申し訳ありません。期待にお応えできるように」
社長は、そこで俺の言葉を遮った。「なにかあるのか、跡部」

なにかあるに決まっている。『アスピア商事』の社長である、この九十九静雄が話を持ちかけたときに言っていた「クリーン」という言葉は、ずっと俺のなかで引っかかっていた。彼はそれを知っていて、提携を無理に進めようとしている可能性がある。とんでもねえ話だが、可能性がある以上、『アスピア商事』の執行役員である俺は、うかつには動けない。
権力というものは世界中どこを見渡しても、簡単に事実を曲げるものだからだ。昔ならそれも必要悪としてうまく社会が成り立っていたが、いまはそうはいかない。

「……なにか、というのは? どういうことですか?」

なにかあるのは、てめえのほうじゃねえのか。その言葉を飲み込んで、俺はつづけた。
この社長はいったい、なにをそんなに焦っている? なぜ野瀬島に、それほど恩恵を与えるんだ?

「こっちが聞いているんだ」
「……社長、提携にはそれなりに時間をいただきます。いくら社長直々の依頼とはいえ、コンプライアンスチェックは必須ですから」
「提携を急げと言っているんじゃない。仕事をしろ、と言っているだけだ。オープンしたレストランで顔を合わせて、やれ商才がありそうだなんて、そんなことをわざわざ報告しに来る暇があるなら、さっさとことを進めろ」

この提携を進めれば、俺は取締役。おかしな出世を楯に、今後どんな問題が巻き起こるかわかったもんじゃねえ。おそらく社内でコンプライアンスチェックをしたところで、意味はないだろう。反社会的組織とのつながりを消すことなど、社長のひと声で10秒もあれば終わる。だったら俺が、独自に調べるしか術はない。

「申し訳ありません。では、仕事に戻ります」

そう言って、俺は社長室を出ていった。
野瀬島もそうだったが、社長も頭が切れる男だ。だが唯一の欠点がある。九十九静雄は、人を見る目がない。つまりこの件に俺をアサインしたのは、彼の完全なミスだった。





社長と軽くやりあった俺はほんの少し気が抜けたせいか、オフィスに戻りながら、不二に会った日のことを思い出していた。あの日は不二がおかしなことを言いやがるから、調子が狂っちまった。

「ねえ、跡部」
「なんだよ」
「君こそ、恋してない?」

不二の事務所の窓から、コンビニ入っていく佐久間伊織を偶然に見かけた。その姿を俺が睨みつけていると、あいつは俺の顔を見て、吹き出しやがった。

「わけのわかんねえこと言ってんじゃねえ」
「そうかな? 僕には丸わかりなんだけど」

くすくすと、いまにも飛び出しそうな笑いを堪えながら、不二は俺に食材を持たせた。
とてもひとりでは食いきれない量だった。だからついでに、まともなものを食してねえだろう佐久間伊織を部屋に呼んだが、あの女はどういうわけか、急に態度を豹変してきやがった。
レッスンスタジオのときから様子がおかしかったが、俺との食事中は、もっと、だ。
俺のことを知らなかった、あの結婚式での二次会の会話のときのように……いや、それ以上か? 俺を見る視線が、これまでとはあきらかに違っていた。

「……わたしさ」
「ああ、なんだ」
「人一倍、努力してきたつもりだったんだ、最近まで」

まずあんなふうに素直に心情を語るような女じゃなかったはずだ。少なくとも、俺を跡部景吾と知ってからの佐久間伊織は、全身から反発という言葉が吹き出していたというのに。
まるで、またたびを与えた猫のようにおとなしくなっていた。

「あたりまえだろう、そんなこと。一流のミュージカル女優になるんだろ? お前は」
「うん。だけど……全然だなって思う、あなたを見てると」
「は?」
「すごい努力家だよね、跡部景吾は」

俺に、微笑みかけていた。あれはなんだ……。あんな佐久間伊織の表情を、演技以外で目の当たりにすることになるとは、思ってもみなかった。

「跡部景吾は、本当は弱音を吐きたくても吐けなくて、そういう内に秘めたものをパワーにして、みんなの期待に応えるために、誰よりも努力してる」

あろうことか、その切なげな微笑みから、俺は目が離せなくなった。告げられた言葉が、しびれるように皮膚に駆けめぐったからだ。
なぜ、そんな意見がお前の口から出てくる? まだ俺と知り合って2ヶ月も経っていないような女が、この俺の30年を見てきたような口ぶりで、偉そうに講釈を垂れてやがる。
特段、バカにしているというわけではなさそうだった。いやむしろ、俺を見抜いている。それが、やけに苦々しく感じた。
だというのに、俺はそのとき、不二の言葉を思い出していた。

――君こそ、恋してない?

「正直、わたしじゃ全然、歯が立たない。だから人一倍、努力してるなんて思ってた自分が、おこがましくって」
「……要領を得ねえ、話だな」
「ふふっ。だよね、ごめん」

なにに焦ったのかはわからない。だがこれ以上その話をつづければ、自分が自分でいれなくなるような気がしていた。
そこに、タイミングよく千夏からスマホに電話がかかってきた。「どうぞ」という佐久間伊織の胡乱げな視線を感じながら、俺は通話に切り替えた。

「もしもし景吾? 挨拶のことだけど、今度、うちに連れてくるようにって。両親が」
「ああ、わかった」
「ん。ごめん、これから接待だから、切るね。またね」
「じゃあな」

千夏に妊娠を告げられたとき、一瞬は混乱したものの、俺は「それなら責任をとる」と言った。
そんな投げやりにも取れる言葉に不服そうだったが、千夏はそれでも嬉しそうに笑った。
「景吾と結婚できるなんて、夢みたい」と。その言葉に、一方の俺は急激に熱が冷めていくのを感じていた。

「……彼女?」と、佐久間伊織は首を傾げていた。
「とくにお前にいう必要はないことだが……」

部屋に入る前には千夏の存在に気遣っていたわりに、「ああごめん、変なこと聞いて」と、まるで愛人のような仕草を見せてくる。なぜだか、自分の発した言葉とは裏腹に、伝える必要がある、そう思った。

「あいつと、婚約することにした」

目を見開いて、佐久間伊織は黙った。そしてしばらくして、「おめでとう」とつぶやいた。
わざわざ伝える必要のなかった婚約の件を伝えたのは、なぜなのか。それはいまもわからない。ただ、ひとつだけわかっていることがある。
俺という存在が、佐久間伊織の夢の邪魔にだけはなりたくない。それと婚約の件となにが関係しているのかはわからない。これだけ佐久間伊織の夢に手を尽くしている俺が、邪魔であるはずはない。だが、俺は唐突に、その不安に襲われていた。





「常務、吉井さんがお待ちです」
「……そうか、ありがとう」

オフィスに戻った途端に、記憶から現実に引き戻された。「結婚」というイベントに、いまだ微塵の興味もない俺にとって、千夏は「結婚」をネタに毎日のように連絡をとりたがる。
無理もないが、すでに重苦しい束縛を感じずにはいられなかった。わかっている……こういう男は、女の敵であり、最低の部類だ。

「景吾、おはよう」
「おはよう。どうした?」
「うん、ちょっとね」

千夏は俺の胸に顔をうずめるように、そっと背中に手を回してきた。
あらゆる問題を抱えすぎているせいなのか、どうしても千夏のように舞い上がれない。千夏にとくに不満があるわけでもない。だが、気持ちが追いつかない。

「ここ、オフィスだぞ」
「わかってるけど……いいじゃんちょっとくらい」
「……なにか用があったんじゃねえのか?」

あれからというもの、千夏は付き合いたてのころのような様子を見せる。慣れてきていたはずの関係のなかで、俺を現代に取り残したまま、千夏だけが過去にタイムスリップしているような錯覚に陥った。それがまた、俺だけが感じる二人の溝を、着実に深めていた。

「婚約指輪、いつ買いに行く?」
「……そうだな。いつなら空いてる?」
「週末はまた出張なんだ」
「大丈夫なのか、その体で。つわりだとか、そういうのはねえのか」
「ん……なんか腰とかは痛いかも」
「今度、俺のトレーナーをやっていたところの治療院に行け。彼女ならなんとかしてくれるはずだ」
「本当? うん、行ってみる。景吾の名前出したら予約とれるかな」
「おそらくな。気をきかせてくれるはずだ」

彼女はチーム越前の一員としてウィンブルドンに行っていたが、もう戻ってきている。このあいだ越前から知らせを聞き、それはわかっていた。あのときの越前はずいぶん思い詰めていたようだが、この頃はどうしているだろうか。

「あ、8月2週目の水曜なら、あたし、午後休とれそうなんだよね。景吾はどう?」

ちょっと離れろ、と言って、俺はスマホを取り出した。
もう、冷たいなあ、と口を尖らせている千夏の横で、スケジュールを確認する。

「水曜はレッスン見学があるが、そのあとならかまわない。見学も昼に顔をだせばいいだろうからな」
「また……レッスンか。じゃ、あたしも仕事が終わったらスタジオに向かうよ」
「ああ」

ありがとう、と微笑んで背中を向けた千夏だったが、扉の前まで行って、立ち止まった。
なにか思い出したように振り返り、もう一度、俺に歩みを進めて、言った。

「ねえ景吾、キスして」
「オフィスだっつってんだろ」
「いいじゃん、昔はしてくれた」

触れるだけのキスを落とした。仕方なく。
……仕方なく、と言ってしまっていいほど、胸にわき起こってくるものは、なにもなかった。





婚約指輪を買いに行くと約束した、3週間後の午後だった。
予定どおり、俺はシゲルのレッスンスタジオに到着した。ロッカールームにそっと入って、佐久間伊織のロッカーを開ける。スポーツドリンクにメモを貼り付けて、静かに閉じた。
学生時代からどこか無茶をする人間に、俺はよく差し入れをしていた。この個人的な感情だけを押し付ける習慣が復活したのは、10年ぶりのことだった。
学生時は日吉若に。大学に入ってからは佐久間さんに。どちらも責任感が強く、努力を惜しまない。だがその限度を知らない……そういう人間を、俺は黙って見ていられないところがある。おそらく、自分に似ているからだろう。佐久間伊織にも、同じ匂いを感じとっていた。佐久間さんの娘なのだから、当然かもしれないが。

「オテンバ! そこはもっと内側からわき起こってくるマグマのような怒りをぶつけて!」
「はい! もう一度、お願いします!」

スタジオを覗くと、いつもの練習風景だった。シゲルが声を張り上げて指導し、それに佐久間伊織が食らいついていく。3週間前はまるで闘志を失くしていたようだが、このところ、また復活してきたようだ。以前とは比べ物にならないくらい、女優然としている。
その彼女の様子を、じっと見ているひとりの男を見つけた。どこかで見たことがある、と思う。整った顔立ち、青さをふんだんに身にまとっているような若さ。あの小劇団公演で主役をはっていた男だ。すなわち、打ち上げを抜け出して佐久間伊織とキスしていた看板俳優。

「おい、見学か?」
「え……うわっ、跡部さんだ」

背後から声をかけると、ぎょっとした様子で男はこちらに振り返った。なぜか、すみません、と謝りながら、俺に頭をさげてきた。

「見に行きたいって言ったら、伊織さんが、シゲルさんに許可を取ってくれたんです」
「ほう、シゲルがOKを出したのか」

小癪な。なぜこんな、なにもわかっちゃいねえような俳優もどきを、こんなトップクラスのレッスンスタジオへ呼びやがった。俺の許可もなしに佐久間伊織のレッスンを見学させるとは、シゲルもいい度胸してやがる。

「そうなんです。なんか、オレの写真を見せたら一発だったって、伊織さんが言ってました」
「……だろうな」

シゲルは顔のいい男に目がない。おまけに、若いほうが好きだ。ふざけてやがる……いい男の見学は1日ひとりに限定したらどうだ。そうすれば、いくらシゲルといえども、どう考えても、俺のほうを選ぶだろうに。

「跡部さんは、今日はどうされたんですか?」
「アーン? てめえ知らねえのか? 伊織のレッスンのときは俺が来るのが条件なんだよ」
「へ……あ、え、そうなんですか」
「ふん……俺が伊織を育ててやってるようなもんだからな」

なぜ、俺は佐久間伊織を「伊織」と呼び出しているのか。自分に突飛さを感じているものの、口を衝いて出てきちまったもんはしょうがねえ。

「そうなんですね。伊織さんからそんなの、聞いたこともなかったです」
「だろうな」あの女が俺の世話になっているとは、絶対に言わないはずだ。
「あとで聞いてみよ。あ、今日、オレらこれからデートなんです。なんで、ここで待たせてもらってるって感じで」
「……デートだと?」

指先におかしな力が入っていく。俺はなぜ、拳をつくっている? ああそうか、そんな暇があるなら演技の練習でもしろと思っている自分がいるんだろう。ますます癪に障る。

「はい! 今日はシゲルさんの予定があって、昼過ぎに終わるらしいんで! ラッキーです!」いったいなにがラッキーなんだ、てめえは。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
「なんですか?」
「佐久間伊織と付き合ってるのか?」

至極どうでもいいと感じているにも関わらず、俺はそう質問した。
また、不二の言葉がよみがえる。

――君こそ、恋してない?

はっ……そんなわけねえだろ。バカも休み休み言いやがれ。

「それは……だって跡部さん、見てたじゃないですか」照れくさそうに、鼻をかいている。なんだその、80年代の役者みてえな仕草は。だからてめえにはセンスがねえんだよ。
「キスしていたからといって、付き合っていることにはならねえだろ。だから聞いてる」
「あ……いやけど、オレは、付き合ってるつもりです」
「ほう? 付き合ってるつもり、ねえ」ずいぶん、自分を高く見積もってるじゃねえか。
「もう大人なんで……関係を持った以上、そんな確認、わざわざ取ってないんで」

ピクッと、眉根が動くのが自分でもわかった。
まだ20代前半の若造が、大人だと? 関係を、持っただと? なぜだ……こいつを殴りたい。
だいたいお前は関係を持ったと言いながら、あの女の体型変化にも気づいちゃいやしねえ。抱いているなら誰よりもその変化に気づいていいはずだ。だというのに、食生活を気にしてやったことはあるのか? ふん、ないだろうな。佐久間伊織にそんな男がいればコンビニ弁当で腹を満たすようなバカな真似はしねえはずだ。
いつのまにか、さらに握りしめていた拳に気づいて、はっと我に返った。俺は、なにを苛立っている? この男に苛立っているのか、それとも……。

「どうだっていいが」そうだ、どうだっていい。ならなぜ聞いている? ったく、不二のせいでまだ調子が狂っているのか、俺は。「佐久間伊織の夢の妨げになるようなら、俺が容赦しねえぞ」
「妨げって……なんで、オレが、ですか?」
「……とにかく、邪魔になったら切らせる」
「跡部さん、なんかすごい怖いこと言ってますけど、オレ、伊織さんのこと応援しかしてないですから」

言い訳のように男がそう言ったところで、「景吾」と背中から声がかかった。振り返ると、そこに千夏がいた。そういや、スタジオに来ると言っていたな。
うだつのあがらねえ俳優とやり取りしていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。

「あれ、お知り合い?」
「どうも」

持ち前の社交性で、千夏はすぐに男に話しかけた。そしてまじまじと、男の顔を見ている。

「ん、どこかでお見かけしたような」
「いえ、はじめましてですが」
「あ、ねえ景吾、伊織さんの劇団の俳優さんじゃない?」
「……そうらしいな」

覚えていてもらったことになのか、男はすぐに「そうです!」と高らかに声をあげた。
この時点で、俺はさっさとスタジオを出ていればよかったのかもしれない。
千夏は男にあれこれと質問をしていた。俺はそれを無視して、佐久間伊織の練習風景をじっと見ていた。いい目だ。もう舞台にあがってもいいほど、仕上がっている。そろそろ次のオーディションを探し回ってみるか。

「へえ、伊織さんとこれからデートなんですか! いいなあ若いって。ねえ景吾?」

ひととおり会話をくり広げたあと、千夏はやんわりと俺の腕に触れてきた。いま、触れる必要があるのか。頭をよぎった思考に、煮え切らない自分を再確認してしまう。

「佐久間伊織は俺より2歳年上で、お前よりは4歳年上だ。若くねえよ」
「ちょっと、そこはいいじゃんもう……響也さんはお若いんだから。ねえ?」そういえば、そんな名前だったか、と思い出す。
「あはは。あーはい、オレ、23歳です」
「やっぱり若い!」

23歳だと……? ガキじゃねえか。なんでこんな顔がいいだけのガキに抱かれてんだ、あの女は。顔がいいからか? もっといるだろほかにも。手近なところで済ませやがって。

「ねえ、せっかくだし、レッスンが終わったら4人で食事でもしませんか?」
「え?」と、男がとぼけた声を出す。

なぜかきゃぴきゃぴとはしゃぎだした千夏が両手を合わせて、名案、と言わんばかりの様子で俺を見てきた。わずかな時間、俺は絶句した。
なんでそんなこと、しなきゃならねえんだよ。

「あ、お二人のデートの邪魔はしません。ちょっとランチだけでも、どうですか?」
「おい千夏……」
「いいじゃん景吾。どうせあたしたちもランチしてから、婚約指輪を見る予定だったんだし」
「え、ご結婚されるんですか!?」
「あ、そうなんです。ふふ」

気づくと、レッスンが終わった佐久間伊織とシゲルがこちらに向かって眉間にシワを寄せていた。シゲルはともかく、なぜか佐久間伊織も眉間にシワを寄せている。

「ちょっと景ちゃん、いまの話、本当なの?」ずかずかと、大きな足音を立ててシゲルが噛み付くように言った。
「お前には関係のないことだ」
「あるわよ十分! 結婚なんてしてごらんなさい、このオテンバの面倒、見てやらないから!」
「えっ! ちょ、シゲルさん、それとこれとは別じゃないですか!」佐久間伊織が悲鳴をあげた。
「全然、別じゃないわよ! アタシの景ちゃんが結婚なんて許さないわっ!」
「うるせえ、目の前でわめきたてるな」
「シゲルさん! わたしの面倒は見てください!」
「嫌よ! 絶対に、嫌!」
「なんか、すみません……」

千夏が困った顔して舌を出している。口を滑らせたことへの謝罪か、それとも、わざと滑らせたことへの後悔か。響也とかいう野郎は素直に全身を壁までひいて、その様子を唖然と見ていた。
そして佐久間伊織は、うらめしそうに俺を見た。





このうえなく勝手に盛り上がったのは、響也とかいう若造と、千夏の二人だった。
俺は目の奥が重くなるのを感じていた。佐久間伊織も同様なのか、目が合うと、相変わらずうらめしそうに俺を見る。そんな目で俺を見るんじゃねえよ。悪いのは俺じゃねえだろ。

「景吾、どこに行くの?」

助手席で鼻歌でも歌い出しそうな様子の千夏が、俺の腕に触れながら甘えた声をだした。いまも、触れる必要があったとは思えない。つうかこいつは、なんだってそんなに舞い上がってんだ?

「友人の店だ」

ぶっきらぼうに答えると、また、佐久間伊織と目が合った。
到着までのわずかな時間、バックミラー越しに、俺たちは何度も視線を交えていた。そうして、言葉を交わしていたと言っていい。
「どうなってんの?」「仕方ねえだろ」「なんでわたしがアンタとダブルデート?」「知らねえよ、勝手に盛り上がったのはそっちの小僧も一緒だろうが」「変な空気になってんじゃん」「俺とお前だけな」「あー面倒くさい」「お互いさまだ」
そんな内心の会話が行き交うなかで、不二から聞いていた場所に車を停車した。
その場所は、何度も見慣れた景色だった。不二から知らせをもらったときも、世の中は狭いと感じたのを思い出す。

「やあ跡部。来てくれてありがとう」
「よう、どうだ、調子は」
「うん、すごくいい。4名様だったよね。ちょうどテーブルが空いたから取っておいたよ」
「悪いな」

不二は想像以上に、元気そうだった。その顔を見て、安心する。俺のやったことは間違っていなかったようだ。
フードトラックはかなりの盛況を見せているらしく、トラックのそばに小さな4人がけのテーブルを置いていた。近くには公園もある最高の立地で、そのベンチに座って不二の料理を堪能している人間もちらほらといるようだ。
ランチとはいえ、このメンバーでかしこまった場所に行く気にはなれなかった。不二の店は、ふらっと寄ってさっさと帰るのにちょうどいい。そういう時間を過ごしたい人間も、この都会では多いのかもしれない。

「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけになってください」

にこにこと、不二が俺についてきた3人を案内する。ここにシゲルがいたら、おそらく不二にむしゃぶりついているだろうなと想像して、具合が悪くなりそうだった。
あの激怒したシゲルの顔……結婚したら、マジで佐久間伊織から手を引きやがるかもしれねえ。あとでなんとか説得する必要があるな。

「あれ?」
「え……?」

気づくと不二が、佐久間伊織を見て背筋を伸ばしていた。なにかを思い出そうとしていて首を傾げている姿に、焦りを感じる。忘れていたが、不二は佐久間伊織を見たことがある。コンビニで見かけたあの日だ。思い出して、俺はらしくもなく慌てた。

「あのときの……」
「不二っ」余計なことを言ったら、タダじゃおかねえぞ!
「あのとき?」
「ふふ。ううん。想像どおり、とても綺麗な人だなと思ったんです」
「は、はい?」

結局、余計なことをいった不二を、俺は軽く睨んだ。不二は笑顔を崩さず涼しい顔を俺に向けて、それを返事とした。どう説明するつもりだ……おい。

「ひょっとして、景吾から聞いていたんですか? 彼女のこと」
「はい。聞いていました」

どういうわけか、千夏が割り込んできていた。不二はごまかす様子も見せずに答える。
ほらみろ、面倒くせえことになるだろうが。お前はこの状況を見て、なにもわからないのか? それともわかっていて、面白がっているのか? ……まあ、不二のことだ、後者だろうがな。なんにせよ、面倒を巻き起こすんじゃねえよ。

「ああそうだ。ミュージカル女優を育てていると、話した。そうだな不二」
「ん? うん、ふふ」
「女優だと聞いて、美人を想像していたんだろう。不二、社交辞令はいいからすぐに準備してくれ」

社交辞令、という言葉にむっとした佐久間伊織の視線を、俺は無視した。不二はくすくすと笑いを堪えるように、「はいはい」と言ってトラックに消えていく。入れ替わりのようにスタッフの女がミネラルウォーターを準備しはじめた。その様子を横目に、俺はなんとか話を逸らそうとしていた。

「景吾、あたしにはあんまり話さないことも、お友だちには話してるんだね」
「それより千夏、あそこの治療院だ。このあいだ話しただろう」
「え……? ああ、そうなんだ。こんなとこにあるんだ」
「ああ、今度、行くといい」

嫌味を軽く受け流して、俺は治療院を指差した。昔、俺の専属トレーナーをやってくれていた女性が院長をつとめる、一流の治療院だ。おかげで、この場所は見慣れていたというわけだ。

「ねえ伊織さん、ここ、なんかすごいよね。キッチンカーもすごいオシャレ」
「うん、素敵だね。わたし、ワイン飲んじゃおうかなー」
「あ、オレも」
「どうせ跡部のお金だから高いのにしようよ」
「アーン?」
「ちょっと伊織さん、目の前にいるのに……」

全員が口々に好き勝手なことを話しながら、俺たちは料理が到着するのを待った。
フードトラックのなかの不二はテキパキと仕事をし、もうひとりの女性スタッフもせわしなく動いている。
客足もあまり途絶えない不二の店の前は、遅めのランチセットを買いに来た若いOLの姿が多かった。女に人気があるものは、うまくいけばヒットする。あとは不二が守っているプライドをもうひとつ捨ててテレビ取材でも受ければ、フレンチレストランをもう一度出すくらい、簡単なことだ。
その様子を眺めているうちに、気がつくと、佐久間伊織の姿が消えていた。

「おい、佐久間伊織はどこに行った」
「あ、伊織さんさっき、ピアノ弾きたいって。ほら、あそこです」
「ピアノ……?」

見ると、フードトラックから少し離れた場所にある楽器店の前に、ストリートピアノが置いてあった。そうか……あの女、ピアノが弾けるのか。作曲もすると言っていたから、不思議なことではない。
やがて、トーンという控えめな音が聴こえた。佐久間伊織はピアノのタッチを確認したその後、すっと息を飲んでから、鍵盤を叩きはじめた。
静かな音色が流れていく。穏やかな旋律に、ちらほらと人々が足を止める。
それは、誰もが知っている『糸』という名曲だった。

なぜ めぐり逢うのかを
わたしたちは なにも知らない

彼女の美しい歌声が、街中に溶け込んでいった。忙しそうにしていた都会人が次々と、その様子に目を丸くした。マイクなしでも、佐久間伊織の歌声は青空の下で響きわたった。
ハンカチを取り出す中年の女、ネクタイをゆるめるサラリーマン、ランニングを中断する若い男、カメラを構える女子高生、邪魔にならないようにと、小型犬を抱える老女。
人々が見入る情景は、俺が期待していた将来の佐久間伊織の姿だった。そうだ、お前はこうして、人を魅了する力がある。俺の目に、狂いはない。

いつ めぐり逢うのかを
わたしたちは いつも知らない

技術は高くないが、演奏しているピアノにはしっかりとした感情が注ぎ込まれていて、味があった。演技力はこんなところにも表れるのか。

「景吾……?」

立ち上がった俺に、千夏の声は届かなかった。俺の足は、自然とピアノの近くまで歩を進めていく。

どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語

旋律が大きくなっていく。佐久間伊織の感情も、たっぷりとあふれ出していた。それはシゲルが長い時間を使って叩き込んだ、すべての結果だった。
サビに入る直前、俺に気づいた佐久間伊織は、ひどく優しく微笑んだ。
そして、ときおり俺を見つめながら、最後まで歌いあげた。

縦の糸はあなた
横の糸はわたし
逢うべき糸に出逢えることを 
人は仕合わせと呼びます

終わった演奏に、あたりにはわずかな静寂が訪れた。そして、はじけたように拍手がわきおこった。

「伊織さんさすがだよ!」

響也という男の声が、こちらまで届いてくる。ありがとう、と手を振りながら、佐久間伊織は背中を向けていたテーブルに振り返り、その喝采のなかで、言った。

「千夏さん!」
「えっ……?」呼ばれた千夏が、驚きの声をあげる。
そして、俺を見た。「跡部も」
「……なんだ?」
佐久間伊織は、満面の笑みで言った。「……結婚、おめでとう!」

その祝いの言葉に、俺は、呆然とした。
なにかに押しつぶされたような圧迫がのしかかる。体の外側にあった重心が、一気に襲いかかってきた、そんな気分だった。
彼女の厚意を受け取りたくないと、全身が拒否していた。どんな顔をしているのか、自分でもわからない。それほど、なにかに絶望を感じていた。

「……跡部? どしたの、顔色悪い」
「伊織、横、あけろ」
「え、ちょっ……」

左側に立って、俺は佐久間伊織の座る椅子半分に強引に腰をおろした。伊織、と呼んだ自分の声が、情けないほど小さい。

「てめえのピアノは演奏力が低い。せっかくギャラリーもいるってのに、もっとミュージカルらしい歌を歌ったらどうだ」

どうせどうにもならないなら、いま、この瞬間だけでも……急激に抑えられなくなった感情に、俺自身がいちばん困惑していた。

「……あのさ、わたしいま、あなたたちの結婚を祝ったつもりだったんですけど」そんな言い方ある? 照れてんの? と、つづけた。うるせえ女だ。
「そもそも、それが間違っている」
「はい?」
「婚約の口約束はしたが、まだ結婚してねえよ」

そう口走った自分に、愚かさを感じずにいられなかった。
千夏と距離があるのをいいことに、俺は伊織にだけ聞こえるように、そうつぶやいた。
シラフだというのに、正気じゃない自身に気づいていた。

「だけど、いずれ結婚するんでしょ?」
「……弾くぞ。歌えるはずだ」

これ以上その会話をつづけるのを拒否して、俺は鍵盤を叩きはじめた。なぜこの曲を選んだのか。単純に、彼女の声で……俺が見つけた伊織の声で、聴きたいと思った。いまだから、かもしれない。
弾きはじめても伊織は立ち上がらず、鍵盤の半分を陣取った。自然と連弾へ導かれる。即興だが、相性がいい。

「跡部は、ピアノがめっちゃくちゃうまいね」
「いいから、歌え」
「ハモれる?」
「ああ」
「日本語? 英語?」
「英語しか覚えてねえ。いいから歌えよ、はじまるぞ」
「最初は男だよ、跡部がやってよ」
「ははっ。だったな」

思わず笑みがこぼれた。そしてすぐに、歌いはじめた。

I can show you the world――

世界を見せてあげる、という歌詞からはじまる『A Whole New World』はデュエットだ。歌いはじめると、「歌うま」とつぶやいた伊織を、歌いながら上半身ごと小突いた。伊織が笑う。それを合図のように、俺も微笑んだ。
この誰もが知っているラブソングを、俺は歌った。その目を見つめれば、伊織も見つめ返してきた。
お互いがときおり見せる笑顔に、ミスタッチも気にならない。伊織のピアノアレンジはかなり適当だったが、形にはなっている。確実に、俺と伊織が心を通わせ、交わっている時間だった。

A whole new world
(Don't you dare close your eyes)
まったく新しい世界
(目を閉じないでいてごらん)
A hundred thousand things to see
(Hold your breath, it gets better)
見るものがとてもたくさんあるの
(期待していて、きっとよりよくなるから)

とりまく空気に、体がまるごと沁みわたっていく。佐久間伊織と出会ってからの俺の日々は、たしかに、まったく新しい世界だった。期待していてほしい、これからも。俺が必ず、お前を輝かせる。
こうもハマるものか。当然だよな……これは、ミュージカルを代表するラブソングだ。さっきの『糸』もそうだが、誰もが想う愛の言葉がそのまま歌詞になっている。
つまり俺は佐久間伊織に、声だけじゃなく……そのすべてに、惚れ込んでいるということだ。

A whole new world
まったく新しい世界
That's where we'll be
僕らがいるべきところ
A thrilling chase
心躍らせて探すんだ
A wondrous place For you and me
ふたりのための 素晴らしい場所を

演奏が終わると、歓声が起こっていた。平日の午後に都心の街中で起きた拍手の嵐に、いま通りかかった全員の足が止まっているように見えた。

「跡部、歌うまいんだね」
「嘘つけ。お前のとなりじゃごまかしがきかねえ。恥かかせやがって」
「いや、選曲したのそっちじゃん!」

顔を合わせて笑った。見ず知らずの人間たちに称賛されていることに、伊織は高揚していた。俺は、別の意味で高揚していた。伊織と、通じあえた。そんな気がしたからだ。

「でも、いい歌声だったよ」
「ふん、適当な褒め言葉はいらねえよ」
「適当じゃないよ。跡部らしいって思った。伝わるの、歌声からも。あなたの、偉大で美しいなかに潜む、切なさと孤独と、だけど愛にあふれた正義感が」まるで宝塚のような口調で、おどけていた。だが本心なのは、俺にでもわかった。下手な演技だったからだ。
「……演技指導のされすぎじゃねえのか? まるでセリフだ」
「即興で考えたセリフにしちゃ、いいほうでしょうよ」

俺は……本当にこのまま、千夏と結婚をしてもいいのか。
はっきりと、その疑問が頭に浮かんだ。

「景吾」

気がつくと、後ろまで千夏が来ていた。目に光を宿して、俺を見ている。このパフォーマンスはさすがに……不二じゃなくても、思うものがあるかもしれない。

「帰ろう。ちょっと具合が悪くなってきたの」
「……そうか。わかった」
「千夏さん、大丈夫ですか?」伊織が、千夏を心配そうに見ている。
「大丈夫です。すみません、景吾の子だからなのか、暴れん坊で」
「え……」

千夏がどんどん、嫌な女になっている。そうさせているのが、俺だということもわかる。
伊織の顔は、俺と千夏を交互に見ながら、笑顔を消した。だがもう……どんなに自分の過ちを呪っても、過去に戻ることはできない。

「あの、すみません」

そうしてまた、体中が重くなる直前だった。

「え、はい?」
「失礼ですが、プロの方ですか?」
「あ……いえ、えっと」
「彼女はほとんどプロだ。俺は素人だが」
「ですよね。あ、すみません」失礼なことを……と、一旦は口に手をあてて、俺に会釈をした。「女性の方にだけ、ちょっとお話があるのですが」

行こう、景吾、と俺の腕を引っ張った千夏の手を振りほどいて、俺はその男に一歩近づいた。これは悪い話じゃないと、直感が働いたせいだ。

「わたしが、なにか?」
「はい。オーディションに参加してみませんか。海外公演も予定している、ミュージカルです」

名刺には、ピエロが書かれていた。エンタメ業界最大手の会社だと誰もが知っているロゴを見て、伊織が、俺を急いで見上げる。名刺にあるプロデューサーという肩書に、俺は、自然と頷いていた。

「ピエロ株式会社の入本と申します。僕があなたを、主役に推します」

伊織は震える手を抑えきれずに、そっと名刺を受け取った。





to be continued...

next>>08
recommend>>ざわざわきらきら_08



[book top]
[levelac]




×