プランクスター


「怖かったでしょう?」とたくさんの人から聞かれた。でも怖かったことのあとに起こった出来事を思い出してしまうばかりで、最初は言葉に詰まっていた。それでも同じ問いかけをくり返されるうちに、いつも答えるようになっていた。

「正直、あんまり覚えてないんだよね」
「そんなことされたら頭が真っ白になっちゃうもんね」
「うん、そうなんだよね」

本当に真っ白になったのは、やっぱりそのあとのことだったのだけど。

2月に入ったばかりのころだった。冬のなかでもいちばん寒いとされる時期に、いつも以上の防寒をして、久しぶりに立海大付属高校のテニス部を覗いていた。
昔から、テニスを見るのが好きだった。細かいルールやプレースタイルのことなどわかりもしないのに、どれだけ見ていても飽きない。中学から立海に通うことになったときは、跳ね上がるくらい嬉しかった。立海大付属は、全国王者の常連だったからだ。
テニス部でもないのに、よく見学していたことで、高校時代は同級生のレギュラーメンバーと交際したこともあった。彼はとても溌剌とした素敵な人で、大好きで大好きで仕方なかったけど、遠征で海外に行ってしまって、すれ違いが起きたのは1年前のことだ。それからテニスを見ることはたまにしかしていなかったので、久々の訪問だった。
このテニス部はしばらく見ないうちに、すっかり彼らだけの立海になっている。

「お前らチンタラやってたら片っ端から潰すぞ!」

黒髪でパーマをかけている男子生徒が吠えていた。彼がいまの部長なんだろうか。ものすごくやんちゃそうだ。立海にやんちゃな部長というのも、新感覚な気がする。時代はそうして変わっていくものだから、面白い。
寒くなってきた体を両手でこすりながらやんちゃ坊主の様子を見ていると、トントン、と肩が叩かれた。振り返ると、左頬がぶにっと長い人差し指に突きささった。

「……仁王」
「くっくっく。何回やっても引っかかるのう、伊織先輩」

2年後輩の、仁王雅治だった。彼のお姉さんと知り合いだったこともあり、元カレと付き合う前からよく話す後輩だったのだけど、元カレと付き合いはじめてからは、頻繁にちょっかいをかけてくるようになった、まさに「やんちゃ」くんだ。

「早くその指をどけなさい。跡がついちゃうでしょー!」
「おう、すまんすまん」笑いながら、仁王がそっと指を外す。「先輩どうしたんですか? えらい久々な気がする。半年ぶり?」
「そのくらいかも。前に来たときは仁王がコートにいた気がする」
「先輩、あのとき俺に声もかけんで帰ったから。ちと話したかったのに」
「えー? すっごい疲れてそうだったから遠慮したんだよ?」

去年の夏、元カレと別れてから半年が経ったころ、一度だけこのコートに来ていた。
まだ顔なじみの幸村くんや真田くんがいて、見慣れた風景だった。もちろん、仁王もいた。真面目にやりそうにない雰囲気があるのに、実は人一倍、真面目な仁王。
その性格は、少しだけ元カレを思い出させる。なぜだか、共通点も多い。AB型で、左利きで、ちょっとだけ髪が長くて、ちょっといたずらっ子で、色っぽい……けど、色気は仁王の勝ちだな、いつ見ても。年下なのに、なんなんだろう、この色気。

「ふうん。じゃあ、いまから一緒に帰りませんか? 俺と」
「え、いまから?」
「もうすぐ練習も終わるじゃろうから。家も近いし、久々やし。たまにはええじゃろ?」
「そっか。もう終わるんだね。いいよ、じゃ帰ろう!」

駅までの道のりを仁王と一緒に歩いた。彼はそのあいだ、ずっと質問してきた。大学の授業は面白いか。サークルには入ったのか。就職活動はもうはじまっているのか。酒を飲むようになって失敗したことはないか。なんでも素直に答えるわたしのあげ足をとったり、茶化したり。笑いが絶えないせいで、寒さも忘れて、体はポカポカになっていた。

「そういや伊織先輩、新しい彼氏は?」
「え」

電車の到着間際に、また質問が投げかけられる。突然の話題に、いささか驚いた。元カレと別れてからは、誰とも付き合っていないけど。たまにデートに誘われることもある。が、どれも1回きりで進捗はない。

「ん? ひょっとして答えたくないっちゅう感じ?」
「そんなことない。フリーだよ。全然モテないから、すぐ次にいけないんだよ」
「へえ。もう1年は経つっちゅうのに、ええ年頃の女がもったいない」
「余計なお世話ですー」

元カレと別れたことを仁王が知っているのは、お姉さん経由だろうか。仁王に直接言った覚えはない。それとも、元カレ経由? 元カレは、そんなに仁王と仲がよかったんだっけ?
逡巡しているあいだに、電車が到着した。乗車率80パーセントといったところか。帰宅ラッシュの時間からは少しはずれているのに、車内はそこそこ混み合っていた。
乗り込んだとたん、後ろから流れてくる乗客たちからもぐいぐいと押されて、仁王に寄りかかってしまった。

「っと、ごめん仁王、大丈夫?」
「なんも。気にせんでください」

ふっと微笑んで、そっと背中を支えてくれた。こういうさりげない気遣いが、大人びて見える秘訣なんだろうな、と思う。

「結構、混んでるね」
「ですね。先輩、もっとこっちに寄ってもええよ?」
「うん、あ、でも大丈夫」

超満員なら遠慮なくしがみついていたかもしれないけれど、少しだけ仁王との距離を開けても余裕があった。それでも、いつもの距離よりは数段、近い。見あげると、顎にあるホクロがわたしを見おろしていた。

「セクシーだよね、それ」
「ん?」
「ホクロ」
「ああ……よう言われる、そうかの?」

電車が停車した。仁王に寄りかかりながら、人の出入りを待つ。車内のアナウンスが流れ、プシューと乗車口が閉められた、直後だった。仁王が、なにやらわたしの後ろを気にするような素振りを見せている。

「どうかした?」
「……伊織先輩」
「ん?」
「そのまま俺のホクロ、見ちょってくれます?」
「は?」
「ぼーっとしちょってほしいってこと。じゃから、叫ばんで」

瞬間、腕を引き寄せられた。ぎゅうっと、わたしの頭を、仁王の左手が、肩に押し付けるように支えている。どういうわけなのか、わたしは、仁王に強く抱きしめられていた。
ちょっと待って、ホクロ見てろって言ったくせに、全然、ホクロが見える状態じゃない。
若干のパニックに陥って、「仁王……っ!」という声が、声にならなかったタイミングで、彼は、耳元でささやいた。

「このまま、絶対に振り返らんで」
「ま、まま待って、あの、に、に、仁王」
「あと先輩、悪いんやが、ちと黙っちょって」
「う……」

なにが起きたのかわからない。それでも、仁王の真剣な声に、なんの身動きも発声もできなくなってしまった。
首筋から漂う心地よい香りに、めまいがしそうになる。この子は本当に高校3年生なんだろうか。普通の高校生男子って、もっと汗くさそうなのに。などと、いろいろなことを考えながら、頭を落ち着かせようとしていた。
目的の駅につくまでの15分間、わたしは仁王に、ずっと強く抱きしめられていた。





電車が目的の駅に到着したとき、仁王は体を離してくれたものの、わたしの目を見つめて、髪を撫でて、あげく手をつないで、電車を降りた。電車の扉が閉まり発車した瞬間、手をパッと離し、「ふう」と、ひと仕事を終えたようなため息を吐いて。

「ふ、ふう、じゃないよ! な、なんだったの?」

顔が熱い。胸がドキドキしている。何度もいうけど、仁王は色気があるから、あんなことをされたら、いくら後輩でも妙な気分になってしまうでしょうが!

「いや、なんか怪しいヤツがおって。どうも伊織先輩のことをジロジロ見ちょったから、気になってのう。先輩、最近ストーカーとかされちょらん?」
「ストーカー!? ないないっ。さっき言ったばかりじゃん、モテないって」
「そういうのはモテるとかモテんとか、関係ないき」
「ていうか、だからあんなことしたの?」
「彼氏がおるって思わせちょったら、少しは予防になるから」
「も……言ってよう、びっくりしたじゃん!」
「あの場で言ったら聞かれるかもしれんじゃろ? びっくりさせたんは、悪かったけど」

仁王は、静かに微笑んだ。はあ、と深呼吸をして、なんとか胸のドキドキを落ち着ける。まったく、前触れがなかったから、おかしな勘違いをしてしまいそうだったじゃないか。

「家まで送ります、心配じゃから」
「ん……ありがとう。いいの?」

……知ってはいたけど、仁王って実は、すごく優しい。

「もちろん。俺が心配じゃからって、言うたじゃろう?」つまり、俺がしたいからしてるだけ、というわけだ。なんともイケメン。
「仁王ってさ、昔から優しいよね」
「ほう? 急な褒め言葉やのう。伊織先輩にそう言われると、ヤリでも降るんかな、明日」
「おいー」

駅から10分程度だけど、男の人に家まで送ってもらうのも久々で、いささかテンションがあがる。相手はかわいい年下の後輩だけど、仁王なら、全然、悪くない。いやむしろ? 気分がいい。

「仁王はどうなの?」
「ん? なにがですか?」
「彼女。いないの?」

聞くと、仁王がゆっくりとひとつ、まばたきをした。おやおや? それってどういう反応? いるよね? そんなセクシーイケメンなんだから。

「……ん。まあ、それは秘密」と、早足になった。言いたくなさそうだ。
「えー、わたしのことは全部しゃべらせたくせにー」
「じゃけど先輩、興味あるかの? 俺に彼女がおるかどうかなんて」
「そりゃ、あるよー。今度、お姉さんに聞いちゃおっかなー」
「へえ。あるんじゃ? 姉ちゃんに聞いても、無駄じゃけど」ああ、なるほど、と思う。その感じ、すごくわかる。
「はいはい、家族のなかでも、雅治はいちばん秘密主義だって言ってた」
「姉ちゃんが? よう言うのう、あいつ」
「違うの?」
「姉ちゃんのほうがよっぽど秘密主義じゃき」

それもどこかわかってしまうので、苦笑してしまう。
仁王のお姉さんはとにかく、ミステリアスな人だ。それがまた色気に拍車をかけている。
姉弟そろって、とにかく人を惹きつける。きっと末っ子の弟くんも、とんでもない仕上がりなんだろう。会ったことはないけれど。

「それじゃ先輩、気をつけての」
「もう家の前だから、大丈夫だよ」
「そうじゃのうて、普段からっちゅうこと。たまには後輩の言うこと、まともに聞いてください」
「はいはい。心配性だなあ。じゃあね仁王、ありがとう、またね」

玄関の前で手を振って、扉を閉めた。閉めかけたときに見えたのは、どこか寂しそうな微笑みだった。





1週間が過ぎた。
大学をサボって、鏡の前で洋服をあれこれと着替えていた。先日、同級生からデートに誘われたのだ。好きなんて感情もないうちからデートをするのは、大人になった証拠だなと生意気にも思う自分がいる。デート前に感じるワクワクがスリルなのかもしれない。
厚手のコートを着ていくので、薄手のタートルニットにした。冬らしくオフホワイトのスカートをはいて、同じくオフホワイトのマフラーを首に巻き付ける。買ったばかりのコロンを耳の後ろと首筋につけ、準備万端。と、ひとりごちて、予定時間よりも30分早く家を出た。
夏は恋の季節というけれど、真冬もなかなかの恋の季節だ。これだけ寒いと、人肌が恋しくなる。寒いなか好きな人とくっついて歩くのが、大好き。
今日の彼とはどうなるだろう。あまりピンとこないな、と考えながら、待ち合わせ場所のキャンパスへ向かう途中、ゲームセンターに隣接するおもちゃ屋に、足が止まった。
デートよりも、こっちにピンときてしまうとは……仁王は今日、学校にいるだろうか。スマホで時間を確認すると、このあいだ立海に訪れた時間に近かった。

わずか1週間のうちに二度も卒業した高校に行くのは、はじめてのことだった。前回同様、テニスコートをそっと覗くと、前に檄を飛ばしていたやんちゃ坊主が、今日はチームメイトと試合をしている。
ああ、と思う。時間が許せば最後まで見たい。テニスの練習風景を観るのもいいけれど、やっぱり試合がいちばん興奮する。昔、仁王が試合をしていた風景を見たことを思い出した。あのときの仁王ったら周りの女子たちの視線をくぎ付けにしていたっけ。わたしから見ても、しびれるくらいカッコよかった。あのやんちゃ坊主も、なかなかイイ男だけど、やっぱり仁王には負けるかな。
って、さっきから仁王のことばっかりだ。仁王に会いに来たのだから仕方ないけど、これからほかの男とデートするというのに。
トントン、と肩を叩かれた。
あっ、と思う。そう何度も引っかかるものか。即座に、買ったばかりのおもちゃを手にして、左肩から突き出されているだろう人差し指めがけて、思いきり握ってやった。

「うわっ! なんじゃっ!?」
「やっぱり仁王だー」

仁王が大きな声をあげて、「はー、やられた」と笑っている。
アメーバを手に塗りたくってやったのだ。でも、最近のアメーバはよくできていて、全然、ベタベタしない。ベタベタした感じがするだけで、実際の手はさらさらだから面白い。

「あはは、仁王のその顔っ」
「びっくりした……噛みほぐされたガムでもこすりつけられたんかと思った」
「あら、わたしのガムなら光栄でしょうに」
「ははっ。まあたしかに、伊織先輩のならええかも」

まったく。どこでそういう思わせぶりな言葉を覚えてくるんだろうか、この後輩は。噛みほぐされたガムなんて、誰のであっても最低だろうに。

「それ、あげる。さっき買ったの。こないだのお礼。おもちゃ好きでしょ?」はい、これ入れ物。と、手渡す。
「礼なんていらんのに。じゃけど、ありがたく受け取っちょきます」

よほど、おもちゃが好きなんだろう。嬉しそうに笑っている。ひとしきりアメーバを手になじませながら大事そうに入れ物にしまうと、彼はまるで、あの日の再現のように言った。

「伊織先輩、いまから一緒に帰りませんか? 俺と」
「えっ……」

なぜだろう。デートに誘われている錯覚に陥った。不用意にドキッとした自分に、ドキッとしてしまう。なに考えてるんですか、伊織さん?

「ん? ダメじゃった?」
「ああ、ごめん。今日は予定あるの。これからデートで」
「……ほう、モテん、とか言いよったわりに、モテちょるんじゃ?」
「いや、まだ好きとか、そういう段階じゃないよ。たぶんあっちも」
「ふうん。じゃけど? 好きになるかもしれんっちゅうこと?」
「それはー、まあ、今日のデート次第じゃないかな」

ふむふむと頷くように、どこに行くのかと聞いてくる。「近くの居酒屋だよ」と、店名を教えると、「デートじゃっちゅうに、ふぬけた場所……」と悪態をつかれた。

「あのお店、よくうちの大学生が使うから、居心地重視なんだよ、きっと」
「居心地のう……? ちゅうか、まだ彼氏でもないのに、もうかばいよるし」

その表情に、首をかしげそうになった。家まで送ってくれた仁王の姿と、なぜか重なる。
どこか寂しそうな、仁王の微笑みに既視感を覚えた。
トクン、と胸がうずいていく。どうしてわたし、こんなに切ない気分になっているんだろう。

「あ……そろそろ時間だから、行くね」
「気をつけて。それと、デート頑張って」
「うん……じゃね」

デートって頑張るものなんだろうか。いや、頑張るもので、間違ってない。なのに、全然、頑張ろうという気分になれなかった。なんで仁王……あんな顔するの。
あげく、電車のなかで仁王に抱きしめられた感触を、体が思い出していた。





「楽しかった? 今日」と、デート相手は聞いてきた。
帰り道、居酒屋から出て駅に向かう途中だった。人通りの少ない道をわざわざ選んでいるのか、待ち合わせたときより、距離もぐっと近くなっている。

「うん、ちょっと飲みすぎたかもね。酔ってるみたい」

ふらつく足に力を入れる。楽しい、という感覚を見失いそうだ。楽しくなかったわけじゃない。でもどことなく、彼との距離感に気まずい思いをしていた。
乗り切れてないんだろう、と自覚する。優しそうな人だし、キャンパスで何度か話したときだって好印象だったのに、ときめきを覚えるような相手ではなかった。デートでたくさん彼のことを知っても、それ以上、知りたいと思うこともない。おかしな浮遊感。

「手、つながない?」
「あ……」

触れてしまえば早いだろうか? だけどなんとなく、体が拒否しているのがわかる。触れたい、とは思えない。まだデート1回目なんだから、そんなものなのかもしれないけど。もう一度デートをしたいと思えない相手と、手をつなぐのは、違う気がする。

「ごめん、ちょっとまだ……」
「そっか。……ねえ、当然いないと思ったから敢えて聞かなかったけどさ」
「うん?」

爽やかな人だった。サラサラとした茶髪が風になびいて、整った顔立ちが夜道でもよくわかる。
キリッとした一重がセクシーで、でも、どこか幼い表情も持ち合わせている。どうしてわたしをデートに誘ったのかわからないくらい、女には困らなそうなのに。

「彼氏とかいないよね?」
「え? いたら、来てないよ」
「ん、だよね。ごめん」

にこ、と笑う瞳が少年のようで、誠実さに胸が痛くなる。どうしてだろう。悪くないのに、まるでパッションが湧き上がってこない。
しかも、いつのまにか彼の足は、ピタリと止まっていた。不思議に思って振り返ると、ゆっくりとわたしに近づいてきている。

「佐久間さんのこと、好きなんだ」
「……あ、えっと」
「まだ告白するには早いよね。でも僕、佐久間さんをはじめて見たときから、好きだった」
「そ……う、なんだ」

一目惚れ、ということなのか。全然、現実味がない。そんなふうに言われたことが、人生で一度もないからかもしれない。

「ずっと見てた」
「え?」
「佐久間さん覚えてないかな。はじめて会ったとき、僕にシャーペン貸してくれてさ。僕が忘れちゃってて」
「そう、だったっけ?」まるで、覚えていない。
「僕、そのシャーペン、まだ持ってるんだ。佐久間さんが大好きで、毎晩、眺めてる」

本能的に、ゾッとした。シャーペンを貸したことを覚えていないわたしもわたしだが、借りたシャーペンを返してこなかったのはなぜなんだ。しかも、毎晩それを眺めているという物狂い感……言いようのない気味悪さに鳥肌が立ってくる。
自然と一歩、後ずさった。トン、と背中になにかが触れる。夜8時には閉店する駄菓子屋の左側の壁だった。あともう少しで大通りに抜けれるというのに、絶体絶命のような恐怖が襲ってくる。瞬間、彼はわたしの両肩をグッとつかんできた。

「ちょっ」
「好きなんだ、伊織」

無理やり体を壁に押し付けたかと思えば、綺麗な顔面が目の前まできていた。唇めがけて鼻先が近づいてくる。嘘でしょう? こいつ頭おかしい!

「ちょ、いやっ」

腕に渾身の力を入れて突き飛ばすと、彼はドンッと尻もちをついて倒れた。意外と脆い。それともわたしが強いのか。どっちでもいい。お互いに、お酒を入れたのが正解だった。

「……ひどいよ、伊織」

いつのまに、伊織と呼ぶようになっていたのか。それすらも気味が悪い。
酔いがほとばしるように醒めていく。彼は、ポケットからなにかを取り出していた。
細長いものが闇の中でわずかに光る。まさかわたしが貸したシャーペンだろうか? が、そこからカチカチカチカチっと音がして、目をひんむかずにはいられなくなった。

「ちょ、なにそれ……」
「あの男には、触れさせてたじゃない……?」

なんのこと? と思ってからが、一瞬だった。目の前の男が勢いよく立ち上がって、わたしにカッターナイフを振り下ろそうとした。
切られる! と思う暇もなくバッグを顔の前に掲げるのと同時に、ドンッと横に突き飛ばされた。思わぬ方向からの衝撃に、前のめりになって地面に激突した。かろうじて正面からではなく、右肩から倒れ込んだけれど……いまの、なに!?

「先輩すまんっ。どっか痛めたか!?」
「え……、におっ」

仁王の声だった。せっかちにわたしを案じている。でもすぐには答えられないほど痛くて、寒さのなかで、冷汗が額ににじんだ。
見あげると、仁王が男の右手首をつかんで、動きを止めていた。

「お兄さんのう、それが好きな女にすることか?」
「お前……このあいだのっ。伊織と電車にいたっ」

男が叫んだのと同時に、仁王はつかんでいた右手首を、自分の左肩に振り下ろさせた。

「仁王!」

なにが起きているのかわからなかった。男も驚愕で固まっている。仁王だけが、まったく表情を変えないまま、ふぅ、とため息をひとつ吐いた。
なんで、仁王がいちばん冷静なんだ……血を流しているのは、あんたの左肩じゃないか。

「嘘でしょ……仁王!」
「これで傷害罪。いますぐ警察に突き出して逮捕されたら完璧じゃ」
「い……いまのはお前が勝手に!」僕のせいじゃない! と、わめいた。
「さあ? どうかの? 目撃者は伊織先輩だけじゃき。あんたに有利な証言をしてくれるとは、到底、思えんのだが?」
「は、離せっ! 離せよっ!」ぶんぶんと、滑稽なまでに体を揺らしている。
「逃げても無駄やぞ。もう警察には連絡した」

パッと、仁王が手を離した。勢いで、男は再度、尻もちをついたが、そのまま転がるように走り去っていった。唖然としてしまう。

「仁王……」

走り去った後ろ姿を確認してから、仁王が大きなため息をついて、向きかえる。倒れているわたしの前にしゃがんで、頬をなでてきた。

「先輩、大丈夫か? すまんの、加減ができんかった」
「仁王……肩……」

自分の右肩もジンジンと痛い。それでも、目の前で血を流している仁王に、涙が止まらなくなる。仁王は左利きだ。テニスだって、高校では引退しても、これからも絶対やるつもりだったに決まってる。その左肩が、血に染まっている。

「仁王、肩、やだ……なんで、なんでこんな無茶するのっ!」
「大丈夫だ、心配せんでも」
「嫌だよっ! 大丈夫なんかじゃない!」

頬を包む仁王の左手が、わずかに震えている。その手を握りしめて、泣きじゃくった。仁王が、わたしの大事な仁王の将来が、こんなことで終わってしまったら。

「ああ、じゃあ、キスしてくれたら治る、ちゅうたら?」
「は……?」

余裕そうな表情に、その発言に、思考が止まった。
こんなときにこの子は、いったい、なにを言っているのか。

「くくっ……泣き顔までそんなにかわいいなんて、反則じゃ」

仁王が羽織ってるコートのなかに手を入れた。ぎゅっとなにかをつかんで取り出す。その手のひらには、真っ赤になっているアメーバが、ゴムの袋のようなものに丸まって、こちらを見上げていた。

「な……なに、これ?」
「キスっていうた瞬間に真顔になったのう……やっぱりそう簡単には引っかからんか」ペロッと舌を出した。「血のり。本当は刺されてないけ、心配いらんから」警察も、呼んでない、と、ケロりと言いのけた。

やられた、と思った。「う……もうー!」

安心したせいで。ただでさえボロボロと涙を落としていたわたしは、「ひどいっ」とわめきながら顔を覆った。
仁王のためらいがちな手に、体を包まれる。そのぬくもりが愛しくて、しがみついた。

「悪かったって、伊織先輩、もう泣きやんで」髪の毛を、優しくなでてきた。
「バカ、バカバカバカ仁王! 殺してやるっ」
「おうおう、そらまた物騒じゃのう。先輩がくれたアメーバが役立ったんじゃから、もっと喜んでくださいよ」
「もう……ホントに、許せない!」喜べるか! いや喜べるけど!
「……先輩、ええ匂いがする。気合い入れたんじゃろうに、台無しやのう」
「どうでもいいよそんなこと!」
「血のりがマフラーとスカートの裾についてしもうた……悪いことしたのう」
「それもどうでもいいってば! バカ仁王!」

泣きながら見あげると、困った顔で、「すまん」とつぶやいた。
切なげな視線に、こないだからの仁王の表情が蘇ってくる。胸の奥が、鼓動を早くする。自然と、仁王の頬に、手をあてていた。触れた瞬間、目を見開いた仁王が、急にかわいく見える。その瞳を、じっと見つめた。
血のりにつつまれたアメーバが守ってくれたからって、相手はカッターナイフを持っていたというのに……仁王は、わたしのために、立ち向かってくれたんだ。

「伊織、先輩……?」
「心配させないでよ、もう……」

硬直したような薄い唇に、そっと唇を寄せた。かわいい仁王の肩が、少しだけ震える。
愛しさが、胸に広がっていった。これだったんだ、わたしが求めていた新しい恋。体中で暴れるパッション。ずっと、こんな近くにあったなんて……思ってもなかった。

「伊織せんぱ……」
「治った……?」
「……」
「ねえ、仁王ってば」
「なん……」
「キスしたら、治るんでしょ? 治った?」
「……治らん」
「へ?」
「もっとしてくれんと、治らん」
「仁王……」
「もっと。もっと欲しい」

今度こそ。
なんのためらいもなく、仁王がわたしを抱き寄せた。ぎゅっと締め付けられた体ごと、仁王の唇に、なにもかもが奪われる。
彼は何度も何度も角度を変えて、わたしにキスをした。

「伊織先輩……好きだ」

熱を帯びた声に、体が火照っていく。
息苦しさも忘れて、わたしたちは、飽きるほどのキスをくり返した。





「ずっと好きじゃったんですよ、俺は」
「……全然、気づかなかった」

仁王が言うには、今日のデート相手がどんな男か気になって、大人のふりをしてこっそり居酒屋を覗いたらしい。見たら電車にいた男だったので、危うい気がしてずっと後を尾けてきた、とのことだった。
警察には、明日にでも被害届を出そうと決めた。これで彼がわたしに近づいてくることはなくなるだろう。接近禁止命令がくだされるはずだ。それにしても、いつも血のりを持ち歩いているんだろうか、このいたずらっ子は。そんなことを聞く暇もなく、仁王は、本人曰く「ずっと我慢していた」という胸のうちを吐露してきていた。

「うちの先輩と付き合いはじめたから、俺のことなんて見向きもしちょらんかったじゃろ?」
「そ……まあ、その当時は?」
「俺、嫉妬でどうにかなりそうじゃった、あのころ」

口を尖らせながら、ぎゅっと、手を強く握ってくる。
責めているつもりは全然ないんだろうけど、こちらとしては、責められているような気がする。むちゃくちゃかわいいのだけど、なんだかとても、うしろめたい。

「それで、伊織先輩は?」
「ん?」
「俺のこと、好きになってくれる?」
「は……」

あんなにキスしておいて、なにを言いだしてるんだか、この後輩は。

「は、じゃのうて。俺、先輩からちゃんと聞いちょらんし」
「え……あ、そっか、なるほど」

好きって、聞きたいんだ……どうしよう、たまらなくかわいい。仁王って、大人ぶってるくせに、そういうとこ、超、年下っぽい。
お姉さんぶるために、立ち止まった。もうすぐ駅だ。まだ人がそこそこいるだろう駅前では、さすがに照れくさい。愛を告白するなら、ふたりだけの世界に入れるところがいい。せっかくこんなに、素敵な夜なんだから。

「伊織先輩?」
「雅治」

覗き込んできた仁王を名前で呼ぶと、怯んだような顔をして、ゆっくりと、背筋をもとに伸ばしている。

「好きだよ、雅治」

背の高い仁王を見あげて、まっすぐと見つめて。
仁王はうつむいた。口もとに、手をあてている。あれれ、照れてる、のかな?

「先輩、ずるすぎじゃろ……そういうの」うわあ、本格的に照れてる。
お姉さんぶっちゃおう、このさいだから。「今日から敬語はナシね」
「え」
「あと、先輩、もやめて。伊織って呼んで」

口もとに当てていた手が、ゆっくりとおろされていく。
照れがおさまってきたのか、息を整えるように一度目を閉じてから、仁王はじっと、わたしを見つめてきた。

「伊織……さん」
「も、伊織でいいってば」
「……伊織」
「はい」
「俺……離さんよ、一生。口先だけやなくて、絶対に、離すつもりない。伊織のこと」
「うん……ふふ。望むところだよ、雅治」
「のう、伊織」
「ん?」
「もう一回、聞かせて」
「……好きだよ、雅治。大好き」
「俺も……伊織が大好きだ」

嬉しそうに微笑んだ仁王のキスが、全身に沁みわたった。





fin.



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