夜の東側


教室が好きだった。校内施設がこれほど充実していて、どこに行っても空調完備されている天下の氷帝学園だというのに、わたしは学校に到着してから帰宅するまで、ほぼ、教室にいる。窓際のいちばん後ろの席、ということも関係しているかもしれない。ここから見える緑豊かな日中の校庭は美しい。だから中1で入学してから数日、方向音痴が炸裂してなかなか教室にたどり着けなかったことは、教室に入り浸ることとは関係ない。
いつものように本を開いた。ちょっとした休憩時間があれば、ここで必ず小説を読むようにしている。
ふと、となりの席を見れば、長い指が、わたしと同じように本を開いていた。
襟足まで伸びている黒髪。切れ長の大きな目。どういうタイミングかわからないが、ときどきかけている伊達メガネ。忍足侑士の横顔は、いつ見ても美しかった。1ヶ月前から彼がとなりの席にいるというのも、いま、わたしが教室に入り浸りの理由のひとつだ。

「はいはい、お邪魔しまーす」ガラッ、と教室が開けられた。
「神様、またサボりに来たのー?」

自習のためガヤガヤとしている教室に入ってきたのは、現文の教師である神様だった。「神」というのはあだ名ではない。20代後半のこの若い男性教師は、「神」という苗字である。ゆえに生徒からは「神様」と呼ばれ、バカにされ崇められている。おそらく幼い頃から呼ばれつづけているであろうそのあだ名に、神様はなんの抵抗も示さない。この学校で「様」付けで呼ばれ、そこに抵抗を示さないのは、この教師と跡部くらいだろう。

「ぷ」

その神様が、こちらを見て笑った。あきらかに、その視線はわたしを見ていた。なにを笑われたのかわからず、「なに笑ってるんですか」と声をあげると、「なに笑てはるんですか」と、まったく同じタイミングで、となりの忍足も声をあげていた。

「おお、お前ら、息ピッタリじゃん」
「あ……」思わず声が漏れてしまう。
「ん……」忍足も同じ反応だ。

顔を見合わせて、ぎこちなく微笑んだ。忍足もわたしを見て、苦笑していたのだ。ぽわ、と胸に火が灯る。黙っていても笑っていても、この人はカッコよくて、綺麗だ。その魅力にクラクラしてしまう。忍足と顔を見合わせて笑うなんて、あまりないことだし……。

「こっから見てたらまったく同じポーズなんだよ、お前ら。それが笑える」

神様はドカ、とわたしの席の前に座った。もともとの席の所有者は、遠くで仲間とたむろしている。

「あんなあセンセ、いま授業中やと思うねんけど」
「え、ここ自習だろ?」
「そうやなくて、センセの授業は?」
「オレ休憩ー。だから来たんだよ。暇なときは若い連中とつるみたいんだよオレもー」
「女子高生と、の間違いちゃいます?」

本から目を離さず悪態をつく忍足に、神様は唇をびろっと出して変顔をする。
職員室にいる教師連中はおっさんやおばさんも多いため、あまりテンションがあがる場所じゃない、と以前こぼしていた神様は、はっきり言って、めちゃくちゃモテる。そういうやんちゃくれな態度が生徒たちからの人気を集めているのだ。おまけに綾野剛界のNo.1というくらい、怪しげなイケメンだった。いや、綾野剛界のNo.1は綾野剛か……まあとにかく、そういう雰囲気の人だ。なので、学園内の女子生徒にモテまくっている(とはいえ、手は出していないと信じたい)。
おまけに女好きという肩書は本人も認めるほどで、しょっちゅう女の話ばかりしているということもあり、忍足の言いぶんも、あながち間違いではないと思われた。

「憎まれ口を叩くな忍足。お前らねえ、自習中だからって読書はサボりだぞ。勉強してるように見せかけてるつもりなんだろうけど」
「見せかけとるつもりあらへんけど」面倒くさそうに、忍足が言った。
「ねえ先生。サボりって、わたしたちよりよっぽどうるさくしている、あの辺りの連中が真のサボりですよ」追撃とばかりに、わたしも言った。
「真のサボりってなんだよ。どっちもサボりだっつってんの。で、今日はなに読んでんだ?」

本当は誰がどのようにサボっていようが、まったく興味のないだろう神様は、目を輝かせてわたしと忍足を交互に見た。神様は現文の教師である。わたしと同じく、活字中毒者だ。
それもあって、実は神様がわたしに絡んでくることはしょっちゅうあった。忍足は初だろうけど、わたしは高1のときに彼が担任だったこともあり、本を貸し借りするほどの仲だった。

「黒猫の……あ」
「恋愛中……ん」

また、ハモってしまった。そしてまた、顔を見合わせる。どうしよう、体が熱くなってきた。こんな内面、忍足にバレてないといいんだけど。

「お前ら、仲いいな?」
「たまたまですよ。忍足からどうぞ」促すように手を差し出してみる。
「いやいや、佐久間からでええよ」同じく、差し出された手。
「あ、じゃあオレから!」天井に向けてまっすぐと、神様が手をあげた。
「どうぞどうぞ」
「どうぞどうぞ」

そこまでやって、3人でケラケラと笑った。お決まりの笑いというのは素晴らしい。テレビで一度は見たことのある流れは、どんな素人でも再現できる。忍足は関西人なので、余計にうまい感じもした。でもこのモデル、東京のお笑いだけど。

「えっと、今日も黒猫のデルタVシリーズですよ。夢・出逢い・魔性」
「おー、そのシリーズ面白いよな。オレはS&Mのほうが好きだけど」
「そういう人のほうが多いみたいですね」

わかる人にしかわからない話をしながら、わたしと神様は忍足を見た。お前も発表しろ、の意図である。

「ああ俺……俺は、恋愛中毒、ちゅう小説」
「うわあ、なんかお前そのものだな」
「え、ちゃうわっ。どういう意味やそれ」

忍足には悪いけど、ちょっとわかる、神様の感覚。たぶん、高校3年生とは思えない、その色気のせいだろう。それにしても気の毒なレッテルなので、思い切って聞いてみることにした。

「ねえ、忍足って、恋愛小説が好きなの?」
「ああうん、そやねん。佐久間のは、どんなやつ?」
「あ、わたしは主にミステリーかな。恋愛モノは、あんまり読んだことないかも」

なるほど、趣味は合いそうにない。読書好きというだけで合っているということにしよう。
うん、それでいい。

「ふうん。あ、ほなミステリー要素がある恋愛小説、貸すわ、今度」
「え」
「佐久間もなんか貸してえよ。いっつも夢中んなって読んどるから、気になるわ」

にこ、と笑っている。今度こそ、真面目に体が熱くなった。
嘘でしょ……本の貸し借り? 彼とこんな会話をすることになるなんて、思ってもみなかった。というか、こんな展開になるなんて。

「お前ら、ひょっとしてあんまり仲よくなかったの? いっつもふたりして読んでるくせに」
「いや……よくないわけや、ないよなあ?」
「そ、そうですよ、たまに話しますよ。ねえ?」
「ふーん。なのにいまごろジャンルの話かよ。オレなんかこいつがこれまで読んだ小説、ほとんど知ってるぞ」と、わたしを指さした。

あなたの言うとおりです、神様。こんな普通の話なんて、全然、話しかける勇気がなくてできてなかったんです。
ていうか、忍足の持ってる本……家にあって、その1枚1枚に触れたんだろう本を、借りれるんだ……あ、やばい、わたしちょっと変態ぽいかな。

「センセ、佐久間の担任やったんでしょ、詳しくてあたりまえやし」
「そういやお前の担任になったことないね、オレ?」
「俺んが頭ええんちゃうかな」
「お前ねえ……」

実験で同じグループになったり、英語の授業でとなり同士で会話してって言われたときくらいしか、話したことがなかった。そんな忍足と、こんなふうに近づけるなんて。

「なあ? 佐久間、どう思う?」
「え? ああ、あははっ。うん、そうかも」
「お前ねえ!」

だから神様……わたし、いま、あなたが本当に神様に見えてます。





その日をきっかけに、忍足とは急激に距離が近くなった。朝に会えば「おはよう」と挨拶をし、帰る前には「また明日ね」と挨拶をし、授業中に絡むときだって、本の貸し借りのおかげで、いままで以上に会話が弾んだ。
忍足が貸してくれた小説は、かなり大人めのものが多かった。官能的な表現もたくさんある小説もあったりして、こんなのを読んでるんだと思うと、ドキドキした。それでもきちんとミステリー要素のあるものを貸してくれて、その気遣いが嬉しいから、わたしも恋愛要素が少しでも絡んでいる小説を貸すようになった。
そんな日常が1ヶ月も過ぎたある日、また、神様が教室にやってきた。

「ぷ」
「なに笑ってる……あ」
「なに笑てはる……ん」

また、声が重なっていた。顔を見合わせて、あの日よりも、お互い、しっかりと笑い合う。

「まーた、かぶせてきよったな、佐久間」
「忍足がかぶせてきたんだよー」

あの頃よりも、近づいた距離の会話。どんどん忍足が好きになっていく。
そしてこれは完全なデジャヴだと、彼も思っているに違いない。だっていまは、自習の時間だ。

ニカニカと白い歯を見せながら、神様は言った。「今日も息がピッタリだなあ、お前ら」
「今日もサボりに来たんですか? 先生」なんだか照れくさいので、すましてみる。
「おいおい、オレのこないだのはサボってたわけじゃないって」
「めちゃめちゃサボってはったやん、なあ?」
「すんごいサボってたよ、ねえ?」
「じゃあいいよ、そういうことで……」

あきらめた神様は、それでよい、愚か者めが、と言わんばかりの口調でそうつぶやくと、ドカ、とわたしの席の前に座った。これもデジャブだ。その席の所有者は、やっぱり今日も遠くで仲間とつるんでいる。

「なあ、前に伊織が読んでた小説の舞台でさ、伊豆だったのあるじゃん」

唐突にはじまった会話に興味があったのか、パッと忍足が本から顔をあげた。
ちょっとだけ、眉間にシワを寄せている。その様子が少し気になりながらも、わたしは答えた。

「え? えー、伊豆が舞台……? そんなのあったかな」
「あったよ。伊織、教えてくれたじゃん2年のとき、ガリレオだか、なんだか」
「ああ、ガリレオシリーズですか? そういや放課後に熱弁しましたよね、わたし」
「そうそう、でも結局、あのシリーズだけ読んでないんだよなあオレ」
「え、買うって言ってたのに!」
「ん、だから伊織が貸して? いいだろ?」
「もー、いいですよ。じゃあ今度、持ってきますね」

自分が好きな作家の本を貸してくれと言われると、素直に嬉しい。読書マイスターな気分になって、思わずニコニコとしてしまう。
わたしはスマホに手をのばして、忘れないようにメモ帳に打ち込んだ。
「神様:ガリレオ」と。実に簡素である。でもこれで忘れない。
ニコニコを顔に張り付かせてそのまま顔をあげたとき、忍足と目が合った。ドキリとして、さっと目を逸らしてしまう。仲よくなって1ヶ月程度では、まだまだ慣れていないのだ。

「ちゅうかそれ、映画化された舞台ちゅうか、ロケ地ちゃいます?」

ボソッとした声に、わたしは逸らした目を戻した。忍足はじっとりと、神様を見ている。

「ロケ地?」
「ん、たしか西伊豆。真夏の方程式やろ? センセが言ってんの」
「おお、それだよ忍足! 詳しいなお前!」
「まあ、ちょっと……」

逡巡するかのように、忍足はポリポリと頭をかいた。
わたしがいろいろ小説を貸しているせいもあるだろうけど、忍足がミステリーの映画に詳しいのは意外だった。このあいだ、前作の容疑者Xを貸したから、その影響かもしれない。あれはなんだかんだ、ラブストーリー要素入ってるんだよなあ。すんごく切ないけど。

「でな!」はっとする。まだ神様のお話の途中だった。バチが当たってしまう。「西伊豆、行くんだよ、今週末。だからロケ地がどのへんだったか教えてもらおうと思ってさ」

聖地巡礼する予定だった、ということだろう。おぼろげな記憶しかないわりに、というか読んでもいないくせに、聖地巡礼とは……この神様のミーハー感がなんともらしくて、あっぱれである。

「でもこの感じだと、伊織より忍足のほうが詳しそうだな」
「西伊豆町浮島やったと思いますよ。あと、五輪館とか。あそこはたしか、泊まれるんちゃうかったかなあ」
「マジで詳しいじゃん、お前……」
「たまたま、知っとるだけですわ」

たまたま、という知識ではない気がした。おそらく神様も同じ感想に違いない。
どういうわけか、また忍足と目が合った。またドキッとして、逸らしてしまう。
目を見て話すことはいつもできるのに、不意打ちは、まだちょっと困るのだ。
忍足は目が大きいから、こうしていろんな女子と目が合っているのかな。そう思うと、ちょっと妬けてくる……。ったは、なに言ってんだか、わたし。

「ひょっとして忍足も、彼女を誘って旅行に行こうとしてたのか?」
「は? 高校生になに言うてんの」
「オレは週末、彼女と一発2日の伊豆旅行だ!」

そんなわたしの心の声など知るはずもない神様は、下品なことを堂々と言い放った。生徒の前だということが、わかっているんだろうか。いや生徒の前だから、あえて言っているんだろうか。どちらにしても呆れてしまって、わたしと忍足はしらっと神様を見た。

「バカなの……?」
「うん……やっぱ絶対、俺んが頭ええわ」
「お前らねえ……ノリが悪いよ、健全なんだろうな? 伊織はともかく、忍足は男子高校生だろ? 見た目が俺と変わんねえけど」

それには完全に同意するが、高校生だからそういう話題を止めるのが、いわゆる日本の普通の教師ではないだろうか。そして、それを健全と言ってしまっていいのだろか。まあ、間違いではないか。

「しれっと失礼なこと言うのやめてもらえます? サルと一緒にされたらたまらんわ」失礼なのは忍足も一緒だった。
「誰がサルだよ」
「アンタや、アンタ」

およそひと回りは離れているだろう男同士の悪態合戦に苦笑していると、神様がポンッと手のひらを拳で叩いた。なにかひらめいたのだろう、ということは見ていてわかる。
それくらい、古臭いアニメから出てきたようなポージングだった。

「ひょっとして忍足、伊織の前だからカッコつけてんのかー?」
「は、はあ?」
「お前、実は伊織と旅行に行きたいとか? お? どうなんだよー?」

神様はニヤニヤと、その年代にはあわない、完全なセクハラをしはじめた。
一方で、まるで小学生のようなその探りに、はっきりと胸が高鳴ってしまっている自分がいる。旅行に行きたいとまでは思ってなくても、忍足がちょっとでもわたしのこと、意識していたとしたら……。

「ちょっと先生、やめてくださいよ、そんなわけないじゃんっ」
「えー? 伊織かわいいじゃん、自信もてよ」
「そういうの、セクハラっていうんですよ!」

でもそんな自分を、悟られるわけにはいかなかった。わたしは咄嗟に冗談めいて取り繕う。
神様は相変わらずわたしをからかう。だから忍足の顔を見て、ねえ? と同意を求めると、忍足はふっと鼻白むように言った。

「アホか。こんな色気ない女、誰が誘うか」

その言葉は、ごくごく、冗談っぽく。まるで新喜劇でブサイクを売り物にしている女性お笑い芸人が、「ブス!」と言われているくらいの軽いノリで流された。
なにか言わなくちゃ、と思う。頭のなかの思考停止状態をなんとか回避したかった。この発言にまともにショックを受けて、動揺している場合じゃないよ、わたし。

「だ、誰が色気ないっちゅうねんっ」
「うわ、佐久間、関西弁ヘッタクソやな」

呆れるように笑った忍足に、空笑いで返すことしか、できなかった。





その日、家に帰ってからも、わたしは忍足の発言を何度も頭のなかでくり返した。
「こんな色気ない女、誰が誘うか」……思い返すたびに、胸がジクジクと痛みだす。そりゃ、忍足みたいな色気のある男からすれば、わたしのような女は色気がないだろうけど……。
納得する一方で、じわじわと涙がたまっていくことをやめられなかった。
それからというもの、わたしは忍足の近くにいるのがつらくなった。告白したわけでもないのに、間接的に振られた気分だった。
このところは毎日、カフェテリアに行ったり屋上に行ったりして、黙々と小説を読んでいる。小説の世界はわたしに切ない現実を忘れさせてくれる、最上の手段だった。
考えてみれば、最初からずっとこうしていればよかったのだ。高嶺の花に恋なんてするもんじゃない。どうせ振られるなんてわかっていたのに、少し仲よくなったくらいで、なにを期待していたんだか。と、そんなことばかり考える時間を、一瞬は忘れさせてくれるから。

そうした日常があたりまえになって、2週間が過ぎたころ。
体育館裏のベンチで、のんびりと小説を読んでいた昼下がりだった。

「ああ、やっと見つけたわ」
「え」

振り返ると忍足がいた。体育館からは、にぎやかな女子たちの声とバスケットボールが弾ける音が聞こえている。風がそよそよと吹いて、緑の揺れる音がする。そのおだやかな空気に音色たちにまざって、はっきりと聞こえてきた、忍足の声。

「探しとったんやで、佐久間」
「……どうか、したの?」

忍足がわたしを探すことなんてあるのか、と驚いてしまう。毎日のように教室で見る姿だけど、こうしてしっかり目を合わせて話すのは久々のことだった。もう、脈はないとわかりきっているのに胸がトクトクと音を立てていく。そんな自分が、虚しくもあった。

「自分さ」
「うん?」
「なんや、あるなら言うてよ」

真ん前まで来て、突っ立ったままわたしを見下ろしている。本から顔をあげて忍足の顔を見ているのも気持ち的に限界だったので、ぎこちなく首を傾げながら、わたしは本に視線を戻した。
なんか、怒っている気がする……。そして、なにを聞かれているのか、よくわからない。

「なあ、聞いとる? 俺の話」
「いや聞いてるけど……なにも、ないし」
「……よう言うわ。ずっと俺のこと避けとるやん」

素直に、ドキッとした。恋心のドキッではない。しまった、という意味のドキッである。
避けていることがバレないように、とてもさり気なく毎日を過ごしていたつもりだったし、朝の挨拶も帰りの挨拶も相変わらずしているし、必要なときは話しているのに、なぜか、気づかれてしまっていた。

「忍足……」

なにか言わなくては、と思う。避けてないよ、誤解だよ、なにマジな顔してんのー? と、いくらでも笑って対応できる……はずなのに。

「なにか用でもあったの?」

まったく質問に答えてない言葉だったことは、認める。
じとっと、忍足は呆れたようにわたしを見つめた。あの日、神様を見ていたような目で。
避けてないことを証明しようとして、なんとか我慢して見つめ合っていると、「はぁ」と頭上からため息が降ってきた。

「映画、行かへん?」
「え?」
「うちの姉ちゃんが会社の取引先から映画のチケットもらったらしいんやけど、忙しくて期間内に行けへんから、俺にくれたんや、2枚」

ん、と見せてきた映画のチケットは、ガリレオシリーズ作家の作品が映画化されたものだった。
急なお誘いに、目を見開いてしまう。

「これ、神様が聖地巡礼したやつの、続編?」
「ああ、そういやそんな話もあったな」なぜかむっつりと、面白くなさそうにつぶやく。やっぱりなんか、怒ってる? 「なんか関係あんの? それ?」

関係は、とくにないのだけど。続編という意味では、関係あるような……というか、なんでそんな不機嫌なのか、教えてほしい。

「……一緒にって、こと?」
「そら、2枚あるし、やで……」
「その……いいの? わたしで」

思い切って聞いてみる。誘われてるんだから、素直に「はい!」と答えればいいのに、頭のなかにずっと引っかかっている問題が、わたしを天の邪鬼にさせた。
すると忍足は、ゆっくりとわたしから視線を外した。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……そら、俺かて? もっと美人を、誘いたいけどやな」

どこに向かって話しているのか。急に斜め上にある木を見上げるようにして、忍足は言った。
もっと美人、ですか……それが本音なんだ。そうだよね、わたしでいいはずがない。

「でもこれ、佐久間の好きな作家やし、佐久間、行きたいんちゃうかなって思」
「行かない」にっこりと返した。
「え」
「忍足が好きな人と行ったほうがいいよ。その、美人で色気のある人と」心の嘆きとは裏腹に、どんどん、口端があがっていく。
「……そ、冗談やん。怒ってんの?」
「なんでわたしが怒るの、そんなわけないじゃん。忍足を応援してるんだよ、わたしは」

最後まで笑って、そう言った。なんだ、こんなに笑えるんじゃんか、わたし。自分で自分を褒めてあげよう。
本当に、怒ってるわけじゃなかった。
あのね忍足、わたし、こんな顔してるけど、泣いているんだ。だけどそれでも笑えたのは、すっかりふっきれたせいかもしれないよ。ふっきれスイッチがパチッとハマったような気がする、いま。美人を誘いたいって言った、あなたのおかげで。

「……さよか。ほな、これ1枚あげるわ」
「え、ほかの人、誘いなよ」
「ええねん。佐久間、ひとりで行きい」

こっちは神様にでもやるわ、とぶっきらぼうに言った忍足は、くるっと背を向けて、去って行った。





翌日、わたしは映画館に来ていた。
期限って1日しかないじゃん! と気づいたのは昨日の夕方である。平日だったので、放課後に急いで帰って、家族に「映画を見に行くから!」と乱暴に告げて、電車で40分と徒歩15分近くもかかる慣れない場所に来て(スマホのナビが無ければ絶対にたどり着けなかっただろう)、なんとかぼけっとひとりで鑑賞し終えた。
映画館を出たころには、夜も8時半を回っていた。
期限だけでなく、場所まで指定してあるとは。忍足のお姉さんはきっと、この面倒臭さにうんざりして忍足に託したんだろうと察しがつく。
それにしても、と思う。こんなに時間と手間がかかる映画観賞だったなら、映画の内容はいまいちだったけど、忍足の誘いを受けておけばよかったと、若干の後悔が襲った。
おまけに街灯が少なくて夜は暗いし、さっきから来た道を戻っているだけのはずなのに、駅前に近づいているとは思えないくらい、閑散としている。
ひょっとして、迷ってしまったんだろうか……そう思い、立ち止まる。スマホのナビを立ち上げているのに、迷うことなんてあるものか、と恨めしく画面を見直した。

「あれ……」

しかし、映画館を出てからしばらく歩いたはずなのに、わたしの位置を示すGPSポイントは映画館から動いていなかった。ああ、と頭を抱えてしまう。
これだから文明の利器は嫌なんだ。便利すぎるけど完璧じゃない。それは器械特有の性質だ。正確なはずだけど完璧じゃない。器械のくせに、そういう人間らしさを持っている。と、揶揄したところでポイントは動かない。

「どうしよ……」

方向音痴であることを自覚しているだけに、こんな夜に、しかも知らない街での迷子は不安をつのらせた。心細さも相まって、半分泣きそうになりながらその場にしゃがみこむ。
大丈夫だ、きっと帰れる。最悪、警察に行けばいい。でもその前に、悪あがきをしよう。
うだうだと考えながら、ほかのナビアプリを使ってみようとアプリストアにアクセスしたときだった。
ぽんっと、頭になにかが乗っかってきた。

「ひゃっ!」
「ほらな?」

あまりにびっくりして全身のバネを使って立ち上がると、目の前に、忍足がいた。その手が、そのまま頭のうえに乗っかっている。状況を把握するのに、数秒は時間が必要だった。

「お、忍足、なんで……」
「どうせこうなるんやから、一緒に行けばよかったんや」
「な、え……?」
「いかにも方向音痴の顔しとるで、自分」

いじわるな顔でこちらを見ている。頭に乗っかっている手が、ゆっくりと離されていく。
いま、忍足が自分に触れていたんだと思うと、言葉がうまく出てこなかった。

「期限、今日までやったから、俺も来てん。帰り道に佐久間見つけたと思ったら、全然違う方向に歩いていきよるで、大丈夫かいなと思ってしばらく追いかけたんやけど」やっぱり迷っとったんやな? と、笑った。

唖然としてしまう。
というか……どうせ忍足もひとりで来るつもりだったんなら、「神様にやる」なんて言わないで、もう一度、誘ってくれたらよかったのに……。

「も、もっと早くに声かけてよっ」
ええー……と、逆ギレ状態のわたしに非難の声をあびせて、「せやけど金曜やし、なんや近くでデートの約束でもしてんのかと思ったし」と、ぶつくさ言っている。
「そんな……い、色気もなくて美人でもないわたしが、そんな予定あるわけないじゃんっ」

口から出てしまった、子どもじみた嫌味。
こんなことを言ったら、根に持っていることがバレてしまうのに、知らない街で知っている人に会えた安心が胸に押し寄せて、しかもそれが忍足で……つい、本音を覗かせてしまった。

「ふっ……根に持ってんなあ、それ」ああほら、バレてる。
「別に、そういうわけじゃ……」

まあ、ええわ。と言って、忍足は歩き出した。付いていけば帰れるのだろうと思ったのだけど、さっきと進行方向が同じ気がする。道はこっちで、合っていたということだろうか?

「あ、佐久間って門限とか大丈夫なん?」
「え、あ、今日は、ちゃんと言ってきたから大丈夫」
「さよか。ほなせっかくやし、綺麗なとこ通って帰ろうや。ちょっと遠回りやけど」
「え、遠回りするの?」
「……あかん?」
「いや、いいけど……」

なんだかそれって、デートみたいじゃん……。やばい、変に緊張してきてる。
「ほな、行こうや」と少しだけ振り返った忍足の長い足。制服とは違う、ラフな忍足の私服。風に揺れる、綺麗な黒髪。やっぱりすごく素敵で、見とれてしまいそう。
そんな忍足と並んで歩ける嬉しさのほうが勝って、わたしは駆け寄るようにしてついていった。





「わあ、本当に綺麗……」
「せやろ。この季節やと寒くもないし」

夜が、その目を覚ましているような景色だった。
河川の先にはたくさんのビルが並んでいて、人々の日常を照らしている。でもその夜景はかなり先のほうにあったせいか、こちらの足元は暗かった。それが逆に、美しい。
長い線路のようにきらめくコンクリートの地平の上で、月だけが静かに、追いかけっこをするようについてくる。ただ歩いているだけで、心が満たされていくのがわかった。
それは、となりにいる忍足のおかげも、あるだろうけれど。
ここはまるで、教室の再現だ。忍足がとなりにいるというだけで、わたしは幸せな気持ちになっている。

「あっ、流れ星」

チラチラと斜め後ろから忍足を盗み見していたわたしは、急にあげられたその声にびっくりした。空を見上げていた忍足は指をさしてもいない。普通こういうときは、思わず指さしてしまうもんじゃないのかと思い急いで空を見上げたものの、なにも見えなかった。

「えー、うそ、見逃した……」
「願いごとせな、佐久間」
「え、だってもう見えないのに」
「ええねん、所詮、あんなものは塵やねんで?」
「え、ち、塵?」
「せや。宇宙からの塵が地球空間に衝突して光を放っとるだけや。そもそも星やないねん」

それに、見ようと思えば毎日見れるで、そんなめずしいもんとちゃう、と付け加えている。
こんなロマンティックな気分になっているというのに、ものすごく冷めたことをいう。
だけど、なんか言っていることおかしくない?

「あのー……でも、願いごとはするの?」
「ん、一応な」と、正面を向いて姿勢を正している。
「塵なのに?」
「塵やから、光っとるあいだやなくても、ええねん」

いや、そうじゃなくて……なぜ、そこまでけなしておいて、願いごとはするのだ。
なんだか変わった人だということには、なんとなく気づいていたのだけど、こんなにはっきりと違和感を覚える矛盾を見せつけられると、妙な気分になってくる。
それでも目を閉じて、両手を握りあわせて真剣な表情をしている忍足を見て、「やってみるか」という気になった。忍足って、なんか可愛い……。

「目、閉じた?」閉じた瞬間に、そう聞かれた。
「あ、うん」ちゃっかり、忍足と同じポーズだった。
「流れ星の願いごとって、長いほうがええねんて」
「え、一瞬しか光らないのに?」

お互いが両手を握りあわせて目を閉じて、まるでイエス・キリストに話しかけるようにしゃべっている。誰かに見られたらおかしな宗教だと思われそうだけど、幸い、周りに人はいなかったはずだ、目を閉じるまでは。

「せやから所詮、塵やって」だから、願いごとをしているくせに、その夢のなさはなんなのだ。「そんでな、その長い願いごとのあいだ、一度も目え開けたらあかんらしいわ」
「ええ、そうなんだ?」

忍足の矛盾めいた心情は置いといて、そんな言い伝えがあるのかと思い、ぎゅっと目を硬く閉じた。ひょっとしたら叶うかもしれないし、真面目にやってみよう。
まずは家族の安全と健康。それから、無事に大学に行けますように。あと毎日、美味しいコーヒーが飲みたい! あ、まって、そんなことよりも大事なことがあった。でもこれはたぶん、叶うはずないけど……。

「なあ、佐久間」
「えっ」
「どんな願いごと、してんの?」
「んっと……」

忍足とのことを願おうとしていたタイミングだったんだよ、とは、言えるはずもない。
というか、願いごとのあいだに話しかけてくるのはアリなんだろうか? それで効果が薄れたりはしないの? 所詮、塵なんだから効果もなんもないのかな。

「忍足って、しゃべりながら願いごとするの? すごいね」
「やって、願いごとしゃべったら、願っとるみたいなもんやろ?」
「ああ、まあたしかに」納得してしまった。いいのだろうか、これで。
「……そんで? なに願っとるん?」
「あー……え、えっと、家族の安全と健康、とかー」忍足と付き合いたいなんて、言えない。
「そんなあたりまえのことは、ええねん。ホンマはもっとあるやろ?」
「え、聞いといてそんなこと言う?」
「……言わへん気?」
「う、うーん」だから、言えないってば。

なんでしつこくそんなことを聞いてくるんだろうと思ったとき、忍足の声が少しだけトーンを落として、わたしの耳に注がれた。

「……その願いごとに、俺の名前とか、出てこうへんの?」

その言葉と一緒に、握りしめていた両手が、大きな手のひらに包まれた。
びくん、と肩が揺れる。あたたかい感触に、脳までもが、ぐらっと揺れた気がした。

「目、開けたあかんで」

言われなくても目を閉じているのに、目の前が突然、明るくなった錯覚を起こす。
目を開けたら心臓が止まってしまいそうで、息を飲むのも精一杯だ。
瞼の奥に、忍足を感じてる。ドクン、と心臓が波打って、チカチカとしためまいのような光がうごめいた。
だってわたしに触れているこの手は、絶対、状況的に考えて、まず間違いなく、忍足なんだから。

「お、忍足……?」
「俺の願いごとには、佐久間の名前が出てくんねん」
「え……」

忍足の体温が、すぐそこにある。声が、耳元で聴こえる。
まって、整理がつかない。

「な、なんで、わたし……?」
「佐久間の方向音痴が、よくなりますようにーとかな」

ドキドキ爆発寸前だったせいか、ずっこけそうなことを言い出した。
それでも、わたしの両手を包む忍足の手が、少しだけ震えているのが伝わるから、全然、笑えない。
忍足、なんで震えてるんだろう……変な期待、させないでほしい。ああ、でも……期待しちゃう、こんなことされたら。

「そ、それなら」
「ん?」
「わたしも忍足の名前、出てくるよ」
「へえ? 聞かせて」
「んっと、恋愛中毒みたいなレッテルが、消えますようにーとか」

はは、と乾いた笑いが、その吐息が、頬にかかる。
どうしよう、どうしよう。すぐそこに、忍足がいる。すごくいい香りが、風と一緒に漂ってくる。これが、忍足の香りなんだ……。

「俺、別に恋愛中毒とちゃうけど、違う中毒になってもうたみたいやねん」
「……どん、な?」
「その前にな、もう1個、願いごとあんねん。聞いてくれる?」
「う、うん」
「佐久間のこと……伊織って、呼べますように」

今度こそ、わたしは目を開いた。
そこには、大きく揺れている切なげな忍足の瞳が、じっとわたしを見つめていた。

「あーあ、目、開けてもうた」
「だって……いま、なんて」
「……伊織って、呼べますように」
「だ……だから、なんで、そんな願いごと、するの」
「そんなん、決まってるやん」
「きま、決まってるって……」
「俺が、伊織中毒んなってもうたからや」

ゆっくりと、包まれた両手が引き寄せられた。そっと離れて、それはわたしの背中に回った。忍足が、手だけじゃなく、わたしを体ごと包んで、ぎゅっと抱きしめてきた。
ぶわっと、胸のなかから愛しさがあふれだしそうになる。今度はしっかりと、忍足の香りが鼻をくすぐった。やばい、全身が、心臓になったみたい。

「忍足……」
「侑士って言うて。それも、俺の願いごとのひとつやから」
「そん、そんなの、いきなり、無理だよ……」
「なんでえ? 俺、伊織って呼ぶで」
「だって……興味ないって、言ってたくせに」

いつのまにか涙が頬を伝っていた。夜ごと身悶える心の叫びが、忍足の鼓動を感じて震えてる。目を閉じても、目を開けても、すぐそこに忍足がいる。忍足の香りに、包まれている。
信じられなかった。

「興味ないなんて言うてへん。色気ないって言うたんや」
「そ、そっちのが、ひどいし!」

体を少し離して、忍足を見つめる。困った顔した忍足の目が、あきらめたように俯いた。

「……しゃあないやん、お前、神様とイチャイチャしとったから。腹いせや」
「え……?」

神様とは、当然、あのエロ教師である神様のことだろう。
いつ、どこで、わたしが、あんな年上の男とイチャイチャしていたというのだろう、教えてほしい。

「伊織って、呼んどったし……」
「そ、それは担任だったから!」
「本の貸し借りしまくっとるとか……あとなんや、オレは伊織のことなんでも知っとるみたいな挑発、してきよったで、あいつ」
「……そ、挑発!? 考えすぎだよ!」
「俺、得意やないねん、嫉妬させられんの。ほんであいつめっちゃモテるし、伊織もひょっとしてと思ったら、気が気やなかったわ……」

やで、ちょっと、いじわる言うたんや。と、拗ねたような忍足が、じとっとわたしを見て、口を尖らせた。あ、また、この顔してる。
そういえば、この顔をはじめて見たのは、神様が「伊織」って言った直後だった……ような気もする。

「忍足……嫉妬、したんだ?」
「……何度も言わすな」

いつもクールな清涼剤でガチガチに固めたような忍足が、こんな顔をするなんて、思ってなかった。まるで、子どもみたいで。忍足って……やっぱり、可愛い。

「……神様に? わたしが神様のこと、好きだと思った?」
「思ってへんよ! けど、しゃあないやろっ。俺は伊織が好きやから……ムキんなったんや」
「ぷ……嘘みたい、あはは」

笑うなや、と、自分だって少し嬉しそうにして。
触れ合っている体が嬉しくて、また、涙が落ちていく。こんなにいいことがあるなんて、思ってもなかった。流れ星が塵だとしても、願いごとの効果は、意外と侮れないのかもしれない。

「ああ、もう今度は……泣きいなや。忙しいやっちゃな」わたしの頬の涙を、長い親指でそっと拭う。
「だって……」
「困ったときの神頼みやな。嫉妬はしたけど、これでも、感謝はしてんねん」

忍足も、神様に感謝してたんだと思うと、愛がどんどんあふれていく。
……わたしもだよ、忍足。あのきっかけがなかったら、こんなふうに話せてなかったもの。すごく、感謝してる、神様には。

「ねえ」
「ん?」
「ひょっとして、だからいろいろ詳しかったの? 映画、とか」
「あー……神様より、詳しくなったろ思て……伊織と、いっぱいしゃべりたかったから、な」
「そうなんだ……嬉しい」

同じ気持ちだったんだと思うと、顔がにやけていく自分を止められない。
おー? かわええ顔して。と、忍足はその頬を人差し指でつついた。
くすぐったくて、甘ったるい。思い切って忍足の目を見つめたら、忍足は「ホンマに、かわええ」とつぶやいた。ニヤニヤが止まらなくなる。めちゃくちゃ、照れくさい。

「な、知っとった?」
「え? いや、全然、気づいてなかったよ!」
「ああ、ちゃう。俺の気持ちやなくて、流れ星の話」
「え?」
「あれ、ほとんど嘘やで」
「はい!?」

一気に涙が止まったわたしを見て、忍足はクツクツと笑った。どこから嘘だったのか、もう見当もつかない。流れ星を見たところからだったら、どうしよう。忍足なら、やりかねないと思った。

「だまされやすいよな、伊織って」
「う……」
「俺の言葉も、全部まともに受け取って無視すんやもん。傷ついたわ」
「そ……ど、どっちが傷つけたと思って……!」
「ああ、堪忍やって、怒らんで。いま言うとることは、全部、ホンマやから」

そっと、忍足の手が、わたしの髪の毛を梳いていく。
遠吠えてしまいそうな愛の叫びが、また、全身に湧き上がってきた。ああ、大好きだ。
もう彼にこのまま溺れたら、絶対に抜け出せない。でも、溺れてしまいたい。胸の鼓動が、そう語っている。

「伊織は? 俺のこと、どう思っとる?」
「侑士……」

思わず、心の声が漏れた。どう思ってるかなんて、わかりきってるくせに。
侑士は名前を呼ばれたからなのか、嬉しそうに微笑んで。

「……お前、めっちゃ心得とるな。このタイミングで、願い叶えてくれるやなんて」
「呼びたくなっちゃった、から」

きゅっと、目を細めて。でもすぐに、真剣な目をして、わたしを見つめた。
ゆっくりと近づいてくる鼻先に、わたしの体がうずいていく。
やがて一刻の猶予も許さないと言わんばかりに、腰を抱かれた。

「俺と伊織のあいだに、言葉なんていらんって、いまわかったわ」
「……うん。そだね、侑士」
「せやけど、これだけは言わせて」
「うん?」
「好きや、伊織」

あとで、俺にも聞かせてな。
言い終わらずに唇に触れた熱が、東の月に照らされた。





fin.
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