いいわけ
素早い動きでボールを受けた。そのまま高くジャンプして相手コートに打ち込む。昔に鍛えた腕はまだ鈍っていないと確信を得てエンド・ラインのギリギリを狙ったスパイクは、それでも落ちなかった。
唖然とする暇もなく構える、が、その直後に受け止めたはずのボールはスポットを外れて右手首に当たり、大きく逸れてコートの外に飛び出した。
「ドンマイ伊織! レシーブ練習足りてないんじゃないのー?」スパイクを打ったばかりの選手が、遠慮なく冷やかしてきた。
「あーもう悔しいっ!」
試合終了の合図が鳴り響き、そのままコートに寝そべった。チームのみんなも、相手チームも全員が笑いながら「いい汗かいたー」と口々に、パラパラとコートからはけていく。こんな休日が、わたしにとっては最高のストレス発散だった。負けたって、気持ちいい。
「伊織、彼氏きてるよー?」
「えっ!」
大の字になっていたところに、チームメイトが声をかけてきた。慌てて起き上がると、体育館入口に精市の姿が見えた。チームベンチに置いていたタオルを持って、汗を拭きながら駆け寄ると、精市は涼しい顔で手を控えめに振ってきた。
「もう終わったの? 早かったね」
「うん、楽しかったんだけど、すぐに終わってしまってね」
「精市が強すぎたんじゃない?」
「まあ、そうだろうね」
少しだけ微笑んで頷く精市は、テニスになるとまったく謙遜しない。呆れるほどの負けず嫌いだけど、口先だけでは絶対に終わらせない強さを持っている。わたしはそんな精市が大好きだ。
「伊織は負けたみたいだね」
「ちょっと久々だったからー。見てた?」
「見てたよ。同じ球技だから面白かった。バレーボールも楽しそうだね」
「ふふふ。ね、こっちに戻ってきたら一緒にやってみようよ」
「へえ? 俺、負けないよ? いいの?」
「やったこともないくせにー、強気だなあ精市は」
「どんなスポーツでも、負けたくないからね」
汗を軽く流して着替えてから、デートをする。ここ3週間、わたしたちはそんなデートばかりしていた。
精市とは、付き合いはじめてもうすぐ6年目に突入する。高校で同級生として出会い、いつのまにか恋をして、わたしの大学卒業と同時に交際をはじめた。だけど、付き合う前も付き合ったあとも精市の拠点は海外で、1年の半分以上は海外で過ごしていた。だからなのか、恋していた期間も、恋が実ってからの6年も、あっという間だった。なかなか会えなくて、泣いて困らせたこともある。でもそんな時間も、もうすぐ終わりだ。
「伊織の手、すごく熱いな」
「今日、たくさんスパイク打ったからかも。ちょっとヒリヒリする」
「ふふ。大丈夫? おまじないしてあげようか」
「え、ちょ、精市……」
街中だというのに、つないでいる手をゆっくりと持ち上げて、そっと手の甲にキスを落とす。精市は、こういうことを平気でやる。あまり会えていなかった時間のせいで、わたしの心臓は6年経ったいまも、全然、慣れてはくれない。
「いけなかったかい?」
「いけなく、ないけど……恥ずかしいよ」
「恥ずかしがる伊織の顔が、俺は好きだよ。もうすぐ、ずっとこうしていられるね」
「もー、さらっとそういうこと言わないでー」
「素直じゃないね、伊織は」
そう。もうすぐ、ずっとこうしていられる時間がやってくる。今年28歳になる精市は、プロテニスからの引退が決まっていた。3週間前に帰国して、日本に戻るための生活基盤を準備していた。引越し先も決まったので、あと1週間後に海外へ行き、最終的なもろもろの解約を済ませれば、もうずっと、日本にいると決めてくれていた。そしてその開始時期も、交際6年目の記念日に、合わせてくれていた。どこまでも、わたしを甘やかしてくれる。
「一度も記念日に一緒にいることができなかったから」と、オンラインの画面越しで言われたときは、涙が止まらなかったっけ。
この6年間ほとんど遠距離状態だったわたしたちにとって、それは待ち遠しい以外のなにものでもない。この3週間だって、しょっちゅう精市に会えることが嘘みたいで、誰から見ても、わたしは浮ついていた。
「伊織、超ハッピーオーラだね」とバレー仲間にも言われるほどで、「もうすぐ春だから」なんて言い訳をして、ごまかしている始末だ(ごまかしきれてなさそうだけど……)。
「あ、ねえねえ精市。ああいうのやったことある?」
「ん? ああ、占い? あっちではポピュラーではなかったかな。日本ではずっと流行ってるようだね」
「ねえ、行ってみない?」
「え、行きたいの?」
「精市との相性、占ってもらおうよ」
「必要ある? 俺と伊織は相性ぴったりだろう? どれも」
「どれも?」
「うん。ふふ、わからないフリしてるのかい? それとも俺に言わせたい?」
「ちょ、もう、昼間っ!」
「素直じゃないね、やっぱり。かまわないよ、伊織が行きたいなら」
いちいち挟んでくる精市のセクシーな視線に耐えれなくて、わたしは彼の手を引いて、強引に占いのお店に入店した。
「あなた、隠しごとしているでしょう?」
「えっ」
「……なんのことだろう」
テーブルに並べられたいくつものタロットカードを見てから、占い師が精市に投げかけた。
(いろんな意味で)なんて恐ろしいことを言い出すのだろうと焦ってみても、もう遅い。普通、こういうところではいいことを言われると思っていた。いや、不穏なことも、たくさんのオブラートに包んでくれるものだと思っていたわたしは、すでに青くなっていた。
「そういう、タイプじゃないよね? 精市は」
「あらお嬢さん、でもカードは示しているの」煽らないでほしい。わたしというより、精市を。
「へえ。適当に選んだカードにその意味があったとして、俺が隠しごとをしていることになるのかな?」
「精市……」ちょっと、言い方がきつい。
「なるのよそれがー。あまりいい隠しごとだと思えないから、早いところケリつけないと、災いが訪れるわね。彼女、ここから1枚選んで」
「え、ああ、はい……」
だんだんと目の色を失くしている精市にビクビクしているわたしのことなどおかまいなしに、占い師はそう促した。この占い師は、精市が怖くないんだろうか。
「これ、かな」
「……あら、あらあらこれは……出ちゃったわね」
「え、え、なんですか?」
早いとこ終わらせて帰らないと、まずいと感じる。たかだか15分の予定なのに、ものすごく長く感じた。ああ、なんで占いなんてしようとか言っちゃったんだろう……だって予定では、相性ぴったりって言われて、テンションあがってランチに行こうと思っただけだったのに!
「あなたたち、別れたほうがお互いのためみたいよ?」
「出よう」
「えっ」
占い師がそう言った直後、精市がガタン、と席を立った。
優雅な春の日差しと店内に流れる音楽とは裏腹に、気まずい空気が流れていた。目の前に出されたパスタが喉に詰まりそうになるほど、精市の顔が怒っている。
「嫌な気分にさせちゃって、ごめん……」
「伊織が悪いわけじゃないだろう? いいよ」
「でも精市、怒ってる……」
「怒っているのは占い師にであって、伊織にじゃないから」
怒っていることは冷静に認めつつ、精市は魚介類のパスタを口にしていた。せっかくのデートなのに、自分の提案のせいで精市のテンションが下がってしまった(というか黒くさせてしまった)事実に、わたしは閉口するしかなかった。
「信じたわけじゃ、ないだろう?」
「え?」
「所詮、占いなんてあの程度だよ。誰が見たって俺たちは最高の恋人同士なのに、デタラメに出されたカードだけでいろいろと決めつけるなんて、全然ロジカルじゃない」
「そう、そうだよね」
言わずにいれなかったんだろう精市の正論を、黙って聞いた。よほどお怒りになっていることがわかっても、所詮の占いの結果にそこまで機嫌を悪くしなくてもいいのに、という本音は、なんとか見抜かれないように努力してみる。
すると精市が、わたしの顔を覗き込んできた。
「伊織?」
「うん? なに?」
「まさか俺と別れたほうがいいなんて、思ってないよね?」
「ま、まさか! 思ってないよ!」
「うん、それならいいんだ」
「全然、信じてないよあんなの。隠しごとのくだりだって、ありえないもの」
「……そうだね。俺が伊織に隠しごとなんて、するはずないから」
「わかってる。だから、ごめんねやっぱり」
「ん?」
「嫌な気分にさせて。でもわたし、精市のことは、誰よりも信頼してる」
勇気を出して、テーブルの上にある手にそっと自分の手を重ねると、ぎゅっと、想いをこめたように握り返してくる。いつだってこうした精市の優しさに、わたしたちは大きな喧嘩をせずにここまでこれた。きっとこれからも、ずっと穏やかな時間を過ごしていける。精市となら。
そんな想いが氾濫して、精市に小さく、声には出さずに「好き」と唇の動きで伝えると、彼は機嫌をなおしたように微笑んで、「俺も好き」と唇を動かした。
その、1週間後のことだった。
精市が海外での最後の用事を済ませるために出国する前日、いつものように精市とデートをしていると、カジュアルなジャケットを身にまとった男に、突然、声をかけられた。
ショウウィンドウのなかの綺麗なハイヒールに目を奪われて立ち止まっていた、そんなありきたりな瞬間だった。
「幸村選手ですよね?」
「はい?」
声をかけられた精市が、真横を見た。精市のプロテニスプレイヤーとしての人気は日本でもなかなかのものだったから、こうして声をかけられることは少なくない。でも、ファンならすぐにわかる。しかしその男は、楽しげな顔の奥に怪しげな光を漂わせていた。きっと精市も、その雰囲気には気づいている。
「幸村精市選手、ですよね?」
「……そうですけど。俺になにか?」
「ちょっとお話がしたいんですよ、いいですか?」
偶然見つけた、という感じではなかった。獲物を捕らえたような視線を送ってくる男は、どこからか尾けてきていたんじゃないか。直感的に、そう思った。
「……どんなご用件でしょう」
「ここではちょっとね。ああそれから、彼女は聞かないほうがいいかもしれないですよ」
「え……」
精市とわたしのつながっている手を見やって、薄ら笑いを浮かべている。
その雰囲気からして、あきからにいい話じゃないのは明白だった。全身に、鳥肌が立つような感覚が走る。
「どこかでお待ちになっていてください。お時間はそう、取らせませんから」
「いえ、彼女に聞かれてまずい話なんてありません。伊織、いいかな?」
「……精市がいいなら、わたしは」
「本当にいいんですか? 幸村選手」
「いいと言っているのが、あなたには聞こえないのかな」
わたしの同席を促し威嚇した精市に、その男はおどけたような顔で目を見開いたあと、わたしたちに見せるように名刺を差し出してきた。
「週刊プライベートの染谷です。よろしく」
先週といい、今週といい、喫茶店に入ると気まずい空気になっている。3人とも黙ったままの状態でコーヒーが出されたあと、「それじゃ遠慮なく」と言って週刊誌記者の染谷が出してきたのは、海外の一軒家を訪れる精市の姿が映された、何枚もの写真だった。
そこには、その土地に住んでいるのだろう、セクシーな金髪の女性も一緒に映っている。
なんなんだ、これは……。
「……これ」精市、という声が、驚愕で出てこない。
「これが、なにか?」
わたしの動揺とは真逆に、精市がごく冷静に記者を見ている。なんの怯みも見せないその姿に、少しだけ胸をなでおろした。
「この金髪美女、既婚者ですよねえ? 幸村選手」トントンと、テーブルの上の写真を突いている。
「そう聞いています」
「ベッドの上で?」
すかさず問い返した記者の質問に、ゾクッと、背筋に悪寒が走った。
まさか、精市が、そんなことするわけがない。
「なにをおっしゃりたいんですか?」
「帰国の1ヶ月ほど前から彼女の家に、旦那さんがいないときを見計らって通っている、あなたの姿ですよ? これ」
「だから?」
「これなんて見てください。彼女の手にキスでもするように、あなたの手が添えられている」
そのとおりだった。少しかがんだような格好の精市が、女性の手の先をわずかに握り、そこに顔を近づけている。このあいだわたしが精市から受けた、手の甲へのキスのポーズとまるで同じで、わたしが動揺したのも、この写真のせいだ。
いや、それだけじゃない。写真は精市を出迎える女性の嬉しそうな横顔と、優しい表情で彼女を見下ろしている精市の姿、そればかりだ。
「逢引でしょう、これ。どう見ても」
「知人の家に行くだけで、逢引になるんですか?」
「またまた。幸村選手、あなた、この金髪美人の家に週に4回も通っているんですよ? 知人しては行きすぎでしょう。普通なら迷惑だ。普通なら、ね」
週に4回、という言葉が、動揺に拍車をかけた。精市にだって、拠点に女性の友人がいることは百も承知だ。でも、週に4回は、あきらかに多い。この1ヶ月、わたしとのデートですら、週に4回もしていない。
「不倫、してらっしゃいますよね?」
「……」
「おっと、黙秘だ。ねえ彼女さん、だから聞かないほうがいいと言ったでしょう」
「……きっと、誤解です、これは」声が震えているのが、自分でもわかった。
「へえ。これを見ても、幸村選手が沈黙しても、そう言えますか。ずいぶんとお花畑な人なんですねえ」みっともないですよ、とつづけた。
その言葉にうちのめされた。浮気をされていることを知らなかったから、わたしはみっともないのだろうか。現実をつきつけられても誤解だと言い張るから、みっともないのだろうか。たぶん、どっちもだ。
この会ったこともない女性に、ひどく劣等感を覚えた。今日まで築いてきた、精市の彼女という優越感が崩れていく。それでも、精市がこんなことをするはずないという気持ちも、たしかにあった。付き合う前だって、数ヶ月に一度会っていただけの関係でも、精市は言った。「ずっと好きだったんだ」と。付き合ってからの6年間も、会えない日々が何ヶ月もつづいたことだってあったのに、今日まで別れることなく、ずっとわたしを離さないでいてくれている。だからわたしは、精市を信頼して……信頼している、はずなのに。
「それで?」
「はい?」
「ご用件はそれだけですか?」
精市の静かな声が、わたしの焦燥感を増長させていく。さっきからどうして、精市は言い訳もしないのだろう。彼は「不倫」という要素を除けば、すべて肯定しているような気がする。
「いま不倫は盛り上がるんでね。幸村選手はイケメンで日本でも高い人気でしたから、この記事はかなりの盛り上がりを見せますよ」
「早く用件を聞きたいと言っているのが、わからないのかな?」
「では単刀直入に。いいんですかこの記事、書いても?」
こういうことは、事前に聞いておかなきゃいけないもんでね、と、記者は世間話のように付け加えた。
この下世話な男が言い出そうとしていることが、なんとなく見えてくる。
精市にわからないはずがなかった。
「金で解決できますよ?」
「嫌な商売ですよね、ゴシップの記者って。恥ずかしくはないんですか」
「恥ずかしくないですねえ。事実を明るみに出すのが、私は快感でしょうがない」
「そうですか。じゃあ事実なんだから、書けばいいでしょう」
事実
――その言葉に、目の前が歪んでいく。どのことを言っているのか。与えられた材料の衝撃は、「不倫」だけに集中されているのに。待って……いま、精市は認めた、ということ?
「名刺はいただいておきます。こんな下品なゴシップ記事に、1円も払う気にはなりません」
「そうですか、それじゃ、遠慮なく」
そう言って、記者はテーブルの上に置かれた写真をさっとしまい、席を立ち上がった。
気が変わったらいつでも、という言葉を添えて、千円札を置いていく。颯爽と消えた男の行方を見守るように、長い沈黙が訪れた。
わたしは精市に聞かなきゃいけないことが、たくさんある。なのに、声がうまく出てこない。そもそも、これはわたしから聞くことなのか。精市から、説明すべきことじゃないのか。
「どういう、こと?」やっと出た声が、自分でも聞こえないくらいに小さい。
「……」
「精市……?」
「驚かせたね」
「そうじゃなくて……そういうこと、聞きたいんじゃない」
「……」
「精市、黙ってないで、なにか、言ってよ」
沈黙をつづける精市に、涙が出てきそうだった。はっきり言い訳をしてこない。それが、なによりもショックで、まるで、あの記者が言っていた「事実」を、認めたような気がして。
ごめん、と精市がつぶやく。
「いまは、なにも話せないんだ。時期がきたら、きちんと説明するよ」
「そんな……時期っていつ?」
「伊織……」
「ねえ、言い訳もしてくれないの?」
「俺はね、伊織」
「どうして、ねえ」
「……俺のこと、信じられない?」
そんなの、卑怯だ。
「だって精市……隠しごと、してるじゃない!」
うそつき、という心の叫びは、精市に向けられることがないままに……わたしは喫茶店を、飛び出していた。
『引退したら、ふたりの時間をゆっくり過ごせるね』
『ほら、これ、伊織とおそろいだよ。俺と伊織は、離れていても、一緒だから』
『伊織を抱きしめると、俺は強くなれるんだ』
『好きだよ、伊織』
『誰よりも、愛してる』
離れていても、いつだって笑いあって、語りあっていた。
会えば時間が惜しくって、部屋のなかでずっと抱きあって過ごすこともあった。
いまになって、こんなに長いあいだ恋い焦がれていた人を失いたくなど、ない。
もしあの記事が事実でも、精市を綺麗さっぱり忘れることなんて、わたしにできるんだろうか。
この2週間のあいだに精市から何度もかかってきている電話を、わたしは取る勇気がなかった。あの日の翌日に海外に経ったであろう精市に、ダイレクトに顔も合わせず、なにかを語られても、信じる自信がない。
あれから1週間後には、本当に週刊誌に記事が出た。発売日に購入して読んだ記事には、あのとき見せられた写真が派手に載せられ、外国人女性との情事がどのようなものか、品性のない文章とともに掲載されていた。それはあの染谷とかいう男、そのものだった。
彼の言っていたとおり、精市は日本に帰国する1ヶ月前から女性のもとに週に4回のペースで通い詰め、2時間ほど部屋で過ごしたあとに帰っていく。窓にはカーテンがされ、そこに見えるライトの明かりが、消されることもあったという。
まるっきりそのためだけの逢引は、彼女が既婚者であることが関係しており、加えて、日本にも恋人がいるという事実からしても、その体だけの関係は、幸村精市が引退し帰国することで終わるのだろう。と、締められていた。
「日本にも恋人はいる」という書き方に、それが事実とする文章に、苛立ちがつのった。日本の恋人の存在が事実であることは、誰よりもわたしが知っている。すなわちそれは、「海外にも恋人はいる」ということも、事実だと言われているようだった。
記事の内容を思い出しては、体中の水分がなくなってしまうんじゃないかというほど、泣いた。それでもまだ、涙があふれ出す。今日という日だから、仕方ないのかもしれない。
今日はわたしと精市が付き合いはじめて、6年目の記念日だった。
『一度も記念日に一緒にいることができなかったから、今年は必ず、一緒に過ごそう』
精市の優しい声。今日という日に合わせて、精市は帰国しているはずだ。本当にこのままでいいんだろうか。なにも言い訳してくれなかったのに、あんなに何度も電話をかけてきた彼を、一方的に遠ざけていいのだろうか。
その迷いの答えが、自然とわたしを動かしていた。気づけば、精市の引っ越し先のマンション前に来ていた。本当なら、今日の昼前には搬入されている荷物の荷解きを手伝って、軽くお蕎麦を食べて、それなりに部屋が片付いたら、お祝いにでかけるはずだったのに。
首が折れるほどそのマンションを眺めても、精市に会う勇気がでない。
そのときだった。正面から、優しい声の流暢な英語が聞こえてきた。その姿に、息がとまりそうになる。
そこに、精市と、あの写真のなかの女性がいた。すぐに、精市と目があった。一瞬で見開かれたそれが、わたしに駆け出してくる。これ以上は無理だ。この現実を、とても受け止められない。
「伊織、待って!」
靴が脱げそうになるほど走ったのに、強くつまかれた腕に、身動きがとれなくなる。つらくても、許してしまおうと思っていた心が、深い海底に突き落とされた。もう地上にあがってこれる気がしない。日本に、どうしてあの女性が……!
「離して! もう精市の顔も見たくない!」
その声に精市が怯んだ一瞬の隙に、手を強く振り払った。どれだけ後悔することになっても、もうかまわないとさえ、思っていた。
日本のお酒は、強い。
あまり飲めもしないくせにダイニングバーへ行き、ワインを注文する予定が、海外のお酒というだけで八つ当たりのような嫌悪感を覚えて、めったに口にしない日本酒を注文した。すっかり眠りこけてしまったカウンターで店員に起こされ、タクシーに乗り込む。
帰宅までのあいだ、あの染谷とかいう記者が投げてきた、「みっともない」という言葉が胸のなかにせりあがってきた。
どうしてこんなことになったのだろう、と思う。もちろん、遠距離は影響しているんだろう。付き合うころには大学を卒業していたんだから、追いかけて行けばよかったというのだろうか。付き合いたてで、そんな重たいことができるほど、わたしは強くない。
だからって、若い男がいちばん遊ぶだろう時期に、セックスの相手が目の前にいない現状では、無理もないことだったということだろうか。
……わたしだけに、触れていると思っていた。わたしに触れた手で、あの女性にも触れていた。わたしの精市が、ほかの女性を抱いて、それに応えるように、女性からも抱きしめられているのかと想像しただけで、胸やけがする。だけど、じゃあ、あんなにわたしにこれまで愛を囁いていたのは、いったいなんだったんだろう。
ああそうか、逆だ……うしろめたいから、優しくなる。浮気する男はそうなんだって、友だちが言っていたような気がする。
めまいが、しそうだ。
「お客さん、つきましたよ」
「ああ……ありがとうございます。領収書、いりません」
「忘れもの、ないようにしてくださいね」
はい、と小さく返事をしてタクシーを出た。振り返って、自宅マンションのエントランスに向かう。頭がぐらぐらして、いまにも眠ってしまいそうな体をなんとか奮い立たせて歩いていると、エントランスのすぐそこにある花壇の脇に、両手で頬杖をついて座り、じっとこちらを見ている人がいた。
誰だかすぐに気づいて、体が硬直する。あれから6時間は過ぎているというのに、彼はいったい、いつからここにいたんだろう。
「……ひとりでそんなに酔っ払うなんて、誰かに襲われたらどうするんだい?」
「精市……」
その姿に、立ち尽くしてしまったわたしに、ゆっくりと近づいてくる。いつもそうだ。この目に見つめられるだけで、身動きがとれなくなる。こんなときにまで、精市が愛しい。
「今日は一緒にいようって、約束したのに。ひどいな」
「なに、言って……」
「俺の連絡も、ずっと無視して……そんなことできるの、伊織だけだよ」
瞬間、体が揺らいだと思ったら、強く抱きしめられていた。
酔ってしまったせいなのか、それともずっとこうしてほしかったからなのか、抵抗もできずに、ただ涙だけが流れていく。どうしてこの人は、こんなに残酷なんだろう。許せないと思うのに、ほだされるわたしを、見透かして……。
「やめ……てよ」
「やめない。伊織を失いたくなんてない」
「だったら……!」
「最近、伊織の後ろ姿ばかり見ているよ、俺」
「え……」
「すごく小さくて、震えてて。その背中見るたびに、なんで? どうして? って、俺、ずっと心のなかで叫んでたんだ」
それを聞きたいのはこっちのほうなのに、どうして、精市がそんなことを言うの?
なにも説明してくれないじゃない。さっきだって、あの女性と一緒にいたじゃない。
なのにどうして、わたしは……精市に抱きしめられて、喜んでいるんだろう。
「やっと、言い訳できるよ」
「言い訳……?」
「今日、言うって決めてたんだ。だからあのときは、言えなかった」
「え……?」
「結婚してほしいんだ、俺と」
ぎゅ、と精市の腕の力が強くなる。あんな不倫騒動を巻き起こしておいて、わたしにプロポーズしてきている。困惑と疑惑で混沌とした頭のなかが、パニックを起こしかけていた。
「なに……言ってるの」
「誤解されて、伊織が電話に出てくれなくなって、でも海外には行かなきゃいけないし……。それも今日までだってわかっていたけど、もしものことがあったらって、ずっと不安だったんだ」
「……どういう、意味?」誤解だって、言った。
「こんなに愛してるのに、もしも失ってしまったら……そう考えたら、夜も寝れなかった。つらくて、つらくて、泣いてしまいそうだったよ」
こんな予定じゃなかったから、と、少しだけ体を離して微笑んだ精市が、わたしの左手を取った。ゆっくりと、薬指に口づけて、親指を滑らせた。ひんやりとした感触に、なにが起きたのか理解した。そこに、ダイヤモンドが光るシルバーリングが、こちらを見るように輝いていた。
「これ……」
「俺が伊織を裏切るはず、ないだろう?」
「でも、だって……」
「うん。まあ、俺だって伊織の気持ちが理解できないわけじゃない。だからきちんと、いまから言い訳をさせてもらうよ。はい、これ」
そう言って、足元に置いていたバッグの中身を弄った。ペラペラとした大きめの用紙を、そのまま見せられる。
顔面に掲げられたそれに、わたしは目を丸くした。またあの金髪の女性と、精市の記事がそこにあった。しかしそれは、先週発売された内容とは、まったく、中身が違う。一瞬で、それがわかるほどの大きさで、タイトルに『お詫びします! 幸村精市選手の不倫はガセでした!』と書かれている。
「は……はい?」
「書いてくれたのは、こないだの記者だよ」
「え、あの、染谷とかいう?」
「そう。俺が書かせて、さっきあがってきたばかりなんだ。帰国してすぐに、本当の事実を説明しに行ったんだ。来週の週刊誌に、載せてくれるようだよ。名誉毀損の訴えと引き換えに、ね」
バサッと精市の手から記事をもぎ取るようにして、わたしは記事を読んだ。
あの金髪の美女は、知る人ぞ知るフリーのジュエリー職人だと書かれていた。幸村精市は婚約指輪をハンドメイドするために、あの一軒家を訪れていた。デザインや石の埋め込みまで1ヶ月ほどかかる作業のため、何度もデザインを練り直したことも災いし、週に4回も通うことになる。職人の腕とセンスに惚れ込んだ幸村精市は、引退し帰国してしまうことで急を要していたため、職人に無理を言って発注したが、何度も断られた。しかし金髪の女性から「プロポーズして指輪をもらった彼女の反応を見せる」ことを条件に引き受けると言われ、このたび、彼女が初来日をしてきた。と、締められていた。
おまけに、カメラ目線でピースサインする女性と精市の写真まで、掲載されていた。ふたりとも、今日の服装だと、すぐにわかった。
「すごく……詳しい、記事だね」開いた口が、ふさがりそうにない。
「俺が書かせたからね。このあいだ出た曖昧で噂の範囲をすぎないデタラメな記事とは、わけが違うはずだ」
「精市……わたし」
「さっき彼女がマンションから出てきたのは、すっかりプロポーズを終わらせてると思って、プロポーズ直後の伊織の様子を見る予定だったみたいでね。職人やってると、指輪がその後どうなったか、見ることがなくて、少し寂しいそうだよ」海外の女性はアクティブだよね、とのん気な様子で言っている。
「そんな……」
「見れなくて残念だって散々叱られたよ。だから今度、見せに行こうか」
「それは……いいけど」
「それから伊織がいちばん敏感に反応してたハンドキスの写真は、もうわかるだろう?」
チュ、と薬指にキスが落とされる。そこからわたしを見上げる目が、どことなく、切ない。
「こんなキス、伊織にしかしない」
「……ひょっとして、デザインモデル的なものを、見せられてた?」
「うん、まあそんなところかな。正確には、何回目かの訪問のときに、彼女自身が自分でつくった婚約指輪を見せてもらっていた、だけど。俺が見せてほしいって、頼んでおいたんだ」
長い長い言い訳を聞いて、足から崩れ落ちそうだった。
そんなことなら、誤解を受けたときに、適当な嘘でもついてごまかしてくれてたらと思わずにはいられない。悔しくて精市をじっと見上げると、心を読み取ったかのように、精市がつづけた。
「あれ以上の隠しごとなんて、したくなかったんだ。伊織に嘘はつきたくないからね」
「……」変なとこで、真面目なんだから。
「でも、今日ははじめてふたりで過ごす6年目の記念日。一生に一度のサプライズだから、どうしても、今日まで言いたくなかったんだよ」
「もう……精市!」
「それに、伊織なら俺を信じてくれるって思ってたからね。誰よりも信頼しているって言ったわりに、まさか、あんな記者の言うことを本気するなんて、ひどいな、伊織は」
「だ、だって……」
淡々と、やけに饒舌に目を細める精市の怖い部分が、じわじわと出てきている。
この人に逆らったらなにをされるかわからないのは、もう十分すぎるほど理解はしているのだけど、その脅威はわたしに向けられたことがないだけに、変な汗が出てきそうだった。
「それで?」
「へ?」
「返事はくれないの? 俺をこんなに傷つけておいて」
それとも俺とは、結婚したくない? と堂々と言い放っている。
おかしい、傷ついたのは、わたしのほうだったはずなのに。すっかりペースに乗せられてしまっている。この漲る自信があったから、あえて今日まで、言い訳をしてこなかったのか。
一方で、「結婚」という言葉に、全身が幸せに満ちていくのを感じていた。
「し、したい」
「ん?」
「結婚……精市と」
「そっか。あんなに俺を無視したけど、結婚はしたいんだ」
「精市!」
「追いかけても、待ってもくれなかったのに」
「う……」
「話も最後まで聞かずに、喫茶店を飛び出して。裏切ってないってことだけでも伝えたかった俺の気持ちが、あのまま喫茶店に置き去りになっているよ」
「もうーごめんってば!」
いじわるな言葉なら湯水のように出てくる精市に、思い切って抱きついた。
わたしばっかり責められているのが、全然、腑に落ちなかったものの……たしかに信じなかったわたしが、少しは悪いような気もする。ほんの、少しだけど。
「ねえ、俺と結婚したいなら、キスして」
「え」
「早くしてくれないなら、取り消したっていいんだよ?」
「わ、わかった、するよ……!」
ゆっくりと、その頬に両手を伸ばした。視界に入る綺麗なダイヤモンドが、わたしを見下ろしている。時間をかけて、たっぷりの愛情をかけて、精市が作ってくれたんだと思うと、自然と涙が出てきた。
久々に触れる精市の肌に、胸の奥が優しくうずいていく。
そっと唇を寄せて、少し離してから、もう一度、触れるだけのキスをした。
「精市、愛してる」
「俺のほうが、きっと愛してる」
「もう、いじわる言わないで」
「ねえ、ところで伊織」
「うん?」
精市は口の端をあげてにっこりと笑って、わたしの頬を包んだ。
「なにしてるの? 全然、足りないよ」
おしおきと言わんばかりの、噛み付くようなキスが落ちてきた。
fin.
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