XOXO_06


6.


夜なのに薄いサングラスをかけて、その連中はやってきた。紺のスーツに白いシャツ。見た目は雑誌に出てくるちょいワルおやじの格好なのに、全身からカタギではないというオーラを放っている。人数は3人。店内に入ってすぐ、先頭をきっていた若そうな男が声をあげた。

「まいど。今日も流行ってるやんかお店ー」

あからさまな、しかもトーンがコテコテの関西弁。その口調からも、「普通じゃない」空気が漂っている。下品なガニ股で闊歩し、レジの前でギラギラと店内を見渡した。

「しぇ、シェフ……」

さっきまでテキパキと働いていた千夏さんが、怯えた様子で不二さんに助けを求めた。
わたしと香椎くんの席で料理を説明していた不二さんが、さっと足を早めて、彼らの前に立つ。

「いらっしゃいませ。申し訳ございません、本日は満席なんです」
「はあー? どこがや。ガラガラやないか」
「席はあるのですが、スタッフが足りず、お食事の提供に長いお時間をいただくため、ご満足いただけないと判断し、満席とさせていただいております」

不二さんがペラペラと理由を語った。次にヤクザが来たら、最初からそう言おうと決めていたのかもしれないし、いま思いついたのかもしれない。どちらにしても、さすがだなと感じる。
だが、その説明も虚しく、後ろのほうでやりとりを見ていたヤクザが声を発した。

「かまわんよ、時間がかかっても」
「……しかし」

いかにもな、兄貴っぷりだった。関西弁の高い音とは違い、落ち着いた、冷静な声。この男の合図で店の破壊が始まるんじゃないかと、最悪の予感が頭によぎる。

「かまわんと言っている。この店は、客を選ぶのかな? シェフ」
「……わかりました。千夏ちゃん、ご案内してあげて」
「シェフ……」怯えた目が、不二さんをじっと見る。
「5番テーブルにお願い」
「……は、はい」

異様な雰囲気に、お店のお客さんたちがチラチラと見ている。不二さんの判断はきっと失敗だったと思うのと同時に、店に入れないということで暴れだす可能性だってあることは、わたしにもわかった。警察に被害届も出していないと聞いているから、接近禁止命令も出ていないだろう。これは、苦渋の決断だ。

「なあ、佐久間」
「うん……」
「あいつら、コレだよな?」彼らには見えないように、人差し指で頬を切る仕草をしている。
「やっぱり、香椎くんもわかる?」
「ああいう連中はどんな服を着てても、見ればわかる」
「そう、だよね……」

香椎くんも、その独特なオーラに気づいている。香椎くんだけじゃない。ここにいるお客さん全員が、それに気づいているだろう。
せっかく不二さんが持ち直してきたというのに、なにか起きたらどうしようという不安が押し寄せた。
不二さん、前に彼らが来たときは暴れて、店のなかをめちゃくちゃにされたって言ってた。もし、またそんなことになったら……。

「ごめんね、伊織さん。説明の途中だったのに」

不安に目を泳がせて、おずおずと料理を口に運んでいると、不二さんが空いたグラスにワインを注ぎにやってきた。ほかのお客のことなど気にしている余裕はないはずなのに、プロ意識がそうさせている。

「不二さん……大丈夫ですか?」
「ん……」つらいに決まっているのに、無理に笑顔を見せる。「どうだろうね」
「前に、なにかあったんですか?」わたしと不二さんの会話に、香椎くんは不穏な空気を感じたようだった。
「……もうすぐフロマージュをお持ちしますから、赤ワインをサービスしますね」

香椎くんの質問には答えず、にっこりと笑った不二さんは、さっと背中を向けた。





「おー姉ちゃん! このワインうまいやんけ! もう1本追加するわ!」
「おい……同じのを何本も頼んでんじゃねえよ。違うの頼むだろうが、普通」
「あー? なんじゃコラお前、違うのも頼んどるやんけ! 文句あんのか!」

連中が着席し、オードブルが配膳されて間もなくだった。わたしのつくったワイングラスを掲げて、関西弁の男が大声で叫んだ。その右隣に座っている男も店中に聞こえる声で反応し、さらに反応した関西弁の男が、店中に響き渡るような怒号をあげる。
「仕掛け」てきた。そう思った。
直後、千夏さんが5番テーブルへ駆け出した。周りのお客さんが驚いて連中を見ている。
やっぱりそうだったんだ、こいつらの目的は、店の雰囲気をめちゃくちゃにすることだ。

「申し訳ございませんがお客様、少しお声を落としていただけませんか」頭を下げるようにした千夏さんが、いまにも泣き出しそうだ。
「あー? なんじゃ、おい。ワシの声がうるさいってかー!?」
「いえその……っ。ほ、ほかのお客様のご迷惑になりますので!」
「どんな迷惑か言うてみいや、おい。誰か迷惑かかっとんのか!? 手ぇあげてみい、迷惑やって思っとるヤツ!」

店内を見渡して、さらに声を強めていく。お客さんたちは一様に目を逸らした。
無理もない。こんな連中の諍いに巻き込まれたくないのは、当然の心理だ。でも、正義感が強い人はそれを簡単に乗り越える。

「あいつら……」
「香椎くん、ダメっ」

我慢ならないといった表情で、香椎くんが席を立とうとしたのを止めた、そのときだった。
パシャン、という破壊音とともに、ヤツらのテーブルのクロスに、赤ワインのシミが広がっていた。「きゃあっ」と悲鳴をあげた千夏さんが、恐怖でそこから一歩、後ずさる。
状況は見ればすぐに理解できた。ワイングラスを、関西弁の男がテーブルに叩きつけたのだ。

「誰も迷惑やないらしいでー? おー!?」
「お、お客様、おやめくださいっ!」
「あ!? 弁償か!? どうせ弁償やったら、これも割ったらあ!」

パシャン、パシャン、とつづけてテーブルの上にワインがぶちまけられる。
ほかの連中は、ニヤニヤとその様子を見ていた。空になっていたワイングラスが、無残に粉々になっている。
全身の毛が逆立っていく。我慢していたのは、ほんのわずかな時間だった。わたしのは正義感とは、ほど遠い。とにかく許せなかった。これ以上は、絶対に許せない!

「おい、佐久間っ」
「あなたたちっ……!」

わたしは勢いよく席を立った。怖さは忘れていた。香椎くんがわたしの腕をつかむ。その制止も無視して、ヤツらのテーブルに向かって行く途中だった。視界が突然、黒いコックコートに塞がれたのだ。

「お手洗いなら、あちらですよ、お客様」
「不二さん……っ」

優しく微笑んでから、不二さんはくるっと振り返った。ヤクザ連中のニヤニヤが最高潮に達している。
不二さんはその挑発には乗らない。冷静に、ヤクザを見つめていた。

「お客様、店内の食器を破壊する行為は、おやめください」
「はっ……お前んとこのウエイトレスの教育がなってないからやろうが! ああ!?」

パシャン! と、もう一度、これまでよりも大きな破壊音でまた割られる。ワイングラスが割れるたびに、店内のあちこちから、悲鳴があがっていた。ワインを何本も注文していた彼らの前には、ワイングラスが、全部で6脚並べられていた。その4つが、すでに破壊されたのだ。
それをほかの連中が咎めないことから、最初から予定されていたことなのだと理解する。最悪だ。こいつらは前に来店したときも、こんなことをしたのだろうか。

「なんか言うてみいや、シェフー?」
「こちらのグラスは……ですね」
「ああ?」
「このグラスがどないかしたんか?」

不二さんは少ししゃがんで、グラスの破片を丁寧に拾った。右の手のひらに、そっと割れたグラスを集めていく。名残惜しそうにそれを見つめて、不二さんはすっと立ち上がって、関西弁の男に、一歩距離を詰めた。

「なんやねん、おい、やんのか」
「前のグラスとは違うんです。なによりも、僕が大切にしているグラスなんです」
「はあ? 店の備品をか? 安っぽい宝物なんだなあ、ずいぶん」
「……どんな愛が、このグラスに込められているか、お客様のような方々には、おわかりにならないでしょうね」
「……なんやと?」

ドクン、と心臓がうねった。不二さんの静かな怒りを感じ取った。これ以上つづけたら、不二さんの身になにが起こるかわからない。
「不二さん」と声にならない声で、止めようとしたけれど、「やめとけ」と香椎くんがわたしの腕を引っ張った。
直後、いちばん冷静にこの事態を眺めていた兄貴分が、ゆっくりと立ち上がった。

「いまのは聞き捨てならないね、シェフ。お客様のような方々とは、やけに含みがあるじゃないか」

その男が、不二さんの前に立った。緊迫した空気が店内を支配する。
同時に、厳さんが厨房から出てきた。そちらを見ること無く、気配だけで感じとったかのように、不二さんが左手をあげて厳さんの歩みを制した。
シェフ、いけません。そんな厳さんの声が、いまにも聞こえてきそうだ。

「僕のつくった料理をめちゃくちゃにするのは、かまいません。ですが、このグラスだけは……」
「おい、お前……」

なにかに気づいた関西弁の男が、不二さんの手を見ている。緊迫の様子を見ていた全員が、それにつられて不二さんの手を見た。

「シェフ!」

厳さんの低い声が店内に響いた。わたしは絶句した。
不二さんの拳が、震えていた。そこから滴る血に、厳さんにつづいて「シェフ!」と千夏さんが悲痛な声をあげる。不二さんは、手に取ったグラスの破片を握りしめて、懸命に怒りを押し殺していた。

「不二さん、離して!」

頭がおかしくなりそうだった。わたしのワイングラスは、不二さんを傷つけるためにつくったものじゃない。
香椎くんの制止を振り払って不二さんに近づいても、彼はこちらを振り向きもしない。

「僕のために、ある人が一生懸命、いろんなものを犠牲にしてつくってくれたグラスです」
「不二さん、お願い!」わたしの声は、届かないですか?
「僕のいちばん、大切なものなんです。だからこれ以上は許しません。お代はいただきませんから、もう、出ていってください」
「シェフ! いけない!」

滴る血を見ていられなくて、厳さんがもう一度大きな声をあげたとき、仲間が騒ぐきっかけを与えたもう一人の男が、白ワインのボトルを持って、不二さんの頭に向かって逆さまにした。
ボトボトと、不二さんの全身に白ワインが注がれる。その様子を楽しむように、男は厳さんと千夏さんに告げるように言った。

「お宅のシェフ、熱くなってるみたいだから。冷やしてあげるよ」

思わず両手で口を塞いだ。なんで不二さんが、ここまでされなくちゃならないのだ!
怒りでどうにかなってしまいそうで、我慢の限界がもう一度襲ってきた瞬間だった。
わたしの後ろから、ヤクザ達よりもドスのきいた声が、店内中に響いた。

「そこまでだ。動くな」

ピタリ、と。その声に全員の動きが止まった。まるで魔法にかけられたかのように、動いてはいけないと体が反応している。目だけでそっとそちらを見たのは、不二さんに白ワインを流している男だった。

「……ま、マル暴だと!」
「なにやってんだ、お前らは、よう……?」

スキンヘッドの、あきらかに強面の黒尽くめのスーツが、こちらに向かってきていた。
現実とは思えないその様子に、全員が息をのむ。

「な、なんでここに、アンタが……」
「俺のかわいい義弟が、助けを求めてきたんだよ。わかってんのか、てめえら。これからしょっぴくんだぜ?」
「ま、待ちいや、ちょっとヒートアップしただけやんけっ」
「だからしょっぴくっつってんだよ!」

ヤクザ以上の怒号に、その迫力に、怯えた様子を見せたヤクザが絶句する。気づけば、わらわらと似たような強面の黒スーツが店内に数名、入ってきていた。
そしてその静寂は、香椎くんの声で終わりを告げた。

「遅いよ、義兄さん……」
「悪かったな一成、これでも急いだんだよ」

義兄さんと呼ばれたその人は、警察手帳をかかげながら、香椎くんに笑ってみせた。





「姉ちゃんの旦那でさ。はじめて会ったとき、すげえ怖かった。でも組対だって聞いて。俺には縁のない世界だと思ってたけど、こんなことで役に立つなんて、ホント……よかったよ」
「そう、だったんだ……ああ、それなら、最初から香椎くんに相談しておけばよかった」

ほとんどのお客さんがデザートまで済ませており、もう長居するような状況じゃなかったお店は、警視庁組織犯罪対策部、通称「組対」の方々の登場で閉店となった。
事情聴取のためスタッフの厳さんと千夏さんは警察へ向かい、不二さんは白ワインまみれになった体を拭いて病院へと向かった。
ヤクザ達が言葉どおりにしょっぴかれ、呆然としていたところに、不二さんは静かに通りかかった。

『不二さん、手が……!』
『うん、はは。バカだよね、頭に血がのぼっちゃった。伊織さん、怪我はなかった?』
『怪我してるのは不二さんです!』
『うん、そうなんだけど……僕は君のほうが、心配なんだ』
『え……』
『ごめんね。せっかくつくってくれたワイングラス、4つも割られちゃった』
『そんなの、いいんですよ!』
『心配いらないから、僕なら大丈夫。それと、香椎さん』
『はい、大丈夫ですか?』
『ご心配かけてすみません。伊織さんのこと、家まで送ってあげてください。今日は本当に、ありがとうございました』

深々と香椎くんに頭を下げた不二さんは、そう言って、パトカーに乗り込んで、病院に送られていったのだ。

「まあ、俺もそんな話、佐久間にしてなかったもんな。あいつらが店に入ってきたときに義兄さんに連絡しといて正解だった……不二さんはなんも言わなかったけど、なんかあったんだろ? 前にも」
「うん……そうみたい」
「最悪だな、マジで……大丈夫かな、不二さん」
「手……料理、できるのかな」
「まあ……そんなに深くは切ってないって、信じたいよな」
「うん……」

暗くなった帰り道に香椎くんに家まで送ってもらえるこの状況は、これまでのわたしでは考えられないハッピータイムのはずなのに、あのときの不二さんの様子が、頭から離れない。
いまにも壊れてしまいそうな不二さんを思い出すだけで、胸がぎりっと痛くなる。

「あ、香椎くんありがとう。わたし、この辺りで大丈夫」
「ん、そっか。今日はいろいろあったけど、ゆっくり休めよ、な?」

自宅マンション付近まで差しかかって、わたしは足を止めた。
これ以上、香椎くんに送ってもらったら、彼がかなり遠回りになることが気になったからだ。
香椎くんはいつもどおりに爽やかに笑って、気遣ってくれている。じんわりと熱くなる胸の鼓動が、少しだけわたしを落ち着かせてくれた。

「うん……あ、それと!」
「ん?」
「不二さんのお店、助けてくれてありがとう。本当に、ありがとうね」
「……ふうん?」
「え?」

これまでの香椎くんなら、「気にするなよ」とかなんとか言って、さっと背中を向けるだろうと踏んでいた。それが、「ふうん?」という疑問を投げかけられて、少し驚く。
しかもその瞳が、わたしをまっすぐ見ていたから。

「香椎、くん?」
「なんか、まだまだ付き合ってるて感じだな、不二さんと」疑問がそのまま表現となって、首をかしげている。
「え、ええ?」
「さっき別れたって聞いたけど、実際はどうなの?」

一瞬、ポカンとしてしまった。
え、そうだったっけ? わたしがそんなこと言ったっけ?
……ああ! 違う、そうだ、不二さんがそんなこと言ってた気がする!
段々とクリアになっていく、ヤクザが訪れる前の会話に、視界がまっさらになっていく。
そうだ、不二さんがどうしてあんなことをいきなり言い出したのかさっぱりだけど、でも香椎くんがフリーなんだから、わたしもフリーなほうが好都合なんだ。
それを知って、不二さんが気遣って、「別れた」と言ってくれたのかもしれない。

「うんうん、そう、そう、そうなの、別れた!」
「マジで?」
「うん、うん!」

力強く首を縦にふると、香椎くんは「そっか」と優しく微笑んでから、付け加えた。

「佐久間と不二さんには悪いけど、なんか嬉しいかも、俺」





日曜のランチタイム、昨日の今日で営業しているか微妙だとは思いつつも、『アン・ファミーユ』は、ランチの営業をしていた。

「こん、にちは……」

裏口からそっと店内を覗くようにドアノブを回せば、鍵が開いている扉が簡単に開く。搬入のときは鍵がかかっていて、やみくもにここを叩いたけれど、昼間見るとこの扉は結構もろくて、あのとき壊さなくてよかったと思った。

「伊織さん、どうした? 今日はお休みだったろ?」

厳さんだけが、その厨房にいた。ランチタイムだというのに、ゆったりとしている。
千夏さんはホールに出ているのか、姿が見えなかった。

「はい、そうなんですけど、ちょっと不二さんに用があって……」
「シェフなら事務所だよ。2階にあがるといい」
「そうですか、ありがとうございます」

おそらく、そんなに忙しくない月曜のランチタイムは、厳さんに任せているのだろう。わたしは遠慮なく、事務所へつながる2階へと足を運んだ。
やっぱり心配で来てしまったけれど、よかったのだろうか。一瞬、迷いが頭をもたげつつも、結局わたしは事務所前の扉をノックした。間もなくして、そっと扉が開かれた。

「あれ伊織さん……どうしたの? 今日はお休みだよね?」

扉を開けた不二さんが、不思議そうな顔をしてわたしを見下ろしている。
あの黒のコックコートはクリーニングに出しているのか、今日の不二さんは白いコックコート姿だった。

「はい。そうなんですけど……あの、やっぱり心配で」
「ふふ。心配はいらないって言ったでしょう?」
「だって……あの、手の具合はどうですか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。すぐに動くようになるよ」

包帯でぐるぐる巻きになっている手をかかげて、ニコニコと首をかしげる。そんな顔されても安心などできない。眉間にシワを寄せたまま不二さんを見つめていると、ひどく困った顔で、「入って」とソファに促された。

「左手だけでも、料理はできるんだよ?」マグカップを片手に、不二さんはわたしの正面に座った。
「本当ですか、それ?」
「最近は僕がナイフを持つこともそんなになかったし、味付けや最終チェックだけなら、片手でできるし。なにより、厳さんがいてくれるからね」だから安心、とつぶやいている。
「でも、日常生活に支障ありますよね……」
「多少はね。そんなの、すぐに終わるから」

そりゃあ何年もつづくわけはないのだけど、わたしのワイングラスを守ろうとしてくれた不二さんに申し訳ない気持ちになって、しょんぼりとしてしまう。

「あの、わたしなにかお手伝いできること……お店とかじゃなくて、普段の生活で、なんか、買い物とか、運転とか、しましょうか?」
「ふふっ。伊織さんって本当に、人がいいよね」
「だって不二さんが怪我したのは、半分わたしのせいだしっ」
「どういう解釈をすると、そんなふうにネガティブになっちゃうんだろう。でもせっかくだから、お願いしようかな」
「はい、なんですか? なんでもします!」若干、バカにされたようなネガティブのくだりは、流しておこう。昨日あんなことがあった不二さんを、詰める気にはなれない。
「ふうん、なんでもしてくれるんだ?」

と、思っていたのに。
キラン、と目が光るように、不二さんがいたずらな視線を向けてきた。案外、元気そうに見える。

「じゃあ、伊織さん」
「はい……」返事をしてみたものの、なんだか、嫌な予感がした。
「怪我が治るまで、僕と」
「僕と?」
「毎日、一緒に」
「毎日、一緒に……?」
「うん。お風呂に入ってくれる?」
「は……はあ!?」

ものすごい真顔で、とんでもないことを言う。
まともに受け取って大きな声を出すと、不二さんはまったく悪びれた様子を見せずにつづけた。

「髪の毛や体がうまく洗えないんだ。伊織さん、僕の体、洗ってくれない?」
「な、ふ、不二さん! こないだわたしが怒ったの、もう忘れたんですか!?」

わたしが言い終えたころには、不二さんはこらえきれないと言った様子で笑っていた。くすくすと。完全にからかわれているのはわかっていても、顔を赤くせずにはいられない。
なんでこの人は、こないだわたしにあれだけ怒られておいて、平気でこんなことを言ってくるんだ! まったく懲りてないんだから……!
このあいだのキスだって……結局どういうつもりだったんだかよくわかってないのに! やっぱり、性欲が募って、手頃な女が目の前にいてって、思ったのか。はっきり認めてはくれなかったけど、こんなプレイボーイ発言するんだから、見かけによらず、そういうことだよね、たぶん。
いつまでも笑って、「ごめんごめん、伊織さんがかわいいから」と子どもをあやすように言った不二さんに、反発する気も失くしてしまう。
だけど、不二さんの調子を取り戻しているともいえる空気感に、少なからず安堵した、そのときだった。
トントンと、控えめなノックの音が扉から聞こえた。

「ん、今度は誰だろう?」
「わたし、出ますよっ」
「いいよ、伊織さんはそこにいて。ふふ」

まだ笑ってる……と思いながら扉に視線を向けると、そこには見知らぬ中年の男性が立っていた。

「大家さん、お久しぶりです」
「久しぶりだね。おっと、来客中か」

わたしに気づいて、大家さんと呼ばれた中年の男性がバツの悪そうな顔をする。
わたしは即座に席を立った。大家さんなんだから、大事な話なのは察しがつく。不二さんにからかわれて、まともに反応している場合じゃないんだ。

「あ、わたし、席を外します!」
「ああ、いや、いいよ伊織さん。大家さん、彼女スタッフなんです。いても、いいですか?」
「いやあの、お邪魔する気はないんだ。今日はちょっと、これをわたしておきたくて」
「……これは?」

大家さんが、不二さんにカラーフォルダーを手渡した。まるで中身をすぐに見られたくないというような漆黒に、胸騒ぎがする。
不二さんが中身を確認したとき、会話していたはずの二人に、ひとときの静寂が訪れた。
やがて、長い沈黙のあとに聞こえてきた言葉に、耳を疑った。

「……退去、勧告」
「……すまない不二さん。さすがにもう、これ以上、うちのビルに変な連中がうろつかれるのは、困るんだ」

騒いでいた胸が、鷲掴みにされた。退去勧告……それって、この店舗から、『アン・ファミーユ』ごと、出ていけということだろうか。

「昨日も警察が来てたろ。近所のテナントが、黙ってなくてさ」
「……そう、ですよね」
「ちょ、ちょっとまってください!」

ソファから立ち上がって、大家さんに駆け寄った。
不二さんが悪いわけじゃないのに。不二さんが必死に守ってきたお店なのに。
ここにいられなくなってしまったら、不二さんの命が崩れていってしまう。

「伊織さん、いいんだ」
「よくありません! 大家さん、不二さんが悪いわけじゃないの、わかりますよね!?」
「もちろんわかってるよ。だけどこっちも商売なんだ、この店が立ち退かないなら、一斉に退去するって、近所のテナントたちから署名がきた。俺だってこんなことはしたくはない。でも不二さん、もうこれ以上は無理だ」
「……」返す言葉がないのか、不二さんが黙りこくる。
「そんな……」同時に、言葉に詰まった。大家さんが言っていることは、痛いくらいに理解ができた。
「退去まで、少し、時間をもらえますか?」
「不二さん!」
「ああ。90日は、問題ないよ。すまないね、不二さん」
「いえ。これまでの猶予に、感謝しています」

頭を下げた不二さんの姿に、涙がポタポタと落ちていった。
つらいのは不二さんなのに。わたしが泣いている場合じゃないのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。野瀬島が、近所のテナントにも手を出してきているんだろうか。推測どおり、あの男は不二周助というたったひとりのシェフに、戦争を起こしてきている。

「伊織さん、泣かないで。今日はほら、せっかくのお休みでしょう?」
「だって、不二さん……っ」
「帰って、ゆっくり休んで。僕のことなら、大丈夫だから」

不二さんはそう言って、わたしを事務所から遠ざけるように、そっと背中を押した。





「今日もぼーっとしてるな、佐久間」
「えっ!」

あれから3週間後の日曜日だった。不二さんの退去勧告を目の当たりにしてからというもの、わたしは仕事に身が入らず、師匠に毎日のように怒鳴られ、あげく納品期日もギリギリで、たまってしまった仕事を片付けるため、休日出勤していた。
あの日、不二さんから「そういうことだから、もうお手伝いは大丈夫だよ」と言われたことで、わたしは『アン・ファミーユ』に顔を出すこともできていない。

「香椎くんは、順調そうだよね」
「俺、ちょっとうまくなったと思わない?」
「うん、うまくなってるよ!」
「こうして佐久間の休日出勤に付き合うと、じっくりお前の技が盗めるからかな」
「あははっ。そんな技なんて言われるようなほど、すごいものじゃないよー」

香椎くんは、ときどきわたしの休日出勤をこっそり手伝ってくれる。今日もほかの職人たちの目を盗んで、こうして休憩中にやってきてくれるのだ。
このあいだのデートから(デートと、言ってしまっていいよね?)、とくに進展はないけれど、不二さんと別れたことが「嬉しい」と言った香椎くんに、ずっと期待している自分がいる。だって、それって、わたしがフリーになったから「嬉しい」ってことだよね? どうしよう。それが自惚れじゃなかったら、わたし、香椎くんと付き合えちゃったりするんだろうか。ずっとずっと、好きだったこの人と。

「でも最近の佐久間は全然、身が入ってねえのな」
「え」
「師匠に怒鳴られてばっかだし」
「う……」
「……別れても、やっぱり気になってんだな」

そのためらいがちな発言に、顔だけぶんっと香椎くんに向けると、彼は吹き出した。

「図星すぎた?」

不二さんのことを言っているんだとすぐわかる。男の人と付き合ったことがないわけじゃないけど、香椎くんがそんなこと言うのは、不二さんしかいないはずだ。

「ち、違うよっ」ていうか、付き合ってないんだってば最初から!
「まあ、元カレじゃなくても、大変なことになってんだから、気にはなるか」
「いや……その、ちょっとだけお手伝いしたから、ね! 元カレだから、とかじゃなくて!」元カレじゃないし!
「だな。……しかし引っ越し先とか、どうすんだろな?」
「うん……」

元カレと誤解されているのは、いまさら慌てていても仕方ないと諦めて、頭のなかは投げかけられた質問に比例して不二さんのことを考えてしまう。
……あれだけ自分のお店に命を吹き込んでいた不二さんのことだから、なんとかお金を工面して、移転するだろうとは思う。でもずっと馴染んできたお店を出ていかなくてはいけないというのは、深いショックにつながっているはずだった。
そのことを思うだけで、自分のことのようにつらくなる。看病したときによくわかった。彼は決して強い人じゃない。それも知っているから、とても心配だ。

「佐久間、さ」
「うん?」
「ずっと不二さんのこと、考えてるよな」
「え」
「ひょっとして、まだ好き?」

今日の休日出勤は、わたしの得意なワイングラスの製作だった。つまりかなり、慣れている作業だ。だというのに、『リン吹き』という、溶けたガラスに息を吹き込んでグラスの形に近づける作業に入った瞬間に、思い切り息を吹いてしまった。変形しまくった溶けたガラスが、歪にこちらを見上げている。

「うわ、めずらしい、佐久間が失敗してる」
「な、なんでそんな、そんなわけないじゃん」
「いや、別れても好きだってことはあるだろ?」
「好きじゃないってば!」だからそもそも付き合ってないのにっ!

動揺しまくっている自分には、十分に気づいていた。動揺していなければ、ガラスがこんな形になるまで息を吹き入れたりしない。存分に仕事に支障を与えるような精神状態だと思うと、わけもわからず困惑する。
わたしが好きなのは、香椎くんなのに、変な誤解されたままだから、こんなことに!

「こんにちは……」
「えっ」
「えっ」

とっとと作業をやり直さなければと思ったときだった。後ろからかけられた声に、わたしも香椎くんも勢いよく振り返ると、そこに、不二さんが立っていた。
なんでこの人は、いつもこういうタイミングで、そしてわたしが休みの日に、なのに休日出勤でいるときに、やってくるんだろうか。

「ふ、不二さ……」
「ごめん、びっくりさせちゃった? さっき事務所で、伊織さん、ここにいるって聞いて……あの、そのガラス、大丈夫?」
「え……あっ、ちょ」
「佐久間それ、まだリン吹き終わってない!」
「えっ……ああ、型にいれちゃった!」
「なにやってんだお前、どうしたんだよ」
「ごめん、邪魔しちゃったかな……」
「大丈夫ですよ、不二さん! こいつ最近、おかしいんです。それより、もしかして、またケーキつくって来てくれたんですか!?」
「あ、はい。よかったら。さっき事務所に寄ったときに、ほかの職人さんにわたしておきました」
「やった! 佐久間、俺、事務所に戻る!」
「……いってらっしゃい」

不二さんの登場がそのままケーキに変換されている香椎くんは、ほかの職人たちに食べられまいと、事務所に徒競走さながら戻って行った。
というか不二さんって、どうして日曜に来るんだろう。お手伝いしてたとき、調整のために何度かシフト希望、だしてたのに……。

「不二さん……」
「ごめんね伊織さん、急に声かけちゃったから」そのグラス、歪だね、と微笑む。えらく他人事じゃないですか。誰のせいだと思ってるんですか。
「お気づきじゃないみたいなんですけど、日曜日、わたし休みなんです」
「あれ、そうだっけ?」

なのに不二さんが来たときに限って、なぜか休日出勤しているわたし。
この関係に縁めいたものを感じて、ものすごく、複雑な気持ちになっていた。






工房から少し歩いたところにある公園のベンチに座って、不二さんはペットボトルのお茶と、お弁当を差し出してきた。

「え?」お弁当?
「うん、伊織さんにはお世話になったから。あ、ほかの職人さんたちには内緒だよ?」

人差し指を唇に当てて、にっこりと微笑んでいる。右手にはあの頃よりマシとはいえ、まだ包帯が残っているというのに。
どうやったんだろうかという疑問を持ちつつ、そっとお弁当を開く。開いた瞬間、いろんなことがどうでもよくなった。目に入れただけで美味しい彩りが、わたしの心をぐっとつかんだからだ。

「うわあ……すっごい、綺麗」
「ふふ。よかった。ああでも、今日は伊織さんお休みだったんだよね? たまたま居てくれて、本当によかった」
「はい、わたしも無理して休日出勤して、よかったです! いただきます!」

添えられていたプラスチックのフォークを手に、宝石のような料理を口に運ぶ。
口に広がってとろけるような食感と美味に、まるで『アン・ファミーユ』にいるような錯覚を起こしそうになった。どう見ても、目の前は廃れた公園なのに、料理だけでこんなに幸せな気持ちになれるなんて、不二さんってやっぱりすごすぎる。

「よかった。その顔を見ているだけで、満足できるよ、僕」
「もう、こんな美味しいものを毎日食べれる人は幸せすぎます!」
「じゃあ、僕は幸せものってことかな?」毎日、自分にまかないをつくっているからね、と付け加えた。
「でも不二さんは、口に入るものはなんだっていいんですよね? たしか」
「うん、よく覚えてるね」

首をかしげて、わたしをじっと見つめる不二さんは、本当に嬉しそうだった。
すっかり落ち込んでしまっていると思っていただけに、久々に見た不二さんが元気そうで、心底、安心する。きっと、新しいスタートが切れる準備ができたんだと思うと、わたしも笑顔が止まらなかった。

「食べながらでいいから、聞いてくれる?」
「はい、美味しいです!」
「よかった。それでね、僕、店をたたむことに決めたんだ」
「……えっ?」

持っていたプラスチックのフォークを落としそうになった。その言葉は一瞬にして、わたしの笑顔を奪っていく。『アン・ファミーユ』にいると錯覚していたわたしの目の前が、はっきりと廃れた公園になった。

「な……なんで、ですか」
「うん。もう、つづけていくのは難しいよ。移転したところで、あの連中は来るだろうし。そうしたらまた、その近所のテナントに迷惑がかかる」
「でも……!」

あの店は、不二さんの命、そのものじゃないですか!

「ダメです、不二さん」
「伊織さんなら、そう言うだろうなと思ってお弁当つくってきたんだけど、やっぱりごまかされないかな?」
「茶化さないでくださいっ。諦めちゃいけません! わたし、わたしになにかできることがあればなんでもしますから! あんなに素敵なお店を、不二さんの魂を、潰しちゃダメです!」
「……ありがとう。でも、もう決めたんだ」
「だって、だって不二さんは、プライド持ってやってきたでしょう? 妥協せずに、自分の料理を出して、それを食べてくれるお客さんたちの笑顔が見たくて、だからやってきたんでしょう?」

必死だった。不二さんの努力を知っている。わたしが知っていることなんて、ここ2ヶ月くらいしかないけれど、そのたった2ヶ月でも、不二さんにとって、あの店がどれだけ大切なものなのかなんてことくらい、わかっているつもりだ。

「うん、そうだよ。だから、たたむんだよ」
「不二さん……」
「伊織さんが教えてくれたんだ、僕に」
「おし……教えてくれたって……?」
「これは戦争なんだって、伊織さん言ったよね? 僕のプライドが高いのは、本当は弱いことだって知ってるって」

わたしがグラスを搬入した日だ。不二さんが、高熱をだして倒れたあの日。図々しく不二さんに説教めいたことを言った。あのときも必死だったんだ。壊れそうな不二さんを見て、黙っていることなんてできなくて。

「伊織さん」
「……不二さん、ダメですよ、諦めないで」
「お願いだからいまだけは、突き飛ばさないで聞いてくれる?」
「……え?」

刹那、不二さんが、ぎゅっとわたしの左手を、両手で包んできた。
右手に持ったままのフォークを、また、落としそうになってしまう。わたしの手に当たる不二さんの包帯だけがひんやりとしていた。それくらい、不二さんの手もわたしの手も、ひどく熱をもっていた。胸の鼓動が、ドクドクと音を立てていく。手を、こんなふうに握られるなんて、思ってもいなかったから。

「退去勧告されてから3週間、僕の料理を絶賛してくれた伊織さんのことを、ずっと思い出してた」
「ふ、不二さん……あの」
「どんなことがあっても、僕の料理を美味しいって。今日みたいに、大好きだって言ってくれる人がいる。実はそれが、お店をつづけることよりも、僕が絶対に守っていかなきゃいけないことなんだって、気づいたんだ」
「え……」
「フードトラック、やることにしたんだ」
「ふ、フードトラック……?」

それはあの、ランチ時によく都会で見かける、あの、キッチンカーのことだろうか。

「初心にかえって、いちから出直してみようと思う。僕にしかできない料理は、場所がなくても、そこに料理ができる環境さえ整っていれば、いつだってつくれるから」
「不二さん……」
「僕は戦争に負けた。それは僕が弱かったからだ。でも、僕は同じ相手に二度負けない」

真剣な目が、わたしをしっかりと捉えた。闘争心とも違う、復讐とも違う、不二さんの本気をそこに見た気がして、鼓動が、さっきよりも早くなっていた。

「フードトラックのシェフなんて、野瀬島に相手にもされないだろうけど。でもそれが、勝つってことなんだと思う。僕だけの力で、僕がたくさんの人を料理で幸せにする。それが本当に大切なことだって気づかせてくれたのは、伊織さんだよ。だからもう、ごめんね、は言わない。ありがとう」

希望に満ちた不二さんの目に、力強い光を感じた。それと同時に、そっと不二さんの手が離れていく。お店が消えてしまうのはつらい。だけど不二さんは、考え抜いて前を向こうとしていた。
はじめての経験だった。こんなに美しい人を、見たことがない。いままで見たどんな人よりも、不二さんが輝いて見えた。

「あ、でも最後に、ひとつだけ、ごめんね」
「へ?」
「キスのこと……ちょっと、変な誤解されちゃったままになってるけど」
「そ……それは、もう、別に、いいですよっ」

このタイミングであの日のキスを思い出させてくる不二さんに、体温があがっていく。
なんだろう、この感じ……すっかり香椎くんといい雰囲気で盛り上がってるのに、急にソワソワしてきている。どういう感情? 自分でもよくわからない。

「それでね、伊織さん」
「まだ、なにかあるんですか?」

おかしな焦燥感に苛まれて、つい、強く言い返したわたしに、不二さんはなんとも思っていないような顔で微笑んだ。

「うん。最後のアドバイス」
「え」
「香椎さん、伊織さんのこと好きになってると思う。だから、頑張ってね」

ぎゅっと締め付けられた胸の痛みに、息が苦しくなっていった。





to be continued...

next>>07
recommend>>ビューティフル_06



[book top]
[levelac]