ボイル_01


1.


風に揺れて漂うキンモクセイの香りに、秋の訪れを実感する。蒸し暑さがうすれて澄んだ空気になるこの季節が、わたしはとても好きだ。
あと1週間もすれば、大好きな彼の誕生日だと思うと、自然と浮き足立つ。
怒涛の日々だった、あのめまぐるい居候生活を終えてから、早いもので3ヶ月が過ぎていた。

「いいか? はじめのAの点を0とする。そこから時計回りを正とする数直線を考えるんだ」
「ん? んー、うん、なんとなくわかる」
「そしたら?」
「そしたらー……」

ノートの端に、景吾の綺麗な指先で正八角形が描かれ、その頂点にAからHまでのアルファベットが書かれていた。Aの真下にPと書き、手のひらに5セントコインを乗せている。

「コインの表裏が出る確率は2分の1。コインを投げる」
「ふむ……」

ピン、と様になるポーズでコイントス。パッと開かれた手のなかのコインは表だ。

「こうして表が出ればこの点Pが反時計周りに……つまり点Bに。裏が出れば点Hに移動」
「問題に書いてあるとおりだね」
「そう。つまりここで指す事象Sはその操作を10回行い、点Pが点Aにあること。その確率を求める。事象Sが起こるのは、この数直線上で見れば−8か0か8だ。10回のうちr回、表が出るとすると……」

問題の全文を説明するのは活字の無駄遣いになるので割愛するが(ん? なぜ活字なんて言葉が出てくる)、要するにとんでもなく難しい問題を、景吾に教わっていた。これだから、数学は嫌いなのだ。
景吾がいろいろと説明してくれているものの、その頭のよさや顔の美しさや仕草のイケメンっぷりが邪魔して、まったく頭に入ってこない。
いや、これが景吾じゃなくても入ってないのかもしれないけど、とにかくはかどらない。

「よってk=−8のとき、r=5+4=9。k=0のとき、r=5……おい、伊織」

5と4を足したら9になるってことくらいはわかる。そんなことを考える自分が虚しい。
よく氷帝学園でやってこれてるなと思う。もうすぐ中間試験なのに、こんなことで大丈夫なんだろうか。

「おい、聞いてんのか」
「あ……ごめん。ねえ景吾、ちょっと休憩したい」
「はぁ……別にかまわねえが、お前、ちゃんと頭に入ってんのか?」
「んー、入ってない」

景吾の部屋で、誰もいないのをいいことに、目の前にある胸に抱きついた。
勉強を教わりにきているのに、いつもこうしてふしだらになるわたしを、景吾は笑ってくれるから。
そっと頭を撫でるように触れてくる手の優しさが、全然、勉強のことなんか考えさせてくれない。

「ったく、お前はここに、なにしに来てんだよ?」

そんな言葉とは裏腹に、口調だって優しい。3ヶ月経っても落ち着くことのない胸の高鳴りに自分で照れながら、わたしはそっと景吾を見上げた。
わたしがそうすれば、景吾はいつも右手で頬を包んでくれる。徐々に近づいてくる鼻先に、頭のなかが溶けそうだ。

「そんなに顔近づけられたら、勉強する気なくしちゃうもん」
「どっちが誘ってきてんだよ」

いじわるな微笑みで、その寸前で景吾はわたしの唇に視線を落とした。少しでも動けばくっつきそうなのに、いつだってその瞬間、焦らしてくる。
7歳のころからずっとわたしを見てきたはずの景吾は、いったいどこでこんな技を身につけてきたんだろう。でもそんなのどうでもよくなるくらい、全身がうずいていく。

「伊織」
「うん?」
「どうしてほしいんだ? 言えよ」

ああもう、死んじゃいそう。そんなセクシーな目でわたしを見つめて、わたしが言うまでしてくれない気だ。
言うのは恥ずかしい。ちょっとだけ。だからこちらから唇に触れようとしたら、ふっと笑って少し顔を離されてしまった。

「おっと」
「うう、もう、いじわる……」
「ちゃんと言ったらしてやる」

なんという焦らしプレイ。
景吾だから似合う、なんて思うわたしは絶賛、発情している。いまさらそれは否定しない。

「……キス、して」
「……仕方ねえから、とびきりのをしてやるよ」

満足そうに微笑んで、甘いキスが落ちてくる。
何度も確かめるように、チュ、チュとくり返されるその音に、また全身がうずきだす。胸も腰も密着が深くなるのと同時に、キスも深くなっていって、いつもこの瞬間、わたしは景吾の首に手を回して、求めるあまり、吐息を漏らしてしまう。
ああ、景吾……もうどうにかなっちゃいそう。景吾なら、わたしこのまま……いいんだよ? ここ、ソファだけど……。でも、景吾ならいい。

「満足か……?」
「う……ん」

って、思っているのはわたしだけ。悟られないように、微笑んだ。
景吾はいつものように体を離して、「よし、じゃあ続きをやるぞ」と机に向き返った。
……満足、ではない。でもそんなこと口が裂けても言えないので、黙って勉強に戻った。
なんだかんだと言いつつ、家庭教師状態の景吾はわたしの成績を確実にあげてくれていた。
この人に試験なんて必要なのかと思うほど、どんな問題でもお茶の子さいさいである景吾には、いつだって死角はない。
よく考えたらこんなハイパーイケメン御曹司がわたしの彼氏ってだけでも、どうかしているのだ。そう、あまり贅沢なことを言っちゃいけないと思いつつも、それでも付き合っていればそれなりに欲も出てきてしまう。複雑な乙女心である。

「ねえ景吾」
「ん?」
「あと1週間だね、誕生日まで」
「ああ……あの地獄みてえな日な」
「え?」
「正直、仮病を使って欠席したくなるほどだ」
「ふふっ。モテる男は言うことがちがーう!」

笑いながら言ってみたものの、無理もない、と思う。
毎日バカみたいに女の子たちから追いかけ回されている景吾だけど、誕生日は1年のなかでいちばんバカみたいに追いかけ回される日だ。今年はそれが木曜日にやってくる。週のなかでいちばん疲れが溜まる日に、疲労が加速されてしまう。

「景吾、なにがほしい?」

本題の質問に入ると、計算式の手を止めて、景吾はじっとわたしを見つめてきた。
や、ちょっと……もしかしてそれ、「お前がほしい」とか言ったりする? ちょ、やだ景吾やだー! もうもうもう、それならそうと早く言ってよー!

「なにニヤニヤしてんだお前」
「え」

よく見たら、全然そんな感じじゃない。あげく、わたしのはしたない顔に怪訝な顔をしている。

「なにもいらねえよ。夕食後に一緒に祝ってくれんだろ? それだけで十分だ」
「あ、そ、そっか。まあ景吾は、ほしいものは持ってるもんね」
「……3ヶ月前には、本当にほしいものも手に入れたしな」
「え……」

シャープペンシルを握る気配もないわたしの手を、そっと握って、微笑んだ。
本当にずるい、この男だけは。

「言わせたかったんだろ? 俺に」
「そ、違うよっ」
「満足か?」
「違うもん……でも、嬉しい」

チュッと、かわいいキス。いつだって景吾は、わたしの胸をときめかせる。
だけど……そろそろだ。
時計を見るのと同時に、扉の外から、ノックの音がした。やっぱり今日も来やがったと思うと、幸せだった高揚感が、一気にじっとりとした雨林のように変わっていった。
「どうぞ」という景吾の声に、いつもなんのためらいもなく開かれるあの扉の向こうに、ここ最近のモヤモヤするすべての原因が詰まっている気すらする。

「景吾さん、そろそろお時間です」

とんでもなく綺麗な顔が扉を開けて、わたしと景吾を見つめている。
たしか21歳。跡部財閥のインターン。そしてどういうわけか、この女の出現から、わたしは夕方7時にはこうして家に帰されるのだ。

「ああ、わかった。じゃあ伊織、つづきはまたにしよう」
「うん……」

勉強じゃなくてほかのつづきをしたい、とは言えない、もちろん。
いつも、この女が邪魔してくる。別にうちは門限なんかないのにっ。

「それと今日から、1週間お世話になります」
「アーン? その挨拶は朝、聞いたぜ?」
「一応、伊織さんにもお伝えしておこうと思いまして。景吾さんの大事な方ですから」
「あはは……あー、ご丁寧に、どうも」
「それでは伊織さん、またいらしてくださいね」

本気で思ってないだろ、と言えたらどんなにせいせいするか。
やっぱり、満足では、ない。いやこれはもう、確実に。
……不満だ!





「えっ、1週間の研修期間で、泊まり!?」
「そー」
「それってまるっきり……」
「そー……まるっきり3ヶ月前のわたし」

教室の机にうなだれて、親友の千夏に相談していた。
約2週間前に現れたあの女のことだ。2週間前に嫌な予感がして、すでに彼女の話はしていたものの、跡部財閥のインターン研修で1週間の跡部邸への宿泊が決まったと知らされたのは一昨日のことで、昨日は千夏が欠席だったため、いまはじめてその事実を聞いて驚いている。

「なんでそんなことすんの? 跡部財閥、頭おかしくない?」前の席に座っている千夏が、まるごと体をこちらに向け、不思議そうな顔をしている。
「金持ちの考えることなんか、わっかんないよ。でも優秀なインターンなんだって。で、秘書室で偉い人のお付きになるから、メイドとしてマナーとか学ぶらしいよ」
「あんなイケメン男子高校生がいる家に、21歳の女を放り込むかね、普通。しかも美人なんでしょ?」
「抜群に、ね」

わたしですら、あの1週間を終えてから、景吾の家に泊まったことなんてない。
というのも、誠実な景吾のおかげで、すぐに両家の親にはバレてしまったせいだ。いやバレたっていうより、景吾が挨拶に来たから。
そんな状態で泊まりなんて許されるはずがない。だから景吾とは、キス以上の進展はないままで……それどころか……。

「まあでも、伊織は彼女なんだし、自信もちなよ」
「もてないんだよ最近。あんな美人とひとつ屋根の下だし、景吾はあれきり……」
「あー、あの土壇場で起こしたようなキスもしてこないんだっけ?」
「……はい」

なんという恥ずかしい相談をしているのだと思いつつも、付き合って1ヶ月後にはその胸のうちを吐露していた。
そりゃあ、あのときにしたキスは、犯人を興奮させるためにわざわざしたんだってわかってても、1回したんだからいいじゃん、2回や3回あったって。そりゃあ、そうなったらもう、あんなキス、そのままアッチになだれ込むだろうけど……いいじゃん、付き合ってるんだから。

「自分から舌いれちゃえばいいじゃん」
「なに言ってんのー!? そんなことできるわけ」
「だって彼女なんだから、したっていいでしょうよ」
「そりゃ彼女だけど……! 景吾が一度もしてこないのに、そんな……」
「まー、清楚ぶっちゃって!」

千夏の大胆な発言に頭を抱えてしまう。そらアンタは長いこと付き合ってる彼氏がいるから余裕でしょうけど、こっちはまだ3ヶ月しか経ってないんだってば!

「はぁ……景吾はわたしじゃ勃たな」
「おい、さっきの清楚どこいった」
「……わたしじゃ魅力ないのかな」
「変換が遅い」

相変わらずのバカな会話だと思いつつも、結構、真剣に悩んでいる。
あげくあんな美人がやってきたんだから、余計にその不安が募る。あの美人は、わたしのような小娘に比べたらものすごくセクシーだし、それだけならまだしも、

『景吾さん、いくら大事な方とはいえ、試験前のお嬢さんを遅くまでお引き止めしてはいけません。親御さんも心配なされます。伊織さんがいらしているときは、19時にはお声がけするようにします』

とかなんとか言って、どういうわけか「それもそうだな」とか言った景吾の天然が発揮して(うちの母が怖かったんだろうか)、わたしはここ2週間、いつ遊びに行ってもその時間には帰される。
アンタになんの関係があるってのよ! わたしと景吾を引き裂こうとしてたら許さないんだからっ。

「ていうか財閥のぼっちゃんのプライベートにまで口つっこむってどうゆう了見よ!? あとずっと思ってたけどメイドなら『景吾様』だし『伊織様』でしょうが!」
「……ちょ、伊織。心の声、全部、出てるよ。脈絡おかしいもん」
「あ……ごめん」たまにやる、わたしの天然。人間には誰にも、天然な部分があるものだ。
「まあ、通じるけどさ、なんとなく」千夏にはだいたいのことは話しているから、理解できるらしい。「だけど、大丈夫だって!」
「大丈夫やって」

励まされたと思っていたら、関西弁が聞こえてきた。ユニゾンさながらの低い声に目をやると、いつのまにか机の真横に忍足が立っている。この感じ、懐かしい……。

「また忍足か」千夏が呆れている。
「またってなんや、またって。相談にのったろ思て来たっちゅうのに」

と言いつつ、委員会のプリントを千夏にわたした。大嘘つきめ。
仕方ないのでボケに便乗してやろう。

「誰がアンタに頼んだのよ、誰が」
「アレやろ? インターンの人の件やろ?」
「……」こいつ、やっぱ天才。
「すごい、忍足ビンゴ!」
「俺はなんでもお見通しやねん」

卑猥な部分は聞かれてなかったんだと安心する。
忍足は相変わらず夜8時頃になると頻繁に跡部家に出入りして夕食をあさりに来るらしい。
だから知っているのだと合点がいく。ていうか、なんで忍足は帰さないわけ、あのインターン。

「昨日から1週間、居候らしいからなあ。誰かさんにそっくり」
プリントを受け取って千夏がたずねる。「忍足も知ってるの? そのインターンの美人さん」
「いや、俺はまだ会ったことないんよね。まあこれから1週間もおるならどっかで会うやろけど」

なるほど。忍足にはまだ会ったことがないのか。だから帰すも帰さないもないわけだ。
まあ、それなら許してやるか。いや、何様だよ。いや伊織様だよ! 伊織さん、じゃなくて伊織様って呼んでみろ!

「せやけど佐久間、安心しいって」
「なにが」
「跡部はお前にゾッコンやないか。その辺の美人きたってそんな、なびくような男ちゃうで。ああ見えてピュアやって言うたやろー?」
「あたしもそう思う! 忍足いいこと言うじゃん!」

忍足も千夏も、あの女を見ていないからそんなことが言えるのだ。
わたしは黙ってスマホを取り出した。黙々と検索する。この検索をしたのは、二度目だ。

「自分、俺の話きいとる?」
「伊織ってこういうとこあるから、忍足」
「ちょお跡部以外に冷たすぎへんか?」
「正直な子なの。ていうかあれ以来、跡部バカなの。許してあげて」

さり気なくわたしに悪態をついている二人に向かって、わたしは押し黙ったままスマホを掲げた。そこに写るは……。

「なにこれ? 新人女優? すっごい綺麗」
「うわ、めっちゃべっぴんさん。誰これ?」
「噂のインターンですよ」
「え」
「え」

ポカンとした二人に、わたしは目を細めた。そうだろう、これを見ても大丈夫と言い切れますか、あなたたち!

「大学の、ミスキャンパス……」
「やけど……ミスキャンパスにしては、美人すぎるな」
「そうそう、ミスキャンパスってなんかこう、女子アナのイメージ」
「いやそら、最近の女子アナもみんな美人揃いはそうやけど……」

そうでしょう、そうでしょう。いいですか? 生で見たらもっと美人なんですよ。
今度は心の声は出していないが、それが伝わったかのように忍足も千夏も顔を見合わせていた。

「これは……まずいね」
「アカンなこれは……男やったら襲いたくなる」
「ちょっと、忍足っ」
「いや、やってえ……」

そうだ。彼女は、そんじょそこらの美人じゃない。
ダンチ、レベチ、そういう言葉がこんなに当てはまる人はいない。
新垣結衣、長澤まさみ、広瀬すず、川口春奈、小松菜奈、石原さとみ……そんな錚々たる女優陣にも、まったくと言っていいほど見劣りしない、段違い、レベル違いのド級の美人!

「わたしの不安、理解できた?」

目を細めたままのわたしに、二人は黙って頷いた。





跡部は伊織にゾッコンだ、と付き合う前からわたしをからかっていたあの二人ですら、あんなに危機感を覚えるほどの美人なのだ。放課後にもなれば、頭のなかには警報音が鳴り響いていた。
それでもわたしは景吾の家に行った。景吾が学校での仕事を終わらせ帰宅した頃を見計らって「行ってもいい?」と連絡すると、すぐに「いつだって来いって言ってるだろ?」と、わたしの機嫌をあっという間になおす返事が戻ってきたからだ。

「いらっしゃいませ伊織様。本日もお勉強ですか?」
「こんにちは! そうなんです、景吾に教えてもらうと、わかりやすくて」

居候していたときにずいぶんよくしてくれたお手伝いさんが出迎えてくれた。ここ最近はいつだってあのインターンが現れていたので、少しだけほっとする。
もしかして今日は会社に出勤とかで、いないのだろうか? それなら少し延長して、景吾の傍にいれる。景吾はお願いしたら聞いてくれるだろうし、この優しいお手伝いさん達は絶対に口出ししてこない。

「ふふふ。一緒に学ばれると、お勉強も捗りますよね」
「はいとっても!」

ものすごい嘘をついていると思いながら、景吾の部屋の前までのおしゃべりを楽しもうとしていると、お手伝いさんは1階で足を止めた。
景吾の部屋は2階にある。不思議に思ってその先を見たら、テラスにあるガーデンソファに座っている景吾の背中が目に入った。

「あ……」愛しい背中に、思わず声が漏れてしまう。
「本日、景吾様はお庭でテニスをされて、ただいまマッサージを受けておいでです。どうぞお入りください」
「マッサージ?」
「ええ、腕がパンプアップした、とかで」
「パンプアップ……?」

よくわからなかったが、わたしは声をかけるために景吾の背中に近づいた。スポーツウエアを着ている景吾は一段とカッコイイ。早く振り向いてほしい。

「景吾」
「よう伊織、遅かったじゃねーの」
「いや、さっき連絡したばっ……」

ようやく声がかかるところまで行って、わたしは言葉を失った。
どでかいソファだからよく見えなかったのか、彼女がソファと同系色のスポーツウエアを着ていたからなのかは、よくわからない。
でも、あの美人インターンが景吾の右腕を、なんかテカテカ光るものを塗りたくってマッサージをしていることだけは、十分にわかった。

「今日は俺が、いつもより帰宅が早かったからな」そんなことはどうでもいい。
「……なに、してるの」まるで浮気現場を見てしまったかのようなショックがわたしのなかになだれ込んでくる。
「ああ。彼女、テニスができると聞いてな。打ち合っていた」

ああ。彼女、美人だと思ってな。腰を振りあっていた。みたいな言い方に聞こえるわたしは、頭がおかしいのだろうか。おかしいんだろう、たぶん。それはわかってる。

「景吾さんは強すぎました。簡単に引き受けてしまったわたしがバカでした」
「アンタもなかなか、うまかったぜ?」

あかん、全部そっちの話に聞こえてまう。
忍足がいたら絶対にそう言う。わたしですらそんなことを思うのだから。
景吾が、わたし以外の人に笑顔で話しかけている。そんなの別にいくらだって見てきたけど、すごく嫌な気分だ。
しかも美人インターンの綺麗な指先が、わたしの景吾の指先に、恋人が手をつなぐように絡まっている。それがマッサージの技法なんてことはわかってる、それでもわたしの景吾に触れている事実に、息が止まりそうだった。

「マッサージもうまいんだな」
「昔テニスをやっていた頃、よくチームメンバーにやらされたんです」
「どおりで、気持ちいいじゃねえの」
「ふふ。それはよかったです」

ぐるっと、わたしは背中を向けた。これ以上は聞いていられないし、見ていられない。わたしの問題だってことはわかってる。それでも嫉妬心を抑えられない。なんか会話も卑猥だし。
それに、並んだ姿もめちゃくちゃお似合いだ。わたしなんかよりも、ずっと。おまけにすごく親しげ。これが彼女の2日目!? わたしとは大違い! わたしは2日目は……ああ、あんなみすぼらしい裸体を景吾に……! 思い出すだけでゾッとする!

「伊織さん? 帰られるのですか?」

景吾よりも先に、彼女のほうがわたしに気がついた。その顔にピッタリな美しい声に、不快感がおりのように溜まっていく。
帰ってたまるかと思うのに、喉におりが絡みついて、言葉がうまく出てこない。

「伊織? どうした?」

立ち上がった景吾がわたしの背中に近づいたのがわかる。
景吾はいつだって優しいけど、わたし以外の人に、そんなに優しくしないで……。お願いだから、わたしだけ見ていてほしい。

「景吾」
「どうした?」
「今日は外でデートしたい」

思い切って顔をあげて、そう言った。
目を丸くした景吾がわたしを見下ろしている。あのインターンがいるところに、もういたくない。

「わかった。準備するから、ちょっと待ってろ。いいな?」
「うん」

少しだけ不安げな顔をした景吾に、どう接すればいいのか、よくわからなくなっていた。





「景吾さん、遅くならないようにされてくださいね。すでに18時になろうとしていますから」
「わかってる。ちゃんと19時には家に送る」
「はい、そのようにしてください。いってらっしゃいませ。伊織さんも、いってらっしゃいませ」
「……はい、いってきます」

無視してやろうかと思ったけど、なんとか返事をしたわたしを誰か褒めてほしい。
満面の笑みだった。美人は笑っても怒っていても美人だが、彼女は笑うとさらに美しい。
嫌味がない感じがまた癪に触る。焦らずとも景吾を手にいれることなんていつでもできるという余裕だろうか。彼女が景吾を好きだって決まったわけじゃないけど、景吾とこんなに近くにいて、スキンシップとって、好きにならないほうがおかしい!
ていうか、なんであの人に、あんな親みたいな小言をぶちぶちぶちぶち言われなきゃならないんだ! ああもう、むしゃくしゃする!

「どうしたんだ?」
「え」

ぶすっとして歩いているわたしに、景吾が気づいてないはずはなかった。
頭のなかで沸騰したお湯を冷まそうとして、つい黙り込んでしまったせいか、景吾はそっと手を絡ませるように握ってきた。
それだけで、指先が痺れそうになる。どんなにキスしたって、直接的に触れ合う肌はいつだってわたしを熱くする。熱くするのに、頭のなかのお湯が冷えていく。不思議だった。

「なんか機嫌が悪くねえか?」
「……そうかな」
「何年、お前を見てきたと思ってる。機嫌が悪いことはすぐにわかる」
「それなら……」

もっと、ほかのことに気づいてほしい。あんな美人と仲良くしているのを見て不安になる、わたしの気持ち。景吾がわたしをもっと求めてくれてたら……こんな不安、ないかもしれないのに。
わたしたちのスキンシップは、3ヶ月前からなにも変わらないじゃない。
あの美人とは急激に、あんなふうに近づいておいて。

「なんだ? 言ってみろ」
「ううん。ごめんね急に、わがまま言って」

なんとかいつもの自分に戻ろうと心がけた。こんな醜い心を見せてしまったら、景吾はもっと、わたしがいらなくなるかもしれない。そんな事態だけは避けたくて。

「お前のわがままは、いまにはじまったことじゃねえよ」
「もー、すぐそういう言い方するー」
「本当のことだろ?」

わたしが笑うと、景吾も笑ってくれた。ほっとする。そうだよ、忍足と千夏も言ってたじゃん、景吾はわたしにゾッコンだって。キスだって、いつもたっぷりしてくれる。
思い出し笑い(というかニヤけ顔)しそうになって、うつむいたところだった。
公園に入ってすぐのところで、ピタ、と景吾が足を止めた。すでに暗くなっている空のせいか、周りには誰もいない。ひょっとして……もう引き返そうってこと?

「景吾?」
「なにもわかっちゃねえんだな、お前は」
「え?」

絡まっていた指先が、そのままぐっと引っ張られた。
ふんわりと包まれた体に景吾の腕が回っていく。うっとりとしてしまう。いつだって絶妙なタイミングで、景吾はこうしてわたしを抱きしめるから。大好きな香りに酔いしれて、なんの文句も言えなくなるわたしを、わかってるみたいに。

「俺がなんのためにいると思ってんだ?」
「……どういうこと?」
「お前のわがままは全部、俺が引き受ける」

こめかみにキスをして、そっと頭を撫でる。やっぱり景吾、わたしにゾッコン……?
ああ、むしゃくしゃしてた心が、一気に癒やされていく。ますます景吾が好きになる。これ以上に好きになったら、さっきとは違う意味で頭が沸騰しちゃうのに。

「だから、わがままを言いたいときは言え。我慢すんじゃねえよ。俺が甘やかしてやる」
「……うん」

いまなら言ってしまっていい気がした。なるべく嫌われない程度に。
いや別に、全部を言う必要なんてない。気になってることを聞けば、わたしだって多少はスッキリするんだ。

「ねえ、景吾」
「ん?」
「あの人……インターンの」
「ああ、どうした?」
「美人だって思わない?」
「まあ……美人だろうな」

ですよね。わかっていたけどショックを受けた。

「なんでそんなこと聞いてきやがる?」体を少しだけ離して、じっとわたしを覗き込む。
「なんと……なく」ではない、めちゃくちゃ気になるからだけど。「美人だなって思って」
「……お前のほうがよっぽど綺麗だ」
「えっ」
「なんだよ」
「嘘だ、そんなの」
「嘘じゃねえよ」

嘘に決まっているのに、まっすぐな視線に真っ赤になってしまいそうになる。本気だったとしたら、相当に目が悪いなんて思うわたしは、つくづく可愛げがない。

「言わないのか?」
「え?」
「こんなに顔を近づけてるってのに」
「も……また、言わせようとしてる?」
「ふっ……その恥ずかしそうな顔がたまらねえんだよ、俺は」

そっと唇が近づいてきた。どんなに機嫌が悪くても、いつもほだされてしまう。景吾はわたしだけの魔法使いだ。
あと少しで触れる、と感じて、静かに目を閉じた……ときだった。
ブブ、と、景吾の服の中から音がする。こんなタイミングで、誰かが電話をかけてきたのだ。けしからん。

「ん……」

少し残念そうにため息をついて、景吾はポケットのなかからスマホを取り出した。
残念なのは景吾だけじゃない、と考えるとおかしくて、くすくすと笑みがこぼれた。
でもそれは、電話越しの声を聞くまでの、わずか数秒のことだった。

「もしもし?」
「景吾さん、伊織さんが忘れものをしてらっしゃいます」

美人にピッタリな、穏やかで品のある、あの美しい声。電話越しにはっきりと聞こえてくる。けしからん……まるで監視されているような気分だ。

「差し出がましいようですが、そろそろお戻りになられてから、そちら引き取っていただいたうえで、自宅までお送りされたほうがよいかと……」

あの……クソ女!





メンタルが忙しい。
上がったり下がったり、また上がったと思ったら下がったり。紅白旗揚げゲームしてるんじゃないんだこっちは。それで、なんなの、あの女の図々しさはいったい……。
差し出がましいどころか、そのまま差し出されて郵便で遠い異国へぶん投げられてしまえばいい!

「景吾さん、伊織さん、おかえりなさいませ」
「……」
「ああ、ただいま」

さっきまでつながれていた手も、景吾は家に入る直前にさっと離していった。
いつも普通にされていた、そんなことにすらショックを受ける。あの人に見せたくないんじゃないかとか、しょうもないことを考える自分に嫌気がさした。
さっきあんなに愛を注いでくれた景吾がそんなこと思っているはずないとわかるのに、まるでなにかに取り憑かれたみたいに心臓がゴワゴワしている。
これが嫉妬なんだ。なんだかんだ誰とも付き合ってこなかったから、はじめてこんな気分になって、まったく制御がきかない。
おかげで思い切り無視してしまった。もうこのインターンとは口も聞きたくない。

「伊織さん、こちらお忘れものです。先程のお部屋まで移動していただくのはご面倒かと思いましたので、勝手ながらピックアップさせていただきました」それは、とっとと帰れってことですか?
「……ありがとうございます」思ってもないことを口にしようとすると余計な間があくのは、わたしの習性だろうか。
「気がきくじゃねえの」
「いえ、もうお時間も19時になろうとしていますから」
「ああ、そうだな」

気がきく? どこが! 余計なお世話だよさっきから。いや2週間前からずっと余計なお世話だ。
だいたいなんなの、ほかのお手伝いさん達は、どうしてちょっと後ろから見てるの?
なんか景吾専門メイドみたいになってるじゃんこの人。行ってくるときも帰ってきたときも自分だけ一歩前に出て、本当にどういうつもりでここにいるわけ!?
ああ、爆発してしまいそう。景吾の彼女はわたしなのに、なぜか違うと言われている気になる。

「あ、景吾さん、右腕よくなってますね」
「ん? ああ、さっきパンプしたところか」
「ええ、ずいぶんスッキリしています。ご入浴後に、もう一度マッサージをしましょう。明日にはよくなっているはずです」
「そうか、頼む。ありがとう」

限界だった。ぶち殺してやろうかって言葉が、わりと真面目に喉まで出かかった。
わたしだってあんなふうにベットリベタベタ景吾の腕を愛撫……じゃなくて触ったことなんかない。
なんでわたしとはしないのに、簡単にこの人にはさせるの景吾……昔テニス部でマッサージしてたから?
そんなことならわたしも興味ないけど女子テニス部入ってマッサージしておくんだった!

「景吾!」
「な……どうした。急に大声を出すな」

涙が出てきそうだった。しょうもない嫉妬をしている自分に。こんなに不安なのは、何度も言うけど景吾がわたしのこと、甘やかしても、求めてはくれないからだ。
思い出したら止まらない。もともと思ってたことをすべてぶちまける性質のわたしが、景吾と付き合ってからは、いろんなことを胸に留めてきた。
それもこれも、景吾にもっと愛されたかったから。だけどもう今日は、我慢できない!
止められなかった。わたしはインターン女の前で、その後ろにいる何人ものお手伝いさん達の前で、思い切り景吾の胸に抱きついていた。

「ちょ……おおおおい、なにしてる」
「キスして」
「は!?」
「キス、してよ」
「ば……バカ言え!」

見たこともないくらいに景吾が慌てていた。わずかに、「まあ」「あら」などというお手伝いさん達の声も聞こえる。でも、そんなのどうだっていい。
あんなの見せつけられたんだ、わたしが彼女だって証明したい。いやもう証明してるけど、もっとがっつり証明したい! だってこのあと、ここにいる美人インターンとまたあのエロいマッサージやる気なんでしょう!?
恥ずかしさなど全部ふっとんでいた。とにかくこの美人インターンの前で、とにかく景吾にキスしてほしい。

「してってば」
「伊織、落ち着け。いいから、ちょっと離れろ」
「なんでっ」
「なんでって、見りゃわかるだろ! お前はこの連中が見えてねえのかっ」
「さっきわがまま聞いてくれるって言った!」
「こういうことじゃ、ねえだろうがっ」

それでも離れようとしないわたしに、困惑しきったんだろう景吾は、呆れたような声で、それでも怒ったように、わたしを引き剥がしながら言った。

「お前は発情でもしてんのかよっ」

この10年、景吾に言われてきた言葉のなかで、ダントツ1位の、図星ショックだった。





to be continue...

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