ビューティフル_05


5.


都心の街がひときわ輝くなか、俺は車を走らせていた。
酒を飲まないとわかっている日はなるべく自分で運転をするようにしているが、金曜の夜だということを忘れていた。
道が混雑しているせいで、ストレスがたまっていく。ようやく進めるかと思えば赤信号にひっかかりやがる。
俺はこんな思いまでして一体なにをしているんだと自問自答していると、カップホルダーに収まっているスマホが鳴りだした。

「はい」
「景吾? いまどこにいるの?」
「ああ、千夏か」

このところ、千夏はやたらと電話をかけてくる。
仕事が終われば、まるで勤怠報告のように俺の予定を確かめようとする。それもストレスの1つだった。
俺は入社したての新卒かよ。

「名前は液晶に出てたでしょ」
「運転中で見てなかったんでな。恵比寿あたりだ」
「は……ねえ、またあそこに行く気なの?」

これだ。俺があの場に行くことがわかると、チクチクとした棘を送り込んできやがる。
それを隠そうともしやしねえ。なにがそんなに気に入らねえんだ。ったく……。

「条件のんだんだから、しょうがねえだろ」
「それにしたって通いすぎじゃない?」
「用がないなら切るぞ」
「ちょっと! 今日は金曜日なのに、あたしとデートもしてくれない気?」
「レッスンが終われば会える」
「終わるまで待てないって言ったら?」
「アーン? じゃあ、お前も来ればいいだろ」
「……わかった。それならあたしもそっちに行くよっ」

怒ったように電話を切られて、ため息がもれた。
向かっているのは、俺が佐久間伊織を送り込んだシゲルのレッスンスタジオだ。
あの日、夜明けまで必死に稽古した佐久間伊織の成果を見たシゲルは、昼にはメッセージを送ってきていた。

『景ちゃんの頼みだからきいてあげるわ。あの子、たしかに素質はありそうね』

その返事は、俺の想像を超えたものだった。
正直、あの大根女優がたかだか1回のレッスンでよくなるとは期待していなかった……が、シゲルをあそこまで言わせるとは、はっきりいって称賛に値する。

『そうか。それで、レッスンはどうする?』
『週に2、3回。さっきオテンバには連絡しておいたわ。ただし条件つきよ』
『なんだ?』
『いい? あのオテンバは景ちゃんがアタシに押し付けてきたのよ?』
『だからなんだ、早く言え』
『オテンバの稽古のときは、景ちゃんも来ること』
『は?』
『だって景ちゃんに週に何回も会えるチャンスなんてないじゃない? ヨ・ロ・シ・ク』
『待て、シゲル。俺は仕事でそこそこ忙しい身だ』
『あ、素質の件は絶対に本人には言っちゃダメよ! あの子、調子に乗りやすいから!』

それきり、俺がしつこくメッセージを送り返しても、既読のまま無視された。
というのに、週の頭になるときっちり佐久間伊織のレッスンスケジュールが送られてきやがる。
シゲルも俺に負けず劣らず、相当、強引な野郎だ。





車を出てロッカールームに立ち寄ったあと、俺はいつものようにスタジオに足を踏み入れた。

「アンタ何回言わせんのよ! 涙が出りゃいいってもんじゃないの! 泣いてますって押し出して、それで誰が心を打たれるのよ! いい? 泣くっていうのは、指し示さないことなの! 人は泣くとき、本当の感情を見せようとはしない、隠そうとするの!」
「すみません! もう一度、お願いします!」
「ったくもう、いつまでやらせんのよ!」

パン、とシゲルの手が叩かれる。ついこのあいだまで大根だった佐久間伊織は、この10日ほどで驚くほど成長していた。
シゲルは罵声を浴びせるが、内心はこの変化に満足していることがよくわかる。その顔が、何年も前にブロードウェイに行くと言いだした、あの頃の表情に戻っていた。

「はぁ、全然ダメね、5分休憩」

パン、と合図してシゲルがこちらに向かってきた。
佐久間伊織は俺に見向きもせず、すぐにスクリーンに向かって自分の演技を見始める。
ふっ……熱心じゃねえか、それでいい。

「調子はどうだ。これ、差し入れだ」
「いつもありがとう景ちゃん。そうね、ま、あんなもんじゃない?」

とかなんとか大声で言いつつ、スポーツドリンクを手渡すと、佐久間伊織には聞こえないように、すぐに小声でつぶやいた。

「……吸収が、驚くほど早いわね」
「そうか」
「景ちゃんの見立てに間違いはなかったってことかしらね? 来るたびによくなって帰っていくのはアタシが教えてるから当然だけど、来るたびに前のレッスンよりもさらにパワーアップして登場するのよ。負けん気の強さだけは一流ね」

そのあいだも、佐久間伊織は休むことなくぶつぶつと演技をくり返している。
その姿を、俺は食い入るように見つめた。
やはりあの女は、一流のミュージカル女優になるべきだ。腐りきってたマインドも、一流になってきてやがる。

「シゲル、レッスン代の請求だが、わかってるよな?」会社にも、まだ請求書は届いていない。
「まったく……どこまで図々しいのよあの女」
「あいつには言うな。俺の世話には死んでもなりたくない女だ」
「こんなに世話になっといて、バカじゃないの……。ちょっとオテンバ! 休むときは休めって言ってるでしょ! 景ちゃん来たんだから、挨拶くらいしなさいよ!」

シゲルの苛立った声にはっとして、佐久間伊織はようやく俺を見つけた。
マンツーマンレッスンの交換条件を知っているせいなのか、それとも俺の顔は見たくもないのか、急な雨に降られたような顔をしてこちらに向かってきた。
もう少し、可愛げがあってもいんじゃねえのか?

「こんばんは。いつもごくろうさまです」疲れていることもあるだろうが、とことん俺には礼を言いたくないらしい。「すみませんね、毎度、毎度。お仕事、お忙しいでしょうに」

完全な棒読みだった。

「てめえは少し、謙虚にはなれねえのか?」
「謙虚……はっ。ここに通わせてもらってることには感謝してるつもりだけど、これでも」
「どこがだ」
「どこがよ。アンタねえ、ここまで景ちゃんによくしてもらって、その態度は一体なんなの?」
「感謝はしてるんですってば。でもいろいろ思い返すとこういう態度になっちゃうんです」
「生意気な口たたいてんじゃないわよ! ただのアンタの逆恨みじゃない! ああ、もう5分経ったじゃない。さっきのシーン、もう1回!」

俺との事情は聞いたんだろう、シゲルは佐久間伊織の頭を小突いてスタジオの真ん中へ闊歩していく。
佐久間伊織はそれにつづくように「はい!」と返事をして、シゲルについていった。
目の前でくり広げられているレッスンに、俺は高揚していた。
シゲルの技術はもちろん、佐久間伊織が毎秒のように成長をしているのは、一目瞭然だ。
今日でここに来るのは5回目だが、その成長速度も増してきてやがる。
こういう景色を、俺は15年前に何度も見てきた。あっちはテニスだったが、こんな懐かしい気持ちになれたのは、久々だ。
自分でも、自然と笑みがこぼれていることに気づいていた。





「あら、ひょっとして彼女?」
「ん?」

1時間ほど過ぎただろうか。シゲルがこちらに顔を向けて声をあげた。
わずか後方を振り返ると、千夏がじっと俺を見て立っていた。

「こんばんは、お邪魔してすみません」
「別にいーわよ、本当にお邪魔はしないんだから。景ちゃんの女ってのが気に入らないけど!」
「……すみません」

申し訳なさそうに頭をさげて、千夏はそそくさと俺のとなりに来た。

「いつ終わりそう?」
「そろそろじゃねえか? もう1時間は経っているはずだ」
「そっか。よかった、あたしこういうの、退屈しちゃうから」
「アーン? お前、演劇は好きなはずだろ」
「好きだから、稽古場は退屈なの。完成したものだけを観たいのよ、あたしは」

どこか、自分のことを言われているような気になる。
なんでも完璧にこなす、力強い男だと言われたことが思い出された。

「景吾は見てて、楽しいの?」
「興味深いだろ、一流のレッスンがどうなっているのか」
「さっきから、ずっと食い入るように見てるもんね」
「シゲルは間違いなく一流だからな」
「ふうん。あたしのこと、ほっぽらかしてまで」
「しつけえぞ」
「あー、怒った」

さっきから顔が笑っていることには気づいていた。
なんだかんだと拗ねてはいるが、千夏が本気で拗ねているわけじゃないのは、わかっていた。

「じゃあ今日はここまで! 帰って復習しておきなさい」
「はい! ありがとうございました!」

その挨拶を合図に、二人がこちらに向かってくる。
汗だくで疲れきっている佐久間伊織は、千夏にも目をくれずに帰ろうとしていた。

「だから! 挨拶くらいしなさいよ! アンタの大根演技、見てくれてたのよ!」
「いっ……」
「ああ、いんですシゲルさん。あたしはここで、景吾と待ち合わせただけなので。痛そう……」

パシン、と小気味いい音で頭を叩かれた佐久間伊織は、恨めしそうに顔をあげると、ようやくその姿に気がついたように会釈をした。

「こんばんは……この人の彼女さんだったんですね」
「あ……その節は、どうも」
「いえ。いきなり驚かせてしまって、申し訳なかったです」

非を認めたくねえのか、口調とは裏腹な面持ちでそう言った佐久間伊織に、千夏は苦笑している。
初対面が会社に乗り込んできたときだったから、無理もねえな。

「ごめんなさいね彼女、この子、レッスン終わると無愛想なオテンバなのよ」
「いえ、そんな……今日お邪魔しているのはこちらですから」
「それから、しばらく気づかなくて、ごめんなさいね」
「えっ」

シゲルが千夏に視線を送って、口端をあげた。
気づかなくて、という言葉に疑問が頭をもたげたが、同時に、立ち去ろうとしていた佐久間伊織が俺に振り返ったことで、それは消えた。

「なにか言いたいことでもあんのか?」
「別に……」
「はっきりしねえな、いつもの威勢はどうした」

挑発すると、弱気な視線を向けてきた。
手にとるようにわかる佐久間伊織の逡巡が、俺の好奇心を刺激する。

「よくなった? わたし」
「ふっ……女優に転身したてのアイドルくらいにはな」

小さな舌打ちをした顔に生気が戻ったのを確認して、俺は満足した。





週明けの月曜日。出勤すると、社長が呼んでいると秘書に告げられた。
大手商社のCEOである九十九静雄に呼び出されるということは、最高の事態か最悪の事態が待っている。2週間ほど前に忍足から相談された、社内から圧力をかけられた話を思い出す……まさかな。
俺がヘマをするはずもないが、忍足のように思いも寄らないところから災難が降ってくるということはありえない話じゃない。

「お呼びですか」
「おお、跡部。まあ入れ」

促され、社長の座る席の前に行くと、彼は手にしていた新聞を横において、にこやかな顔を向けてきた。
どうやら、最悪の事態じゃなさそうだな。

「次の人事異動のタイミングで、お前を昇進させようと思っている」
「ありがとうございます、光栄です」

いよいよ専務執行役員か。

「取締役にな」
「取締役?」
「そうだ、超がつくほどの飛び級出世だ」

いま常務執行役員である俺が、急に取締役というのはどういう風の吹き回しなのか。俺だから当然、と思う一方で、そんな甘い会社じゃないことも、俺は知っている。
裏がある……と思ったときには、すでに社長は分厚い資料を差し出してきていた。

「株式会社トリアノン……?」
「いまはまだ無名の企業だが、これから大きくなるのは間違いない。今度、レストランをオープンするそうだ。この会社とうちの提携の管理運用を、お前の管轄下で進めてほしい」
「……なにか裏があるんですか?」
「おいおい跡部、なにを勘ぐっている?」
「すみません。しかし社長が自らこのような提案をなさるのは、些か不可解です」
「金だよ跡部。この会社は金の成る木だ。成功すればリテール分野のさらなる拡大につながる。すでにレストランとは別にデザート専門店の話が進んでいるようだ。おそらくそこから広げるつもりだろう。先方から持ちかけられた話だが、なかなかこの男、商才がありそうでね。ほかに取られる前に、さっさと方をつけておきたい」

リテールとは、国内外のチェーン店などと小売りをつなぐ結節点の役割を担うものだ。商流、物流の両面で、販売、調達、生産を管理したシステムの構築と高度化に取り組んでいる。
この株式会社トリアノンも事業拡大のためにチェーンに乗り出すということだろうか。
資料をめくったところには、「代表取締役社長 野瀬島克也」と書かれてあった。
どこかで見た名前に俺は記憶をめぐらせたが、山ほど名刺をもらうせいか、思い出せそうにない。

「この提携をクリーンに成功させることが条件だ」

まるでそれは、汚れていてもクリーンにしろと言っているようだった。





さらに2日が過ぎ、俺はまたレッスンスタジオへ来ていた。
平日の昼間に来るのは、はじめてだった。日中、取引先で営業をしている千夏にはとやかく言われる心配がない。あいつには悪いが、気分はかなり楽だ。
いつものようにロッカールームに寄ってからスタジオを覗くと、いつものようにシゲルが声をあげた。

「あらっ! 景ちゃん、今日はお昼なのね!」
「ああ、夕方から用事があるんでな」
「んもうー、やけに勘が働くのね、景ちゃんってば! 今日こそ仕事終わりに来てくれたらよかったのに」
「アーン? どういう意味だ?」

わけがわからず問いかけると、毎度のことながら汗だくになっている佐久間伊織がストレッチをしながら答えた。

「今日はわたしも夕方から用事があるから、早くあがらせてもらうの」
「……なるほど、ちょうどよかったってわけだな」

お前の成果を今日も見れるってわけだ。

「ちょうどよくなんかないわよ! これで景ちゃんが来てたら、アタシたちふ、た、り、き、り、だったのに……って景ちゃん、ちょっと! 聞いてんの!?」

お、も、て、な、しのジェスチャーをしたバカなシゲルの声を無視して、俺は佐久間伊織の背後に向かった。
長座して前屈していた佐久間伊織は、顔をあげた瞬間に大げさなほどに肩を震わせる。

「びっ……なに、急に後ろに突っ立ってんのよ!」
「お前、少し痩せたんじゃねえか?」
「へ……」
「体重は毎日、測っているんだろうな?」

俺の質問に目を丸くして、口をポカンと開けている。
なんというマヌケ面だ……。とても女優とは思えない。

「あのさ、あなた大手の役員なんでしょ? そういうのセクハラっていうの知らないの?」
「真面目に聞いてんだこっちは」
「こっちも大真面目ですよ!」
「いいから答えろ」
「なんでそんなこと!」
「オテンバ、答えなさい。景ちゃんはセクハラするなら、もっと強めのをするわよ」

人聞きの悪いシゲルの言うことには逆らえないのか、佐久間伊織はしぶしぶと答えた。

「2kgくらい、痩せたかも……」
「首が細くなっている。いいか、なんにもわかっちゃねえようだから俺が教えてやる」
「ちょ、なに……っ」

俺が前屈している背中を掌で押すと、硬直した体が前かがみになったまま動きを止めた。

「なにしてんの!」
「動けるか。この手を押し返してみろ」
「そんなの……え……そ、ちょっと、強い!」
「早くやってみろ」
「こ、こ……んっ……ああ、強いってば!」
「体重が落ちたのは筋肉のせいだ。筋肉が減ったということは筋力も減る。もちろん同時に、首の筋力も落ちている。それがどういうことかわかるか」
「うううううう、だ、ああっ! いった……!」

力を込めて無理に押し返そうとしたところで手を離すと、派手に後ろに転げて床に頭を打ち付ける。痛かったのか、仰向けにぶっ倒れたまま涙目で俺を見上げるその姿は、実に滑稽だった。
腰を曲げてその顔を覗き込むと、悔しいのか、すぐに目を逸らした。

「い……いきなり離さないでよ! バカにしてんのアンタ!?」
「お前の声はお前のいちばんの武器だ。筋力の衰えはいずれ必ず歌にも影響する。シゲルに言われて芝居の稽古ばかりして体重管理を怠っていれば、せっかくの演技力を手に入れても失うもののほうがでかいぞ」
「な……」

あれだけ毎回のように汗だくになり、必死にシゲルについていこうとしているこの女のことだ、おそらく家に帰ってからもしつこく稽古をくり返し、その急激にあがったエネルギー消費量と適当な食生活のせいで痩せたことくらいは想像がつく。

「一流のアーティスト達がいちばん苦労して気を使っているのは体重管理だ。そもそもお前の体型はベストだったと言っていい。だからこれ以上は痩せることも太ることも許されない。ベストな状態を常に保ち歌声とパフォーマンスを安定させる。それは芝居にも少なからず影響するはずだ。だろ? シゲル」
「……ま、アタシは現役のときより5kgは太っちゃったけど。芝居よりも、ダンスかしらね。どちらにせよ反論はないわ」
「お前がいながら、なぜこんなことに気づいてやれない?」
「あのねえ景ちゃん、アタシ、オテンバと四六時中いるわけじゃないの。レッスン外でどんな生活を送ってるかなんて知ったこっちゃないわよ」……それに、誰がそんな2kg程度の差に気づけるのよ。と、小声で付け足した。

言われてみれば、それもそうだ……が、どっからどう見ても、シゲルのレッスンを受ける前の佐久間伊織よりは痩せている。逆に、誰も気がつかなかったのか?

「とにかく」腑に落ちない気分になりながらも、俺はつづけた。「お前は俺がプロデュースしている女優だ。完璧を目指せ」
「プロデュース!? 勝手なこと言わないでよっ! シゲルさんを紹介してくれたことは感謝してるけど、これ以上アンタにとやかく言われる筋合いなんか……!」
「俺が惚れ込んだ声の値打ちを落とすことだけは許さない、いいな」
「……く」

あの日もそうだったが、声に惚れていると訴えると、この女は萎縮しやがる。
単に舞い上がってるだけなのか、とにかく褒められなれてねえのか、よく知らないが。

「それと、これを受けろ」
「あらあ? 景ちゃん、それってもしかして……」

1枚のフライヤーをかかげると、シゲルはすぐに気づいたのか、目を見開いた。
そう……シゲルも昔、がむしゃらに集めまわっていた。
目の前にかかげられたそれを、佐久間伊織は俺の手から乱暴に奪い取った。

「ミュージカル、ミス・サイゴン……主演女優オーディション」
「一か八か、やってみてもいいんじゃねえのか?」

佐久間伊織の目が、静かに頷いた。





夕方、緑のあふれる長い道をゆるやかに登っていく。
ここから先は歩くしかないようだと気づいた俺は、供え物を手に持ち、車を出た。
まだ日が明るいせいか、広い霊園ではジョギングをしている者や、犬の散歩をしている者、酒を飲んでベンチに寝ているやつまでもがいやがった。住宅街が近くにあるせいか、人は少なくない。
やがて目的の場所についたとき、俺はそっと手をあわせた。
「佐久間家」と書かれた墓石の前に花をそえ、持ってきていた2つのグラスにウイスキーを注ぎ入れる。
佐久間さんと過ごした時間はほんの数ヶ月だったが、佐久間伊織に会ったことで、「一度でいいからすごい値段のするウイスキーを飲んでみたいんです」と言っていたことを思い出した。
手にしたグラスを墓石に置き、もう1つのグラスを重ね合わせた。口をつけずに、並べて墓石に置く。
悪いな佐久間さん。今日は車で来てんだよ。だからアンタが2つとも飲んでくれ。
心のなかでひとりごち、10年も会いに来なかったことを、俺はいまさら後悔していた。

――佐久間さん、それならここがオープンしたら、乾杯しよう。俺のおごりだ。
――そんな、めっそうもないですよ!
――アンタがいなけりゃ、この施設は成り立たなかった。無事に完成に近づいてるのも、全部アンタのおかげだ。これでも感謝してんだよ。
――私には……もったいないお言葉です、跡部さん。
――約束だ。
――はい! では遠慮なく、その日は飲ませていただくことにします!

だがテニススポーツクラブがオープンした10年前の今日は……佐久間さんが亡くなってから、すでに9ヶ月が過ぎていた。
彼との約束を果たすことができないまま、あれからもう、10年も過ぎったてのか。

「跡部さん?」

霊園というこの場所で突然かけられた声に驚きを隠せず振り返ると、そこには中年の女性が立っていた。ひょっとして、と思う。俺はこの人に、一度だけ会っている。

「あなたは……」
「やっぱり、跡部さんだった」

佐久間さんの奥さんだった。つまり、佐久間伊織の母親ということだ。目鼻立ちがよく似ているその顔は、あの頃よりも老けてはいたが、相変わらず、笑顔の綺麗な人だと感じる。

「どうされたんですか?」
「すみません、10年も、ご無沙汰していました」
「そんな、当時も手を合わせに来てくださったじゃないですか。覚えてますよ、ちゃんと」

あんな一度きりの訪問を、忘れずにいたのか。どこまでも、優しい人だ。

「いつだったかしら。前に、娘が跡部さんに会ったと聞きました」
「ああ……1ヶ月ほど、前ですね。結婚式の二次会だったんです」
「そうそう、二次会から帰ってきたときだったわ」

それ以降のことは、どうやら話してないらしいとわかる。
当然か。あんなに俺を恨んでいる女が、俺の紹介のレッスンを受けているなど、口が裂けても言いたくないだろう。

「あの子、失礼なこと言いませんでした?」
「……いえ、とくには」

数え切れないくらい言われているが、さすがにそれを口にするのは憚られる。

「ああ、やっぱり言ったんですね」否定したものの、俺の顔を見てわかったようだ。「誤解しているみたいなんです、ずっと。誰に似たんだか、自分が思い込んでることが絶対に事実だと思ってましてね……」
「しかしそう思われても、無理はありません。佐久間さんのことは、過労が原因でしたから」

だというのに、葬式も遠征中で行けず、たった一度きり手を合わせにいっただけの俺が、偶然に娘に会ったからと急に墓参りをしたところで、自分でも嫌になるほど都合がいいと感じる。
だからこそ、目の前の女性の優しさと気遣いに、胸が傷んだ。

「……跡部さんには本当によくしてもらってるって、主人、ずっと言ってたんですよ」
「いえ、俺はなにも」
「跡部さん、ずっと主人を、励ましてくださってたでしょう?」
「……え」
「現場のロッカーのなかに、ときどきメモがあるんだって言ってました。名前は書かれてないけど、栄養ドリンクと一緒に、『遅くまでお疲れさまでした』『寒くなってきたので体調に気をつけてください』『寝不足はいけません。なるべく体を休めてください』って、ねぎらいの言葉が書いてあるって。ときには、大きな病院の院長の名刺が入っていたこともあって、これはきっと跡部さんだって、主人が言ってました。あの頃から、主人の体調のこと、気にしてくださってたんですね」
「……どうですかね」

あまり人に聞かれたくはない話のせいで視線を逸らすと、彼女は、ふふふっと微笑んだ。

「とっても優しい人だと、言っていました。ですから、うちのバカな娘になにか言われたとしても、どうか気にしないでください。跡部さんが跡部さんらしく生きていかれることを、うちの主人も願っていると思います」

佐久間さんの奥さんの言葉は、この10年の後悔を、確実に救ってくれていた。





「待ってたのか」
「連絡しようかと思ったんだけど、ここで待ってるほうが確実だと思って」
「ほう? なにか急ぎなのか?」

帰宅すると、いつかのように千夏が玄関前で待っていた。
いい加減、合鍵をよこせと言い出しそうな雰囲気に気づかない振りをしながら鍵をあける。
いつもならここでドアが閉まった瞬間にじゃれついてくる千夏が、今日はどういうわけか静かに玄関を通りすぎ、リビングまで歩いていった。
少し前から様子が変だとは思っていたが、なにか悩みでもあるのか、神妙な面持ちをして振り返る。

「どうした? 具合でも悪いのか?」
「話があってきたの」

こういう切り出しで、この表情は、たいてい、別れ話だ。
さほど女に困ったことのない俺だが、どういうわけか、いつもこちらから切り出す前に女から切り出してくる。
だが……千夏と別れようと思ったことは一度もなかったせいで、わずかに面食らってしまいそうだった。
しかしそれならそれで、仕方がない……そう思った瞬間に、千夏は覚悟を決めた目で俺を見つめた。

「あたし、妊娠した」

言葉を失った俺を、ただじっと、見つめていた。





to be continued...

next>>06
recommend>>ざわざわきらきら_06



[book top]
[levelac]