TOUCH_03


3.


「日本を経つ前に必ず行け。いいな」

なんでオレがそんな命令されるのか、全然、意味がわかんない。
「オレに指図するな」ってどっかの誰かみたいに言いたくなる。いまさらあの人の気持ちがわかってもどうしょうもないんだけど。

「跡部サン、意味が」
「意味なんてわからなくていいんだよ」
「いやオレ、別に試合ないときは暇ってわけじゃないんスけど」
「暇だから行けっつってるわけじゃねえよ。それにいいか、佐久間の腕はたしかだ」
「そうかもしれないけど、なんで」
「来いって言われただろうがバカが。どうせ無視するつもりだったんだろ」

だって行く理由とかないし!

「図星だろう。いいか。佐久間が来いと言ったら行け。まず間違いなくよくなる」
「だから別に悪いとこないんだってば……」
「無いと思っても行け。いいな。もし行かなかったらどうなるかわかってるな」
「……スポンサーに手ぇ回すつもりなんデショ」
「わかってんじゃねえか」

跡部サンの脅迫が終わった。
終わる頃には、あの強烈な女トレーナー佐久間伊織の名刺を見つけて荷物から取り出していた。
こないだの大石先輩の結婚式で、山のようにもらった名刺の数々。見つけるのに苦労するかと思ったけど、彼女の名刺は最後にもらったから、案外すぐに見つかった。

「ねえオヤジ」
「んー? どうしたリョーマ、打ち合うか?」
「って思ってたんだけど、ちょっと行かなきゃいけないとこあってさ」

久々の実家だし、ゆっくりしたかったんだけど。
とても広いとはいえない庭でオヤジと打ち合おうと思ってたら、跡部サンから電話があるなんてね。
電話に出た瞬間、跡部サンは言った。「佐久間治療院へ行け」。なんでオレがあの人に命令されなきゃなんないわけ。
で、なんでそんなとこ行かなきゃいけないわけ。

「元カノから呼び出しでもあったのリョーマくぅーん?」
「は?」

からかうオヤジを横目にオレは服を着替えた。女の人には間違いないけど元カノなわけないし。だからっていくらなんでも部屋着で行くわけにはいかないし。

「鍼灸院に行くんだよ」
「あ? どっか悪いのか? 腰、きてんのか?」
「腰の違和感はいまんとこ平気。どこも悪くないんだけど、跡部サンが行けってうるさいから」
「へえ? あのおぼっちゃん、お節介だな」
「よく考えたら昔っからあんなだったかも。偉そうなくせして世話好きっていうか」
「でもあのボンボンが勧めてくる治療院なら、よっぽど腕がいいんだろう」
「どうだろね。跡部サンの専任トレーナーやってた人の治療院だよ」
「ふぅーん。ん? 跡部のぼっちゃん、プロのときについてたトレーナー、女じゃなかったか?」
「だから?」
「おい、名前教えろ」

オヤジの方を見ると、ギラギラした目で鼻の下を伸ばしてた。
このオヤジ、いくつになっても女のケツ追っかけ回して、どうなってんだろ。オレのオヤジとは思えない。

「……オヤジのタイプじゃないと思うけど。勝ち気で口うるさそうな人」
「そういうのもたまんねえじゃねえか! ほれ、いいから名前!」
「はい、これが名刺だよ」呆れて物が言えないってこういうこと言うんだよね。
「佐久間伊織……おお、聞いたことあるな」
「結婚したくてたまんないらしいよ」
「かわいいねえー。おじさんの愛人にならねえかな」
「バカじゃないの」





目的の治療院はオフィス街の近くにあった。

「つか駐車場ないじゃん」

慣れない運転してわざわざ来たのに、狭い道を通らされるし駐車場ないとか考えられない。日本ってホント、狭すぎ。
少しだけイライラしながらカーナビをいじってると、車の窓ガラスがノックされた。
驚いて見上げると、帽子を目深にかぶってサングラスをした女の人がこっちを覗きこむように見ている。
あ……見つかった?
アメリカにいても、イギリスにいても、世界中どこでもこういうことがある。テニスをやりながら生活していけるのはありがたいけど、あんま声かけられんのは……正直、苦手。でも変な対応したらマスコミになに書かれるかわかったもんじゃないし、とりあえず、パワーウインドウさげてみなきゃだよね。

「あの……」
「はい、なんスか」
「やっぱり、リョーマだ」
「へ」
「わからないの? あたしだよ」

サングラスを外すと、見覚えのある目がオレをじっと見つめてきた。彼女は、オレの元カノだった。

「千夏……」
「久しぶり、だね。どうしたのこんなところで」

久しぶりなのは本当だった。たぶん、3ヶ月とか4ヶ月とかそれくらいぶり。でも別れたのは、ほんの1ヶ月前。オレが一方的に切った、あの電話っきり。
髪が伸びて、色も変わって、なんか顔つきも変わった気がする。全然、気づかなかった。

「ちょっと、駐車場を探しててさ。千夏は?」
「リョーマ、やっぱり覚えてないんだ」
「へ」
「あたしこの辺に住んでるって、前に言ったじゃん。付き合いはじめのとき。うち……泊まったくせに」
「あ……ごめん、そうだったっけ」

泊まったとか、そういうの思いださせるようなこと、なんで言うんだろ。結婚結婚って電話越しで騒いでた千夏とは、やっぱり顔合わせるとなんか違うから、調子が狂う。あのときはお互いストレスがすごかったし、顔が見えないしで埒あかなかったけど、こうして見てると、なんか懐かしくなってくる。
千夏の髪の毛、相変わらず綺麗……最初に惹かれたのって、そこだった。

「車、うちに置いたら?」
「へ」
「さっきから、へ、ばっかり。どこ行くの?」
「あ、えっとそこの、治療院」
「あー、佐久間鍼灸治療院か。有名だよねあそこ。すっごく腕がいいって評判だよ。リョーマもお客さんだったんだ」
「オレは客じゃないから。別に」
「へ」
「そっちだって、へ、って言ってる」
「あ、ふふっ、ごめん。でも佐久間院ならうちから歩いて10分くらいだし、駐車場としてはいいと思うよ」
「そんな親切にして、いいの? オレなんかに」

電話で怒鳴って別れ告げるようなやつに……なんて、オレもなんで急にこんな卑屈になったのかわかんない。
でも穏やかに話す千夏を見てると、なんかひどいことした気がしてきた。だからって、やり直したいとか思ってるわけじゃないけど。

「へえ。リョーマ、少しは悪いって思ってくれてるんだ」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「遠慮しなくて大丈夫。もう彼氏いるし」
「へ」
「また、へ、って」
「あ……」
「いま、ちょっとはショック受けてくれた?」

いたずらな顔した千夏の目が、オレを探ろうとしてる。
たった1ヶ月しか経ってないのにって思ったけど、これって、ショックってことなわけ?

「冗談。案内するから助手席に乗せて? すぐそこだから」





「遅かったですね、越前選手」

予定より20分遅れたことに対する嫌味なのか、佐久間先生は呼び出しておいて偉そうに腕を組んでいた。
ここで謝ったら一気に空気のまれそう。遅れたオレは悪いけど、謝るのは癪だ。

「跡部サンにまで手を回して、どういうつもり?」
「いいから寝て」
「嫌だって言ったら?」
「ここまで来てわがまま言わない」

あんまり好きじゃなかった。
この人が、じゃなくて、体に触れられるのが好きじゃない。だから黙って立っていた。
昔からいろんなとこ故障する度にオヤジが治してくれてたし、いまのオレのトレーナーだって3年が経ってようやく、まあいいかって気になってきたのに。そりゃ急なときはそんな文句言わないから、この人にだって触られたことあるけど……こういうのって人見知りなのかな。
できることなら、このまま治療なしで触れられることなく帰りたいし、なんでオレがこの人に治療されなきゃいけないのか、未だによくわかんないし。

「越前選手」
「なに」
「腰、痛めてるでしょ」
「え」

なんでそんなこと知ってんのこの人。

「ふくらはぎを痛めているのは跡部さんから聞いて知ってたけど、腰も最近、きてるでしょ?」
「なんで……そんなこと知ってんの。オヤジしか知らないはずだけど」

腰を痛めたのはつい3日前だし、大げさにしたくないからオヤジにしか話してなかったのに。

「見たらわかる」
「嘘だ」嘘じゃなきゃ怖すぎる。エスパーじゃん。
「嘘じゃない。じゃあ越前選手のお父上と、わたしが知り合いだとでも?」
「ありえない、よね?」
「はい、わかったら黙って仰向けに」
「……わかったよ」

見ただけで不調をあてる意気込みに折れて、オレは仕方なく施術ベッドの上に寝転んだ。





「たぶん、175の65」

しかも、身長と体重まで当ててきた。怖すぎる。やっぱりエスパーじゃん。
オヤジに聞いたことがある。優秀なスポーツトレーナーは体を見ただけでだいたい歪みがわかるとか、痛めてるとこがわかるとか。
まあ、あの跡部サンが太鼓判押すんだから、すごいトレーナーなんだろうけどさ。

「ウィンブルドンに出るんだよね?」
「出るよ。あたりまえでしょ。いままで、なんのためにここまで頑張って」
「欠場して欲しい」
「……は?」
「欠場」
「……バカじゃないの。笑えないし」

ていうかこの人、いつの間にオレの体に触れてたんだろ。
膝に鍼が入ってやっとわかったけど、この人の手、めちゃくちゃ熱い。なのに、触れられたって感覚がない。それに、そんな嫌じゃない。これが技術ってことなのかな。

「話を変えます。越前選手」
「なに」

なんか今日、変なことばっかりだ。
跡部サンから電話はあるし脅迫されるし車運転しなきゃなんなかったし元カノに会うし、それでいま、この人に触られてるし。
しかも嫌じゃないとか、おかしくなっちゃったのかなオレ。千夏に会って動揺したかな。

「遅れたのはどうして?」
「アンタに関係ない」それはホントに。しかもなんでこのタイミングでそんなこと聞いてくんの。
「終わるまでまだ時間かかるから。世間話くらいしない?」
「ただの遅刻」
「そういうタイプに見えないんだけど」
「なんでそんなことがアンタにわかんの」
「体に触れてるとわかるの」
「嘘だね」
「嘘じゃないってば。手には不思議な力があるの。ほら、痛いとこって思わず手で押さえるでしょ。昔から、手当てって言うでしょ。あれはホントなの」
「そういう、スピリチュアルっぽい話、オレ嫌いなんだけど」
「スピリチュアルじゃなくて科学なんだってば」
「だっていま、不思議な力とか言ったよね」
「はいはい、すみませんね」
「それに、体に触れただけで性格までわかるとか胡散臭いよ」
「無駄が嫌いでしょ、越前選手」
「無駄が好きな人なんていないんじゃないの」
「この筋肉の付き方、繊細で緻密に計算されたトレーニングを1秒違わず毎日やってなきゃ無理。きっちりした性格じゃないとできないから」
「ふーん。考えすぎじゃないの。オレ、これでも結構大ざっぱなとこあるよ」トレーニングに関しては、たしかに完璧主義だけど。当たってるって言いたくないから濁してみた。
「だから、よっぽどのことがあったのかなと思った。元カノに会ったとか」

ぎょっとして目の前の顔を見たら、相手は吹き出した。
マジで……なんなのこの人。

「え、嘘、当たっちゃった?」

怖すぎる。やっぱ絶対、この人、エスパーだ。





家に帰ってからもなんかモヤモヤして、ストレス発散のためにオヤジと打ち合うことにした。
っていうかオレ、千夏に挨拶もしないで帰ってきた……いいよね、別に。もう別れてるんだし。

「それで?」
「ウィンブルドンにどうしても出るなら一緒に連れて行けとか。意味わかんないよね」

体が軽くなったのはたしかだった。
だからそんなこと言われる直前までは、オレなりにあの人には感謝してたってのに。

「腕のいい先生だったんだろ?」
「腕はいいけど、言ってることむちゃくちゃ」

ウィンブルドンを欠場しろって、治療中から言ってたから気分の悪い冗談言う人だなって思ってたけど、まさか本気だったとは思わなかった。しかも帰りには頭まで下げてくるし。

「リョーマ、治療されたのはどこだ」
「全身やってくれてたけ、ど!」

答えるついでに点を取りにいったら、まんまとオヤジの横をボールがすり抜けていった。
何度もやっても、オヤジから点を取った時は爽快感が大きい。

「おいリョーマ、お前、ずいぶん調子いいじゃねえか」
「ま、体は軽いよ。鍼の後、普通は軽くなるから」

本当は安静がいちばんってわかってるけど、体が軽くなると動きたくなる。動いたぶんだけ、ペットボトルの水を口に含むと、いつもよりも美味しい。
オヤジから点を取ったから? それとも、今日は一日、体がこわばることばっかりだったから、打ち合いでほぐれたかな。

「ちょっと見せろ」
「え、ちょっ、なにすんだよ」

気づくとオヤジがそこまで来ていて、急にオレの体を触りだしていた。
オヤジだからそんなに嫌じゃないけど、オヤジだからすこぶる気持ち悪い。

「腰、ずいぶん良くなってるな」
「別に元々そんな悪くないって。違和感あったくらいで」
「それと膝」
「膝? 膝なんて最初から……あーでも、たしかに先生、膝に鍼うってた」
「リョーマ」
「なに」
「チクっとしなかったのか? いつもの鍼との違いは?」
「まあ、鍼うたれてる感覚はなかったかも。ほぼ無痛」
「よし。じゃあその先生、連れて行くぞ」
「へ」
「ウィンブルドンだよ。佐久間伊織先生に、今すぐ電話しろ」





成田空港の夜は嫌いじゃないけど、やっぱり行動するのは朝のほうが好きだ。
なのにこの人と一緒にロンドン行くせいで、夜に出発になるなんてね。

「朝の便じゃなかったの?」
「アンタが来ることになったから夜の便しか取れなかったんだよ」
「あ、それは……失礼しました」
「ホント迷惑」
「そんな言い方ないでしょ。それより、ほかのスタッフは?」
「もう現地」
「え、じゃあ、越前選手だけ?」
「移動の時はいつもひとりだから。オヤジやサポートメンバーとは別にしてもらってる。移動する時くらい、ひとりでいたいんだ。頭んなかも、テニスから少し離れたいし」
「じゃあわたし、かなりお邪魔なんだ、今回」
「ホント迷惑」
「かわいくない……」

メイントレーナーとのコミュニケーションは必要だからって、オヤジに説得されたってのもある。現地についたらすぐ練習だから、それまでに仲良くなっておけって言うから、仕方なく一緒に行くことにしたけど、なんでオヤジ、そんなにこの人にこだわったんだよ。別にいまのトレーナーで十分じゃん。

「越前選手もやっぱり、いつもファーストクラスなんだ」
「だから?」

機体に乗り込むと、彼女は急に目をきらきらさせた。
こんなペアシートみたいなのあるんだとか、贅沢だとかなんとか言いながら、ファーストクラスを楽しんでいた。跡部サンの世界大会についていったとき以来だから、テンションがあがるらしい。
食事にもいちいち感動してるし、お酒も浴びるように飲んでるし、大丈夫なのこの人。

「越前選手、こないだホントに元カノに会っちゃったの?」
「あのさ」
「わたしの直感すごくない? そんなことさすがに体を触ってもわかんないよ」
「越前選手っていうの、やめない?」
「え」

こないだ会った時からなんかイライラするのは、たぶん、この呼び方のせいもある。

「サポートメンバーも誰ひとり、越前選手なんて言わない。アンタもそうしてよ。チーム越前のメンバーのひとりになるなら、オレのことはリョーマって呼んで。越前って呼ぶとオヤジもいて、ややこしいし」
「リョーマさん」
「リョーマでいいって」
「リョーマ」
「ん、それでいい」
「そういうの、大事なんだ?」
「精神的なつながりが必要だから。プレイヤーとサポーター、信頼し合ってないといい結果なんて残せない。オレはみんなの希望を背負ってる。それ、裏切りたくないから」

照れくさいこと言ってるから顔をそむけたら、それでもニヤニヤ顔が視界に入ってきた。

「カッコいいね、リョーマ」
「プロなら誰もが思ってることだと思うけど」

正直、中学生の頃からオレ、そういう立場だったりするし。あの頃に、チームの大切さを教えてもらってる。

「なのにプライベートでは元カノとは信頼し合えなかったんだ?」
「なんでそういう話になるわけ」
「ふふふー。聞きたいからー」
「別に……もう彼氏できたって言ってたし。別れて1ヶ月ですごいなって感心しただけ」
「別れて1ヶ月!? それ、本当に彼氏いるなら同時進行だったし、そうじゃないなら絶対に嘘だよ」

実はオレも、そんな気がしてる。千夏がどういうつもりで言ってきたのかなんて、オレだってこの歳になれば、ちょっとくらい想像つく。

「アンタこそ、大変そうだったけど」
「話のすり替え。っていうかわたしがリョーマだったら、そっちこそアンタって言うの違うんじゃないかな」
「あっそ。佐久間先生」
「それって精神的なつながりとしては薄い呼び方な気がするけど? 先生はやめてよ。バカにされてる気分だし」
「越前選手だって十分バカにされてる気分だった」
「だからリョーマに変えたじゃん。つべこべうるさいなあ」

口をとがらせている。つべこべうるさいのはどっちだよ。オレも短気だけど、この人もオレに輪をかけて短気だ。

「じゃあ、佐久間サン」
「まだ薄い」
「伊織、サン?」
「うん、伊織でいいよ」
「でもオレ、5つも年下だから」
「感じ悪い」
「元カノのこと根掘り葉掘り聞くほうが感じ悪いと思うけど?」
「精神的なつながりが必要なんでしょ。だったらこういう恋愛話がいちばん盛り上がる」
「それ女の話でしょ。男はまず、そういう話しないから」
「だから話すんじゃん」
「ふーん。じゃ、アンタ……伊織さんから話してよ。別に聞きたいわけじゃないから黙っててもいいけど」
「わたしは……喧嘩のしこりはさすがにないけど、見えないしこりが残ってる感じ」

ふてくされたように目を伏せた伊織さんが、ワインを飲み干して遠いところを見ている気がした。その先にいるのは、たぶん、あの彼氏ってことなんだろうけど。
……それより、飛行機に乗りながらよくそれだけ飲めるよね。

「ねえ、オレもアンタと一緒」
「え」
「結婚、迫られたから別れた。だから忠告した」
「うわ、最低」
「最低って言うけどさ……結婚結婚って言われたって、結婚した自分のことなんて想像できないし」
「想像できるはずないじゃん。女だって想像してるわけじゃないよ。それに、想像どおりにいくはずもないんだから」
「もっとはっきり言えば、結婚したいって思うほど、想えてなんかなかった」

そういうことなんだと思う。こないだ千夏に久々に会ってわかった。好きだったなって思うけど、想像できない。千夏と家族になるって感覚が。無理やり頭の中にのせてみても、ままごとみたいだ。

「要するにそれが、男の本音ってことだ」
「いまのはオレの意見だから。アンタの彼氏は違うかも」
「もう5年も付き合ってるのに、こんないい歳した女と付き合ってるのに、結婚してくれないって、わけわかんない。でもそういう理由なら納得いく。わたしとの結婚は考えられない。そこまで、想えてない」
「だからそれはオレの……」
「そのくせ、ずっと一緒に居たいって思ってるとか言うの、あいつ。バカげてる」
「ずるいかもしれないけど……それが本当の気持ちなんじゃないの?」
「身勝手だよ」

身勝手。女の人はいつもそうやって、男を責める。男が身勝手なら、女の人はなんなんだろう。

「一生を左右する結婚って決断を男に無理に迫る女は身勝手じゃないの? 図々しくないわけ? オレらにだって、選ぶ権利あると思う」
「選ぶ権利ってなに? 付き合ってる女と結婚したくないなら別れるべきでしょ。付き合ってる時点で選んでる」
「でも付き合ったら絶対に結婚しなきゃいけないわけじゃない。男も女もそれは同じだよね」
「だったら彼女のためにも、結婚はできないから結婚したいならほかの人を探せって言ってくんなきゃ。女はずっと待ってて、損しちゃう」

ああ言えばこう言う。男と女は、きっと一生わかりあえない。

「アンタの彼だって、本当ならそうしたいのかも」
「え」
「でもできない。アンタだってそれくらいわかってるんでしょ。捨てられないのはお互いさま。それこそ、そんなに結婚したいなら、そんな男は捨てて、ほかのとこ行けばいい。でもアンタそんな勇気ないし、いい歳してフリーになるの怖いから、いまの男に迫ってる。それだけだよね」

勢い余ってそう言うと、伊織さんは黙りこんでオレを見てきた。
やばい……年齢のこと言った。完全に、言い過ぎた。

「ごめん、あの」
「もういい。こんな話、まだ若いあなたとするべきじゃなかった」
「待って、そうじゃなくて」
「そう単純じゃないの。5年も付き合ってるってことは、5年ぶんの好きがたまってるの。いくら5つ年下だって、そういう気持ちくらいわかるでしょ!」

涙声に焦って声をかけようとしたそのとき、ガタン、と機体が大きく揺れて、となりから小さな悲鳴があがった。
見ると、伊織さんの顔が蒼白になっている。

「大丈夫? 怖いの?」
「怖くなんてないです」敬語になってる。怖いんだ。
「ひょっとして、だから無理にお酒飲んでんの?」
「違うってば。つっ、いまので付け根うっちゃった」
「え?」
「親指、ちょっと腱鞘炎……って、いいのそんなことは! もうわたし、寝る!」
「ねえ、怖いならさ」
「怖いんじゃなくて、眠いから寝るの!」

頭から毛布をすっぽりかぶって、伊織さんはオレに背中を向けた。
しゃべろうって言ったり、寝るって言ったり、すごい気まぐれだなと思うけど、気は遣わなくて済む人だってことがわかって、正直、オレは安心した。
だからこそ、あの結婚式の二次会だけにとどまらず、こんな言い合いになるなんて、自分でもちょっと情けない。
オレ、なにやってんだろう。ムキになることなかったのに。この人、チームメンバーの、ひとりなのに。

「ねえ、伊織さん」
「……」

怖いからなのか、恥ずかしいからなのか、めずらしくだんまり決め込んじゃって。
ホンっと、勝ち気な人だよね。

「ねえってば。こういうくだらない雰囲気、よくないと思う」
「……」
「ねえ、聞いてんの?」

思い切って毛布をはぐと、グラっと揺れた塊がオレのほうへ倒れこんできた。
オレの肩に、重たい頭がのしかかってきてる。
まさかこの人……もう寝てる? お酒、結構飲んでたから? つぶれた?

「……ベッドメイキングもしてもらってないのに」

膝がやたらと熱いと思ったら、伊織さんの無気力になった手が、だらんとオレの膝に投げ出されていた。
この人、やっぱり手が熱い。
そう思って、その手を元の位置に戻そうとして触れたとき、コミュニケーションって言葉が頭をかすめた。
こっちが勝手にコミュニケーション取るぶんにはうってつけ。急に、そんな気がした。

「触れればわかる……か」

オレは彼女の手を両手で取った。親指の付け根あたりを、そっと撫でるように、あまり圧をかけずに揉んでいく。

「ん……」

反応して、伊織さんの顔が少しだけ微笑む。でもたぶん、寝てる。
ていうか、なに……やってんだろオレ。でもこの人の手が、こないだオレの体、軽くしてくれたのは事実だし。

「きもち……」

相変わらず、寝言なのか、起きてるのかわからないけど、伊織さんはそうつぶやいて、寝息を立ててる。だからたぶん、やっぱり寝てる。寝言なのかも。

「よかったじゃん」

オレも思わず、そうつぶやき返した。
だってアンタ、オレのサポートメンバーのひとりになるんでしょ。たとえウィンブルドンだけの付き合いだとしても、助け合うのがチーム。こんな手でテニス選手の故障と付きあおうなんて、甘いんじゃない? だったらオレが、少しでも。
だって……

「手には不思議な力があるんでしょ、伊織さん」





「はじめまして、佐久間伊織といいます。ウィンブルドンの間、お世話になります。よろしくお願いします」
「やー、先生、よく来てくれた」
「あ、先生はよしてください。わたし全然、そんな偉い人とかじゃないんで」
「オヤジ、呼び名は伊織さんで。ほかのメンバーもそれで統一して」
「へえへえ、リョーマはそう呼ぶことにしたんだな」
「いいから練習、さっさとやるよ」

サポートメンバーはオレを除いてたったの4人。
伊織さんはコーチであるオヤジとコーディネーターに挨拶しながら、やたら上機嫌にオレに振り返った。

「目の前で世界レベルの練習が見れるっていうのも贅沢だね」
「試合チケット買ったら高いからね」
「あとさ、なんか手が軽いんだよね今日。気分まで軽くなる」
「ふーん。よかったね」

伊織さんには知らん顔で、オレはコートに入った。
あのままオレも寝てたとか、絶対言いたくない。けどおかげで体がなまってる。CAさん、もっと早く起こしてくれたらよかったのに。とにかく早く体を動かしたい。

「オヤジ、とりあえずフォアハンド」
「わかったわかった、もうせっかちだなお前はー」
「せっかちだから、もう打ちはじめるよ」

嫌味に嫌味で返しながら、オヤジが入る前に1球打ち込んだ。
うん、調子よさそう。軽くジャンプしてみる。うん、やっぱり調子いい。

「ほれ、どんどんこいよー」
「わかってる」

オヤジに挑発されて、2球目を打ち込んだ、そのときだった。

「って!」
「おいリョーマどうした!?」
「いってぇ……!」
「リョーマ!?」
「リョーマどうしたの!」

ふくらはぎに、突然、激痛が走った。感じたことのない痛みに、冷や汗が落ちていく。

「どうしたの? どこが痛い?」
「伊織さん……なんか急に、ふくらはぎが……」
「ちょっと診せて」

伊織さんの手がふくらはぎにそっと触れる。熱い。でもその何倍も、痛い。
どうしちゃったんだろう、オレ……。

「筋膜炎かもしれない」
「肉離れになるってことか?」
「南次郎さん、これまで肉離れは?」
「ない。ただ、ずっとふくらはぎの痛みは抱えてた」
「なんでこんな、急に痛くなんの?」
「そういうものなの。とにかく練習は中止。今日は安静にしないと。すみません氷水を用意してもらえますか」

伊織さんがテキパキと指示して、オレはメンバーに抱えられてベンチに座った。
歩くのもきつい……今年は大事な時期なのに、こんなとこで終わりたくない。

「伊織さん、今回のウィンブルドン、難しいってことだよな?」
「ちょっと待ってオヤジ、オレ、出たい」
「出たいのはわかってる。でもお前はまだ若い。あと数年はやるつもりなら、今年は諦めたほうがいい。肉離れを甘く見ていると、選手生命に関わる」
「嫌だね。諦めるなんて絶対に」
「無理はダメだ、リョーマ」いつになく厳しいオヤジの声。
「そうだよリョーマくん。前回だって相当、無理しただろう?」

さらにオヤジの後ろから、もうひとりのコーチがオレを厳しい目で見ていた。
いつもわがままを聞いてくれるチームだけど、今回の険しい顔は、説得できる気がしない。なによりオレが不安を感じてる。こんな痛いの、はじめてだから。

「大丈夫ですよ」
「え」

オレのふくらはぎに氷水をあてている伊織さんが、のんきな声を出した。
ふっと顔をあげた彼女とばっちり目が合う。その目がオレに訴えかけてた。

「やめさせない。そのためにわたしが来たんだもの」
「伊織さん、じゃあオレ……」
「もちろん。ウィンブルドン、出ようリョーマ。わたしが痛みを消してあげる」

オレの予想を遥かに越えた救世主に、最高のタイミングで出会えた気がした。





to be continued...

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