ざわざわきらきら_03


3.


シンプルなテーブルと椅子。木のぬくもりが伝わる、やわらかい照明。
お世辞でもなんでもない。『アン・ファミーユ』は俺の中でいちばんと言っていいくらいのレストランや。
そのレストランに、定休日に来るとは思ってなかった。

「なあ、なんでいまさら、そんなこと言い出したん?」
「やっぱり、いまさらだよね」
「いまさらやろ。あんだけ俺が口説いても、1冊で十分、それ以上は出す気はないよって、言うてたやん自分」

不二から電話があったのは先週あった大石の結婚式から帰った頃やった。
変な女に会ってむしゃくしゃしとった気分は、その瞬間に消えた。不二から電話が来るなんてここ数年なかったせいで、変に緊張したせいかもしれん。
電話を取ってみると、用事はこれまた意外なことやった。不二は開口一番言ってのけた。
「本を出したい」と。

「そんな渋るような言い方しないで。断る気なら、わざわざここに来てくれてないよね?」
「定休日に貸切状態でパスタごちそうするって言われたら来てまうよ。せやから断る気があるかないかは、関係ない」

俺は『シェフお手製のうにクリームパスタ』が大好物やったりする。不二、いつからこんな才能があったんかな。

「ふふ。なるほどね」

不二は白ワインを注ぎなら、笑顔を崩さない。
どういうわけか最近グルメブログで酷評されまくっとるかつての有名シェフは、ホンマに我慢強い男や。

「不二、仕事やから言うけど」
「いいよ、覚悟はできてる」
「ほな遠慮なく。いまの不二に正統派の本は出せへんよ」

不二は目を丸くした。覚悟の内容が、想像と違ったんやろう。

「お前に金かける余裕ない、って言われるのかと思ってたんだけど」
「もちろん、それは前提や」
「どういうこと?」
「出版業界は不況やから。売れる本はいくらでも出したい。せやけど売れるか売れんかわからん本に、わざわざこっちが金かけるほどの余裕はない」
「だろうね」
「やから、いま一部で酷評されとる不二がまともな本を出したとこで、たぶんそれは売れへん」
「うん、わかるよ。だからそこをなんとかできない?」
「ちゃうよ不二」
「え」
「まともな本なら売れへん。でもまともやないなら売れる」

もう一度、不二の目が丸くなった。今度はそこに鋭さも加えられている。

「ただの料理本じゃなくて……ってこと?」
「そうや。いわゆるゴシップ本。たとえばの話で言えば、暴露やらヌードやら。まあ不二はイケメンやから、俺はヌードでもええと思うけど、さすがにな」

笑ってみせたものの、不二はクスッともせえへん。まあ、そらそうか……。

「僕にそんな価値ないよ」
「そんなことないで。たしかにその辺におるタレントほど知名度があるわけやないけど、売り出し方としてマスコミが飛びつく可能性は高い。前の職場のラ・シックの暴露やったら尚更や。あれだけの高級フレンチレストランやから、汚い話は山ほどあるやろ?」
「当然あるけど……そういう本なら出してくれるってこと?」
「そういうことやね。表向きは料理本として出すこともできる。ちゅうか、そういう金になる話やないと俺から担当編集部にはもっていけへん。売れまくりの大物タレントが料理本を出すんと、わけが違うからな」

さすがの不二も、冷めた目でため息をついた。

「出版社もマスコミだもんね」
「ごめんな。でもそれが現実や。タレントならファンもついとるけど、不二はタレントでもないからな。テレビにでも出て人気が出たら別やけど」
「テレビは苦手……」
「せやな。しかも不二が出た場合、料理よりも先にルックスでファンがつく。そういうのしたないんやろ?」
「僕は料理人だから、料理で人を喜ばせたいんだよ」

それが不二のプライドやってことはわかっとる。それでも、いまの状況から脱することができるんやったら、俺やって協力したい。けどこいつはホンマ、昔から頑固や。

「なあ不二。本を出すほどしんどいなら、もうなりふりかまわんと、やれることやったらええやん」
「うーん、でもちょっとそういうのとは違うんだ。赤字つづきなのはたしかだけどね。僕が忍足に本を出したいって言ったのは、店をどうこうしようと思ってのことじゃない」
「え、ちゃうんや?」
「うん。使いたい食器があって。それを安く仕入れる条件として、もう一度、本を出してほしいって言われたんだよ」
「なんやその条件?」
「変でしょ。でもそうすれば、こっちの宣伝になるからって。あ、ほら、大石の引き出物でもらったワイングラスの人」
「あれ作った職人てこと?」
「そう。偶然、二次会で話す機会があって。発注することにしたんだ」
「へえ……。まあたしかに、あのワイングラス綺麗やったけど、そんな惚れ込んだんや?」
「まあ、そんなとこ」

ごまかすように不二が笑う。まだなんか隠しとるみたいやけど、ま、ええわ。それにしても二次会でそんな出会いがあるんやな。俺もろくでもない女に会ったけど……。

「ところで忍足はあのあと姿が見えなかったけど、どうしてたの?」
「初対面の絵本作家に告白されとった」
「へ?」不二の目が、3回目のまんまるを俺に向けてきた。「忍足は本当にモテるんだね。それに作家なら、忍足の好きにできるじゃない」
「アホか。そんな気さらさらない」
「そうじゃなくて、仕事で、だよ」





不二には「暴露本の方向で考えてみてや」と伝えてから1週間が経つ。俺はなぜか第2編集部の編集長と専務に呼び出されていた。
普通、こういう呼び出しはビビるもんやけど、俺はまったくビビってなかった。ビビる心当たりはないし、今月に入ってから、俺が担当しとる作家はみんな重版がかかって、おかげさんで俺の評判はうなぎのぼり。どう考えても昇進やろうと高をくくって、会議室に向かった。

「久しぶりだな忍足。念願の作家付きになってそろそろ1年か。元気にやってるのか」
「お久しぶりです専務。漫画も小説も児童書も見れて、頭こんがらがりますよ」
「しかし、それが希望だったんだろう?」
「おっしゃるとおりです」

俺は入社当初から作家付きの編集者やったけど、編集部に所属っちゅう形が嫌いやった。
最初は漫画、次は小説、異動届を出しまくっていろんなとこに異動したけど、掲載する雑誌が変われば担当も外れてしまう。それが嫌で、本当の意味での作家付き編集者という肩書きがほしいとずっと上に直談判してきた。その夢がかなったのが、1年前の話。説得に5年はかかったけど、思ったとおり、かなり身軽や。

「お前のわがままには、ほとほと付き合ってきたよな忍足。まあ、だからこそお前が成長し立派な編集者になったのだということもわかる」
「なんですか、あらたまって」
「3ヶ月前、第2編集部にひとり作家を送り込んだだろう?」
「伊賀山先生でしょう? 新人ライトノベル作家やけど、いいもの書きはるんですよあの人」

第2編集部は小学生から高校生までの若年層向け文庫を取り扱っとる。伊賀山先生は高校生向けの胸キュンドタバタコメディが上手なケータイ小説出身の作家で、女子高生が好きそうな際どい(えげつない)ものを題材にしながら執筆を続ける中年のおっさんや。題材と作者がアンマッチすぎるけど、このアンマッチが出来る人ほど、頭がいい。計算しつくされた、わざと稚拙に作られた文章を見たとき、この人は間違いなく売れると俺は確信した。

「私も読ませてもらったが、ありがちでいて、だがツボをついていて、かなり才能がある」
「でしょう。あの人はすぐ売れますよ。いま、広報ともどう宣伝していくか考え」
「忍足」
「はい?」

伊賀山先生の次作品の話かと思ってノリノリで喋っとったのに、急に低い声で専務に遮られて、本能的にぞっとした。

「伊賀山先生が交通事故を起こした」
「は……」
「車で人をはねたそうだ。相手はまだ15歳のお嬢さん」

会議室の中がシンと静まり返った。
交通事故? 人をはねた? それって、加害者側ってことやんな? しかも相手は15歳!?

「ちょ、ちょと待ってください、先生は無事なんですか? たしかな情報ですか?」
「先生は無事だ。これは事実だ忍足」
「あのでもそんな話、担当の俺には……被害者は大丈夫なんですか!」
「まだ手術中だ。お前に連絡がないのは、すぐに伊賀山先生が拘束されたからだ」
「拘束って……」
「警察から連絡があったんだよ。飲酒運転だそうだ」
「飲酒運転っ!?」
「中高生向けのライトノベル作家が飲酒運転で15歳の少女の加害者だ。どうなるかわかるな忍足?」
「どうなるって……ど」
「来週発売予定の伊賀山先生の本は出版差し止めを行う。当然の処置だ」

思わず息を止めた。自分の担当した本が出版差し止めをくらうのは、はじめてのことやった。
あかん……声が出えへん。なんちゅうことや。伊賀山先生、逮捕されたってことやんな。

「落ち込んでいる暇はないぞ忍足、次の質問だ」
「……なん、なんですか」
「この出版差し止めというのが、担当にとってどういう事態かわかるか、忍足」

ぐっと、専務の顔面が近づいてくる。となりに座る編集長の目が、ギラギラと俺を見はじめた。

「……損害、ですか?」
「そうだ。伊賀山先生の初版は1万部を予定していた。損害額は原価だけとってもおよそ600万といったところだろう」
「まさかその金……弁償とか言いませんよね?」
「弁償だ」
「ちょ、待ってください。そんなん嘘でしょ。そんなん、いままでだっていくらでも差し止めあったでしょう」
「落ち着け忍足。弁償は弁償でも、仕事で弁償してもらう。これまでの差し止めだって担当の編集がなんとか頑張って仕事で弁償してきてる。できなかった輩も多いがな」
「それは600万の儲けが出る仕事をしろってことですか? それやったらあっという間ですけど……」
「バカだなお前は。なにもわかっちゃいない」
「え」
「弁償について条件を言う。弁償金は損害をくらった第2編集部にあがるようにしろ。これは絶対だ」
「第2編集部でって、こんな売れへん編集部でですか!?」
「言葉を慎めよ忍足!」

専務のとなりに座る第2編集部の編集長が怒鳴った。唇が震えとる。
なるほどせやからこの編集長、さっきから目がギラギラと……俺の監督不行き届きって言いたいわけや。

「忍足、うちはお前の言うとおり、編集部の中でもとくに売上部数が少ない部署だ。だが、伊賀山先生の1万部は、お前が絶対に売れると言うから、なんとか販売部を説得してやったことだったんだぞ!」
「わかってますよ。編集長には申し訳ないと思ってます。せやけど第2編集部で600万は時間かかりすぎますよ!」
「忍足」

反論を制したのは編集長やなくて専務やった。

「600万円の手っ取り早い儲けを出せ。期限は3ヶ月。3ヶ月でこの第2編集部に600万が戻せないようなら、お前のいまの役職は抹消させてもらう」
「ちょ、3ヶ月!? いくらなんでも無理です! 漫画や小説でも無理や! いまから新人を探して文庫で売って600万あげろ言うんですか!? 俺、この部署に伊賀山先生以外、担当ないんですよ!?」
「そうじゃないよ忍足。良く考えろ。うちには他にもやり方があるだろう?」
「は……他に、やり方?」
「言っているだろう、なんだっていい」

専務のその言葉にはっとする。つまりそれは、手段は選ばんってことや。
第2編集部は小学生から高校生までの若年層狙いの部署……同時に、そこには、児童書もある。
頭に浮かんだのは、結婚式の二次会で会った自称・絵本作家の佐久間伊織やった。





「え、下書き持ってきはったんですか?」
「はいあの、前回ちょっと、個人的にはやっぱり誤解されてしまった気がして。決して遊び半分で絵本作家を目指しているわけではなく、ただあの……」
「いやあの、電話でも言いましたけど、僕もあの日は言い過ぎました。ちょお酔うてたのもあるし」

全然、酔うてへんかったけど。
2週間ぶりの佐久間伊織は、あの日よりは若干おしとやかに見えた。反省したんか、それとも彼女こそ酔っ払っとったんかもしれんけど。
どっちにしても、俺に好意があるのは間違いない。前日に急にデートに誘われて、「ぜひ!」とか上ずった声で答えたくらいやし。根は軽いんやろな。

「忍足さんが素敵だと思ったのは本当です。あんなことするのもはじめてで、お恥ずかしいです。でも言い訳はしません。ただ、本来の目的は本当に絵本について、プロの観点からの意見がほしかったというか」
「わかってます。あの日のことは済んだことやし、今日は仕切りなおしっちゅうことで、もうええやないですか」
「忍足さんにそう言っていただけると、安心します」

軽く頭を下げながら、彼女は苦笑した。
前よりもナチュラルなメイク、少しだけふんわりとしたヘアスタイル。手元にはハンカチ。男を油断させるようなワンピース。シンプルなベージュのネイル。さりげないアクセサリー。
なんやかんや言うたって今日も下心丸出しやん。俺とどうこうなりたくて来たんやろ? ま、今日はそれでええんやけど。
さて……どう距離を縮めるか。下書きがあるならめっちゃ話はしやすい。今回もなんか惜しいっちゅう感じの絵本やろうけど、女を口説くとなると、久々に俺の腕もなるで。

「伊織さん」
「えっ」
「伊織さんって呼んでもええですか? 今日はほら、プライベートやから」
「はいあのぜひ……あ、でもじゃあやっぱり下書きお見せするのは、なんか図々しいですよね」

心配せんでも最初から図々しいっちゅうねん。

「いやでもこれは、やっぱり編集者としては見ときたいし。料理くるまで、下書き見せてもらいますね」
「すみません、あの、ぜひお願いします!」

ぜひぜひぜひぜひ、口癖なんかこいつ。
内心は呆れながら、俺は下書き原稿を受け取った。タイトルには『仮:るさんちまん』と書かれとった。少しぎょっとする。こないだ見たイラストのタッチと、全然ちゃうからったから。

「これ、いつ描いたんですか?」
「1週間前くらいです。構想は1ヶ月くらいですけど」
「こないだのと全然、絵がちゃいますね」
「まだ迷ってるんです」
「迷ってる?」
「はい。わたし独特の絵って、いつも考えてはいるんですけど、独特ってなんなんだろうって。まだイラストにも迷いがある気がします」
「なるほど……」

せやけどこれ……こないだ見たのよりは、かなりええ。色がついたことを想像すると、ページをめくるのが楽しくなりそうや。
その衝動のまま2枚目、3枚目とめくりつつ、俺はどんどん高揚していく自分に複雑な気分になった。

「これ……なんちゅうか」
「忍足さん?」
「ああいや、そろそろ料理がくるから。一旦、戻しますね」

とうとう最後まで読み終えて、俺は唸った。
どないしょう……なんか結構よかったぞ。絵も申し分ないくらい、ようなっとる。
せやけど、この女からなるべく早いうちに600万ふんだくらんことには、俺のキャリアがどうなってまうかわからへん。いまんとこ、ほかにそんな大金ふんだくれそうな作家はおらん。現状、新人なんか探してないし。なんちゅうたって、期限は3ヶ月。やっと編集部に所属せん編集者になれたのに、この役職が取られたらもう最悪や。あの言い方やと絶対に給料も下がるし、どこに異動になるかわかったもんやない。

「やっぱり今回も、あんまり、でしたかね?」
「そんなことないですよ。でもこの話は、もう1回じっくり見させてもらってからがええかな。いまは伊織さんの話、聞かせてもらいたいし」
「わ、わたしの話ですか? いやそんな、とくに話すようなことなんてないですよ……って言っちゃうと、すごくつまんないですけど。すみません」

そわそわと謝った伊織さんは、注がれた赤ワインをがぶがぶ飲み始めた。
緊張してんやなー。こういうの久々なんやろか。ホンマええカモやねんけど、どないしたろか。

「謝らんとって。気楽に行きましょ。ほな、なんで絵本作家になろうと思ったんか、とか」
「それは、ちょっとお恥ずかしい話になるんですけど……きっかけは」

アラサー女のありがちな挫折やら動機やらを聞きながら、俺はどうしようかと考えとった。
今回、彼女が出してきた絵本は、前に見せられた絵本とはケタ違いによくなっとる。絵も繊細になっとるし、文章も、話の流れもオチもかなりええ。原型がこれだけよかったら、ちゃんと編集ついて作りこんだらそこそこ売れるかもしれへん。
ただ、タイトルや話の内容が子どもには難しくて厳しいか? せやけど最近、絵本業界でも『大人の絵本』とか勝手に名づけられた絵本が妙に活気づきはじめて、箸にも棒にもかからんかったようなのが売れ始めとるのも事実や。

「わたしから質問してもいいですか?」
「え、ああ、どうぞ」
「忍足さんって完璧に見えるんですけど、失敗談とか挫折とかないんですか?」

あれ、なんでそんな話になってんやろ……ああ、そうか。あんたが挫折の話、してたからやな。って、現状まさにめっちゃ失敗して危機やねんけど。まあそんな話するわけにもいかんか。
それに今日は伊織さん落とすつもりできたし、話したないけど、話しとくか……。

「5年前に、大失恋したことありますよ」
「え……」
「恥ずかしいですけどね。男のくせに、それが挫折やなんて」

5年前の恋愛を題材にするのは毎度のことながら気が引ける。せやけど、俺みたいなツンケンしとるやつのこういう話に、女はなんでやか、めちゃくちゃ弱い。ギャップ? 母性本能? ようわからんけど、急に目がきらきらしだす。目の前の女も、例外やなさそうや。

「忍足さん、その話……本当につらいですね」
「まあでも、もう5年も前のことやから」

反応もだいたいこんな感じになる。そんで俺に同情して俺に惚れるんやわ。
そんなことよりあの絵本どないしたろか……真面目にやるなら出版まで最短でも半年。でも共同出版に持ち込めば1冊契約できた時点で200万はかたい。契約なんか、今日にでも口説いたら2週間後には取れる。入金までかかったって1ヶ月あれば十分や。その調子であと2冊契約できれば600万。いや、もうこれは一気に600万たたみかけたほうがええよな。
それに、もしそれで絵本が売れたらこの女にも印税が入ってくる。絵本で大ヒットしたのは495万部。さすがにそこまでは無理やとしても、3冊累計6万部が売れれば印税600万円は戻ってくるし、実際、出版業界のなかで共同出版で売れた本はあるわけやし、可能性はないわけやない。それやったらこの女にとっても俺にとっても、結構ええってことちゃう?
あれや、ウィンウィンってこういうこと言うんやろ。

「伊織さん、話は変わりますけど」
「はい」
「前に会ったときも思っとったんですけど、伊織さんは才能ある人やと思います」
「え……」
「もちろん絵本作家としてです。せやけど、さっきの下書きに言いたいことは山ほどあります。編集者として言わせてもらえば、『るさんちまん』ってタイトルは直接的すぎる。もうちょっとひねって欲しい。あとイラストも随所に雑な部分があります。細かいところまで丁寧に仕上げて、やわらかいならやわらかいタッチで。伊織さんも自分で言ってましたけど、迷いがあります」

いつの間にか、彼女はメモ帳に俺のフィードバックを書き込んでいた。
ふぅん。伊織さん、なかなかやん。絵本となると目の色が変わるんやな。マインドは一流や。

「結局、なにが言いたいかっちゅうと、一緒にやってみいひんかってことです」
「一緒にって、忍足さんとってことですか?」
「そうです。透桜社から新人の絵本作家として売り出したい」
「え、ほ、本当ですか!?」
「ホンマです。せやけど最初は共同出版って形になると思います。ご存知ですか、共同出版」
「いえ……普通の出版とは違うんですか?」
「違います。ほとんどの人が出版というと企画出版を想像します。大物作家とかは、企画出版になるんですね。あともうひとつは自費出版。たぶん、伊織さんが前に俺に見せてくれたのは自費出版やと思うんですけど」
「はい、そのとおりです」
「共同出版は自費出版とも違います。やり方はプロと一緒なんです。自費出版はまあ、ネット販売くらいになりますけど、共同出版なら透桜社が提携する全国の書店にも並びますし、ISBNコードもつきます。これは自費出版ではつかへんの、知ってますよね?」
「知ってます。ISBNコードは、世界共通の書籍特定番号ですよね?」
「そうです。ISBNコードがつくっちゅうことは図書館に収められるし、何百年後でも作品として残る。おまけに編集も校正もつく。新聞に新刊広告も出る」

本を出したいっちゅう夢を追いかけとる人間には、この説明はめっちゃ効く。自分の本が世の中に出て、しかも半永久的に残る。その自己顕示欲を満たしたい才能のないやつらをカモに、出版社はこの汚い方法をあみだしてビジネスにした。

「すごい……で、その共同出版っていうのは、えっと、企画出版とはどういう違いが?」

当然、そこやんな。
ここをちゃんと説明せんことには、この女を口説き落とすことはできんやろう。

「企画出版は出版社が本の制作費をすべて出す形になります。でも出版業界は不況です。1冊の本を出版するには結構な金がかかります。これで売れんとなると、出版社にとってはかなりの痛手になる。実際、赤字つづきです」
「はい……よく、聞きます」
「せやから無名の作家を売り出すのに時間がかかるんです。大きな賞を獲っていたりすれば話は別なんですが、こういう埋もれた才能に、いま、出版業界はホンマに厳しい。なんせ絵本は少子化の影響もあって、ホンマに売れん本なんで、販売部としても尻込みしてるんです」
「なかなか出版に踏み込めないってことですね」
「そういうことです。そこで、作家が多少、出版の費用を受け持つことで本が出版できるっちゅうシステムが共同出版と言われるものなんです。伊織さんの件は販売部からもOKが出ました。これは透桜社が、賭けに出たっちゅうことです」

自己顕示欲がくすぐられる言い方をして、俺はたたみかけた。

「共同出版の話を持ちかける作家さんは年に数人です。こっちとしても、可能性を潰したくない作家さんへの最後の手段って感じになる。俺が伊織さんを選んだのは、編集者としてのプライドをかけた戦いでもある」もちろん、嘘や。
「忍足さん……」
「実は前に会ったときから、すでに販売部には話しとったことなんです。伊織さんには才能がある。これを逃すのは、編集者魂が許せんかったんですよ」これも嘘。
「忍足さん、そんなふうに思ってくれてたんですか? それにわたしあんな、失礼なことしたのに……」
「俺、天邪鬼やから。好きな子いじめる男の子って、昔からおるでしょ? せやけど俺の力不足で、企画出版に持ち込めませんでした。すんません」

自分の書いたものが本になる。自費出版じゃなく、出版社が認めた本として書店に並ぶ。
この口説き文句は社内の中で何度も聞いてきたけど、使うのははじめてや。こんな仕事したないってずっと思っとったけど、不思議と、罪悪感はない。

「そんな……あのでも、負担額はいくらくらいになるんでしょうか」
「もうすぐ販売部から連絡がきますから、それまでのんびり待ちましょう」

金額以外の話が終わった頃には、注文したワインボトルは空になっとった。





「送っていただいて、すみません」
「男が家まで送るんは当然です。あの、ちょっと話したいことがあるんで、少しお時間もらえますか?」

人前で金額の話をするわけにもいかへんかったから、彼女の自宅近くまで送るジェントルなフリして、たたみかける覚悟でタクシーから降りた。

「あ、誤解せんといてくださいね。部屋に押しかけようとか思ってないし」
「そんな誤解、してないですよ。忍足さんとても、紳士的だし」

くすくすと笑う彼女に俺も笑顔で答えて、辺りを見渡した。
小さな公園が見える。うん、ロケーション的にもばっちりや。

「あの辺でちょっと、話せます?」
「はい」

横断歩道をわたって歩きながら、微妙に距離を縮める。
伊織さんはニコニコと上機嫌に歩いとったくせに、距離の違和感に気づくとはっとして俺を見た。
こいつほんまにアラサーか……なんやこの、少女みたいな反応は。

「どないしました? 公園、つきましたけど」
「あ、いや……なんかこう……こういうの久々で、あ、えっと、こういう、夜に男の人と公園とか久々で、変にこう、緊張が……なんか、距離も、近くて」
「かわええとこあるんやね」

ぽん、と頭を弾くと、伊織さんが目を見開いた。ホンマに久々らしい。
ほな……仕上げにかかりますかね。

「わ、ひゃっ」
「おっと、大丈夫かいな」

ピンヒールを履きなれてないんか、なんもないとこで急につまづいて寄りかかってきた。受け止めて、いまや、と思う。ナイスタイミングすぎて、自分の強運を褒めたいくらいやわ。
なんやちょっと予定狂ったけど、このチャンスを逃す手はない。

「ごめんなさい、ちょっと酔っ……」

伊織さんが顔をあげた瞬間、俺は彼女の腰を引き寄せて、唇を重ねた。
伊織さんの唇が、驚きで硬直しとる。その緊張をほぐすように頭を支えて抱きしめると、伊織さんの全身から力が抜けていった。

「忍足さ……」

その言葉を遮るように、もう一度、今度は深く口付ける。
……こんなキス、めっちゃ久々にしたな。元カノ以来とは言わんけど、ちょっと冷静さ失うくらい久々や。
ゆっくり唇を離しながら、俺は伊織さんの唇に人差し指を置いた。

「……ごめん、あんまり綺麗やったから」
「嘘、でしょ……」
「嘘やない……伊織さんかわいいし、綺麗」
「忍足さん……」
「な、このタイミングで言うの変やけど、下書き、めっちゃよかったで」
「……絵本のこと?」

頷く変わりにキスすると、伊織さんの目がとろん、と俺を見つめる。
男と女って不思議や。さっきまで敬語やったのに、唇を寄せた瞬間にタメ口んなる。関係性が一瞬で変わる。

「伊織さんが描いた本やなあって。かわいいし、綺麗やった」
「そんな……恥ずかしいよ」
「な、さっき販売部から連絡あってん」
「えっと……販売部?」
「絵本の、共同出版の話な?」
「あ、そうだった……うん」

思考を冷静にさせんように、離れそうになる伊織さんの体を引き寄せて抱きしめる。
頬をなでてキスすると、今度こそ彼女も俺に手を回してキスを返してきた。
あー、このままベッドまでってことんなったらどないしょ……そこまでするつもりなかったんやけど、あかん、俺もなんか興奮してきた。
けど、その前に仕事や。金の話するなら、いましかない。まずはその仕事片付けてから……セックスはそのあとでもええ。

「販売部も納得してくれて、かなり安値でやってくれるって。そのかわり3冊契約んなったけど」
「わたしの絵本が、透桜社から……3冊も出るの?」
「ん。その場合の伊織さんの負担は3冊で600万。透桜社は800万な」

透桜社の金額は完全な嘘やけど。
強く抱きしめながら長く深いキスをする。最後のダメ押しや。
1冊200万。3冊で600万。絡まる舌が激しくなる。これで完璧や。

「ろっ、ぴゃく……」

じっと俺を見つめるその瞳は、もう正常な判断はできてなかった。





――はずやった。

バシン、と左の頬に、鈍い刺激と同時に乾いた音が広がった。そのことに驚いたような顔した伊織さんが、俺を涙目で見とる。
あれ、いつの間にか、距離が。あれ……俺いま、めっちゃぶん殴られたよな?

「伊織さん……?」
「なんか、変だと思った」
「え」
「一気に目が醒めた。わたしの負担が600万!? バカにしてる!」
「ちょ、ちょお待って」
「最低……忍足さん、そういう人じゃないと思ったのに」
「いや、ちょお待って伊織さん、なんか誤解……」

いや、誤解やないけど。あれ、あんたさっきまでめっちゃ頷いてたやん。めっちゃ熱烈なチューしたやん。もう冷静に考えられへんくらい熱くなったやろ? そんでこのあと、俺ともっと熱くなる予定やろ? なんでそんないきなり、ブチ切れてんの?

「忍足さんの言葉、わたし信じたのに!」

ぽた、と雨が降ったのかと思うくらいの速さで、彼女の目から涙がこぼれていった。
あかん、これ失敗や。金額でかすぎたか? 俺の下心が見透かされたか。せやけどこれを逃したら……!

「いや待ってくれ! 才能があると思ったのはホンマや!」これはホンマに!
「わたしだってあるって思ってる! だからこそ忍足さんがやろうとしてることが詐欺だってわかる! こんなことまでして600万も欲しいんですか!?」
「さ、詐欺ちゃうし! 立派な出版方法や! それに才能あると思ってんやったら金かかってでも、絵本、売り出したらええんやんけ! 才能あったら絶対に売れる!」
「出版社に600万も出さなきゃならない才能なんて、そんなものに価値はない!」

まさしく怒号をあげた伊織さんに、俺の左頬は、もう一度ぶん殴られた。

「痛っ! ちょ、やめて、自分、痛いで結構!」
「でもそんなに出版社が600万ほしいなら、いいですよわたし、その話にのっても!」
「え、は? ちょおなに、どっちや」

やっとることと言っとることが成立してへん女が、声たかだかに叫んどる。
二度も殴られて、俺の頭がおかしなったんかと思ったくらいや。

「話にのるって、どゆことやねん。あんたいま、俺を最低って……」
「忍足さんをセクハラで訴えて、示談金600万円! それで共同出版、してやろうじゃないですか!」

開いた口が塞がらんかった。
この絵本作家は間違いなく、『るさんちまん』の作者や。





to be continued...

next>>04
recommend>>TOUCH_03



[book top]
[levelac]




×