Sweet Swirl



その甘い渦の中へ









Sweet Swirl









「柳生おらん?」

その問いかけは、特別あたしに向けられたものではなくて、扉近くの席の、不特定多数に向けられたものだったのだろうけど。
それでも、恐る恐るその問いに答えたのは、顔を上げた瞬間にその声の主と目が合ってしまったから。

「先生に呼ばれてさっき出てったけど?」
「そうか・・・のう、お前さん、英語の教科書貸してくれん?」
「教科書?」
「柳生に借りようと思っちょったに、おらんから」
「あ・・・うん、ちょっと待って」

「はい」と渡した教科書の記名をちらりと盗み見て、派手な髪の毛のその男の子は、「助かるぜよ、佐久間サン」と、ぎこちなくあたしの苗字を呼んだ。

それは高1の春。4月も終わりに近づき、外部入学のあたしにも、クラスメートの顔と名前がやっと一致してきた頃のこと。

次の休み時間に、「仁王君から預かりました」と、柳生君から教科書を手渡されて、あたしは初めて仁王という名前を知った。

それ以来何故か仁王は、柳生ではなくあたしに、教科書を借りに来るようになった。
2年になっても、3年になっても、それは変わることがなくて、「佐久間、英語の教科書貸しんしゃい」と、毎週きっちり、決まったタイミングで、開け放った扉にもたれた仁王があたしを呼ぶ。

あたしは、判で押したように「はい」と仁王に教科書を手渡し、仁王もそれを受け取ると、そのままくるりと背中を向ける。
その変わらない距離感に、あたしは安心していた。

女子の間で、仁王の人気は絶大だ。
遠巻きに仁王を見ている子たちから、挨拶を交わして頬を赤らめる子たち、そしてその内側に、その肩や髪の毛に触れることを許されている子たちがいて、一番仁王に近い場所にいるのが、いわゆる彼女と呼ばれる子。
その彼女さえしょっちゅう変わって、恋愛詐欺師とか女たらしとか言われているのに、それでもいいから、と女の子たちは仁王の周りに幾重にも渦を作っていく。

高1の春から、あたしも確かに仁王に魅かれていて、遠巻きにしている子達の、さらに外から仁王をいつも目で追っていたけれど。
仁王を好きだと、自覚すればこそ、その渦に巻き込まれて、溺れて苦しむのが怖かった。
嫉妬や独占欲や憎しみといった感情に囚われて、他の女の子たちを羨んだり、自分の中の嫉妬心に苦しんだり、そして仁王のことさえ憎んだりしなければならなくなるのなら、こんな気持ちは心の奥底に押し込めて、偶然にもあたしに与えられた「教科書を貸す」というだけの立ち位置を守りたい。

あたしの願いは、それだけだったはずなのに。



その日は委員会が長引いて、校舎を出るときにはもう西の空がオレンジに染まっていた。
暗くなる前に駅に着けるかな、と少し早足になったあたしの横にすらりと伸びた影が並ぶ。

「佐久間、今帰りか?」

斜め後から聞こえる柔らかい声に、心が揺れる。
揺れた拍子に、鍵をかけたはずの場所から仁王への想いが顔を出してしまわないよう、あたしはゆっくりと慎重に振り返った。

「うん、仁王も?」
「おう」

無言のまま、並んで歩くあたしたち。
その気詰まりな雰囲気を破るように、仁王が突然言った。

「お前さんが好きじゃ」

あたしはぎゅっと胸を押さえた。
だめ、そんなに揺らしては、顔を出すどころか零れてしまう。
心の奥で、嬉しさに震える気持ちが仁王に伝わってしまう。
そしたらあたしも、あの渦の中だ。
それは、それだけはどうしても避けなければ。

「あたしは、嫌いだよ」

とっさに口にしてしまった「嫌い」という言葉の冷たい響きと、息を呑んだ仁王の横顔に胸が苦しくなって、あたしはその場から駆け出した。
「佐久間」と仁王が後から叫んだ気もしたけれど、振り向かずにあたしは逃げた。


それから仁王は、あたしに教科書を借りに来なくなった。
声高に「嫌い」と言い捨てたのだから、当然だ。
でも・・・なぜ仁王は突然あんなことを言ったのだろう?
あたしのことが好きだなんて。

そうだ、あれはきっと、オレンジとも紫ともつかない中途半端な空の色に誘われただけ
仁王にしてみれば、ちょっとした冗談だったのかもしれない。
だって仁王があたしのことを好きだとか、そんなの信じられないもの。

そんなあたしの思考を、不意に柳生の声が破った。

「最近、仁王君、来ませんね」

それはたぶん、深い意味はなかったんだろう。
だけどあたしの涙腺を壊すには十分な破壊力だった。

「どうしました?佐久間さん?」
「・・・何でもない」
「すみません。あの・・・仁王君と何かあったのですか?」
「何でもないってば。仁王の話はしないでっ」

昼休みの教室はざわついていたけれど、あたしの叫び声にみんなが驚いて口をつぐんだ。
シーンと、嫌な静寂が広がる。
柳生にしてみればただのとばっちりなのに、それでも、さすが紳士と言うべきか、怒りもせずに「場所を変えましょうか」と言った。

柳生は屋上の冷えたコンクリートにハンカチを敷いてあたしに座るように促すと、自分もその横に座り、少し言いよどんだ後、ゆっくり口を開いた。

「先ほどは、突然すみませんでした。実は・・・近頃、仁王君の様子がおかしいのです。何か考え込んでいるというか、落ち込んでいるというか・・・で、ちょうどその頃から、仁王君が佐久間さんのところに来なくなったので、 何かご存知かと・・・・」

最初は、正直に言ってなんてお節介なんだろうと思ったけれど、柳生の静かな口調に促されるように、気が付けばあたしは仁王との出来事を話していた。

あたしが仁王に魅かれていること。
仁王に好きだって言われて、嫌いだと返したこと。
それは仁王との距離を縮めるのが怖かったからだってこと。

時々鼻を啜りながら話すその内容は、かなり支離滅裂だったと思うけれど、柳生は辛抱強く聞いてくれて、一通りあたしが話し終わると、「つまり佐久間さんは、仁王君の特別になりたかったということですね」と言った。

「違うよ、柳生。彼女になんかなりたくないもの」
「ですから、彼女ではなくて、特別な存在でいたかったのでしょう?」
「柳生?」
「仁王君が英語の教科書を借りるのは、佐久間さんだけだった訳ですから」
「そんなこと・・・」
「・・・こんなこと、私が言うのも何ですが・・・佐久間さんに嫌いだと言われたことが、仁王君はショックだったのかもしれません」
「ショック?」

あたしは、その柳生の言葉にこそショックを受けた。
そりゃ、嫌いだなんて面と向かって言われたら気分は悪いだろうけど、あたしの言葉で仁王が落ち込むなんて、思ってもみなかった。
だってあれは・・・仁王が言ったあの「好き」は、軽い冗談みたいなものでしょう?

「まさか、ショックだなんて。そんなことないでしょう?」
「好きな女性に嫌いと言われて落ち込まない男はいませんよ」
「だって、あたしは・・・」

口ごもってしまったあたしに、「すみません。佐久間さんを責めている訳ではないのです」と、柳生は、銀のフレームの上の眉根を困ったように寄せた。





それから何日経っても、ずっとそのことが頭から離れなかった。
「嫌い」だなんて言ってしまって、傷つけたのなら謝りたいけど、でも、謝ったとして、その先は?
「ほんとはあたしも好き」だなんて、今更言えるわけがない。
言えるわけがないくせに、心に浮かぶのは仁王のことばかりで、知らず知らず俯いて歩いた帰り道、視線の少し先の夕陽に照らされた舗道に黒い染みが見えた。

近づいて見ればそれは、地面に落ちて無残に潰れた柿の実。
見上げた枝には、熟れすぎた果実が重そうにぶら下がっている。

言えないまま心に留まった想いは、枝先で朽ちる果実だ。
鳥に啄ばまれるにしろ、風に吹かれて地面に落ちるにしろ、どっちにしたって最後まで、伝えたい相手には届かない。
未練がましく残る枝先の果実が、あたしの仁王への気持ちに思えて、思わず手を伸ばした。
こんなもの、いっそのこと、落としてしまえば・・・


「柿泥棒」

突然声をかけられて驚いて振り向けば、夕陽を背にした仁王が立っていた。

「どうせならこっちにしんしゃい。その先の方のは熟れすぎじゃ」

そう言って幹に近い実を指差した仁王に、何か違和感を感じた。
その違和感の正体を確かめたくて、思わず見つめた仁王の顔。
口元に、ほくろがない。

「ねぇ、仁王に何か頼まれたの?」
「何のことじゃ?」
「柳生なんでしょ?ほくろ、忘れてる」

そう言って口元を指差すと、仁王の格好をした柳生は、しまったという顔をした。

「私としたことが・・・」
「で、そんな格好までして、あたしに何を言いに来たの?」
「すみません。差し出がましいとは思ったのですが・・・仁王くんも佐久間さんも、何だか随分落ち込んでいるようなので、つい・・・」
「あたしは、落ち込んでなんか・・・」

柳生は、強がるあたしの言葉を遮って言った。
「お節介なのは分かっていますが、1つだけ聞いて下さい。
以前、佐久間さんが学校を休んだことがあったでしょう?
その日も、仁王君が教科書を借りに教室に来たのです。
でも佐久間さんが欠席だと言うと、仁王君はそのまま帰って行きました。
私からも、誰からも教科書を借りずに」

「え?だって、教科書がないと困るのに?」

訳が分からないという私の顔を覗き込んで、柳生がさらに言葉を続ける。

「ところが仁王君は困らなかったんですよ。彼はちゃんと、自分の教科書を持っていたんです。佐久間さんから借りるのでなければ、自分のを使えばいいだけだったんです」
「・・・どういう、こと?」
「つまり、仁王君にとって大切だったのは、教科書じゃなく、佐久間さんだったということです。佐久間さんは、仁王君にとってすでに特別な存在だったのですよ」

そんなこと、柳生に言われてもすぐには信じられなくて、あたしはおずおずと言った。
「ごめん・・・そんな・・・柳生に言われても・・・信じられないよ」

柳生は、少し切なそうにあたしを見つめて、口の中だけで何かをつぶやいた。
あたしが、「何?」と聞き返すと、柳生は俯いてふるふると頭を振った。

「まったく、俺の話はまともに聞かんし、柳生の話は信じられんって言いよるし、どうすりゃいいんじゃ?」

顔を上げながら手の甲で乱暴にこすった口元には、今度はちゃんとほくろがあった。
仁王?柳生じゃなくて、ほんとの仁王なの?

「仁王、なの?なんでこんな、柳生の振りなんかしてたの?」

仁王はあたしの問いかけには答えずに、言った。

「あん時、急に好きじゃなんちゅうて、驚かしたんはすまんかった。じゃけど、お前さんに嫌われちょったちゅうのは、正直かなりこたえたぜよ」

だいぶ傾いた日差しに仁王の銀髪が揺れる。

「初めて自分から好きっちゅうたに、あっさり振られてしもうて。
それで、どうしたもんかとお前さんの様子を窺っちょったら、泣きながら柳生に連れられて、屋上に上がってくところが見えてのう。
何じゃ、もやもやっとこう・・・まあつまり、嫉妬したんじゃ。柳生に」

あれを仁王に見られていたなんて、そしてそれを見て、仁王が嫉妬してたなんて、仁王の口から出てくるのは、思いもかけない言葉ばかりで、あたしは言葉を失くしたまま、黙って仁王を見つめていた。

「それで、お前さんと何を話しちょったんか、柳生に訊いた」
「え・・・」
「安心しんしゃい。柳生は何にも教えてくれんかったぜよ。ただ一言、もう一度お前さんとちゃんと話をせいっちゅうて微笑っちょった。その笑顔が癪に障ってのう・・・お前さん、柳生の話はまともに聞くみたいじゃから」

もう夕陽も届かない薄暮の中で拗ねたように口元を歪めた仁王は、女の子達の渦の中心で不適な表情を浮かべる詐欺師ではなくて、今まで見たこともない、本当にただの高校生の顔をしていた。
あたしは何だかおかしくなって、仁王の顔を覗き込むように訊いた。

「それでこんな、ややこしいことしたの?」

目を合わせないのは、きっと肯定のしるし。
少しだけバツが悪そうに見えるのは、あたしの思い過ごしじゃないだろう。

「・・・だけど、あたしが柳生だって勘違いしてなかったら、どうしてたの?」
「お前さんが気付かんかったら、こないだのことは気にするなって、それだけ言って帰ろうって思っちょった。じゃけど、お前さんはちゃんと気付いてくれたじゃろ?」

じゃから、と仁王の手が、あたしの肩に触れる。

「俺の特別な女になって」

真剣な目でそんなことを言われて、首を横に振れるはずがない。
だってそれは、あたしが心の底でずっと望んでいたことだったのだから。
望んでいながら、自分から手を伸ばすことを恐れていた。
そして差し伸べてくれた仁王の手すら、一度は振り払ってしまったけれど。

こくり、と頷いて見せたら、肩に触れた手のひらにぐっと力が入って、そのまま腕の中にすっぽり抱きしめられてしまった。

頬に当たる胸板の感覚に心臓は破裂しそうに高鳴るけれど、あれほど恐れていた渦の中心は、なぜかとても穏やかで、今ここで溺れるのだとすれば、飲み込む水さえきっと甘いだろう。

あたしは、そっとその大きな背中に手を回す。
夕暮れの風で冷えた指先に、じんわりと仁王の体温が伝わってきた。

「ああ、柳生の格好せんでよかったぜよ。アイツの格好でお前さんを抱きしめるんは、やっぱり嫌じゃき」

笑いながら耳元でそう言って、ぎゅっと腕に力を入れた仁王を、あたしも思い切り抱きしめ返した。


END




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