キチガイ花


思い切り腕を空に伸ばした。ため息がでるような快晴に、気持ちのいい風。毎朝5時に起きる身体をいたわる時間がようやく訪れる午後に、俺はいつも安心する。
せやけど、そんなひとときがもう少しで崩されることを、俺は知っとる。

「見つけたっ、侑士!」

もう少しどころやなかった、すぐやった、すぐ。

「……またうるせーのが来たぜ、侑士」
「ああいうのを粘着っちゅうんかなぁ、はは」
「笑ってすませる侑士に感心するぜ、オレは」
「ええやん。あんなとこも、魅力のひとつやろ、モノ好きからしたら」
「それなら、付き合ってやればいいだろ?」
「残念や、がっくん。俺モノ好きちゃうねん。めっちゃノーマル」

バタバタと大きな音を立てて俺の後ろに来たのは、中等部時代から俺のことを追いかけ回しとる佐久間伊織や。どういうわけか、死ぬほどしつこい。俺のなにがええんかようわからんけど、ほぼ毎日、昼休みになれば俺に会いにくる。ホンマ、いつもご苦労さん。

「ああ、向日は今日もいるよね、そりゃ」
「オレが居ちゃ悪いのかよ」
「悪くはないけど、いつも侑士のとなりで、ずるいじゃん」
「……あっそう」

俺に会いに来とるフリをして、実は岳人と話したいんちゃうかと思うほど、なんなら俺より岳人のほうが、伊織とは会話が弾む。
その見飽きたやりとりを眺めていると、伊織の唇がきらきらと太陽に照らされた。

「あれえ? ひょっとして伊織、口紅ぬってへん?」
「わあ……侑士気づいたの? さすがすぎる! 口紅っていうか、色付きリップつけたんだ。でも目立たない色だから」
「さよか。うん、似合てるで」

少しだけ微笑むと、伊織は目をらんらんとさせた。まさにその目から、らんらんっちゅう吹き出しが出てるように見える。あかん、スイッチ入れてもうた。

「じゃ侑士、ンー!」

らんらんの目を閉じて、ニヤける顔を隠すこともなく唇を突き出してきた。
アホほど見せられてきたこのキス顔も、いいかげん飽きてきたなあ。

「はあ……また始まった」
「なに、向日。なにか問題でも?」
「お前さあ、ことあるごとにチューしたいとか付き合ってとか抱きしめてとか、そんなことよくできるな?」
「仕方ないじゃん、侑士が振り向いてくれないんだから!」
「あきらめが悪すぎるだろうがよ、何年目だよ」
「かれこれ5年目です! なにか問題でも?」
「んん……問題があるかどうかは、俺に聞いてくれへんか?」
「え、侑士、問題ある?」
「いやまあ、もう5年も経つんやし、どうでもええっちゃえんやけども」
「なんかそれもひどい、ひどいよね向日?」
「しらねえよ」

実際、もうネタみたいなもんで。追いかけ回されるようになった1ヶ月後には、すでになっとったような気もする。
伊織は俺とすれ違うたびに口説いてきたり、ボディタッチしてきたり、昼休みになるとこうして話しかけにきたりするものの、長くても10分程度で離れていく。
見つかるたびにされる告白に、最初はなんじゃこいつと思っとったけど、その絶妙な距離感にセンスを感じだして、しかも、なんやだんだんおもろなってきて。
そうこうしている間に5年経ったようなもんやった。伊織には、女友達以上の気持ちになんかなれんけど、拒否もせずに過ごしとる。
それに、悪いヤツやないのはわかっとるから……無下にするのもかわいそうやし。

「よし、じゃあ今日も元気でいてね侑士!」
「はいはい、おおきに。伊織もな」
「きゅーん! 嬉しい! 今日も頑張れる!」

ひととおりはしゃいで満足したのか、伊織は大きく手を振って去っていった。うーん、やっぱり絶妙や。あと少しおったら邪魔、あと数分早くても物足りん。

「さすがやな、伊織は」
「はあ?」
「いやこっちの話」こんなこと岳人に言っても、わかってもらえるわけがない。
「つかさあ、侑士さあ」
「なん?」
「なんでお前、佐久間と付き合わねえの?」
「え、さっき言うたやん、モノ好きちゃうって」
「でも佐久間って、別にモノ好きとか言われるような見た目じゃねえだろ。どっちかっつーと、言いたかねえけど、美人よりじゃね?」

ホンマに言いたくなさそうな顔して、岳人ははっきりと美人と言った。
たしかに、伊織は顔がぱっきりしたタイプの美人や。せやから男には困らんやろと思うのに。

「見た目のことなんか言うてへんのよ俺は。あのしつこさすごない?」
「いやすごい。すごいと思うけどさ、ある意味、あれだけお前のこと愛してくれる女は佐久間くらいしかいない気がしねえ?」
「愛されるばかりが能やないってB’zも言うとるやろ。俺はなあ岳人、愛することが好きやねん」
「オレから見たら、侑士も好きじゃんって思うけど」
「へえ? なんで?」そんなん、思ったこともないけどな。
「嬉しそうじゃんか、佐久間来ると」
「ああ、それはアレや。毎朝見るノラ猫がニャーニャー鳴いとるようなもんや」
「ふうん?」

そう、伊織はしつこい。しつこいうえに、俺を目にした日は必ずラブレターを机の中に置いていく。もう、それもネタや。書いてある内容も最初は熱のこもったもんやったけど、あっちは1週間もせんうちに日記状態になった。
普通の男やったら、ここまで追いかけ回されたら付き合うんやろか? そこまで考えて、すぐに頭を振った。そんなわけがない。俺には跡部って友だちがおること、忘れとったわ。





放課後、部活を終えて着替えていると、焦った岳人がシャワー室から飛び出してきた。

「おいおい急ぎすぎや、気いつけや」
「おお悪い侑士、ちょっと今日用事があるからさ! オレ、先帰るわ!」
「はいはい、おつかれさん。また月曜な」

たいていは一緒に帰っている俺を気遣って、岳人は部室を飛び出していった。飛び出しすぎやっちゅうねん。
その背中を見送って、どうせひとりで帰るんならと、俺は図書室に立ち寄った。

「あいつとは、なんでもないんだよな?」
「まあ、そうだけど」

最新の映画雑誌が入ったっちゅう情報を聞いて本棚を探していると、聞き覚えのある声がした。
そうだけど、と小さくつぶやいた方に目をやると、そこには案の定、伊織がいた。

「伊織?」
「え、侑士?」

背後から近づいた俺の呼びかけに、伊織がぱっと明るい顔で振り返る。同時に、すぐ傍にいる男子生徒の視線も、俺に向けられた。こいつ確か、サッカー部の武内将大……やったっけ。

「おお、奇遇やんか」
「探しもの? あれ、向日は?」
「ああ、なんか用事あるねんて。せっかくやから、映画雑誌でも借りようかなと思ってな」

武内は黙って俺を見続けとる。妙な空気やなと感じとったら、伊織が言った。

「あ、ていうか今日あれだよね、侑士、約束してたよね?」
「え?」
「ほら、一緒に帰ろうって!」

してへん。けどひょっとして、なんか話合わせたほうがええんか、ひょっとして。

「おう……ああ、せやった、な?」
「うん、ということで、ごめんね! また!」

すかさず俺に駆け寄ってきた伊織が、気まずそうに武内に手をひらひらとさせる。
なんやようわからんけど、早いとこ退散したほうがよさそうやな。

「佐久間さん!」
「え、はいっ」

立ち去ろうとした伊織の背中に、武内は大きな声を出した。俺のほうがびっくりするわ、応援団長かお前は。

「オレ、明日から合宿で、1週間いないんだ」
「そう……なんだ?」

だからなに? と言いたげに首をかしげる伊織を見て笑いそうになる。突拍子もないこと言うて困らせんなや、天然か。とかツッコんだら、キレられるよな、たぶん。

「だから再来週の月曜、この話の続き、させてくれない?」
「つ、続きがあるの?」
「ある。あるけど今日は……もう帰るんだろ」

ちらりと、邪魔者を見るような目と視線が合う。なんで俺、こいつにこんな顔されなあかんねん、なんか腹立つわ。





「さっきの告白?」
「違うよ、されてないよそんなの」
「せやけど、あの続きはどう考えても告白ちゃうの? 脈は全然、無さそうやったけど」

そんなんじゃないってば、と俺の腕をポンッと叩く。やっぱり伊織は美人やから、なんだかんだモテるんかもしれん。俺が知らんかっただけで。

「話合わせてくれて、ありがとうね侑士」
「ああ、ええよ。なんか困ってそうやったし」
「いやあ、なんか武内くんってさあ、こう、圧がすごいんだよね。有無を言わせない感じっていうか。だからなんか、告白とかじゃなかったんだけど、ただ質問されてるだけでも、うっ血しそうになっちゃって」
「まあなんか、言わんとすることは、わかる」
「わかってくれる? 嬉しいなあ、侑士と同じ感覚なんだあ、わたし」

また、さりげなく俺の腕を触ってくる。わざとらしい声をあげた伊織を見ると、やけに嬉しそうな顔をしていた。まったく、なにがそんなに嬉しいんやろ。

「調子にのんな」そっと手を払いのける。
「つれない……でもさあ侑士」
「なん?」
「侑士って、なんでこんなにしつこいわたしのこと、受け入れてくれるの?」
「お前、しつこいって自分で気づいとったんかあ、えらいやん」
「そりゃあ気づいてるよ、そういう癖でしょ、これ」
「そうやな、ほぼほぼ病気」
「調子にのるなって言われても、調子にのっちゃうんだよなあ、侑士がこんなだと」
「そうそう、それ見てんの、俺、おもろいやん?」
「鬼。こうして5年も想いつづけてるってのに、ちょっとはわたしに興味わかないの?」
「興味はあるよ」
「え、興味あるの? じゃあ、ちょっと試しに」
「遠慮しとくわ」
「ああん、なんでえ」
「だって俺が好きやないのに、その肩書きだけもらって、嬉しい?」

しれっと言ったら、伊織は唇をちょこんと突き出して、空を仰いだ。

「どこ見とんねん」
「たしかに、って思って。たしかに……侑士が好きになってくれないと意味ない」
「声ちっさ」
「はあ……侑士に彼女ができたら、あきらめられるかなあ」
「そんな陽気に5年も失恋しとったら、とっくにあきらめとるんちゃうの?」

本音やった。5年もこんなことくり返して未だに全力で俺のこと好きやなんて、さすがにそこまで自惚れてない。あわよくば、くらいの気持ちはあるかもやけど。すっかりネタとして習慣化してきたこのノリを、まともに受け止めたことはなかった。

「くはあ、ひどいね侑士は本当に。わたしがこんなに好きだって言ってるのに」
「お前のさっきの、武内に対する態度もなかなかひどかったで?」
「あれは圧が強かったんだって」

そうやって今日まできたし、多分これからも変わらん関係で、このまま友達として時間が過ぎていくんやろうなあと思う。なんやかんや言うて、こいつのが先に男できたりするんちゃうやろかと、ぼんやり考えたとき。

「あれー、伊織! 忍足くん!」

背後から、これまた聞き覚えのある声がした。振り返ると、岳人の彼女が大きく手を振っている。

「千夏じゃん!」
「千夏だよー。なになに? 珍しいね、やっと成就したの?」

伊織とクラスメイトの吉井千夏は、ニヤニヤと俺と伊織を見比べる。
岳人の影響なんか伊織の影響なんかわからんけど、その冷やかし顔、やめてくれるか。

「そうなの! 侑士がね、わたしと付き合ってくれるって」
「言うてへん」
「ああ、もうバレた」
「ふふ。仲良いのに、もったいない」
「吉井はどうしたん? 家、こっちやっけ?」
「今日は伊織の家でお泊りだよ!」
「へえ? そうなん?」
「うん! 千夏のほかにも来るんだけど。女子会するんだあ」

うわあ、なんやめっちゃ響きがええ。許されるなら俺も行きたいとこやけど、そんなん言うたら伊織が本気でセッティングしそうやからやめておく。

「じゃあ侑士、わたし、このまま千夏と帰るね」
「おう、気いつけや」
「あ、ちょっと待って!」
「なんや?」

伊織はバッグの中からノートを出して、胸に挿してあったボールペンでなにやら書くと、それをちぎって、すばやく折りたたんで渡してきた。

「え、これなに?」
「侑士に会った日は、渡すって決めてるんだもん。じゃね!」

ひょっとして、ラブレターか? こんな、適当に書きなぐったようなのが。

「ねぇねぇ伊織、考えた?」
「もちろん!」
「みんなも考えてきたって! うー、負けたくないね!」
「絶対負けられないよー!」

遠ざかっていく二人の声に、ゲームでもするんやろかと思いながら、俺は紙切れ開いてため息をついた。

『来週はもっと可愛いリップをつけていくから、遠慮なくチューしてね!』

こいつ、ホンマにキチガイか。





週末はあっという間に過ぎていった。週明け、憂鬱になるのはなにも社会人だけやない。にわかにサザエさん症候群をひきずったまま、俺のけだるい月曜日がはじまった。

「侑士、昼どうする?」
「ん、なんか頭スッキリさせたいから、屋上いかへん?」
「あー、ってことは今日も来るな」
「さあどうやろな。言うて、来うへんときもあるからな」

この日も快晴やった。コンビニで買って来たパンを持って、岳人と屋上に向かう。
岳人にはああ言ったものの、伊織は今日も来るやろうと思っとった。
先週、また可愛いリップつけるとか書きなぐっとったもんな、あいつ。
思い返して苦笑していると、渡り廊下の向かい側に伊織の姿を見つけた。
さあ、今日はどんな第一声を投げてくるんやろか。
おかしな期待に視線を向けたら、俺に気づいた伊織は、さっと目を逸らした。
ちょお待て……目を、逸らしたやと?

「なんでや……」
「んあ? どした侑士」

岳人は目の前にある俺の背中のせいで伊織に気づいてないのか、不思議そうな声をあげる。少し唖然としながらも、だんたんと近づいていく距離。変な胸騒ぎがしてきた。伊織は一切、こっちを見てない。そして、その胸騒ぎは正解とでも言うように、となりにいる女子と話しながら俺の横を素通りしていった。

「ちょ、ちょお待て、伊織」

俺は伊織を呼び止めた。なにげない顔をして、俺を振り返る。

「なに?」
「なにって……いや、なに?」
「は?」
「お、おかしいやん、自分」空笑いも、なんでやか虚しい。
「え、なにが?」
「なにがって……」
「え、ごめん。よくわかんないけど、わたし行くね」

俺の動揺を鼻で笑うようにそう言って、颯爽と背中を向けて去っていく。あかん、固まって動けへん。なんなんや、その態度。

「は、はぁ?」
「侑士?」
「いや全ッ然、意味がわからへん!」なんやあれ、俺いま、普通に返事されたんか?
「どうしたんだよ」
「どうしたんだよ、じゃあらへんやろ岳人。いまの伊織見たやろ?」
「それがどうかしたのかよ」
「どうかしたのかよ、じゃあらへんやろ岳人! 伊織やで? 伊織が、俺に、なんのアクションも起こさんかったやないか!」
「いやでも……普通に返事してたじゃん」それがおかしい言うてんねん!
「返事したとか、そういう問題と違うやん! あんだけ、侑士侑士って、俺に付きまとったやないか。がっくんもさっき言うたやん、今日も来るって!」
「ああ、まあだから、用事でもあんじゃね?」
「いやいやいやいや、おかしいやろ。なんでいきなり、あの態度なん!?」

完全に心拍数があがっとった。せやかて、おかしいもんは、おかしいし!

「くくっ……なんだよ侑士、それじゃまるで、お前、佐久間の彼氏みてえじゃんか」
「か……いやそら、別に、アレや。伊織がどんな態度とってきたって、ええけどやな、俺かて」
「んじゃつべこべ言うなよ、行こうぜ」

なんで岳人はびっくりしてへんの? そら、俺はあいつの彼氏でもないし、普通の態度とってきたって、それが普通なんやからええけど。いやでも、なんで急に? おかしいやん。
心の動揺は、発生したときが一番激しくて、だんだん落ち着いてくるはずやのに。放課後、机の中のラブレターも置かれてないことに、俺はますます混乱した。
俺に会った日は渡すって、決めとったんちゃうんか!





どれだけ考えてもわからん月曜日から、1週間が過ぎた。
1週間……伊織はずっとあの調子で、俺に会っても挨拶もせえへんようになっとった。話しかけると一応、返してはくる。それでもこの5年間の伊織の態度からしたら、あれは俺にとって、無視や。
なんでやろう、俺がなにしたっちゅうねん。あれから伊織と顔を合わすたびに、机の中を覗いても、あるはずのラブレターはない。最後にもらった紙切れラブレターを何度も見ては、どんよりした気分になる。そんな状況で土日も過ごしたせいで、いつもより数倍、絶望的な月曜日の放課後。

「おい忍足、なにイライラしてんだ、てめえは」

この1週間のことをずっと頭の中で再生しながら屈折した思いで壁打ちをしているところに、跡部の声がした。
ああ、そうや。俺はたしかにイライラしとる。せやから、お前のちょっかいに答える気にもなれへん。

「忍足よ、聞こえてんだろうが?」

俺と同じように5年間も伊織の態度を見続けた岳人も、まったく気にとめてへんし、跡部は俺がひとりでこんな悩んでんのに、静かに壁打ちもさせてくれへんし、なにより伊織のあの変わりようは、一体なんやねん! せやけど俺、伊織のなんでもないから、問い詰めてもおかしいし!

「忍足!」
「うっさい! なんやねん! どいつもこいつも!」

完全な八つ当たりで跡部を振り返ると、片眉をあげた跡部からため息が落ちた。

「忍足、お前、帰れ」
「なんでや。俺は壁打ちしとるんじゃ、邪魔せんといて」
「邪魔はお前だ。お得意のポーカーフェイスはどうした? ここんとこずっとそんな調子じゃねーか。ほかの部員達に迷惑なんだよ、帰れ」
「……」

正論すぎる跡部になにも言い返せんようになって、黙ってテニスコートを出ていく。
ああ、もう最悪や……なんでこんなイライラさせるんや、伊織。お前がいきなり変な方向転換しよるから、調子が狂うやないか!

「ああ、もう……」

冷静になんてなられへんかった。八つ当たりは止まることなく、バンバン大きな音を立ててロッカーを閉め、バンバン大きな音を立てて部室のドアを閉めて出ていくと、となりの教室から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ずっと佐久間さんのこと、好きだったんだ」
「気持ちは嬉しいんだけど、えっと……」

デジャヴやん、これ。
そっと教室の中を覗くと、案の定そこには、伊織と武内が向かい合っていた。
そういや話の続きがあるとか言うとったな、武内。ちゅうかやっぱり、告られてるやん、伊織。なんて返事をするのか気になって、耳をすましてみる。
いやなんで俺がこんなこと、気にせなあかんねん。

「忍足とは、なんでもないって言ってたよな?」
「うん、なんでもない」
「なら、じゃあ俺と付き合ってほしい、いいだろ!? こんなに好きなんだ!」

たしかにすごい圧やな、と思ったのもつかの間、武内が伊織の腕を引き寄せて、強引に唇を奪おうとしていた。

「や、ちょ、やだ、やめてよ!」

抵抗する伊織の声が耳に入ってくるよりも先に、俺の体は勝手に動いとった。

「アホボケカス! お前なにさらしとんじゃコラァ!」
「え、侑士!?」
「うわっ! なんだお前!」

武内の背中から首根っこを引っ張り上げて伊織から引き剥がす。涙目になって怯えた顔をした伊織は駆け寄ってきて、とっさに俺の背中に隠れた。
めちゃめちゃ腹が立つ……その原因はいくつもあるけど、とにかく、この武内だけはホンマに許せへん。俺の憎悪にみちた視線を、武内はぎんぎんに開いた目で脅してきていた。

「なんなんだよ、お前、いつもいつも……」
「こないだ会ったな? 忍足侑士じゃ。お前こそなにさらしとんねん。それが好きな女にすることか」
「お前のことなら知ってるよ忍足……だけどお前は、佐久間さんのなんでもないんだろ! 引っ込んでろよ!」
「誰が引っ込むかボケ! 伊織があんなに嫌がってんのに、なんでもなかろうが見逃すわけあらへんやろ、殺すぞ!」

関西人特有の、品性の欠片もない乱暴な口調におののいたんか、怯んだ武内は黙った。教室がシン、と静まり返る。日中やなくてよかったわ、幸い、誰にも見られてへん。

「伊織、行くで」
「う、うん」
「忍足! 待てよ!」
「誰が待つか! ええか、今度伊織にあんな真似してみい。ホンマにお前のこと殺すからな!」

我に返ったような武内の顔を見て、教室を出た。そのまま、俺は掴んでいた伊織の手首に力を込める。

「い、侑士……」
「ついてこい」

テニス部の部室に連れ込んだ。ためらう伊織を強引に引っ張って、ひと部屋先のロッカールームに引きずり込む。だんだんと強くなる俺の握力に、伊織は顔を歪めた。

「ちょ、ちょっと侑士、痛い!」
「そんなん知らんわ」

ロッカールームの鍵をしめてすぐ、壁に追い詰めた。両腕で、逃げ場を塞いで。

「侑士、これ……壁ドン」
「笑うと思うか? 俺、いまめっちゃムカついてんねん」
「怖いよ、侑士」
「ずっと聞きたかってんか」
「な、なにを?」

怒りが露骨に顔にでていることには、気づいとった。さっき襲われそうになったときよりも、伊織の目は怯えとる。それでも俺はもう、我慢ならん。なんでこんな気分にさせられなあかんねん。

「お前、どういうつもりや。なんで、俺のこと避けんねん」
「……避け、てるかなあ?」
「この期に及んでしらばっくれる気か?」
「いや、ちょっとしつこくしすぎてるかなって」
「5年間、あんだけしつこくしとってか?」
「その……」目が泳いどる。
「なんや」
「なんて、言ったらいいか……」

だんだんと潤んでいく瞳に、どういうわけか胸の奥から悔しさが湧き出てきた。
なんでそんな顔するんや、そんな顔するくらいなら無視なんかすんなや! やってお前は、俺のこと……!

「俺のこと好きなんちゃうんか!? あんだけ好きやって、愛しとるって言うとったんは嘘やったってことやな!?」
「う……嘘なんかじゃない!」
「せやったらなんでか説明せえ!」
「なんで、そんな……」
「ええから言えや!」
「なんでよ!」

とうとう、伊織の頬に涙がつたった。俺に負けへんくらいの大声を出した伊織に、俺は思わず怯んだ。

「なんで、わたしのこと好きじゃないくせに……なんでそんなこと、言うの?」
「それはっ」……なんでやろ? 言葉に詰まった。
「侑士こそ、説明してよ!」

反撃をくらっとった。なんでかなんて、あかん、なんでや、俺、胸が痛い。なにこれ、めっちゃキリキリする。そんなんわからへん、でも伊織はずっと俺の傍におったから……!

「そん、そんなん、どうだってええやろ!」
「そんなの侑士だけずるいよ!」
「せやから……! 無防備すぎやって言うてんねん! あんな、自分のこと好きってわかりきっとる男とふたりきりになるやなんて、アホちゃうかお前!」
「侑士だってわたしが好きってわかってるくせに、ふたりきりになることだってあるじゃんか!」
「男と女やわけが違うやろ!」
「だけどあんなことされるなんて思ってないもん! 話があるっていうから行っただけなのに、なんで侑士にこんな怒られなきゃなんないのわたし!?」
「お前が……お前がいきなり俺の傍から離れるからやろ!? せやからあんなことされんねん! 俺が通りかからんかったら、どうするつもりやったん!? あんな男にキスされて、ええんかそれで!?」
「だったら侑士がしてよ!」

めっちゃくちゃ理不尽な俺の発言に、伊織もまた理不尽に言い放ってから、涙をぽたぽたと落とす。またしても言葉に詰まった俺を見て、堰を切ったように声をあげた。

「なんで侑士がそこまで言うの!? 侑士はわたしのこと、好きにならないって言ってたじゃん! わたしだって、こんなことしたくてしてるわけじゃないのに! なんなのその、みんなが喜びそうな反応は!」

その言葉に、ピタ、と冷静さが頭をもたげた。
……みんなが喜びそうな反応って、なんのことや。

「したくてしとるわけやないって、どういう……」
「わたしのこと好きじゃないならそんな彼氏面しないでよ! キスのひとつも出来ないくせして!」

わずかに取り戻しかけた冷静さが、一瞬で消える。カチン、と頭の中で音がなった。いろいろ問い詰めたいところはあるけど、とにかく、そんなことよりも頭にきた。なんやねんその、俺の男っぷりを下げるような言い方は。

「……そない言うなら、したるよ」
「え」

半分やけくそやった。伊織の目を、じっと見つめる。揺れる瞳が、驚愕の色を隠せずに俺のことを見つめ返す。どういうわけか、焚きつけてきた張本人が引いとった。

「あ……違う、ごめん、嘘。嘘だから、いまの!」
「はあ?」
「違うの、そんなつもりじゃなくて、本当にするなんて思ってないし」
「なんでや……たった今、いっちょまえに俺のこと挑発したやんけ」
「違くて! その、わたしは、わたしは本気じゃないキスなんて嬉しくない! 侑士が、わたしのこと好きじゃなきゃ、嫌だから!」
「ああそう。ほな、本気ならええんやな?」
「待って待って近い、近いよ侑士っ」
「もう本気や、いまさらこんな気持ち、ごまかせるか」
「ゆう……っ」

目をかたく閉じた伊織に口づけると、全身の力が抜けていった。さっきまで濡れていた頬を包んで深く求めたら、胸のシャツが弱々しく握られる。
離れた唇の熱に溶けそうになりながらその目を見つめたら、伊織は息を呑むような静かな吐息をこぼした。
ようやく、俺の心にはっきりとした感情があふれてくる。あかん……めっちゃかわいい。嘘やろ、なにこれ。

「もっかい、してもええ?」
「侑士、これって……」
「可愛いリップに、遠慮なくチューしてねって書いてきたん、お前やろ?」

我慢できずに、伊織の返事を待つことなく、俺はもう一度キスをした。
何度もくり返されるキスに、伊織は足から崩れ落ちた。
その体を腕の中に包み込みたくて、俺は床に座り込んだまま伊織を抱きしめる。俺の唇が、伊織の唇から離れるのを嫌がって、何度も求めては、甘い音と吐息を漏らした。





ようやく唇を離してからも、熱くなった体を、俺はずっと抱きしめたままでいた。しばらく黙ったままそうしていると、伊織がふっと、震えるような声でつぶやく。

「信じられない、嘘みたい」ぐずるように、俺の胸に顔を埋めている。
「嘘やない、伊織が好きや、俺」言葉にすると、もっと好きになっていく。
「うー、嘘みたい……」

ぎゅっと首に巻き付いてくる伊織がかわいくて、髪の毛をすくように撫でながらやっと落ち着いてきた俺の脳みそ。正直、長いことキスしたおかげで時間も経ったで、めちゃくちゃ冷静になっとった。

「そんで? こんなに俺のこと好きやのに、無視したのはどういうことやねん」

俺の首に巻き付く腕が、ピリッと緊張した。幸せな気分やから流しても良かったけど、どうせ後で問い詰めることになるなら、いまのほうが白状しそうや。

「したくてしたわけやないって、言うとったな?」
「ええと……」言いながらゆっくりと、少しだけ体を離してうつむく。
「みんなが喜びそうって、どういうこと? みんなって誰や」

抱きしめたまま責めると、伊織は腕の中でちいさくなっていった。

「ごめんなさい、怒らないで聞いてほしい」
「内容によるわ」
「そうなんだけど……怒らずに、聞いてほしくって」
「怒るようなことなんか?」

思い切ったように顔をあげて、はははっ、というから笑いも虚しく生唾を飲み込んで黙り込んだ伊織に、俺は目を細めた。

「ええから、言うだけ言うてみ」
「……あのですね、この間、女子会があったじゃないですか」急に敬語になりよった。
「そんで?」
「その日ですね、前々から決まっていたゲーム大会があってですね、負けた人は、優勝者の考えた罰ゲームをですね、実行しなくてはならなくてですね」

どっかの営業マンの言い訳みたいな口調で、伊織は額や頬をパタパタと手を抑えていく。
それは冷や汗か? それとも脂汗か? いまにも「恐縮です」とか言い出しそうや。

「罰ゲーム、やと?」
「お、お察しかと思いますが、ええと、わたしが負けまして。それで、優勝者の方が言い渡した罰ゲームがですね」
「俺のこと、無視せえってか?」
「……侑士に、みんなと同じように普通に接すること。但し、話しかけられるまで話してはダメだと」

きつくなっていく俺の視線に、伊織はさささっと目を逸らした。
それや、それ。お前はこの1週間、ずっとそんなふうに俺を避けとる。

「でもそれも、今日までの約束だったんだけどね。だから明日からはまた普通に! あ、普通っていうか、わたしが侑士にしてること普通じゃないけど、わたしと侑士の普通の感じで!」
「その説明いらん」
「ですよね」
「そんなんして、そいつなにがおもろいねん!」

俺、女子にそんな面白がられるようなキャラちゃうし! むしゃくしゃして言い放つと、また伊織の目が泳いでいく。
あれ……なんやろ、この違和感。

「なあ、誰や、それ言ってきたの」
「うーん、誰だろう? 侑士の反応が、見たかったそうで」
「誰や!」
「いやそれはあの、なんていうかプライバ」
「伊織!」
「向日です!」

舌打ちまじりに声をあげると、間髪入れずに白状しよった。
ちゅうかなんで女子会に……あいつがおんねん。

「泊まってないからね!? でも千夏の彼氏だから、途中参加してきて、さ」

頭の中で、先週末からのやりとりがぐるぐると思い出されていく。俺に、伊織と付き合わないのか聞いてきた岳人。本当は好きなんじゃないかと、冷やかしてきた岳人。伊織が俺を無視しはじめたときの、あの冷静な態度の岳人。
……そういうことやったんか。あのオカッパ。

「あの、侑士」
「あのボケ絶対殺す」
「侑士ってば!」
「なんや!」
「怒ってるとこ、悪いんだけど……もっかいして?」
「え」
「キス……せっかく新しいリップ、つけてきたんだから」

たぶん、俺の怒りを沈めたくて、そう言ってきた。自分から言うてきたくせに、顔を真っ赤にしてうつむいとる。
反則や……もう、岳人のことなんかどうでもよくなってくる。

「ふふ。アホやな、もうリップなんかさっきのキスで、すっかり取れとるっちゅうねん」

親指でその唇をなぞって意地悪を言うと、何度もまばたきをしながら、手のひらをパタパタとさせて自分の顔を仰ぎだした。
もう、なんやその感じ……。

「あー、あかん。めっちゃかわええ!」
「えっ」
「な、伊織の唇、溶かしてもええ?」

もう崩れ落ちる心配がないのをいいことに、吸い付くように伊織を求める。
めっちゃ気持ちええ……お前に負けへんくらい、しつこなりそうや、俺。





fin.



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