風あざみ
あ、ここにあったと見つけるのも困難なほどに、今年の春は終わってしまった。
春だ春だと思っていた四月は雪だか雹だか降るほどに寒く、足早に見に行った桜も寒くてすぐに帰ってしまったほどだった。
やがて四月も下旬になると、今度は突然太陽の距離が地球に近づいたのかと思うくらいに暑く、せっかく買った春物のお気に入りジャケットも夜しか羽織ることが出来ないという始末だった。
今年はどうもついてないんじゃないかと、世界の異常気象と自分の人生とをおこがましくも一緒くたにして勝手な推測をしてしまうほどだ。
わたしが連休中に亜久津を見かけたのは、そんな日にカラカラの道を歩いている時だった。
「何かお探しですか?」
「……っ」
店外にまでワゴンで物品を出しているあたたかな雑貨屋によほど似つかわしくない彼は、店員のキレイなお姉さんに話しかけられて、こちらから見ても仰け反ったとわかるほどに驚いていた。
「別に……」
「気になるのがあればおっしゃってくださいね!あ、こちらなんか人気ですよ」
「……っ、……」
さすがにキレイなお姉さんに「俺に指図すんじゃねえ!」と言うのは気が引けたのか、何か言いかけて口を開いた亜久津もキョロキョロと照れくさそうに周りを見渡し、挙句わたしと目があって余計に仰け反るという一連の流れは、わたしが亜久津を見かけてから凡そ一分ほどの間に起こった。
「佐久間……っ!な、なに見てやがんだ」
「いや、だってそこにいるから……亜久津こそ何してんの?雑貨買うの?」
「……買わねえよ」
「買わないのに見てたの?」
「お前に関係ねえだろ!」
「いや、買いにくいなら付き合ってあげよっかなって思ったんだけど」
「余計な世話だ!」
うーん、なんて怪しい。
そうは思ったのだけど、なんかツンツンしてる亜久津にちょっかいをかけるのは気が引ける。
でもなんだか亜久津が気になるわたしは、「ふぅーん」とか「へえー」とか言いながら彼の隣に立ち、それこそ買いもしない雑貨を手に取った。
「これ可愛いよね?」
実はわたしはこの雑貨屋によく通っていたりするのだ。
「てめえ帰れ」
「……その言い草なくない?」
「何しに来たんだ」
うん、ここ、結構通っているんですよ。とは言わず、
「ただの散歩だよ。今日は店が休みだし」
と返す。亜久津はフンと鼻を鳴らして言った。
「ただの散歩なら帰れ」
「指図すんじゃねえ〜」
「ああ?」
亜久津はなんだかんだと言いながら、どうしてもここがいいのか自分が立ち去ることはせずわたしを帰らせようとする。
ということは遅かれ早かれここで会うことになっていただろうと思うと不思議でならない。
だって、亜久津が、ポップな雑貨屋。
「ぷふっ」
「なんだ、なに笑ってやがんだ」
「いやいや、なんでもない」
「帰らねえのか」
「帰らない。だってなんか興味あるもん。だから指図すんじゃねえ」
わたしと亜久津の様子を見て店員さんはしれっと店内の中に入って行った。
亜久津はどうしてもわたしに帰って欲しそうに眉間に皺を寄せている……が、そんな風に言われると余計に帰りたくなくなってしまう根性の悪いわたしは、亜久津の真似をしてこの状況を茶化すことにした。
「クソッ……なら勝手にしろ」
「うん、そーする!」
亜久津は店員さんの背中を追いかけるように店に入り、その亜久津の背中をわたしは追いかけた。
目の前のそれがいつの間にか広く大きくなっていることに気づいて、急に男の成長の凄さを感じた。
そう、亜久津は小学校の頃からの同級生である。
だから何気に亜久津との付き合いは長い。はや10年ということろか。
しかもただの同級生というわけでもなく、うちの常連さんだったりする。
注文するのは、いつもモンブランとコーヒー。
昔はオレンジジュースだったのに……なんて言ったらまた怒られてしまいそうだ。
「最近来ないよね?亜久津」
「関係ねえだろ」
「そればっか」
「話しかけんじゃねえ」
「冷たいなあもう……」
わたしの実家は、ケーキを主とした喫茶店を自営している。
わたしのじいちゃんのじいちゃんのとうちゃんの代から続いている、地元ではさり気無く老舗だ。
もちろん、店の主体として取り扱っているものは変わってきて、今はケーキなわけだけど、一番最初はまんじゅう屋だったとかなんとか……だから店名も直球だ。
ずっと変わらず、「佐久間屋」。……正直、恥ずかしい。
ともかく、亜久津に初めて会ったのは、その「佐久間屋」の中だった。
ものすごく若いお姉さんに連れられて店内に入ってきた亜久津は、当時からなんかギラギラしていた。
8歳とは思えないギラギラさは、お店の中でいつものおやつを楽しんでいたわたしには些か衝撃的だった。
だから、本当によく覚えている。
そして二回目に会ったのは……
「ねえ亜久津もしかしてさあ」
「話しかけんなっつってんだろうが」
「優紀ちゃんに何か買ってあげる感じ?」
優紀ちゃんが今もせっせと働いているだろう喫茶店だった。
衝撃的な出会いから数日後のことだった。
いつものおやつに飽きたわたしがうんと年の離れた姉に連れて行ってもらった喫茶店。
亜久津はそこで、うちに来た時と全く同じスタイルでモンブランを頬張っていたのだ。
「……」
「あ、やっぱり。もうすぐ母の日だもんね」
さて、どうやら図星だったらしい。
顔を赤らめた亜久津はぷいっと横を向いて、「そ、んなんじゃねえっ」と小声で答えている。
あらあら、どう考えてもそんな感じじゃないか。
「いいじゃん照れなくたってさ」
「テメエそんなこと誰かに言ってみろ、殺してやるからな」
「あなたが言うと物騒すぎるので冗談でもそんな言葉を軽々しく口にしないように」
「わかってんのかっ」
「わかったよ!誰にも言いません。言いませんけどー……」
実は昔からなんとなくわかっていたことだったのだけど、亜久津って超カワイイとこがあるよねえ。
思いながら鼻歌を歌うように亜久津を横目で見た。
少し焦ったような表情でわたしを見る亜久津。
この年になるとなかなか見れるもんじゃないから面白い。
「けど、なんだ。ああ?」
「言わないから、わたしにも選ばせてよ」
「……はあ?」
「だってわたし優紀ちゃん大好きだから、聞いてしまったからにはどうせなら喜ばせたいなあ〜って。こういうときってね、自分が欲しいもの選ぶといいんだよ!でも亜久津はさ、ここにある雑貨、自分で欲しいと思わないでしょ?だから、女のわたしの方がさ!」
「…………」
一理ある、と思ってくれているのか、亜久津はわたしの話を聞いたまま考え込むように黙った。
わたしこそ何をこんなに必死になっているのかよくわからないのだけど、思い立ってしまったからしょうがない。
さあ、なんてたたみかけよう。
「……だって亜久津、変なの選びそうなんだもん」
「ああ!?」
「わーごめん、冗談!でも優しい亜久津にちょっと感激しちゃったから、なんか協力したくなっちゃって!それにほら、わかんないんじゃない?どういうのがいいのか、さ。頼ったほうがよくない?わたしに!」
「……フン、勝手にしろ」
腑に落ちてるのか落ちてないのか、やっぱり一理あると思っているのか。
なんでもいい、勝手にしろってことは、好きにしていいってことだし。
それにしてもなんだろうね、この浮遊感。
亜久津のいいとこはたくさん知ってるけど、なんか今日のは、グッときちゃったな。
「亜久津おはよ!」
「……なんだ、テメエか」
連休明け、学校に到着して間もなく亜久津の姿を見つけたわたしは嬉しくなって咄嗟に声を掛けた。
特別な用があったわけでもないのに、なんで声かけちゃったんだろ、わたし。
こないだのにわかデートから、ちょっと変な気分になってる。
「お、おはよって言ってんだからおはよって返そうよ〜」
「何か用か?」
むーん。用と言われると、特にない……困った困った。
「うんと……あ、あの後、結局どっちにしたのかなって!」
「どっちだってテメエには関係ねえだろうが」
「は……はあ!?ひっどい!関係あるし!どっちかのどっちも選んだのわたしじゃん!!」
即座に一蹴してその言い草なくない!?
思いのほか大きな声でついついむっとしたわたしを、亜久津はぎょっとした目で見て途端に周りを気にし始めた。
「テメエ……」
「あ、ごめん。声、おっきかった……」
自分の声量に気づいて口を塞いでみてももう遅い。
母の日ギフトなんて言ってないものの、
なんとなく会話からわたしと亜久津がデートしてたみたいには聞こえてしまうかも。
そもそも亜久津はらしくないことをしていると思われるのが嫌いなタイプだ……これはまずい?
「……」
「ごめんごめん!ホント……ひゃっ!」
今更はっと周囲の視線に気づいたわたしの腕を、亜久津は力強く掴んで引っ張っていた。
おおっと小さなどよめきがあがる中、人通りの少ない廊下の隅っこに連れていかれる。
ザワッと音がするくらいの殺気で振り返った亜久津に、おどおどと返した。
「い、痛いんだけど……亜久津ッ」
「そういう話は教室でしてくんじゃねえ!」
「わかった、わかったよう。ごめんてば」
ギロリとこちらを睨んでくる目はいつもの亜久津らしさを十分に伺わせて、居心地の悪い気分になる。
こないだは結構優しかったのになーと、ついつい思ってしまう自分が馴れ馴れしくて余計に居心地の悪さを感じてしまう。
何も言えずにもじもじと下を向いていたら、フン、と呆れたような吐息が上から降ってきた。
「……それより」
「え?」
機嫌、なおったのだろうかとゆっくり顔をあげる。
見ると、亜久津の周りに漂っていた怒りのオーラは消えていた。
すると僅かな沈黙の後、何故か目を少しだけ泳がせながら聞いてきた。
「お前……モンブラン作れんのか」
「へ……?」
「…………」
亜久津にリピートの請求は通用しない。
わかっていてももう一度聞き返してしまうような質問だった。
だって唐突すぎやしないだろうか。モンブラン作れんのか?
「……えーと……作れる、一応……教えてもらったことあるから。なにゆえ?」
「……面倒くせえのか」
「いや……あー……うーん……ていうか、モンブラン欲しいの?」
「この季節んなるとどこも売ってねえだろ」
「あー……なるほど。だから作っちまおうと。作って優紀ちゃんに……」
「それ以上言ったらぶっ殺す」
「わー、物騒物騒」
どうして亜久津がそんなにモンブランが好きなのか不思議でしょうがないけれど好きなもんはしょうがない。
雑貨屋といいモンブランといい、亜久津には全く似合わないところが楽しい。
いやー、わたしもモンブランは大好物だけどね。亜久津ほど中毒じゃないなあ。
「ていうかね、季節じゃないからなんだよ。だからどこもやってないし、うちも今は材料ないから無理だよ。まあ大型店ならやってんじゃ……」
「……チッ」
「チィ言われてもー。苺のモンブランとか作ってみる?結構おいしいよ!」
「それは栗は入ってんのか」
「いやいや、苺言うてるやん」
ついつい関西弁になってしまった。
この人は長年モンブランが好きなくせしてあまりモンブランのことを知らないのではないだろうか。
「ああ!?だってモンブランだろ!」
「あのね、モンブランってのは山のことなんです。モンが山でブランが白。だから白い山っぽくしてりゃ別段栗が入ってなくたってモンブランなの。栗のことじゃないの」
「……っ……」
あの亜久津が、絶句してしまった。
うーん、昔からケーキに囲まれているから常識かと思っていたけれどそうではないらしい。
眉間に皺を寄せたまま少しだけうつむいてしまった亜久津は、実は相当なショックを受けているのかもしれなかった。
「あのちなみに、母の日は当日、母の日ケーキってのをうちで販売してるよ?」
「そんなもんはいらねえ」
「ええ〜!優紀ちゃん、充分喜んでくれると思うんだけど!」
「俺はモンブランを食わせてえんだよ!」
「そっ……そうか……そうだよね」
そんなに恥ずかしげもなく意気込んで言われるとなんだかこっちが恥ずかしくなってしまうのはなぜだろう。
このマザコンめ。
「んじゃあ、エセ栗でもよければ、やってみる?」
「……なに?」
優紀ちゃんのためにそんなに必死になっている亜久津の願いを聞いていると、
今は季節じゃないからダメ、終了!……では、やはりどうにも不憫であり……。
本当はケーキを販売している店の者としてはやりたくなかったのだけど、しぶしぶわたしはエセ栗を使ったモンブランの作り方を亜久津に教えることにした。
「ふ、あ……」
「佐久間どしたのー?大きなあくび!」
「ん、はは。ちょっとね」
明日は母の日だ。
わたしも亜久津を見習って何か買いに行こうかな。
昨日の亜久津の奮闘ぶりを見ていると、そう考えたくもなる。
「寝不足?彼氏でも出来た?」
「だといんだけどねー」
割と仲の良いクラスメイトときゃぴきゃぴ話していると眠気も吹き飛んでいくのだけど、今日の授業中は確実に寝てしまうだろうなとぼんやり考える。
昨夜、寝たのは午前を三時間も過ぎた後だった。
それまで、わたしは亜久津と店の厨房をこっそりと使いながら、生クリームやらマロングラッセやらと格闘していたのだ。
……本当に、親にバレなくて良かったと心から思う。
夜、こっそりと家を抜け出したのも初めてならば、無断で店の厨房を使うなんてことも初めてだった。
父から教えてもらったレシピを書き込んでいるノートを広げながら、マロンクリームを顔につけて「うまくしぼれねえ!」と嘆く亜久津に笑った。
ものすごい罪悪感とものすごい高揚感。
そんな珍体験に、わたしは興奮したままなかなか寝付けなかったのだ。
「あ」
「ん?」
「ううん。なんでもない」
もう一度あくびをしかけた時、廊下から歩いてくる亜久津の姿を見て喜んでいる自分に気づく。
連休明けからこの二日間、亜久津との時間が長すぎたせいだと言い訳したい。
なんだか悔しくて亜久津と目を合わせないように窓の外を見る。
グラウンドから校舎に急いで流れていく生徒たちを見ながら、奴もそろそろ席についただろうと体を捻ると、まんまと目の前に奴がいた。
「ひっ!」
「ああ?」
なんでこの人はわたしの机の目の前に突っ立ってわたしにガン垂れ流してんだろう……!
衝撃もあるけどとにかく怖すぎて思わず声をあげると、亜久津はさっきまでのガン垂れはどこへやら、わたしから視線を逸らして言った。
「お前、放課後空いてんのか」
「え……あい、てます。なに?今日も……?」
極力小声で聞いた。
周りの生徒たちは幸い、わたし達がしゃべっていることに興味はないようだけれども。念のため。
ところで、さっきまで話してた友達どこいっちゃったのか。
亜久津が向かってきたことが怖すぎてどっかいっちゃったんだろうな。多分。
「ならいい。あとでな」
「は?」
ちょっと意味がわからない。
思いながら亜久津の背中を眺めてみても、相変わらず、「大きくなっちゃって」と独りごちるだけだった。
「え、ねえなんで?」
「いいから黙ってついてきやがれ」
放課後、案の定亜久津に「おい」とカツアゲされる勢いで声をかけられたわたしは、何故か亜久津の家に行くことになってしまった。
いきなり「俺の家に来い」だから困惑してしまう。今日も一緒にいるなんて困る。
複雑な乙女心は、当然、亜久津に届くとは思わないけども。
「なんでか教えてくれったって……」
「ついたら教えてやる」
「ふぅん。まあいいけど」
優紀ちゃんはこの時間帯、家にはいないはずだ。
だからますます困惑なのだけど、大方、家でモンブランを作るのを手伝わされるだろうことは予想がつく。
だって明日だもんね、母の日。
昨日の厨房で作ったように出来るだろうか?家庭だとうまくいかないことも多かったりする。
やっぱりそういう不安がわたしを呼ぶという結末になったのだろうか……うーん、やはりマザコン。
「そこに座れ」
「え、座るの?」
「文句あんのか」
「ないない、ないです。そやってすぐつっかかるんだから」
フン、とそっぽを向いてカバンを乱暴に投げた亜久津は、わたしをリビングのソファに座らせたまま自分の部屋に行ってしまった。
ここから見えるキッチンは、驚くほどに美しい。優紀ちゃんのキレイ好きっぷりに感動してしまう。
そんなキッチンを今から内緒でぐっしゃんぐっしゃんにして片づけるのは至難の業のように思えて、わたしがキッチンをまじまじと、それこそガン垂れ流ししている時だった。
「なにしてやがる」
「えっ、あ、いや、キッチン綺麗だな〜って」
「……座ってろっつったろ」
「いいじゃんどうせここ使うんでしょー?」
「……ああ?誰が使うっつった」
へ?と口を開けたまま首を傾げていたら、亜久津がぐんぐんとわたしの目の前まで来てギロッとわたしを見下ろした。
怖い。怖いけどようやく慣れてきたこの視線。怖いとドキドキが混ざって、変な気分だ。
「これ」
「う?」
ギロ、のまま動かない亜久津がすっと何かを差しだした。
横に傾げてた首をそのまま戻して今度は下に落としたら、可愛いポップなラッピングが目に入る。
「あ!あの雑貨屋の!可愛い箱〜!これどっち?宝石箱?オルゴール?」
亜久津と一緒に雑貨屋に行ったあの日、これとこれ!とわたしが選択したのがそのふたつだった。
亜久津は、最後は自分が選ぶと言ってわたしを先に帰らせたのだけど、そういえばどっちにしたのか聞いてなかったなんて思い出す。
どっちかはわからないが、どっちもこんなに大きかったっけ?と、たった二日前のことがなんだか遠い過去のようだ。
「開けてみろ」
「え!開けていいの!?ダメだよ!同じに戻せないよわたし!」
「フン、じゃあ一生そうやってじたばたしてろ」
「は……」
何かわたし間違ったことを言ったのだろうか?と一瞬思ったものの、亜久津の顔はわかりにくいけど少しだけ笑っていて、これはもしかしてからかっているのかと気付くのに些かの時間を要した。
そうしていると、今度は目の前にどん、と何かを置かれる。
これまた一瞬、蕎麦かと思った自分が情けない。
「……モン、ブラン……?」
「文句あんのか」
「あああありません、ありませんとも。しょうがないよ。うん」
「しょうがねえってなんだ」
「いや、ごめん、なんでもない。でももう作ってたん――」
「……」
「……亜久……津?」
なんとかこれはモンブランだと自分に言い聞かせながら返答していると、いつのまにか亜久津の手がロウソクをモンブランに差し始めていた。
太いぐるぐるしてるロウソクが1本、小さいぐるぐるしてるロウソクが8本……。
「亜久津、これ、優紀ちゃんに……」
「……誰が母の日だっつった?」
ポケットから100円ライターを取り出して、カチ、カチっとロウソクに火がともされていく。
目をまん丸にしてその光景を見ていたら、うっかり涙がこぼれ落ちそうになってしまった。
「忘れてるわけじゃねえんだろ、今日」
「そりゃ……もちろん、忘れてるわけじゃないけど……じゃあ、これ……」
「欲しいものを選んだなら、嬉しくないはずねえだろうな?」
その、亜久津の弱気な声に、今度は一気に涙がこぼれ落ちた。
ぐずぐずと鼻をすすりながら、テーブルに置かれたままのプレゼントを掴んで、リボンを解いた。
箱の中から出てきたのは、宝石箱と、オルゴール。
「ど、どっちも……あるっ……」
「いいか、生まれて初めて言うからな」
「う、生まれて初めて!?」
「黙って聞け」
「……っ」
黙って聞けるように。ちゃんと亜久津の声が耳に届くように。
わたしはプレゼントをぎゅっと胸に抱えたまま、口元を押さえた。
そうだ、全然頭になかったわけじゃない。もちろん、心の中では、思ってた。
でももう、そんなに特別じゃなくなってきた今日。
友達も、本当に親しいコしか、覚えてなかった今日。
ネット上の友達が、コンピュータに教わって、気付いたようにメールしてくる今日。
親でさえも、ちょっと御馳走にしようか、くらいの今日。
……ちゃんと、特別に思ってくれてる人がいたなんて。
「誕生日、おめでとう」
「あ、あく、あく、つうー……」
「泣くな。ぶっとばすぞ」
「な、なんで、なんで、い、い、いきなり……」
「お前に会って10年目だろうが。これくらい、してやってもいいと思っただけだ」
本当は、こんなに喜ばせておいていきなりぶっとばすんですか?と言いたかったのだけど、もう涙があふれて言葉が出なくて、最後の亜久津の言い訳めいた言葉に、余計にしゃべれなくなった。
うう、ううと唸りながら目の前の亜久津の胸に身を寄せたら、そっと肩に回ってきた手があったかくて。
「こんなの、ずるっ……い……優紀ちゃんだと、ばっか、思ってたのに……っ」
「ババアには食器洗いでもするからいいだろ」
「い、いいのかな……うう」
亜久津のくせして、黙ってぽんぽんと頭を撫でてくれた。
亜久津のくせして、思い切りしがみつくと、ぎゅっとその力を同じように返してくれた。
亜久津のくせして、マザコンだとばかり思っていたのに、もっともっと粋なことするなんて。
「う、う……亜久津……」
「なんだ」
「好き……」
「……ッ、……モンブラン、食わねえのか」
話を逸らすようにわたしの身体を自分から剥がして、亜久津はフォークを手渡してきた。
ずるずるとまだ鼻をすすりながら、わたしはロウソクの火を消してモンブランにフォークを突き刺す。
全然美味しそうじゃないモンブランのマロンクリームが、ポロポロとフォークから落ちていった。
「蕎麦……」
「ああ!?」
「んっ……でも美味しい!美味しいよ亜久津!」
「フン、当たり前だ」
泣き笑いで口を動かすわたしに亜久津が微笑みをくれたのは、それから間もなくのこと。
わたしの今年の春は、今、やっと訪れたのかもしれない。
下唇についたマロンクリームが、もっと甘いものにもっていかれた瞬間に――――。
fin.
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