恋心








初めてお前に出逢った時、特別な想いなど存在しなかった。

徐々に触れ合う日常の中で、この想いが存在したのかと言われれば、そうかもしれない…が、腑に落ちない。

ただ何度聞かれても誤魔化すそのきっかけを、問われる度に思い出す情景がある…

そんなことなど、お前は微塵も知らないのだろうな…だが、それでいい。












恋心












「国光さ〜ん?…晩御飯何がいい?」

「……そうだな、久々に和食が食べたい気もするが…」


自室に篭もりきりの俺を心配してか、伊織がそっと顔を覗かせながら聞いてきた。

久々に部屋の整理をしている時、ふと見つけた写真を眺めながらそれに見入っているうち、どうやら、いつのまにか夕方になっていたようだ。


「…あ、懐かしい〜!昔の写真整理してるの?」

「つい、見てしまうものだな…」


「不二先輩からもらったものがほとんどだから、綺麗なアングル…あ、この写真…私がマネージャーになりたての時!」

「ああ…俺のことを嫌っていた時だな」


「ちょ…も〜〜〜う!学生時代のことを話すとそうやって意地悪ばっかり!」

「本当のことだから仕方ないだろう?」


つい、こうしたこと言って、伊織を困らせ、怒らせてしまう。

意外に根に持つ男だと思われても構わない、伊織の困惑の顔が、愛しくて見たいだけだ。


「…でも…国光さん、私が国光さんのことちょっと苦手なのわかってて、よく好きになりましたよね…」

「ちょっとで済む程度だったか?」


「ちょ、ちょっとです!もう!それなのに好きになるなんて、実はマゾなんじゃないの国光さん!」

「…………」


「う…冗談…そんな怖い顔しなくても…」

「怖かったか?黙っただけだったんだが…」


眉間に皺を寄せて黙っただけで、すぐに伊織は黙り込む。

そんなつもりはないのだが、未だにこの顔で怯えさせているのかと思うと、俺の気持ちも少し複雑なものへと変化していく。


「…でも…国光さん、いつから、どうして私の事…?」

「ん…?さあな…だからいつも言っているだろう?いつのまにかだと」

「そやってまた…気が付いたらだって言うけど…いつもそれ、誤魔化されているような気しかしないもの!」

「腹が減ってきたな、そろそろ夕食の準備をしないか?」

「あー!またそ―――っ…!…ん…」


俺の態度に食い下がる伊織の唇に、俺は深く口付けた。

こうすれば、伊織が黙ることを俺は知っている。

………俺も…成長したものだな。


「…それとも、先にこちらの腹ごしらえをするか?」

「!!…な、何言ってるの国光さん!も…!!バカッ!」


唇を離した隙に目を見つめてそう言うと、伊織は顔を真っ赤にして階下へと降りていった。

思わず微笑み、視線を下に向けた俺の目に映ったのは、青学メンバー全員で撮った記念写真…

俺の隣に位置づけられた伊織は、俺から少し距離を取り、その隣に居る桃城と笑って映っていた―――――。















「はじめまして!あの、千夏ちゃ…吉井さんから紹介されて、その、頑張ります!…よ…よろしくお願いします…!佐久間伊織と言います…!頑張りますっ…!」

「支離滅裂で結構なことだ」


「えっ…あっ…う…」

「吉井、しばらくはお前が教育してくれるということでいいんだな?」


伊織に出逢ったのは、生徒会室で吉井が伊織を連れてきた時だった。

テニス部員が増え始め、雑用が吉井だけでは追いつかなくなった頃、吉井は丁度、一人マネージャーに入れてくれないかと頼んできた。

不二からの推薦もあり、俺は吉井に信頼がある為、二つ返事でOKを出した。


「うん勿論!ほら伊織ちゃん、そんな緊張しなくていいから!手塚はこう見えても、伊織ちゃんと1コしか違わないんだからね?」

「ぷっ…」

「………」

「はっ…!いや、あの、今のは…!も…もう千夏ちゃん!!」

「あははははは!大丈夫大丈夫、手塚はもう慣れっこだって!さ、じゃあまず部室へ案内しますか!手塚、あとの手続きよろしく〜!」

「ああ…行ってこい…全く…」


吉井の発言に対して思わず噴出した伊織はすぐに俺の顔を見て、真っ青になってからその矛先を吉井へと移した。

それが、伊織と俺の出逢いだった…今考えると、思わず微笑んでしまう。





*





「佐久間」

「はっ…はい!!なんですか手塚部長っ…!!」


伊織がマネージャーになってから1週間目には、彼女が俺を苦手としていることは目に見えてわかった。

1ヶ月も経った頃、恐らくそれに気付いていたのは、俺だけではなく、皆、わかっていたことだろう。


「……これはなんだ?」

「…えっ…そ、それは…テニスボールです…」


「そんなことは見ればわかる。どうしてテニスボールがこんなところにふたつも転がっているのかと聞いているんだ」

「あ……えっと…」


「レギュラーだけの朝練の時、ボール拾いをするのはマネージャーの役目じゃなかったのか?俺は吉井にそう言ってきたが…?」

「すいません!あの、全部拾ったつもりだったんですが!」


この頃、吉井と伊織の役目は完全に分かれていた。

吉井の主な仕事はレギュラーメンバーの管理であり、伊織は雑用だった。

だがいつまでも慣れずに、伊織はミスばかりを繰り返していた。


「したつもり、というのは言い訳でしかないことをお前は知っているか」

「すいません、すぐに片付けます!」


「もういい。これは俺が片付けに行く。お前は少し、そこで頭を冷やせ」

「そんなっ…手塚部長―――っ!!」


踵を返して去っていく俺の背中に、伊織の声が響いていた。

それをも無視して行く俺に、今度は大石が心配そうな顔をして駆け寄ってきた。


「おい手塚、彼女はまだ慣れてないんだし、もう少し優しく…」

「女だからと言って容赦はしない、それにもう1ヶ月だ。慣れてないとは言えないのではないか?」


「まだ1ヶ月だろ?もうちょっと大目に見てやれよ、泣きそうじゃないか、彼女…」

「吉井はこんなミスをしたことはない」


「吉井と彼女は違うだろう!?」

「マネージャーとしてしなくてはいけないことは一緒だ。いいから練習に戻れ」


ピリピリとしていたと言われれば、それは否定出来なかっただろう。

出来る者と出来ない者がいるのは仕方のないことだが、毎日のようにミスを続ける伊織に、俺は少し呆れていた部分があった。

だが一生懸命なのはわかっていた。だからこそ、外す事はしなかった。

もう少し寛大であるべきだろうか、と思ったこともあったが、伊織だけに寛大であることが良いことだとはとても思えずにいた。







「手塚部長…あの…」

「…佐久間か、どうした」


放課後、生徒会の仕事に追われ部活に出れずにいた俺のところへ控えめにノックをした伊織が現れた。

今朝のことを謝りに来たのはすぐにわかったが、念のため、どうしたのかと聞いた。


「失礼します…あの朝練の時の…ボール拾いのこと…本当に…す…すいませんでした!以後、こういうことは、ないように…」

「ああ、もういい…」

「………すいま…せんでした…」


伊織の謝罪をきちんと聞くこともせずに、俺はそれを一言で片付けようとしていた。

その俺の態度に、あからさまに伊織は落ち込み、生徒会室を出て行こうとした。


「佐久間…」

「えっ…はい!!」


いつもこんな風に感情的になることはない自分に、大人気ないと言い聞かせ、俺は出て行く伊織に声をかけた。


「マネージャーという仕事は、その言葉通り、部員達の負担を減らし、上手に遣り繰りをするのが役目だ。部員達に気遣われ、逆に心配をかけるようではマネージャーとは言えない」

「……はい……すいません…」


「お前が懸命なのは、誰もが認めている。だが成長しないままでは、懸命なだけで終わってしまう。マネージャーとしての役目は当然だが、お前にしか出来ない事もある。そういったことから始めてみもせずにマネージャーとしての喜びは得られないんじゃないのか?」

「えっ…」


「辞めたいと、思っているのだろう?」

「…………………そんなっ…こと…」


明らかに、伊織の顔色が変わった。

俺が厳しくすること、想像以上に大変な仕事であること、なかなか慣れることが出来ずにいること、馴染めずにもいること…それが伊織の負担となり、大きなストレスとなっているだろうと思っていた。

どうやらそれは、図星だったようだ。


「辞めたい時は、遠慮せずにそう言ってもらって構わない。だが、決断にはまだ早いと、俺は思う…そして、お前の考えは甘い」

「…っ…」


今まで何の部活にも入っていなかった伊織には、当然のことだった。

だからこそ、厳しくしなくてはいけないと思っていた。

そうして人は成長するのだと、俺は自分自身を通して知っていたからだ。

ふと、時計に目をやると、19時を回っていた。


「遅くなったな…家まで、送ろう」

「いえ…大丈夫です…部長…ありがとうございました…失礼します…」


…涙を浮かべていた。悔し涙であるに違いなかった。

伊織を泣かせたことに、俺は妙な虚しさを覚えていた。

間違ったことは言っていないと、確信があったが…それでも…失礼しますと言って走り去った伊織のことが、後味を悪くさせていた。





*





「あら国光、今日は早いのね。…まだ5時半よ?」

「はい、行ってきます、母さん」


―――その1週間後、俺は久々に朝早く家を出た。

朝練はこの1週間のうちにもあったので、当然、行っていたのだが、俺はたまに、まだ誰もいない学校で、閑散としたテニスコートで一人でボールを打つのが好きだった。

自分のラケットから奏でられるテニスボールの音が、身を引き締めるような気がするからだ。

その音で、自分がどれだけ成長したかも、調子が悪い時もすぐにわかる。

だがこの利点は、周りに音がないということだ。

それ故に、教員も生徒も誰も来ていない時間に行く事が必要だった。


さすがにこの時間は、車も少なく穏やかに朝が過ぎていこうとしていた。

まだ開けられていない正門は通り過ぎ、裏口から入りテニスコートへと向かう。

部室の鍵をカバンから取り、差し込むと何か違和感を覚えた。


「………」


ゆっくりとドアノブを回すと、やはり思ったとおり、部室に鍵がかけられていなかった。

ここ1週間は、鍵当番はすべて伊織に任せてあった。

またかという思いと、部室の鍵を閉め忘れるという大きなミスに俺は大きくため息を吐いた。

テニスボールを残すならまだしも、部室の鍵閉めを忘れるなど絶対にあってはならないミスだった。

あれほど言った俺の気持ちも、伊織には全く伝わっていないのかと思い、あの時覚えた妙な虚しさはこういう事に繋がっていたのかとさえ、思った。

そのまま部室で着替えを済まし、何度もため息を吐いた俺はその憂鬱な思いを消すためにも、ラケットとテニスボールを持ってコートへ出た。

するとそこには、伊織がいた…部室に入る時には、死角になって見えなかったのか…伊織は、コートのブラシ掛けをしていた。

俺は伊織のいる所まで行き、全く俺に気が付いてない伊織に後ろから声を掛けた。


「佐久間」

「ひゃぁおぅ!!!…あ…あ…ぶ、部長!?ど、どどどうしたんですか!?」


派手に驚いて振り返った伊織は、俺を見て目を丸くした。

首にタオルを掛けて、汗を流しながら、伊織は少し息を切らしていた。


「お前こそ、どうしたんだ」

「私は…その…ブラシ…掛けを…」


「何故、こんな時間に」

「……それは…その…部長は!?どうされたんですか?」


伊織は言いにくそうに俺の顔を見て、そして下手くそに、話を逸らそうとした。

俺はそんな伊織を見て、もう一度訊ねた。


「佐久間。話を逸らさずに、最後まで聞かせろ。そうすれば、俺も答えてやる」

「…それは…あ…その…その…私にしか…出来ない…仕事を…それを見つけて…マネージャーとしての喜びを…知りたかったんです…」


「佐久間…」

「こんなこと、何の役にも立たないの、わかってるんですけど…!」


タオルで顔に落ちてくる汗を拭きながら、泣きそうになりながら、伊織はそう言った。

俺にそう問われることだけで、涙が落ちそうになるのは、自分の非を認め、その非が悔しさに変わり、その悔しさを誇りに変えるため自分なりに努力したエール以外の何物でもないだろうと、俺は強く感じた。


「いつからやっているんだ…?」

「部長に…言われた次の日から…丁度、鍵当番だったので…そうじゃなくても、鍵…当番を志願するつもりでした…」


「いつも何時からここで…?」

「5時から…です…コート5面、一人でブラシ掛けするのって結構時間くっちゃって…1面、20分くらいかかっちゃうんですよね!それで、その、その後、ネットも拭いたり、部室も掃除したりして…みんなが来る頃には、丁度、終わるので…5時が丁度良くて…」


5時にここに来ていることを、俺が怒るとでも思ったのか、伊織は申し訳なさそうに、伏し目がちにそう言った。

懸命に言うその声色が、言い訳じみていて、俺は思わず笑った。


「…えっ…」

「ふっ…誰もそんな努力を怒ったりはしない。佐久間、お前にしか出来ない喜びを、感じることは出来たか?」


「あ…それは…まだ…わからないん…ですけど…」

「そうか…俺も手伝おう」


「えっ…!部長、いいですよ!だって、練習しにいらしたんじゃないんですか!?」

「気にしなくていい。どうせだ、ブラシ掛けの仕方も、教えてやる」


俺がそう言うと、あっという顔をして少し落ち込むような素振りを見せた。

俺がブラシをもうひとつ持ってくる頃には、不安そうな顔をして俺を見上げてきた。


「…佐久間、気にしなくて良い。お前のその気持ちが大事なのだからな」


微笑みながらそう言うと、伊織は漸く笑顔を見せた。

その表情を見て少し安心した俺は、コートを振り返って伊織の作業結果を眺めた。

そんな俺に、伊織は元気を取り戻したように声をかける。


「部長って…笑うんですね」

「………笑わない人間などいるのか?」

「いないと思いますけど…部長はそうかもってちょっとだけ思ったり…」

「……随分デタラメなブラシ掛けなんだな、佐久間」

「えっ…!!」

「Eコートからやりなおしだ」

「ええええええええええ!!」

「二人でやれば10分で終わる。さぁ行くぞ」

「そん…そんなぁ……酷い……うう…あ、…ちょっと待って下さいよ部長ーーーっ…!」


俺はこの時に、伊織に恋心を抱いたのかもしれないと、今になって思う。

陰ながら努力をする伊織を見て、俺は誤解をしていたのかもしれないと思った。

すぐにメソメソとするくせに、負けん気の強さにも俺は感心していた。

伊織と初めて笑いあった、それがこの日の朝だった。

お前がずっと俺を苦手としている頃、俺はお前に心を奪われていた。


そして半年後…俺は伊織に想いを打ち明けた。

それからしばらく、俺は孤独感と戦った…。

















「国光さん、お味噌汁、お大根だけどいい?」

「ああ、ありがとう」


1階のリビングへ降りると、すでに夕食のいい香りがしていた。

キッチンで味噌汁を作っている伊織の後ろへ立ち、俺はそっと抱きしめた。


「ひゃっ…!く…国光さん…?どうしたの?」

「幸せを実感したくなった…いけなかったか?」


いつもはしない俺の行動に、伊織は小さな悲鳴を上げた。

だがこんな俺でも、突如、伊織が恋しくなり抱きしめたくなる時がある。

特にあんなことを思い出しては、愛しくてしょうがない。


「あら…それじゃまるで日常じゃ実感出来ないみたいじゃないですか」

「実感している…だが何度でも、お前の存在を確かめたいんだ」


「もう…そういうのズルイ…国光さん、そこの小皿取って」

「ん…?味見か?俺がしよう」


少し離れた場所においてある小皿を取るように俺に指示を出す。

思えば、俺が指示を出していた学生の頃とは立場が逆転している。

やはり、女は強い…いや、伊織が強くなったのか…。

どちらにしても、幸せに変わりはない。


「え、国光さんがするの?いいけど…熱いから気をつけて…ちゃんとふーって…あっ…!」

「………っ…!!くっ…」


伊織の言葉を聞かずに、そのまま小皿に移された味噌汁を口に運んだ俺は、あまりの熱さに身体が思わず声を漏らした。

それでもかなり、気をつけて味見をしたつもりだったのだが…。


「あーもうだから言ったのに〜…ちゃんとふーしなきゃダメですよぉ〜!」

「……む…いや…うまい…熱いが…」


「熱いの当たり前!火傷してないですか?国光さん…大丈夫…?」

「ああ…大丈夫だ…」


本当は少し火傷をしていたが、心配そうに俺を見上げる伊織を見ては大丈夫としか言えなくなってしまった。

それでも伊織は心配そうに俺を見つめ、冷凍庫から氷をひとつ持って来てから、俺の口の前に掲げた。


「これから食事なのにか?」

「氷ひとつで何言ってるんですか。これが溶ける時間くらい我慢してください!」


強く言い返す伊織に、とりあえず何も反抗せずに俺はその氷を口に放り込んだ。

そんな俺に満足したのか、伊織は嬉しそうにこちらを見ながら味噌汁を器へと入れている。

やがて口の中でごろごろと氷を溶かし、無言でテーブルについた俺に、後ろからグラスを持ってきた伊織が声をかけてきた。


「国光さん」

「ん?…!」


振り向くとすぐに、潤いを持った伊織の唇が軽く俺の唇へと触れた。


「火傷がすぐに良くなるようにおまじないです…ふふ…」

「………成長したんだな、伊織も」


「なんですかそれっ…」

「いや、こっちの話だ…」


微笑みながらそう言った俺に、伊織は腑に落ちない様子でぶつぶつと文句を言いながら、思い切り味噌汁を飲んで火傷をしていた。

成長はしても学習はなかなかしないということか…


カナダに来て1年目の、静かな夜だった――――――――。























fin.
Count Number 9797:Request from M様



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