大切な人
俺はテニスが好きだ。
ただそれだけの理由でどんな苦痛にも耐え、ここまでやってきた。
そしてプロテニスプレイヤーとなった今、漸く光が見え始めた時に俺のテニスをも脅かす、こんな苦悩と戦うことになるとはな…。
大切な人
「手塚くんば、ちかっぱええガタイしとんやね」
「……ありがとうございます。藏山コーチの教えがいいので、俺も助かってます」
「あんたまたうみゃーこと言うてから!!うちの倅はそげんたいした男じゃなかと!!あははははは!」
ちかっぱ…とは確か…力いっぱいの略語だったかな…。
中学の頃以来、ここを訪れてないものだから、すっかり方言も忘れている。
「おい手塚、うちの親父に構わなくていいから、コート見回って来いよ」
「おみゃーまた久々に帰って来たかと思ったらなんねそりゃ」
「うるさいんちゃね親父は!手塚が困っとろーもん!」
「どげん困っとぅと!?どこね!?どの辺ね!?俺にゃ困っとぅよぅには見えんばい!?別に俺が手塚くんと話しよっても良かろーもん!?」
「だけん手塚ば無表情たい見えんだけね!!迷惑しとるくさっ!!」
「…お言葉に甘えさせていただきます」
親子喧嘩をしている藏山氏に聞こえていたかは不明だが、その一言を残して、俺はコートへと立った。
密かに無表情と言われたことに対して、不愉快になったわけでは決してない。
ただ、一人で風を浴びて歩いていたかった。
何故急遽、ここへの合宿が決まったのかはわからない。
だが藏山氏の言い付けを無視するわけにはいかない。
これが俺の仕事だからだ…だからどんなに辛くても………………っ…何を考えているんだ俺は、辛くてもなどと言っている場合ではない。
近々試合も控えている、今こそ練習量を増やし次の試合に備えておかなくてはならないというのに…。
「……どうかしてる…」
「ホーントどげんかしとーばいあのクソ親父っ!」
「!…藏山さん…」
「おお、いかんいかん…ここに戻って地元の人間と話すと、つい、な」
つい、方言に戻ってしまうのだろう。
いつの間にか俺の後ろを追ってきていた藏山氏は照れくさそうにそう言った。
俺は出身が東京だからそういった体験は出来ないが、方言というのは何か…温かみを感じる…素直に羨ましいとも思う。
俺がいつも頭の中で顔を思い浮かべる存在の伊織も…地方出身だ。
いつだか、伊織が実家の親御さんと電話をしているのを聞いたことがある。
寒い地域に生まれた伊織は、あまり口を開かずに、俺には理解不能な言葉を喋っていた。
初めて伊織の口から方言を聞いた俺は、多少驚きはしたものの、
何故か酷く愛おしくなったのを思い出す。
「おー、手塚そういえば、明日誕生日だってなぁ?」
「ええ、まぁ…」
思いついたように、ふいに藏山氏はそう言った。
テニス一筋の彼の口から、俺の誕生日のことなど語られるとは…意外だ。
「じゃあ俺が明日は誕生日プレゼントとして、最高の練習メニューを用意してやる」
「…ありがたく受け取ることにします」
「かかかっ!ええね〜手塚、その意気よ!」
なるほどそういうことか……そう、明日は俺の誕生日…。
誕生日…いや、俺の誕生日などそれ程たいしたことではない。
「では俺は少し走ってきます」
俺にとって一番問題なのは、明日俺と一緒に居たがった伊織のことだ。
付き合い始めて1ヶ月と経たないうちに、伊織は今日のことを話していた。
「ねぇ国光…来年の10月7日は二人で何をして過ごそうか?」
とても嬉しそうに、楽しそうに…だというのに傍に居てやれない…伊織は聞き分けのない女ではないから、この合宿が決まった時、笑って許してくれた。予約していた旅館やレストラン、全てをキャンセルしても。
「仕方ないよ国光、1年目の記念日は、また来年も出来るじゃない!」
そう…10月7日…この日は俺の誕生日というだけでなく、1年前に生まれた、俺達の結ばれた記念日だ。
傍に居てやりたい…抱きしめてやりたい…肌寒くなりはじめたこの季節に、肌を合わせて眠ってやりたい…
……いや違う。
さっきから、してやりたいと言っているが、本当は俺がそうしたい。
この俺が…俺のテニスを向上させる為の合宿だというのにそれを僅かでも苦だと思ってしまうほど、俺は伊織を愛していた。
一瞬でも離れていたくない存在であるというのに…俺は今日から一週間、一昨日着いたばかりのこの地でテニスに没頭しなければならない。
誕生日に一番傍に居て欲しい伊織に居てもらえず、彼女との付き合い始めて1年目の大切な日に、大切な伊織の顔が見れない。
………酷く苦痛だ―――。
+ +
「よし手塚、今日はもうあがりだ。明日は期待しておけよ!」
「ありがとうございました、お疲れ様でした」
練習を終えて、俺はすぐに滞在先のホテルへ帰るため支度をした。
藏山氏はご両親の実家へ滞在している為、練習後は俺とは別行動だった。
その他のトレーナー達は飲みに行くと言って、更衣室前でたむろしていた。
「えっ!手塚さん来ないの!?」
「え〜〜〜〜手塚さん来ないならつまんない〜〜〜!!」
「悪いがゆっくり休みたいのでな、申し訳ないが」
「ちぇ〜付き合い悪いなもう〜!まぁまぁそこの女の子達、俺がいるじゃない!」
「手塚さんばりにカッコ良かったら構わないけどね〜!」
「バカだなお前!男は顔じゃねーって!」
「手塚さんは顔も性格もバッチリだもん。なら顔がいい方がいいじゃない?」
「…俺は先に帰る、それじゃ」
「あ、手塚さんお疲れ様でした〜!」
騒がしい連中と酒を酌み交わすことが嫌いなわけではない。
確かにあいつらは騒がしいが、皆人当たりも良く、俺にとっては誰もが一緒に戦っている大切なチームメイトのようなものだ。
だが…今の俺には自分でも悩んでしまうほど、何より大切な人がいる…。
彼女の声を早く聴きたい、それだけのことが、俺に寄り道などさせなかった。
<もしもし!今日もお疲れ様!>
「伊織…外にいるのか?」
俺がホテルへ戻ってすぐ、シャワーを浴びることもせずに伊織に電話を入れた。
伊織の後ろ側で雑音が大きく俺の耳に届く…そうか、今日は金曜日だからな。
伊織は大手企業で働いている…食事に誘われたのかもしれない。
<うん、でも遅くならないようにすぐ帰る。国光も心配しないでね?>
「ああ…では後で掛け直す事にしようか」
伊織に迷惑になることを恐れた俺は、すぐさま電話を切ろうとした。
だがそれに被るように、伊織が慌てて声をあげる。
<あ、いいの!今ね、まだ待ち合わせてるだけだから。少しなら話せる!>
「そうか…それは…ありがたいことだな」
俺の気持ちを酌んでくれているのか、それとも、伊織も同じ気持ちなのか…どちらにしても少しの時間でも伊織の声が聴けることは嬉しいことだった。
俺の表情は、自然と微笑していた。
<国光…今日も疲れた?>
「ん…?なぜだ…?」
<声…元気ないから…>
「ああ…いや…元気がないのは…練習に疲れたからではない」
心配そうに訊ねる伊織に、今すぐにでも会いたくなるのはこういう瞬間だ。
気にかけてくれている…それが俺を熱くさせる。
愛される喜びが愛する喜びと比例しているのかように。
<…?じゃあ、どうして…?>
「…言わせるのか?俺に…」
<えっ…>
「お前に格好のつかない俺を知られたくはない…気にするな」
<…国光のいろんなこと、知りたいのになぁ〜…>
「これからいくらでも機会はある、焦らずにいかないか?」
俺がそう言うと、伊織は小さな声で優しく笑った。
それから5分程して、あとでまた電話する、という伊織の言葉を最後に、電話を切った。
その日、とうとう伊織から電話はなかった…俺はなかなか眠りにつけないまま、午前2時を回ってから、漸く身体を休めることができた。
+ +
[昨日はごめんね、友達にカラオケに誘われて、そこじゃ圏外で…]
午前4時半に入ってきたメールを見たのは、それから約1時間後…俺は気だるい身体を無理矢理起こし、ジョギングに出てからシャワーを浴びた。
伊織は結局、そのまま友達に付き合うこととなり、そこから出た時にはあまりに遅い時間だったので俺に電話をするのをやめたと説明していた。
「…手塚、お前、何を考えてんだ」
「…何がでしょう?」
午前7時、これから訪れるであろう厳しい練習のためコートで身体を慣らしていた俺に、後ろから藏山氏が声を掛けてきた。
その声色は幾分か呆れたような、そして怒りをどこか交えたようなもので、表情はまたそれ以上にその不機嫌さを物語っている。
「その顔!!そのフォーム!お前、本番があと少しと迫ってるんだぞ?体調管理もろくに出来ないくらいなら、プロなど辞めてしまえ」
自分の目の下を指しながら、藏山氏はそう言った。俺の隈のことだ。
そして体調が万全でない俺のフォームも、どこか違っていたのだろう。
長くプロとして活躍してきた藏山氏のコーチングは、この業界でも高い評価を得ている。
そんな藏山氏の目を、俺ごときが誤魔化せるはずがなかった。
俺の考えはどこまでも甘くなっている。
「すみませんでした」
「すんなり認めやがったな…手塚…お前らしくもない…どうしたんだよ…」
「いえ…頭を冷やしてきます。すみません」
「…ったく、どんな理由かはともかく、体調不良だとしても容赦はしないからな」
一礼し、俺はすぐさま走り出した。
今日の体調不良が、予防しきれなかったことではないということを、藏山氏は承知しているのだ。
だからこそ、仕事として、プロのテニスプレイヤーとして、俺は失格だと自分でもわかっている。
伊織からの電話が鳴るまで起きていようとしていた。
今日会えない寂しさを、あいつとの会話で紛らわせてしまいたかった。
だがこの大事な時に、女に現を抜かすことなど以ての外だ。
俺もそれは承知している…充分すぎるほどに。だからこそ苦悩している。
すでに俺は、テニスを捨てても構わないと思うほどに、伊織を愛してしまっているのだろうか…。
そんなことを、伊織が望むはずもないのだが。
しかしこうして会えない日々が続くと、不謹慎にも思ってしまう。
俺は一体どうすればいい…伊織…教えてくれないか…
こんなにも人を愛してしまった、情けないこの俺に…。
+ +
「よーし手塚、今日はここまでだ。ちょっと早いが、練習量がキツかったからな」
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…ありがとうございました…はぁ…はぁ…」
「寝てないからスタミナが不足してんだ、明日同じだったらタダじゃおかないぞ」
「…はぁ…はぁ…申し訳ない…」
この藏山氏が密かに業界内で 鬼 と呼ばれていることを、俺は思い出した。
なるほどこの練習量は、鬼以外の何者でもないな…いくら夜更かししていたとは言え、体調万全だったとしても俺のスタミナを昼には蝕んでいたことだろう。
「おー、それから」
「…?…はぁ…はぁ…」
軽く手を振ってコートを出ようとした藏山氏が息を切らしてタオルで顔を拭いている俺に振り返り、何かを思い出したように空を見上げてから俺に言った。
「お誕生日おめでとさん。今日は早く寝ろよ」
「……はぁ………ありがとうございます…」
疲れ果てすっかり忘れていたが…そうだ…今日は俺の誕生日だった。
その為にこんな 鬼 の練習を受けたのだったな…。
「手塚さーん、今日は飲…!!」
「行かない」
「うっ…厳しい…でも今日は藏山コーチも参加…」
「悪いな、先にあがらせてもらう」
練習を終えてすぐにホテルに戻って休もうと、俺は帰り支度を急いだ。
出て行く時に後ろからトレーナーの一人に声を掛けられたが、身体が重くて倒れてしまいそうだ…とても遊びに行く元気はない。
「いらっしゃいませ」
「2019号室の手塚です」
「はい、少しお待ちを」
ホテルに着き、フロントへ行って鍵を受け取ろうとしたとき、いつも機敏である受付のボーイが、俺の部屋の鍵を出すのに時間を掛けていた。
一体どうしたというんだ…こんな日に限ってよしてくれないか…すぐにでも部屋に入って、眠りにつきたい…
「手塚様、郵便物が届いております」
「……郵便物……?」
「はい、佐久間伊織様から」
「…!」
「少し大きなお荷物なのですが…お部屋にお運びいたしましょう」
「そうですか…では、おねがいします」
ボーイが大きな荷物を抱えて、俺の部屋までそれを運んでくれた。
彼が部屋を出てからすぐ、俺はその包み紙を丁寧に取り払い中身を見た。
テニス以外のことで俺の気持ちをこんなに高ぶらせるのは、伊織だけだ。
「…これは…」
テニスラケットが入っていた。
俺の好きなメーカーだった…その中でも、大変高級なものだ。
それに寄り添うように、中には手紙が入っている。
俺はすぐに、手紙を開いた。
国光へ
いつも強がってばかりの私から、ひとつ告白を…いつだって、あなたの傍に居たい…なんて言ったら、わがまま言うんじゃないって怒られちゃうのかな(笑)。
Happy Birthday国光!来年こそは、二人で過ごしたいね。
伊織
その控えめな伊織の言葉に、胸が締め付けられた。
俺はお前以上に苦しんでいる…少なくとも、この文面を見ただけだが俺はそう言い切れる…お前が想うより俺は…伊織、お前のことを…。
「……俺が平気だとでも思っているのか……」
独り言を打ち消すように、俺はその場から勢いよく立ち上がりすぐに着替えてロビーへと降りた。
時刻は午後7時…きっと、まだ間に合うはずだ…
「!?あれ…!!手塚さん!?どこ行くんですか!?」
「悪い、説明してる暇はない」
勢いよく走る俺に、同じホテルに泊まっているトレーナーが丁度ロビーに集まっていた。
恐らく食事会の会場がこのホテル内なのだろう。
そこには運悪く、藏山氏も一緒だった。
「おっ…ちょ、こら手塚!お前飲みに参加もしないでどこ―――!!」
「藏山さん申し訳ない!明日の朝には必ず帰ります!」
「なっ…明日の朝だと!?こら!!手塚ーーーーっ!!貴様俺が今日説教したこともう忘れやがったのかーーー!!」
「誕生日の贈り物として明日の朝まで自由時間をいただきたい!」
俺は叫ぶ藏山さんの言葉に被さるようにそう言ってから、ホテルの下に停まっていたタクシーに勢い良く乗り込んだ。
「あの人ー、いんですか…?」
タクシーの運転手が、バックミラーに映っている藏山氏をチラチラと見ながらそう言った。
俺を追いかけようとしている藏山氏をトレーナーの何人かが止め、真っ赤な顔をして叫んでいる彼の姿が目に浮かぶようだ。
本当はどうだったのかは知らない。ただそれだけ想像し、俺は振り返ることはしなかった。
「構いません、急いでください」
明日はどんな苦痛でも耐えてみせる…とりあえずはいい。
それよりも…確か9時過ぎまで帰りの便はあったはずだ。
+ 午後10時-東京 +
「うん、うんそうそう…でね、今度彼が11月にある大会に出るの…えっ…?やだ違うよ千夏!別にノロけてるわけじゃなくて…!」
♪――
「あっ…ごめん、ちょっとお客さん来たみたい…うん、うんまたね!はーい…」
♪――
「はいはいどちらさ……えっ!?」
中から伊織の小さな悲鳴が聞こえた後、勢いよくドアが開け放たれた。
無理もないだろう…覗き穴から俺を見て、驚愕したに違いない。
「国光!?」
「伊織…!」
「きゃっ…?!ちょちょちょ、どうしてここにいるの!?今九州じゃ…!!」
「ラケット…ありがとう…手紙も…嬉しかった…」
伊織の姿が見えた途端に、俺は伊織を強く抱きしめた。
俺が伊織に礼をしている間に、背中にあるドアは弱弱しく音を立てて閉められる。
「え…じゃあやっぱりさっきまで九州…え?え?ね…どういうこと…?」
「……俺だっていつもお前の傍に居たい…いつもだ…常にそう思っている…」
ゆっくりと伊織にそう伝えると、身体を少し離すようにして呟いた。
「!…国光…」
「…俺が平気だと思ったか…?」
「え…あ…その…」
図星だったのか、慌てるように俺から目を逸らす。
「何度合宿から帰ってしまおうかと思ったか…」
「えっ…!く…国光がそんなこと…思うの…?」
「…………不覚にもな…」
伊織に熱をあげてしまいすぎていた…俺は遂に、テニスをも犠牲にしても構わないとまで思っている自分を認めてしまった。
……いやすでに、犠牲にしているだろう…今、ここに居るということは…。
「…国光…」
だが今まで幾度となく、この愛しい声で呟く、聞き分けのいい伊織を俺はテニスのために犠牲にしてきていた…それでも許されないかもしれない…だが………………今日という日くらい、いいではないか…。
「伊織…愛してる…好きでたまらない…だからこそ、俺はお前とテニスを天秤にかけて苦悩する毎日だ…お前に責任を取って欲しいくらいにな」
「あ…く…国光そんな…」
「どうしても今日だけは、日付が変わる前にお前と…一瞬でも一緒にと…」
「…嬉しい…すごく…」
ゆっくりと、お互いが惹き寄せられるようにして、口付けを交わした。
甘い、彼女の首筋から香る匂いが俺に麻酔をかけているかのように、俺の心の痛みが消えた…伊織に会えずに、辛かった胸の痛みが…。
「でも国光…」
「…?どうした…」
しばらく黙って抱き合っていた…ふいに、その沈黙を打ち消すかのように伊織が俺に囁く。
何かを決意した顔をして、俺を見つめている。
「国光の気持ち、すごく嬉しい…嬉しいけど…でもね、私、テニスしてるあなたが好き。だから悩まずに打ち込んで欲しい」
「…伊織…しかし俺は寂しい想いばかりさせて…」
決して、テニスを辞めようなどと思っているわけではなかったが、今喋っている俺の言葉はそれを決意しているようなセリフだと、ふと思った。
そこにすかさず、伊織は首を振って俺の言葉を遮る。
「そりゃぁ…少しだけね、寂しいなって想うことだってあるけど…でもあなたがテニスに打ち込んで、頑張れば頑張るほど私はあなたを誇りに思うし…」
「………」
―もっともっと、その度に、好きになっていくの―
小声で、俺の耳元でそう囁く。
だから頑張って欲しいな…。 そう付け加えてから、俺の頬にキスをした。
「ね…?イイコだから…」
「………」
まるで子供扱いだ。
伊織のそのくすくすと笑う物言いに、腑に落ちない気はしたものの、俺はその気持ちをぐっと抑えて、もう一度強く彼女を抱きしめた。
「…承知した…だが今日は俺の思う通りにさせてくれないか」
「え…?」
「俺を暖めてくれ…」
俺が真顔でそう言った時、伊織は一瞬、噴出しそうな素振りを見せた後、すっと俺の頭を撫でた。
「いいよ…癒してあげる…」
「ありがとう…」
疲れ果て、鉛のように重たかった身体も、伊織がそこにいるというだけで多少、無理もしたが、やはり癒された…心地の良い波を二人で漕ぐように、俺らは身を委ね合い、愛し合った……そして…
―翌日は、あまり語りたくはない思い出となったのは、言うまでもないだろう。
fin.
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