overjoyed








二月に入ってから、わたしの仕事はべらぼうに忙しくなる。

新年度のカリキュラム、新年度の入塾案内、そして大学入試…こうも忙しく残業が毎日のように続くと、不満が爆発しそうだ。


だって、雅治に会えない。















Overjoyed















まあ、大学入試の関係でこの時期一番大変なのは受験生だし、彼らの方がよっぽど不満が爆発しそうなのだけど。

でも彼らの不満にははっきりとした形がない。

勉強との戦いは不安というストレスのみ。

見ていると可哀想になるけれど、それもあと数日で終わる。


けれどわたしにははっきりとした形あるストレスがあって。

雅治に会えないのだ。

会いたいのに、会いたくて会いたくてどうしょうもないのに会えない。


せっかく、雅治が学校に行かなくて良くなったこの時期。

とは言え、わたしは昼間は仕事だ。

土日、わたしは休みだけど、附属高校といえど期末試験が近い彼は塾で忙しくて。

だけど平日に、まさか夜中まで続く残業後に会おうなんて、そんな、そんな大人気ない我侭を働くわけにもいかなくて。

そりゃ当然、平日に雅治が塾に来た時は会える。

でも受付で挨拶をする程度で、二人きりなんてなれるわけじゃなくて。


今日だって、受付を通り過ぎた雅治は、すぐにわたしにメールをくれたけど…


[伊織サン、お疲れ気味じゃの?今夜は無理そうか?]

[ごめん…今日も遅くなりそうだから、会えそうにない…ごめんね。]


そんなメールを返しては、


[そうか。気にしなさんな、大丈夫じゃから。頑張りんしゃい!]


こんな具合に雅治に気を使わせていたりして。

もう毎日うんざりだ。本当に、ぐったりでうんざりだ。


「先輩このチラシ、誤字がありますよ」

「え!」


雅治からの「頑張りんしゃい!」に少しだけ元気付けられていると、突然後輩から背中を叩かれて、咄嗟に携帯を閉じた。

そして、「誤字」という二文字に頭が混乱する。

あれほどチェックした入塾案内チラシに誤字…それが本当だとしたら、また作り直しで刷り直しで深夜まで残業…!


「やーだー!!」

「や、嫌でもありますもん!」


「どうすんのー!」

「やり直すしかないじゃないですか!ちゃんと手伝いますから!」


いきなりダダこねを炸裂させたわたしに、後輩はぎょっとしながらわたしを宥めた。

新卒で入ってきたこの後輩は、残業続きでもわたしより冷静で割りと元気だ。

これも年の差だろうかと、ふと寂しくなった。







* *







深夜二時…わたしは、タクシーでようやく自宅に到着した。

結局…あれからチラシの誤字を修正して刷り直して、他の仕事もなんやかんやとやっているとこんな時間になってしまった。

おまけに忙しすぎて事務所を行ったり来たりしていたせいか、塾の生徒達の帰り時間、受付にいなかったせいで一瞬の雅治の姿ですら見逃してしまった。

…もう悔しいし疲れてるし、本当に泣きたくなる。


ゆらゆらとした足取りで階段を上る。

上りながらふと自分の部屋を見て、おかしなことに気が付いた。

電気が点いている。

しまった、消し忘れたかと咄嗟に浮かんだけど、その考えはすぐに消えた。

だって、部屋の前に立つと、中から、暖かくていい匂いがする。

ピンとくるのと同時に、わたしは嬉しくて泣きそうになった。


「雅治!?」

「お…伊織さんやっと帰ったか。おかえり」


「雅治…!」

「…っと…大丈夫か?よう遅うまで頑張ったの。お疲れさん」


玄関を開けて声を上げると、ひょっこりと中から雅治が出てきて。

目の前のサプライズに、わたしはなりふり構わず抱きついた。

雅治は優しく抱きしめてくれて…こめかみと頬に、ひとつずつキスをしてくれた。

それだけで、疲れが吹っ飛ぶ。


「どうしたの…?なんで?」

「会いたかったからじゃけど?」


「でも、明日…」

「夕飯、美味くないかもしれんが。とりあえずは食べて、ゆっくりしんしゃい。明日は俺も塾に行かんことにしたから、焦らんでもずっとここにおる」


明日は土曜日だから、雅治は朝から塾に出席することになっている。

だから、今日は会えないってことになったのだけど。

雅治の発言に目を丸くしていると、雅治はふっと笑った。


「一日分の勉強くらい、どうっちゅうことない」

「でも…」

「どうせ明日行ったとこで、伊織さんと会えんことがストレスで勉強も手につかんちゅうオチじゃ」


憎いことを言ってくれた雅治はわたしの頭を二回ほど弾いて、手を引いてキッチンまで連れて行った。

ガスコンロの上には大きな鍋がひとつ、開けるとホウレン草のスープが出来ていた。

真っ白なスープに浮かぶ緑がすごく食欲を駆り立てて。


「美味しそう!!」

「温めちょくから、先に風呂に入ってきたらどうじゃ?」

「うん!あ…雅治はもう入ったんだね。いい匂いがする」


精神的な疲れが一気に吹き飛んでいたわたしは、背の高い彼に背伸びして、腰を抱きながら首筋をくんくんと匂った。

そういえば、雅治はあのパジャマを着ている。

相変わらず白の似合う彼は、微笑みながらわたしの頭を撫でた。


「いつも勝手に風呂を借りてすまんの」

「え、いいよいいよそんなの全然!」


「伊織さんの使っちょるシャンプー高いじゃろう?使うのに多少、気が引けるんだが…」

「気にしないでいいって」


「ん、好きなんよ」

「ね!いいよねあのシャンプー!髪サラサラになるからねー!」


わたしがそう言うと、雅治はぷっと吹き出して。

そのサラサラになった髪をわたしの頬に寄せた。


「そうじゃのうて。あのシャンプー使うと、伊織さんの匂いがするじゃろう?」

「え…」


「…伊織さんを感じれるから、好きっちゅうこと…」

「あ…な、そ、なるほど…」


耳元で囁かれた甘い言葉に、わたしは年甲斐もなく真っ赤になって。

それを隠すために、そそくさとお風呂場に逃げた。

そんなわたしの背中を、雅治は笑って見送る。


初めてひとつになれたあの日から、雅治とのデート場所に何度かこの部屋が使われるようになり、その勢いで雅治に合鍵を渡してから、数週間が経つ。

わたしは渡したその日から、雅治がこんな風にして来たりすることを期待しつつ、職場から帰宅していたのだけど。

彼が来る度にこんなに腰砕けにされたんじゃ、わたしの身が持たない…なんて、贅沢な悩みかな。

















「雅治これ…」

「ん?なんか問題あるか?」

「ううん!そういう意味じゃないよ!」


風呂から出てきた伊織さんは、テーブルの上に用意された料理と食器を見て目を丸くした後、また顔を赤くした。

伊織さんが赤くなる度に、俺は嬉しくなる。


「ていうか雅治、食べてないの?」

「おう、伊織さんと一緒に食べたかったからのう」


囁いて、彼女を引き寄せて耳たぶを甘噛みする。

伊織さんの弱いところを責めるのが、俺は好きじゃ。

そして案の定、伊織さんはまた真っ赤になる。


「くう…もう、からかってるでしょ!」

「はははっ!そう怒りなさんな。でも一緒に食べたかったのは本当じゃよ?」


俺がそう言うと、声を小さくして「ありがとう」と言った伊織さんは、早速目の前にある夫婦茶碗を掲げて嬉しそうな顔をした。

風呂あがりに伊織さんが目を丸くしちょったのは、このせいじゃ。


「雅治がこういうの買ってくるのって、なんか意外」

「メルヘンじゃろう?俺も」


「ふふ。てか雅治のお茶碗大きい〜!」

「食べ盛りじゃし。普通、旦那の方が大きいもんじゃろ?」


「そうだけど…あれ?あ、お箸も…」

「ついでじゃからの」


安モンだが、俺は今日この部屋に来る前に、雑貨屋に寄って食器をあれこれとペアで買ってきた。

こういった密かなお揃いが結構嬉しいっちゅうことに、俺は彼女と付き合い始めて気付いた。

数週間前にストラップから始まったお揃いが、拍車を掛けた。

茶碗、箸、カップ…伊織さんはそれらを見て、笑いをかみ締めるような顔をしちょる。

ニヤけそうになる顔を抑えとるんじゃろう。それがまた、愛しい。


「いただきます…ん!オイシー!」

「お…そうか。良かった」


ニヤけ顔を誤魔化すためか、伊織さんは早速、俺の作った料理に手をつけた。

疲れきっとった顔色が段々と良くなっていく。

俺はそれを見て、少し安心した。



「ホウレン草ってちょっと面倒だったでしょ?嬉しいな〜、わたしの為?」

「いんや。俺の為」


「えー!」と非難めいた声を出して伊織さんはぷっくりと頬を膨らませた。

深夜三時になるっちゅうのに、俺らは二人でおると時間すら関係なくなる。

ほとんど病気じゃ。


「伊織さんを喜ばせて、その顔が見たいっちゅう俺の欲求を満たす為…なら、満足じゃろう?」

「うん…えへへ。嬉しいな〜!至れり尽くせり!ねえ雅治、このチキンも美味しい!」

「おう。本当なら出来立てを食べさせちゃりたかったけどのう。明日の夕飯は、出来立てを食べさせちゃる」


ここんとこ疲れきっちょる伊織さんに、俺に出来ることはなんかないかと考えた。

思いつくのは、家事をしちゃるくらい。

じゃから、明日の食事分も買い物して、洗濯物もセットしちょる。


夜中、暇じゃからっちゅうて掛かってきたブン太からの電話でそのことを話したら、「お前ホントに仁王かよ!」ちゅうて、思い切り笑い飛ばされた。

まあ無理もない…この俺が、家事しちょるなんて誰が聞いても笑う。


「え…雅治、明日も泊まるの?」

「ん…?迷惑かの?」


だが、伊織さんはそれを喜んでくれる。

その確信があったから、俺は明日もここに居座るつもりじゃった。


「違う違う、そうじゃなくて!だって、日曜も朝から…」

「ここから行く。ええじゃろう?一週間以上会ってなかったんじゃ…一日くらいお前さんと過ごしたい」


真面目な顔してそう言った俺に、伊織さんは寂しそうな顔をして「ごめんね」と呟いた。

仕事が忙しいのはしょうがない。

それで少し会えん日が続くのも、しょうがないと思っちょる。


じゃけど。

頭ではそれを理解出来ても、欲望が制御出来るほど俺は大人じゃのうて。

伊織に会いたいっちゅう想いは、どうやっても抑えることが出来んかった。














ああ、寂しい想いをさせていたんだな…と今頃気付いた。

わたしだって雅治に会いたくて、でも会えなくて、辛かったけど。


原因はわたしの仕事の忙しさにあるのだから、その原因を作ってる本人と、それに耐えて待ち続ける彼とは寂しさの度合いが違う。


わたしは時間に追われて、帰って、寝て、起きたらまた仕事に行っての繰り返しだけど。

雅治はいつもと同じ毎日の中で、突然、わたしに待ちぼうけを食らうことになったのだ。


「すまん、そういうつもりじゃのうて…」

「ううん、大丈夫、わかってるよ。雅治悪くないんだから、謝らないで。わたしも会いたかった。雅治にずっとずっと会いたかった。明日はずっと二人きりでいよう?」


わたしがそう言うと、雅治はふっと微笑んで目を閉じた。

少しだけ顎と唇を出してきた、らしくない彼の行動に、わたしは心臓が破裂寸前。

でもここは年上の女らしく、チュッと音を立ててキスをすると、雅治はまた微笑んで、目の前のテレビに視線を送って、何事もなかったかのように食事を再開した。

…大人な18歳だなあと、つくづくと感心してみたり。






*






「ふぁ…雅治、今何時?」

「四時じゃの…さすがに眠いじゃろう…はよこっちに来んしゃい」


「ん…あーもう疲れた…疲れたよう…肩痛いー…身体中がしんどいー」

「おうおう、よしよし…」


歯を磨いて髪を梳かして、ベッドでわたしを待つ雅治の腕の中に、わたしはぐずぐず言いながら入っていった。

ぎゅっと雅治の胸に抱きついて甘えると、雅治はわたしの頭や背中を撫でながら額にキスする。

本当に本当に疲れているけど、寝る時に雅治に抱きしめてもらえるだけで、癒される。


「愚痴ってごめんね雅治…」

「何言うちょる。愚痴りたい時は愚痴りんしゃい。何の為に俺がおるんじゃ」


「だって伊織さんの愚痴聞いてくれる為に雅治は生まれてきたわけじゃないんだよー…」

「そうは言うても、俺が伊織さんの為に生まれてきたんなら、それも使命のひとつじゃろう?」


ピ、とリモコンで電気を消した雅治は、そう言いながらわたしの体を包んだ。

なんて嬉しいことを言ってくれるんだろうこの子は。

今まで付き合ってきた人達が与えてくれなかった愛を、彼は普通に与えてくれる。

いや、それ以上の愛を注いでくれる。こんな幸せがあっていいんだろうか。


「……ねえ雅治ー」

「ん…?」


「わたし、めっちゃくちゃ幸せ…仕事ですっごいすっごい疲れても、こやって雅治が抱きしめて一緒に寝てくれるだけで、本当に安らげるの」

「ん…俺も伊織を抱きしめちょると安らげる」


「本当?腕痛てえんだよとか思わない?」

「ははっ…思わんよ。お前さんこそ、邪魔じゃと思っちょらんか?」


「思うわけない!ずっとずっと居て欲しいと思うくらいなのに…。あ…ごめん、我侭なこと言っちゃった…」

「……ええよ、俺も同じじゃから」


少しだけ力を緩めて、わたしの顔を掌で確かめた雅治は、暗闇の中で慣れてきた目で、わたしをじっと見つめた。

そのままゆっくりと近付いてくる唇に、わたしは素直に身を委ねて。

このまま時間が止まってしまえばいいのに…とさえ、感じた。


「…伊織」

「ん…?」


「大学行き始めたらのう、姉貴と二人で暮らすっちゅう話が出てきちょるんじゃ」

「あ、お姉さんと。うんうん、それがいいかもね。二人分のアパート代とか、お父さんとお母さん大変だし」


何故か突然始まった話に、わたしは素直に耳を傾けた。

雅治が進んで自分から何か話すことは、どうしてか嬉しい。

ずっとずっと、彼の話を聞いていたいと思うほど。


「いや、俺は最初、家は出んまま、実家から通うっちゅう話で良かったんじゃけど…」

「へえ。若い子はみんな家を出たがるのに…」


「まあの。うちの両親は優しくないんでな。いくら学生の一人暮らしでも、家賃は半分しか払わんちゅうて。しかも最大五万までじゃ」

「あははっ。いい教育方針だと思うよ?甘やかしてない感じ」


彼が家の話をすることは少し珍しくて、少し新鮮だった。

それがわたしだけに与えられてる特権なんじゃないかなんて思って、思わず声が弾む。


「まあ姉貴はそれでも家を出たんじゃけど…そろそろ引越を考えちょるらしい。俺はそれに便乗して、この近辺に住もうと思っちょる」

「え…?」


その延長で、するっと流れていくように言われた内容に、わたしは目を見開いた。

この近辺に雅治が住む…?それは………わたしの為に?


「丁度、姉貴の大学がここから一本で行ける場所じゃし。姉貴の彼氏の家もそんなに遠くないんじゃ。もう、承諾は取っちょる」

「雅治…そ、本当にいいの…?後悔しない?」


「するわけないじゃろう。伊織が俺と半同棲状態になってもええっちゅうなら、本決まりじゃ…どう?」

「…嘘みたい…」


「嘘じゃない。じゃから、四月からはこうしてしょっちゅう、抱きしめに来るから。…俺の、伊織とずっと傍に居りたいっちゅう気持ちは切実なんじゃ…」

「…も…嬉しすぎて泣きそうになる…」


暗闇の中にニッコリと笑った雅治は、わたしにもう一度唇を寄せた。

雅治の暖かい手が、わたしの頬を伝って、腰をきつく抱きしめる。


「さすがに同棲は親にバレると面倒なことになりそうじゃし、伊織さんに反対されるってわかっちょったしのう…」

「うん…さすがにそれはね…お父さんとお母さんに合わせる顔なくなっちゃうでしょ?」


「お…?ちゅうことは、いつか会ってくれるんか?」

「あ…や、そ、それは…そ………あーもう眠たい!もう寝よう!おやすみ!」


「…くくっ…なーんじゃそれ、つまらんのう…」

「おやすみなさーい!」


自分で言っておいて不意を付かれたわたしは、恥ずかしくてそう誤魔化した。

雅治はくすくすと笑いながら、わたしをぎゅっと抱きしめて、耳元で囁く。


「いつかきっと会わせることになるから、覚悟しちょきんさいよ」

「…もちろんです」


いつか本当に君のご両親に会う時が来たら、わたしはもう若くないと思うけど。

それでもちゃんと君に愛されてるって、どうしてだろう、不思議と信じることが出来る。

じっくりと時間をかけてもいい、ふたりの愛を育みたい。

だって夢はちゃんと叶うって、雅治が教えてくれた。

わたしの夢は、君とのこの瞬間に叶ってるから。

喜びにあふれて、愛に包まれて。




















fin.



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