C R E E P_05








5.






苦しめたくない、それだけが引っ掛かっていた。

でも、そんなわたしの悩みを、千夏はあっさりと否定してきた。


――そういうのを杞憂って言うんだよね


雅治とこれからも一緒に居れるなら、キャリアを棒に振っても構わない。

自分の仕事がどうなっても、雅治と離れることだけは絶対に絶対に絶対に嫌だ。

それが、一週間考えたわたしの結論だった。

だけど、雅治を選んで塾長のプロポーズを断れば、わたしは当然、退職せざるを得なくなるだろう。

そうなったとき、きっと雅治は苦しむ。

自分のせいで、あと一歩のところで叶いそうだったわたしの夢を閉ざしたと、自分を責めてしまわないだろうか。

わたしはそれが心配だった。

雅治のことだ、あの日は嫉妬で終わっただろうけど……この一週間で、ひょっとしたらもうそのことに気づいているんじゃないかとも思う。

けれど千夏は言った……わたしが雅治を選んだという事実だけが、彼にとっては大事なことなんだと。

果たして本当にそうだろうか。

雅治がその事実だけで喜んで闊歩するほど子供でないことは、わたしが一番よく知っているのだ。


「……ただいま」

「!」


千夏と話し合った翌日、メールがあった。今日は、帰ると。

だから今日が話し合う日だと、わたしも身構えていた。

雅治に久々に会えるという現実に、密かに心は躍って、だけど密かに、怯懦していた。

彼が何を言い出すのか、わかったような気がして怖くてたまらなかったからだ。

突然、大人になる雅治だからこそ、そう強く感じた。

わざと冷たくして、わたしを突き放したり、しないだろうか。


「おかえり……ねえ雅治、こないだ、ごめんね」


玄関まで駆け寄って、わたしは言った。

雅治の目が少しだけ大きく開く。いきなり謝ったわたしに、驚いたのかもしれない。

無理も無い。あんな風に拒絶したのだから。

でもだからと言って、わたしの幸せを……お願いだからあなただけは、勘違いしないで欲しい。


「いや……俺もすまんかった……」ぽつ、と呟くように。らしくない空気にぞっとする。

「……あ、帰ってくるってメールもらったからね、張り切ってご飯作っちゃったよ!」

「…………」


自分が明るく振舞えば振舞うほど、雅治の顔色が悪くなっていっているような気さえした。

でもそれには気付かないフリをして、わたしは雅治の手を引いた。

いつも彼がそうしてくれているように、台所まで引っ張って、自慢の料理を見せた。

瞬間、雅治の眉間に皺が寄った気がして、また怖くなる。

わたしはそれをなんとかして紛らわせたくて、仕方がなかった。

せっかく認めてくれた千夏に、たくさん勇気をもらった。

わたしの答えは決まったのだ。ううん、決まってた、最初から。雅治と幸せでいたい。それだけ。


「これね、結構時間かかったんだよ。でも、雅治お肉が好きでしょ?」

「……ああ、うまそうやの」

そんな下手くそに、微笑まないでよ。

「あとね、これはちょっとズルして冷凍食品も使ってるけど、なかなかイケると思うん――」

「――伊織さん」

そんな哀しそう顔して、わたしの名前を呼ばないでよ。

「…………なに?」


懸命に料理の説明をするわたしを遮ってまで声をかけたくせに、雅治は長い沈黙を続けた。

深呼吸するように肩を揺らして、わたしをじっと見つめる。

何かを決断したときの顔だと、瞬時にわかる。聞きたくないと、同時に強く思った。


「考えたんじゃ、この一週間」

「…………」

「姉貴の助言もあって、塾長の言わんとすることがわかってきた。プロポーズの本当の意味も……」

「雅治、わたし」

「伊織さんが今の仕事が大切なのは、俺もわかっとる。将来的には講師として働きたいのも、今、そういう兆しが見えちょることも知っちょるよ。だから、伊織さんが仕事を捨てれんのは、百も承知だ、俺は」


胸の奥が震えてきて、その振動が唇にまで到達しそうだった。

何もかもわかったと言って、こういう時ばかり大人になって、この人は何を言おうとしているんだろう。

目の前が歪んで崩れていきそうだった。なにがなんでも、そんなこと、言わせたくはない。


「雅、聞い……」


言わせたくなくて、咄嗟に口を衝いて出た声。

でも雅治は、それと同時にわたしに一歩近付いてきた。

どんどん重たくなる空気に、耐えれなくなる。


「塾長のことも、俺さえおらんかったら、付き合っとったんじゃないか?」

「…………なんで、そんなこと」

「責めちょるわけじゃない。だが、俺がおらんかったら塾長と、今頃結婚前提に付き合っちょったんじゃないかと思うと……」

「……思うと、なにっ……」


目の前が崩れていく音がした。

それがわたしの本当の幸せだなんて、雅治まで言い出すんじゃないよね?


「本当なら、伊織さんにとってはそっちの方が、幸せになっちょったんかもしれんと思うと、やりきれん」

――決め付けないでよ。

「今回のことで、塾長が伊織さんにプロポーズしたっちゅうのを聞いたとき、実際ここんとこずっと、ああ、今からでも、遅くないんじゃないかって思えてきたんよ」

――どうしてわたしの幸せを、決め付けるの。

「俺が身を引けば、伊織さんは仕事も続けれる。ちゃんと責任とってくれる、ええ男と結婚も出来る」

――わたしの幸せは、わたしにしかわからないでしょう?

「そしたら、答えはひとつだ」

「雅治はなんで……っ!」


聞くに堪えなくなったときだった。

最後の言葉は絶対に言わせたくなかった。

言わせてしまったら、わたしは彼を引きとめる自信がなかった。

こんなときばかり大人になる雅治だからこそ、きっとわたしがどれだけ言っても、聞かないと思った。

それでも泣いてすがりたくて、否定の感情をぶつけたくて、大きな声を出したときだった。

わたしの全てを遮るように、わたしの手首を、雅治は強く掴んできた。


「――じゃけど嫌なんよ、絶対」


懇願するような視線に、はっとする。嫌だという言葉に、さっきまでの震えが、一瞬にして消えた。


「雅……」

「どんだけガキじゃと思われても構わん。俺は最低なんかもしれん。伊織の希望を奪っちょるんかもしれん。だがどうしても、お前に仕事を犠牲にしてもらってまでも、俺は……」

「……っ」

「俺はお前とは絶対に離れとうない……それだけは、嫌なんじゃ……伊織」

「……っ、雅は……」


離れたくないと言いながら衝動的に抱きしめてきた雅治に、本当に杞憂だったのだと、涙が溢れた。

この温もりを待っていたからこその、涙だった。

すまん、と耳元に落ちてくる悲しい声色が、愛しさを増していく。


「耐えられん……離れることも、伊織さんが塾長のものになるのも、耐えれん、俺は……すまん」

「雅治……っ」

「俺の傍に居って欲しい……断って欲しい。それで、仕事を犠牲にすることになっても。俺が一生、伊織さんのこと、責任持つ……約束する。じゃから、頼む……」


こんなときになって、雅治は折れそうなくらいわたしを強く抱きしめてきた。

わたしがそうして欲しいときにはしないで、思ってもみないときに突然こんな風に愛をぶつけ出す。

だからこそ愛しくて、だからこそ誰よりも大切で……。


「ばか……」

ほっとするあまり、口から衝いた言葉だった。なんて冷や冷やさせてくれるんだ、この子は。

「……すまん、我侭ばっかりやの」

「違うよ……も、びっくりさせないでよ……」

「伊織……」

「わたし、雅治が身を引くって言い出すんじゃないかって……もう……怖くて」

「……そんなこと、出来ん……俺は、ガキじゃから」

「そんなの、関係ないし……っ、ていうか、断るに、決まってるじゃん……!」


怒ったように涙ぐみながら見上げたら、雅治は戸惑うような視線を向ける。

不安だ不安だと喚きながら、わたし達はお互いを、買い被り過ぎていたんじゃないだろうか。


「……伊織」

「わたしは雅治が、好きなの……好き。大好き……だから、誰のとこにもいかない。何を犠牲にしたって、いい」

「……嬉しいこと、言うてくれる」


ぎゅっと、頭を抱えるように撫でてきた。額にゆっくりと落ちてくるキス。

何も言わなくても、雅治の気持ちが伝わって……涙が止まらなかった。

わたしには、雅治の真意がわかっていた。だから、今日は余計に惚れ直してしまいそうだ。


「わたしだって嬉しいよ……雅治に、一生誓ってもらえて」

「なんぼでも誓う、伊織さんになら」


本当は雅治は、わたしが塾長を選ぶなんて微塵も思ってなかったんじゃないだろうか。

だけど、わたしが雅治を選ぶことによって、わたしは会社を退職せざるを得ない。

そうなったとき、自責の念に駆られ苦しむだろう雅治を見、それによって心を痛めるわたしを見越して、彼は自分から言い出したんじゃないかと思う。

わたしが自分勝手に決めて雅治が苦しむことになるのではなく、雅治自身が懇願したというこの事実を作って、わたしへの心の負担を軽減してくれようとしているんじゃないだろうか。

ただの18歳じゃない、どこかすごく大人で、ときどき子供な彼だから。

全く、敵わない。


「そんなこと言って大丈夫?重たいぞお〜。独身のアラサーは」


それでも、実際はどう転ぶかわからないわたしの気持ちを探りながらの発言は、不安だったろうと思う。

考えれば考えるほど、雅治への愛が氾濫していった。

だから照れくさくて、おどけてみせた。


「最初から、覚悟のうえじゃし?」

「すごい!見上げた根性だね」

「じゃろう?自分でも些か呆れちょる」

「なー、言ったな……」

「ははっ、仕方ない。こんなに好きになった人が、たまたま7つも上じゃった。それだけ」

「……うん。わたしも、それだけ。それだけのことだよね」

「ん……」


今度こそゆっくり落ちてきた唇に、そっと目を閉じた。

そうだ、それだけのことなんだ。

年の差なんて気にしてませんと振舞っていたわたし達が、実は一番敏感になっていたようにすら思う。

お互いがそれを反省して、お互いの愛情がまた深まったようにも思う。

……唇から伝わる一週間分のキスに、わたしはじっくりと身を委ねた。










「クビだ」

「っ……」

「……いきなりあんまりな物言いじゃないかのう」

「雅治は黙って」

「む……」


雅治と一緒に教室に入っていった瞬間、すでに待っていた塾長に突きつけられた言葉だった。

ひと目で何もかもわかったのだろう。当然といえば当然だ。

月曜の午後、生徒達が来る前に話があると塾長を呼び出していた。

プロポーズの断りを雅治の前でするつもりはなく、実は結局付き合っていましたと報告するために。

それが即ち、(塾長にとっては雅治の知りえない)プロポーズの返事だとわかってくれるはずだからだ。

塾長にだってプライドはある。いや、プライドの戦いだったんだ、今回のことは。

だからこそ雅治の前では、あくまで上司と部下として向き合おうと決めていた。


「承知しております。今日は、先日、塾長を欺いてしまったことへの謝罪と、退職届を受理していただこうと思い、お時間を取っていただきました。お忙しいのに、申し訳ありません」

「…………いつからなの」

「お察しのとおりです」


塾長の沈黙は長く、その間に何度も溜息が漏れていった。

上司としての顔を保ちながら、男としての顔を見え隠れさせている。

どこかでわかってはいたけど、認めたくなかった事実だったんだろうと思う。


「すみませんでした、塾長。全部俺が、考えた嘘です」

「わかってるよ……下手な嘘だったしな」

「……すみません」

「…………」


何を言われても素直に謝る雅治を、陰々とした影を見せるような眼で見た塾長に、わたしは、苦いものを呑み下したような気分になった。

雅治が責められるのは筋違いだ。でもその眼が、責めている。

塾長の気持ちにはそれとは割り切れない部分があるのも知っている。

だからこそ、わたしはこの沈黙に身の置き場の無い思いをしていた。


「仁王くん」

「はい」

「本気なんだな。彼女のこと」

「本気です」

「…………ここに来たってことは、そういうことだよな」


そこで突然、それまでの重たい空気を払拭するように、ふっと自嘲気味に笑った塾長が、寂しげな目でわたしを見た。

ドキリとする。自分を卑怯だといいながら、何もかもわかっていたようなその視線に。


「これで身を引くような男なら、よっぽど俺のほうがお似合いだと思ってたよ」

「…………塾長」


瞬間、空気がガラリと変わった。プライドが交差していた視線の中、一方の戦闘力が切れたように。

雅治もそれを感じたのか、倣うように、沈黙を塾長に投げかけた。


「これで佐久間さんがキャリアを選ぶなら、佐久間さんにとってその程度の男だとも思ってた」


カッコ悪いな、俺……と呟きながら、塾長は微笑んだ。

最初からわかっていたような口振りに、胸がしめつけられた。

塾長は、卑怯だと自分を罵りながら、わたしと雅治を……試したのかもしれない。

自分の気持ちに、整理をつけるためにも。

こんな素敵な人に、こんな思いをさせて。こんな風に、自身のことを言わせて。

そう思う自分を、傲慢だと罵りたくなるほどだ。


「退職届、預かるよ。申し訳ないけど、やっぱりこうしてもらう他ない」

「いえ……当然の処置です」

「……それだけじゃない。俺も苦しいからね」


最後まで熱をこめた視線でわたしを見る塾長に、息がつまりそうだった。

そんなわたしに気付いたのか、塾長はパッとわたしから視線を外したかと思うと、背広の内ポケットからプリント用紙を一枚出してきた。

目の前に掲げられたそれを受け取るように促される。なんだろう?これは……。


「なん……ですか?」

「開いてみて。僕もね、卑怯なことしたってしばらく自責の念にかられてたんだよ。あんなに強気に出た割にね。君らを引き裂くようなことしてさ、やっぱりカッコ悪いな」


自分を笑う塾長に戸惑いながらも、わたしはそっと、そのプリントを広げた。

広げた瞬間に目に飛び込んできた内容に、思わず視線を上げて塾長を見た。


「僕の大学の同期のヤツがやってるとこだ。ちょうど今、講師を育てたくてしょうがないらしい。中途採用としての推薦状を、さっきメールしといたよ。話があるって言われてから、こうなるんだろうって思ってたからね。最後くらい、カッコ付けたくてさ」


本当はギリギリまで、期待してたんだけど……と呟く塾長の言葉を聞きながら、わたしは何度もそのプリントを見た。

それは最近、隣の駅前に出来た塾の名前と、塾講師募集の案内だった。信じられなかった。

どんどん目の前が歪んでいく。わたしはこんなに甘やかされて、いいはずがないのに。


「伊織さん……」

「すみません塾長、わたし、たくさんお世話になったのに、恩を仇で返すようなことして、それなのに……っ、こんなわたしに……っ、すみません、本当にすみませんっ……!」

「ホントだよ。勘弁して欲しいよ。だから絶対、幸せになりなさい」

「……っ、塾長」


もういいよ、と笑いかけてきた塾長は、だけど雅治には厳しい声で言った。


「絶対、幸せにしろよ。じゃないと俺がいつでも奪い返しに行くからな」

「……奪ったこともないくせによう言う」

「雅……っ!」


カッコイイところを見せ付けられた腹いせなのか、こんな感動の中で、雅治はケロッと言ってのけた。

全くこういうとこ、いつまでも子供なんだから!!


「チッ……子供のくせに」

「おっさんに言われとうない」

「……言ってくれる」

「ふん」

「雅治ってば!」


わたしのお咎めにすらつんけんした雅治は、それでもしぶしぶと塾長を見遣ると、そのぶすっとした表情のままふっと溜息をついて。

そして突然、ゆっくり、頭を下げた。


「じゃけど、感謝します。ありがとうございました」

「……仁王くん」

「本当に、感謝します……」


突然のことにはっとして驚いたような塾長が、おもむろにわたしを見た。

実際わたしも驚いていたけれど、塾長の視線が、ふと優しくなって、笑顔を向けてくれて。

ふんわりと胸が温かくなる。

雅治は雅治なりに、塾長に感謝してることと、塾長が、わたし達を認めてくれた気がして。


「いいよ。お前のためじゃないし」

「言われんでもわかっちょる」

「言わせろよそれくらい、生意気なやつ」

「って!」


そう言って、塾長はこないだまで教室の中でやっていたように、雅治の頭をぐしゃりと小突いた。

雅治はようやくそれに笑って、改めて、塾長に頭を下げた。

本当にありがとうございました、と聞こえてきた静かな声に、子供らしさが垣間見えて、どこか嬉しくなった。

そんな雅治を見て、塾長は限りなく溜息に近い相槌を打つように言った。


「あのね……下手くそな嘘だって言ったのはさ、別に嫌味でもなんでもないんだよ」

「ん?」

「え……」

「本当に下手くそだった。あんなに、目に見えてお互いが想い合ってる恋人は、珍しい。自覚ないんだな、君ら。こっちが恥ずかしくなるくらい滑稽だったよ。悔しいくらい、素敵だったけどね」









「ただいま!」

「おーう、おかえり伊織さん。どうじゃった?初日」

「うん!超〜〜〜〜、怒られた!」

「っ、とっ……怒られた?」


二ヵ月後……伊織さんは塾長の推薦状のおかげで、晴れて講師としての採用が決定した。

俺の胸に飛び込んできて、いきなりネガティブなことを話し出す伊織さんに戸惑う。

何かの言い間違いか?初日で怒られるっちゅうのは、なかなか聞かん。


「うん……経験ないから大目に見るけど、もう少し分かりやすくしないと生徒がついていけないって」

「いきなり授業させられたんか?」

「ううん。予行練習。研修だよ。すでにいる講師陣目の前にして、数学……はあ……」

「緊張して本領発揮できんかったっちゅうオチか……」

「うー……しかもわたし、数学より断然英語派なんだけど……うー、雅治ー」

「おうおうよしよし……」

「お腹空いたー」

「…………お前さん俺をおちょくっちょるんか?」

「違うよー、でもお腹空いたんだもん」


前からそうじゃったけど、仕事で疲れたときの伊織さんはいきなり子供みたいに俺に甘えてくる。

だがそれも、付き合い始めの頃は考えられんかった伊織さんの態度だ。

どう転んだって愛しいこの人が甘えてくるのは、どうしょうもなく可愛い。


「雅治は?今日は楽しい日だった?」

「おう、そういやちょうど、俺も数学のレポート出さんといけんのじゃ」

視線をレポートに送ると、同じように顔を向けた伊織さんはぎょっとした顔をした。

「ぎゃー、最低じゃーん」

「そうか?俺は数学、嫌いじゃないんだが。ちゅうかどっちかっちゅうと得意なんやが」

「えー!もっと最低ー。嫌味ー」

「まあしょうがないの、持ってうまれた才能やき」

「はいはい……見ていい?」

「別にええよ」


茶碗を置いて愕然としたかと思えば、伊織さんはローテーブルの上にあるそのレポートを見つけてペラペラとめくり出した。

仕事が決まった喜びと、初日の緊張と、いきなりダメ出しされた落胆と、それでも今があるありがたみとで、この人はどうも、なんちゅうか今日はナチュラルハイになっとる気がする。

何を言っても笑顔じゃし、怒られて帰ってきたっちゅうのに、テンションが高い。

まあ、俺は伊織さんならなんでもええことに変わりないが。


「これはー、あれだー、思い出したくも無いユークリッド空間内の幾何学……」

「ご名答」

「よくやるこんなの……」

「通ってきた道じゃろう?」

「忘れた道です。とっくの昔に」


ピシャリと言った伊織さんに声を出さずに笑うと、雅治バカにしてるー、とぶつくさ言いながら、伊織さんは米粒を口の端につけちょった。

それが可笑しくて笑っちょるんだが、気付かず食べ続ける伊織さん愛しさがまして、むしゃぶりつきたくなる。


「え、ひゃっ!なに!」

「なんでも……キスしとうなっただけ」

「ご、ご飯食べてるのにっ?」

「おう。なんとなく」


っちゅう名目で、俺はその米粒を取ってやった。

そのとき、ふと思った……こんなタイミングで出すつもりなかったんだが、今がええような気がして。

家庭の匂いを、どこか感じたせいやろうか。

俺には程遠い未来のような気がしとったが、彼女となら、悪くない。


「れ……雅治?」

「ちと」

「ちと?……いいけど別に」


食事中にいきなり立ち上がった俺の背中に不安そうに声をかけながら、俺がそこから戻ってくるときになって、静けさに耐えれなくなったのか、伊織さんはテレビをつけた。

全くどこまでもタイミングが悪いお姉さんじゃ。少しは察してくれんかのう、大人になろうとしちょる俺を。


「テレビ禁止」

「あ!今面白そうなのやってたのにー!なんでー」

「渡したいもんがある」

「え?」

「これ。就職祝い」

「……っ、えっ!!」


茶碗と味噌汁ととんかつとビールの間に置かれた小さな箱を見て、伊織さんは目をひん向いた。

飲み込みかけていた味噌汁を飲み込んだ後で、わざわざ驚きの声をあげて俺を見上げる。

急に照れくさくなった俺は、その視線から逃げるように再び席について茶碗を手に取った。


「雅治、これ、もしかして、もしかして……」

「開ける前から期待せんほうがええぞ。違っちょって落胆されたらこっちも落ち込むじゃろ?」

「……う、うん」


そうだよね、そうだね……と言いながら、伊織さんは俺に確認も取らんままそのリボンを解いた。

ゆっくりと開けられていくその手つきがいじらしいのと同時に、緊張が高まる。

わかりきっちょるお互いの気持ちを、わざわざ見せ付け合っとるみたいだ。


「……、雅治」

「高うないけど、しばらくそれで、我慢しんしゃい……」

「そんな……もう、これで十分だよ……嬉しい、わたし……」

「ちゃんとしたんは、俺がもっとちゃんとした時に、あのおっさんが出せる倍のもん買うちゃるから」

「もう……いんだってそんなの……いつまで張り合ってるつもり?」


伊織さんはそれを持って、立ち上がって、俺を頭を包むように横から抱きしめてきた。

つけてよ、とせがむように頬に落ちてくるキスが心地いい。

ここにきて、目の前のとんかつ、どうでも良うなってきたのう。


「右?左?」

「左……当然じゃろ?一生誓った仲じゃろ、俺ら」

「ふふ……雅治のその独占欲の強さに、伊織さんクラクラきちゃうよ」

「黙りんしゃい……お前さんだって人のこと言えんじゃろ」

「はーい。いきなりネックレス渡したのはわたしですー」


ピンクゴールドの指輪は、伊織さんの白い手にぴったりじゃった。

安っぽいその光沢もいとおしむように見つめる伊織さんの喜びが、憎まれ口を叩いたって、俺には嬉しい。


「伊織さん……」

「うん?」

「ありがとの。俺を選んでくれて。いろんなもの、犠牲にして」

「だって犠牲じゃないもん」

「ん……わかっちょる。じゃけど、ありがとう」

「……こちらこそ、ありがとう……よろしくね。これからも」

「おう……これからずっと、やの」

「うん!」


ニコニコと、甘えるように頬をすり寄せてきた伊織さんに微笑むと、同じように微笑み返してくれた。

この瞬間を手離したくない――その想いだけで、俺はこの先の何十年、生きていける気がした。























fin.




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