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8.


「親友にしては、聞いたことない名前やのう」
「てかアンタ、そんな見掛け倒しないよね。あたしより上とか言われても頷ける」

俺の風貌を見て、吉井千夏はそう言った。

「警察に突き出すか?」と、笑ってみたが、吉井千夏は笑わなかった。
「ンな面倒なことしてられないね。にしても……よくまあ、ブギーまで調べあげたこと」

呆れたように俺を見て、グラスの中身を飲みほした。
俺がここまで来るのにいろいろ苦労したことが、この女にはなんとなくわかっているようだ。
「そんなに伊織が好き?」という、挑発的な視線が遠慮なく俺に注がれていた。

「聞かせてくれんか、なんでもええから」

本当は聞きたいことが山のようにあったが、質問には答えてくれそうにないと踏んで、俺は下手にでた。
俺が何者かを知ってから、急激に吉井千夏の顔つきが敵対するようになったからだ。

「その前に、アンタのこと聞かせてよ。なんでここにいるの? どこまで調べた? そもそもなんで調べてるの? まさか伊織が自らここのことを話すわけ、ないもんね?」

たたみ掛けるような物言いに、俺は警戒した。それは威嚇に近かった。
「調べる」という言葉にも、得体の知れない気味悪さを感じた。すなわち、伊織には調べられる要素があるということだ。伊織がこの場所のことを話すわけない、という部分に、それは直接的につながっている要素なのか。ジリジリとしながら、俺は吉井千夏にこれまでのことを話した。
最初はお互い、はっきりしない気持ちのまま付きあいはじめたこと。俺はすぐに、伊織に夢中になったこと。一方で伊織はずっと煮え切らない雰囲気をただよわせていたこと。最近はほぐれてきたものの、いまでも腑に落ちずに、伊織のことをなにも知らないと気づきはじめたこと。
『Zion』というカフェにあったパズルリングのスケッチと、同じものを伊織が持っていたことで、直感的な不安が襲ってきたこと。友人の力を借りて調べていくうちに、とうとうこの店にたどりついたこと。
五橋春が、伊織の前の男だと、ついこのあいだ、知ったこと……。

「ケッサクじゃん。アンタ、探偵でもやったら?」

俺の説明が終わったあと、千夏はニヤニヤとしながらそう言った。小馬鹿にされているのはわかっていた。それよりも、俺を怒らせようとしていることのほうが、より伝わってくる。

「探偵なら俺より向いちょるのがおる。そいつの話がなけりゃ、俺もここまで来れてない」
「あー、そのZionのスタッフの彼氏って子?」俺のせいで、忍足までもが小馬鹿にされている。そういう口調だった。「よくやるわ……素晴らしき友情なのね、高校生って青春してるー」
「そうだ。俺のことは話した。次はお前の番だ」挑発に乗っている場合じゃない。
「あたしの番って言われてもね。先に言っておくけど、あたし最近の伊織のことはなにも知らないよ」

千夏は顔の前で手をひらひらと振った。だから話すことはない、と言いたいわけか。
それでもここまできて、なにも収穫が得られんのは癪に触る。

「知っちょるじゃろ。この指輪を見て俺に気づいたんなら、最近の伊織を見ちょるはずだ」
痛いところを突けたはずだったが、千夏はさらりと言った。「ああ、それはこないだ偶然会ったときに聞いたの。大晦日の夜に、違うライブハウスで伊織に会ったのよ」

あの子、なんにも変わってなかった。と、つづけた。

「アンタも知ってのとおりみたいだから言うけど、伊織の胸もとにはいつも、春とのパズルリングがあった。二人の愛の証でしょ。そんなの別れてからもずっとつけてるんだもん。嫌でも目に入ってたけど、大晦日に会ったときになかったの。あれ? と思ってたら、左手の薬指に指輪があってさ」それとペアのね、と鼻で笑う。「そりゃ聞くわよ、気になるもん」
「伊織は……なんて答えたんじゃ」
「彼氏からもらったって言ってたよ。だから思ったの。伊織に子守りがついたかって」

クツクツと、笑いを堪えきれないと言わんばかりに顔を覆った。さすがに、いくら冷静を努めようとしても腹が立ってくる。

「さっきから言うとるその『子守り』っちゅうのは、どういう意味じゃ」
「そのまんまの意味よ。恋人? 笑わせないで。アンタは伊織の保護者みたいなもん」

嫌味ったらしい口もとだった。眉を大きく上にあげて、千夏は強調する。

「だから、それはどういう意味じゃ」
「えー、教えてほしいの? 耳が痛いと思うよー? だって死ぬほど好きそうだもんねアンタ、伊織のこと」
「理由を聞かんと、納得いかんじゃろ。そんなこと言われて、はいそうですかっちゅうて引きさがると思うか」

まあそうだよねー、といたぶるように、千夏はふーっと白い煙を俺に吹きかけた。
煙たさが目に染みる。タバコはもともと嫌いだが、この瞬間、もっと嫌いになっていく。

「伊織と春はね、1年付きあったの。誰から見ても死ぬほど愛しあってた。あたしはこないだ、伊織を見て思ったよ。伊織は春のこと、まだ愛してる。あの子はね、慰めで誰と付きあったって春のことを忘れられないの。春も、忘れられない。そういう二人なのよ、あいつらって」

平気な顔してそう言ってのけた千夏を、俺は思い切り睨んでいた。
伊織がまだ五橋を愛しているだと? 伊織は、五橋を忘れられんだと?
このビールグラスを、いまにもたたき割りそうだ……。

「そう睨まないでよー。アンタには気の毒な話なんだろうけど。まあ、だからあたしにとって伊織の相手が誰だろうと、子守りにしか思えない。春の代わりって言われるよりマシでしょ。ま、実際は代わりなんだろうけど、代わりにもなりきれないから、子守りって感じ?」この女は、俺を傷つけてどうしたい? 伊織と別れてほしいのか?
「聞くが、その根拠はどこにあるんじゃ」

沸騰していく体の熱を抑えるのに苦労する。
カウンターのなかのテンは、聞こえん振りをして気まずそうに目を泳がせていた。
俺はテンにビールを頼んだ。喉が異常に渇いている。体の熱を、とにかく冷ましたい。

「アンタ、女に本気になったの、はじめてなんでしょ?」
「……それとこれとどういう関係が」
だからわからないのよ、と千夏はつづけた。「根拠とかじゃないのよ、こういうのって。じゃあ逆に聞くけど、アンタだってどんな根拠があってこんな探偵みたいなことしてんの? そんなの理由はないでしょ? そんな気がする、それだけではじめたことでしょ? でもアンタの根拠のないその直感は当たったわけ」だから自分の根拠のない感覚も当たってる、と言いたいようだ。
「じゃあ聞くが、そんなに好きな相手と、なんで伊織は別れたんじゃ」

自分で言った言葉に、胸クソの悪い思いをするのは、はじめてだった。
おそらく千夏が言うとおり、伊織はよっぽど五橋に惚れていたんだろう。じゃなきゃあのパズルリングを持っている理由がない。
それで千夏の想像どおり、伊織と五橋がまだ惚れあっていると仮定して、それならなんで、伊織は五橋を振った? 

「いまでも忘れられん相手なら、なんで手放した? お互いがそんなに想いあっちょって、どうして一緒にいない?」

俺がその思いをぶつけると、千夏は黙った。俺への嘲笑が消える。
表情が一気に曇って、だるそうに首を回した。空になったグラスの底をじっと見つめて、ため息を吐く。

「ビール、お待ちでーッス……」テンが、俺の前にビールを置いた。
「……テン、ラム」
「あ、はいっ」

怯えたように、テンは千夏の前にあったグラスを片づけた。
飲めないと話せないのか、すかさず酒を頼みやがって。ずいぶんと、むしゃくしゃさせてくれるのう。

「別れた理由を教えてはくれんのか」
「……あいつらは、タイミングが悪かったのよ。出会ったタイミングが」急に、曖昧なことを言いだす。
「ごまかしは好きじゃないんだが」
「臆病者に言われたくないね。伊織を問い詰める勇気もないくせに」

それでも千夏は踏ん張ったように、タバコに火をつけて笑った。
まあ、そうカリカリしないでよ、と言いながら、テンの持ってきたラムをストレートで飲みほした。

「く、効くー……雅治、だっけ? アンタ」
「なんじゃ」
「伊織の過去が知りたいんでしょ。教えてあげる」

合図のように、千夏の人差し指がテーブルの上でコツコツと叩かれる。
なにかのスイッチが入ったかのように、千夏はしゃべりはじめた。

「伊織がはじめてこのライブハウスに来たのは2年前。あの子、ぼーっとしてた。声かけたら、ぎこちない笑顔で挨拶してきてさ」

――はじめまして。佐久間伊織って言います。音楽が好きなんです。

「なにその返事? って思ったよ。音楽好きなんてことわかってる。じゃなきゃライブハウスに通ったりしないんだから。でもそれが『普通』の返事ですよね? って言わんばかりの雰囲気だった。将来になんの希望もないみたいな顔して、だからって酒飲んで荒れるわけでもなく、笑わないわけでもなく、ただ淡々と、飄々としちゃってさ。最初は生意気な女だと思ってた。だけど伊織の言葉や笑顔には本質がなかった。なに話しても適当な返事で、なんの感情も見えない。まるでそうしなさいって言われてるロボットみたいだった。マニュアルで人間と向きあってる。それでも、だからこそなのか、あの子は不思議と人を惹きつけた。音楽を聴いているときの伊織の顔は、本当に綺麗だったの。あたし、浄化でもされてるみたいねって、あの子に言ったことがあるの」

――千夏、それ間違ってない。わたし、浄化されてるの。音楽を聴いてるときだけは、まっさらになれる、ゼロになれる。

「綺麗な顔して笑ってね。感情が動いてる様子をはじめて見た。『ゼロになれる』って変じゃない? たかだか15、6年くらいしか生きてないくせに、伊織にはゼロになる必要があったってことよ。それで思ったの。伊織の適当な態度ってのは、そうやって自分を守ってるんじゃないかって。機械的な思考で敷き詰めないと、苦しいんじゃないかって。だから本当は傷ついてる。感情を表にだせば、誰にも言えない孤独感に押し潰されそうで、ずっとそれじゃ壊れそうだから、普段はそうしてる。でもときどき、本来の自分をちゃんと認識したくてここに来てた。伊織にとっての音楽って、その源なの。失った自分を取り戻すための。それで、伊織が通うようになってから1ヶ月もしないうちに、春に出会った。こうやって、あたしとアンタ……雅治との出会いみたいに軽いもんだった。あたしはそのころ、そこに立ってたの。二人をずっと見てた」と、テンのいる場所に顎を動かした。ビクッと、テンの肩が揺れる。
「お前はそのころ、バーテンをしちょったっちゅうこと?」
「そういうことね」

相槌をいれながらも、内心で感じていた。
千夏の説明は、伊織をよく知っている人間の意見だ。俺は伊織のその内面に気づくまでに、半年かかった。
いつも感じていた。俺は伊織の本当の笑顔を、見たことがあるのか。その疑問の答えがいま、見つかったように思えた。俺は、まだ伊織の素顔を知らない。どれだけ愛しあっても、伊織の本質を抱けてはいないのかもしれない。

「春はね、超モテモテのプレイボーイだからさ、最初は気をつけろとか言ってたの。けど春がどんどん伊織にのめり込んで、伊織も春の猛アタックにどんどん惹かれていってた。いつのまにか付きあうようになって、いつのまにか二人はここにいるときセットになってた。伊織は春と会ってから、日に日に綺麗になっていった。春と付きあうようになってからは、もっともっと綺麗んなった。本当に幸せそうだった。笑顔が優しくなったし、ずっと伊織を取り巻いていたマニュアルも消えた。だからあたしもさ、安心してたんだ」

――千夏、わたしこんなに幸せ感じたの、生まれてはじめてだと思う。春が好き。誰よりも愛してる。きっとこの気持ちは、一生つづくんだよね。そんな人にもう会えてるなんて、自分でも信じられないの。

ギリギリと、胸が痛む。伊織にそんなふうに思われたことが、俺にはない気がした。好き、愛してると言われても、最終的に俺は、いつも虚しさを感じている。
それは伊織に無理やり言わせている気がするからじゃないかと、話を聞いていて思った。
俺は伊織からもらったインフィニティマークのネックレスを、自然と触っていた。
……伊織、お前は俺との永遠を、信じてくれているのか。

「でもそれも、1年で終わったの」
「別れたから、か……」

それほどの深い愛が、たった1年で壊れたというわけだ。

「そう、別れた。伊織も春も壊れちゃった。こないだ伊織に会ったときに思ったよ。昔の伊織に戻ってるって。だから、アンタじゃ伊織を変えれてないの。だから、あたしにとってアンタは、伊織の子守りでしかないわけ」

五橋と伊織の思い出ばかりを話す千夏を見て、俺は窮屈になった。
春が、伊織が、とくり返す千夏は、二人がそのままでいてほしかったと願う信者だ。その願いこそが、ここまで俺を挑発し、否定する要素なのも頷けた。
だが少なくとも、俺と付きあってから、伊織はわずかに変わった……俺はそう感じている。
それだけは、俺のなかの真実だ。

「……どうやら、別れた原因については教えてくれそうもないの」
「アンタにね、教える義務はあたしにはないの。わかる?」

千夏はまた、俺にタバコの煙を吹きかけた。
自分のことでもないのに、この女が口にするのを拒む、五橋と伊織の別れた理由……要するに、ことはそう単純じゃないっちゅうわけだ。
だったとして、それがあきらかになるまで、俺は何度、五橋と伊織の話を聞くハメになるのか。もういまですら、限界だと感じるのに。

「じゃけど俺のこと、五橋には言うんじゃろ?」
「くくっ……春とはずっと会ってないから、安心していいよ」
「……どっちでもいい。言おうが、言わまいが」
「信じろよなー!」
「俺は帰る。テン、このお姉さんの連絡先、お前は知っちょるんか?」

小さな拳で俺の腰を殴る千夏を無視してテンに話しかけると、勢いよく頷き返してきた。
俺はテンに金をわたして、席を立った。

「え、帰るの? そんな怒ることないでしょうよ。悪かったって。もうちょっと付きあいなって!」
「誰も怒っちょらせん。お前と話しちょっても聞きたくないことばっかりじゃ。また用があったらテンに呼んでもらう。悪いがそのときは付きあってもらうぞ」
「なに調子のいいこと言って」
「相談料だ」

テーブルの上に、千夏が頼んだ2杯分の料金を置いて、俺は出口に向かった。背中から千夏の罵声のようなものが聞こえたが、それも無視した。
次のバンドの演奏が始まったと同時に、俺はブギーハウスを出た。





帰りに寄り道してチョコの様子を見に行ったが、商売繁盛だったようだ。俺はチョコの忙しさに喜ぶ顔を見て癒やされてから、駅に向かった。
最寄駅につくと、11時10分を過ぎたところだった。
さすがに遅くなったかと思いながら歩き出したところだった。突然、後ろから声をかけられた。

「仁王さーん!」

あまりにでかい声で振り向くのもはずかしかったが、間違いなく俺のことだと思いながらゆっくり振り返ると、そこには忍足の彼女がいた。
勢いよく手を振りながら、突進するかのように向かってきた。俺の気分とは真逆のテンションに、少しだけ身を引きそうになった。

「お前……どうしたんよ、こんな時間に」
「仁王さんこそ、どうされたんですか? あ、わたしはライブハウスの帰りです!」元気がいい。2歳しか違わないはずだが、まぶしいほどの若さを感じた。
「そうなのか? 奇遇じゃの、俺もだ」
「ええ! そうなんですか! すごい奇遇ですね! あ、すいません、いきなり声かけて! じゃあわたし、これで」

スケッチをコピーしてもらったときにも感じたが、忍足の彼女は、律儀な女だ。おそらく知っている人間を見かけると、こうして声をかけては挨拶するのが礼儀だとでも思っている。憎めん、かわいい妹のような女だった。
俺はそそくさと帰ろうとする忍足の彼女の肩に手をかけた。

「おうおう、ちと待ちんしゃい」
「え?」
「お前、こんな時間にひとりで帰宅か? 忍足にバレたらえらいことじゃろう?」
「なっ! 仁王さん! またチクる気ですか!?」

キッと睨んできた。いや、睨んでいるつもり、とでも言うべきかの。迫力はまったくない。
さっきの千夏に比べると、この女が赤ん坊のように見える。しかも、どうも前々から俺を誤解している。
チクるっちゅうのは、ちと人聞きが悪すぎやせんか?

「いや……チクったりせんって。ちゅうか一度もチクったりしちょらんって」
「いいんですそのことは、もう許してますから!」全然、話を聞いちょらん。「でも今日のは困ります! お願いだから言わないでくださいよ!? ライブハウス、友だちと行くって言ってきたんですから!」

だがそんな友だちは、どこを見渡してもいない。
忍足にチクられるのがそんなに怖いなら、懲りもせず、なんでまたそんな嘘をつく?

「お前、まったく懲りてないんじゃの」
「ちっ……違います! 嘘じゃありません! 友だちと一緒だったけど、友だちはひとつ前の駅で降りたんです! でも先輩はきっと同じ駅の人だと思ってるからいんです、そのままで!」

それは嘘にはならんのか。まあ、嘘はついてない、ということか。そのまま騙しておけばいいと思っとるんだろう。聞かれんことは答える必要はないっちゅうことじゃの。
よっぽど忍足がうるさいのか……まあ、あの様子じゃそうだろうな。

「迎えに来てもらえばええじゃろ? 忍足に」
「それはダメです! こんな時間なのに……先輩に悪いモン」

忍足のことを思ってのことなんだろうが、バレたら逆効果とは思わんのだろうか。
なんにせよ、お似合いだと感じる。

「まあいい。それなら俺が送っちゃる」
「ええ!? だだだ、ダメです! 先輩にそんなこと、ババ、バレたら死刑です!」

いろいろ面倒な恋人同士だ……なんなんじゃいったい。
忍足はあれだけ俺の現状を知っちょっても、嫉妬するんか? 呆れた男だ。

「……お前、家はどっちじゃ」
「え、えっと……北口方面、ですけど」
「距離はどのくらいだ」
「徒歩15分です」
「俺の家も北口だ。徒歩10分。どうせ同じ方向なんじゃから、一緒に帰らんか?」
「え、……あ、そ、そっか! そうですよね! 同じ方向なら、仕方ないですよね! 仁王さん頭いい! 仕方ないんだ、そうだ!」

仕方ない、をくり返されて、苦笑するしかなくなる。
頭がいいとかいう問題じゃないと思うが、まあ悪い人間じゃないというのは、これまでの感じで嫌というほどわかった。

「もし忍足にバレたら、俺がなんとかしちゃるから。行くぞ」
「あ、それは心強い。あー……すみません、お騒がせして」

とろとろと、忍足の彼女は俺のうしろを歩いた。
いくら俺でも、こんな遅い時間に知っている後輩の女をひとりで帰らせたりはできん。
なにかあったら、それこそ俺が忍足に死刑にされる。

「そういや」
「はい?」

ちょうどいい機会だ。俺はここぞとばかりに五橋の様子を聞くことにした。
『Zion』にはあれきり顔を出していない。五橋は俺のことを、探りに入っているかもしれないと思った。

「お前のとこの店長、あれからなにか言うてきちょらんか?」
「店長? いや別に、とくには」
「そうか……」

こうして俺が忍足の彼女にも探りを入れることを見越しているのか。あれだけの宣戦布告を俺がしかけたというのに、なにも言ってこないというのも不自然な気がする。
だが、あの男のことだ。自分なりになにかつかもうとしているのかもしれない。

「仁王さん、店長のこと気になるんですか?」

少しの沈黙のあと、忍足の彼女がふと聞いてきた。
なにか気づかれているのかと勘ぐったが……まさか忍足がしゃべっちょるわけないよのう?

「……なんでじゃ?」
「いやー、たまにお客さんにそういう人がいるんですよ。女性が圧倒的ですけど。たまに男性でも、店長さんのお名前を教えてもらえませんかー? とか」
「ふうん」

おそらく、ブギーハウスで五橋を知っている連中だろう。俺は適当にごまかした。

「容姿端麗じゃからの。女とゲイにモテるんじゃないか?」
「……まさか仁王さん」好奇心丸出しの目が、俺を見ている。この女……。
「……忍足にチクられたいか?」
「ひっ……嘘です嘘! 冗談ですよ!」

その「冗談」にしらけた視線を向けてから足早に歩き出すと、忍足の彼女は「仁王さん優しくないですね!」と、うしろから悪態をつきやがった。

「お前に優しくしてなんの得があるんじゃ」
「……ないです、逆に損するかもしれないです」
「現に一度、損しちょるんじゃ、こっちは」
「え、そうなんですか? あはは、あー、それはすみません。先輩って、ちょっと過剰なところがあって。でも、大切に思ってくれてるんだなって……へへ」
「ノロけなさんな、気持ち悪い」
「はあ……仁王さん全然、優しくない!」

俺が嫌味まじりに言ったところで、忍足の彼女はため息をついたが、それは結局、幸せそうに見えた。
やっぱりうらやましいと、本心から思う。どんなバカップルでも、想いあっているふたりは輝いて見えるもんだ。

「そろそろ俺の家につく。こっちを右なんよ」
「あ、わたしは左なんです。じゃここでさよならですね!」

駅から歩きはじめて10分ほどだった。突き当たりを右に曲がるところまで来て、街灯の下で忍足の彼女は丁寧に頭をさげてきた。

「ありがとうございました!」

そのとき、目の前にある小さな肩の上で、なにか黒い物体が動いた。
返事もせんままにそれを凝視していると、忍足の彼女は不安そうに俺を見あげた。

「あの、仁王さん?」
「ちと、じっとしちょきんさい」
「えっ?」
「大きめの蜘蛛がおる。取っちゃるから、じっとしちょきんさい」
「え、いっ……ええ!? ええ!?」
「うるさいヤツじゃのう、静かにしんさい」

のろっと歩く蜘蛛は、直径2センチほどだった。
女っちゅうのはそれでも悲鳴をあげる。蜘蛛は悪さをせん虫なんだが、そういう問題じゃないんだろう。
俺はいまにも動き出しそうな彼女の反対側の肩をつかんで、標的を捕らえて遠くに投げてやった。

「取れたぞ」
「いいいいいいいいいいいいいいい」
「なんじゃ、取れたっちゅうとるじゃろ」
「ありがとうございました……ああ怖かった……じゃあ、わたしこれで……え?」

身震いしながらまた丁寧に頭をさげて体を起こしたとき、忍足の彼女の動きが、俺の後方を見て止まる。
今度はなんじゃ、と思って振り返って、俺は目を丸くした。そこに、伊織がいた。

「……お前、どうしたんじゃ」
「雅治……」

少し歯を食いしばったような表情で、俺と忍足の彼女を見ている。
彼女は伊織の顔を不思議そうに見て、首をひねっていた。あれ、という声が漏れでている。なにかあるのかと思って忍足の彼女を見ても、ただ、ぼんやりとしていた。
そのあいだに、伊織は俺の問いかけにも答えんまま、小走りに近づいてきた。

「あの、こんばん……」

と、忍足の彼女は目の前まで来た伊織に挨拶をしようとしたが、それは伊織によってさえぎられた。
俺と彼女のあいだに立った伊織は、弱々しい力で、忍足の彼女の腕を外側に押した。

「わっ……」

忍足の彼女が、ふらついて後ろに下がる。ぎょっとした表情をして、伊織をじっと見つめた。無理もない。
俺はその様子を唖然と見ていたが、伊織はその直後、俺に振り返って抱きついてきた。

「……どうしたんじゃ?」
「……」伊織は、答えない。
忍足の彼女が、慌てだした。「あっ、あの、誤解されたならごめんなさい! あの、仁王さんとはただちょっと偶然に会って、あの、虫を取ってもらっただけです! わたしあの、仁王さんの友だちの彼女だし、あの……」

自分がやんわりと押しのけられ、俺に抱きついた伊織に早口に言い訳をする。
そして何度も頭をさげて、「失礼します!」と走り去って行った。
悪いことをした……忍足の彼女にそう思うのと同時に、俺はそれでもずっと黙って胸に抱きついているままの伊織の背中に腕を回して、話しかけた。

「どうした? なにかあったか……? 今日は用事があるんじゃなかったかの?」
「……」
「伊織?」
「……会いたかったの」

俺はブギーハウスに入ってから、スマホの電源を切ったままだったことに気がついた。
途端に伊織が愛しくなって、強く抱きしめる。キスをすると、伊織は静かに泣きだした。
なにがあったかまったくわからないが、俺は素直に嬉しかった。
伊織……お前が俺を必要とするいま、その愛を……俺に信じさせてくれ。





to be continue...

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