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13.


さっきまで薄暗かった空が、ようやく明るくなってきた。
まだ午前6時40分。いつかのように、ぼんやりと伊織の家を見あげる。
待ち合わせの時間からして、さすがにもう起きているだろうが、人影はまったく見えなかった。
今日は、伊織の誕生日だ。
こんな寒い季節に伊織が生まれたということが、どこか皮肉に感じる。
伊織がときおり見せる独特な影は、冬の冷たさによく似ていた。目が覚めるほどの澄んだ空気に触れた瞬間、寒気がする。何枚もの服を着て、薪を焚べてでも熱を与えると、そのときだけはあたたかくなる。が、実は冬自体の冷たさが消えているわけじゃない。一瞬をごまかしているだけだ。
夏も一緒に過ごしていたはずが、もう思いだせなくなっていた。それほど、この数ヶ月に俺が触れた冷たさは、痛みを伴うものだった。
感傷にひたっているあいだに、時刻は7時になっていた。
家のチャイムを押すと、バタバタと大きな足音が聞こえた直後、玄関の扉が開かれる。
紺のロングコートにすっぽりと身を包んだ伊織が、眠そうな顔で登場した。

「ねえ雅治……」
「おはよう。どうした?」
「あ、うん、おはよう」と、目を瞬かせている。「あのさ、昨日からしつこいようだけど、なーんで、こんなに早いの?」

まだ頭が起きてないのか。あれだけ早く寝るようにっちゅうたのに、まったく言いつけを守ってなかったんだと思うと、苦笑しか出てこない。

「じゃから、早う寝んさいって言うたじゃろ」
「そんなすぐすぐ、早寝なんかできないよー。もう学校に行かなくなってさー、すっかりダラダラしてるんだから」
「そう言わんと。たまにはいいじゃろう、早起きも。バチは当たらんって」

前日、伊織には電話をして、朝の7時に迎えに行くと言っていた。
驚きと非難の混ざった声も聞かずに強引に電話を切ったんだが、そのあとはメッセージで、「無理」「わたし夜型」「せめて9時!」と攻撃を受けた。
そのどれもに、「いいから早う寝んしゃい」と送ったが、あまりの強引さに、いささか機嫌が悪いらしい。
誕生日なのになんでこんな罰ゲームからはじまったのか。そんな顔は、実にいつもの伊織らしい。だからその機嫌の悪さも、俺はなんも気にならんかった。

「朝6時に起きたよわたし……眠いよう」
「よしよし、電車のなかで寝たらいい」

俺の支度はそう時間はかからんが、女は支度に時間がかかる。もともと出かけるときには少しの化粧をするようにしていた伊織は、余計にかかるんだろう。
その支度がだいたい1時間くらいだと踏んでいた俺の予想は的中したらしい。
綺麗にアイロンで巻かれている黒髪も、色づいた唇も、いつもより明るいその肌も、すべて俺のためだと思うと、嬉しい。

「手、つなご。寒い」
「ん。本当に冷えるのう、朝は」言いながら伊織の手を取って、俺のコートのなかにそれを突っ込んだ。絡まる指先が冷たい。
「だから言ったじゃんー」
「じゃけど、冷えた朝もなかなか気持ちのいいもんじゃろう?」
「でも6時とか……高校から部活もしていないわたしには、苦行でしたとさ。めでたしめでたし」
「これからはじまるっちゅうのに、終わってどうするんじゃ。まったく、なまっとるのう。まだ18じゃろ」

お前だけに早起きさせるのは悪いから、俺も6時に起きた。と、口には出さずに心のなかでつぶやいて、俺はひとりで満足する。おかげで6時半からここでずっと待っていたが、言うと逆に気を使わせるんだろうな。
伊織の誕生日に、せめて最後の瞬間までは、そんな思いはさせたくなかった。

「こんな早くから、なにするの?」
「なんじゃと思う?」
「わかんないー……んん」

ほとんど誰もいない電車のなかで、伊織は俺の肩に頭をあずけて舟を漕いでいた。

「伊織、もうそろそろ降りるから、起きんさい」
「え、もうついた? ふぁ……」あくびをかみ殺して涙目になりながら、伊織はそっと立ちあがった。
「しっかりしんさい、まだ眠いんか」

電車に乗ってから30分は過ぎているはずだが、伊織はこくりと頷いた。
仕方なく、寝ぼけまなこの伊織の頭をなでて、俺はその大好きな手を握りしめた。
かわいくて、小さな、俺の、伊織の手。
すべてのきっかけはこの手にあった。あのとき、このかわいさに気づいてなくても、俺は伊織に惚れちょったんじゃろうか。

「ん……雅治もしかしてー」

横浜駅で降りると、伊織はパタリと足を止めて俺の服を引っ張ってきた。
辺りを見渡して、目線を上にあげて少し考える。どうやら、なんとなく察しがつきはじめたようだ。

「……遠くに行く?」
「俺の女だけあるのう。勘がいい」

俺がニヤリとしてそう答えると、さっきまで半分も開いてなかった伊織の目が、大きく開かれた。
しかも、その目が輝きを帯びている。
まったく、現金っちゅうかなんちゅうか。こういうところだけ、わかりやすい女だ。

「うそ、ねえ、どこ行くの? どこ? どこ行くの? ねえっ、ねえ雅治!」犬がじゃれるように小さく跳ねながら、満面の笑みを浮かべている。
「慌てなさんなって。伊豆じゃ。日帰りじゃけど。いいか?」
「伊豆!? うわあ、うわあすごい、うわあ、プチ旅行じゃん!」
「じゃの。やっと目が覚めたか」

あたりまえじゃん! そう言って、ついには俺の腕にからみついた。
愛しさがつのる。もうこれ以上、好きにならせんでほしいんだが……無駄な抵抗か。
俺のプランを、伊織が気に入ってくれればそれでいい。
俺は伊織と、横浜を発った。





それでもやっぱり眠たかったのか、伊織は、乗り継いだ電車のなかでも俺にもたれかかって寝た。
まったく、いつまで起きちょったんか。いささか呆れそうになる。
伊織の寝顔を、俺は黙って見つめた。
伊豆に向かう電車のなかで、俺らが座ったのは向かい合った4人席。朝の早い時間に出発したことが幸いして、人は少なかった。
それをいいことに、俺は何度か、その唇に触れた。
そのたびに、浅い眠りの伊織は目を覚まして、ほんの少しはにかみながら、俺の腕を軽く叩いた。
何度してもあきない伊織とのキス。この先、こんな気持ちにさせてくれる女がほかにいるとも思えん。触れるたびに胸がうずいて、触れるたびに好きになる。キスを受ける伊織の顔も、本当に綺麗だと感じた。

横浜から約2時間、目的の駅についてから、俺たちはさっそく東海バスに乗った。

「なんか久々にバスとか乗った。雅治ともはじめてだね」
「じゃの。人も少ないし快適やのう」

どっさりと最後方の席に座って、伊織はじっと外の風景を眺めていた。
どんな景色に、伊織の心がどんなふうに動かされるのか。俺とは違う感覚なんだろう。

「バスってなんか静かだし、あったかいし、寝ちゃうんだよねえ」と、俺の手をぎゅっと握る。
「お前、まだ寝る気か?」その手をそのまま持ち上げて、額をコツンと弾くと、伊織はくすくすと笑った。
「ふふ。だいじょぶだいじょぶ、もう目は覚めたから」
「本当だろうな?」

俺の忠告がきいたのか、バスのなかの40分、伊織は水を得た魚のようにしゃべっていた。
その明るさが、俺には幼気な少女に見えた。
ここ最近、旅行すら滅多にすることがなかったんじゃないか。伊織の家庭環境を考えれば、それも当然かもしれん。最後の旅行がまだ10歳のころだとしたら、その懐かしさが伊織を明るくさせている。
嬉しそうな伊織の表情は、いままで見たことないほどに輝いていた。





目的地に到着すると、伊織はその大きな看板を眺めて、しばらくポカンと口を開けていた。
まさかこんなところに連れて来られるとは思ってなかったんだろう心情が、容易く読みとれる。

「こ……ここ?」
「ここじゃ」
「ら、らんの里、堂ヶ島」
「綺麗じゃろう。どうじゃ伊織?」

ごくんと、生唾を飲み込んでいる。まったく、かわいげがない。

「んーと……わたし、あんま花に興味なっ……ぐあっ!」
「どの口が、そんなことを言うんじゃ?」

ずけずけと正直に言い放つ伊織に、俺は後ろから腕を回して軽く首を絞めた。
お前が女のくせしてあんまり花好きじゃないことは、言われんでもよう知っちょる。

「ごごごめっ……きっと、キレー、キレーだよ、ねっ」
「そうじゃろう? ほれ、なかに入るぜよ」
「はあ……もう、なんつーひどい彼氏」
「なんか言うたかの?」

いえ、と口をつぐみつつ、俺に寄り添うようについてきた。
伊織は期待の色を一切見せることのない顔をしていたが、それでもなかに入ると、あっさりと歓声をあげた。

「き……本当に綺麗! すごい!」
「気に入ったかの?」
「気に入るどころの騒ぎじゃないよー!」

単純なもんで、そこらじゅうにあるらんの花に、どんどん、声が高ぶっている。
俺は昔、家族でここに来たことがあった。それを思いだして、今日のプランに入れておいた。
花がそう好きじゃなくても、これだけの花を見れば誰もが驚く。
あのころ花にまったく興味がなかったおさない俺も、この絶景には恐れ入った。男の俺でもそうなんじゃから、伊織にも当然、響くと思っていた。

「ほれみんさい。来てよかったじゃろう?」
「うん! へへ、疑ってごめん」
「素直でええことじゃ。伊織、らんの花言葉、知っちょるか?」
「えっ、知らない!」なになになになに、と興味深そうに俺を見あげた。
微笑んで、その答えをすぐに出してやった。「わがままな美人。お前にぴったりじゃろ?」

出した瞬間、伊織が「ん?」と顔をしかめる。
やっぱり引っかかるか? まあ、そう思って言うたも同然じゃけど。

「……わがまま。なんかそれ、ひょっとして嫌味? ぴったりって、さあ」ここに連れてきたのも、そういう意図がある? と、すっとぼけている。
「いーや? まあただ、そのまま、美人、優雅な女性ちゅう花言葉もあるがの」
「なんっ……じゃ、先にそっち言おうよ! わがままいらない、いらないよ!」

むむむ、と、どんどん口が尖っていく。なんだかんだ、かなり楽しんでいる伊織を見て、俺は安心した。

「ああ、それと俺にも当てはまる花言葉があるのう」
「え? なに?」

声をひそめるしぐさをした俺に、伊織はそっと耳を近づけてきた。
こういう、いかにも恋人同士という時間を、今日はたっぷり過ごすと決めていた。
じゃれあう一瞬一瞬が、俺の思い出になる。伊織の記憶に少しでも、俺という存在を刻んでいたかった。
俺は伊織の腰を抱いた。耳元でささやくのも、どこかくすぐったくて、どこか甘い。

「熱烈……じゃろ? 俺」
「う……雅治、さすがだよね。こんなとこで、そんなキザなこと」
「そうは思わん?」
「めっちゃくちゃ思う。いまも」照れ隠しなのか、目を泳がせた。「だってわたし、雅治のイメージ、付きあってからガラッと変わったもん」
「ほう? どんなふうに」
「ただの女たらしだと思ってたからさー」
「お前のう……それ最初から違うって言うちょったじゃろ」
「女たらしは、みんな嘘つきだから」
「ふうん……それは、経験談か?」
「違うよー、世間のイメージってやーつ」

自分でふっかけたくせに、俺は少しだけ胸を痛めた。
伊織がなんて返せば満足だったのか、自分でもようわからん。
いきなりこんなところで「実はね」と話しはじめるわけでもないのに、自分勝手さに辟易した。
伊織がらんの花に夢中になっているあいだ、俺はぼんやりと、花言葉をもうひとつ思いだしていた。いちばん印象に残った花言葉は、口には出さないようにした。
その花言葉は、『魔力』だ。
これがいちばん伊織にぴったりだと思った俺は、なんとも醜い。それでも伊織には、たしかに俺を惹き付ける魔力があった。
その魔力から這いだしていけるのか、自分でもわからん。だが、這いだしていくしかない。





せっかくの、伊豆日帰り旅行だ。
この凍えるような寒さのなか、やっぱり温泉には入っておきたかった。
すでに昼の11時を過ぎている。予定では温泉と昼食と思っていたが、思った以上にキメ込んできた伊織に悪い気がして、俺は一応、確認をとった。

「伊織、これから温泉行こうかと思っちょるけど、問題ないか?」
「うん、もちろん! ちゃんと用意してきてるから、今日は!」

と、伊織は元気いっぱいに重そうな荷物を見せてきた。温泉でのんびりしたところで、メイク道具も、ヘアワックスもばっちりというわけだ。
移動のあいだ、伊織は「温泉どこだろう、楽しみ!」と、相変わらず俺にじゃれていた。
なにも言えなくなった俺に気づくことなく、ずっと微笑んでいた。
こんなことでいいのかと、自分で自分に問いかける。楽しませるべきだと思うのに、俺は時間が経つごとに余裕をなくしていった。

温泉と軽い昼食を終えてからのんびりと散策をしたあと、3時になるころに、予約していたカフェに行った。
高い場所に位置するカフェの目の前には、真っ青な海があった。いわゆるオーシャンビューというやつで、この季節も伊豆の景色は綺麗だが、さすがに寒さがこたえる場所だった。
カフェにはテラス席もあり、「どうされますか?」という店員の質問に、俺と伊織は苦笑した。凍える自分たちが安易に想像ができる。結局あまり悩むこともなく、店のなかでその景色を堪能することにした。
予約をしていたケーキを出してもらい、それをふたりで食べながら、波の音を聞く。伊織はしきりに、「ホント最高……!」と、顔をほころばせた。

「受験シーズンだってのに、いいご身分だよね、わたしたち」
「付属校の特権じゃの」

微塵もそんなことを思ってなさそうな口調で、伊織はつぶやいた。この季節、受験生がいる家庭はとにかくピリピリしている。受験生はもちろん、その親までが、いつも目が血走っているように感じることもある……が、付属校の俺らは、伊織の言うとおり気楽なご身分だった。

「うん……だね。雅治も、そのまま立海大にあがるの?」
「そりゃ、この時期こんだけ遊んじょるんじゃから、まさかほかの大学を受けたりはせんよ」お前もそうじゃろ? と、俺は付け加えた。
「うん、もちろんその予定。でもさー、ほかの大学に受験してる子もいるじゃんか。付属にいるのに、すごすぎ」わたし、そんな勇気ない。と、つづけた。「それに比べて、わたしたちまだ高校生なのにこれだもんさあ、大学入っても、遊びほうけるんだろうなあ」
「ん……かもしれんの」笑う伊織に、曖昧な微笑みを向けることしかできない。
「うん。それなら来年、また来たいなあ、ここ」

その言葉に、俺は黙って伊織の頭をなでた。肯定の意味を感じたのか、伊織は嬉しそうに笑って、またケーキを頬張った。
大学に入っても、変わらず伊織と会う機会があるだろう現実が、どこか切なかった。

「そいえば昨日のニュース見た? カンニング対策の」
「おー、なんかやっちょったな。ズルするヤツおるんかの、いまどき」
「いるよー、日本の大学入試なんて、ほぼ人生かかってんだから」

他愛もないことを話して、笑いあう。そんなゆったりとした時間を過ごしているうちに、夕暮れどきが近づいてきていた。
楽しい時間はあっという間だ……窓が赤く染まったころに、俺は静かに席を立った。

「伊織、そろそろ行くぞ」
「はーい! 次はどこだろう。雅治すごいね。全部デートプラン考えてくれたの?」
「当然じゃろ。お前の誕生日なんじゃから」
「わたしこんなに祝ってもらったことないよ、すごく嬉しい」

気分がいいんだろう伊織は、すんなりと俺の腕をとった。手を絡めて、今日はずっと甘えている。その手を一生離したくない……そう、思うのに。
伊織がこれまで誰とどんな誕生日を過ごしてきたのか、俺は知らない。知らなくていいこともある、知っていいことなんかないと、忍足に散々言われたことにいまさら気づく自分が、滑稽だった。

わざわざ、あのカフェを選んだのには理由があった。店内から日が落ちていく様子がよくわかる上に、次の目的地までも、歩いていける場所だったからだ。
夕日の色に、海が染まっていく。俺の口数が減っていくことに気づいたのか、伊織の口数も、めっきり減っていった。
そこでは、パラパラとした人の数も、流れる風の音も、すべてが絵になっていた。
俺が促すまでもなく、伊織は足を止めた。ただただ、その景色に吸い込まれるように海を眺めていた。
『恋人岬』――俺は伊織と、この場所に来ることに意味を感じていた。

「すごい……綺麗すぎる」
「夕暮れどきがいいって、聞いちょったんでな」
「うん、最高だね。お昼もいいかもしれないけど、こっちのほうがロマンチックだ」

なにを思ってこの海を見ているのか、検討もつかない。
そんなあたりまえのことが、俺にはひどく切なかった。

――来年、また来たいなあ、ここ

そう約束をしたがった伊織の言葉が、頭のなかに浮かんでは消えていく。
薄情にも、このまま波の音と一緒に、俺の記憶から消えてくれんだろうかと思った。
近くで、恋人たちが展望デッキにある愛の鐘を3回、鳴らしていた。見つめ合って幸せそうなそのふたりは、傍から見ても、夢中で想いあっているように見える。

「……伊織」
「うん?」
「ここに来たら……」

ためらいが、一度、俺の声を閉ざした。
それでも、俺は言った。
夕暮れの海を見つめながら、恋人岬で黄昏る伊織に。どうしても、言いたかった。

「……ここに来たら、本当の恋人になれる。そういう言い伝えがある」

伊織は、黙って俺を見つめた。なにか言いたそうな瞳が、ゆらゆらと動いている。
それからまた正面を向いて、ゆっくりと、確かめるように言った。

「……もう本当の恋人のわたしたちには、必要ないね」

今度は、俺が黙って伊織を見つめる番だった。
なにも、言えない……その言葉が、俺の一生の思い出になると、確信できる。

「雅治、写真、撮らない?」
「写真?」
「ん。せっかくだもん。一緒に撮ろう?」
「……ん、じゃの」

俺のスマホで、伊織と並んでセルフィで撮影した。これまで、伊織の姿だけは何枚も写真に収めてきたが、ふたりで並んで撮るのは、はじめてだったと気づかされた。
伊織と付き合って10ヶ月。
……ようやく俺たちは恋人同士になれた、そんな気がした。

たとえそれが、俺の幻想だとしても。





地元に戻ったころには、夜の8時を過ぎていた。
急いで予約していたレストランまで行くと、伊織はまた目を輝かせた。

「うわああ、こ、美味しそうだよ雅治!」
「美味しそうなとこを選んだんじゃ。間に合ってよかった」
「ねえねえ、雅治さ」
「なんじゃ?」
「今日、お金、使いすぎじゃない? 大丈夫なのかな……」眉を八の字にしていた。
「そんなこと、お前は気にせんでいい」
「いや、でもさあ」雅治、バイトもしてないじゃん……と、申し訳なさそうに付け加えた。
「安心しんさい。今日のために、貯金しちょったから」

はったりだが、伊織を安心させるためなら、どんな嘘でもつける。
実際は、また親に金を貸してもらっていた。
しっかりしているうちの親は、俺専用の借金帳をつけている。
いくらになっているか考えるのも怖いが、とにかく大学に入ったらバイト三昧の日々になることだけは、とっくの昔に覚悟していた。

「ねえ、ここは、わたしにも払わせて?」
「ダメじゃ。お前の誕生日にお前の財布の紐を解かせるわけないじゃろう」
「だけど、でも、このあとも」
「伊織、ええから食べんさい。喜んでもらわんと、俺が不満だ」
「うう、わかったよう。すっごい喜んでるよ?」
「ん。それなら思いっきり、好きなもん注文したらいい」

申し訳なさそうな顔を向けた伊織の言葉を、俺はごまかすようにさえぎった。
伊織の好きなイタリアン、伊織の好きなパスタ。
伊織の好きな薄暗い照明、伊織の好きなインテリア。
俺は、伊織のことを知りつくした。知らなくていいことも、知った。
誰でもない、俺がそう望んだことだ。知りたいと、願った結果だ。
だがそれは、あまりにも自分を、苦しめた。

「ねえ、雅治」
「ん?」
「今日、本当にありがとうね」
「さっきから何回目じゃ?」夕食時だけで、5回は聞いていた。
「だって本当に嬉しいんだもん」
「そうか。お前も、そんな顔するんだな」

その顔は、「春……」と寝言でつぶやいたあとに見せた、あの微笑みとなにひとつ変わらない、優しい笑顔だった。
その笑顔をみるたびに、俺のなかでよみがえる、あの夜。
俺はあれから、一睡もすることができなかった。
朝になって伊織からもらったキスにさえ、俺は胸が苦しくなった。

「なんだとお。相変わらずシツレイだなあ、雅治は」
「おう、結構なことじゃろう?」

以前にした、似たような会話を思いだす。
はじめてのデートで、キスしたことを思いだす。
はじめて抱いたあの夜に、涙を浮かべていたことを思いだす。
俺を頼って、泣きながら抱きついてきたことを、思いだす。
いま俺の目の前にいる伊織は、あのころの伊織とは、なにもかもが違う。
そう俺が感じるのは、俺が伊織を……本当の伊織を、知ったからだ。





街灯の少ない夜道を、手をつないで歩いた。
すっかり暗くなっている空が、俺たちの体を冷やしていく。俺のポケットに突っ込んでいる伊織の手は、どこか力なく触れられていた。

「……ねえ雅治、今日は」
「この弁当屋、潰れたんじゃの?」
「えっ……ああ、そうそう、なんか、結構、好きだったんだけどな、ここ。残念」
「たしかに残念じゃのう。俺もたまに買いに来とったんだが」

伊織から投げられる言葉、その質問に答えることを避けて、俺はギリギリまでそれをごまかした。
ごまかしが2回も過ぎると、伊織は黙った。一切、俺に話しかけてこなくなった。
俺は黙って、伊織の手を握りしめた。
それでも伊織の反応はなかった。俺の手にただ、添える程度に、されるがまま。

やがて目的の場所についた。
見慣れたその風景を先に見あげたのは、伊織のほうだった。
俺の足が止まって、伊織は静かに目を伏せた。

「今日は振り回して、すまんかったの」

黙ったままの伊織は、俺の吐きだした言葉を聞いて、ようやく俺を見あげた。
困惑したような、残念そうなその表情に、俺の胸がしめつけられていく。

「今日は、泊まらないんだね」

伊織は自宅前で、握ったままの俺の手をポケットから取りだし、ぶんぶんと振りながら、拗ねたようにつぶやいた。
この言葉を聞くのが怖くて、俺はずっと、ごまかしていたようなもんだ。
食事が終わって、黙ってこの道を歩きだした到着地が自分の家なんじゃないかと、伊織はすいぶん前から気づいていたはずだ。
もしかしたら、このまま自宅を通り過ぎるかもしれないと、最後まで期待を抱いていたかもしれない。
そんな思いで、俺にずっと投げかけようとした質問を、伊織はやっと、俺の邪魔なく、最後まで吐きだせた。
吐きだせばそれは、俺からの答えにつながる……伊織、俺は……。

「送って、くれたんだもんね? ごめんね、やっぱりわたし、わがままかも」

たいして美人でもないから、らんの花言葉はやっぱり当てはまらないね。と、冗談を言って笑った。
当然、朝まで一緒に過ごすと思っていた伊織の、精一杯の返事に、俺は言った。
伊織……俺は、自分が思っとったより、ずっと弱い。

「……お前を」
「……雅治?」

ここ数日間、十分に考えた。その答えを、いま、伊織に告げる。

「……お前のことは、もう抱けん」

目は、そらさなかった。
伊織の視線から逃げるのは、あまりに卑怯だ。
ただでさえ伊織から遠ざかろうとしている俺は、自分を卑怯だと感じている。
これ以上は、伊織にだけは……卑怯者にはなりたくなかった。

「それ……」
「お前を抱くのは、もうつらいんよ。すまん」

伊織も、俺から目をそらさなかった。
耳を塞ぎたくなるような沈黙が、ただひたすら流れていく。
そうして先に目を伏せたのは、伊織のほうだった。

「……伊織、すまん」
「大丈夫!」

伏せたのは一瞬で、伊織は勢いよく顔をあげた。笑って、俺を励ますように。
いつだって俺に力を与えてくれていた伊織が、最後まで俺を惑わせる。それが、つらい。

「言わなくていいよ。雅治、優しいから。そんなこと言うの、もっとつらいでしょ? だから、言わなくていい。わたし、ちゃんとわかる」別れを切りだす俺の言葉をさえぎるように、早口にそう言った。「……雅治の言いたいこと、わたしには、わかるから大丈夫」

伊織……俺がいることで、癒されたことと、苦しんだことと、どっちが多い?
忘れたくても忘れられん相手を、忘れろと自分を追い詰めるのは、苦しくなかったか?
俺は、その役に立つことができんままだ……お前を、五橋から奪うことが、できない。
忘れられん相手は、無理に忘れる必要はない……俺はその、邪魔にはならんか?
俺は……俺たちは、いくら恋人岬に行っても、本当の恋人になれんことを、知っとる……伊織。

「あ……これ、返すね」俺が預けたスマホを、伊織は差しだした。
「あと、今日、やっぱりありがとう」何度言っても、言い足りないや。と、また笑った。

冷えた手が、余計に冷える。終わりを意味する行動に、頭が痛くなる。
俺が決めた、一方的すぎる答えじゃっちゅうのに……情けなかった。
こんなに自分を呪いそうになったのは、はじめてだ。

「すごく、嬉しかった……うち、あんまり旅行とかしないから」
「ん……」
「……誕生日プレゼント、あんなにたくさんもらったのに、まだ、おねだりしたいんだけど、いいかな?」

図々しいね、と言った伊織は、伊豆で買った土産を玄関前に置いて、同じように自分の荷物も置いてから、俺に一歩、近付いた。
首をかしげた俺の左手に、伊織は自分の両手を重ねてきた。
そのまま持ちあげて、静かに言った。

「この指輪、ちょうだい?」
「……これが、ほしいんか?」
「ほしいよ……だって、わたしと雅治の、思い出だから。でも、ふたつでひとつだから」

ふたつでひとつのパズルリングを、五橋と伊織はそれぞれまだ持っている。
だがパズルリングでもないこのペアリングを、伊織は俺の指から抜きとった。
ほしいなら、やる……それで俺を、懐かしむことができるんじゃろ?
お前のなかで、いつか忘れることも、きっとできる。
たまに思いだして、楽しかったと思ってくれれば、俺はそれでいい。
俺の指にあるままでも、俺も、つらいだけだ……そうじゃろ、伊織……。

「最後のわがまま、聞いてくれてありがとう」
「ええんよ、そんなの」
「うん……じゃあ、気をつけて、帰ってね」
「ああ」
「今日は本当に、ありがとね。また……今度は、卒業式かな。またね」
「ああ……またの」

俺が見送るなか、伊織は灯りのついてない家に入っていった。
俺は、すぐに伊織の自宅に背中を向けて歩きだした。
腕時計を見ると、夜の11時半を過ぎたところだった。
今日は伊織と、時間が許される限り一緒にいる。
そう、最初から決めていた。
それが、伊織へ最後にしてやれることだと思ったからだ。
俺が伊織にする、最初で最後の、つぐないだった。

別れた……伊織と。
本気で愛した女を、俺は自ら、手放した。

今日、伊織に一度も「誕生日おめでとう」と言っていないことに、そのとき、気がついた。





to be continue...

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