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18.


「雅治トー、喧嘩シテ嫌ナッタラー、スグー、戻テ、オイデネ? 雅治ハ、womanizerカモシレナイカラー」
「あはは! 言われちゃってるよ雅治?」

伊織の両親の住まいに呼ばれていた。
酒も入って気分がよくなったのか、伊織の義理の父親であるリチャードは、片言の日本語で伊織にそう言った。
「womanizer」は、簡単にいえば女たらしっちゅうことだ。まったく……アメリカでも俺はそう見られるんか。

『リチャード、クスリでもやってるの? 失礼なこと言わないで!』伊織の母親は、威勢がいい。
『ワオ! ママ怖いよ、アメリカンジョークでしょー?』

リチャードは俺に向かって舌を出してきた。
いつもこの調子で尻に敷かれているんだよ、と言わんばかりの顔だ。
だが俺は、男は案外そっちのほうが幸せなんじゃないかと思う。最近、とくに。

『リチャード、その心配はいらん。伊織のこと、大事にする。約束だ』
「ハイ、Promise……ゼッタイ、デス! 伊織ハ、僕ノ娘ダカラネ!」

リチャードはその娘の彼氏にも、まるで友だちのように接してくれる。気が若い、ということもあるのかもしれない。今年35歳というから、驚きだ。
伊織の父親にしては若すぎるが、伊織の母親の年齢からすると、そう不思議でもない。それどころか、ふたりは俺から見てもお似合いだった。

『ああ、絶対だ』
「ごめんね雅治くん、酔うとすぐブラックジョーク言うの、この人」

当の本人は、普通の速度の日本語についてこれないのか、ご機嫌な顔で高そうな赤ワインを注いでくれた。気前もいい。

「いや、楽しいです。誘ってもらって、ありがとうございます」
「雅治くんって礼儀正しいよね。おばちゃん、久々にちゃんとした日本人に会った気がする」

自分のことを「おばちゃん」という伊織の母親に、違和感だけが残っていく。
会ったのはこれがはじめてだったが、ちと……いやかなり、驚いた。
伊織の話じゃ、たしか今年46歳……だが、とてもそうは見えん。俺らの母親世代にしては若いほうということもあるだろうが、母親をしているとは思えないほど垢抜けた、綺麗な人だ。30代でも通用する。
この親にしてこの子ありか、と、妙に納得した。

「ちょっと母さん、わたしも日本人だし、雅治は猫かぶってるだけだから」
「よいよい、誰が猫かぶっちょるって?」
「かぶっちゃってるよー、もうさっきからニャンニャンしか聞こえないよー。鳴いてごらん雅治? ニャーって」どうやら、伊織も酔っちょるらしい。まったく……。
「ねえ、ホントにこんな娘でいいの? 雅治くん」
「……ちと、考えなおしちょきます」
「そうしたほうがいいわ」
「おいー!」

談笑しながらも、俺はぼんやりと、この2ヶ月のことを思いだしていた。
アメリカという広い国で過ごす夏は、あっという間だった。
伊織のバイトが休みの日は、1日中、ふたりで観光に回った。伊織の部屋にいろんな国の友だちが大勢で押しかけてきては、酒を浴びるほど飲まされて、翌日は死んどったり。夜中にプールに足を踏み入れて、ふたりで泳ぎまくったり。安いテニスラケットを買ってストリートテニスをしたときは、伊織の応援のおかげか、挑んでくるアメリカ人の全員に勝利した。静かな夜には体がふやけるほど抱きあって、いつの間にか寝ていた日もある。
とにかく、こんなに幸せな日々を過ごしたのは、はじめてに近かった。
そんなアメリカの夏も、いよいよ終わろうとしている。
今日は、最後の晩餐だ。

「ねえ、それよりさ、伊織」
「なにー?」

伊織の母親が、キッチンからなにかを持って戻ってきた。小さな布袋に入ったそれを伊織に手渡しながら、にっこりと微笑んでいる。

「これ、持ってって」
「え……?」バサッと、伊織は遠慮なくその袋を開けて、口をポカンと開けた。「な、通帳?」

横から覗くと、そこにはたしかに、日本の銀行通帳が、1冊入っていた。
俺と伊織は、目を丸くしながら顔を見合わせる。
伊織の母親は、たいしたことでもない、というように笑って、それでも早口に言った。

「それね、日本に残してる家の、家賃が振り込まれてる通帳。あの家の権利も、伊織にゆずるようにしといた。日本に戻ったらこの住所の不動産屋さんに行って、で、手続き」
「ちょちょちょちょ! ちょっと、待ってよ母さん!」

早口にしたのは、おそらく伊織に口を挟ませないためだったんだろうが、伊織はさらに早口で、母親の言葉を中断させた。
俺はリチャードを見てみたが、ニコニコと笑っているだけだ。
どうやらこの父親は、すべてを把握しているらしい。これはもう、伊織が日本に帰ると聞いたときから、夫婦で決めていたことなんだろう。

「うるさい、聞きなさい。いい? あの家は最初から、伊織にゆずる気だったの。大事なことがあったら、わたそうって思ってた。きっといまが、そのときでしょ」
「いや、でも……!」
「ふたりで暮らすんでしょ? それなりのところに引っ越すにもお金がいるし、これからだって家賃収入ってあるとすごく助かるんだよ? だから受け取りなさい。毎月いいお金入ってくるし。あ、だけど、管理はちゃんとしてね。そのへんは、ちゃんと、大家さんになるんだしね」
「だけど、だけどわたしも雅治もそんな、困らない程度に!」
「うるさいなあ! いいから受け取りなさい! 母さんもう、あの家の管理するの面倒くさいんだから!」
「そんな、下手な言い訳……」
「つべこべ言わない! ああでも、この家賃収入を使って、雅治くんと1年に1回は、こっちに来ること! それが条件よ。約束して」
「母さん……。う、雅治……いい、のかな?」

目を潤ませてこっちを見る伊織は、なんともかわいい。
俺は伊織に笑って応えた。それをダメだという男がいるなら、会ってみたい。

「お母さんの厚意じゃろ? いいに決まっとる。よかったな、伊織」
「ん……うん、よかった。ああもう、幸せすぎるよー、雅治ー」
「おうおう、酔っぱらいが……」

完全に酔ったのか、それともこれがアメリカじゃ普通なのか、伊織はとなりに座る俺の首に手を回して抱きついてきた。
ちと、恋人の親の前ではずかしいんだが……仕方なく、俺は苦笑しながらその頭をなでた。

「まったくこの娘は、なに泣きながらノロけてんの! みっともない!」

そう悪態をついた伊織の母親も、十分に涙声だった。
いろいろあったんだろう母娘だが、それをふたりで乗り越えてきた絆は固い。
嬉し涙を流す伊織の頭を何度もなでながら、最後の晩餐は23時に終わった。

その翌日。
空港まで送ってくれた伊織の両親とハグをして、俺たちは、日本に帰国した。





日本に戻ってからは、忙しい日々を過ごした。
帰国後はとりあえず俺のマンションで、ふたりで生活をはじめた。少し狭いが、伊織とならそれも楽しい。だが、俺のマンションはひとり暮らし用だ。早急に出ていく必要があった。
伊織もそのことを理解していた。俺が大学やバイトに行っているあいだに、伊織はふたりで住めるマンションを探し回ってくれた。いわく、「気に入った」という部屋を見つけてきたのは、帰国から1週間後のことだった。

「雅治どう? この広さとか、家賃とか、そのへんのこと」
「いんじゃないか? 伊織がええなら、俺はなんでもかまわんのじゃけど」

下見に行ったマンションは1LDKだった。そこそこ広めのリビングと、動きやすそうなキッチンに、ベッドルームが1つ。まだ新しく、駅からも近い。

「えっ? ちゃんと悩んでよー、住まいだよー?」

俺は、伊織と暮らすならもっと狭くてもよかったが、こういうのは女が快適なほうが、絶対にいい。
だからなんの文句もなかったっちゅうのに、伊織はどういうわけか、ふてくされたようにそう言った。
まったく、俺の気持ちをなんにもわかってない、この女は。

「お前との生活を守るためなら、俺はなんでもやるから。家賃が高かろうが、かまわんちゅうこと。それに、ここはそう高いほうじゃなかろう?」

うしろから抱きすくめてそう言うと、伊織は「そうだけど……」とつぶやいて、黙り込んだ。ぎゅっと、俺の手を握る。
そのまま覗き込むように頬にキスをすると、唇にキスを返された。

「じゃあ、ここに、しよっかな」

ずいぶんと、わかりやすい……いつの間にこんなに素直になったんかのう?

「扱いやすくなったのう」
「ぬ……? なにそれ。まるでいままでのわたしが扱いにくかったみたいな、その言い方は」
「まあ、口説くのに結局3年近くかかっちょるしのう?」
「よく言うよ、自分から振っといて」
「……」痛いところをつかれて、思わず黙りこんだ。
「……ふふん」

ここ2ヶ月以上一緒にいて思うのは、結局、俺は伊織にはかないそうもないっちゅうことだ。
伊織がどんな悪態をつこうが、どんなわがままを働こうが、俺には怒りの感情がなくなったのかと思うほど、なにもかもが嬉しかった。

「さ、じゃあ契約してくるか」
「うん。わくわくするね」
「そうやの。俺たちの最初の新居だ」
「ね。いっぱい思い出つくろう?」
「じゃの。よろしくな、伊織」
「こちらこそ!」

その数週間後に、俺らは引っ越しを済ませた。





アメリカから戻って1ヵ月ほどが経ったころには、いろんなことが落ち着いていた。
俺と伊織は休日を使って、まずは吉祥寺に足を運んだ。

『お兄ちゃん!』
「ようチョコ、久々じゃのう」

相変わらずチョコは、あのころと同じ場所で、あのころと同じように自作のアクセサリーを売っている。それだけは、ずっと変わらないままだった。
チョコは俺と伊織の姿に気づくと、すぐにその場を立ち上がった。緊張したような面持ちで、伊織に丁寧なお辞儀をする。
伊織もにっこりと笑顔を向けて、チョコに丁寧に頭をさげた。

「こんにちは」ゆっくりと、言っている。伊織のそういう気遣いに、俺はまた惚れ直した。
『こんにちは! あの……お姉ちゃんって、勝手に呼ばせてもらってるんですけど』

チョコはやけに、モジモジしていた。
それがどうも新鮮で、俺は笑いながら、手話がわからん伊織に通訳をした。

「お姉ちゃんと勝手に呼ばせてもらっちょるって、言うとる」
「あ、うん! チョコちゃん、これ、わたしと雅治からの、お土産なんだけど」
『えっ! ありがとうございます!』
「ん、ありがたく受け取りんしゃい。じゃけどお前、さっきからなにをモジモジしちょる?」
『お兄ちゃんウルサイ』

チョコの手話に、伊織が「ん?」と首をかしげる。
伊織の耳元で、うるさいと言われたことを話すと、伊織とチョコは、一緒に笑った。
もうすっかりそれだけで打ち解けている雰囲気が、俺はやけに嬉しかった。

『ありがとう! 大切にします!』
「ありがとうって。大切にするって」
「うん、気に入ってもらえて、よかった!」

伊織がチョコに選んだアメリカ土産は、名前にちなんでチョコレートと、向こうで売っている職人がつくったピアスだった。繊細な技術に興味があるチョコには嬉しかったんだろう、それをすぐにつけて、『似合う?』と俺らの口パクで聞いてきた。

「似合う、似合う! チョコちゃんにピッタリ!」
「ん、よう似合うちょるよ」
『やったー!』

穏やかな空気が流れてることに、俺は少しだけ安心した。
チョコが俺を想っていたことをわざわざ伊織には言ってないが、この女のことだ。薄々、勘づいているだろうと思う。
まあもう、ずいぶんと前の話だから、どうってことはないんだが。まさか、チョコがいまでも俺のことを想っているわけでもないじゃろうし。

『ねえお兄ちゃん、通訳してね』

頭の片隅でそんなことを考えていると、ひととおり満足したのか、急にチョコが俺に合図をしてきた。
たまに、こういう役割をさせられることがある。前の相手は柳生だったか。
いつものように頷いて、チョコの手話を眺めた。が、俺はその手話に、だんだんと変な汗をかきはじめることになった。
最初、解釈違いかと思ったくらいだ。

『お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと、すっごく愛してます』

伊織は、なにも言いださない俺にきょとんとしたまま、チョコと俺を交互に見ていた。
一方で、チョコはしれっと俺を見ていた。
二人の女からの、「早く通訳しろ」というその視線に、俺は静かに目を閉じた。

「ちょ、ちと、待て。お前、なにを言いだしちょる……」素直に、困惑を口に出した。
『早くしてよ!』ぷっと頬を膨らませている。全然、かわいくない。
「いや、そ……」
「雅治?」伊織は怪訝な顔で、俺を見あげた。
『あーそう、しないなら、筆談に変えるけど?』
「ちょ、ちと待ちんしゃいって……!」

筆談に変えられたら、余計にはずかしい。
俺はしぶしぶ、それを通訳することにした……したのはええが、なんで俺がこんな、はずかしい思いをせんといかんのじゃ……。
どういうつもりだ、このガキ……。

「……俺が、伊織のこと、愛しちょるって」
「えっ……」
『ちょっと! 勝手に略さないで! すっごく! 「すごく」じゃなくて、「すっごく」ね! 言えないなら筆談にする!?』
「ああ、わかった!」ちと待てっちゅうのに。なんなんだ、これは。「その、俺が……。お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと、すっごく愛してますって……言う、ちょる」

伊織はそれを聞いた途端、目を見開いて、顔を真っ赤にした。
真っ赤になりたいのはこっちのほうだ。なんの罰ゲームだ、これは。

『お姉ちゃんも、お兄ちゃんのこと、すっごく愛してますよね?』
「……チョコ、勘弁してくれ」頼むから。
『早く!』ついにはノートを手にしはじめた。まずい、筆談になったらもっと容赦が無くなる気がする。
「な、なんだろ、怖い……」伊織がソワソワしはじめた。無理もない。
「あー……お姉ちゃんも、すっごく愛してるか? って。お前が、聞かれちょるぞ」

う、と伊織は固まった。
チョコからの辱めとも言えるその質問に、伊織は一瞬は顔を伏せるようにして唇をぎゅっと一文字にしたが、やがて覚悟を決めたように顔をあげると、目を泳がせながら、言った。

「えっと……す、すっごく、愛しています。はい、すみません」

さらに顔を赤くしながら答える伊織の、謝りたくなる気持ちはわからんでもない。
だがチョコは、それを気にもせずに、どんどん手話をつづけていった。

『お兄ちゃんがもう知ってるから話します。あたし、お姉ちゃんに会うの2回目なんです。そのときは……あ、これ、大丈夫かな? お姉ちゃんも、お兄ちゃんから聞いてるかな?』

2回目、ということは、1回目の五橋とのことを振り返るつもりなんだろう。
伊織に気を遣うようにして、チョコは手話の途中で、俺に疑問を投げかけてきた。

「ああ、知っちょるよ」
『ごめん、こんな話、ダメ?』
「ええよチョコ、言いたいことがあるんじゃろ? つづけんしゃい」

もうここまで言わされたら、どうでもよくなってくる自分がいる。

「雅治……?」
「ああ、チョコはお前に会うのが2回目じゃって。前は、五橋と……の?」
「あっ、うん。うん、覚えてる。わたしも覚えてるよ、チョコちゃん」

伊織がチョコに向かってそう言うと、チョコは一度、『ごめんなさい』と伊織に謝った。
伊織が苦笑して、ううん、と首を振る。

『あのときより、お姉ちゃん、すごく幸せそうに見えます。あたしのひいき目だとしても、あたしは、そう信じてます』
「伊織が、あのときよりいまのほうが幸せそうに見えるって。自分のひいき目かもしれんが、自分はそう信じちょるって」
「チョコちゃん……」

俺の通訳を待って、チョコは真剣な目をして、伊織を見た。
そこには俺の幸せを願ってくれているチョコの、優しい思いが含まれている。

『だから、今後もしなにかあっても、お互いちゃんと話し合って、お願いだから、お兄ちゃんを、ひとりにしないでください。お姉ちゃんがいないと、お兄ちゃん、死んじゃうから』
「……今後は、なにかあったらちゃんと話し合ってくれって。頼むから、お兄ちゃんをひとりにせんでくれって。伊織がおらんと、俺が、死ぬらしい」
「うん……そうだよね。わたしも、たぶん死んじゃう」

伊織は、ぽつりとそう言った。
その伊織の言葉を読み取って安心したのか、チョコがようやく、ほっとしたようにその手をおろした。
まったく、やっちょられん。誰が死ぬか。はずかしい。

「くだらんこと、言うてから」

俺はごまかしとばかりに、チョコの頭を小突いた。チョコがまた、ぷっくり頬を膨らませる。
伊織はそんな俺たちを見て笑いながら、少し腰をかがめて、そっとバッグを地面に置いた。
そのままアクセサリーでも見るつもりなのかと思ったが、伊織はさっと、立ち上がってきた。
そして、ゆっくりと、手を動かした。

『ありがとう。彼の傍に、ずっといます』
「伊織……」

いつのまに、どこで覚えたのか。
ふたりでチョコに会いに行くことはアメリカにいるときには決めていたが、このところ忙しかった伊織に、話す内容が決まっていない手話ができるほどの習得時間があったとは思えなかった。
だが、それでも伊織の手話は、実にゆっくりとはしていたが、完璧だった。
俺は、唖然と伊織を見た。それはチョコも、同じだったようだ。

「えへへ……伝わったかな? 二人の手話はちょっと早くて、全然わかんなかった」
「伝わっとる。上手じゃったよ、伊織」

はずかしそうに言った伊織に、俺は微笑んで返した。
伊織は「照れるぜ!」とわざとらしい口調で笑う。本当に照れたんだろう、ぽりぽりとこめかみを掻いていた。

「よーし頑張った! と……あれれ……チョコちゃん、大丈夫?」
「お?」

気づくと、チョコは顔を歪ませて、ハンドタオルで顔を覆って泣いていた。
笑って俺が頭をなでると、はずかしいのか、振り払おうとバシバシと俺の手を叩く。
自分のために手話を覚えてくれた二人目の人間に感動したんだろう。
結局、チョコが泣き止みそうにもなかったことで、俺と伊織はチョコに見えるように、『バイバイ』と合図してから、その場を立ち去った。
チョコはびいびい泣きながら、何度も頭を頷かせて、手を小さく振ってきた。
そうじゃろチョコ……伊織は、いい女やろう? 俺は心のなかで、チョコにそう伝えた。





そのまま、俺と伊織は『Zion』に向かった。
伊織が、五橋春に会いに行きたいという話をしてきたとき、俺は反対しなかった。
それ以上は、伊織と細かい言葉を交わすこともなく、淡々とこの予定を立てただけだった。
わざわざ確認を取らなくても、伊織の思うところは、おそらく、俺と一緒だ。
だが、伊織は『Zion』の事務所に通じる階段をのぼる直前になって、俺に聞いてきた。

「雅治、ごめんねこんなことに付きあわせて。本当に、大丈夫かな?」
「なんじゃ、怖気づいたか?」
「そうじゃないけど……雅治が無理してたら、嫌だから」
「安心しんさい。俺も少しは大人になっちょるから。の?」
「ん……ありがとう。じゃあ、行こっか」

階段をのぼる。
あのころはずいぶんと長いように感じたが、それは案外、短い階段だった。
日中の忙しい時間帯を避けてきたつもりだったが、ドアの向こうはどことなく騒がしい雰囲気だ。
伊織は扉の前に到着すると、ほんの少しためらいを見せたが、ふっと息を吐いて、背筋を伸ばして、ノックした。

「はーい! あ、こんにちは……店長ですか?」

見たことない顔がドアを開けて、俺たちを見て首をひねった。
伊織はそのスタッフに頷くように、「いらっしゃいますか?」と返事をした。

「はい、おります! 店長ー! お客さんです!」

事務所のなかから、「はい!」という威勢のいい声が聞こえてきた。
五橋の声だ。それがはっきりとわかったのは、俺よりも、伊織のほうだろう。
強張った体は、触れなくてもわかった。
俺がそう思うのと同時に、事務所の扉が、大きく開かれた。

「すみません、おまたせ……」

五橋は事務所から出てきて、俺らを目にして、絶句した。
そんな五橋に、伊織は、丁寧に頭をさげた。

「……お久しぶりです」
「めずらしい、客だな……入れよ」





事務所のなかはあのころと違って、綺麗に模様替えされていた。
客用なんだろう、テーブルとソファに案内されて、俺と伊織は、ぎこちなく腰をおろした。

「……元気、してたのか?」
「うん。春も、元気してた?」
「ああ……」
「なら、よかった」

ぽつぽつと流れる会話のなかで、五橋は微笑みながら話す。
やがては俺にも視線を向けて、その場を和ますように、聞いてきた。

「仁王も、元気そうだな」
「見たまんまだ……それなりに、元気にしちょる」
「そうか……」

殴り合ったのが最後とは思えないくらいに、弱々しい声だった。……お互いさまか。

「春」
「ん?」
「雅治と、一緒に暮らしてるの、いま」
「ん……そうか」

わかりきってる、と言わんばかりの表情が、微笑みにまざる。
五橋はおそらく、俺らが別れたことも、そのあとに伊織がアメリカに行ったことも、知っている。
それでも、俺と伊織がいま一緒にいる。
五橋は頭がいい。それで、すぐに理解したはずだ。

「元気だってこと伝えたくて……ごめんね、押しかけて」
「気にするな。今度は店にも来いよ、な?」
「うん、そうする。じゃあ、行こっか雅治」
「そうやの」

それだけを、伝えにきた。
元気だ。幸せだ。
それを五橋に伝えることが、伊織のなかのけじめだ。
俺はそれを理解できる。だから、反対もしなかった。
俺は、席を立つ伊織の体に、そっと手を添えた。
少しだけ、震えている。
緊張から解放された、安心感からくるものかもしれない。いまの伊織を支えることができるのは、俺だけだ。そんなあたりまえのことが、なぜだか頭にふとよぎった。

「お邪魔しました」
「ああ、また」

そのときだった。
扉の前に立って挨拶をしたとき、こちらが手をかけるより先に、その扉が勢いよく開いた。
瞬間、さわがしい足音と、高い声が事務所中に響きわたった。

「パパオムライスー!」

俺と伊織をすり抜けていった、おさない男の子が、五橋の脚に抱きついた。
小さな踵を上へ伸ばしすようにして、五橋を見あげている。
五橋はその男の子に微笑みかけて、さらさらの髪をなでるように、その頭に手を伸ばした。

「たすく……オムライス食べに来たのか?」
「ん! オムライス食べたい! ママがいいって!」
「そっか。ちょっと待ってろ、な?」

たすくと呼ばれた男の子は、父親の優しい大きな手で頭をなでられて、嬉しそうな顔をする。
伊織はそれを、呆然と見つめていた。
やがて俺のうしろから、「すみません!」という女の声がした。

「たすく! お客さんいらしてるのに! すみません、うるさくしてしまって」

俺と伊織に頭をさげた女の人は、綺麗な人だった。伊織も俺も、それに倣うようにして、丁寧に頭をさげた。
男の子はその隙に、父親の脚に隠れた。ママに怒られたくない、という顔して、五橋にしがみついている。
伊織は、ゆっくりと男の子に向かっていっていた。
俺と五橋は、その様子を、ただ、黙って見つめた。
男の子に伊織がなにを重ねているのか……わかるのは、ここでは俺と五橋だけだ。

「たすくくん、こんにちは」
「たすく、お姉ちゃんに挨拶して」

母親も駆け寄るように近づいて、子どもと同じ視線になるようしゃがんだあと、息子と二人で伊織を見あげながらそう言った。
彼女の顔色は、とても健康的だった。それは闘病生活の終わりを、俺たちに告げている。

「こんちは!」
「こんにちは……オムライス好きなの?」
「ん、オイシーよ!」
「ふふっ……うん、美味しそうだね! ねえ、たすくくん、ママ好き?」
「ママ好き!」
「パパも好き?」
「パパ大好き!」

そう言った息子に、笑った母親はすかさずに言った。

「やだちょっと、パパは大が付くの?」
「ん、パパのが好き! オムライスオイシーから!」
「あははっ! そっかそっか。たすくくん、元気だね?」
「ん!」
「もっと、もっと、大きくならなきゃね! オムライスたくさん食べて、元気で、大きくなってね!」
「ん? うーん、うん! デブ、ヤだけど、背、高くなる!」
「あははっ!」
「すみません、バカな息子で……」
「いえいえ。とっても、かわいらしいです」

伊織はそう言って、愛しそうに男の子の頭をなでた。
そしてもう一度、今度は五橋の家族全員に、頭をさげた。
少しだけ潤んでいる瞳が、五橋の目にも見えただろう。

「行こっか、雅治」
「そうやの」

俺も頭をさげて、事務所を出ようとする。だがその直前、五橋が声をあげた。

「なあ、ふたりとも」

その声に、俺と伊織は立ち止まって振り返った。
五橋は俺たちとしっかりと目を合わせ、満面の笑みで言った。

「うちのオムライス、食って帰れよ」
「え……」伊織が、戸惑いの声をあげる。
「結構うまいから。……俺からの、餞別だよ。旅立ちみたいなもんだろ? ふたりのさ」
「……五橋」
「伊織、仁王と……」
「パパー……お腹、空いたー」

五橋が言葉を吐き出そうとしたとこに、息子が父親の足を揺らした。
父親は笑いながら息子の頭をなでて、もう一度、俺らに笑顔を向けた。

「ずっと、幸せにな」

その言葉に嘘はないと、俺は思った。





「……実は、前から思っとったんだが」
「んー?」

たしかに、『Zion』のオムライスは絶品だった。
すっかり満腹になった俺らがお茶を飲みながら流れる音楽に耳を傾けていると、五橋がチョコのスケッチを外しに出てきた。まだ飾っちょったんか、と嫌味を言いたいところだったが、せっかくのいい休日が台無しになりそうだと判断して、やめておいた。
俺と伊織はその背中に「ごちそうさま」と声をかけて、店をあとにした。

「五橋、お前のこと本当は、あのときすでに、あきらめちょったんじゃないかの?」
「……あのときって?」

横断歩道で信号待ちをしているあいだ、俺はそう切りだした。
こんな機会でもないと、なかなか話せる内容でもない。

「お前が、五橋に会いに行ったときだ」

五橋は俺に「伊織を無理やり抱いた」と言った。
本当は無理やりじゃないことは、五橋には絶対にわかっていたはずだ。
それを無理やりだと俺に言ったことに、どんな意味があるのか……。
本気で伊織を奪う気だったなら、そんな嘘はつかんだろう。
伊織が自分を忘れるはずがないと言い張り、俺を殴りはしたが……いま思えば、あれは最後の悪あがきだったんじゃないか。

俺を試した五橋春。

あの男はとっくに、伊織が戻ってこないことを知っていた。
たとえ体を求めて、そのときはそれを手に入れたとしても……五橋はもう、伊織の心を抱いてやることが自分ではできないと、悟っていたんじゃないか。

「……そんな気がしてならん」
「そうかもね……春って、そういう人だから」

俺の説明を聞いた伊織は、スンとして、なんでもないようにつぶやいた。
伊織のそういう態度が、俺に気を遣っていることが見え見えで、俺は笑いそうになる。
この話はこれきりじゃ……そう、言ってやりたくなった。

「お……?」
「ん?」

そのとき、横断歩道の向かい側に、ベッタリとくっついている見覚えのあるふたりを見た。
あのころとなにも変わらないその様子に、俺はまた吹き出しそうになった。

「くくくっ。そうか、あいつらも……」
「なに笑ってんの雅治? どうかした?」
「ああ、友だち見つけたんよ。伊織も知っちょるはずじゃ」
「……え?」

当の本人たちは、まったくこっちに気づいてなかった。
それがまた、いかにもふたりの世界で、相変わらずだな、と思う。
俺と伊織は横断歩道をわたらないまま、ふたりがこちらに来るのを待って、声をかけた。

「よう、おふたりさん」
「わあっ、びっくりした……って、仁王やん」
「あー! 仁王さん!」
「久しぶりやのう」

いきなり目の前に現れた俺に、忍足の肩が思いきりびくついた。
忍足の彼女は、あのころよりも、かなり大人びていた。だが、俺に向ける目の奥は、あのころと一緒だ。俺にはなんの興味もなさそうで、でも恋人の友だちだからと、礼儀正しく、元気いっぱいだった。
そんなふたりの左手の薬指に光っている指輪に、俺は自然と顔がほころんだ。

「お前、元気しとったん?」言いながら、忍足は伊織に目を向けた。「あ、はじめまして、こんにちは」
「あ、はじめまして、こんにちは!」伊織は忍足にニコッと返す。
「あ! エイフェックスツインの彼女さんですよね!?」
「えっ?」

すかさず、忍足の彼女がエイフェックスツインの名前を出してきたことで、今度は伊織が驚きの声をあげた。
テンポの早い会話に、俺はどこか懐かしさを覚えていた。

「あ、すみません、いきなり! 仁王さんから、リチャードがお好きだって聞いていたので!」
「え? 父? あ、じゃなくてエイフェックスツインのことか!」
「え? 乳!? おっぱい!?」
「おまっ……、お前、なにを言うてんねん初対面の人に!」
「えっ、だ、だだだって!」

さわがしいうえに、やっぱり相変わらずのやりとりで、俺は不思議と安心した。

「ああ、そうやの。そういえばあの変態ミュージシャンもリチャードか」
「父親のこと言ったつもりだったんです。ごめんなさい、まぎらわしくて」
「え、なになに? なんのことやねん、なに? どっちのリチャードも父も乳もわからへん……」
「でも、よかった……おっぱいじゃなかった。え、でも父親がエイフェックスツイン? え?」

ごちゃごちゃした会話の中で、理解しちょるのは俺と伊織だけ。
忍足たちはなんのことだかさっぱりじゃった様子で、俺はそれをふたりに説明した。

「なるほど……で、新しいお父さんがリチャードなわけやな、なるほどなるほど」
「なんか、お父さんがハーフって、カッコイイですね!」
「うふふ、よく言われる。あ、それより、彼女さん」

伊織は照れ笑いを交えながらも、なにを思いついたのか、手をポンッと叩いた。

「は、はい? わたしですか?」
「はい。あの、ずいぶんと前の話だから、いまさらなんだけど……」
「へ?」
「うん……あの、その節は……本当にごめんなさい」
「えっ……!?」

なにをいきなり謝りだしたのかと思ったが、忍足の彼女が「エイフェックスツインの彼女さん」と言ったことに、そういえば伊織と彼女は、一度会っていると思いだした。
伊織が、忍足の彼女をやんわりと押しのけた日だ。
だが伊織は、忍足のことは知らん。忍足があの日を「知らされていない」ことも、当然、知らん。

「ん? その節ってなん? ちゅうか、初対面ちゃうの? 仁王の彼女さん知っとるん?」
「あっ……あいや、それは……!」
「くくくっ……」

本当は助けてやりたいとこだったが、俺は笑いが止まらんかった。
忍足の彼女の蒼白な顔っちゅうたら、ない……まだ忍足は、嫉妬深いということか。
お前も成長せんのう。

「いえあの、3年前くらい……かな。夜に雅治と一緒にいるとこ見ちゃって、わたしが誤解しちゃって。深夜だったから、たまたま会った彼女を、雅治が家まで送っただけだったらしいんですけど、わたし、ちょっと失礼な態度を取ってしまって、それきりだったんです」

伊織は言わんでもええことをベラベラと、実にわかりやすく言った。
それにまた、笑いがこみあげる。

「……3年前?」俺、そんとき高3やよな……とつぶやいている。
「あいや、それは! あっ、彼女さん、もうそれは、全然あの……」
「くく……さ、俺らはもう行こうかの」
「え、もう行くの雅治?」

忍足の顔色がみるみる変わっていく。
俺じゃなく彼女を睨んでいるところからして、黙っていた事実が許せん、ってとこか。
大人になっても嫉妬深いヤツは変わらんらしい。
言ったところでどうせ、怒っちょったじゃろうに。

「行く行く。こんなとこには、もうおれんよ」
「そう? わかった。あの、ホントにあのとき、ごめんね彼女さーん!」

先に歩いて行く俺についてくるように、伊織は声を張って忍足の彼女に手を振った。
意図せずトドメを刺したことには、まったく気づいてないだろうが。

「いえあのっ、それはいんですけ、ど……侑士……どしたの顔、すごいよ?」
「深夜? ひとりで? 仁王に送ってもろたやと?」
「いや、なんだったかなー? アレじゃないかな。不可抗力のなにかがあったんじゃ」
「お前そんとき、高1やぞ? まあええわ。目の前にZionあることやし、ゆっくり、話そか……なあ?」
「侑士、違うんだって! ちょっと聞いて! いろんな理由があってさ!」
「おお、覚えとるんやないか。せやから、ゆっくり聞いたるって。来い、はよっ!」

後ろから聞こえてくる忍足たちの会話に、伊織は首をかしげながら、「なんかまずかったー?」と、どうでもよさそうに聞いてくる。
それがまたおかしくて、俺はしばらく笑っていた。
だが、忍足と彼女には、俺と伊織と同じ、愛があった。
左手の薬指が、それを証明していた。

「安心しんさい、あのふたりなら大丈夫じゃ」
「ふーん? まあでも、うん! 仲よさそうだったもんね!」

ペアリングも、ちゃんとしてたし! と、伊織は嬉しそうに言った。
それを聞いて、俺はふと、チョコの言葉を思いだした。
3ヶ月前、成田空港まで見送りに来てくれたチョコが、俺に約束させたことだ。

――お姉ちゃんに会ったら、チョコに指輪をつくらせて。婚約指輪ね! ほかで売ってるどの指輪よりも、素敵なのつくるから! ……ね? いいでしょ?

「のう、伊織」
「んー?」
「忍足たちのペアリング見て、思いだした。大学卒業したら、婚約せんか」
「はっ!?」

なんの前触れもない、いきなりの俺のプロポーズに、伊織は戸惑いを隠せんかったようだ。

「約束なんよ。婚約指輪、つくらせろちゅうて利かんヤツがおってのう」

俺が笑いながらそう付け加えると、伊織はピンと来たんか、ゆっくりと微笑んだ。

「うん、そうしよ。つくってもらおう」
「よし、決まりやの。じゃあ帰るか」
「了解、じゃ」
「あ? ……それは俺の真似か?」
「真似しちょるつもりじゃきー。ぷふふ」
「……へったくそ……精進しんしゃい」

永遠を誓ったあとだというのにムードもなく、俺たちはそうして笑いながら、手をつないでふたりの部屋に帰った。

俺たちが付きあった期間は、そう長くはなかった。
それでもお互いが忘れられずに、離れたあいだも、ずっと想いあっていた。
その現実が、俺は本当に嬉しいんよ、伊織……。お前もそうだと、俺は信じてる。

「伊織」
「ん?」
「好きだ」
「……わたしも大好きだよ、雅治」

これからも、ずっとふたりでいよう。
俺らを祝福してくれる、ありがたい人たちのためにも。





fin.



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