if_sequel_H.Y.


case2. H.Y.


気がつけば、大学も4年目に突入していた。

「はー……ぜー……はー……。ひ、久々に打ちあいましたけど……柳生先輩って、相変わらず、容赦ないッスね……」

汗だくになっている切原くんは、恨めしい顔をして私を見あげてきた。
いくらブランクがあると言っても、まだまだ、後輩に負けるわけにはいかないのですよ、切原くん。

「切原くんも容赦してくれないじゃありませんか。私はいつだって、後輩に優しい先輩ですよ」
「け、よく言うぜ……」
「なにか、おっしゃいましたか?」
「いーやなんにも! あ……仁王せんぱーい!」

大学のテニスコートで個人練習をしている切原くんを見つけて声をかけたら、彼は微笑ましいくらいの、相変わらずの挑発をしてきた。
私もそんな切原くんを見て懐かしく思ったせいか、素直に煽られてコートに入ったのが、1時間前のことだ。
このところ、誰かと打ちあうということは、あまり無い。
それは切原くんも同じだったのだろう。憎まれ口を叩いても、その顔は白い歯を見せて笑っていた。
そこで見慣れた人物を見かけた切原くんが、その人物のおかげでさらに気分を上々させたことが、私には容易にわかった。
こちらに向かってくる仁王くんを、大きな声で呼んでいたからだ。
声色に、喜びがあふれている。彼は昔から減らず口が多いが、昔、一緒に戦ってきた先輩が大好きなのだ。
やはり、いつまで経ってもかわいい後輩だと、私は心のなかで独りごちた。

「おう、赤也。柳生も。めずらしい組み合わせじゃのう?」
「たまたま私が通りかかったところを、切原くんが無理やりコートに連れ込んだんですよ」
「けー! すっげえやる気満々だったくせに、よく言うぜ!」
「ほうほう? で? どっちが勝ったんじゃ?」
「仁王くん、それは聞くまでもないでしょう」
「ぐ……」
「ははっ。まあ赤也、そんなもんじゃ」

優しく笑う仁王くんの幸せそうな表情に、私もついつられて、微笑みを浮かべていた。
このごろは簡単に見れるようになった仁王くんの本当の笑顔も、大学入学当初は、まったくと言っていいほどに見れずにいたせいで、いまだに、どこか安心してしまう。

「そういえば仁王くん、伊織さん、お仕事がうまくいったようですね」
「おう、そうなんよ。とりあえず初仕事は昨日で終わったみたいじゃ。夜中まで、よう頑張っちょったよ」

嬉しそうに伊織さんのことを話す仁王くんは、何度見ても新鮮で、そのたびに、私は安堵する。
切原くんはそんな仁王くんを見て、どこか気まずそうにラケットをくるくると回していた。
きっと、何度見ても見慣れない仁王先輩の表情に、どこかくすぐったさを感じてしまうのだろう。
感覚としては、私も同じだ。

「あれ? ……え、ちょ、噂をすればじゃないッスか……?」
「ん?」
「はい?」

仁王くんをまともに見れず目を泳がしていた切原くんが、キャンパスの正門あたりを見て、つぶやいた。
仁王くんも私も同時に切原くんの視線を追うと、そこには、伊織さんと、たしかチョコさんと……そして、彼女がいた。

「あ、いた……柳生くん!」
「あ、本当だ……おーい雅治ー!」

3人の女性は同時にこちらの3人を見つけて、すぐさま駆けよってきた。
どういう状況なのかわからず、こちらの3人は顔を見合わせて首をかしげてみせる。
切原くんに至っては、こそこそと私のうしろに隠れようとしはじめた。
なにをしているんですか、あなたは。

「どうしたんじゃ? 二人とも」
「うん、あの、ちょっとね……チョコちゃんとの相談の結果、雅治にも聞いてほしくて」

チョコさんは、手話で仁王くんと会話していた。
残念ながら、私にはさっぱりわからない。仁王くんは、ふんふんと頷きながら応えている。
そのあいだに、伊織さんは彼女に頭をさげていた。

「本当にありがとうございました。もう、この大学はいつ来ても、大きいからなにがなんだかで……」

伊織さんの顔が、すっかり疲れている。
中等部のころから、何度かこの大学には足を踏み入れているはずの伊織さんも、日本を離れていた期間が長かったせいなのか、いつも迷ってしまうようだ。

「やっぱり迷ってらしたんですよね? よかった、声をかけて」
「本当に助かりました。あのでも、どうしてわたしが雅治を探してるって、わかったんですか?」
「あ……それは以前、仁王くんと歩いているのをお見かけしたことがあったからです」
「あ、そうだったんですか! いや、ちょっと驚いてたんです。どうしてわかったんだろうって」
「ふふ。あ、わたし、柳生くんと仲よくさせてもらってるから。仁王くんの話も、ときどきするので。ね、柳生くん!」

彼女に笑顔を向けられて、その下手っぴな嘘に、私も笑顔を投げ返した。あれから彼女と、仁王くんの話題をしたことはない。だが、それがかわいい嘘だということをわざわざ暴露する気には、もちろんなれなかった。
伊織さんはなんの疑いも持たず、にっこりと、そうなんだ! と、嬉しそうに手を合わせている。無邪気な人だと、いつも思う。その無邪気さが仁王くんを翻弄させるのだろう。高校時代よりも、仁王くんと一緒にいるときの彼女の表情は、別段と輝いていた。
一方で切原くんは、伊織さんとは、なぜかいつも一定の距離を取っているように見えた。仁王くんの嫉妬を受けないようにしているのかもしれない。そんな彼の自惚れを、私はいつも微笑ましく思う。仁王くんがあなたに嫉妬するはずもないでしょう、と言いたくなるのだが、高校のときにされた相談のことを思えば、そうとも言い切れない自分もいた。
だからなのか、切原くんは、仁王くんとチョコさんの手話を一生懸命に眺めながら、その意味を理解しようとしているようだった。
無理ですよ。私も少し勉強しようかと思いましたが、そんな簡単に理解できるものではありません。仁王くんはチョコさんのために、何年もかけて習得したんですから。
そんな仁王くんだからこそ、私は親友であることが、誇らしい。

「ほう……ここじゃできん話みたいじゃの。とりあえず、家で話すか?」
「え、雅治、学校もういいの?」
「おう、今日はもうあがり。心配しなさんな」
「そっか。なら、よかった」

うっかり、切原くんと、目があってしまった。きっと、同じ思いだ。
このままキスしてしまうんじゃないかと思うほど、仁王くんと伊織さんの空間は甘い。
普通の恋人同士の距離、普通の恋人同士の会話だというのに、仁王くんを昔から知っている私と切原くんは、この空間が訪れた時、いつも目のやり場に困ってしまう。

「伊織、昼めし、どうする?」
「え、考えてない……ごめん」
「なに謝りよる。誰も責めちょらんじゃろ。それなら適当に買って、チョコと3人で食べるか」
「あ、うん! いいねそれ! そうしよう!」

仁王くんのそれに対して微笑む伊織さんも、どこか甘いせいかもしれない。いったいどうしたら、こんな雰囲気をかもしだせる恋人同士になれるのか……ふたりの大恋愛を知っている私ですら、いまだに不思議でならなかった。

「じゃあ行くか。あー、あんたも、ありがとな」と、仁王くんは彼女に声をかけた。
「あ、うん」彼女の仁王くんを見る目が、ほんの少し、淡くなっている。
「本当に、ありがとうございました! わたしこれで……あ、柳生くん、またね! あ、赤也くんも!」
「あ、ウィ、ウィッス!」

目をそらして顔を赤くしていた切原くんは、伊織さんに呼びかけられて、「あ、じゃ、オレも友だちと待ち合わせてるんで!」と、慌てるように声をあげた。
そそくさとテニスコートをあとにする彼に、ウブだな、などと思っていた私は、しかし、考えが甘かった。
彼はテニスコートから出た瞬間、パッと私を振り返り、なんと、片目を閉じて見せた。
それは明確に、意思として私に伝わった。
彼は、気を利かせたつもりなのだ。「柳生先輩の邪魔はしないッスよ!」と言わんばかりに。
……いつのまにか彼も大人になっているようだ。いつまでも子どもだと侮っていてはいけない。
私が歳を重ねれば、当然、切原くんも歳を重ねる。……考えてみれば、彼は今年、もう二十歳だった。

「仁王くん、すっかりわたしのことなんて、覚えてないみたいだね」

切原くんにかまけていると、正反対の仁王くんの背中を追っていた彼女が、ぽつりとつぶやいた。
本当に気にしてるわけでは無さそうな笑顔で、ふんわりと微笑む。
切ないその言葉に、なんと声をかけていいのか迷っているうちに、今度はそんな私に気づいて、彼女のほうが慌てだした。

「あ、そんな顔しないで! 全然、気にしてるわけじゃないの。本当に……」

そうだろうか。
私は多少の疑心を抱きながら、苦笑して見せた。
あなたはいまでも、仁王くんのことを想っているのではないですか?
さきほど見せたあの視線は、私にはそう、見えました……。

「ごめんね、変なこと言って。でももう3年も前のことだし、本当に気にしてないの。気にしてないし、いまの仁王くん見てると、本当によかったーって思ってるんだ」

弁解する相手が私であることに多少の複雑さを感じながらも、私はそういうことにしておこうと、彼女の話に乗ることにした。
その気持ちが本当であっても嘘であっても、私にとって、なにが変わるわけでもないのだから。

「そうですね……私も親友ながら、本当によかったと、心から思っています」
「うん。あのときは、ちょっぴりつらかったけど……」

3年前のあの日……仁王くんに振られたと泣いているあなたに、私はなにも言ってあげられなかった。
もっと私に勇気があって、もっと私が卑怯になれていたなら……慰めを利用して、あなたを自分のものにしたいと伝えることができただろうか。
過ぎたことを考えても仕方がないのに、私は仁王くんにあんな説教をしておきながら、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
それほど想っているのに、「逃げますか?」と……。

「あ、さっきね、あの彼女さん……伊織さん? が、キャンパスでうろうろしてて。偶然ね、街中で見かけたことがあるって言ったでしょ? だからすぐわかったんだ」
「そうだったんですね」仁王くんと歩いているところを、見たのだろうか。ショックを受けは、しなかっただろうか。
「うん。見かけたときも思ったんだけどね……あの伊織さんって人、すっごい存在感。なんだろう。仁王くんの彼女だからそう思うのかな? それで、さっき話した瞬間に、わかっちゃった。あー、この人は素敵な人だ、だから仁王くんがメロメロになっちゃうんだって」
「美しい人、ですからね」私にとっての、あなたのようなものです。
「うん。でもなんか、それだけじゃない。綺麗なの、全部。見た目だけじゃなくて、心のなかが綺麗なのが、にじみ出てる。うらやましいよ、ああいう人って」

黄昏れたような彼女の言葉に、私は密かに、傷ついていた。そんな自分が、愚かだな、と思う。
私にとっては、あなたも、美しさがにじみ出ているのに。

「……あなたはやはり……まだ、仁王くんのことが、好きなんですね」

結局、つい口に出して、確認してしまった。愚かなうえに、独りよがりだ。
4年前に私と出会い、私が恋におちた彼女の瞳は、いつも仁王くんを追いかけていた。
それに気づきながらも、彼女がその想いを私に打ちあけないのをいいことに、仁王くんを紹介することすらしなかった。
その1年後……仁王くんに振られてしまったと私に打ちあけた彼女は、はじめて、私の前で涙を見せた。
美しかった……あの日から余計に、彼女に恋焦がれている。
仁王くんには気を遣わせたくなくて、あのときは、嘘をついた。
……しかし私は、それが本当ならいいのにと、何度も願った。
あなたに恋せず、友だちとして慰めることができたなら、どんなによかっただろう。
私はこの想いを、4年間もあたためている。
そして想いはこのまま、来年の春の風に、吹かれてしまうのだろうか。

「どうして?」
「えっ……?」

どこかそんな自分に酔っている節もあると、私は自覚している。
3年前のことを思いだしていたらそう問い返されて、私は、はっとした。

「……いえ、仁王くんのことを、まだ気にしてるようだったので」

そうかなあ? と空を見あげた彼女は、自分の気持ちをごまかして、私に強がりを働いているのだと思った。
しかしそのすぐあとに、また彼女はふんわりと笑って、私に顔を向けた。
その笑顔に、私の胸が、たしかに高なる。
なにか、直感めいたものが、私の体中を駆けめぐっていった。

「……別に、ただ、仁王くんが幸せになってよかったって。昔、好きだった人だから、情が働いてるだけ」
「……そう、ですか」
「それに……」
「はい?」

もしかしたら私は、ずいぶん前から彼女の合図を、見落としていたのではないだろうか。

「いまはあのころの仁王くんよりも、もっともっと好きだなって想える人が、いるんだけどな」

私の目をまっすぐに見てそう言った彼女は、少しだけ、顔を赤くしていた。





fin.



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