one_02







覚えていたはずの失恋の痛みは、憎しみだけに変わり。

その憎しみはいつの間にか、誘惑につられて呆気なく消えていった。

でもその先に、わたしは何も求めてはいなかったはず……はずなのだ。















one













2.






あれから、二週間が過ぎていた。


「臣、今日の帰りどーする?」

「え……今からそれ決めんの?」


机の前に立ちはだかるわたしを、臣はぽかんと見てそう言った。

無理もない。なんせ今は朝礼前の賑やかな時間だ。


「だって今日せっかく部活ないじゃん!」

「ねえけどさ……別に今じゃなくても良くね?」


「早く決めてワクワクしたいわたしの気持ちがわかんないかなー……」

「ぬ…………」


少し伏し目がちに窓の外を見るようにして言うと、臣はぐっと言葉に詰まった。

こういう時の臣は、申し訳ないけどめちゃくちゃかわいい。


「あーもうわかったって!そんな顔すんなよ、な?」


わたしの頭を軽く弾いて、臣はゆっくりと顔を覗き込んできた。

この瞬間が、すごく愛しく思える。

にったあ、と笑ったわたしに、臣は少し口を尖らせた後に小さく微笑んで。


「映画行くか?こないだ見れなかったヤツ」

「あ、名案!」


こないだ見れなかったヤツ、というセリフに一瞬の棘を感じたけど、わからないフリをした。

ぶり返したってしょうがない。

だから、仁王のことは忘れたかのように振る舞った。

わたしと臣の間にただならぬ空気を感じるのは、あの時だけで十分だ。

事が済んだあの翌日から、何も変わらない日常をまた繰り返す。

臣がいて、わたしがいて。たまにはデートして。そうでなくては。






*  *






その日の5限は体育だった。

授業終了後、汗だくになった身体をちゃっちゃとタオルで拭き、制汗剤の匂いが充満する女子更衣室から千夏と二人で飛び出した。

クラスメイトであり親友である千夏はわたしの性質を良く知ってくれているから助かる。

急いで着替えるわたしに黙々と付き合ってくれる彼女は結構優しい。

そんな千夏には悪いと思いつつも、あの中に居たらどうしても身体に害がある気がしてならない。


「せっかちだなあ伊織は……」

「だってあんなとこに長いこといられないよ。咳込んじゃ……ちょ、ここで撒かないでよ!意味ないじゃん!」

「大丈夫だって密室じゃないんだし。それにわたし、放課後デートだから、汗臭いとか思われたくないし」


そりゃわたしだって、制汗剤を付けないわけじゃない。

ただちょっと付ければいいものを、みんな撒き散らしすぎだと思うのだ。

だから体育から戻ってきた女子に、男子はいつも苦い顔をする。

ほらね、今すれ違ってる隣のクラスの男子だってわたし達の横を過ぎながら顔を顰めてる。

ほら見て!あの女好きの仁王だって顔を顰め……


「げっ!!」

「何?どした?」


今、なんで仁王のこと見ちゃったんだろう。

全然そんなつもりじゃなかったのに、仁王と目が合ってしまった。

そうだ、隣のクラスの男子がってことは、仁王がそこに居てもおかしくないじゃん!


「おーうおうおう、また随分な反応してくれるのう、佐久間」

「お前は越後屋か。なんなのその登場の仕方は。何?今から移動教室系?」

「吉井もなかなかな突っ込みをするのう。そうじゃ、移動教室系」


出た……仁王雅治……。

こやつはあれからと言うもの、わたしを見付けてはちょっかいを掛けてくるようになっていた。

臣の彼女だから、俺も友達。

くらいに思っているのかもしれない……いや、そんなみんなと仲良しタイプじゃないはずなんだけど。

とにかく、ちょっかいを掛けてくる。

まあ、仁王にちょっかい掛けられる女なんかわたしだけじゃないから別にいんだけど。

それよりもどういうわけか、千夏と仁王はわたしを通じて仲良くなっている始末。

なんなんだろう、これ。この感じ、何?


「何か用?」

「相変わらず素っ気無いのう佐久間。制汗剤臭いぜよ?」

「それはわたしじゃなくてこのバカ!」

「誰がバカだコノヤロー!」

「威勢が良くて結構。臣とはうまくいっちょるか?」

「毎回毎回うっざいなあその質問。それって仁王になんか関係あるわけ?」

「一度は俺が壊しかけたわけじゃし?気になるじゃろう、恋のキューピットとしては」

「……は?」

「仁王ってさー、素晴らしく勘違いくんだよね」

「言うてくれるのう吉井。お前さんに呪いをかけちょっちゃる」

「バーカ。やれるもんなら……」

「さて幸村に電話しちょくかの……」

「ぎゃー!マジで呪われそうだから勘弁して!」


いつもこの調子だ。

仁王のちょっかいは千夏が一緒にいることで異常に盛り上がる。

そして必ず聞いてくる。「臣とはうまくいっちょるか?」とか言って。

そして去っていくのだ。「またの」とか言って。

その度にわたしはむすっとしている。

別にそんなにむすっとすることもないのだけど。

でもやっぱりそれは……あの時のことを、少し根に持っているのかもしれない。


「佐久間ー?」

「わっ!えっ!?何!」

「ぼーっとしちょるのう……」


あの時の、つまり、あの告白をして振られたあの瞬間を思い出し、わたしはぼーっとしてしまっていた。

いくら時間が経ったとは言え、今は何とも思ってない男だとは言え、この全く覚えていない感じも、今ならこれだけ仲良く出来ている感じも、何か腑に落ちない。


「ほっといてください。で、何か?」

「お前さん、オーケストラ好きなんじゃって?」


腑に落ちない……という気持ちが余計にわたしをつんけんとさせていた時。

突然、思いもよらない質問が飛び出してきた。


「……え、うん。え、何で知ってるの?」


確かにわたしはクラシックが好きで、オーケストラが好きだ。

そんなに有名じゃない楽団のコンサートにはちょくちょく出かけている。

学割がきく今、聴いておかなければ損じゃん、くらいに思っている。

けれど……どうしてそれを、仁王が知っているのだろうか。


「とある筋からの情報でな」

「何それ!!気持ち悪い!!」


なんとも怪しい返答に、ぎゃっと唸ったわたしが大真面目に抗議しても、仁王はくっくっくっと笑ったままだった。

「とある筋って何だ!!」としつこく仁王を揺さぶってみるも、笑ってぐらぐら揺れたままである。


「伊織ー、見られてるよ〜?」

「え?あ……」


千夏の声にふと気付けば、ようやく女子更衣室から戻って来たクラスメイトがひそひそとこちらを見ていた。

仁王はどこのクラスの女子にも人気があるんだって再確認。

まずいまずい、嫉妬攻撃を受けるのはごめんだし。

わたしは咄嗟に仁王から手を離した。あー面倒臭い。


「あ、わかった。データマンだ!」

「まあ吉井は黙っちょきんしゃい」

「ぶー。仁王なんか嫌いだ。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い……」

「でのう佐久間。CSOって知っちょるじゃろう?」

「当たり前じゃん!!」

「シカトかよ。てかナニソレ?海外ドラマ?」

「バカ!!世界最高オーケストラだよ!シカゴ交響楽団!!アンタが言ってんのはCSI!」


千夏がきょとんと返してきたのを、わたしが怒ったようにまた返した。

約半年前とは言え、あんなに話したのに全く聞いていなかったなこの女……と思うとちょっとイラついたのだ。


「おう。来日したの知っちょる?」

「知ってるよ!!お金貯めたのにチケットなんか全然取れなくって、もう、めちゃくちゃ悔しかったんだから!!」

「へえ〜高いの?」

「つかあんたやっぱり聞いてなかったんだね……」

「え?何が?」

「いや、もういい……」

「くくっ……いいコンビじゃの、お前さん達」


チケット争奪戦を思い出して地団駄を踏み、千夏の適当な相槌の思い出にがっくりして。

忙しなく心の変化を表現していたわたしの目の前に、仁王がポケットから何か出してきた。

その綺麗な手から、ふわふわっと紙切れが揺れている。


「これ、なーんじゃ」

「…………そ…………」

「1階の22列目。そんなにええっちゅうわけでもないが、観れんよりはええじゃろ?」


仁王がわたしの前でふわふわさせていた紙切れは、なんと、CSOの来日チケットだった。

入手困難もいいとこなこのチケット、それだけじゃない。学割なんかきかないプレミアチケットだ!!

しかも1階の22列目なんて、どう考えてもS席!!てことはつまり、35000円!!


「ちょ、こ、ど、どうしたのこれ!?」

「ん?まあ、ちとコネがあってのう……いるか?」

「え、い、も、貰っていいの!?」

「おう、こないだの礼っちゅうやつ」

「ま、マジでーーーーーーーーーー!?ちょっと今月末だよこれ!?どうやって手に入れたの!?」

「じゃからコネがあるんじゃって……でも結構、苦労したんやぞ?」

「千夏、CSOって言ったらね、世界最高のオーケストラのひとつなんだよ!?」

「聞いちょらんのう……」

「それさっき聞いた。つか伊織さ、一枚しかないよこれ?一人で行くの?」

「最初から一人の予定だったし!こんなの付き合ってくれる友達なんかいないよ!いくらだと思ってんのこのチケット!」

「いくら?え?仁王見せて、見せ…………」


ぎゃあぎゃあ騒ぐわたしに苦笑している仁王。

千夏はその仁王の手からチケットをもぎ取って、金額のところ見たまま固まってしまった。

そしてゆっくり、はあ?と物凄い形相でわたしを見ている。

人の趣味に口出すでない。あんたにはわかるまい、この高尚な世界!!


「ね、ねえ仁王、これ、お金明日でもいいかな?」

「ん?いやいや、貰ってもいいんかって今聞いたじゃろ、お前さん」

「へ?」

「タダじゃ、タダ。じゃないと礼にならんし?」

「え!ええええええええええええ!?」

「じゃあそういうことじゃから。授業始まるぜよ……またの」


そうして去っていく時、仁王は初めて、わたしに触れてきた。

頭をぽんっと軽く弾いて、離す間際に、くしゃっと撫でた。

思わずドキッとしてしまった自分には、気付かないフリをしたけれど。

いろんなことに驚いたままだったわたしは、仁王の背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。






*  *






「さっき仁王と、何話してたんだよ?」

「え?あ!ああそうだよ臣!臣に話そうと思ってたんだ!」

「ちょ……なんだよお前いきなり、大声出すなよ!」


放課後、映画館に向かう途中。

臣が少しだけ不貞腐れた様子でわたしに話しかけてきた。

先々週のあの事件で、仁王の話はなんとなくタブーとなっていた空間。

でも今日は特別だ。

わたしは仁王への憎しみを簡単に忘れてしまうくらい、今は仁王に感謝している。


「違うんだって臣、嫉妬してる場合じゃなくってさ」

「べ、別に嫉妬なんかしてねえよ!」

「じゃあなんでそんなむすっとしてんの。仁王はプレイボーイだよ?わたしになんか興味ないって」

「わかったよ!で、何!?話そうと思ってたって?」

「うんうん!あのね……!」


仁王からチケットを貰った事の顛末を、わたしは意気揚々と話した。

臣はやっぱり、少し面白くなさそうではあったのだけど。

オーケストラファンのわたしとしては、もう跳ね上がってしまうくらいに嬉しくて。

話し終える頃には、その喜びが臣にも伝わったのか、一緒に喜んでくれた。


「良かったじゃん。にしても、すげえ礼だな」

「臣に悪かったって思ってんじゃないの〜?あんなにキレられちゃねえ?」

「つかキレんの当たり前じゃね?普通、人の女の腰に手え回さねえべ?」

「だから仁王は普通じゃないし。てか臣の方が詳しいでしょ、それ」

「は?なんで?」


話の流れで、仁王が言っていたことを思い出す。

臣とは昔、結構仲が良かったと言っていた。

同じテニス部に所属している二人が仲が良いのは、別に不思議なことじゃない。

だけどそう言えば、臣は全然、そんなこと言わない。

当然だ。わたしは臣が仁王のこと、嫌いなのかなって思ってたくらいだから。

この時、それが妙に気になって。


「仲良かったって聞いたよ?仁王と」

「……誰に」

「仁王に。昔、仲良しだったって」

「……別に仲良くねえし。あいつの勘違いじゃん?」

「……ふーん……そっか」


その臣の声は、一瞬にして低くなって、それ以上仁王の話をするなって空気をぷんぷん匂わせていた。

それが嫉妬から来るものなのか、それとも二人の間に何かあったのか。

この時のわたしは、そんなこと探ろうとも思わず、ただ、話を切り上げることに全力を尽くして。

そしてただ、愛しい恋人との時間を大切にしようとしただけだった。





























それから更に、三週間が過ぎた。

臣との関係は相変わらず順調で、仁王は相変わらずわたしに会えばちょっかいを掛けてきていた。

でもそれも、もう普通の友達として付き合っているという感じで。

というかわたしは本当に単純で恥ずかしいが、今日のことを思うと仁王が神様に見えているくらいなのだ。

そう、今日はCSOの来日コンサートの日!!


「あんたさあ、誰に会うわけでもないのになんでそんな格好なの?」

「荷物は少なく、アクセサリーも音がするようなのは着けて行かないのがマナーなの!そしたら必然的に、お上品なワンピになるでしょうが!」


「……へえ……我が子ながら変な趣味持ったわ……」

「変じゃありません!クラシックの良さが何でわかんないかな!いってきます!」


「はいごゆっくりお嬢様〜」

「うっさい!!」


鏡越し、母はわたしをニヤニヤと見ながら邪魔をしてきた。

その質問に受け答えするのが面倒だ!とせっかちなわたしはプリプリしながら家を出て。

ホール前に着いた頃には、もう興奮を隠しきれない程に顔がニヤけてしまっていた。


首を少し回せば、そこら中に「シカゴ交響楽団来日公演」と書かれてあるポスター。

一生のうちに一度でいいと思っていたこのチケットを手に入れることが出来たなんて、未だに信じられない。

それもこれも、全部あのペテンのおかげだと思うと、うっかりまた恋してしまいそう……なんて、それは嘘だけど。


そんなアホなことを考えていたら、今日の為に購入した小さなバックから、携帯の音がした。

そういえば、そろそろ携帯電話の電源を切っておかなきゃ、と気付かされる。

ピカピカと点灯している携帯を急いで取ると、開いた先には見知らぬ番号が目に入ってきた。


「……もしもし」

「よう、今日はおめかししちょるかの?」


とりあえず出てみると、声の主は間違いなく仁王だった。

こんな時に電話してくるなんてとんでもなくKY!と思ったけれど、無碍には出来ない。神様だから。


「なんで番号……あー、千夏か」

「ご名答」


「ねえ、悪いけどもうすぐ開場だから切るよ」

「おうおう、ちと待ちんしゃい」


「待てないって!急いでるんだから」

「俺も急いじょるんじゃって」


無碍には出来ないとさっき誓ったのは一体どこのどいつだ、と自分に突っ込みを入れつつ。

仁王もどうやら急いでいるらしいと分かったわたしは、とりあえず用件を聞くことにした。


「何?早くして」

「そう急かしなさんな。開場前で急いじょるっちゅうことは、もう入口前か」


「当然でしょ?ってか用件!」

「おう、もう済んだ」


直後、プツッと電話は切れた。

ふるふると、自分の身体が震えているのがわかる。

やっぱりなんかいちいちムカつく奴!!大体何の電話かさっぱりわからなかったじゃないか!!

などと心の中で叫んでいた矢先だった。

トン、と肩を叩かれ、条件反射的に振り返る。

瞬間、まさか……とわたしの頭の中はパニックになりかけていたように思う。


「よう、待たせたの」

「…………何故あんたがここに」

「お前さんの隣。オーケストラっちゅうのがどういうもんか、俺も観てみようかと思っての」


オリーブのミリタリージャケットに身を包んだ、仁王雅治がそこに居た――――。





to be continued...

next>>03



[book top]
[levelac]




×