ワン・デイ・グルーミー








なんて冷静な人なんだろう、と思っていた。初めて会った時は。

「佐久間、今送ったやつ見て」
「はい」
「あれ、佐久間って光るじゃろ?」
「うん、光る」
「俺チャンネル間違っちょらせんよな」
「ダイジョブ。まあ誤爆してもいいけど」
「一回したことあるんよ。傷を抉らんでくれんか」
「ははは」

同僚である彼は半年前に中途で入ってきた仁王雅治だ。
わたしは彼がここに来る二年前に中途採用されたので、入ってきたのはわたしより後。だけど、同僚だ。
それにはもちろん社風も関係しているけど、同じ仕事をしているし、同じ役職だからというのもある。
わたしにとっての二年は彼にとっての半年で足りたということだ……悔しい。けれど仕事ぶりを見ていれば、それは誰もが認めざるを得ない。

さて、「送った」というのは社内で頻繁に使われているチャットシステムに必要な情報を送ったという意味で、「光る」というのはそこにわたしがキーワードとして登録してある言語は誰かが発言すれば光るようになっているからだ。

社内の人間なら必ず自分の苗字をローマ字、漢字、平仮名、カタカナで光らせるように設定されている(はずである)。
だからわたしのチャット画面には『nioh_masaharu』からの発言で『佐久間さん』とある。それがピカピカと光っていた。

更に「チャンネル」とはチャットシステム内のチャンネルのことである。
ネット上のチャットに置き換えればチャットルームといったところだろう。
社内チャットのチャンネルもネット同様、誰でも勝手に作れるので無数にあると思うが、そのチャンネルにログインできてログを追えるのは招待されたメンバーに限られている。
自分が見れるチャンネルはそのチャンネル上にカーソルを合わせれば色が変わり、発言欄でエンターを押せばそのチャンネルに送られるようになっている。
当然、全職員がログイン状態のチャンネルも存在する。
主にうちの社内では、そこで言うはずじゃなかった発言を別のチャンネルで放ってしまうことを誤爆という。
だいたいそれは、全職員がログインしてあるチャンネルで爆発されることが多い。
とはいえ、大きな会社なのでチーム内でも知らない名前の人がいるくらいだ。
知人にとっては爆発でも「誰それ?」状態の人も多いだろう。

さておき、わたしと仁王は今回だけ同じチームでシステム開発の仕事をすることになった。
チャンネル名は「kanon」で、三ヶ月後にはリリースされるプロジェクトだ。
命名はリーダーである仁王とわたしで決めた。
きちんとしっかり仕事をし、誰にも文句を言わせない完璧なシステムを作ろうと誓ったからだ。
それがどうしてカノンになったのかはよく覚えてない。
それくらいいい加減だが、わたしはこのプロジェクト名が気に入っていた。

「仁王の誤爆なに?」
「新卒が隠しちょった彼女の存在。しかも社内」
「彼女も新卒ってこと?」
「そう」
「わーもう最低」
「涙目になっちょった。俺に怒りもせんと……」
「怖かったんだろうね、新卒にとっては仁王って怖いでしょきっと」
「悪いことしたのう……やりがちなんよ俺」

同じチームなので、仁王とは正面同士で座っている。
これだけ会話しているのにチャットで何か送る必要があるのかと言われてしまいそうだが、ログを残すという意味でもチャットでのやり取りは必要であり、今しがた仁王が送ってきたのはローカルファイルへのアクセスパスなのでチャットだと非常に効率が良い。
就職したときは戸惑ったけれど、IT企業だと常識らしい。
仁王も違う分野からきた人間だから、あまり慣れないのかもしれない。

「よし、開いた」
「えーと、ちとそっち言って説明するか」
「はい」
「ファイル名これみつけて」

再度チャットからファイル名が送られ、そのパソコンを持ったまま仁王がこちらに回ってきた。
少しだけそわそわとしてしまう自分が情けない。
仕事中だというのに、わたしは一体何を考えているのだ……とは思うものの、本能には抗えない。
やがてふわりと周辺の空気を包んできた仁王の香りに、いよいよわたしは咳払いをひとつした。

「このマスタまとめて欲しいんよ」
「え」

マスタとはデータベースのことである。
わたしが思っていた以上に膨大な量で、非常にグチャグチャだ。
カオス、というのはこういうことを言うのだろう。

「大丈夫大丈夫、一日かからんて」
「なんでそんなことわかるの」
「お前じゃから。信用しちょる」

思い切りよいしょとわかっていても、唇の端をあげてわたしを見下ろす仁王に、わたしは素直に喜んでしまっていた。
ていうか……仁王、いい匂い……あー、バカだなー、わたし。

「おだてても……」
「おだてられんよりはええじゃろ?」

それは、そうなのですが。

「ああ……でもすごい面倒臭そうすごい面倒臭そうすごい」
「やかましいはよかかれ」

ちょっと優しくしてくれたかと思ったらすぐに手厳しくなる。
でもそんなやり取りがわたしは心から幸せだった。
彼をこんなに意識してしまって大丈夫だろうかともう一人のわたしが問う。
結構いい年になってきた今日この頃、そんなに恋愛に時間をかけている暇もない。
好きになったら好きと伝えて、ダメなら次の人、とテンポよくいかないと……だって女性は本当に時間がないのだ。

「終わりそうになかったら言うてくれ。手伝う」
「本当? 嬉しい」
「終わりそうになかったら、な」
「……」
「そんな顔して黙りなさんな。佐久間なら出来る」
「調子いいなんか調子いいよねなんか調子」
「やまかしいはよかかれ」

そう言いながら仁王はミーティングに向かった。

一緒に笑って、仁王はほれほれとわたしを急かして、わたしははいはいと呆れて。
こういう、学生だったら「あのふたりいい感じだよね!」とか言われそうなこの空気感が、たまらなく好きだ。
青春してる場合じゃないのに、頭の中はすっかり十代の乙女になっている。
もう、わたしをこんなにして罪な男だ仁王雅治!!
とは思いつつ、全く脈が無いとは思えないからわたしの気持ちも高まるわけで……。
仁王とわたしを取り巻く空気感に、少なからず期待している自分がいるのは確かだ。

仁王とのやり取りを終えるといつもそんなことを考えつつ、ひとり黙々と仕事を(している振りを)しながら脳内が浮き足たっている時だった。
パソコンのデスクトップにあるわたしのチャットシステムが、ピカピカと光っていた。

『佐久間さん』

どうやら最近あまり接点がなかった別の部署の女性が、一対一のチャットで話しかけてきているようだった。
すかさずレスポンスをする。

『お疲れ様です! お久しぶりですね』
『お疲れ様です〜。佐久間さん最近忙しそうだから、なんとなく声かけづらくて』
『いやそんな、お気遣いなく! どうされました?』

以前は結構頻繁にチャットで話していた中のひとりである。
席が近かったのと、彼女が入社した時にわたしがこの会社のあれこれを教えたということもある。
うちの会社は所属チームや部署がころころ変わるので、離れてしまうと急に接点がなくなって疎遠になることもしばしばだ。

『うん……前に佐久間さんと飲みに行ったとき』
『うんうん、楽しかったですね!』
『うふふ、また行きましょうね!』
『ぜひぜひ!』

チャットは時間差があるから、話が逸れがちだ。

『確か佐久間さん、仁王さんのこと、ちょっと気になるっておっしゃってましたよね』
『えっ』
『覚えてないです?』
『いや、覚えてます……お恥ずかしい』

酔ってたのだ。
更に穏やかな雰囲気の彼女についつい喋りたくなってしまったのもある。
おまけにわたしも彼女も独身のアラサーだ。
それだけで勝手に共鳴して、特に仲良くなくてもそういう話になったりするのはよくあることだ。

『今、同じチームですよね、仁王さんと』
『そうなんですよ……まあでも、仕事は仕事で、やましいことは考えないようにしてます!』

こういう大嘘は、職場の人間には大切だ。
女のプライドとしても、大切だ。

『あ……ちょっとあの、余計なことかもしれないんですが』
『どうかされたんですか?』
『こないだ、友人から聞いたんですけど』
『はい』
『なんか、飲み会の席にうちの会社の人がいたっていう話で』
『はい』

なんの話だろう、と思いながら、なんとなく嫌な予感がするのは女の勘というやつなのか。

『その人が彼女つれてきてたらしくって』
『え、え、え』

ひょっとして、ひょっとして、ひょっとして……。

『名前聞いたら、カノンってチームの、雅治って』
『マジ……ですか』
『仁王さん……ですよねやっぱり』





そりゃあ、居ないほうがおかしいとは思ってたけどさ。

『すみません、余計な事かと散々迷ったんですけど、お伝えしたほうがなんとなく言いような気がして……』
『ありがとうございます……お伝えしていただいた方が、うん、良かったかな』

彼女がわたしに伝えたことに関して、わたしは責める気はないし、結構本気で、教えてくれてありがとうと思っていた。
だから今とても落胆しているのは、そんなことほっといて欲しかったという八つ当たり的な感情ではない。
ただただ、失恋の痛みだ。

「佐久間」

どんな女なんだろうとか、いつから付き合ってるんだろうとか、仁王とわたしってタメなはずだからそろそろ結婚意識したりしてるのかなとか、こないだふたりで飲み行ったのは一体どういうつもりだったんだろうとか、いろんなことが頭の中を巡った。
とりわけ、どんな女なんだろう、が八割を占めていた気がするけれど。

「よい佐久間」

だから全然耳に入ってきてなかった。
余計なことを考えないようにしたくてイヤフォンで音楽を聴きながら仕事に没頭していた。
いつもは話しかけられたら聴こえるくらいの音量で聴いているのだけど、今日は結構大きめの音で聴いていた。
それでも頭は仁王のことだけで埋め尽くされていたから。

「佐久間、おい」
「えっ」

気が付くと、仁王がわたしの横に立って、目の前に手を掲げて振ってきていた。
はっとして急いでイヤフォンを取れば、一瞬目を丸くして、すぐに笑顔でわたしを見てきた。

「どうしたんじゃ、えらい集中しとるのう?」
「だって……仁王さんが今日中に仕上げろって言ったんじゃないですか」
「言うたけど……その急な他人行儀なんじゃ」
「別に意味はないよ」

職場での付き合いって不思議だ。うちみたいに、自由度が高い職場は特に。
急にさん付けになったり、急に呼び捨てになったり、急に敬語になったり、急にタメ口になったり。
同僚だとそれでも違和感がない。
だけど仁王は、そこに違和感を持ってくれて……そんなことが嬉しいって思うほど、わたし、恋してたんだと今更思う。
だからこそ最後の言葉は笑って言った。
意味は多いにあったけど、仁王を困らせたくなくて。
わたし達ふたり特有の、所謂「いい感じ」の空気が好きだったから。

「どう、進んだか?」
「あーえっと……このくらい」
「…………」

ノートパソコンをそのまま仁王に見せた。
仁王は上からデータを目で拾って、おや、という顔をする。
わかってる……自分でも。だけどそれはお前のせいだと言ってやりたい。

「思ったよりかかるか」
「やる気が行方不明」
「それは困った。ミーティング重なったりしたんか?」
「うんまあそんなところ」

仁王の今日の予定は共有カレンダーで確認済みだ。
名前を指定すればその人の一日の予定が見れるようになっている。
自分がミーティング重なってるからって、わたしまで重なってるわけじゃないんですー、と心の中でふてくされてみる。
でもそういうことにしておいた。
どうせ仁王はわたしの予定なんて把握してないだろうから。

「予定してないミーティングがそんなに入るもんか?」
「え」
「まあいい。このままだと今日中は無理やろうから、俺も手伝う」
「え」

ひとつめの驚きは仁王がわたしの予定を把握していたかもしれないということで、それはつまり、わざわざわたしの名前を指定してわたしの今日一日の動きをチェックしていたということだ。
そこにドギマギする自分が許せない。こんなことだから自惚れてしまったんだろう。同じチーム内の人間なのだから、把握していてもなんの不思議もないのに。
ふたつめ驚きは、仁王があっさりと手伝うと言ってくれたことだ。
この人は誰から見ても恐ろしく忙しいはずで、そんな暇はないはずなのだ。

「いいよ仁王、忙しいでしょ?」
「忙しい」
「だから、いいって」
「これ済ませんと後々もっと忙しくなる。俺だけならまだしも、お前も」
「……でも」
「チームリーダーがふたりとも忙しくてどっちも他の職員構えんようになったら終わりだ。俺が上にもろもろ掛け合う間、お前はチームを支えてくれんと困るんよ」

仁王は仕事に全力投球だってのに、わたしはプライベートの自分の勝手な思い込みでショック受けて仕事が疎かになってるなんて。
こんなのリーダー失格だ。これだからわたしはダメなんだ。
社会人としても、女としても……必要以上に自分を責めるのは、やっぱり胸が痛いから?

「ごめんね仁王」
「気にしなさんな、誰でも調子悪いときはある」
「……ありがとう」

いろんな意味のごめんねを、全部受け止めてくれた……そんな気がした。
もう、どこまでも罪な男だよ……ああ、ダメだ……余計好きになっちゃう。







「終わった!」
「よう頑張った」
「仁王のおかげだよ……終わった……」
「おう、感謝しんしゃい」

時計をみると、二十二時をさしていた。
終電を逃しても帰れるように、わたし達は会社の徒歩圏内に住んでいるのだけれど、やっぱり日付が変わる前に終われるのはとても達成感がある。

「意外と早く終わったね」
「だな。さて、一杯いくか」
「え、今から?」
「今から」
「……行くかー!」

彼女がいようがいまいが、わたしはやっぱり、仁王が好きだなと思った。
彼女いるくせに女とふたりで飲みに行っちゃうんだこの人! と思わなくもないけど、まあこの年になればそんなにたいしたことじゃない。
仕事上の付き合いは大事にしていかなければいけない立場だし、仕事を達成したわたしへの気遣いもあるんだろう。

すぐに会社を出て、わたしと仁王はダイニングバーに入った。
前にもふたりで行ったことのあるところだ。この時間となると、空いてるところは限られている。
カウンターに通されてすぐに、生ビールをふたつ注文した。

「今日はどうしたんじゃ」
「え」
「ミーティングが重なったなんちゅう嘘を、俺が信じると思ったか」
「……」

通用しないのはわかっていたけれど、クツクツと笑う仁王が少し腹立たしくもあった。
どうしてそんなにお見通しなのか。だからそういうのが、勘違いしちゃうんだってば。

「まあ、話したくないこともあるか」
「……いや……うんと」

話したくないわけじゃない。話せないんだよ、仁王。

「すまん、仕事の話はやめるか。じゃけどもし何かあるんじゃったら、今日は奢っちゃるから気分良く飲んで、明日からはまた元気にバリバリ働いてくれ」

いつも奢るくせに。
その気遣い。その優しさ。その信頼。
好きになればなるほど、わたしはどんどん卑屈になっていく。
彼女から奪い取ってやる! なんてほどの自信も勇気も負けん気も、すっかり旬を過ぎたわたしにはもう残されてない。

「そういえばー、今日さ」

だから、この人のことは、諦めなきゃ。

「うん?」
「ちょっと聞いたんだけど、面白い話」
「おう、何」

仁王はおつまみのナッツを口に含んで、興味深そうに切れ長の目をこちらに向けた。

「わたしの友達が」
「ほう」
「あ、友達の友達が」
「ははっ。どっちでもええよ」
「なんかね、飲み会に行ったんだって、こないだ」
「ほう」
「そしたらね、そこにうちの会社の人がいて、で、その人がね、彼女連れて来てたんだって」
「ほう……お? なんか面白そうやの、その話」

社内の誰かの情報かと思ったのか、仁王は少年のような悪戯な表情を浮かべた。
この顔がどう変化するのかな、と先を想像しながらわたしは続ける。

「で、名前聞いたら、カノンってチームの」
「うちのチームか!」
「雅治って」

わたしは飽くまで面白がるように、ニヤニヤしながらそれを告げた。
告げた瞬間は仁王の眉間が動き、同じタイミングで目が見開かれた。
刹那、逡巡するような間が流れたすぐ後に、仁王は思い出したように呟いた。

「ああ、あれか……あの飲み……」

少し笑いながら言うもんだから、わたしの卑屈な心が確実に嫉妬したのがわかった。
否定しない仁王。わかっていたけど、やっぱり間違いなんかじゃなかった。

「なんか、わたしちょっと、びっくりして。ていうか、仁王とほら、そういう話、したことなかったじゃん。彼女とか」
「そういやそうやの」
「いたんだ、って」
「俺に彼女がおったら、おかしいか?」

からかうように言っていたからなのか、仁王はおどけるように返してきた。

「おかしくないけど、いやいると思ってたけど、こう、急に人づてに聞いたからね、なんか冷やかしの気持ちが高揚して……ねえねえどんな人? 写真ないの?」

どうしてこんな風に、自分を傷つけようとするんだろう。
でもこれが今の、わたしが出来るベストな仁王との付き合い方。仁王との、距離の取り方。仁王との、心の在り方。
仁王との今までを諦めたい、わたしのやり方。

「まあそんな話はええじゃろ」
「なーに照れちゃってー」
「照れちょるわけじゃないが……しかし世の中狭いのう」
「そうだよねえ」
「はてどいつから佐久間の友達に回ったんかのうー。うーん」
「あ、わたし口は割らないよ」
「だろうな」

なんだかんだと話しながら、わたしは今という時間を楽しもうと決めた。
失恋デイだ。どうせ仁王の奢りだ。こんな罪な男なんだ。思い切り飲んでやる。
……わたしの小さな小さな、仁王への逆恨み。
ごめんね仁王……なんで謝ってるんだろう、わたし悪くないのに。
ああ……もうなんでもいいや。ああ……好きだったな。






一時間くらい過ぎただろうか。
腕時計を見るとぼんやりと、二十四時が近いことをわたしに知らせている。
ぼんやりと見えるのは、もちろん、わたしが酔っ払っているせいだ。

「佐久間、帰るぞ」
「えーあれ、お会計……」

仁王がいつの間にか席を離れた間に、わたしはいつの間にかカウンターに突っ伏して眠っていた。
肩をそっと叩かれて起きて、よだれを垂らしてなくて良かったと酔っているくせにどこかで思う。
女は好きな男の前だと、どこまでも美しくありたいものだ。
例えやけ酒で酔っ払ってしまっても、だ。

「もう済ませた。ほら、立てるか?」
「立てる、大丈夫」
「危なっかしい……」

わたしに触れずに、だけど支えるように階段を登った仁王は、すぐにタクシーを止めた。
入れ、とわたしを促す仁王の腕に、抱きしめられたい衝動に駆られる。
もちろん、自制を効かせて大人しくタクシーに乗ったけれど。

「奥に詰めろ、佐久間」
「え」

言われるがままに奥に詰めると、仁王も隣に乗ってきて、正直わたしは凝りもせずにドギマギした。

「あれ、同じ方面だっけ?」
「知らん。じゃけど送る」
「え、大丈夫だよいいって」
「こんな状態でこんな時間にひとりで帰せるわけないじゃろ」
「いやでも」
「ええから。家の近く、はよ運転手さんに言いんしゃい」
「……あ、じゃあ……」

いいのかな、と考えながらも、わたしは躊躇いがちに住所を言った。
運転手さんは頷きながらわたしの住所をカーナビに入れていく。
住所を告げ終えると、仁王が驚いたような顔でこちらを見ていた。

「……なにその顔」
「いや……お前相当、酔っちょらせんか」
「酔ってるよ、何本開けたと……うう眠い……」

揺れ始めた車の中で、ぐらぐらと頭の中も揺れ始めた。
まどろみが襲ってきて、窓側に頭を預ける。
車の振動が伝わって、余計に酔いが回って……その声はゆっくり、聞こえたような、聞こえなかったような……夢の中だと思っていた。

「そんなに俺のこと好きか、佐久間」

何かがふっと、頭に触れた気がした。









十分くらい過ぎただろうか。
急に左側から冷たい風が入ってきて、わたしは目を覚ました。
隣では仁王が運転手さんに現金を支払っている。

「出るぞ、佐久間」
「着いたんだ……」

のそのそと自宅マンションの前に降り立つと、タクシーがそのまま帰って行った。
あれ、という違和感とともに、仁王がしらっとわたしを見ている。
その唇が声を発したのは、そういえばこの人、家に帰るのどうするんだろう、という思考が頭をかすめたのと同時だった。

「なんで知っちょった」
「は」
「ちゅうかそんなに俺とおりたかったか。佐久間もなかなか大胆やのう」
「は」
「わざとらしい。そんなに惚けんでもええから」

何を言っているのか全くわからなかったのでわたしは本格的にポカンとしていた。
わたしの自宅マンションを見上げて、何を語り始めているのだろう、このイケメンは。

「ごめん仁王、ちょっと話がよく」
「俺とおりたかったんじゃろ?」
「え」
「やけくそにでもなったか? 彼女がおるとか聞いて」

それは間違いではないのだけれど、なんで今その話を……というか、なんでわたしの気持ちが見透かされているのだ。

「あの本当に意味が……」
「好きなんじゃろ?」
「え」
「佐久間、俺のこと好きなんじゃろ?」
「えっ」

驚きに目を大きく見開くと、唇の端をあげた大好きな仁王の顔がそこにあった。
そのままぐっと腕を引き寄せられて、突然舞い降りてきた優しいキス。
更なる驚きで仁王の胸元のジャケットを握りしめたら、ゆっくりと唇が離された。

「ななに、何してんの仁王?」
「キス、じゃけど……」
「それはわかるよ。そういう意味の何してんの、じゃなくて」
「俺の部屋に来たかったか?」
「は?」
「それだけ俺のこと、想ってくれちょったんやの」
「ちょちょちょちょっと待って本当に混乱する。何言ってるの? 何してるの、については後でいい。まず何を言ってるの?」

酔いは覚めていた。
仁王からの熱いキスと、寒空の下の冷たい風と、混乱せざるを得ないこの状況と、何言い出してるのかよくわかんないこの会話と……いろいろな要因で、すっかり覚めていた。

「何って……俺の住んじょるマンションでタクシー降りたの、お前じゃろ」
「……は?」
「え……」
「……ごめん、ひょっとして仁王……ここに住んでるの?」
「…………佐久間、ひょっとして俺……自惚れたんか、今」

うわ、とお互いが言いながら、恥ずかしさで笑ってしまった。
確かにこのマンションは、会社から徒歩圏内の中では優良物件だ。
そんなに張らない価格で、そこそこ広く、設備もいい。
まさか想い人と、同じマンションに住んでいたとは。

「え、仁王何階?」
「7階。お前は?」
「わたし5階」
「そうじゃったか……よう今まで会わんかったな」
「本当に……だって仁王朝早いもんね。九時には会社にいるじゃん」
「十時ギリギリやもんのう、佐久間は」

そしてもうひとつの違和感にはっとする。ひとつ解決したものの、まだ問題点はある。

「ていうか、彼女いるのに、わたしのこと家に連れ込もうとした!?」
「誰が彼女がおるって言うた?」
「は? いやだってさっき……!」
「俺がいつ、彼女おるって肯定した?」

え、え、と頭の中が嬉しい混乱で氾濫する。
あの話をした時の仁王の言葉を思い出そうとしてもうまくいかないほど心が躍る。
でも確かに、肯定してなかったかもしれない。

「俺に女がおるって聞いて仕事に身が入らんかったんじゃろ?」
「そ……」
「可愛いとこあるんやのうって思ったら、否定するのは勿体なくてな」
「ひど……」

こいつ、楽しんでたんだ、わたしの様子を……。

「酷いか? でもそういう俺が、好きなんじゃろ?」

嬉しそうに笑う仁王に、悔しいけどもうとろけてしまいそうだ。

「……否定、できない」
「素直に好きって言いんしゃい」
「理由聞くまで、言ってやんない」

くくっ、と含み笑いをした仁王は、そのままわたしを抱き寄せた。
いつもふんわりと揺らいでいた仁王の香りに包まれて、わたしに伸し掛かっていたいろんな淀みが一気に浄化される。

「わかった。ゆっくり話すから、とりあえず俺の部屋こんか?」
「……いいよ。けど仁王」
「ん?」
「もっかい、キスして」
「……俺もしたいって、思っちょったとこ」

強く抱きしめられた全身が震えるようなうっとりしたキスが、わたしをどこまでも支配した。





仁王の部屋はとってもお洒落だった。
なんとなく想像がついていたけれど、この人、綺麗好きかもしれない。

「これ」
「なに、え、なにこの綺麗な人」
「俺の姉ちゃん」
「えっ! 姉ちゃんいるの?」
「おるよ。そんなに驚くようなことか?」

トン、と置かれたミネラルウォーターで喉を潤しながら、電話の液晶に映る美人をわたしは惚れ惚れと見つめた。
あまり似ていない……けれど、やっぱり姉弟、顔はどちらも美しい。

「横浜に住んじょるんよ、姉ちゃんが」
「うん」
「横浜に飲み行って帰れんときは、泊めてもらうんじゃけど」
「うん」
「その日だけ宿代の代わりに飲み会に来いって言われてのう」

『しつこく口説いてくる男が来るんだよー。友達の友達だからあんまり冷たくも出来ないしさ。男連れてけばいいかなって。だからあんた、彼氏のフリして』と、お姉さまはおっしゃったらしい。ちなみにお姉さまは絶賛彼氏募集中なのだとか。

「ごめんだ、と言ったがあれやこれやと言い出して、俺が折れた」
「仁王……お姉さんには弱いんだ」
「弱いっちゅうわけじゃ……」

少しだけ目を逸らした仁王に子供っぽさを垣間見る。
これはきっと、師弟関係がしっかり出来ているに違いない。

「だから、雅治、だったんだ」
「そう。姉ちゃんが雅治って呼んだから、それが浸透してその飲み会の中じゃ俺は雅治だ。特に苗字も聞かれんかったし」
「なんだ……なーんだ、もう」
「納得したか?」

わたしは苦笑いで頷いた。仁王は嘘をついたりしない。意地悪はするけど。
頷くわたしの頬に、仁王はそっと手を寄せる。
ついさっき熱烈なキスをした仲だからこそ、触れ方が優しくて胸が高まる。

「俺はずっとお前を見ちょったよ、佐久間」
「そうじゃないかって期待してたから、そうじゃなかったって誤解してこの有り様です」
「何かあったかって聞いたあとに話を変えたみたいに俺の話して、気づかれんと思わんかったか?」
「……よく考えてみれば、そうだね」
「まあ、その前から気づいちょったけど」

負け惜しみみたいに言いながら、ごく自然に唇を寄せてくる。

「好きだ……伊織」
「……わたしも好き……雅治」

少し躊躇いがちに名前を呼び合って、恥ずかしくて微笑み合う。

「慣れんうちは照れるのう」
「だね」
「なあ」
「ん?」
「明日から、伊織で光らせるようにしときんしゃい」
「了解……雅治もね?」
「もちろん」

一瞬離れて、もう一度寄せて。
そんな大人のキスだから、弾かれる音もどこか官能的だ。

「伊織、なあ」
「うん?」
「今日、うちに泊まらん?」
「そう……したいけど」

わたしは終わることのないキスに人差し指を挟んで、無理やりそれを止めた。
少しだけ不服そうな視線を送る仁王の顔が、目の前で静かに瞬きをする。

「なに」
「日付変わって昨日一日、わたしモヤモヤしたからさ」
「じゃから?」
「雅治も今日一日、モヤモヤしてください」
「ちょ」
「仕事終わったら、泊まりに来るから」
「お前……」
「面白がってわたしに意地悪した罰です」

がくりと項垂れた仁王のキスから解放されたのは、そこから一時間後の話だった。





翌日、お互いが何食わぬ顔で仕事をした。
実はふたりだけのチャンネル「ura_kanon」を作ってお互い浮き足を立てていたけれど、客観的には至って普通のはずだった。
しかし仕事が終わる定時前、わたしのチャットシステムがピカピカと光った。

『伊織、今日何時に来る?』

nioh_masaharuは全職員チャンネルで、誤爆投下していた。
彼は意外と本格的に、モヤモヤとしていたのかもしれない。




fin.



[book top]
[levelac]




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